2012/05/15 - 2012/05/29
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jijidarumaさん
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Romantische Strasseロマンチック街道、Schwaebische Alb Strasseシュヴェービッシュ・アルプ街道、Burgenstrasse古城街道の旅
期間:2012年05月15日(火)?05月29日(火)15日間の旅・5月26日(土)
≪英国ヴィクトリア女王はドイツ人だった!≫
Queen Victoriaヴィクトリア女王(1819年5月24日? 1901年1月22日)は繁栄を極めた大英帝国を象徴する女王(*イギリス・ハノーヴァー朝第6代女王)として知られ、その治世は特にヴィクトリア朝と呼ばれた。
その在位は63年7か月(1837年6月20日?1901年1月22日)にも及んでいる。
(注記)
ハノーヴァー家(House of Hanover)はドイツのヴェルフ家( Haus Welf:ブラウンシュヴァイク・リューネブルク家)の流れを汲む神聖ローマ帝国の諸侯の家系で、1692年に成立したハノーファー公国(選帝侯国、後に王国)の君主の家系であったが、1714年にステュアート朝(Stuart dynasty)に代わってイギリスの王家となり、ハノーファー王国とイギリス王国の君主を兼ねる同君連合体制をとった。所が、ハノーファーでは女子の継承を認めていなかったため、1837年のヴィクトリア女王のイギリス王即位をもって同君連合を解消し、ハノーファー王家はイギリス王家から分枝した。
第一次世界大戦中に、敵国ドイツ帝国の領邦名が冠されている家名を避け、1917年に王宮の所在地ウィンザーにちなみウィンザー家(House of Windsor)と家名を改称した。
・・・・・
追記:
イギリスの女王ヴィクトリアを主人公としたイギリスの歴史テレビドラマが
日本ではシーズン1が2017年にNHK総合テレビジョンで放映され、
シーズン2が2019年5月12日に(1)「新たな船出」が放映されている。
以下にこれに絡んだ追記をした。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 交通手段
- レンタカー
- 航空会社
- ルフトハンザドイツ航空 ANA
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-
『女王ヴィクトリア 愛に生きる』(原題:Victoria、制作:2016年イギリス)
イギリスの女王ヴィクトリアを主人公としたイギリスの歴史テレビドラマは2016年にITV系列でシーズン1全8話が、2017年にシーズン2全8話が放映された。日本ではシーズン1が2017年にNHK総合テレビジョンで放映され、シーズン2が2019年5月12日に(1)「新たな船出」が放映されている。
≪女王だって、愛されたい…長きに渡って大帝国を治めたイギリスの女王ヴィクトリアの孤独と愛を描いた歴史ドラマ≫
<シーズン1>
1837年、大英帝国が栄華を極めた時代。即位したヴィクトリアは、わずか18歳だった。父を早くに亡くし、ドイツ人の母の影響で閉鎖的な環境で育ったヴィクトリアは、突然の即位に戸惑いながらも、女王らしく振る舞おうとする。だが、周囲にはなかなか認められず、孤独な思いを深めていく。
やがてヴィクトリアは、運命の男性、アルバートと出会い、恋に落ちる。2人は周囲の大反対を押し切って結婚。しだいに国民の信頼を得る。
<全8回>
第1話『若き女王』 - 18歳で女王に即位したヴィクトリアは野心家の母・ケント公妃とその側近を遠ざけ、メルバーン首相を頼りとする。
第2話『失えない味方』 - 議会の政権交代に伴い、寝室女官事件が起こる。
第3話『結婚の圧力』 - いとこのアルバートとの縁談話が舞い込む。
第4話『運命の再会』 - アルバートと会い、惹かれ合う。
第5話『世紀の結婚』 - アルバートと結婚する。
第6話『女王の秘策』 - アルバートの王室内での地位向上の方策として、叔父の事実婚の相手に爵位を与える。
第7話『波乱の予感』 - ヴィクトリアが懐妊し、夫婦でイングランド北部を旅行中、摂政の地位を確保したいアルバートと鉄道敷設を推進したいピールの利害が合致し、手を組む。
第8話『誕生』 - 長女ヴィクトリア(後にドイツ皇帝フリードリヒ3世 の皇妃となった)を無事出産する。
写真はイギリスのヴィクトリア女王 -
<シーズン2>
https://www4.nhk.or.jp/victoria2/ :NHK毎週日曜日午後11時から
≪“女王”にも、さまざまな顔がある…。長きに渡って大帝国を治めたイギリスの女王ヴィクトリアの愛と葛藤の日々を描いた歴史ドラマ≫
1837年にわずか18歳で即位したヴィクトリア。長く孤独を感じてきたヴィクトリアだったが、運命の男性アルバートと結婚し、初めての子を出産。“家族”という安らぎを得る。しかし国内外で様々な問題が勃発。産後復帰したヴィクトリアと、公務に励むアルバートとの間にすれ違いが…。
<全10回>
ヴィクトリア女王:
イギリス・ハノーヴァー朝の第6代女王。18歳で即位。母子二人きりの生活が長く、孤独な思いをずっと抱えていた。メルバーン子爵(後の首相)に思いを寄せていたが、アルバートに再会後は、彼を深く愛し結婚する。結婚生活は9人の子を生し、仲睦まじく暮らした。
アルバート(ドイツ語はAlbrechtアルブレヒト)王配殿下:
ドイツのザクセン・コーブルク・ゴータ公国出身。ヴィクトリア女王とはいとこで同い年。まじめで誠実な性格。ヴィクトリアと結婚後は自身も公務に励むが、外国出身であるため、力を十分に発揮できていないと感じている。後に議会から唯一公式に「プリンス・コンソート」(The Prince Consort)の称号を認められた人物である。
尚、ハノーヴァー朝(英語:Hanoverian Dynasty)は、1714年から1901年まで続いたイギリスの王朝。ステュアート朝の断絶を受けて、ドイツ北部の領邦君主の家系であったハノーヴァー家からGeorge Iジョージ1世(独語はGeorg Ludwigゲオルク・ルートヴィヒ)を国王に迎え入れて成立した。
ハノーヴァー朝は第一次世界大戦中に、敵国ドイツ帝国の領邦の名が冠されている家名を避け、1917年に王宮の所在地ウィンザーに因みウィンザー家(House of Windsor)と家名を改称した。 但し、ヴィクトリア女王の血統が断絶したわけでないため、ハノーヴァー朝の継続と見なされることがある。
5月12日(1)「新たな船出」‐出産後、休暇をとっていたヴィクトリアだが、あまりにも退屈ですぐに公務に復帰する。そんな彼女を待っていたのはアフガン戦争の戦況が悪化したという知らせだった。
出産後、休暇をとっていたヴィクトリアだが、あまりにも退屈ですぐに公務に復帰する。そんな彼女を待っていたのはアフガン戦争の戦況が悪化したという知らせだった。ヴィクトリアはそのことを伏せていたアルバートにいらだちを隠せない。そんな中、王女の洗礼式が行われる。参列したエルンストはヴィクトリアの女官長が変わったことにショックを受けるが、式の後、ハリエットと再会を果たす。
5月19日(2)「嫉妬という怪物」 ‐アルバートが聡明な女性数学者に夢中、と思い悩んだヴィクトリアは助言を求めにメルバーン首相のもとへ…。
産後間もないヴィクトリアをサポートするためにアルバートは奔走するが、ヴィクトリアは、自分の仕事を奪われているような不安な気持ちになる。そんな中、科学に興味を持つアルバートは、王立協会でも珍しい女性の数学者と出会う。二人はすっかり意気投合し…。そんなアルバートの様子に思い悩んだヴィクトリアは、助言を求めにメルバーンのもとへ向かう。
5月26日(3)「別れのワルツ」‐ヴィクトリアは不況にあえぐ絹織り職人を支援するための舞踏会を開く。その最中にメルバーン首相に異変が…。
宮殿の管理体制を見直すことにしたアルバート。そこで明らかになった宮殿内の現状とは?一方、ヴィクトリアは、安い輸入品の影響で不況に陥っている国内の絹織り職人を支援するための舞踏会を開く。だがその豪華さが災いして国民の猛反発を受けてしまう。舞踏会では久しぶりにメルバーンも公に姿を見せたが、そこで体調に異変が…。
6月2日(4)「父の罪」‐アルバートの父、コーブルク公爵の訃報が届く。そこでアルバートが叔父のレオポルドから聞かされたのは…。
待望の皇太子が生まれ、宮殿は喜びにあふれる。だがヴィクトリアは我が子と向き合えずにいた。一方、宮殿に少年が侵入した事件が新聞に載ってしまう。宮殿内の誰かが情報を漏らしたのは明らかで、犯人捜しが始まる。そんな中、アルバートの父、コーブルク公爵が亡くなったとの知らせが届く。すぐに帰郷したアルバートだが、叔父のレオポルドからある告白を受ける。
6月9日(5)「フランスの流儀」‐フランスがスペイン王家との縁談を進めようとしていることを警戒したヴィクトリアはフランス訪問を決意。
フランス国王がスペイン王家との縁談を進めているとの情報が入る。ヨーロッパにフランスの影響力が拡大することを危惧したヴィクトリアは、国王に縁談の再考を促すためフランスを訪れる。何かにつけ話題をはぐらかすフランス国王を相手に、外交手腕が問われるヴィクトリア。一方、アルバートはフランス流の洗練された作法になじめずにいた。
6月16日(6)「アイルランドの受難」‐ジャガイモの凶作でアイルランドの人々が飢えていることを知ったヴィクトリアは、手を打とうとするが…。
アイルランドでは、主食であるジャガイモの大凶作のため人々が飢えに苦しんでいた。それを知ったヴィクトリアは、ピール首相に何か手をうつよう促すが、政府は及び腰だ。アルバートも一つの作物に頼ってきたアイルランドを批判的に見ていた。そのアルバートは宮殿内の不衛生な下水問題に対処するべく、水洗トイレの設置を進める。一方、エルンストが宮殿にやってくる。その理由とは…。
6月23日(7)「憧れのスコットランド」‐ヴィクトリアは息苦しい宮殿を離れて、幼い頃に愛読していた小説の舞台である美しいスコットランドへ!
外出中に暗殺未遂にあったヴィクトリア。その影響で宮廷の警備は厳重になった。そんな息苦しさに耐えかね、憧れていたスコットランド訪問を思い立つ。しかし、散策では優大な自然に囲まれながらも、やはり警備に囲まれる。それを窮屈に感じたヴィクトリアはアルバートと共に、馬に乗って集団からこっそり離れる。そして二人きりの時間を過ごすが…。
6月30日(8)「去りゆく人々」‐王女ヴィッキーが高熱を出して危険な状態に。娘の健康管理についてレーゼンと対立するアルバートはついに…
王女ヴィッキーが高熱を出し危険な状態に陥る。アルバートは常々、娘の健康管理について自分の意見を無視するレーゼンに不満を抱いていたが、ついにその感情が爆発する。ピール首相は労働者階級の困窮を救うための法案を通そうとするが、党内の猛烈な反発にあう。そのピール首相をさらなる悲劇が襲う。
写真はアルバート王配殿下(1842年、フランツ・ヴィンターハルター画) -
7月7日(9)「聖夜の贈りもの」(前編)‐イギリス女王ヴィクトリアの愛と葛藤の日々を描いた歴史ドラマ。
クリスマスを間近に控え、宮殿は準備で大忙し。そんなさなか、アフリカから1人の少女がやってくる。
もうすぐクリスマス。この季節が特に好きなアルバートは、ツリーの選定や飾りつけの指示に余念がない。そんなある日、アフリカのダホメー王国からの贈りものという名目で少女サラがやってくる。サラは王族だったが家族を皆殺しにされていた。彼女の孤独な姿を見たヴィクトリアは宮殿に住まわせることにするが…。一方、ヴィクトリアの天敵、カンバーランド公爵が突然姿を現す。
写真はザクセン・コーブルク・ゴータ公国:ルイーゼ公妃とエルンスト、アルベルト(アルバアート)兄弟 -
7月28日(10)[終](10)「聖夜の贈りもの」(後編)‐イギリス女王ヴィクトリアの愛と葛藤の日々を描いた歴史ドラマ。
サラをめぐってヴィクトリアと火花を散らすアルバートに、エルンストが家族の過去の真実を告白する…。
ヴィクトリアは、サラは家族として宮殿で一緒に暮らすべきだと確信していた。サラの沈んだ顔を見続けていたアルバートは、それでは彼女が幸せになれないと忠告するが、ヴィクトリアは聞く耳を持たず…。ぎくしゃくする空気の中、アルバートは理想のクリスマスを演出するために気持ちを奮い立たせていた。そんな中、エルンストが家族の過去の真実を告白する…。
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写真はザクセン・コーブルク・ゴータ公国:エルンスト2世 -
<ザクセン・コーブルク・ゴータ公エルンスト2世とアレクサンドリーネ妃>
Ernst II. (Sachsen-Coburg und Gotha)エルンスト2世(1818年~1893年)は第2代ザクセン・コーブルク・ゴータ公(在位:1844~1893年)。
1818年6月21日、ザクセン・コーブルク・ザールフェルト公エルンスト1世とその妃であったザクセン・ゴータ・アルテンブルク公女ルイーゼ(アウグストの娘)の間に長男(第1子)としてコーブルクのエーレンブルク宮殿で生まれた。
1844年1月29日にザクセン・コーブルク・ゴータ公父エルンスト1世が死去したため、公位を継承した。
写真はザクセン・コーブルク・ゴータ公国:アレクサンドリーネ公妃(1842年、フランツ・ヴィンターハルター画) -
Alexandrine Luise von Badenアレクサンドリーネ・ルイーゼ・バーデン (1820年~1904年)はザクセン・コーブルク・ゴータ公エルンスト2世の妃。
バーデン大公レオポルト1世とその妃であるスウェーデン王女ソフィアの第1子として、カールスルーエで誕生。
弟にバーデン大公ルートヴィヒ2世、フリードリヒ1世、妹にロシア大公妃となったツェツィーリエ(ロシア語名:オリガ・フョードロヴナ)らがいる。
1842年3月3日、エルンストと結婚。
夫との間には子供は生まれず、夫の甥にあたるDuke of Edinburgh (Herzog von Edinburgh)Alfred英国エディンバラ公アルフレッド(夫の弟であるイギリス王配アルバートとイギリス女王ヴィクトリアの次男)がザクセン・コーブルク・ゴータ公位を継承した。
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写真はザクセン・コーブルク・ゴータ公国:コーブルク王宮庭園のエルンスト2世の騎馬像 -
*Lytton Stracheyリットン・ストレイチー(1880年~1932年)はイギリスの伝記作家で、批評家である。
ナイチンゲール伝やヴィクトリア女王伝が著名で、後者は1921年にジェイムズ・テイト・ブラック記念賞「伝記部門」を受賞した。
『ヴィクトリア女王』 小川和夫訳、冨山房百科文庫 1981年 初版角川文庫
1953年、筑摩書房「世界ノンフィクション全集18」で再刊。
『ナイチンゲール伝、他一篇』 橋口稔訳、岩波文庫、1993年、
<ヴィクトリア朝―>の抄訳版。
写真は伝記作家Lytton Stracheyリットン・ストレイチー
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≪ヴィクトリア女王 第6章3-4 *Lytton Strachey作・抜粋 ≫
1861年、この年ヴィクトリア女王は42歳、母親の死に続いてすぐに、同い年だったアルバート「王配殿下」を失う悲運に見舞われた。
最愛の夫とのわずか21年の結婚生活、この間に9人の子を産んでいるし、資質、能力からして国王としての実質の務めはほとんど影にいるアルバート「王配殿下」の肩にかかっていたのであろう。
このあとにのしかかる国王としての重圧は,この倍の40年も続くのだ。
・・・・・ -
<第6章 王配殿下の晩年と死>
女王は人生において初めて、きわめて近い人を失うという実経験に見舞われた。
1861年初め、母ケント公妃が重病に陥り3月死亡したのだ。この出来事はヴィクトリアを打ちのめした。
そして、この年も終わらない前に、はるかにひどい打撃が襲うことになる。
はじめの頃の日々には不眠と鋭い苦痛とで、彼は無気力と深まる暗がりのなかに置かれた。良くならない患者は音楽を「少し離れて、素晴らしいコラール」を所望した。ピアノが隣の部屋に置かれて、アリス王女(ヴィクトリアとアルバートの次女、後のヘッセン大公妃Alice Maud Maryアリス・モード・メアリー)がルターの賛美歌のいくつかを演じ、続いて公子が「ちとせの岩よ」を繰り返す。
しばしば彼の心はさまよい、時に遠い過去が急に蘇って来る。早朝に鳥の声を聞く、ローゼナウ(殿下の生まれたローゼナウ城はドイツ・コーブルク公爵家の夏の別荘)での少年の日だ。
ヴィクトリアが来て「頂上のペベリル」を読んで聴かせると続きを読みたがったので委ねたが、彼女の頬をなでて「愛しいひとよliebes Frauchen」と、「善きひとよgutes Weibchen」と、ささやくばかりであった。
ヴィクトリアの苦痛と困惑は大きかったがそれでもまだ深刻には怖がってはいなかった。自身にありあまる活力があるため、アルバートがそれほど悪化するとは思ってもいなかったのだ。恐ろしい可能性には直面したくもなかった。
王宮の医師たちは症状の診断を誤り、新たに呼ばれたワトソン博士は来るのが遅すぎたが即座に、アルバート公はチフス熱だと診断した。
写真はヴィクトリア女王 -
最期となるわずか2日前、誰の眼にもほとんど死は避けられないように思われたのだが、ヴィクトリアはベルギー王(双方の叔父に当たるベルギー初代国王レオポルド1世、ヴィクトリアは姉の子、ヴィクトリアの夫アルバートは兄の子にあたる)宛に明らかな自信に満ちて書き送る。
「私は、夜は彼のそばには座っていません。役に立ちませんし,危険な兆候もありませんから」と。アリス王女はヴィクトリアに真実をわからせようとしたが、母のヴィクトリアが希望に満ちていることはひるみがなかった。
12月14日朝、アルバートは予想どおりに良くなったように思えた、おそらく危機はすぎただろう。だがその日のうちに深刻な再発があり、そしてついにぞっとするような湾の崖に立っていることに気づかされた。
家族全員が呼ばれ、子供たちは相次いで父親に静かな別れをした。
ヴィクトリアは日記に書く。「それは恐ろしい瞬間でした。しかし、神に感謝!私は自分自身を制御できた、完全に冷静だった、彼のそばに座りつづけた」
写真はアルバート公が誕生したSchloss Rosenauローゼナウ城はコーブルク公爵家の夏の別荘
突然に彼は髪の毛を整え始めた。「普通にドレッシングするときの、いつものように」。彼にささやいた。「kleines Frauchenあなたの小さな奥様ですよ」と、彼は理解したように見えた。夕方がせまり、少しのあいだ彼女は別の部屋にいたが、すぐさま呼び戻される。
恐ろしい変化が起こっていることが一目でわかった。
ベッドでひざまずいていると、アルバートは深く息をしたあと、静かに息をし、あとはもはや呼吸はなかった。
体はしだいに硬直していった。ヴィクトリアは荒々しい金切り声の悲鳴をあげつづけ、恐怖に襲われた。
城じゅうに声が響きわたった。永遠にアルバートを失ったことを悟った。
(以上は、Wiki、NHKのhttpなどから抜粋)
・・・・・・・・・・
2019年5月13日編集・加筆 -
さて、ヴィクトリア女王はイギリスよりドイツの血の方がはるかに濃いと云われている。計算上、ヴィクトリア女王に流れるステュアート家の血は256分の1に過ぎず、残りは殆どドイツ人の血だとされる。
当時のハノーヴァー王朝の国王は全て、それに連なる王族も殆どがドイツ人の妃を娶っている。ヴィクトリア女王の母ヴィクトリアも、父方の祖母シャーロットもドイツ人であった。
写真はケント公妃・母ヴィクトリアと後のヴィクトリア女王 -
その事もあってか、ヴィクトリア女王は日ごろから親独派だったらしい。
ドイツ・ザクセン・コーブルク・ゴータ公エルンスト1世(母ヴィクトリア・ケント公妃の兄)の次男であった(つまり母方の従弟に当たる)夫・公子Albertアルベルト(英読みではアルバート)もヴィクトリア女王以上にドイツ人としての意識が強く、親独派であり、英国女王夫妻はドイツ語を日常会話にすることが多かったと云う。
アルベルト公はその死に際にも「mein Frauchen(私の可愛い奥さん)」と、女王に声をかけたと伝えられている。
写真はアルバート(アルベルト)公 -
とはいえ、アルバート公はイギリス女王の夫として、議会から唯一公式に「The Prince Consortプリンス・コンソート」の称号を認められた人物である。
(Wikから抜粋・編集)
写真はヴィクトリア女王とアルバート公の結婚式 -
夫アルバートとの間に4男5女の9子があり、王女達はドイツを中心とした各国に嫁がせ、40人の孫、37人の曾孫が誕生した。
晩年にはヴィクトリア女王は「ヨーロッパの祖母」と呼ばれた。
ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世とロシア皇后アレクサンドラ(ロシア皇帝ニコライ2世妃)は女王の孫にあたる。
写真は1841?45年ウインザー城で女王夫妻一家 -
写真は貫録の付いたヴィクトリア女王(在位50周年)
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≪Coburgコーブルグの町に立つAlbertアルバート公(アルベルト)の銅像≫
ドイツを16年ぶりに訪れた時の旅日記がある。
2001年5月10日、Bayreuthバイロイトを9:50に出発した。A9・70・B289(Kulmbach・Lichtenfels)を経由し、120kmでCoburgコーブルグだ。
かつてのコーブルグ公爵領は現在のバイエルン州の北部・フランケン地方と呼ばれている。北はテューリンゲンの森、東をフランケンの森、南にマイン・フランケン平野に囲まれた地域で、ドイツの中央部にあたる。
町はマインの支流Itzイッツ川(全長80km)に沿って発展し、古城街道でも有数なVeste Coburgフェスト・コーブルク大要塞が有名である。
写真はコーブルクのマルクト広場のアルバート公(アルベルト)の銅像 -
大要塞はコーブルグの157mの小高い丘にその雄姿を見せている。Vesteフェストにはエーレンブルグ城・公園から登ることもできるようだが、きつそうなので、車で町の裏手を迂回して要塞に近づいた。
真っ青な青空と緑の森に映える赤レンガの屋根の要塞が見えてくる。手前に広い駐車場があって、管理人に料金を支払い、歩いて向かう。徒歩10分で要塞だ。
写真はコーブルク大要塞の俯瞰 -
俯瞰図で見るVeste Coburgは楕円形の要塞で二重の城壁が周囲を取り巻いている。楕円形の真ん中に城門があり、これをくぐって城内に入ると、正面には①Fuerstenbau領主の建物が見える。その右手にルターの礼拝堂があり、その横の階段を上がるとテラス上に素晴らしい眺望が開ける。5月の景色、真黄色の菜の花畑が緑の中に黄色い帯となって横たわっていた。城内には大きな菩提樹があって、その木陰が好ましい。
更に向かって左手に古めかしい②Steinere Kemenate石造の部屋の建物が建ち、順に③Carl-Eduard-Bauカール・エドワードの建物(Carl-Eduardはコーブルグの最後の公爵・1945年に退位)、④Herzoginbau公爵夫人の建物、Roter Turm赤の塔、 Blauer Turm青の塔、Hohes Haus高い建物がある。二つの塔のとんがり屋根の色が其々の色をしているのが分かる。その内の①~④の歴史的建造物が連携して、膨大な、様々な美術・ガラス工芸品・武器などの博物館となっている。
写真はコーブルク大要塞の俯瞰 -
“Die Fraenkische Kroneフランケンの王冠”と謳われるコーブルク大要塞は面積25000?の台上にある。歴史文書に名が出てくるのは1056年のことで、945年の歴史を誇る、ドイツ屈指の大要塞である。
その歴史の断片は1248年Hennebergヘンネベルク伯爵家が居城として、100年の間、要塞とコーブルクの町を支配した。
1353年から1918年の565年もの間はザクセンとテューリンゲンを支配した領主Wettinヴェティン家の支配になり、遺産相続によってErnstエルンスト 1世公爵の家系が連綿として続くこととなる。
1782?86年は牢獄・収容所として使用されることもあったが、第二次大戦後の1946年、早々とバイエルン州の所有となった。
17世紀に要塞 の防衛機能が強化されたが、新旧キリスト教徒の宗教戦争30年戦争の1632年、旧教の立場である皇帝側の名将Wallensteinヴァレンシュタイン将軍がこの要塞を攻城し、その守りの堅さにわずか一週間で攻めるのを諦めたと云う話は有名である。
写真は晩年の在位60周年を迎えたヴィクトリア女王 -
さて、マルクト広場の北側の庁舎の前に立派な銅像がある。コーブルグ公爵家の次男Albertアルベルト殿下(ザクセン・コーブルク・ゴータ公子アルベルト殿下=英語読みではアルバート公)の像である。
1840年、アルベルト殿下は英王室のヴィクトリア王女と結婚した。王女は大英帝国に繁栄をもたらした、後のヴィクトリア女王である。
コーブルグ公爵家と英王室やスウェーデン王室との婚姻関係には新教徒同士だという事があるのだろう。
アルベルト殿下が婿の候補となって英国に向かう旅の途中で、美しい令嬢と知り合うが、実はその令嬢がヴィクトリア王女だったと云うエピソードも残されている。
女王との婚姻で結ばれたコーブルクの町はそれもあってか、第二次大戦中、この町への英軍の攻撃は全く無かったと云う。
XXX
写真はコーブルクのマルクト広場のアルバート公(アルベルト)の銅像 -
【ドイツ第一のケーキ:エーベルバッハ名物のヴィクトリア・トルテ】
第1編で≪Eberbachエーベルバッハに残る英国ヴィクトリア女王のお話≫を書いた。エーベルバッハでは、英国のヴィクトリア王女(後のヴィクトリア女王)の誕生について、人々が特別な思いを持って語られている話がある。
ここではその代わりに女王の名を冠した名物のヴィクトリア・トルテの誕生について書き加えた。
≪Cafe Viktoria カフェ・ヴィクトリア≫
D-69412 Eberbach 、Friedrichstrasse 5-9
http://www.cafe-viktoria.de/
カフェ・ヴィクトリアは1886年、パン・菓子作りマイスターの初代Heinrich Strohauer Iハインリヒ・シュトロハウアーにより、当地エーベルバッハに設立された。当時は小さなパン屋とワイン酒場を営んでいた。
その後、息子の2代目ハインリヒは1923年になると、パン屋とワイン酒場の事業を拡大し、更にカフェを兼営した。
1954年、3代目ハインリヒは菓子作りマイスターとして、父の家業を継いだ。
1958年には現在の地、Friedrichstrasse 5-9に店舗を移し、今や世界に知られたカフェ・ヴィクトリアとなった。
1962年、スウェーデン王室で催された王の祝宴に、彼は世界に名だたる菓子職人と共に招かれ、食事の最後を飾る、“オレンジのデザート”を提供した。
この素晴らしいデザートは“エーベルバッハ生まれのヴィクトリア・トルテ”誕生の瞬間であった。
<Die weltberuehmte世界に名高い>
1963年には“エーベルバッハ生まれのヴィクトリア・トルテ”は航空便で英国バッキンガム宮殿に居られるエリザベス女王宛てに送られた。
以来、遠近を問わず、たくさんの人がこの美味しい味を味わう為に、カフェ・ヴィクトリアのお客としてやって来るようになった。
現在の経営者であるBirgit Strohauer-Valeriusビルギット・シュトロハウアー・ファーレリウスも従業員一同と共に、そうしたお客様に満足いただけるように日々精進している。
写真は”ヴィクトリア・トルテ” -
同店の品揃え(店のHPに写真あり);
Viktoria-von-Eberbach-Tort、Erdbeerjoghurt-Torte 、
Graf-Eberbach-Torte、Hochzeitstorte Victoria&Daniel 、
Graf-Otto-von-Mosbach-Torte 、Koenigin-Silvia-Torte 、
Wiener-Sacher-Torte 、Trueffel Pralinen 、
Schoko-Baumkuchen edelbitter 、Schoko-Baumkuchen 、
Viktoria Christstollen 、Pistazien-Marzipanstollen 、
Mandel-Marzipanstollen etc.
写真はエリザベス女王在位60周年祝いのトルテ -
“エーベルバッハ生まれのヴィクトリア・トルテ”は ドイツ最良のケーキに選ばれた。
(Viktoria-von-Eberbach-Torte zur besten Torte Deutschland gekuert)
エーベルバッハ新聞;2011年12月1日記事:
ドイツの情報雑誌Galileo「ガリレオ」によれば、ドイツ国内から選ばれた7つの菓子作りチームが競った10月のベルリン大会に於いて、その審査の結果、“エーベルバッハ生まれのヴィクトリア・トルテ”が最良の一品に選ばれた。
“エーベルバッハ生まれのヴィクトリア・トルテ”は厳しい競争に打ち勝ち、今や「ドイツ第一のケーキ」と称される事となった。
その受賞した“美味いケーキ”は昨日、完売だったそうです。
(中略)
3代目のハインリヒ・シュトロハウアーがオレンジのデザートにインスピレーションを得て、ダーク色の軽いビスケット?(ケーキ生地)にクリーム、オレンジジュース、レモンおよびワインを詰め、フルーツゼリーで優雅に包んだものです。
受賞後はスイス、オーストリア等の海外からの電話もしっきりなしにかかり、注文が殺到していると、現経営者が述べている。
(後略)
(店のHP訳とWikipediaから編集)
写真は”ヴィクトリア・トルテ” -
写真はエーベルバッハの町とネッカー川
≪Eberbachエーベルバッハに残る英国ヴィクトリア女王のお話≫
旅行時期 2012/05/15 - 2012/05/29 (2014/04/11投稿)
http://4travel.jp/travelogue/10875255 -
ヴィクトリア女王夫妻のお気に入りだったヴィッキー。
≪ヴィクトリア女王の長女ヴィッキー(Vickyヴィクトリア王女)が愛した古城ホテル クロンベルク城≫
旅行時期 2012/05/15 - 2012/05/29 (2014/04/16投稿)
http://4travel.jp/travelogue/10877049
写真はSchloss Kronbergクロンベルク城:ドイツ皇帝フリードリヒ3世の皇妃ヴィクトリア・皇太子妃時代(ヴィクトリア女王の長女ヴィクトリア)
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