2013/10/14 - 2013/10/28
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<2013年秋・ドイツ・ベネルックスの旅>
ドイツ・メルヘン街道、ミュンスターラントの水城と、オランダ・マーストリヒト、ベルギー・ルクセンブルクのアルデンヌ地方の古城を巡る旅
期間 :2013年10月14日(月)~10月28日(月)15日間
10月20日(日);221km 、19.5℃、薄曇り、ここまで1週間の走行距離は1,366km
6:30起床、朝食(8:00 ~8:30)後、9:2 0にLembeckレンベック城 をスタート。->L?・A31・A3・A52・L? 78km Duesseldorfデュッセルドルフ ->L?・A52・A57・B57(Xantenクサンテン)・B67・L? 97km Isselburg-Anholtアンホルト城 ->L?・B67・B57・L? 46km Weeze・Hertefeldヘルテフェルト城 18:00到着。
①2013年秋のドイツ1:無人となった古城ホテル ビューディンゲン城のお客は私共だけ。
②2013年秋のドイツ2:カエル戦争伝説の城を発ち、メルヘン街道を北に向かう。
③2013年秋のドイツ3:フリッツラーとヴィルドゥンゲンの木組みの家並み、山上のヴァルデック城
④2013年秋のドイツ4:“F”に王冠の商標で知られるフュルステンベルグ窯、トレンデンブルグ城、ザバブルク城を巡る。
⑤2013年秋のドイツ5:ザワーラント・フランケンベルク(エーダー)の市庁舎には独特の10の塔がある。
⑥2013年秋のドイツ6:力強く、最も美しい山城の1つと称されているアルテナ城
⑦2013年秋のドイツ7:ミュンスター地方の典型的な水城レンベック城は古城ホテル
⑧2013年秋のドイツ8:ミュンスター地方・黄葉の森の中に立つ5つの水城を巡る。
⑨2013年秋のドイツ9:ラエスフェルト城近くにキャベツ夫人・アンナの彫像が立つ。
写真は懐かしのデュッセルドルフ:ライン川畔
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 交通手段
- レンタカー
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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朝食(8:00 ~8:30)はRitterkeller騎士のケラー、早いのか
誰もいません。
席は昨夜の夕食時と同じ暖炉傍に設けてありました。
写真は古城ホテル レンベック城・Ritterkeller騎士のケラー -
いつも同じ朝食(8:00 ~8:30)です。
写真は古城ホテル レンベック城・Ritterkeller騎士のケラー -
写真は古城ホテル レンベック城・本丸の櫓(塔)内の私共の部屋(写真中央)・・・窓は向こう側に、下は城内礼拝堂
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*昨夜は10時半には就寝し、起床も6時半と早かったが、スタートは9時過ぎになった。
写真は古城ホテル レンベック城・入口、本丸の櫓(塔)傍で -
今日は懐かしのデュッセルドルフのハイネマンチョコレートを買いに少し寄る事にした。
通算9年、二度の勤務をした町だけに私共の第二の故郷と言っても良いだろう。迷う事も無く、アウトバーンで町に入り、ケーニヒスアレーを目指した。
JanWellen Pl.ヤン・ヴェレン広場、Schadow Pl.シャドウ広場傍の地下駐車場に車を停めて、まずはKoenigsalleeケーニヒスアレー(王様の小道と称される)、通称Koeケーに行って、ハイネマンのチョコレートを確保した。
写真は懐かしのデュッセルドルフ:中心地Schadow Pl.シャドウ広場・・・右手のビルに旧東京銀行デュッセルドルフ支店があった。 -
<Duesseldorfデュッセルドルフ>
10:30~14:55
http://www.duesseldorf.de/de/
ドイツで人口の最も多い州であるノルトライン・ヴェストファーレン州の州都です。人口59万人。ドイツの重工業の中心を担うルール工業地帯の中心にあって、緑豊かな、ドイツ一の大商業都市です。
日系企業のヨーロッパ基地として、人口の1%が日本人と云う。
写真は懐かしの“Koeケー(王様の小道)”・ネプチューンの像ケーニヒスアレー 散歩・街歩き
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ナポレオンも訪れ、“小パリ”と言ったという、“ケーニヒスアレー=Koeケー”と愛称されている世界に冠たる通りで、1801年、ミュンヘン王宮の建築家のプランを採用して、現在の1kmの並木道が完成したのです。
幅82mの大通りで、真ん中のお堀を挟んで凡そ400本のカスターニアン(マロニエ)が大きく育った並木道が続く。今は秋、黄葉の季節だ。
写真は懐かしの“Koeケー(王様の小道)”・真ん中のお堀 -
右側には高級ブティック、ブランド品の店、カフェ・レストランが並んでいる。左側にはドイツの銀行やオフィス、ホテル、カフェ・レストラン、ブランド品の店等がこの街の顔として並んでいる。
写真は懐かしの“Koeケー(王様の小道)”・真ん中のお堀 -
*2006年にドイツ 懐かしの地再訪と称してデュッセルドルフを訪れた。
その後も2013年10月に久しぶりに訪れ、ハイネマンのチョコレート、パイケーキを購入し、さらに2014年05月、2015年7月、2016年10月と4年連続してANAのデュッセルドルフ=>成田を選択した。
ANAの直行便が、乗り入れたことがその背景にある。
写真は懐かしの“Koeケー(王様の小道)”:Koeケー・センター内 -
<Cafe Heinemannカフェ・ハイネマン>
(Koeケー・センター内)
D-40212 Duesseldorf 、Martin-Luther-Platz32
日曜日も10:30~18:00は開店しているのをHPで確認済みでしたが、所がお店に行くと、何やら改装中の様子で吃驚した。中に入ると改装はしているが、営業中だ。
当地一番の定評あるチョコレートのお店で、1階がチョコレートの販売、2階がレストラン・カフェになっている。
写真は懐かしのカフェ・ハイネマン前でカフェ ハイネマン (フェラインスバンク パッサージュ店) スイーツ
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お目当てのシャンパントリュフなどを購入する。
ここのチョコレート菓子の中でも“シャンパン・トリフ”が私共は大好物だ。
食べるとシャンパンが口の中に溶け出て、その美味しい味に感心する。残念ながら空港では購入できない。
これで今日の目的達成です。
店内の写真は撮って良いかとスタッフに聞くと、個人が写らなければOKと言ってくれた。
写真は懐かしのカフェ・ハイネマン:店内の小品棚 -
シャンパントリュフのチョコレート、猫の舌といったチョコレートがEuro58.4、MandeltorteアーモンドのパイケーキがEuro9.5、NusstorteクルミのパイケーキはEuro10.5だった。
チョコレートは当然だが、二つのパイケーキが予想以上に美味く、これだったらもう少し買えば良かったと思った。
合計Euro78.4(8,036円)でした。
写真は懐かしのカフェ・ハイネマン:店内の小品棚 -
購入したカフェ・ハイネマンの土産を駐車場の車に入れてから、Altstadt旧市街に向かった。
こちらはハイネの生家です。
デュッセルドルフの有名人の中でも詩人ハインリッヒ・ハイネは“アルトシュタッドの息子”と呼ばれ、親しまれている。
ハイネの生家はこの旧市街の真ん中にあり、家の壁に記念の石版が張られてあるだけだ。
もう一人Schumanロベルト・シューマン(1854年精神を病んで、ライン川に身を投じるという事件を起こした2年後にボンで死去。親友ブラームス、メンデルスゾーンも旧市内に住んでいた由)も住んでいて、妻のクララと2年間(1852~54年)住んだ住居があり、ここにも生誕175年記念の石版とクララのレリーフが埋め込まれている。
こちらは少し離れていたので、いつも見るのを省略してしまう。
写真は懐かしのデュッセルドルフ旧市街:ハイネの生家 -
旧市街(500m四方の狭い町)散策はともかく歩くことだ、狭いだけに間違っても困る事は無く、ケーの方向か、ライン川の方向に行くかを決めればよい。
見たい、食べて飲んでみたい所はいずれにしても狭い中なのだ。
改装された家並みが続き、街中はきれいになっている。
とはいえ今日はざっと回るだけだが・・・。
写真は懐かしのデュッセルドルフ旧市街:縁起物の一つ
旧市街名物の“金貨をひり出す男”の像が銀行の店の壁に彫られています。
縁起物ということで、ここに来る度にしっかり金貨?!を手で触って、運が付くように祈り、写真を撮ります(笑)。ドイツの各地にこの種のものを見る。 -
Schneider-Wibbel-Gasse仕立屋横丁というメルヘンチックな小道に行く。
ここの仕掛時計は11、13、15、18、21と一日5回も時計の下の扉が開き、針と糸を持ったシュナイダーさんの人形が出てくる。ハイネの作詞の誰も知っている“ローレライの曲”が流れる。
写真は懐かしのデュッセルドルフ旧市街:仕立屋シュナイダーさんの銅像も後に傍に作られていて、2016年に訪れた際に旧市街の縁起物二つ目として触ってきた(笑)。 -
写真は懐かしのデュッセルドルフ旧市街:2006年に2泊したホテルは旧市街の中
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かつて会社の部下たちと訪れた*アンナ小母さんのレストランWeinhaus Tante Annaワインハウス・タンテ・アンナの店の横丁を通り、ライン川畔プロムナードに行ってみる。
写真は懐かしのデュッセルドルフ旧市街:Weinhaus Tante Annaワインハウス・タンテ・アンナ前で
*2006年に夕食を食べたアンナ小母さんのレストランは20世紀初め、人気者の女将に因んで、名前を“アンナ小母さんのワインハウス” としたそうだ。古くは1593年、イエズス会修道院の礼拝堂として、建造されたと云う。店内には1000年の歴史を感じさせる黒く古びた花崗岩の柱がみられ、300年の年月を経たアンティークの家具で飾られた、落ち着いた雰囲気をもつ家庭的料理とワインの店です。タンテ アンナ 地元の料理
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やってきたBurgplatzブルグ広場にはSchlossturmシュロスの塔(現在は船舶博物館)もあり、大きな観覧車だけが場違いの如く立っている。
これさえ無ければ、このあたりは昔と変わらぬ様子なのだが。
写真は懐かしのデュッセルドルフ旧市街:ブルグ広場の船舶博物館Schifffahrt-Museum im Schlossturm 博物館・美術館・ギャラリー
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ブルグ広場に来る度にRadschlagerbrunnenラートシュレーガーブルネン側転の泉を撮る。
1288年、ケルン大司教の軍に対し、ベルグのアドルフ伯に従う市民達の軍がWorringenヴォリンゲンの戦いに勝利し、市民は都市の自治権を獲得する。
この勝利を祝って、凱旋する兵を子供たちが“側転”をして出迎えたと言う故事に因んだもので、黄色くなったプラタナスの樹の下に“側転”像と噴水がある。
写真は懐かしのデュッセルドルフ旧市街:Radschlagerbrunnenラートシュレーガーブルネン(側転の泉) -
Rheinuferpromenadeライン川畔プロムナードに出ると、観光船があり、Oberkasseler Brueckeオーバーカッセラー橋が見えて来る。
ライン川畔プロムナードもいつも必ず見に来る。
ラインには左からRheinkniebrueckeラインクニー橋、オーバーカッセラー橋、TH-Heuss Brueckeテオドーア・ホイス(初代西ドイツ大統領の名)橋と、三つの大きな橋が掛かる。その橋の下を遊覧船や大きな、長い輸送船がオランダの河口に向けて、或いは上流に向けて、航行している。
かつて住んだオーバーカッセル地区のKaiser-Friedrich-Ringカイザー・フリードリヒ・リングは遠くて見えない。
(注)第二次大戦におけるDie Bruecke von Remagenレマーゲン鉄橋の攻防については映画にもなってよく知られているが、デュッセルドルフでも1945 年 3 月 3 日にドイツ国防軍は連合軍(英米)のライン川渡河を阻止するため、オーバーカッセラー橋を爆破したと云う。
写真は懐かしのデュッセルドルフ旧市街:ライン川畔の観光船とオーバーカッセラー橋ライン川 滝・河川・湖
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この辺りのライン川の川幅200~300Mで大きく蛇行している。
この川岸から見る景色は変らず、遠くに172mの登った事もないラインタワーが見え、ラインクニー橋も見える。
写真は懐かしのデュッセルドルフ旧市街:ライン川畔プロムナード、ラインタワー、クニー橋 -
近くはマルクト広場で、ルネッサンス様式のRathaus市庁舎(1570年)、プファルツ選帝候ヨハン・ヴィルヘルム2世(通称JanWellenヤン・ヴェレム)騎馬像が絵になる形で立っている。
写真は懐かしのデュッセルドルフ旧市街:ヤン・ヴェレム騎馬像と市庁舎ヨハン ヴィルヘルム2世(通称ヤン ヴェレム)の騎馬像 モニュメント・記念碑
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角を曲ると、地ビール・アルトビールのレストランUerigeウエリゲ(ビール醸造所:シュレッサーアルト、シューマッハアルト、ウエリゲアルト、フランケンハイムアルトの一つ)、魚料理のレストラン(Fischhausフィッシュハウス)などが続く。
写真は懐かしのデュッセルドルフ旧市街:レストランUerigeウエリゲ -
地ビール・アルトビールのレストランUerigeウエリゲ、魚料理のレストランFischhausフィッシュハウスなど通りをウロウロ。
写真は懐かしのデュッセルドルフ旧市街:「世界一長いカウンター」 -
まだまだ閑散としているが、それでも店前に設けられた席で一杯やっている人もいる。このあたりは居酒屋やレストランが軒を連ねていて、「世界一長いカウンター」と称されているとか。
写真は懐かしのデュッセルドルフ旧市街:Fischhausフィッシュハウス -
最後に創業1628年の老舗レストラン“ツム・シッフェン”寄って、店前に掲示されたメニューを見る。メニューを見ていたら、ドイツ人ご夫婦がお店に入ろうとして、私共に気付いて、声をかけてくれた。
曰く“この店の料理はとても美味しいですよ!何しろ、かのナポレオンがここで食事を取ったそうですからね!”と。
“以前この町に住んでおりまして、旅の途中、懐かしくてちょっと覗いていたのですよ。時間があれば、食べたいのですが、これから次の町に行かねばならず、次回にはきっと食べます”と話したことを思い出した(2016年秋、ここで名物ライン風ムッシェルン料理とリソットを食べた)。
*1811年、ナポレオンの絶頂期に将軍たちと共にこのレストラン“ツム・シッフェン”を訪れ、ビールをガブ飲みしたのだとか。そんな皇帝陛下が座った場所は今もNapoleon-Eckeナポレオンコーナーとして残っている。フランス国旗の下がるこの場で食事をしたと伝えられ、特徴的なナポレオン帽の胸像がある。
写真は懐かしのデュッセルドルフ旧市街:レストラン“ツム・シッフェン”
“Zum Schiffchenツム・シッフェン”
D-40213 Duesseldorf 、Hafenstrasse 5
http://www.brauerei-zum-schiffchen.de/ツム シフヒェン 地元の料理
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3時、デュッセルドルフから北に抜けて走る。古代ローマ軍団の都市Xantenクサンテンの町に入ると、オクトーバーフェストのお祭りで、人も車も多く、駐車する場所が無い。
参考;Xantenクサンテン
人口は約2万1千人。オランダ国境に近く、ライン川左岸に位置する小さな町。
古代ローマ軍団の都市がその起源であり、古代ローマの遺跡が発掘・復元されている。ライン川沿いの交易都市として栄え、1228年にはケルン大司教から都市特権を認められた。
小さい街中をグルグルしたものの、どうにも埒があかないので、次の目的地のアンホルト城に向かった。
写真はSchloss Anholtアンホルト城:Map -
<Parkhotel Wasserburg Anholt古城ホテル アンホルト城>
この旅17番目の城
D-46419 Isselburg-Anholt 、Klever Strasse
http://www.schloss-anholt.de/
4星・全31室。オランダの国境近く、ライン川が蛇行し地域の湖沼には水城が多く築かれたが、この古城ホテル・レストランも掘割に囲まれた水城である。
いかにもオランダを感じさせる白い跳ね橋を渡り、城の城門を入ると、中庭になる。
正方形の中庭の回りに秩序よく建てられた水の城は12~17世紀に築城・増築され、17世紀以降、オランダ・バロック様式に改築されている。
写真はSchloss Anholtアンホルト城:水城の俯瞰 -
本館にくっついている“Dicke Turm太っちょの塔”は最も古く、12世紀のものだそうだ。
1968年から右手の建物を古城ホテル・レストランとして、開業する。
この門の右手に18Hのゴルフ場も備えていて、デュッセルドルフの日本人たちも結構利用しているようだ。
私自身はゴルフ下手なので、かつて一度も利用した事が無い。
写真はSchloss Anholtアンホルト城:城門入口 -
18世紀のオランタ式幾何学模様庭園を第一に、水城の周囲の大庭園は美しい。庭園の周辺はもう森で、なんとも言えぬ良い環境にある。
写真はSchloss Anholtアンホルト城:水城の周囲の大庭園 -
アンホルト城の歴史:
ここはオランダに近いためにその昔はオランダ・Utrechtユトレヒトの教区に属していた。
城の起源は1169年、ユトレヒト司教領主治下のHerr von Sulenズレンの騎士領主により築城された。
1380年、ズレンの騎士領主は男系が無く、アンホルト城を失い、Herberga von Sulenヘルベルガ・ズレンの夫Hermann III. von Gemenゲーメン家のヘルマン3世が城主になった。所がこの夫婦も男系の相続人がいなかったので、1402年、ゲーメン家のMargaretha von Gemenマルガレーテと結婚したGysbert von Bronkhorst-Batenburgギスベルト・ブロンクホルスト・バテンブルクがアンホルト城を治めることになった。
1431年にはKaiser Sigismund皇帝ジギスムントにより、ブロンクホルスト・バテンブルク家は正式にアンホルトの領地を認められた。
15~17世紀にかけて、Herzogtum Kleveクレーフェ公国とHerzogtum Geldernゲルデルン公国の争い、八十年戦争(オランダの対スペイン独立戦争:1568~1648年)が起こると、アンホルト城も巻き込まれ、25年の間、ゲルデルン公国が治下に置いた。1531年、公国の縁戚だったDietrich IIIディートリヒ3世がアンホルト城の支配権を認められ、Dietrich IVディートリヒ4世が亡くなると、皇帝は伯爵に叙任している。
1647年、彼の娘Maria-Annaマリア・アンナはReichsgrafen Leopold Philipp Carl zu Salm, Wild- und Rheingraf帝国伯レオポルト・フィリップ・カール・ザレム及びヴィルト・ライン伯にアンホルト城を譲渡した。
1743年、Nikolaus Leopoldニコラウス・レオポルトは ザレム公の称号を得た。
1810年、ウィーン会議でザレム公国は未承認となり、領土はプロイセンのものになった。
但し、アンホルト城はザレム公の居城として、認められた。
写真はSchloss Anholtアンホルト城:ホテル宿泊客はオランダを感じさせる白い跳ね橋を渡り、城内に入る。 -
第二次大戦では二度も爆撃を受け、70%が戦禍を被ったが、1945年以降、Fuersten Nikolaus Leopold zu Salm-Salmニコラウス・レオポルド・ザレム公爵によって再建された。
1968年、アンホルト城は古城ホテルをオープンしたが、その当時からHeinz Bruneハインツ・ブルーネがホテルの経営に携わっていたが、その後もザレム家の借地人ながら、ホテル・レストラン営業を継承した。
現在もザレム公爵家が城主・所有者として、この城に住んでいる。
このホテルにはオランダへの旅の途中で宿泊し、或いは週末のドライブで、ゴッホのクローラー・ミュラー美術館(Arnheimアーネム)の往復の際に、何度か立ち寄った所である。私のお気に入りの古城ホテルと言って良い。
写真はSchloss Anholtアンホルト城:本館にくっついている“Dicke Turm太っちょの塔” -
中庭に入ると左手に見えるのが城の本館で、現在は博物館になっている。
12~4世紀に建てられている。宮殿内装ではオークの大きな階段が特に目を引き、先祖の肖像画が並ぶ廊下がある騎士の間、フランドル地方のタペストリーで飾られた祝宴の間、17、8世紀の日本や中国の陶磁器コレクション、16、7世紀のオランダ(レンブラント)、ドイツ(ホルバイン)、イタリア、スペインの巨匠たちの絵画700が展示されている。
開館:ガイド付き11~16時。
http://www.fuerst-salm.de/
写真はSchloss Anholtアンホルト城:城の本館(博物館) -
門から長い道を歩き、白い跳ね橋を渡り、城内に入る。
城の外観は殆ど変わっていません。
ホテルでパンフレットを頂き、テラスレストランに入ってみると、ここは様変わりで、堀に突き出した形で、半円形の立派なレストランWasserpavillonヴァッサーパビリオンが浮かんでいます。主にドイツ料理、地中海料理を提供するレストランのようです。
城内にあるメインレストランはフランス料理、イタリア料理が主体と言う。
写真はSchloss Anholtアンホルト城:トイレに行くついでにワインバーをのぞく -
昼食時間を過ぎている為か、数組のカップルのお客は皆、パビリオンの横にある、従来からあるテラスでお茶をしている。
私共も早速、“紅茶にコーヒー”を頼み、白鳥、鴨の泳ぐ様子や、庭園の高々とした木々の緑を見ながら、ゆっくりした時間をもつことができた。
写真はSchloss Anholtアンホルト城:テラスレストラン -
<お茶:古城ホテル アンホルト城のテラスレストラン>
16:30~17:00
ミュンスターラントの水城巡りの最後を飾るには、黄葉のアンホルト城は抜かせない。昨日も時間切れで今日にずらしたが、デュッセルドルフで買物ができると知った為、ツィ、買物で時間を費やしてしまった。
この為、アンホルト城は30分と短い時間になり、美術館見学の予定は中止することになった。
唯、ここのテラスレストランに座って、水濠や周辺の景色を見ながら、紅茶とコーヒーを飲むのは良いものだ。 Euro10(1,025円)
写真はSchloss Anholtアンホルト城:テラスレストラン -
堀に突き出した形で、半円形の立派なレストランWasserpavillonヴァッサーパビリオンが浮かんでいます。
写真はSchloss Anholtアンホルト城:テラスレストランからレストランWasserpavillonヴァッサーパビリオンを見る。 -
アンホルトの城を出発したのが5時でしたので、さすがに暗くなり始めて、焦る。今夜の古城ホテルの地図はHPからコピーしていたが、Weezeヴェエツェの村までは来たものの、古城ホテルへの道が分からない。
偶々、村の入り口に小動物公園があり、子供をそこで遊ばせて帰途に着く親子ずれに場所を聞く事が出来た。
この動物公園を真直ぐ行けば良いのだが、車は入れないから、国道B9に出て、迂回しなさいとアドバイスされた。
写真はSchlossruine Hertefeld古城ホテル ヘルテフェルト城:Map -
幸い、距離も近く、古城ホテルの中庭に入ると、背の高いオーナー夫人が出てきた。
写真はSchlossruine Hertefeld古城ホテル ヘルテフェルト城:俯瞰Schloss Hertefeld & Hertefeldhof ホテル
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ホテルのオーナー夫妻はアジア趣味がある様子で、案内された部屋内は仏像、行燈、畳、竹細工、茶器などが置かれていた。
面白い事に2階の部屋には浴室やベッドが置かれ、階上への螺旋階段を登ると、3階に畳の敷かれたアジア風の寝室があった。
所が、これが沈んでしまう様なベッドで、結局、2階で就寝することにした。面白い事にオーナー夫婦ともに背が高い所為か、シャワー設備、鏡、トイレの便器、衣類架け等すべてが高過ぎた。
写真はSchlossruine Hertefeld古城ホテル ヘルテフェルト城:2階のベッド -
<(1泊)⑦Schlossruine Hertefeld古城ホテル シュロスルイネ ヘルテフェルト>
この旅18番目の城
D-47652 Weeze 、Hertefeld 1
Tel. +49-(0)2837-2035
http://www.hertefeld.com/de
“Superior”DZ(45㎡の広い部屋・2&3階)はEuro119+朝食Euro13x2=26 合計Euro145(19,824円)。
この部屋はホテル棟の右から3つ目、事務所のすぐ上にあった。
Hotel Garni ;4星・全6+18=24室。
夕食用のレストランが無いので、数百メートル離れた村内のレストランで食べる事になる。
写真はSchlossruine Hertefeld古城ホテル ヘルテフェルト城:オーナー夫妻はアジア趣味を持つ。 -
Weezeヴェエツェの町はレンベックからは西に55kmの独蘭国境にあり、古城ホテルのヘルテフェルトはB9に沿った村の郊外にある。
近くにFlughafen Weezeヴェーツェ空港(Flughafen Niederrheinニーダーライン空港)が2003年に民間運航を開始している。
年間152万人の利用客があり、ヨーロッパ内でも急速に利用を伸ばしている空港の1つだそうだ。かつては独空軍、第二次大戦後は英空軍が使用していた軍用空港であった。
写真はSchlossruine Hertefeld古城ホテル ヘルテフェルト城:2階浴室 -
ヘルテフェルト城の歴史:
騎士の居城として、1317年に初めて歴史資料に登場する。Hertefeldヘルテフェルト家であったと思われるが、この頃、城主のStephan II. von Hertefeldシュテファン2世は近くのKleveクレーフェ伯の封土を受けていたようである。
19世紀、この家系は姪Alexandrineアレクサンドリーネに相続され、彼女の長男にドイツ史で知られるPhilipp Friedrich Alexander Fuerst zu Eulenburg und Hertefeld, Graf von Sandelsフィリップ・フリードリヒ・アレグザンデル・オイレンブルク・ヘルテフェルト侯爵、ザンデルス伯爵(1847~1921年)がいる。
ドイツ帝国時代の外交官であり政治家で、プロイセン王国内相のフリードリヒ・アルブレヒト・オイレンブルクは叔父、また、宰相を務めたボート・オイレンブルク伯爵は兄にあたる。
ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の側近として重用されたが、ハルデン・オイレンブルク(同性愛のスキャンダル)事件により政治生命を断たれた。
写真はSchlossruine Hertefeld古城ホテル ヘルテフェルト城:階上への螺旋階段 -
次男のBotho Sigwart zu Eulenburgボート・ジグバルト・オイレンブルク伯爵は作曲家になり、ヘルテフェルト城で最も長い間、過ごしたと云う。
彼のオペラ“Die Lieder des Euripidesエウリピデスの歌”は1915年、シュトゥットガルト王立劇場で初演された。
(尚、ギリシア悲劇で、アイスキュロス・ソポクレスス・エウリピデスの三大悲劇詩人と言われている。)
オイレンブルク伯爵が居城としていたブランデンブルク州のSchloss Liebenbergリーベンベルク城は第二次大戦後の東独の土地改革で明け渡し、Niederrhein二ーダーライン地方のヘルテフェルト城に侯爵家家族は居を移した。
現在もその子孫がホテルを経営している。
上述したようにFuerst zu Eulenburg und Hertefeldオイレンブルク・ヘルテフェルト侯爵家はその歴史の変遷の中で、いずれも12世紀にその祖を辿ることができる二つの家系が一緒になったものである。
ヘルテフェルト城は城址あるいは廃墟という意味のSchlossruineシュロスルイネが使われているだけに、第二次大戦の最後の日にヘルテフェルトの町や城はナチス政権のSS軍団により、焼き払われています。
敵方の隠れ場所になる可能性のある場所を破壊したのです。
1992年、地域で起こった地震で、北東の壁に大きな割れ目ができた。
2000年以来、英国とフランス風の庭園も整備されて、美しい景観を保っている。
写真はSchlossruine Hertefeld古城ホテル ヘルテフェルト城:3階は畳が敷かれたアジア風の寝室 -
<夕食: Trattoria Port Finoトラットリア・ポルト・フィノ>
18:30~20:30
D-47652 Weeze 、Wassenstrasse 41
古城ホテルには夕食用のレストランが無いので、離れた村内のレストランまで数分歩いた。同じ宿泊客の親子(母と娘)も夕食の為に前を歩いて行く。自然と後ろを歩いて行く形になったが、彼女らはイタリ料理店に入った。
写真はトラットリア・ポルト・フィノ:飲み物は地ビールのPilsX2。 -
これを見ていると、レストランのオーナーらしき太った大柄の小父さんが、ここで食べなさいとばかりに、愛想良く手招きしている。
それで私共もここに決めたのだが、この選択は正しく、実に美味しい店でした。
店内はほぼ満席、賑やかな飾りつけが好ましい店だった。
写真はトラットリア・ポルト・フィノ:①スープ:私はオニオングラタンスープ、家内は茸のスープ。 -
飲み物は地ビールのPilsX2。
料理は3品、
①スープ:私はオニオングラタンスープ、家内は茸のスープ。
②メイン:私がツナのスパゲッティ、家内はナポリタン。
いずれも大きな皿にどっさりと云う感じでしたが、とても美味しいものでした。
③家内は一昨日と同じ3Kugel-Eis3個のバニラアイス。私は3個のチョコレートアイス。
写真はトラットリア・ポルト・フィノ:②メイン:私がツナのスパゲッティ、家内はナポリタン。 -
写真はトラットリア・ポルト・フィノ:③家内は一昨日と同じ3Kugel-Eis3個のバニラアイス。私は3個のチョコレートアイス。
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写真はトラットリア・ポルト・フィノ:賑やかな飾りつけが好ましい店
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夕食のイタリア料理のお値段はたいへん安価でEuro35(3,588円)でした。
写真はトラットリア・ポルト・フィノ:満足!満足!
明日はオランダに入る。
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2013年秋のドイツ・オランダ・ベルギー・ルクセンブルクの旅
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2013/10/14~
ノルトライン・ヴェストファーレン州
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この旅行記へのコメント (2)
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- Rolleiguyさん 2019/06/17 21:52:52
- 美しい街
- jijidarumaさん、今晩は。デュッセルドルフは商都でありながら、歴史を感じさせるいい街ですね。出張で何度か行きました。SchadowplatzのBOTには行ったことがなく、その後に移転したJapan Hausの方でした。あの頃は欧州におけるドイツのプレゼンスは政治よりも経済でしたが、EUとなった今は政治面での影響力の方が大きいのでしょうかね。でも、当時はEECやEFTA、コメコン諸国などそれぞれの特色というか、独自性があったのが、今はヒト、モノ、カネが移動し易くなって、個々の国の特色が薄れてきたように思います。国際化というのは地域色を失うことでもありますね。オーケストラも〇〇色などと言っていたのが殆ど消えてしまい、どこのオケも同じような音になり、面白味がなくなりました。昔のもので残っているのは建物だけ、というようなことにならないよう願っています。
Rolleiguy
- jijidarumaさん からの返信 2019/06/18 00:29:49
- Re: 美しい街
- Rolleiguyさん、
今晩は。いつもありがとうございます。
ノルトライン・ヴェストファーレン州の州都デュッセルドルフは当時の西ドイツの経済を支えていた商都でした。だから日本企業は欧州や東欧、アフリカの商圏をねらって参集していました。まず商社が進出し、銀行が商社の資金需要に応え、そして鉄鋼、化学等の大手企業が軒を連ねていったようでしたね。
数十万という州都は丁度良い規模の町で、日本人のプレゼンスもいろんな意味で大きかったでしょう。
ウィーンの文化や歴史から比較すれば、歴史的人物も文化人もややマイナーなものですが、かえってそれが良かったように、こぢんまりとしたオペラ劇場、コンサートホール、博物館、美術館であったような気がします。日本人には何でもそろった町であり、気軽にとけ込めていく雰囲気があったと思います。
西ドイツ時代のアデナウワー、シュミット、コール首相といった顔を思い起こすと、ドイツの個性の強い、政治的な力強さを思います。
おっしゃるように、EUという、対米あるいはロシア対抗組織ができると、各国の個性はタガをはめられて埋没しますね。便利なようで、意外とめんどくさい組織ができてしまったようです。
本来ドイツはフランスの如く中央集権的ではなかったから、田舎も豊かで、素晴らしい町や村ができていたはずですけど、あまりベルリンに集中していくのは「東独的」ではないかと、私思っているのですよ(笑)。
jijidaruma
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