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<2019年ドイツの初秋:メルヘン街道と木組み建築街道の旅><br />期間:2019年9月18日(水)~10月03日 (木) <br />(14泊+機中1泊=15泊16日間の旅)<br /><br /><メルヘン街道と木組み建築街道の旅><br />10月03日 (木) メルヘン街道と木組み建築街道の旅・帰国の御挨拶<br />9月18日(水)①5年ぶりのブレーメンにクタクタで到着。<br />9月19日(木)②友人夫妻と行くブレーマーハーフェン観光。<br />9月19日(木)③ブレーメンの名物店“猫のカフェ”で夕食。<br />9月20日(金)④オルデンブルク大公家の夏の別荘ラシュテーデ城を訪ねる。<br />9月20日(金)⑤オルデンブルク大公家の居城は時代が変わって今は博物館<br />9月21日(土)⑥クロッペンブルク博物館村に見事な大農家がある。<br />9月21日(土)⑦ローマ軍団とゲルマンの古戦場”トイトブルクの森”<br />9月22日(日)⑧平和条約締結の町オスナブリュックは歴史が一杯。<br />9月22日(日)⑨オスナブリュックの石造建築や面白い立像のある泉。<br />9月22日(日)⑩オスナブリュック警察はナチス国家でどのような役割を果たしたのか?<br />9月23日(月)⑪美しい木組みの家並みが見られるミンデンとリンテルン旧市街<br />9月23日(月)⑫石造破風や木組みの家並み豊かなレムゴー、この旅初の古城ホテル ブロムベルク城に2泊。<br />9月24日(火)⑬実に壮麗なリッペ侯国のデトモルト宮殿を訪ねる。<br />9月24日(火)⑭画家たちが愛した美しい木組みの家並みと泊まりたかったシュヴァーレンベルク城<br />9月24日(火)⑮ブロムベルクには古城や伝説、美しい木組みの家並みがある。<br />9月25日(水)⑯英国王となったハノーファー王家ゆかりの町へ<br />9月25日(水)⑰ツェレに英国王ジョージ1世の王妃ドロテアが32年間幽閉された話が残る。<br />9月26日(木)⑱ツェレの旧市庁舎、市教会の侯爵家の霊廟、ボーマン博物館を見る。<br />9月26日(木)⑲ツェレの美しい木組み建築の家並みに満足満足!<br />9月27日(金)⑳女流詩人ロスヴィータ のガンデルスハイム、美しい木組みの家並みのアインベック。<br />9月27日(金)21ハン・ミュンデンは木組みのホテル「鉄ヒゲ博士」に泊まる。<br /><br />写真はハン・ミュンデン:木組みのホテル「鉄ヒゲ博士」の夜景。<br /><br /><br /><br />

2019年ドイツのメルヘン街道と木組み建築街道の旅:21ハン・ミュンデンは木組みのホテル「鉄ヒゲ博士」に泊まる。

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2019/09/18 - 2019/10/03

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jijidaruma

jijidarumaさん

<2019年ドイツの初秋:メルヘン街道と木組み建築街道の旅>
期間:2019年9月18日(水)~10月03日 (木)
(14泊+機中1泊=15泊16日間の旅)

<メルヘン街道と木組み建築街道の旅>
10月03日 (木) メルヘン街道と木組み建築街道の旅・帰国の御挨拶
9月18日(水)①5年ぶりのブレーメンにクタクタで到着。
9月19日(木)②友人夫妻と行くブレーマーハーフェン観光。
9月19日(木)③ブレーメンの名物店“猫のカフェ”で夕食。
9月20日(金)④オルデンブルク大公家の夏の別荘ラシュテーデ城を訪ねる。
9月20日(金)⑤オルデンブルク大公家の居城は時代が変わって今は博物館
9月21日(土)⑥クロッペンブルク博物館村に見事な大農家がある。
9月21日(土)⑦ローマ軍団とゲルマンの古戦場”トイトブルクの森”
9月22日(日)⑧平和条約締結の町オスナブリュックは歴史が一杯。
9月22日(日)⑨オスナブリュックの石造建築や面白い立像のある泉。
9月22日(日)⑩オスナブリュック警察はナチス国家でどのような役割を果たしたのか?
9月23日(月)⑪美しい木組みの家並みが見られるミンデンとリンテルン旧市街
9月23日(月)⑫石造破風や木組みの家並み豊かなレムゴー、この旅初の古城ホテル ブロムベルク城に2泊。
9月24日(火)⑬実に壮麗なリッペ侯国のデトモルト宮殿を訪ねる。
9月24日(火)⑭画家たちが愛した美しい木組みの家並みと泊まりたかったシュヴァーレンベルク城
9月24日(火)⑮ブロムベルクには古城や伝説、美しい木組みの家並みがある。
9月25日(水)⑯英国王となったハノーファー王家ゆかりの町へ
9月25日(水)⑰ツェレに英国王ジョージ1世の王妃ドロテアが32年間幽閉された話が残る。
9月26日(木)⑱ツェレの旧市庁舎、市教会の侯爵家の霊廟、ボーマン博物館を見る。
9月26日(木)⑲ツェレの美しい木組み建築の家並みに満足満足!
9月27日(金)⑳女流詩人ロスヴィータ のガンデルスハイム、美しい木組みの家並みのアインベック。
9月27日(金)21ハン・ミュンデンは木組みのホテル「鉄ヒゲ博士」に泊まる。

写真はハン・ミュンデン:木組みのホテル「鉄ヒゲ博士」の夜景。



旅行の満足度
4.5
同行者
カップル・夫婦(シニア)
交通手段
レンタカー
旅行の手配内容
個別手配
  • 9月27日(金) 240km、晴れ、13℃<br /><br />Bad Gandersheimバート・ガンデルスハイム10:40~11:35 =>K? 3km Kloster Brunshausenブルンズハウゼン修道院11:45~13:00=>B64・B3  21km Einbeckアインベック13:30~14:30=>B64・L583・L584 32km Bevernベーヴェルン15:15~16:10=>B80・B64・K550・B497・B241・K554・B3 71km Hannoversch Muendenハノーフェルシュ・ミュンデン(ハン・ミュンデン)のFachwerk-Hotel Eisenbart木組みの家ホテル アイゼンバルトに到着17:55。<br /><br />写真はヴェーザー川流域の観光地図・・・中央下にハン・ミュンデン、中央にBevernベーヴェルン、右にEinbeckアインベック、Bad Gandersheimバート・ガンデルスハイム

    9月27日(金) 240km、晴れ、13℃

    Bad Gandersheimバート・ガンデルスハイム10:40~11:35 =>K? 3km Kloster Brunshausenブルンズハウゼン修道院11:45~13:00=>B64・B3  21km Einbeckアインベック13:30~14:30=>B64・L583・L584 32km Bevernベーヴェルン15:15~16:10=>B80・B64・K550・B497・B241・K554・B3 71km Hannoversch Muendenハノーフェルシュ・ミュンデン(ハン・ミュンデン)のFachwerk-Hotel Eisenbart木組みの家ホテル アイゼンバルトに到着17:55。

    写真はヴェーザー川流域の観光地図・・・中央下にハン・ミュンデン、中央にBevernベーヴェルン、右にEinbeckアインベック、Bad Gandersheimバート・ガンデルスハイム

  • アインベックを14:30に出発し、Bevernベーヴェルンの城前に着いたのは15:15、32kmの距離でした。<br /><br />この時間になると、予定先のHolzmindenホルツミンデン、Hoexterへクスター、Bad Karlshafenバート・カールスハーフェンは全て断念した。<br /><br /><Bevernベーヴェルン><br /> 15:15~16:10<br />ベーヴェルンはニーダーザクセン州ホルツミンデン郡、人口4千人の町。町内を流れるベーヴァーバッハ川が中心部から約2 km東でヴェーザー川に合流する。<br /><br />写真はWappen_Bevernベーヴェルンの紋章は珍しい図案<br /><br />ベーヴェルンの紋章(右):<br />「銀の波帯で赤地と緑地に上下二分割。上部は6本の銀の旗と金の門を持つ金のルネサンス様式のベーヴェルン城。金の葉をつけた、囓られた金の切り株の傍らに振り向く金のビーバー」<br /><br />この町にとって重要なヴェーザールネサンス様式で建設された城館とビーバーである。<br />この町を流れるBeverbachベーヴァーバッハ川 は Biberbach(ビーバーのいる川)に由来し、この川の名前に由来する町名 BevernベーヴェルンはBiberビーバーを起源とする。<br /><br />・・・・・<br /><br /><br />

    アインベックを14:30に出発し、Bevernベーヴェルンの城前に着いたのは15:15、32kmの距離でした。

    この時間になると、予定先のHolzmindenホルツミンデン、Hoexterへクスター、Bad Karlshafenバート・カールスハーフェンは全て断念した。

    <Bevernベーヴェルン>
    15:15~16:10
    ベーヴェルンはニーダーザクセン州ホルツミンデン郡、人口4千人の町。町内を流れるベーヴァーバッハ川が中心部から約2 km東でヴェーザー川に合流する。

    写真はWappen_Bevernベーヴェルンの紋章は珍しい図案

    ベーヴェルンの紋章(右):
    「銀の波帯で赤地と緑地に上下二分割。上部は6本の銀の旗と金の門を持つ金のルネサンス様式のベーヴェルン城。金の葉をつけた、囓られた金の切り株の傍らに振り向く金のビーバー」

    この町にとって重要なヴェーザールネサンス様式で建設された城館とビーバーである。
    この町を流れるBeverbachベーヴァーバッハ川 は Biberbach(ビーバーのいる川)に由来し、この川の名前に由来する町名 BevernベーヴェルンはBiberビーバーを起源とする。

    ・・・・・


  • <Schloss Bevernベーヴェルン城><br /> <br />1603年から1612年にかけてStatius (Statz) von Muenchhausenシュタティウス・フォン・ミュンヒハウゼン(1555年~1633年)はヴェーザールネサンス様式のSchloss Bevernベーヴェルン城を建設させた。<br /><br />この城館は装飾破風を戴いた均整のとれた4翼構造をなしている。ほぼ正方形の中庭の対角線上に2つの階段塔が向かい合っている。<br />また、2本の橋が架かる水堀や城館庭園が付属している。 <br /><br />ホルツミンデン郡は1986年にベーヴェルン城を町から引き継ぎ、これ以後継続的に文化センターへと改装した。2007年夏からはヨーロッパ初の歴史テーマパーク「ルネサンス体験館」(EWR) が開館した。<br /><br />現在は文化センター兼EWR(ルネサンス体験館)となっているが、城内には常設のベーヴェルン郷土博物館があり、夏には「夜の城」というイベントのための装置が設営される。このイベントでは城の中庭が美しく照明される。<br /><br />城主のシュタティウス・フォン・ミュンヒハウゼンの生涯を背景に、戦争指揮や急速に進展する貨幣経済への対応など特別な演出がなされた19の間で城の歴史が紹介されている。 <br /><br />尚、ミュンヒハウゼン家はベーヴェルン城以外にもSchloss Hobeck in Leitzkau 、Schloss Muenchhausen in Bodenwerder、Rittergut Bolzum in Bolzum、Schloss Grohnde in Grohndeを所有した。<br /><br />写真はSchloss Bevernベーヴェルン城・正面

    イチオシ

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    <Schloss Bevernベーヴェルン城>

    1603年から1612年にかけてStatius (Statz) von Muenchhausenシュタティウス・フォン・ミュンヒハウゼン(1555年~1633年)はヴェーザールネサンス様式のSchloss Bevernベーヴェルン城を建設させた。

    この城館は装飾破風を戴いた均整のとれた4翼構造をなしている。ほぼ正方形の中庭の対角線上に2つの階段塔が向かい合っている。
    また、2本の橋が架かる水堀や城館庭園が付属している。

    ホルツミンデン郡は1986年にベーヴェルン城を町から引き継ぎ、これ以後継続的に文化センターへと改装した。2007年夏からはヨーロッパ初の歴史テーマパーク「ルネサンス体験館」(EWR) が開館した。

    現在は文化センター兼EWR(ルネサンス体験館)となっているが、城内には常設のベーヴェルン郷土博物館があり、夏には「夜の城」というイベントのための装置が設営される。このイベントでは城の中庭が美しく照明される。

    城主のシュタティウス・フォン・ミュンヒハウゼンの生涯を背景に、戦争指揮や急速に進展する貨幣経済への対応など特別な演出がなされた19の間で城の歴史が紹介されている。

    尚、ミュンヒハウゼン家はベーヴェルン城以外にもSchloss Hobeck in Leitzkau 、Schloss Muenchhausen in Bodenwerder、Rittergut Bolzum in Bolzum、Schloss Grohnde in Grohndeを所有した。

    写真はSchloss Bevernベーヴェルン城・正面

  • ベーヴェルン城も見ず、その分、この町のReweレーベでお土産を探した。<br /><br />ベーヴェルン城に隣接するスーパーマーケットReweレーベは多分、かつての城の一部の建物だったのだろう。大きなもので、何でも揃っていた。<br /><br />写真はベーヴェルン:スーパーマーケットReweレーベ

    ベーヴェルン城も見ず、その分、この町のReweレーベでお土産を探した。

    ベーヴェルン城に隣接するスーパーマーケットReweレーベは多分、かつての城の一部の建物だったのだろう。大きなもので、何でも揃っていた。

    写真はベーヴェルン:スーパーマーケットReweレーベ

  • 写真はベーヴェルン:スーパーマーケットReweレーベ前でレンタカーフォードを写した。<br />気に入った走行ぶり、Ford Focusフォード・フォーカス・2000ccオートマチック、残る5日間お世話になる。

    写真はベーヴェルン:スーパーマーケットReweレーベ前でレンタカーフォードを写した。
    気に入った走行ぶり、Ford Focusフォード・フォーカス・2000ccオートマチック、残る5日間お世話になる。

  • ベーヴェルン城に隣接するスーパーマーケットReweレーベでLebkuchenレープクーヘンやチョコなど目に付いたお菓子(Euro56.54)や、水4本(Euro4.8)を購入した。<br />もう旅の後半に入っていたから、様々な土産品が購入できてよかった。<br />それに安いのだ。<br /><br />写真はベーヴェルン:スーパーマーケットReweレーベ

    ベーヴェルン城に隣接するスーパーマーケットReweレーベでLebkuchenレープクーヘンやチョコなど目に付いたお菓子(Euro56.54)や、水4本(Euro4.8)を購入した。
    もう旅の後半に入っていたから、様々な土産品が購入できてよかった。
    それに安いのだ。

    写真はベーヴェルン:スーパーマーケットReweレーベ

  • ベーヴェルンを16:10に出発する。国道や田舎の村道をともすれば対向車が気になるような狭い道をナビは走らせる。Hannoversch Muendenハノーフェルシュ・ミュンデンまでは71kmとそこそこ距離がある。<br />18時までにはFachwerk-Hotel Eisenbart木組みの家ホテル アイゼンバルトに到着したいと思っていたが、旧市街のホテルは事前勉強をした割に、一方通行が多くて往生した。<br />旧市街の外周を2度回った末に、何とか17:55に着いた。<br /> <br />写真はWappen_Hann_Muendenハン・ミュンデンの紋章<br /><br />紋章はブラウンシュヴァイク・リューネブルク公オットーによる特権授与(1247年)に由来する。<br />この紋章は赤地に、銀の城が描かれている。青い尖塔屋根の側塔の間に、幅広の青い屋根とその上に金の冠を戴いた中央の塔が描かれている。<br />門のアーチの中に赤い小盾があり、青い爪や舌で威嚇する金の獅子(ヴェルフ家の獅子)が描かれている。<br />また、中央の塔の門の上には、ゴシック様式の黒字のM(MuendenのM)が書かれている。

    ベーヴェルンを16:10に出発する。国道や田舎の村道をともすれば対向車が気になるような狭い道をナビは走らせる。Hannoversch Muendenハノーフェルシュ・ミュンデンまでは71kmとそこそこ距離がある。
    18時までにはFachwerk-Hotel Eisenbart木組みの家ホテル アイゼンバルトに到着したいと思っていたが、旧市街のホテルは事前勉強をした割に、一方通行が多くて往生した。
    旧市街の外周を2度回った末に、何とか17:55に着いた。

    写真はWappen_Hann_Muendenハン・ミュンデンの紋章

    紋章はブラウンシュヴァイク・リューネブルク公オットーによる特権授与(1247年)に由来する。
    この紋章は赤地に、銀の城が描かれている。青い尖塔屋根の側塔の間に、幅広の青い屋根とその上に金の冠を戴いた中央の塔が描かれている。
    門のアーチの中に赤い小盾があり、青い爪や舌で威嚇する金の獅子(ヴェルフ家の獅子)が描かれている。
    また、中央の塔の門の上には、ゴシック様式の黒字のM(MuendenのM)が書かれている。

  • 何度か訪れた町、今回で2度目の宿泊となった町も更に一方通行だらけで不便な町になった感じがある。<br /><br />そしてホテル前に車を一時停めて、レセプション近くにいたスタッフに聞き、彼女が指示した駐車場に車を入れ、チェックインをした。<br />所がレセプションで対応した違うスタッフに「2分遅れたから他の方が優先されるので、車をWelfenschlossヴェルフェン城の前の無料駐車場(ホテルが確保しているようだ)に入れてくれ」と言われた。他の方が誰を指していたのか不明だが、折角駐車した車をあらためて城の駐車場に運んだ。<br />この対応には今も釈然としていないので、一応、Booking.Comへの評価に書いておいた。<br /><br />写真はハン・ミュンデン:木組みのホテル「鉄ヒゲ博士」の翌日の朝。

    イチオシ

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    何度か訪れた町、今回で2度目の宿泊となった町も更に一方通行だらけで不便な町になった感じがある。

    そしてホテル前に車を一時停めて、レセプション近くにいたスタッフに聞き、彼女が指示した駐車場に車を入れ、チェックインをした。
    所がレセプションで対応した違うスタッフに「2分遅れたから他の方が優先されるので、車をWelfenschlossヴェルフェン城の前の無料駐車場(ホテルが確保しているようだ)に入れてくれ」と言われた。他の方が誰を指していたのか不明だが、折角駐車した車をあらためて城の駐車場に運んだ。
    この対応には今も釈然としていないので、一応、Booking.Comへの評価に書いておいた。

    写真はハン・ミュンデン:木組みのホテル「鉄ヒゲ博士」の翌日の朝。

  • ともあれ、荷物を持ってリフト傍の鉄ヒゲ博士の像に御挨拶して、リフトに乗り3階の第16号室に入った。ランゲ通りに面した部屋は明るく、部屋も広く、使い勝手は良かった。<br /><br />18時40分、家内と先ほど行ってきた城の駐車所まで歩き、木組みの家並みを見ながらホテルまで一周してみた。<br />落ち着いて私共のホテルを見てみると、なかなか写真写りも良い。<br /><br />写真はハン・ミュンデン:ホテルエレベーター傍に「鉄ヒゲ博士」像が。

    ともあれ、荷物を持ってリフト傍の鉄ヒゲ博士の像に御挨拶して、リフトに乗り3階の第16号室に入った。ランゲ通りに面した部屋は明るく、部屋も広く、使い勝手は良かった。

    18時40分、家内と先ほど行ってきた城の駐車所まで歩き、木組みの家並みを見ながらホテルまで一周してみた。
    落ち着いて私共のホテルを見てみると、なかなか写真写りも良い。

    写真はハン・ミュンデン:ホテルエレベーター傍に「鉄ヒゲ博士」像が。

  • 今回は前述した事由で駐車場を利用したが、博物館以外は、あまり見る価値がなさそうで、今までヴェルフェン城の中に入った事が無い。<br /><br />⑪Welfenschlossヴェルフェン城:<br />ヴェルフェン城はエーリヒ1世ブラウンシュヴァイク・リューネブルク公兼カレンベルク・ゲッティンゲン侯によって、1501年にゴシック建築の城館として完成した。<br />1560年の火災でほぼ完全に焼失した後、エーリヒ2世によって初期ヴェーザールネサンス様式の城館として再建された。その後、ヴェルフェン城はその重要性を失い、領主が時折滞在するだけの場所として利用されていた。<br /><br />写真はハン・ミュンデン:Welfenschlossヴェルフェン城

    今回は前述した事由で駐車場を利用したが、博物館以外は、あまり見る価値がなさそうで、今までヴェルフェン城の中に入った事が無い。

    ⑪Welfenschlossヴェルフェン城:
    ヴェルフェン城はエーリヒ1世ブラウンシュヴァイク・リューネブルク公兼カレンベルク・ゲッティンゲン侯によって、1501年にゴシック建築の城館として完成した。
    1560年の火災でほぼ完全に焼失した後、エーリヒ2世によって初期ヴェーザールネサンス様式の城館として再建された。その後、ヴェルフェン城はその重要性を失い、領主が時折滞在するだけの場所として利用されていた。

    写真はハン・ミュンデン:Welfenschlossヴェルフェン城

    ヴェルフェン城 (市立博物館) 城・宮殿

    ハン・ミュンデンのヴェルフェン城はずうたいの大きい城だが観光的には内容がなさそうだ。 by jijidarumaさん
  • 1849年に再び火災に遭い南棟が失われたが、再建されていない。現在の城館内に壁全体に壁絵が描かれた2つのルネサンス様式の部屋がある。これはヴェルフェン家の時代のものだが、その他について記述がない。<br /><br />この大きな城館には現在、市立文書館、市立図書館、区裁判所、市立博物館が入っている。<br /><br />写真はハン・ミュンデン:Welfenschlossヴェルフェン城<br />

    1849年に再び火災に遭い南棟が失われたが、再建されていない。現在の城館内に壁全体に壁絵が描かれた2つのルネサンス様式の部屋がある。これはヴェルフェン家の時代のものだが、その他について記述がない。

    この大きな城館には現在、市立文書館、市立図書館、区裁判所、市立博物館が入っている。

    写真はハン・ミュンデン:Welfenschlossヴェルフェン城

  • <Hann. Muendenハン・ミュンデン><br />17:55~<br />https://www.hann.muenden.de/<br /><br />ハン・ミュンデンはニーダーザクセン州ゲッティンゲン郡に属す人口23.8千人の小さな田舎町である。この町にはWerraヴェラ、Fuldaフルダ、Weserヴェーザーという3つの川が流れて、周囲を森に囲まれ、赤屋根の町並が織り成す美しさは格別である。<br />旧市街は560以上と云われる木組みの家々の町並みでうまり、なかなかのものと思う。ツェレの旧市街は400という木組みの家だから、ハン・ミュンデンの数の多さが分かるだろう。<br />メルヘン街道・『いばら姫』ルートに属する。<br /><br />写真はハン・ミュンデン:Langestrasseランゲ(長い)通り・・・ヴェラ橋からホテル アイゼンバルトの前を一直線に行く通りがランゲ通りだ。この通りはこの町の木組みの家並みの中心で左右に見栄えある家並みが続く。

    <Hann. Muendenハン・ミュンデン>
    17:55~
    https://www.hann.muenden.de/

    ハン・ミュンデンはニーダーザクセン州ゲッティンゲン郡に属す人口23.8千人の小さな田舎町である。この町にはWerraヴェラ、Fuldaフルダ、Weserヴェーザーという3つの川が流れて、周囲を森に囲まれ、赤屋根の町並が織り成す美しさは格別である。
    旧市街は560以上と云われる木組みの家々の町並みでうまり、なかなかのものと思う。ツェレの旧市街は400という木組みの家だから、ハン・ミュンデンの数の多さが分かるだろう。
    メルヘン街道・『いばら姫』ルートに属する。

    写真はハン・ミュンデン:Langestrasseランゲ(長い)通り・・・ヴェラ橋からホテル アイゼンバルトの前を一直線に行く通りがランゲ通りだ。この通りはこの町の木組みの家並みの中心で左右に見栄えある家並みが続く。

    ランゲ通り 散歩・街歩き

    ハン・ミュンデン:旧市街のLangeランゲ(長い)通りには木組みの家並みが続く。 by jijidarumaさん
  • 歴史的には16世紀のミュンデンは水運により、特にテューリンゲンの産品を運ぶため、ブレーメンまでの間で最も重要な商業都市となった。<br />ヴェーザー川を運ばれた産品は当時、重要な青の染料であったウォード、ガラス、繊維製品や、テューリンゲンからの木材で造った筏や穀物であった。<br />逆に北海からはニシンやその他の魚がヴェーザー川を遡って運ばれた。<br /><br />写真はハン・ミュンデン:ランゲ(長い)通り<br />

    歴史的には16世紀のミュンデンは水運により、特にテューリンゲンの産品を運ぶため、ブレーメンまでの間で最も重要な商業都市となった。
    ヴェーザー川を運ばれた産品は当時、重要な青の染料であったウォード、ガラス、繊維製品や、テューリンゲンからの木材で造った筏や穀物であった。
    逆に北海からはニシンやその他の魚がヴェーザー川を遡って運ばれた。

    写真はハン・ミュンデン:ランゲ(長い)通り

  • 写真はハン・ミュンデン:ヴェラ橋方向に行くランゲ(長い)通り、写真の中央左に立つ赤い屋根の建物は一泊する木組みのホテル「鉄ヒゲ博士」・・・夕暮れ時。

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    写真はハン・ミュンデン:ヴェラ橋方向に行くランゲ(長い)通り、写真の中央左に立つ赤い屋根の建物は一泊する木組みのホテル「鉄ヒゲ博士」・・・夕暮れ時。

  • <ハン・ミュンデンの人々の戦争><br /><br />*三十年戦争の際、ハン・ミュンデンの町は1626年6月9日(グレゴリオ暦)「血の聖霊降臨祭」に、何日にもわたる砲撃の末、ティリー伯ヨハン・セルクラエス(帝国軍の傭兵隊長。三十年戦争ではバイエルン軍を率い、Katholischen Ligaカトリック連盟の総司令官として「甲冑をまとった修道士」と呼ばれた)の軍勢に占領され、住民の大部分が殺害された。 <br /><br />写真はハン・ミュンデン:ランゲ(長い)通り<br />

    <ハン・ミュンデンの人々の戦争>

    *三十年戦争の際、ハン・ミュンデンの町は1626年6月9日(グレゴリオ暦)「血の聖霊降臨祭」に、何日にもわたる砲撃の末、ティリー伯ヨハン・セルクラエス(帝国軍の傭兵隊長。三十年戦争ではバイエルン軍を率い、Katholischen Ligaカトリック連盟の総司令官として「甲冑をまとった修道士」と呼ばれた)の軍勢に占領され、住民の大部分が殺害された。

    写真はハン・ミュンデン:ランゲ(長い)通り

  • *七年戦争では、ハン・ミュンデンの町は1757年から1762年までフランス軍に占領された。 <br /><br />*1776年アメリカ独立戦争では、ミュンデンで約 2万人の兵士が船に乗り、彼らはアメリカ独立戦争でアメリカ軍と戦った。<br />兵士たちはヘッセン・カッセル方伯フリードリヒ2世がハノーファー選帝侯でイギリス王ジョージ3世に貸し出した兵士であった。<br />彼らの帰国は1783年11月にミュンデン経由でなされたが、帰還したのはかろうじて半数に届く程度であったと云う。<br /><br />写真はハン・ミュンデン:ランゲ(長い)通り<br />

    *七年戦争では、ハン・ミュンデンの町は1757年から1762年までフランス軍に占領された。

    *1776年アメリカ独立戦争では、ミュンデンで約 2万人の兵士が船に乗り、彼らはアメリカ独立戦争でアメリカ軍と戦った。
    兵士たちはヘッセン・カッセル方伯フリードリヒ2世がハノーファー選帝侯でイギリス王ジョージ3世に貸し出した兵士であった。
    彼らの帰国は1783年11月にミュンデン経由でなされたが、帰還したのはかろうじて半数に届く程度であったと云う。

    写真はハン・ミュンデン:ランゲ(長い)通り

  • ランゲ(長い)通りはこの町の木組みの家並みの中心で、左右に見栄えある家並みが続く。少し行くと旧市街の中心・マルクト広場で、ヴェーザールネサンス様式の市庁舎が現れ、聖ブラジウス教会も見えて来る。<br /><br />夕食は決めていたマルクト広場の市庁舎に行き、そろそろ暗くなってきた写真を撮った。<br /><br />写真はハン・ミュンデン:マルクト広場とヴェーザールネサンス様式の市庁舎

    ランゲ(長い)通りはこの町の木組みの家並みの中心で、左右に見栄えある家並みが続く。少し行くと旧市街の中心・マルクト広場で、ヴェーザールネサンス様式の市庁舎が現れ、聖ブラジウス教会も見えて来る。

    夕食は決めていたマルクト広場の市庁舎に行き、そろそろ暗くなってきた写真を撮った。

    写真はハン・ミュンデン:マルクト広場とヴェーザールネサンス様式の市庁舎

    市庁舎 (ハン ミュンデン) 建造物

  • ⑧マルクト広場の市庁舎と仕掛け時計:<br /><br />広場はさほど広くないが5、6階建ての木組みの家が両側に並び、その奥に市庁舎がある。<br /><br />写真はハン・ミュンデン:旧市街の中心・マルクト広場(翌朝)に朝市が出ていた。市庁舎の反対側の建物。

    ⑧マルクト広場の市庁舎と仕掛け時計:

    広場はさほど広くないが5、6階建ての木組みの家が両側に並び、その奥に市庁舎がある。

    写真はハン・ミュンデン:旧市街の中心・マルクト広場(翌朝)に朝市が出ていた。市庁舎の反対側の建物。

    マルクト広場 (ハン ミュンデン) 広場・公園

  • 写真はハン・ミュンデン:ヴェーザールネサンス様式の市庁舎

    写真はハン・ミュンデン:ヴェーザールネサンス様式の市庁舎

  • マルクト広場に面して現存する市庁舎は14世紀の庁舎を1616年に改築したもので、3連の切妻屋根を持ち、中央と右側の建物には美しい装飾扉がある。<br /><br />仕掛け時計は両側に鐘のある窓から人形が出て来る。<br /><br />写真はハン・ミュンデン:ヴェーザールネサンス様式の市庁舎(翌朝)

    マルクト広場に面して現存する市庁舎は14世紀の庁舎を1616年に改築したもので、3連の切妻屋根を持ち、中央と右側の建物には美しい装飾扉がある。

    仕掛け時計は両側に鐘のある窓から人形が出て来る。

    写真はハン・ミュンデン:ヴェーザールネサンス様式の市庁舎(翌朝)

  • 写真はハン・ミュンデン:ヴェーザールネサンス様式の市庁舎入口(翌朝)

    写真はハン・ミュンデン:ヴェーザールネサンス様式の市庁舎入口(翌朝)

  • 写真はハン・ミュンデン:ヴェーザールネサンス様式の市庁舎の右翼

    写真はハン・ミュンデン:ヴェーザールネサンス様式の市庁舎の右翼

  • 写真はハン・ミュンデン:ヴェーザールネサンス様式の市庁舎の右翼(翌朝)

    写真はハン・ミュンデン:ヴェーザールネサンス様式の市庁舎の右翼(翌朝)

  • 地下には昨夜夕食を取ったレストラン・ラーツブラウハウスがあり、鉄ひげ印の地ビールを飲んだから、少し鉄ヒゲ博士が身近になったようだ。<br /><br />写真はハン・ミュンデン:Ratsbrauhausラーツブラウハウス(各町にあるラーツケラー:レストランのようなもの)の入口(翌朝)   

    地下には昨夜夕食を取ったレストラン・ラーツブラウハウスがあり、鉄ひげ印の地ビールを飲んだから、少し鉄ヒゲ博士が身近になったようだ。

    写真はハン・ミュンデン:Ratsbrauhausラーツブラウハウス(各町にあるラーツケラー:レストランのようなもの)の入口(翌朝)   

  • <(夕食):Ratsbrauhausラーツブラウハウス><br />18:55~20:20<br />Markt 3、 チップ込みでEuro33=4,154円<br /><br />マルクト広場にはヴェーザールネサンス様式の市庁舎があり、その地下にあるレストランをラーツブラウハウスと呼ぶ。<br /><br />Koehlers Braeuケーラー・ビール醸造会社がビヤホール兼レストランをやっているのだろう。ドイツでは一般的にRathaus市庁舎地下にはRatskellerラーツケラーと称する美味しい、安いレストランがあるが、ここでは違った名前だ。<br /><br />市庁舎中央の入口を地下に下りていくと、円天井の広間の左手に飲酒用カウンター、中央に長い料理台があり、ホテルの朝食ビュッフェのようにサラダ料理などが並んでいた。<br /><br />写真はハン・ミュンデン:ラーツブラウハウス内部

    <(夕食):Ratsbrauhausラーツブラウハウス>
    18:55~20:20
    Markt 3、 チップ込みでEuro33=4,154円

    マルクト広場にはヴェーザールネサンス様式の市庁舎があり、その地下にあるレストランをラーツブラウハウスと呼ぶ。

    Koehlers Braeuケーラー・ビール醸造会社がビヤホール兼レストランをやっているのだろう。ドイツでは一般的にRathaus市庁舎地下にはRatskellerラーツケラーと称する美味しい、安いレストランがあるが、ここでは違った名前だ。

    市庁舎中央の入口を地下に下りていくと、円天井の広間の左手に飲酒用カウンター、中央に長い料理台があり、ホテルの朝食ビュッフェのようにサラダ料理などが並んでいた。

    写真はハン・ミュンデン:ラーツブラウハウス内部

  • ラーツブラウハウスは前方左右の幾つかの部屋も満席で左手奥の席に通された。<br />若い子が注文を取りに来た。周りのしゃべり声がお酒も入って大きく高くなり、給仕さんの声も聞きにくい。<br /><br />注文はレストランご自慢の400年以上の歴史を誇るケーラー・ビール醸造の自家製Dr. Eisenbart アイゼンバルト(鉄ヒゲ)博士の銘柄ビールのHellヘル(ドイツ語のヘルは“色が淡い”という意味)0.3L=Euro2.4を家内が、私は同じ銘柄のDunkelデゥンケル(黒あるいは焦褐色)0.5L=Euro4を先ず飲む。<br /><br />写真はラーツブラウハウス:自家製アイゼンバルト(鉄ヒゲ)博士の銘柄ビールのヘル(手前・家内)、私の同じ銘柄のデゥンケルを飲む。

    ラーツブラウハウスは前方左右の幾つかの部屋も満席で左手奥の席に通された。
    若い子が注文を取りに来た。周りのしゃべり声がお酒も入って大きく高くなり、給仕さんの声も聞きにくい。

    注文はレストランご自慢の400年以上の歴史を誇るケーラー・ビール醸造の自家製Dr. Eisenbart アイゼンバルト(鉄ヒゲ)博士の銘柄ビールのHellヘル(ドイツ語のヘルは“色が淡い”という意味)0.3L=Euro2.4を家内が、私は同じ銘柄のDunkelデゥンケル(黒あるいは焦褐色)0.5L=Euro4を先ず飲む。

    写真はラーツブラウハウス:自家製アイゼンバルト(鉄ヒゲ)博士の銘柄ビールのヘル(手前・家内)、私の同じ銘柄のデゥンケルを飲む。

  • 料理は家内がトマトのスープの小Euro3.5と、Flammkuchenフラムクーヘン・クラシック(ベーコン、玉ねぎ、Schmandシュマンド・・24%の脂肪分で、ケーキや料理のソースなどに使う・・・入り、見た目はピザ)Euro7を食べた。<br /><br />私はSchnitzel Wiener-Artヴィーナー風シュニッツェル(これだけはどこで食べても量もあるし、安くて外れがありませんね)Euro12.9でした。<br /><br />写真はラーツブラウハウス:お腹にやさしいトマトのスープの小

    料理は家内がトマトのスープの小Euro3.5と、Flammkuchenフラムクーヘン・クラシック(ベーコン、玉ねぎ、Schmandシュマンド・・24%の脂肪分で、ケーキや料理のソースなどに使う・・・入り、見た目はピザ)Euro7を食べた。

    私はSchnitzel Wiener-Artヴィーナー風シュニッツェル(これだけはどこで食べても量もあるし、安くて外れがありませんね)Euro12.9でした。

    写真はラーツブラウハウス:お腹にやさしいトマトのスープの小

  • 尚、先ほど見た円天井の広間の左手に飲酒用カウンター、中央に長い料理台があり、そこのビュッフェの温野菜を取りに行き食べてしまった。<br /><br />しかし、これは別に注文せねばならないものだった。申告すると若い給仕さんは笑って、無料にしてくれた。近くの年輩のご夫婦に話が聞こえたらしく、こちらを見てニコニコ笑っていた。<br /><br />写真はラーツブラウハウス:勝手に食べた料理の残がい!

    尚、先ほど見た円天井の広間の左手に飲酒用カウンター、中央に長い料理台があり、そこのビュッフェの温野菜を取りに行き食べてしまった。

    しかし、これは別に注文せねばならないものだった。申告すると若い給仕さんは笑って、無料にしてくれた。近くの年輩のご夫婦に話が聞こえたらしく、こちらを見てニコニコ笑っていた。

    写真はラーツブラウハウス:勝手に食べた料理の残がい!

  • 写真はラーツブラウハウス:十分な量といつもの美味さに満足したSchnitzel Wiener-Artヴィーナー風シュニッツェル

    写真はラーツブラウハウス:十分な量といつもの美味さに満足したSchnitzel Wiener-Artヴィーナー風シュニッツェル

  • <Beim Bier und Essen wirt Kummer vergessen><br />ビールと食べ物は心配や悲しみを忘れさせる。<br />(お店のコースターにこんな格言らしきものがあった)<br /><br />写真はラーツブラウハウス:見た目はピザ。フラムクーヘン・クラシック(ベーコン、玉ねぎ、Schmandシュマンド・・24%の脂肪分で、ケーキや料理のソースなどに使う・・・入り)

    <Beim Bier und Essen wirt Kummer vergessen>
    ビールと食べ物は心配や悲しみを忘れさせる。
    (お店のコースターにこんな格言らしきものがあった)

    写真はラーツブラウハウス:見た目はピザ。フラムクーヘン・クラシック(ベーコン、玉ねぎ、Schmandシュマンド・・24%の脂肪分で、ケーキや料理のソースなどに使う・・・入り)

  • *9月27日(金)~9月28日(土)(1泊2日)<br /><Fachwerk-Hotel Eisenbart木組みの家ホテル アイゼンバルト><br />D-34346 Hann. Muenden  、Lange Strasse 6-10 <br />Tel:+49 (0) 5541 956205-0 、Fax: - 55<br />https://www.fachwerk-hotel.de/index.php/de/<br />https://www.youtube.com/watch?v=HdCUFr6xzYw<br /><br />3階No.16号室・DZ(ランゲ通りに面した、明るい広い部屋)・Euro90(朝食込み)+駐車料5合計Euro95=11,497円。<br />Booking.Comで1泊予約した。<br /><br />ファッハベルク・ホテル アイゼンバルト(鉄ヒゲ)はハノーフェルシュ・ミュンデンの旧市街中心に位置し、カッセルから17km、ゲッティンゲンまで23kmの距離にある。<br /><br />写真はハン・ミュンデン:木組みのホテル「鉄ヒゲ博士」の夜景。

    イチオシ

    *9月27日(金)~9月28日(土)(1泊2日)
    <Fachwerk-Hotel Eisenbart木組みの家ホテル アイゼンバルト>
    D-34346 Hann. Muenden 、Lange Strasse 6-10
    Tel:+49 (0) 5541 956205-0 、Fax: - 55
    https://www.fachwerk-hotel.de/index.php/de/
    https://www.youtube.com/watch?v=HdCUFr6xzYw

    3階No.16号室・DZ(ランゲ通りに面した、明るい広い部屋)・Euro90(朝食込み)+駐車料5合計Euro95=11,497円。
    Booking.Comで1泊予約した。

    ファッハベルク・ホテル アイゼンバルト(鉄ヒゲ)はハノーフェルシュ・ミュンデンの旧市街中心に位置し、カッセルから17km、ゲッティンゲンまで23kmの距離にある。

    写真はハン・ミュンデン:木組みのホテル「鉄ヒゲ博士」の夜景。

  • 水などのサービスはないが機能的で広い部屋や浴室だったので、十分満足できた。ホテルに併設されたイタリア料理店Ristorante Focacceriaリストランテ・フォカッチェリアがある。<br /><br />写真は木組みのホテル「鉄ヒゲ博士」:寝室・16号室

    水などのサービスはないが機能的で広い部屋や浴室だったので、十分満足できた。ホテルに併設されたイタリア料理店Ristorante Focacceriaリストランテ・フォカッチェリアがある。

    写真は木組みのホテル「鉄ヒゲ博士」:寝室・16号室

  • チェックイン15時、チェックアウト11時。18時以降の到着は連絡要。<br />尚、レストランは火曜日が休み。<br />駐車場には一方通行が多く、行きにくい。<br /><br />写真は木組みのホテル「鉄ヒゲ博士」:16号室の入口側

    チェックイン15時、チェックアウト11時。18時以降の到着は連絡要。
    尚、レストランは火曜日が休み。
    駐車場には一方通行が多く、行きにくい。

    写真は木組みのホテル「鉄ヒゲ博士」:16号室の入口側

  • 写真は木組みのホテル「鉄ヒゲ博士」:16号室の浴室<br /><br />Booking.Comへの評価:5.8 、普通<br />何度か訪れた町も、2度目の宿泊。一方通行だらけで不便な町になった。 <br /> ? 旧市街の端にあるが、観光ポイントにも近い。 3階、ランゲ通りに面した部屋は明るく、部屋も広く、使い勝手は良かった。 <br /> ? この町は一方通行だらけで、レンタカーでホテルの駐車場に行くのは、とても難しい、2度ほど町の外周をグルグル回って漸く着いた。 そしてレセプション近くにいたスタッフに聞いて指示された駐車場に車を入れた後、チェックインすると、今度のスタッフは2分遅れたから他の方が優先されるので、車をお城の前の駐車場に入れてくれと言われた。他の方が誰を指していたのか不明だが、折角駐車した車をそちらに運んだ。<br />この対応は今も釈然としない。 <br /><br />・・・・・<br /><br />

    写真は木組みのホテル「鉄ヒゲ博士」:16号室の浴室

    Booking.Comへの評価:5.8 、普通
    何度か訪れた町も、2度目の宿泊。一方通行だらけで不便な町になった。
    ? 旧市街の端にあるが、観光ポイントにも近い。 3階、ランゲ通りに面した部屋は明るく、部屋も広く、使い勝手は良かった。
    ? この町は一方通行だらけで、レンタカーでホテルの駐車場に行くのは、とても難しい、2度ほど町の外周をグルグル回って漸く着いた。 そしてレセプション近くにいたスタッフに聞いて指示された駐車場に車を入れた後、チェックインすると、今度のスタッフは2分遅れたから他の方が優先されるので、車をお城の前の駐車場に入れてくれと言われた。他の方が誰を指していたのか不明だが、折角駐車した車をそちらに運んだ。
    この対応は今も釈然としない。

    ・・・・・

  • Deutsche Maerchenstrasseドイツ・メルヘン街道はドイツ中部の街Hanauハーナウから北部の都市Bremenブレーメンを経てBremerhavenブレーマーハーフェンまでを結ぶドイツ観光街道の一つである。<br /><br />グリム兄弟とその童話や伝説にゆかりの地を結ぶ観光街道で、全長約600km。始点のハーナウはグリム兄弟の生誕の地、終点ブレーメンは、彼らの童話『ブレーメンの音楽隊』で名高い町である。元々、この2つの街を結ぶ街道が古くからあったわけではなく、途中の70以上の街がこの街道に参加し、断片的な道路を結び合わせ観光街道として整備したもので、1975年に組織された。<br /><br />この街道はハーナウからカッセルに至ると、メルヘン街道は一時的に 2 つのルートに分かれる。東よりの『ホレのおばさん』ルート、西よりの『いばら姫』ルートである。2つのルートは再びHoexterへクスター付近で合流し、ブレーメンに至る街道である。ただ、ブレーメンの手前で分岐して北に向かい、Buxtehudeブクステフーデまで行くルートもある(2007年末から参加)。<br /><br />写真はドイツの切手:ヨハン・アンドレアス・アイゼンバルト(鉄ヒゲ博士)<br />DBP_1977_953_Johann_Andreas_Eisenbarth

    Deutsche Maerchenstrasseドイツ・メルヘン街道はドイツ中部の街Hanauハーナウから北部の都市Bremenブレーメンを経てBremerhavenブレーマーハーフェンまでを結ぶドイツ観光街道の一つである。

    グリム兄弟とその童話や伝説にゆかりの地を結ぶ観光街道で、全長約600km。始点のハーナウはグリム兄弟の生誕の地、終点ブレーメンは、彼らの童話『ブレーメンの音楽隊』で名高い町である。元々、この2つの街を結ぶ街道が古くからあったわけではなく、途中の70以上の街がこの街道に参加し、断片的な道路を結び合わせ観光街道として整備したもので、1975年に組織された。

    この街道はハーナウからカッセルに至ると、メルヘン街道は一時的に 2 つのルートに分かれる。東よりの『ホレのおばさん』ルート、西よりの『いばら姫』ルートである。2つのルートは再びHoexterへクスター付近で合流し、ブレーメンに至る街道である。ただ、ブレーメンの手前で分岐して北に向かい、Buxtehudeブクステフーデまで行くルートもある(2007年末から参加)。

    写真はドイツの切手:ヨハン・アンドレアス・アイゼンバルト(鉄ヒゲ博士)
    DBP_1977_953_Johann_Andreas_Eisenbarth

  • その『いばら姫』ルートの最初にHann. Muendenハン・ミュンデンという町が出てくる。人口2万6千人の小さな田舎町はフルダ川とヴェラ川とが合流し、ヴェーザー川となり、いわゆる3つの川が流れ、周囲を森に囲まれ、旧市街は700以上と言われる木組みの家々の街並みでうまり、赤屋根の町並が織り成す美しさは格別だ。<br /><br />また、ハン・ミュンデンは17世紀の伝説的な、愉快な医師ドクター・アイゼンバルト(鉄ひげ博士)の亡くなった町としても世に知られている。<br /><br />木組みの家々の街並みであるランゲ通りを行くと、Dr.Eisenbartアイゼンバルト(鉄ひげ)博士という実在の医者の家や、其の名を付けた薬局もあり、大きな注射器を持った博士の看板が面白い。<br /><br />写真は鉄ひげ博士の家の博士像とドイツ語文字<br /><br />(右の像の下の文字にIn diesen Hause wirkte und starb Doktor Eisenbarth. アイゼンバルト(鉄ひげ)博士はこの家で働き、死んだ。そしてEr war anders als sein Ruf.とある。つまり彼はアイゼンバルト(鉄ひげ)博士として、世間に流布された評判とは違っていた・・・と追記されている)<br />

    その『いばら姫』ルートの最初にHann. Muendenハン・ミュンデンという町が出てくる。人口2万6千人の小さな田舎町はフルダ川とヴェラ川とが合流し、ヴェーザー川となり、いわゆる3つの川が流れ、周囲を森に囲まれ、旧市街は700以上と言われる木組みの家々の街並みでうまり、赤屋根の町並が織り成す美しさは格別だ。

    また、ハン・ミュンデンは17世紀の伝説的な、愉快な医師ドクター・アイゼンバルト(鉄ひげ博士)の亡くなった町としても世に知られている。

    木組みの家々の街並みであるランゲ通りを行くと、Dr.Eisenbartアイゼンバルト(鉄ひげ)博士という実在の医者の家や、其の名を付けた薬局もあり、大きな注射器を持った博士の看板が面白い。

    写真は鉄ひげ博士の家の博士像とドイツ語文字

    (右の像の下の文字にIn diesen Hause wirkte und starb Doktor Eisenbarth. アイゼンバルト(鉄ひげ)博士はこの家で働き、死んだ。そしてEr war anders als sein Ruf.とある。つまり彼はアイゼンバルト(鉄ひげ)博士として、世間に流布された評判とは違っていた・・・と追記されている)

    鉄ひげ博士の家 (ドクター アイゼンバールト死去の家) 建造物

  • 彼は上述の如く、世評では藪医者の代名詞となっているが、実際は意欲的な、真面目な医者であったそうだ。夏には博士(藪医者)の野外劇も催される。<br /><br />*鉄ひげ博士と称されたJohann Andreas Eisenbarthヨハン・アンドレアス・アイゼンバルト(1663~1727年)は17世紀のドイツの医者である。<br />ドイツの各地をサーカス巡業のような方法で治療旅行し、自家製の薬を売り歩いた。 <br />バイエルン州東部のオーバープファルツ地区、Oberviechtachオーベルフィーヒタッハ(現Schwandorfシュヴァンドルフ郡)の出身である。<br />祖父も父親も床屋医師で、アイゼンバルトは目の手術や骨折の治療を得意とした。義理の兄弟からも医学の知識を得た。<br /><br />アイゼンバルト博士と呼ばれたが、もちろん博士号を得ていたわけではなかった。アイゼンバルトは通常120人にも及ぶ芸人や道化師、楽隊と共にドイツの各地を旅した。多くの見物客を集め、楽隊が音楽を奏で、コーラスがアイゼンバルトを称える歌を歌う中で治療を行った。専ら自家製の薬を製造し、大規模に販売したと伝えられている。<br /><br />写真はJohann Andreas Eisenbarthヨハン・アンドレアス・アイゼンバルト(1717年)

    彼は上述の如く、世評では藪医者の代名詞となっているが、実際は意欲的な、真面目な医者であったそうだ。夏には博士(藪医者)の野外劇も催される。

    *鉄ひげ博士と称されたJohann Andreas Eisenbarthヨハン・アンドレアス・アイゼンバルト(1663~1727年)は17世紀のドイツの医者である。
    ドイツの各地をサーカス巡業のような方法で治療旅行し、自家製の薬を売り歩いた。
    バイエルン州東部のオーバープファルツ地区、Oberviechtachオーベルフィーヒタッハ(現Schwandorfシュヴァンドルフ郡)の出身である。
    祖父も父親も床屋医師で、アイゼンバルトは目の手術や骨折の治療を得意とした。義理の兄弟からも医学の知識を得た。

    アイゼンバルト博士と呼ばれたが、もちろん博士号を得ていたわけではなかった。アイゼンバルトは通常120人にも及ぶ芸人や道化師、楽隊と共にドイツの各地を旅した。多くの見物客を集め、楽隊が音楽を奏で、コーラスがアイゼンバルトを称える歌を歌う中で治療を行った。専ら自家製の薬を製造し、大規模に販売したと伝えられている。

    写真はJohann Andreas Eisenbarthヨハン・アンドレアス・アイゼンバルト(1717年)

  • 尚、1800年頃、&quot;Ich bin der Doktor Eisenbarthわたしが、ドクター・アイゼンバルト&quot; という歌がドイツで流行した。<br />歌詞(一部抜粋)は以下である。<br />?Ich bin der Doktor Eisenbarth,<br />widewidewitt, bum bum<br />Kurir die Leut nach meiner Art,<br />widewidewitt, bum bum<br />Kann machen, dass die Blinden gehn,<br />Und dass die Lahmen wieder sehn. <br />Gloria, Viktoria, widewidewitt juchheirassa!<br />Gloria, Viktoria, widewidewitt, bum bum.<br /><br />https://www.youtube.com/watch?v=nOp334i0OPE<br /><br />邦書では原田恒雄氏のビールの文化史に関するエッセー、『金のジョッキに、銀の泡』で以下のような詞で紹介されている。 <br />「わたしが、ドクター・アイゼンバルト。 パッカパパー・・・!<br />わたしはわたしの流儀で病気をなおす。めくらも目明きにしてみせる。<br />いざりもたちまちたちあがる。 ブカブカドンドン・・・!<br />(以下略)」(Wiki)。<br />・・・・・・・・・・・・・<br /><br />写真はわたしがドクター・アイゼンバルトの曲と歌詞

    尚、1800年頃、"Ich bin der Doktor Eisenbarthわたしが、ドクター・アイゼンバルト" という歌がドイツで流行した。
    歌詞(一部抜粋)は以下である。
    ?Ich bin der Doktor Eisenbarth,
    widewidewitt, bum bum
    Kurir die Leut nach meiner Art,
    widewidewitt, bum bum
    Kann machen, dass die Blinden gehn,
    Und dass die Lahmen wieder sehn.
    Gloria, Viktoria, widewidewitt juchheirassa!
    Gloria, Viktoria, widewidewitt, bum bum.

    https://www.youtube.com/watch?v=nOp334i0OPE

    邦書では原田恒雄氏のビールの文化史に関するエッセー、『金のジョッキに、銀の泡』で以下のような詞で紹介されている。
    「わたしが、ドクター・アイゼンバルト。 パッカパパー・・・!
    わたしはわたしの流儀で病気をなおす。めくらも目明きにしてみせる。
    いざりもたちまちたちあがる。 ブカブカドンドン・・・!
    (以下略)」(Wiki)。
    ・・・・・・・・・・・・・

    写真はわたしがドクター・アイゼンバルトの曲と歌詞

  • St.Aegidien-Kirche聖アエーギディエン教会(Aegidiaギリシャ語で小さいヤギ)教会の南壁にEpitaph_Eisenbarthアイゼンバルトの墓碑がある。<br /><br />写真はドクター・アイゼンバルトの墓碑<br /><br />ご参考:<br />≪ハン・ミュンデン:&quot;Ich bin der Doktor Eisenbarthわたしが、ドクター・アイゼンバルト&quot;<br />クチコミ投稿日:2019-05-14<br />https://4travel.jp/overseas/area/europe/germany/hann_munden/kankospot/10437300/tips/13617538/#contents_inner

    St.Aegidien-Kirche聖アエーギディエン教会(Aegidiaギリシャ語で小さいヤギ)教会の南壁にEpitaph_Eisenbarthアイゼンバルトの墓碑がある。

    写真はドクター・アイゼンバルトの墓碑

    ご参考:
    ≪ハン・ミュンデン:"Ich bin der Doktor Eisenbarthわたしが、ドクター・アイゼンバルト"
    クチコミ投稿日:2019-05-14
    https://4travel.jp/overseas/area/europe/germany/hann_munden/kankospot/10437300/tips/13617538/#contents_inner

  • 12時、15時、17時から仕掛け時計があり、「私はドクター・アイゼンバルト」のメロディーが流れると窓が開き、模擬の窓から大きな義歯用のハサミを持った博士、左側の窓から助手に抑えられた患者が出てきて博士の後に道化師がアクロバットの演技をする。<br />また、夏の土曜日13:30から市庁舎のホールで鉄ひげ博士の講義という野外劇が催される。<br /><br />写真はDoktor_Eisenbart_Glockenspiel歯を抜くアイゼンバルトのカラクリ<br /><br />・・・・・<br /><br />明日はハン・ミュンデンの市内見物をしてから、Dornroeschenschloss Sababurg古城ホテル いばら姫のザバブルク城、Hotel Burg Trendelburgホテル ブルク トレンデルブルクなど巡る。<br />

    12時、15時、17時から仕掛け時計があり、「私はドクター・アイゼンバルト」のメロディーが流れると窓が開き、模擬の窓から大きな義歯用のハサミを持った博士、左側の窓から助手に抑えられた患者が出てきて博士の後に道化師がアクロバットの演技をする。
    また、夏の土曜日13:30から市庁舎のホールで鉄ひげ博士の講義という野外劇が催される。

    写真はDoktor_Eisenbart_Glockenspiel歯を抜くアイゼンバルトのカラクリ

    ・・・・・

    明日はハン・ミュンデンの市内見物をしてから、Dornroeschenschloss Sababurg古城ホテル いばら姫のザバブルク城、Hotel Burg Trendelburgホテル ブルク トレンデルブルクなど巡る。

    鉄ひげ博士の仕掛け時計 (市庁舎の仕掛け時計) 建造物

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