2018/05/10 - 2018/05/24
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jijidarumaさん
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≪2018年ドイツの春:フランケン地方・オーバープファルツ地方の旅≫
2018年5月10日(木)~5月24日(木)15日間
目的地:バイエルン州フランケン地方・オーバープファルツ地方を中心に巡る。
(ニュルンベルクを中心としたFrankenフランケン地方、レーゲンスブルクを中心としたOstbayern東バイエルンのOberpfalzオーバープファルツ地方)
①5月10日Spessartシュペッサート地方の選帝侯の古城ホテル ヴァイバーヘーフェに泊まる
②5月11日ウンターフランケン地方の要塞都市デッテルバッハ
③5月11日リーメンシュナイダーの傑作マリア巡礼教会にある“ぶどう園のマリア”とマイン川の蛇行
④5月12日フランケン・スイス地方の古城群:ドイツの英雄クラウス・シュタウフェンベルグ大佐ゆかりの城を訪ねる。
⑤5月13日フランケン・スイス地方の古城群:出くわした30年戦争時のツワモノども
番外編・フランケンの春、オースターアイ(復活祭の飾り卵)が見られる町や村を巡った。
⑥5月13日フランケン・スイス地方の古城群:人気の古城ホテル ラーベン(カラス)シュタイン城に2泊
⑦5月14日フランケン・スイス地方の古城群:100mの高さの岩壁に立つ古城エグロフシュタイン城の姿は絵画的な美しさである。
⑧5月15日懐かしの古城ホテル ヴェルンベルク城とアザム兄弟の作品が見られるミッシェルフェルト修道院
番外編・伝説:アッシジの聖フランシスコがグッビオの町を狼から救った話
⑨5月15日この旅一番のグルメレストラン・白樺の館(カワセミ)にて
⑩5月16日レーゲンスブルクの名物焼きソーセージとダンプヌーデルン
番外編・三十年戦争の逸話:フォルヒハイムの“Mauerscheisser” (壁のような糞をする奴!)
⑪5月17日:ナポレオンが置き忘れた旅行カバンが見られるドナウ観光船に乗る。
⑫5月17日:ローゼンブルク城の上空を舞う鷹たちの飛翔がすごい
⑬5月17日:40代の頃、家族で一泊した懐かしの古城ホテル エッガースベルク城
⑭5月18日:要塞都市ベルヒングと古城ホテル アルンスベルク城
⑮5月18日:要塞都市バイルングリースの旧市街、整然とした家並み、市城壁、塔を歩いてみるのは楽しい。
⑯5月19日:宗教都市アイヒシュテットと聖ウィリバルド・聖ウィニバルド・聖ヴァルブルガの3兄妹
⑰5月19日:英雄の城パッペンハイム城とローマ軍団の宝物が発掘された要塞都市ヴァイセンブルク
写真は“Weissenburger Schatzヴァイセンブルクの宝物“:人面マスク(ブロンズ)
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 交通手段
- レンタカー
- 航空会社
- JAL
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
5月19日(土): 晴れ、夕立あり、 19℃、 122km
Eichstaettアイヒシュテット ->L? 45km Burg Pappenheimパッペンハイム城 ->L? ・B13 16km Weissenburgヴァイセンブルクin Bayern ->L? 7km Ellingenエリンゲン ->L? 18km Heideck ・Hotel Schloss Kreuthホテル シュロス クロイトに17:10に到着。村のレストラン往復4km。
写真はBurg Pappenheimパッペンハイム城_Anfahrtアクセスマップ -
アイヒシュテットを離れて、アルトミュール川沿いの道を避けて、山間の道を走って古城Burg Pappenheimパッペンハイム城に向かう。それでもカーブの多い道は意外に45kmと距離があり、途中のパークで小休止をとったりしながら走ったので一時間ほどかかった。
写真はDEU_Pappenheim_COA_svgパッペンハイムの紋章 -
パッペンハイムは小さい町、山麓の駐車場に車を置き、城までの山道を登った。
上にあがってみると十分なスペースの駐車場もあり、何やら汗の分を損した気分になった。
写真はBurg Pappenheimパッペンハイム城の遠望 -
<Burg Pappenheimパッペンハイム城>
D-91788 Pappenheim 、Marktplatz 5
http://grafschaft-pappenheim.de/
13:20~14:20 入場券Euro4X2=8
見学時間は3月24日から11月4日の火~日、10時から17時までである。
写真はBurg Pappenheimパッペンハイム城の俯瞰 -
パッペンハイム城は「アルトミュールの宝石」と謳われている。
小さいながらも魅力的な町(人口4千人)の高台に立つパッペンハイム城は、アルトミュール川が蛇行し、絵のような景色を見せるパッペンハイムの旧市街上に君臨している。
写真はBurg Pappennheimパッペンハイム城のパンフレット -
写真はアルトミュール川が城郭の周辺を蛇行し、その高台に立つBurg Pappenheimパッペンハイム城のBurgplan縄張り_2018
-
意外にもこの城は知られているようで観光客も多く、団体も来ているようだ。
チケット売り場で日本人の若いご夫婦にばったり遭った。ニュルンベルク在住の若夫婦は今日、そこからドイツ人たちとツアーでやって来たと言う。
私共にとって、この旅最初の日本人だ。
写真はパッペンハイム城・Schalentuerme茶碗のような塔の名がある -
シュタウフェン朝の古城パッペンハイムは一の丸、天守閣、本丸とあり、城郭全体は300mの長さがある。
写真はパッペンハイム城・Vorburgmauer一の丸の城壁 -
この城は神聖ローマ帝国の陸軍元帥であったGrafen zu Pappenheimパッペンハイム伯の先祖代々の居城でした。
今は一部、城址になっているが、城壁、天守閣、一の丸のゴシック様式の建物は昔のままの姿を残している。
写真はパッペンハイム城・Vorburgtor一の丸の城門・・・左奥に天守閣、左の建物はZeughaus兵器庫(今はこの城の歴史の展示場)、右の建物は礼拝堂、紋章の間がある。 -
見学はチケット売り場から外堀の橋を渡り、一の丸の城門入口から城郭内に入る。右に礼拝堂(1階)、紋章の広間(2階)の建物がある。
左にパッペンハイム伯家の歴史博物館(1階:30年戦争など)、祖先の広間(2階)があるZeughaus武器庫である。
紋章の広間、祖先の広間はいずれも結婚式や各種の催しに利用できるスペースがある。
写真は歴史博物館のパッペンハイム城の模型 -
武器庫の地下には拷問道具が置かれたFolterkammer拷問室(牢獄)があり、対面の建物には町の結婚届所(2階)、ヴィデオルーム(1階)、右手奥にはブルクシェンケ(軽食所)があった。こちらの城壁下は広い馬場で馬上試合が行われるのだろう。
写真はZeughaus武器庫・Folterkammer拷問室(牢獄) -
写真はFolterkammer拷問室(牢獄)
-
イチオシ
更に本丸に内堀の橋を渡って進むと、目の前に天守閣が立つ。
宮廷を中心に幾つかの建物が並び、中には城内井戸が当然のごとく備わっている。その先は2つの火薬蔵塔が立ち、城郭の先端には珍しいことだが個人所有の家もあった。
写真は内堀の橋を渡ると天守閣 -
一の丸、本丸も城壁や内堀に周囲を囲まれているが、本丸は二重の城壁の構えである。
更に本丸下の先に見えるアウグスティナー僧院、その前に増築された部分はNATUR- & JAGDMUSEUM自然・狩猟の小博物館を建てたそうだが、ここまでは足をのばさなかった。
ここでも季節に応じて中世の城祭り、騎士の馬上試合が行われ、700種の植物園も見ることができるそうだ。
写真は城郭の先端に立つ個人所有の家、この下は旧市街だ -
さて、パッペンハイム伯の家系で最も有名なのはGottfried Heinrich Graf zu Pappenheimゴットフリート・ハインリヒ・パッペンハイム伯(1594~1632年)です。
彼は数々の戦場に赴き多くの傷を負った事で"Schrammhans「シュラム(傷跡がある)ハンス」"と異名で呼ばれた。
写真はパッペンハイム城・Zeughaus兵器庫の展示・・・三十年戦争を中心にした歴史博物館 -
ゴットフリート・パッペンハイム伯は30年戦争でも名将Albrecht Wenzel Eusebius von Wallensteinアルブレヒト・ヴェンツェル・オイゼービウス・フォン・ヴァレンシュタイン将軍の下で度々戦った。
写真はパッペンハイム城・"Schrammhans「シュラム(傷跡がある)ハンス」"と異名で呼ばれたGottfried_Heinrich_von_Pappenheimゴットフリート・ハインリヒ・パッペンハイム伯 -
ヴァレンシュタイン将軍(1583~1634年)は、30年戦争時代のボヘミアの傭兵隊長である。
神聖ローマ帝国の皇帝フェルディナント2世に仕えて、帝国大元帥・バルト海提督・フリートラント公爵となって位人臣を極めたが、後に皇帝の命令で暗殺された。
写真はパッペンハイム城・Albrecht_von_waldsteinアルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタイン将軍 -
1632年11月、ヴァレンシュタインの皇帝軍(旧教)はスウェーデン軍を中心としたプロテスタント(新教)軍と、ドイツのライプツィヒ南西リュッツェン(Schlacht bei Luetzenリュッツェンの戦い)で激突した。
写真はパッペンハイム城・Schlacht bei Luetzenリュッツェンの戦い -
写真はパッペンハイム城・Schlacht bei Luetzenリュッツェンの戦い:1632年11月16日の両軍の布陣。
北側が皇帝軍、南側がプロテスタント軍。 -
この戦いでゴットフリート・パッペンハイム伯は重傷を負い、ライプツィヒに運ばれるも同地で死去した。
この激戦で敵のスウェーデン国王Gustav II Adolfグスタフ2世アドルフも戦死している。
写真はパッペンハイム城・Schlacht bei Luetzenリュッツェンの戦いでスウェーデン王グスタフ・アドルフ2が戦死の絵 -
(リュッツェンの戦いと戦死)
午後2時、パッペンハイム率いる騎兵隊が戦場に到着、劣勢に陥っている皇帝軍左翼を援護するために、プロテスタント軍右翼に向けて突撃した。
これを見たヴァレンシュタインは「あれぞ我らがパッペンハイムだ!」と叫んだ。パッペンハイムは5度にわたって突撃を敢行し、プロテスタント軍の攻勢を頓挫させて、皇帝軍左翼の劣勢を立て直すことに成功した。しかし、プロテスタント軍右翼は堅固であり、これを撃破することまではできなかった。
午後3時、五度目の突撃の際にパッペンハイムが銃弾を受けて負傷し、後方(ライプツィヒ)に送られると、騎兵の突撃は停止した。
パッペンハイムは戦傷がもとで、翌17日に死亡した。
写真はパッペンハイム城・Zeughaus兵器庫の展示:Schlacht bei Luetzenリュッツェンの戦いの再現・・・錫人形たちの突撃 -
この頃にはグスタフ・アドルフ戦死の噂が戦場を駆け巡り始めていた。プロテスタント軍は一時的なパニックに陥り、前線の部隊は後退しようとした。
壊走の一歩手前の状態だったが、序列三位の指揮官であるクニップハウゼンが冷静になるよう全軍に呼びかけ、崩壊を防ぐことに成功した。
午後3時、序列二位の指揮官であるベルンハルトはグスタフ・アドルフの死を知り、全軍に指揮権の掌握を宣言した。スウェーデン宰相であるオクセンシェルナも、直ちにベルンハルトを補佐し戦闘を継続させた。
ベルンハルトは指揮権を継承し、皇帝軍を撤退に追い込んだ。
写真はパッペンハイム城・Zeughaus兵器庫の展示:Schlacht bei Luetzenリュッツェンの戦いの再現・・・錫人形たちの突撃 -
午後4時、プロテスタント軍は最後の突撃に移った。ベルンハルトはグスタフ・アドルフの死を全軍に伏せていたが、おそらく指揮権が移動した時点で大半の将兵は王の死を悟っていたと思われる。
プロテスタント軍はグスタフ・アドルフの仇をとるべく猛烈な勢いで突撃を仕掛けた。皇帝軍もこれに応戦し、両軍ともに多大な死傷者を出した。
しかし、最終的にはプロテスタント軍の勢いが勝り、皇帝軍を圧倒して中央陣地を制圧し、全ての大砲を奪い取った。
左翼、右翼も同様な状況であり、士気の衰えた皇帝軍は全戦線で後退した。
写真はパッペンハイム城・Zeughaus兵器庫の展示:Schlacht bei Luetzenリュッツェンの戦いの再現・・・錫人形たちの突撃 -
午後6時、パッペンハイム軍の後続の歩兵約3000-4000が戦場に到着した。すでに日は落ちて、敵味方の識別が困難になっていたため、ヴァレンシュタインは彼らを戦闘に参加させなかった。この頃には、同様の理由からプロテスタント軍も攻撃を停止していた。
翌17日早朝、ヴァレンシュタインはパッペンハイム軍の歩兵に後退の援護をさせ、全軍にライプツィヒまで撤退するように命じた。整然とした撤退につけ入る隙を見つけられず、また一時の勢いも失われていたため、プロテスタント軍は追撃をしなかった。
こうしてリュッツェンの戦いは終わった。皇帝軍が撤退すると、プロテスタント軍はグスタフ・アドルフの遺体を探した。
王の遺体は、折り重なった遺体の間から発見された。
写真はパッペンハイム城・Zeughaus兵器庫の展示:Schlacht bei Luetzenリュッツェンの戦いの再現・・・錫人形たちの突撃 -
この戦闘における両軍の死傷者および行方不明者は9000名を超えた。皇帝軍は戦場に全ての大砲を残したまま撤退し、プロテスタント軍はそれらを捕獲した。
戦術的に見れば、皇帝軍の陣地を制圧し、全ての大砲を奪い、さらに撤退に追い込んだという点でプロテスタント軍の勝利といえる。戦略的に見ても、この後間もなくヴァレンシュタインはライプツィヒから撤退してボヘミアへ移動したため、ザクセンを脅威から救ったという点でプロテスタント軍の勝利といえる。
しかしながら、そのためにプロテスタント軍が払った代償は大きなものだった。死傷者数を比べれば、約3000名の皇帝軍に対し、プロテスタント軍は2倍の約6000名を失っていた。
特にスウェーデン軍中央の損害が大きく、第一列に配置されていた青色連隊、黄色連隊は兵員の三分の二以上が死傷したとされている。両部隊は古参の傭兵で構成されており、スウェーデン軍の中核でもあったため、その損失は必然的に戦力の低下を招いた。
・・・・・
文豪シラーはその作品"Wallensteinヴァレンシュタイン"を通じて、パッペンハイムの名前を有名にした。
写真はパッペンハイム城・ウイーンHeeresgeschichtliche Museum軍事史博物館にあるFeldherrenhalle将軍ホールの立像 -
また、ゴットフリート・パッペンハイム伯はウイーンHeeresgeschichtliche Museum軍事史博物館にあるFeldherrenhalle将軍ホールの立像56体の一つとして展示されている。
オスマン帝国軍の第二次ウイーン包囲戦で活躍したPrinz Eugenプリンツ・オイゲン公や、「帝国の盾」と称されたルートヴィヒ・ヴィルヘルム ・バーデン・バーデン辺境伯らと共に、英雄としてオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に依って選ばれている。
写真はパッペンハイム城・・ウイーンHeeresgeschichtliche Museum軍事史博物館にあるFeldherrenhalle将軍ホールにあるゴットフリート・パッペンハイム伯の立像 -
イチオシ
そしてパッペンハイムの町にもまだ新しいゴットフリート・パッペンハイム伯の像が立っていた。
・・・・・
写真はパッペンハイムの旧市街の中央に立つゴットフリート・パッペンハイム伯の像 -
パッペンハイムから次の町は近く、16km走ると帝国自由都市であり、ローマ軍団の宝物が発掘されたと云う、しかも要塞都市でもあるWeissenburgヴァイセンブルクになる。
写真はローマの町Weissenburgヴァイセンブルク_独特のRoemermaskeローマ人のマスク -
ヴァイセンブルクはB13で南東から入る。
写真はWappen_Weissenburg_COA_svgヴァイセンブルクの紋章 -
南のRigstrasse周辺道路(かつての要塞都市の市城壁・掘割に沿って作られた道)を西に、ヴァイセンブルク駅の前を北に通ると、St. Andreas聖アンドレアス教会傍からマルクト広場に至る。
写真はWeissenburgヴァイセンブルクin Bayern市街図 -
<Weissenburgヴァイセンブルクin Bayern>
14:40~16:20
https://www.weissenburg.de/
ヴァイセンブルク一帯はアルトミュール川が造り出した渓谷の北端に当たり、Solnhofenゾルンホーフェン石灰岩の露頭が点在する。
人口18千人の小都市である。
写真は要塞都市Weissenburgヴァイセンブルクのパンフレット -
偶々青の家・ 薬局博物館の裏手の道に駐車スペースが空いていたので、これ幸いと停めて街歩きに出た。
写真はWeissenburgヴァイセンブルク: Plaz Am_Hof駐車したのは左手 -
<Historische Altstadt歴史に富んだ旧市街:帝国自由都市の歴史>
ヴァイセンブルクの旧市街には最も印象的なゴシック様式の旧市庁舎(1470~80年)、St. Andreas聖アンドレアス教会、Ellinger Torエリンガー門がある。
また、西の近郊に地域の記念碑的なものとしてローマの砦Kastell Biricianaカステル ビリシアナ(Limesリーメス:ローマ帝国の国境線に近い)がある。
この町は867年に初めてラテン語の文書に言及あり、カロリンガー朝の王宮が置かれ、その支配下にあったと云う。14 世紀初頭に帝国自由都市となり、1802 年まで続いた。
それからプロイセンの支配下に置かれ、1806年にはバイエルン王国に属した。
帝国自由都市は凡そ500年間維持され、皇帝にのみ従属していた。
写真はWeissenburgヴァイセンブルク:右手に市庁舎 -
現在、町の建造物は要塞都市の38の塔やエリンガー門の如く、最も繁栄した時代の象徴として、帝国自由都市博物館で見ることが出来る。また、歴史的景観はよく保存された市城壁で体現されている。
①ゴシック様式のReichsstaedtisches (Altes) Rathaus帝国自由都市の旧市庁舎
D-91781 Wei?・enburg i. Bay. 、Marktplatz 1
砂岩で作られた3階建ての市庁舎は町が最高に豊かな時期(1470~80年)に建設されたものである。
1階にはテラス、2階に参事会会員の部屋や裁判所が置かれていた。現在2階の自由見学は不可であり、テラスは文化的催しに利用されていると云う。
尚、マルクト広場に建てられたSchweppermannsbrunnenシュベッパーマンの泉と像は16世紀半ばに作られたもので、泉の名前の由来は古い伝説によるものだと云う。
以下は歴史に残る話である。
ハプスブルク家のFriedrich der Schoeneフリードリヒ美王は1313年にルクセンブルク家のハインリヒ7世が死んだ後、ヴィッテルスバッハ家のLudwig IV. der Bayernルートヴィヒ4世(ルドルフ1世の外孫でフリードリヒの従兄にあたる)と神聖ローマ皇帝位を争ったが、選挙でルートヴィヒ4世に敗れた。その後も数年間、弟レオポルトの助けを得てルートヴィヒ4世と戦い、勝利を目前としたが、1322年9 月 28日、Schlacht bei Muehldorfミュールドルフ近辺の戦いで大敗し、多くの貴族と共に捕虜となった。
この戦いで、ルートヴィヒ4世側についたニュルンベルクの傭兵隊長シュベッパーマンがヴァイセンブルク中隊を率いて、フリードリヒ美王軍に勝利した故事によると云う。
写真はWeissenburgヴァイセンブルク:マルクト広場の市庁舎とシュベッパーマンの泉 -
②Kaiser-Ludwig-Brunnen皇帝ルートヴィヒの泉
D-91781 Weissenburg i. Bay. 、Luitpoldstrasse
皇帝ルートヴィヒ(バイエルン)の泉は1903年、市民達により、感謝と敬意を示す泉が作られた。
皇帝ルートヴィヒは1338年、皇帝の森林を町に与え、現在のヴァイセンブルク所有森林の基礎を築いた。
写真はWeissenburgヴァイセンブルク:Kaiser-Ludwig-Brunnen皇帝ルートヴィヒ(バイエルン)の泉 -
<お昼:Lehner-Baeckレーナー・パン屋にて>
D-91781 Weissenburg in Bayern 、Luitpoldstr. 8
14:50~15:15 Euro7.9(1,058円)
写真はWeissenburgヴァイセンブルク: Lehner-Baeckレーナー・パン屋 -
遅い昼食ながら、市庁舎傍のパン屋でリンゴとオレンジのジュース各1本に、ソーセージ入りクロワッサン各1個を食べました。
写真はWeissenburgヴァイセンブルク:Lehner-Baeckレーナー・パン屋 -
イチオシ
③Blaues Haus青の家:Apothekenmuseum 薬局博物館(Einhorn一角獣薬局)
D-91781 Weissenburg i. Bay. 、Rosenstrasse 1 und 3
青の家はヴァイセンブルク市の旧市街にありバイエルン州の文化財(建造物)保護の対象となっている。
現在、“Einhorn-Apotheke一角獣(想像上の)薬局”と称する建物である。
青色で塗られた2階家はバラ通りの地番号1と3にあり、旧市庁舎に対面して立つ。
この家は1760年から67年にかけて、町や帝国の役人の為の住居として建てられた。
1799年以来、薬局となっている。地下に薬局博物館がある(外観だけしか見ていない)。
写真はWeissenburgヴァイセンブルク:Blaues Haus青の家 -
【ローマ帝国の国境線:Deutsche Limes-Strasseドイツ・リーメス街道】
リーメスの建設は1世紀末頃から始まり、目的としてはゲルマン民族の侵入からライン川・マイン川流域の肥沃な土地と通商路を守るためであった。
Deutsche Limes-Strasseドイツ・リーメス街道(2005年登録)
ドイツ最長の文化記念物として、「Hadrian's Wallハドリアヌスの長城(1987年登録;10年をかけて西暦132年に建設された。イングランド北部、スコットランドとの境界線近くにある。全長118km。)、及び「Antonine Wallアントニヌスの長城(2008年登録;西暦144年にスコットランドの中央部に石と土で作られたローマ時代の防塁である。全長60km)」と共に、世界遺産;ローマ帝国の国境線に一括登録されている。
ドイツのリーメスはライン川畔のコブレンツ近くの町Bad Hoenningenバート・ヘンニンゲンからドナウ川畔のRegensburgレーゲンスブルクに至るものである。
全長770kmの防衛線上には監視塔拠点900以上と、大小のKastell砦120を数えると云う。
各地には様々な規模の出城や防壁、防御柵、広い温泉施設、居住用建築物が見られる。
写真はWeissenburgヴァイセンブルク:ドイツ・リーメス街道・・・Karte_limesリメス・かつてのゲルマニクスの位置 -
*リーメスはローマ帝国の繁栄と衰退を象徴する文化的景観が評価され、2005年7月にイギリスのハドリアヌスの長城と共に「ローマ帝国の国境線」として、ユネスコの世界遺産に登録された。
Limesリーメスはローマ帝国時代の防衛システムであり、ローマ領の境界線を示すものであった。それはローマ帝国全土に張り巡らされていたが、世界遺産に登録されたドイツのリーメスがよく知られている。
リーメスはラテン語で境界を意味し、英語のLimitの語源でもある。かつてのローマ帝国の辺境防御施設の遺構は現在もドイツ各地に残っている。
写真はWeissenburgヴァイセンブルク:Limesstrasseリメス街道の標 -
参考:
<Kastell Biricianaカステル ビリシアナ>(時間が無くて見学せず)
D-91781 Wessenburg i. Bay. 、Am Rmerlager
ヴァイセンブルクの西の郊外にローマ軍団の砦Kastell Biricianaカステル ビリシアナ(Limesリーメスと呼ばれるローマ帝国の国境線に近い)がある。
写真はWeissenburgヴァイセンブルク:Kastell Biricianaカステル ビリシアナは町の近郊に左手の真四角の場所・・・右手には要塞都市ヴァイセンブルク -
西暦90年頃に最初の木造の砦が海抜415mの丘に築城された。規模は2.8haの広さだった。253年頃には砦は強化され石造りの3.1haと規模も大きくなった。
写真はWeissenburgヴァイセンブルク:Kastell Biricianaカステル ビリシアナの位置図(赤丸) -
それは2重の堀を掘削し、2階建ての双頭の城門を作り、城壁を張り巡らした。
発掘された碑銘から、当時の指揮官の名前と十数年の勤務期間などが知られている。およそ千人の兵を指揮していたと云う。
写真はWeissenburgヴァイセンブルク:Kastell Biricianaカステル ビリシアナの再現された模型 -
ローマ軍団の城砦はここを中心に、前方周辺にKastell Theilenhofen (西)、Kastell Ellingen (北)、Kastell Oberhochstatt(東)、Burgus Burgsalach (東)に配し、
後背地にKastell Munningen(西南西)、Kastell Faimingen(南西)、アイヒシュタットの近郊・Kastell Pfuenzプフュンツ砦(=Vetonianaヴェトニアーナ砦(南東)に備えとして配置していた事が分かっている。
写真はWeissenburgヴァイセンブルク:Kastell Biriciana_gateカステル ビリシアナの再現された城門 -
④Roemermuseum Weissenburgヴァイセンブルク・ローマ博物館
D-91781 Weissenburg i. Bay. 、Martin-Luther-Platz 3-5
https://museen-weissenburg.de/de/unsere-museen/roemermuseum
15:20~16:00 、 入場券Euro6X2=12(1,608円)
入場料:Euro 6,00 、開館時間:10時から17時まで、
⑤Bayerisches Limes-Informationszentrumバイエルンのリーメス情報センター
リーメス情報センターはローマ博物館の1階にある。
Der Obergermanisch-Raetische Limes (ORL) オーバーゲルマン・ローマのリーメスは550kmの長さのかつての国境線である。
その国境線はローマ帝国の外備えであり、ライン川とドナウ川間にあった。
入場料:無料 、開館時間:10時から17時まで、
写真はWeissenburgヴァイセンブルク:Roemermuseumローマ博物館 -
“Weissenburger Schatzヴァイセンブルクの宝物“は西暦250年、ゲルマン民族の襲来の頃、この地にあったローマの浴場近くで埋葬された宝物を発見したと云う。
1979 年初めに発見された宝物は”ヴァイセンブルクの宝物“と称され、ドイツにおける最高の発掘物となったと読んで、是非行きたい場所の一つだった。
この宝物を1980年にバイエルン州が買い取り、その後当地のローマ博物館に展示している。
写真はWeissenburgヴァイセンブルク:Roemermuseumローマ博物館 -
“ヴァイセンブルクの宝物“は期待したほどのものは無かったが、館内を見て回りながら、2008年4月に「かつてのバイエルン王国を周遊」した際、ヴァイセンブルクと同じようなローマ軍団の地Straubingシュトラウビングで軍団の発掘品(1950年)を見たことがある。
写真はWeissenburgヴァイセンブルク:Roemermuseumローマ博物館 -
Gaeubodenゴイボーデン(豊かな平原=肥沃な土地の意)博物館で展示されていたのは、金色に輝く、見事な古代ローマ人のマスクやローマ軍団の馬たちの馬飾りなどである。
写真はヴァイセンブルク:Roemermuseumローマ博物館 -
イチオシ
誰かと思ったら、元小泉首相に似ている(笑)。
写真はヴァイセンブルク:Roemermuseumローマ博物館・“Weissenburger Schatzヴァイセンブルクの宝物“:人面マスク(ブロンズ) -
次のマスクを拡大しようとしたら、ボケてしまった。
写真はヴァイセンブルク:Roemermuseumローマ博物館・“Weissenburger Schatzヴァイセンブルクの宝物“:人面マスク(ブロンズ) -
イチオシ
写真はヴァイセンブルク:Roemermuseumローマ博物館・“Weissenburger Schatzヴァイセンブルクの宝物“:ギリシャ人的な人面マスク(ブロンズ)
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イチオシ
写真はヴァイセンブルク:Roemermuseumローマ博物館・“Weissenburger Schatzヴァイセンブルクの宝物“: ローマの神々像
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写真はヴァイセンブルク:Roemermuseumローマ博物館・“Weissenburger Schatzヴァイセンブルクの宝物“: ローマの神々像
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写真はヴァイセンブルク:Roemermuseumローマ博物館・“Weissenburger Schatzヴァイセンブルクの宝物“: ローマの神々像
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写真はヴァイセンブルク:Roemermuseumローマ博物館・ “Weissenburger Schatzヴァイセンブルクの宝物“: ローマの神々像
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写真はヴァイセンブルク:Roemermuseumローマ博物館・“Weissenburger Schatzヴァイセンブルクの宝物“:怪力な勇者 Herkulesヘルクレス像
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写真はヴァイセンブルク:Roemermuseumローマ博物館。“Weissenburger Schatzヴァイセンブルクの宝物“: 商業の神Merkurマーキュリー
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写真はヴァイセンブルク:Roemermuseumローマ博物館・ ローマの飾り物
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Gaeubodenゴイボーデン(豊かな平原=肥沃な土地の意)博物館で展示されていたのは、金色に輝く、見事な古代ローマ人のマスクやローマ軍団の馬たちの馬飾りなどである。
写真はStraubingシュトラウビング:ゴイボーデン博物館の金色の看板 -
シュトラウビングの町は古きバイエルンの中心とも言うべき町で、周辺はドナウ川が作った肥沃な土地に恵まれ、鳥獣や木の実の豊富なバイエルンの森の入口に位置していた。
8000年の歴史を持ち、紀元前40年頃から、ローマ軍団の活動がみられ、75年にはローマ軍の砦、ドナウ川に港、物資の集積場が出来ていたと云われる。
ギリシャ人的なマスクや小彫像、ローマ軍団の馬たちの馬飾り(脛当て、前頭(額)の防具)などが完全な形で展示されていた。
人面マスクはギリシャ人に似ていて、前頭(額)の防具には軍神マースやゼウスの双生児が彫られていた。
写真はシュトラウビング:ゴイボーデン(豊かな平原=肥沃な土地の意)博物館の人面マスク -
最初は皆な戦いの防具かと思い、馬用の防具もローマの兵士の胸当てかと思ったが、館の学芸員に聞いてみると、いずれも祭祀用のもので、兵士の胸当てではなく、馬用だと言っていた。
写真はシュトラウビング:ゴイボーデン(豊かな平原=肥沃な土地の意)博物館のローマ軍団の馬たちの馬飾 -
写真はヴァイセンブルク:St. Andreas聖アンドレアス教会広場に立つ、大きなマルティン・ルター像
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⑥St. Andreas聖アンドレアス教会
D-91781 Weissenburg i. Bay. 、Martin-Luther-Platz
14世紀に建てられた後期ゴシック様式のプロテスタント教会では1500年頃の聖アンドレアスの聖壇が見るべき価値がある。
写真はヴァイセンブルク:聖アンドレアス教会・聖アンドレアスの聖壇 -
写真は要塞都市ヴァイセンブルク:市城壁傍をトラクターが通る
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写真は要塞都市ヴァイセンブルク:市城壁と塔が残る
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写真は要塞都市ヴァイセンブルク:Stadtbefestigung_Seeweihermauer典型的な市城壁ゼーヴァイフェルマウワー
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写真は要塞都市ヴァイセンブルク:Stadtmauer市城壁
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写真は要塞都市ヴァイセンブルク:Stadtbefestigung_Schanzmauer堡塁壁
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⑦Fuenfeckturm5つの角塔(隅櫓)
D-91781 Weissenburg i. Bay. 、Bismarckanlage 20
5つの角塔(隅櫓)城郭の角に設けた櫓はヴァイセンブルクの中世の頃、町を守る城郭として、火薬塔、38の塔、市城壁と一体化して建造された。
写真はヴァイセンブルク:角塔(隅櫓)・Pulverturm火薬塔 -
イチオシ
⑧Ellinger Torエリンガー門
D-91781 Weissenburg i. Bay. Ellinger Strasse
エリンガー門は南ドイツで最も美しいと云われている。ヴァイセンブルクの旧市街の北に位置する市城門である。
元々、1200年頃の市城壁の一部を構成するものであった。
14世紀に城門塔が建設され、17世紀に2階が増築された。1520年頃、Wehrgangベールガンク(城壁上に銃眼を備えた通路)が完成した。
現在、エリンガー門には歴史的なRatsbibliothek議会の図書館がある。
南ドイツで最も美しいと云われているのにヴァイセンブルクの町の最後に見ることになり、写真を撮った。実は忘れそうになっていたのだ。
・・・・・
写真は要塞都市ヴァイセンブルク:Ellinger Torエリンガー門 -
参考:興味があったのだが、時間的に見学は無理だった。
<Hohenzollernfestung Wuelzburg
ホーエンツォレルン家の要塞ヴュルツブルク>
D-91781 Weissenburg i. Bay. 、Wuelzburg
ガイド付き見学のみ:
要塞一帯、銃眼のある城壁、稜堡、深井戸 (要塞周辺や内庭は自由)、
開館時間:土13時から、日祭日は11時から16時まで、1時間ごと
Treffpunkt am Info Point (im Festungsinnenhof rechts)
写真はヴァイセンブルク:Festung_Wuelzburgホーエンツォレルン家の要塞ヴュルツブルク De_Merian_1656年 -
ヴァイセンブルクの郊外東南東に2.5km行った、フランケンアルプ地方のジュラの 630mの山上に、ホーエンツォレルン家の要塞ヴュルツブルクがある。
ドイツにおけるルネサンス様式の要塞として、たいへん印象に残る立派な建造物である。
歴史的には11世紀の頃、この山上にはベネディクト会修道院があった。
写真はヴァイセンブルク:Luftbild_Festung_Wuelzburg要塞ヴュルツブルクの俯瞰 -
要塞ヴュルツブルクはMarkgrafen von Ansbachアンスバッハ辺境伯により1588年から1610 年の間に改築された。
つまりアンスバッハ辺境伯の南の国境に建てた要塞は帝国自由都市ヴァイセンブルクへの備えであり、エリンゲンのドイツ騎士団、パッペンハイム伯、アイヒシュテット侯爵司教などの勢力に対峙するものであった。
新イタリア式稜堡システムを採用した要塞ヴュルツブルクにはJungfrau乙女、Krebsザリガニ、Rossmuehle馬の水車、Kaltes Eck Hauptwache寒い角の警備所といった稜堡があり、Jungfrau、Krebsの稜堡には同じ名を付けた大砲が備えられた。
Zitadelle Juelichユーリッヒの城塞(1549年)、Festung Doemitzデーミッツ要塞(1559 年~1565年:2014年の北方2州の旅で訪れた)、Zitadelle Spandauシュパンダウ城塞(1560年:かつて駐在中のベルリン旅行で一度見学した)と要塞ヴュルツブルクを含めた4つの要塞はドイツにおけるルネサンス様式の要塞として評価されている。
今日ではヴァイセンブルクの南部住宅街を形成している。
・・・・・
写真はヴァイセンブルク:Festung_Wuelzburg_Bastion要塞ヴュルツブルクの
稜堡 -
次はエリンガー門から走り出して、7km先のEllingenエリンゲンの町である。
写真はWappen_Ellingen_svgエリンゲンの紋章 -
イチオシ
<Ellingenエリンゲン>
16:30~16:50
http://www.ellingen.de/
人口3700人のエリンゲンの町はWeissenburgヴァイセンブルクの北に位置する。
かつてケルト人の城砦があった。また町の東にローマ軍団の砦があり、それはKastell Ellingen カステル エリンゲンと称するもので、ローマ時代の国境境界線*Limesリーメスから南に1.8kmの広い平場に構えた。
?Elling“エリングの名で文献に言及されたのは899年である。エリンゲンとしての歴史的由来はHospital (病院・養老院)にあると云う。Walter von Ellingen und seine Frau Kunigundeバルター・エリンゲンと彼の妻クニグンデはHospitalを設立したとされる。
ドイツ騎士団は1216年、このHospitalを譲り受け、フランケンの騎士団長の居城とした。
写真はドイツ騎士団のエリンゲン城 -
<Deutschordensschloss Ellingenドイツ騎士団のエリンゲン城>
ドイツ騎士団のエリンゲン城は1711年に新しく築城された。
東の棟はGelnhausenゲルンハウゼンのドイツ騎士団長により建設された。その他の主たる建物はCarl-Heinrich, Freiherr von Hornsteinカール・ハインリヒ・ ホルンシュタイン男爵とその後継者に依って1718~1721年に建設された。
写真はドイツ騎士団のエリンゲン城内 -
ガイド付き見学のみ: 10時、11時、12時、13時、14時、15時、1時間ごと
到着時は既にガイドの最終が行ってしまった時で、一寸だけ城館内を写させてもらった。
そんな訳でこの町には20分しかいなかった。
写真はドイツ騎士団のエリンゲン城内 -
*特筆事項は1945 年 4 月24日にエリンゲンの町にやって来た米第3 軍隊の兵士たちが、ナチスに略奪され、エリンゲン城内教会に隠されていた芸術品を発見した事です。
写真はドイツ騎士団のエリンゲン城のSchlosskirche城内教会_1945年4月:エリンゲン城内教会に隠されていた芸術品 -
写真はドイツ騎士団のエリンゲン城と5月柱
-
Pleinfelder Torプラインフェルダー門:
1660年に完成したプラインフェルダー門にはSpielzeug- und Bauernmoebelmuseum玩具・農家の家具博物館がある。
写真はEllingenエリンゲン:Pleinfeldertorプラインフェルダー門 -
<Mittelfrankenミッテルフランケン地方>
ミッテルフランケンはバイエルン州北西部に位置する地域で、バイエルン州に7つある行政管区の一つ。この行政管区は、バーデン・ヴュルテンベルク州との州境にあたる他、州内のオーバーバイエルン、オーバーフランケン、ウンターフランケン、シュヴァーベン、オーバープファルツの各行政管区と境を接する。
アンスバッハが本拠地になっている。
ミッテルフランケンの経済的な中心的存在であるニュルンベルクは中世の時代から交通の要衝として栄え、現在もエアランゲン、フュルト、ニュルンベルクで何かと共通で取り組むことが多い。人口は約171万人。
写真はWappen_von_Heideck_svgハイデックの紋章 -
16:50にエリンゲン城を出発、今夜の宿に向かった。18km先のHeideckハイデックにはHotel Schloss Kreuthホテル シュロス クロイトがあって、森を抜けた小高い丘の上のホテルに17:10に到着した。
<ハイデックの歴史>
1192年に、Ritter Hadebrand II.騎士ハーデブラント2世は、現在のハイデック町域にあたる地域に定住し、最初の城を建てた。
1278年に、ハイデック家(以後、この一門はこの名を名乗る)は海抜606mのSchlossbergシュロスベルクに新しい城を建設した。
山間の谷に現在のハイデックが創設され、1288年に”nova civitas新しい都市“として初めて文献に記録された。その後の数世紀、ハイデックはその領主を何度か替えた。
1471年からハイデックはHaus Wittelsbachヴィッテルスバッハ家のBayern-Landshutバイエルン・ランツフート伯(後のHerzogtum Pfalz-Neuburgプファルツ・ノイブルク侯領)Ludwig IX.ルートヴィヒ9世に支配された。16世紀に一時期ニュルンベルクの統治下に入り、1806年にバイエルン王国領となった。
写真はHeideck・Schossbergシュロスベルクの丘 -
予想していた古城ホテルと言うよりも、実際の宿舎は普通の田舎のホテルといった印象でした。
確かに近くに城門らしきものも有り、中庭、城館らしきもあり、その歴史を読むと古城ホテルには違わないのだが。
写真はHotel Schloss Kreuth古城ホテルクロイト城の城門(ホテル宿泊棟はこの左に行く) -
ミッテルフランケンのハイデックにあるクロイト城は16世紀に町の北側の高台(海抜455m)に築城された。
その間の城主たちはしばしば代わっているが、代表的な者としてイギリス・スコットランドの政治家で、プファルツ選帝侯やハプスブルク帝国に仕え、1695年に神聖ローマ帝国の伯爵に叙任されたGraf Johann Jakob von Hamiltonヨハン・ヤコブ・ハミルトン(英語読みはジョン・ジェームズ・ハミルトン)伯爵(1642~1717年)、あるいは1878 年に城主となったFuersten von Oettingen‐Spielbergエッティンゲン・シュピールベルク侯爵家があげられる。
1979 年の大火災で城の東西の両翼が焼失したが、その後、Hohmannホーマン家によりクロイト城は再建された。
現在、ホテルおよび乗馬場(乗馬学校)として利用されている。ホテルの向かいにあった建物は馬用の厩舎でした。この歴史的建造物は広い範囲で保存されている。
写真はHotel Schloss Kreuth古城ホテルクロイト城:今のオーナーが住むのだろう館 -
⑩2018年5月19日(土)~5月20日(日)1泊
Hotel Schloss Kreuthホテル シュロス クロイト
D-91180 Heideck、 Schloss Kreuth 1
TEL: 49(0)9177 1600 、FAX:49(0)9177 210
https://www.schlosskreuth.de/
2星・全15室(Garni。2階8号室、DZ・Euro60+ParkEuro1=61(朝食込み、8,176円)現金払い。
この値段では水、スリッパ、浴用ガウンは無し。部屋は広くて明るい。
15時チェックイン、11時チェックアウト。
夕食は無いので町で食べる必要がある。
写真は2階8号室 -
今日は見物も多く、疲れたので、19時まで休憩を取った。夕食は無いので町で食べるか、外出が面倒なら手持ちのインスタントラーメンを食べる選択もあった。それで、宿のオーナーであろうお婆さんに「後で熱い湯を頂きたい」と言っていたのだが、その後に予約なしでやって来た家族と部屋の交渉をしているうちに、私共の依頼をお婆さんは完全に忘れて自宅に帰ってしまった。
写真は2階8号室 -
それで仕方なく片道2kmとなる道を走り、村のレストランを探しに出かけた。
ハイデックは人口4,632人、ニュルンベルク大都市圏の一角をなす都市であると同時に、フランケン湖水地方(Rothseeロート湖とKleine Brombachsee&Grosse Brombachsee大小のブロムバッハ湖の間に位置する。
どちらの湖へのおよそ15kmほどである)にも属している。
ニュルンベルク空港まで40 kmの距離にある。
写真は2階8号室 -
村で食べる候補は事前に2軒調べてあったが、村の中心に着くと、木組みの建物が美しい、良さそうなレストラン・リントヴルムブロイが目に入った。
<夕食:Gaststaette Lindwurmbraeuガストシュテッテ リントヴルムブロイ(ドラゴンビール)にて>
D- 91180 Heideck 、Hauptstrasse 18
http://www.heidecker-lindwurmbraeu.de/
19:45~21:15 Euro25(3,332円)
写真はHeideck :Gaststaette Lindwurmbraeuガストシュテッテ リントヴルムブロイは木組みの家 -
ハイデックにある典型的なフランケンのレストランで一品料理を食べた。
リントヴルムブロイのリントヴルムはドイツの伝説上の“翼のあるドラゴン”の事である。
ブロイはビールもしくはビール醸造所の事だからドラゴンビールと言う店名なのだろう。
従い、店内の壁にビールのホップと樽詰めの絵があり、中庭にビアガーデンもある。
写真は壁にビールのホップと樽詰めの絵 -
イチオシ
もう遅い時間の土曜日だけに店内は町の常連たちグループで満席、皆さん簡単な食事でビールを楽しんでいた。
常連たち、私共が何を注文するか、珍し気に見ていた。
そんな中で、お酒は遠慮し、私はリンゴジュース、家内はオレンジジュースどちらもEuro1.9X2=3.8にした。
写真はこの店自慢の名物料理ステーキにローストしたオニオン、フライドポテト添え -
家内はいつものオランダ風ソースをかけたシュパーゲル料理に茹でたジャガイモ添えEuro11.5、私はこの店自慢の名物料理ステーキにローストしたオニオン、フライドポテト添え、ビールソースかけEuro8.9でした。
人気の品とあって、どちらも安い上に納得した美味しさでした。
写真はオランダ風ソースをかけたシュパーゲル料理に茹でたジャガイモ添え
・・・・・
明日はアンスバッハに向かう。
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