2013/10/14 - 2013/10/28
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≪ドイツ・メルヘン街道、ミュンスターラントの水城と、オランダ、ベルギー・ルクセンブルクのアルデンヌ地方の古城を巡る旅≫
期間:2013年10月14日(月)~10月28日(月)15日間
<2013年秋のドイツ:第二日メルヘン街道を北に走る>
10月15日(火);218km 、曇り時々シャワー、10~12.5℃と寒い。
6時起床。朝食は7:30~8:00、朝食後旧市街を散歩。9:30にBuedingenをスタート。->L?・(Gedern)B275(木組み建築街道・メルヘン街道)(Herbstein)・L? 74km Eisenbach・Schloss Eisenbach ->L?・B254 (Lauterbach)・(Schwalmstadt)A49・B253・450・L? 89km Fritzlar->L?・B450・253・L? 37km Bad Wildungen->L?・B485・L? 18km Waldeck・Schloss Waldeckに到着。
①2013年秋のドイツ1:無人となった古城ホテル ビューディンゲン城のお客は私共だけ。
②2013年秋のドイツ2:カエル戦争伝説の城を発ち、メルヘン街道を北に向かう。
写真はFritzlarフリッツラーのマルクト広場:木組みの家並み・中央が切妻塔付きのアルテ・カウフハウス
- 旅行の満足度
- 4.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- レンタカー
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B275は途中、“メルヘン街道”と“ドイツ木組み建築の家街道”は一緒になっているが、後半は木組み建築の家街道沿いの町々を行く。この道はもう黄葉で彩られ、ゆっくり走りながら、景観を楽しんだ。秋、不思議と気持ちが高揚する。
写真はメルヘン街道の全体図 -
最初に訪ねたのはアイゼンバッハ城(鉄の小川と言う名前も不思議です)ですが、B275の国道から、城の上部のみ見えたものの、そこに入って行く道が分からない。2度往復して、川の向こう側の道に入る方向が分かった。
駐車場で車を降りた時はシャワーが降り出し、風も強く、9.5℃と少々寒い。
行ってみると、観光シーズンから外れた所為か、城は開いていない。
がっかりだが、熊の像が城壁の中央にあり、それだけが印象に残った。それでも同じような観光客らしき2グループが周辺を散策していた。
写真はSchloss Eisenbachアイゼンバッハ城 -
<Schloss Eisenbachアイゼンバッハ城 > 第2番の城
11:12~11:27
Lauterbachラウターバッハの町から南に4kmにFrischbornフリシュボルンという1000人程の村があるが、その一角にRiedesel Freiherren zu Eisenbachリーデゼル・アイゼンバッハ男爵家の居城がある。
「ヘッセンのヴァルトブルク城」の異名がある。(何故、この異名が付いたのか?は分からないのだが。もう忘れていたが、1977年5月28日にも訪れていた記録がある)
この城の名が初めて歴史書に現れるのは1217年になる。
Fuldaフルダの司教領主Leipolzライポルツにより破壊されたが、その後1269年にはTrabodo von Eisenbachトラボード・アイゼンバッハが再建した。
1429年にアイゼンバッハ家の後継者が亡くなると、リーデゼル・アイゼンバッハ男爵家が封土として引き継いだ。
現在の建物は16世紀のルネサンス風城館である。
http://www.youtube.com/watch?v=QXE_ALeKU2U
写真はSchloss Eisenbachアイゼンバッハ城の裏手から -
食事予定のBurg Post Eisenbachブルク・ポスト・アイゼンバッハというレストランも閉まっていて、旅のスタートながら、どうにもならず早々の退散となった。
写真はSchloss Eisenbachアイゼンバッハ城:レストランBurg Post Eisenbachブルク・ポスト・アイゼンバッハ -
木組み建築街道をかつて訪れた事のある、美しい市庁舎で知られたAlsfeldアルスフェルトや、赤頭巾ちゃんの町Schwalmstadtシュヴァルムシュタットを走り抜け、Fritzlarフリッツラーに至る。ここは初めての訪問だと思う。
写真はFritzlarフリッツラーの紋章・・・銀地に赤い二つの車輪(6つの軸)が結ばれた構図、Mainzマインツ大司教区より与えられたものとかで、マインツの紋章も同じデザインだ。 -
≪Fritzlarフリッツラー≫
13:00~14:30 13℃と温度は上がったが依然として寒い。
フリッツラーはカッセルの南約 25 kmにある。
この町はドイツ中部および北部のキリスト教化(723年の聖ボニファティウスによるDonnareicheドナーアイヒェ・御神木=樫の木の伐採)、及び中世の神聖ローマ帝国(919年の帝国会議でハインリヒ1世がドイツ王に選出された)の起点となった聖堂と皇帝の町である。
元々は「平和の町」を意味する Friedeslar に由来すると云う。人口14千人。
写真はFritzlarフリッツラー・1646年の絵 -
写真はFritzlarフリッツラー・Buerabergビューラベルク(7-8世紀の城砦跡)の山上からの眺望
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旧市街周辺のグラウアー塔(灰色の塔)近くにあった駐車場に車を停め、駐車券1時間(Euro1=102円)にした。
<Grauer Turmグラウアー塔(灰色の塔)>
1274年に初めて記録されている「グラウアー塔(灰色の塔)」は 37 m の高さがあり、ドイツに現存する塔で最も古く、高い町の見張り塔(かつての牢獄)である。
地図で見ると、旧市街は全長 2.5 km、高さ 7.5 m から 10 m、厚さ平均 3 m の市壁で囲まれていて、各所に塔が立っている。
その中心にマルクト広場があり、中世の街作りの形が今でも良く分かるのだ。
唯、18世紀以降その 2/3 が取り壊された。現存するのはフラウエン塔、グラウアー塔、グレーベン塔、ローゼン塔、ヨルダン塔、レーギル塔、アム・バート塔、ブライヒェン塔、カンツェル塔、ヴィンター塔の10塔である。
(最後の4基はいわゆる新市街を囲む市壁部分である)。
写真はFritzlarフリッツラー・Grauer_Turmグラウアー塔グラウアー塔 建造物
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木組み建築の家並で知られた旧市街に向かうと、肝心のローランドの泉とマルクト広場は全体が工事中で、金網で周辺を囲っていた。
<Rolansbrunnenローランドの泉とマルクト広場>
広場の中央にローランドの石像があり、そこにはルネサンス風の泉(噴水)が幾つかの人の顔をした像の口から水を噴出していた。
広場を囲む、15世紀から20世紀に建てられた木組み建築の家並みの景観は中世そのままで、ヘッセン州随一の美しいマルクト広場と云われているが、今は工事中で景観も台無しだ。
写真はFritzlarフリッツラーのローランドの泉とマルクト広場:木組みの家並み -
写真はFritzlarフリッツラーのローランドの泉とマルクト広場:工事の無い時はこんな様子らしい。
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写真はFritzlarフリッツラーのローランドの泉:工事の無い時はこんな様子らしい。
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この広場の周辺には木組み建築の家が並び、写真を撮るのにも如何に金網を避けて撮るか?と、苦労する事となった。
写真はFritzlarフリッツラーのマルクト広場:木組みの家並み・右端はAdler(鷲)アドラー薬局 -
イチオシ
中でもこの町一番と云われる木組み建築の家、切妻塔付きの“Alte Kaufhausアルテ・カウフハウス”が見事である。1480年に建てられたMichelミヒャエル兄弟会のギルドハウスである。
ともあれ、寒いのでまずは温まろうと、カフェに入る。
写真はFritzlarフリッツラーのマルクト広場:中央が切妻塔付きのアルテ・カウフハウス -
<お茶: Cafe・Hahnカフェ・ハーン>
13:15~13:45
D-34560 Fritzlar 、Marktplatz 1
店内は暖かく、早速、チーズケーキとリンゴケーキ、コーヒーを注文した。
そして大きなBerlinerベルリーナも店内で発見し、3個購入した。
Euro8+2.5=10.5(1,076円)
写真はFritzlarフリッツラー:カフェ・ハーンでお茶
ドイツ人に好まれ、パン屋で必ず売られている、大好きなBerlinerベルリーナにはこんな逸話が残る。
<ジョン・F・ケネディの逸話「Ich bin ein Berliner
(私はベルリン市民である)>
英語圏で有名な逸話にアメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディが西ベルリンを訪問した際のスピーチ「Ich bin ein Berliner(私はベルリン市民である)」が「I am a jelly doughnut(私はジャムドーナツである)と通訳されたというものがある。
ベルリン市民とジャムパンのベルリーナーが同じ単語のため些細な文法のミスを笑うものだが、現地のドイツでは全く知られていない逸話であり、実際には文法も誤っていないため、英語圏を中心にジョークが広まった都市伝説のようである。
しかし、この都市伝説を逆手に取り、ベルリーナーにケネディの顔が描かれたキーホルダーがベルリンの土産店で広く販売されている。(Wiki)
大統領のスピーチ「Ich bin ein Berliner(私はベルリン市民である)」
https://www.youtube.com/watch?v=2Ha9GJwlus8
*当該箇所は、"Two thousand years ago, the proudest boast was 'civis romanus sum'. Today, in the world of freedom, the proudest boast is 'Ich bin ein Berliner'."
「2000年前は、最も誇り高き言葉は『私はローマ市民だ』であった。今日、この自由な世界において、最も誇り高き言葉は『私はベルリン市民だ』である。」と、マルクス・トゥッリウス・キケロ(共和政ローマ末期の政治家、文筆家、哲学者)に由来するとされる”civis romanus sum”との対比で用いられた。
・・・・・ -
カフェを出ると、なんとまー雨が強くなり、小さな傘を二人でかぶったものの、濡れる。
その他の通りに、Hochzeitshaus結婚式の家(郷土博物館)、1415年建築の町最古の家で傾いた“Spitzenhaeuschenとがった家”(観光局)などが見られる。
写真はFritzlarフリッツラー:Hochzeitshaus結婚式の家(郷土博物館) -
写真はFritzlarフリッツラー:ひっくり返りそうなSpitzenhaeuschen)_Informationとがった家”(観光局)
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イチオシ
この雨で気力が失われ、主な市庁舎、聖ペーター教会などを巡ったが、その他の見所も見落としたようだ。
写真はFritzlarフリッツラー:ツヴィッシェン・デン・クレーメン通りに見られる木組みの家並み、中央は15世紀の市長の家 -
<市庁舎の壁に埋め込まれた聖マルティンの石造レリーフ>
市庁舎は1109年に史書に現れるが、現在の建物は15世紀に火事で焼失した後に再建されたものである。
三つの尖塔が独特で正面入り口に掲げられた守護聖人・聖マルティンの石造レリーフが知られている。
写真はFritzlarフリッツラー:Rathaus市庁舎 -
貧者にマントを切って与える町の守護聖人・聖マルティンの伝説の場面が見られ、右上はマインツ大司教の紋章、左上はマインツの聖堂参事会の紋章がある。
写真はFritzlarフリッツラー:Rathaus-市庁舎の聖マルティンの石造レリーフ -
<St. Peter Dom聖ペーター教会>
大聖堂ドームと呼ばれるロマネスク・ゴシック様式の教区教会である。
聖ペーター教会は1085年頃から1118年に聖ヴィクベルトによって建設された小さなバシリカの跡に建てられており、1180年から1200年までの間に大きく改築されたものだ。
有名な皇帝ハインリヒ十字架は宝物殿(入館せず)にある。教会内のステンドグラスも美しく、キリストの十字架が暗い教会内で、ひときわ目立った。
教会に面した聖堂広場に723年の聖ボニファティウスによるDonnareicheドナーアイヒェ(ゲルマン族の御神木=樫の木)の伐採を表す像がある。
写真はFritzlarフリッツラー:St. Peter Dom聖ペーター教会と聖ボニファティウスの像(後姿) -
<St.Bonifatius聖ボニファティウス>
英国出身で「ドイツ人の使徒」 ( Apostel der Deutschen) とも呼ばれるドイツの守護聖人である。マインツ大司教(在位:745年~754年)。
彼はドイツでのキリスト教の伝道にあたり、Donareicheドナーアイヒェ(ゲルマン族の神木である樫の木)を切り倒し、キリスト教の神の優越性を示したと云う。
この伝承を描いた絵画や彫刻がドイツ各地で見られる。
最初の礼拝堂(現在の大聖堂の基礎になっている)建設をはじめとして、この町の歴史に極めて重要な役割を演じた。
聖堂広場に彼の樫の木を切り倒す像が象徴的に立っている。
写真はFritzlarフリッツラー:聖ボニファティウスの像(1999年) -
この聖ボニファティウスの話と同じものがある。
ハルツ山地Goslarゴスラーの皇帝の居城・二階の帝國の間に“ドイツの復活”をテーマにした巨大な絵画がかかっていて、その一場面に、“柱の先端が、二本の角をもつ人間の顔をしたイルミンの柱”が描かれている。
ここではカール大帝が、その*イルミンの柱を切り倒した図になっていて、これはまさに、古代神の滅亡です。ゴスラーは木組み建築の町でも有名です。
*『8世紀中頃、キリスト教を信仰するカール大帝が命じたキリスト教への改宗に対して、超自然現象や大木を、土着の神として信仰するゲルマンの一部族のザクセン族が反抗した。長い抵抗の後、803年にザクセン族は大帝の治下に入りますが、この時、カール大帝はザクセン族の信仰のシンボルであるイルミンの柱を切り倒したと伝えられている』
写真はFritzlarフリッツラー:St. Peter Dom聖ペーター教会の中央聖壇とキリストの十字架 -
また、ローマ軍団とゲルマン人が戦い、ゲルマンが勝利したトイトブルグの森の一角に、古代ゲルマン人の聖地“Die Externsteineエクステルシュタイネ”があり、ここの巨岩に彫られた“イルミンの柱”を見ました。
写真はFritzlarフリッツラー:聖ペーター教会・パイプオルガン -
写真はFritzlarフリッツラー:聖ペーター教会内のステンドグラス
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写真はFritzlarフリッツラー:聖ペーター教会内のステンドグラス
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写真はFritzlarフリッツラー:聖ペーター教会中央聖壇・キリストの十字架
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写真はFritzlarフリッツラー:Altstadt旧市街の市城壁に4つの塔
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フリッツラーから西に向かう。B450・253と順に行けば簡単であったが、町を出て走った方向は北に向かってしまった。
町に入るのはマルクト広場を目指せば良いから、比較的迷うことが無いが、町の外に出て、次の目的地に向かうのはナビが無いと、いつもまごついてしまう。
写真はFritzlarフリッツラー:旧市街の中心に聖ペーター教会が見える。 -
途中で戻ってやり直した。そんな次第で普段の倍の距離37kmを走って、Bad Wildungenバート・ヴィルドゥンゲンの町に着いた。
ヘッセン州の北部、メルヘン街道上のKasselカッセル(グリム兄弟博物館がある)から南西に40km程行くと、Kellerwaldケラーの森の東に保養地バート・ヴィルドゥンゲンの町がある。人口17千人。
木組みの家並みが美しい旧市街や50haという広大なクアーパークがあると云う。
写真はBad Wildungenバート・ヴィルドゥンゲン:俯瞰と紋章 -
ホムベルク(山)の東に広がるこの町は温泉を有する小都市である。
城と向かい合う丘に出来た。
写真はBad Wildungenバート・ヴィルドゥンゲン:1655年メリアン銅版画 -
写真はBad Wildungenバート・ヴィルドゥンゲン:1925年頃
右手前方にSynagogeシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)、
中央にStadtkirche町教会、
その向背の山上にSchloss Friedrichsteinフリードリヒシュタイン城
が見られる。 -
イチオシ
<Bad Wildungenバート・ヴィルドゥンゲン>
15:25~16:25
2012年の旅行記にマイン川に沿った町“Lohrロアーの白雪姫伝説”について書いた事があったが、行程を調べていて、あの時に知った白雪姫伝説がある町の一つが、ここバート・ヴィルドゥンゲンだと気付いた(後述)。
http://www.bad-wildungen.de/
旧市街の中心は小高い丘の上にある。丘を取り巻くように道があり、多分かつての要塞都市の濠を埋め立てのだろう。少し街中に入り、道路際にある駐車区域に車を止めた。1時間の駐車券をEuro0.5払って、木組み建築の家並みが美しい旧市街に向かった。中央通りと思しきBrunnenstrasse泉通りを歩いて登って行く。
写真はBad Wildungenバート・ヴィルドゥンゲン:Marktplatzマルクト広場・Brunnenstrasse泉通りには右に Loewen Apothekeレーヴェン(ライオン)薬局、左に市庁舎、中央に泉がある。 -
写真はBad Wildungenバート・ヴィルドゥンゲン:天気の良い日のマルクト広場・泉通りには右に レーヴェン(ライオン)薬局、中央に泉、その先に市庁舎、市教会が見える。
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写真はBad Wildungenバート・ヴィルドゥンゲン:泉通り
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旧市街の中心にプロテスタントの市教会がある。この教会は14世紀の後期ゴシック様式のホール式教会である。
この横丁を上がる。
写真はBad Wildungenバート・ヴィルドゥンゲン:泉通り・Kirchplatz教会広場の角に小さな家もあり、裏手に教会の塔が見える。 -
写真は少々ボケてしまい、残念だったので、次に拡大版を。
写真はバート・ヴィルドゥンゲン:ヴィルドゥンゲンの教区教会のためにConrad_von_Soest_コンラート・フォン・ゼストが描いた祭壇(1404年)が教会内にある。 -
写真はバート・ヴィルドゥンゲン:Conrad_von_Soest_コンラート・フォン・ゼストの祭壇(拡大)
この祭壇は三幅対であり、大きな中央部と、小さな両翼からなっている。ここにはキリストの生涯から13の場面が描かれている。4つが幼少期、4つが受難の物語、4つが復活祭後のできごとである。中央は、感銘深いカルヴァリの丘での磔刑の場面で、4つの小さな絵に囲まれている。祭壇は開くと幅6m の大きさがある。(Wiki) -
<Graf Josias Ⅱ. von Waldekヨシアス2世・ヴァルデック伯の墓碑>
(神聖ローマ帝国軍の将軍、1636年~1669年・クレタ島で戦死)
市教会内に1674年にHeinrich Papenハインリヒ・パーペンによって作成された、巨大なAlabaster und Marmorアラバスター(方解石)と大理石の墓碑を見ることができる。
高さ10m、幅6mのもので、墓碑にはキリスト教徒とイスラム教徒の間の*戦闘シーンが描かれ、死せるJosias von Waldeckヨシアス・ヴァルデック伯爵の姿を見守るように左右にドイツの銃兵、騎兵将校の2人、トルコ人2人が等身大の姿で立っている。
写真はBad Wildungenバート・ヴィルドゥンゲン:Grabmal des Grafen Josias 2. von Waldek(1636年~1669年クレタ島で戦死)ヨシアス2世・ヴァルデック伯の墓碑 -
*オスマン・トルコの拡張主義政策は16・17世紀にはオーストリア(ハプスブルク帝国)との恒常的な抗争をもたらすことになった。
帝国陸軍将校として、ヨシアス2世・ヴァルデック伯は 1663年~1664年 の墺土戦争(おうとせんそう:オーストリア(ハプスブルク帝国)とオスマン・トルコ帝国の戦争)に従軍し、ハンガリーのペーチ(ドイツ語はFuenfkirchenフュンフキルヘン)で敵の矢を受けて重傷を負った。
1663年の下半期から1664年の上半期にかけて、この連合軍はオスマン軍が征服した地域を取り戻したほか、オスマン側の物資供給ラインを断ち、オスマン帝国がハンガリー国内に保有するいくつかの要塞を奪取した。
1664年8月1日、ハンガリーとハプスブルクの「キリスト教」連合軍は、セントゴットハールド戦でオスマン帝国に対し決定的な勝利をえた。
その後、1668年の晩秋、ヨシアス2世はオスマン帝国に対抗するクレタ島(ヴェネツィア共和国の前線基地・植民地)を支援するべく、リューネブルク軍(ブラウンシュヴァイク・リューネブルク公国)3300名を率いて、ヴェネツィアに向かうこととなった。
1669年3月28日、ヨシアス2世はついにヴェネツィアに向け出帆し、5月12日にはクレタ島に上陸した。
7月6日のCandia カンディア(クレタ島の首都)の最後の包囲戦で、ヨシアス2世 は手榴弾の破片で重傷を負い、7月29日に戦死した。
ヨシアス2世の遺体は当初、カンディアの聖カタリナ教会に埋葬され、その後、1962年にKloster Marienthal (Netze)マリエンタール修道院(ヴァルデック町)に最後の休息場所を得た。
1648年5月1日から1669年9月4日、21年という歴史上最も長期に渡る包囲戦で、3万人の「キリスト教」連合軍兵士が、12万人のイスラムのオスマン・トルコ軍兵士が倒れたと云う。
(2019年4月13日訳・編集)
写真はBad Wildungenバート・ヴィルドゥンゲン:クレタ島Candiaカンディアの包囲戦1669年 -
バート・ヴィルドゥンゲンでは魔女狩りに由って、 78 人がその犠牲となった。
当時ヴィルドゥンゲンの人口は 1,200 人であった。これには3回の波があり、1532年、1629年から1631年、1650年から1664年である。
教会の壁に魔女狩り記念碑があると云う。
写真はBad Wildungenバート・ヴィルドゥンゲン:Hexenverfolgerinnerung魔女狩り記念碑 -
写真はBad Wildungenバート・ヴィルドゥンゲン:Brunnenstrasse泉通りは上り坂だ。
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ヴァルデック地方の名物料理は、シェッパーリンゲと呼ばれるジャガイモを使ったパンケーキである。この料理はバート・ヴィルドゥンゲンでは伝統的に、ベーコン、玉葱、濃いコーヒーと共に出されると云うが、食べるチャンスが無かった。
写真はBad Wildungenバート・ヴィルドゥンゲン:Brunnenstrasse泉通りには右に Loewen Apothekeレーヴェン(ライオン)薬局、中央に泉がある。 -
イチオシ
参考;Schloss Friedrichsteinフリードリヒシュタイン城
旧ヴィルドゥンゲン城は12世紀にヴィルドゥンゲン伯が303mの高台に建てたものである。13世紀にはヴァルデック伯により買いとられたたが、18世紀になって、フリードリヒ・ヴァルデック伯が大改築を行い、自らの名を付けてフリードリヒシュタイン城となった。
同家の所有は第一次大戦まで続いた。
写真はBad Wildungenバート・ヴィルドゥンゲン:Schloss Friedrichsteinフリードリヒシュタイン城フリードリヒシュタイン城 城・宮殿
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現在は州立博物館(軍事と狩猟)・レストランとなっている。
開館;火~日10~17
バート・ヴィルドゥンゲン町から、通りを隔てた高台に立つ姿を見ただけだったが、遠目にも中々の城であることが分かる。
http://www.museum-kassel.de/index_navi.php?parent=1061
写真はBad Wildungenバート・ヴィルドゥンゲン:Schloss Friedrichsteinフリードリヒシュタイン城 -
<Hessisches Berglandヘッシシェス・ベルクラント>
白雪姫伝説の地、赤ずきんちゃんのグリム童話の主人公が登場する地方は森や牧場、小沼が至る所にあり、木組み建築の家並みや堅固な城館が高台に聳え、メルヘンの舞台そのままである。
地元名物料理はヴェッケヴェルクというソーセージ料理。
≪白雪姫伝説:ヴァルデック伯の娘マルガレータ姫≫
フリードリヒシュタイン城の城主Graf Philipp IV. von Waldeckヴァルデック伯フィリップ4世には美しいGrafentochter Margaretha von Waldeckマルガレータ姫と、厳格な継母(カタリーナ・フォン・ハッツフェルト)がいました。
白雪姫伝説はバート・ヴィルドゥンゲンのWikiには特に書かれていない。
別の資料に16世紀、城主ヴァルデック伯フィリップ4世はシュマルカルデン戦争でカール5世に捕らえられたヘッセン方伯フィリップの釈放を求め、方伯の身代りに自らの娘マルガレータ姫を差し出したと云う。
マルガレータ姫はその後、ベルギー・ブリュッセルに送られ、同地で身体を壊し、1554年、21歳という若さで亡くなってしまった。
(実家の資料によると毒殺であったと云う)。
毒殺されたマルガレータ姫の髪はブロンドであったそうで、グリム童話の初期の版では白雪姫の髪はgelb黄色 であった事とも符合し、「白雪姫」のモデルになったとされている。
写真はBergfreiheitベルクフライハイトの白雪姫と7人のこびとの像 -
≪BergfreiheitベルクフライハイトのSchneewittchendorf白雪姫の村≫
保養地バ-ト・ヴィルドゥンゲンの町から南に12km下ると、人口340人の小村ベルクフライハイトに着く。
かつて採鉱場があり、16世紀の半ばから銅を採鉱し、最盛期には1000人以上の鉱員が働き、中には子供たちも狭い坑道に適していたことから、大勢が働いていたそうである。1590年に坑道が崩壊し、鉱山は廃鉱になった。この子供たちを後世の人は小人として、マルガレータ姫の白雪姫伝説につなげたようだ。
Kellerwaldケラーの森にある牧歌的な「白雪姫の村」では、屋外舞台でメルヘン劇を観覧し、木組みの家「Schneewittchenhaus白雪姫の家(1736年建設)」もあり、7人の小人が働いていたと云うBergbau鉱山も見学できると云うが、ここには行けなかった。
http://schneewittchendorf.com/index.htm
写真はBergfreiheitベルクフライハイト:Bergwerk鉱山跡 -
写真はBergfreiheitベルクフライハイト:Schneewittchenhaus「白雪姫の家」
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バート・ヴィルドゥンゲンの町から18kmでWaldeckヴァルデックの町に入り、高台の古城ホテル ヴァルデック城の道は直ぐ分った。
坂を登り、16時40分に到着した。
まだ、4台ほどの車が駐車していただけだったが、夕食時には駐車場はいっぱいになった。結構値段の高い古城ホテルだが、人気があるようだ。
写真はBad Wildungenバート・ヴィルドゥンゲンとWaldeckヴァルデック一帯の地図 -
この地の要害さは格別で、中世の戦いの攻防を前提にすると、ベストな場所にあると思う。ヴァルデック城の築城伝説が残されているのも尤もな事と思われる。
時代も経ると、日本の城もそうですが、山上から平野部に降りて、宮殿のような豪華な住居を設営するという風になっていきますが、古城好きでしたら、是非、ここの眺望を楽しんで頂きたいものだ。ここには車で来るのがベストで、日本人観光客には無理があるようですが・・・。
写真はSchlos Waldeck:山上の古城ホテル ヴァルデック城Hotel Schloss Waldeck ホテル
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写真はWappen_Waldeckヴァルデック・ピルモント侯爵家の紋章
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古城ホテル自体は以前とは大きく変って、大改装によって、520号室(5階)の中はとてもモダンなものになっていた。古城ホテルのイメージが強かった私共には、少し違和感を覚えたものです。
写真は古城ホテル ヴァルデック城:520号室(5階) -
<(2泊)②③ Hotel Schloss Waldeck古城ホテル ヴァルデック城>
3番目の城
D-34513 Waldeck 、Schloss Waldeck 1
Tel. : +49 (0)5623 - 589-0、Fax : +49 (0)5623 - 589-289
http://www.schloss-hotel-waldeck.de/
http://www.waldeck-stadt.de/
Komfort DZ mit Seeblick湖の眺望可の520号室(5階)。
Euro198x2=396+Kurtax4=Euro 400(54,462円)
室料はEuro198x2(朝食込み)=Euro396。
夕食は19時に予約済みでHalbpensionハルプペンジョン方式(朝・夕食付き)を利用した。
15日は3品、Euro30x2=60、16日は4品、Euro40x2=80。
これにKurtaxがEuro1x4=4を加え、総計Euro540となる。
写真は古城ホテル ヴァルデック城:520号室(5階) -
イチオシ
古城ホテル ヴァルデック城は4星S・全42室と、そこそこ規模もある。
かつて駐在中に一度立ち寄った事があるが、宿泊は初めてなのだ。漸く、念願の古城ホテルに2日間滞在する。
唯、思っていた以上に数年前の改装は大々的だったようで、そこかしこがモダンになっていた。部屋は湖側であったものの、スイートとは違って、その眺望は完璧なものではなく、室内はCity-Hotelのように立派なものでした。
5星ホテルのように立派なロビー、モダンなレストラン、浴用ガウン・スリッパと実に良く配慮されたものでしたが、古めかしい古城ホテルの興趣を喜ぶ立場からすると、私には少々納得できないものでした。
写真は古城ホテル ヴァルデック城の様子:中央奥に時計塔(古い塔の時計)が見えるが、その後ろにある建物が夕食用のレストラン棟です。 -
ヘッセン州カッセルから南西に60km程の距離、フランクフルトからの距離は160kmと車で来るには適度な距離である。
ヴァルデックの町は自然保護区(Kellerwald-Ederseeケラーの森・エーダー湖)の北部にある。森に囲まれ、エーダー湖を目の前にする保養地として、ドイツ国内でも人気も高いと云う。
山上に勇壮な姿を見せる強固な石造りの古城はドイツでも最古の1906年創業の古城ホテルである。逆に古城ホテルから眼下に見下ろす景観も素晴しく、広大なエーダー湖、周辺は森、森と緑いっぱいの景観は実に見事で、秋の訪れ、冬の雪景色も想像するに見事なものであろう。
中庭を取り囲む古城の外観や中世当時に使用した120mの井戸、魔女の地下牢、城内博物館があり、Alte Turmuhrアルテ・ツルムウーア(古い塔の時計)と言うメインレストランも立派だ。朝食・喫茶用のCafe & Restaurant Altaneアルタネ、テラスレストランがある。
写真は古城ホテル ヴァルデック城の大砲は湖に向いている。右手の1階に博物館、土産物店、2階に朝食・喫茶用レストランがある。 -
イチオシ
ヴァルデック城の歴史:
この山城について歴史資料で初めて言及されたのは1120年であるが、ヴァルデック城は1178年にGrafen von Waldeckヴァルデック伯の居城として築城され、1650年までヴァルデック伯家が所有した。
その後は城主が交代する毎に度々改築・増築を繰り返した。ヴァルデック伯がその居城をBad Arolsenバート・アロルゼンに移した後、城は要塞となって、城塞司令官の居城となる。
更には1734~1868年の間、女性刑務所に使用された。
1906年、古城ホテルを開業。2009年に新装なった古城ホテルが再開した。
写真は古城ホテル ヴァルデック城:土産物店の魔女の人形たち -
眼下に見えるのはEderseeエーダーゼーで、エーダー湖は1908~14年に川を堰き止めて造られた人造湖であり、湖面から425mに立つ山城のヴァルデック城は巨大ですごい。
エーダー川は全長177kmの川でフルダ川の支流である。ケラーヴァルト・エーダーゼー自然公園の中心でもある。
写真は古城ホテル ヴァルデック城からの眺望 -
イチオシ
夕食前の時間に眺望テラスに出て、曇り空でしたが、秋景色を楽しみました。
写真は古城ホテル ヴァルデック城からの眺望 -
<夕食:古城ホテル ヴァルデック城Alte Turmuhrアルテ・ツルムウーア(古い塔の時計)>
19:00~20:30
3品メニューEuro30X2+飲み物39.7=99.7(13,406円)
アルテ・ツルムウーア(古い塔の時計)と言うメインレストランにて、3品料理を食べた。
飲み物は辛口のSandemanシェリーと、ワインは0.2LのグラスワインVolkacher Ratherrフォルカッハ参事会員というフランケンワインにした。
写真は古城ホテル ヴァルデック城:レストランalte-turmuhr古き時計塔 -
3品は最初にシェフのご挨拶が出て、
①スープ:ポルチーニ(ヤマドリダケ)のスープ。
写真は古城ホテル ヴァルデック城:レストランalte-turmuhr古き時計塔 -
②メイン:魚好きの家内はスズキ(鱸)Loup de merルー・ド・メール、赤のビーツとジャガイモ添え。
肉好きの私は鹿肉の背肉料理、アンズダケのソースかけ、チリメンキャベツ、自家製シュペッツレ添え。
写真は古城ホテル ヴァルデック城:レストランalte-turmuhr古き時計塔 -
③デザート:バニラアイスにイチゴのマリネ、ミントとクルミのペースト。
郷土料理はそれらしく全体に少々味付けが濃かったが、しっかり食べた。
食事から帰ると、満腹と共に一気に疲れが出て、そのまま零時まで寝てしまった。
旅の初めはいつもこうなるのだが。
それから入浴して、資料の整理をし、再び2時に寝た。
それでも翌朝はまた5時に目が覚めてしまった。
写真は古城ホテル ヴァルデック城:レストランalte-turmuhr古き時計塔 -
写真はヴァルデック・ピルモント侯爵家一族の古城群:
Waldeck:Schloss Waldeckヴァルデック城(前述) -
ヴァルデック伯がその居城を現在のBad Arolsenバート・アロルゼンに移したそうです。
1712年、ヴァルデック伯はFuerst von Waldeck-Pyrmontヴァルデック・ピルモント侯爵に叙任され、アロルゼンの城をヴェルサイユ風の宮殿に改築・増築した。
Fuerstliches Residenzschloss Arolsenアロルゼン侯爵家の宮殿には侯爵家の子孫、ヴァルデック・ピルモント侯爵の未亡人の子供が、いまだに住んでいます。
ドイツの古城の城主には何百年と続く家系がしばしば見られます。
写真はヴァルデック・ピルモント侯爵家一族の古城群:
Bad Arolsen:Residenzschlossバート・アロルゼン:レジデンツシュロス -
写真はヴァルデック・ピルモント侯爵家一族の古城群:
Bad Pyrmont:Schloss Pyrmontバート・ピルモント:ピルモント城
16世紀に発見された奇跡の湯は今は伝統的な温泉保養地になっている。
この地にヴェーザールネサンス様式で建てられた城は30年戦争で破壊されたが、18世紀になりバロック古典主義様式で、ヴァルデック・ピルモント侯Anton Ulrichアントン・ウルリヒの居城として再建された。
現在は市と温泉の歴史博物館となっている。 -
写真はヴァルデック・ピルモント侯爵家一族の古城群:
Bad Wildungen:Schloss Friedrichsteinバート・ヴィルドゥンゲン:フリードリヒシュタイン城(前述参照) -
写真はヴァルデック・ピルモント侯爵家一族の古城群:
Landau(Bad Arolsen):Schloss Landauランダウ(バート・アロルゼン):ランダウ城
バート・アロルゼンの北部にあたる一地区ランダウに13世紀の城郭があった場所に新たに1330年頃、Graf Heinrich IV. von Waldeckハインリヒ4世・ヴァルデック伯により城に改築された。
時代を経て農業学校、老人ホームなどに利用されてきたが、2015年からホテル経営者が城を購入し、ホテルやセミナー等に利用する施設に改装、改築された。
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