RON3さんのクチコミ(146ページ)全4,333件
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- 基本情報
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投稿日 2016年01月18日
総合評価:4.0
日光湯元温泉街にありながら、静かな環境で、小さめの宿が並んだ中にあります。
乳白色で濁り湯の硫黄泉が源泉掛け流しの温泉が良いです。特に離れの無料貸し切り露天風呂が雰囲気も素敵です。空いていれば何度でも入れるところが気兼ねする必要がなくて良いです。
部屋食の料理は、12品ある料理はどれも丁寧に調理されていて、湯波、ニジマスなど地元の食材がたくさん使われていて、さらに工夫して珍しさも所々に感じさせてくれました。
女将やスタッフはいつも真心を持ってもてなしてくれました。1泊2食付き8100円。
温泉に入れる「温泉寺」や、温泉街を見晴らせる高台にある「温泉神社」にもそれぞれ徒歩10分以内で行ける便利な場所にあります。- 旅行時期
- 2016年01月
- 利用目的
- 観光
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦
- 1人1泊予算
- 10,000円未満
- アクセス:
- 4.0
- コストパフォーマンス:
- 4.0
- 客室:
- 4.0
- 接客対応:
- 4.0
- 風呂:
- 4.5
- 食事・ドリンク:
- 4.0
- バリアフリー:
- 3.5
-
投稿日 2016年01月18日
総合評価:4.0
中禅寺湖がある奥日光は標高が1200m以上もあって、冬は非常に寒いです。そのためここまで訪れる観光客は非常に少なくて、閉まっているお土産店も多いです。
湖畔にも観光客はほとんどいませんし、船の駅の前の駐車スペースにも1台もいませんでした。ベンチも貸し切り状態で自由に使えるし、柔らかな太陽の日を浴びながら、静かな湖畔を堪能できます。
冬以外は、観光客で混む場所を避けて、西端の湖畔にある靜かな菖蒲ヶ浜周辺が静かで、良いです。- 旅行時期
- 2016年01月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦
- アクセス:
- 4.0
- 景観:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 4.0
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投稿日 2016年01月18日
総合評価:4.0
標高1200m以上の高地にあるせいか、冬の中禅寺湖は非常に寒いです。そのせいか、訪れる人も少なくて、湖畔にも観光客はほとんどいませんでした。ベンチも貸し切りで自由に使えるし、柔らかな太陽の日を浴びながら、静かな湖畔を堪能できました。
- 旅行時期
- 2016年01月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦
- アクセス:
- 4.0
- 景観:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 3.5
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投稿日 2016年01月17日
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投稿日 2016年01月17日
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投稿日 2016年01月17日
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投稿日 2016年01月17日
総合評価:4.0
国道119号線沿いで、しかも市街地に出来た珍しい道の駅です。日光周辺には道の駅がなかったので、嬉しい限りです。ただ市街地なので駐車台数に限りがあって、郊外型の広い駐車場のようには、簡単には止めることが出来ません。2回に1回しか立ち寄れないのが現実です。
環境に配慮して黒を基調とした特別なデザインにしているセブンイレブンがあったり、隣に観光パンフレットやマップ、クーポンが豊富な観光案内所は、便利でよく利用しています。- 旅行時期
- 2016年01月
- バリアフリー:
- 4.0
- トイレの快適度:
- 4.0
- お土産の品数:
- 4.0
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投稿日 2016年01月17日
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投稿日 2016年01月17日
総合評価:4.0
神奈川県小田原市生まれの二宮尊徳翁は、手腕を買われて栃木県に来て、半生を下野国で過ごして、1856年(安政3年)11月17日に今市報徳役所内で70歳で亡くなったと、初めて知りました。
葬儀が如来寺で行われて、報徳二宮神社に埋葬され、社の裏にお墓があります。お墓の隣に報徳二宮神社の宝物館があって、2階に2500冊の報徳文庫が所蔵されています。
これは鈴木藤三郎氏個人が寄贈されたもので、さらにこの文庫を守るための石造の蔵まで寄贈されたものだそうです。
拝観料は300円。- 旅行時期
- 2016年01月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- コストパフォーマンス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 展示内容:
- 4.0
- バリアフリー:
- 3.0
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投稿日 2016年01月17日
総合評価:4.0
国道沿いに『報徳二宮神社』『二宮尊徳の墓』と書いてある柱を見て、二宮尊徳の墓がなぜ栃木県にあるのかわからず、確認しに行きました。
路地の突き当たりに報徳二宮神社があって、社の裏に二宮尊徳の墓がありました。
江戸時代末期に現在の神奈川県小田原市の農家に生まれた二宮金次郎は、小田原で家老の服部家を再興させたり、藩主大久保忠真の命によって1822年から下野国桜町(現在の栃木県真岡市)の荒村復興を実施することになったそうです。
半生を下野国で過ごして、1856年に報徳役所で70歳で死去したことから、今市の如来寺で葬儀、二宮神社境内に埋葬されたということがわかりました。- 旅行時期
- 2016年01月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 4.0
- 見ごたえ:
- 4.0
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投稿日 2016年01月17日
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投稿日 2016年01月17日
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投稿日 2016年01月16日
総合評価:4.0
元禄時代の1691年に、本庄因幡守宗資が下屋敷に築造した庭園がもとになっているとのこと。
心字池を中心に、様々な草木が配置されていて、実際以上に広い敷地のように感じます。
「潮入」と呼ばれる水門跡があって、隅田川から水を引いて、潮の干満によって池の水位を上下させていたそうです。それによって、池の景観の変化を楽しんだというのだから、大がかりな装置です。現在でも地下に水槽を作って、人工的に潮入の状況を再現しているというのが、これまたすごい!
1891年(明治24年)に安田財閥の創始者、初代安田善次郎の所有に。
1922年(大正11年)に東京都に寄附。
1967年(昭和42年)に墨田区に移管されています。
入園無料。- 旅行時期
- 2016年01月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 3.5
- 見ごたえ:
- 4.0
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投稿日 2016年01月16日
総合評価:3.5
清澄通り沿いの都立横網公園内にあります。
そもそも、公園内にある「慰霊堂」は、1923年(大正12年)の関東大震災の被災者を慰霊するために1930年(昭和5年)に建てられたものです。その後1945年(昭和20年)の東京大空襲の犠牲者の霊も安置されました。
「復興記念館」は、関東大震災後の復興を記念するために、1931年(昭和6年)に建てられました。館内には、大震災と東京大空襲で被災者の遺品や、当時の状況を表す写真や絵画、生活用品などが展示されています。
また、公園内には「東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑」という美しくて大きな花壇もあります。- 旅行時期
- 2016年01月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.5
- コストパフォーマンス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 展示内容:
- 4.0
- バリアフリー:
- 4.0
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投稿日 2016年01月16日
総合評価:4.0
清澄通り沿いの都立横網公園の中にあります。
公園内には、大正12年の関東大震災の被災者や、昭和20年の東京大空襲の犠牲者の霊も安置されている「慰霊堂」や、「復興記念館」があります。
その慰霊堂の前に、大きな花壇にたくさんの花で彩られた「東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑」があります。この時のデザイン『月夜のユリ』は地元の小学生の作品が原案になっているそうです。
使用されている花は「ビオラ」というスミレのような花です。- 旅行時期
- 2016年01月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 4.0
- 見ごたえ:
- 4.0
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投稿日 2016年01月16日
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投稿日 2016年01月16日
総合評価:4.0
何度も公園の前を通り過ぎたことがありましたが、今回初めて中に入ってみました。
公園内には「慰霊堂」「復興記念館」などがあって、最初は何から被害を受けた人の慰霊なのか、いつ何から復興したのかよくわかりませんでした。
大正12年の関東大震災の被災者を慰霊するため、その後の復興を記念するために慰霊堂と復興記念館を建てたということがわかりました。関東大震災だけでなく、その後昭和20年の東京大空襲の犠牲者の霊も安置されたとのことでした。
終戦70年を迎えた昨年の各種記念行事に際して慰霊堂に、天皇皇后両陛下が行幸啓し献花されたり、安倍総理大臣、桝添東京都知事も大法要に出席したとのことでした。
「東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑」という花壇もあります。- 旅行時期
- 2016年01月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 4.0
- 見ごたえ:
- 4.0
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投稿日 2016年01月16日
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投稿日 2016年01月16日
総合評価:3.5
両国小学校は、京葉道路の1本裏道にあります。小学校の角には芥川龍之介の文学碑があるので、目印になります。芥川龍之介の母校だったそうです。
その文学碑の隣に、日本海軍の駆逐艦「不知火」の錨が展示されています。日露戦争(1904~1905年)で活躍した、イギリス製の錨だそうです。
その後、解体された時に、両国の鉄鋼業者の岡田商事が得た錨を地元の両国小学校に寄贈したというのがいきさつらしいです。- 旅行時期
- 2016年01月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 3.5
- 見ごたえ:
- 3.5
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投稿日 2016年01月16日




































