sio爺さんのクチコミ(7ページ)全844件
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- 基本情報
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投稿日 2020年04月26日
総合評価:4.0
人吉市内見学後、再び高速で行けるところまで行って、下道に降りた後はひたすら高千穂を目指して進んだ。同乗者(妻)が「何かいいのがあるよ」と言うので、ちょっと降りてみた。それは見るからに歴史のありそうな眼鏡橋で、霊台橋といった。場所は熊本県美里町で、工事開始は弘化3年(1846)で完成は翌年というから、江戸時代末期の建造だ。全長約90mで、明治以前に完成した石橋の中では日本一ということだ。昭和42年に国の重要文化財に指定されている。画像からはあまり伝わらないかもしれないが、圧倒的な迫力があった。
- 旅行時期
- 2019年12月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 見ごたえ:
- 4.0
-
投稿日 2020年04月26日
総合評価:3.5
当初、九州旅行の見学地として青雲橋は全くノーマークだったが、延岡出身の知人に九州の見学ポイントを聞いたところ、青雲橋が入っていた。自分の見学経路としても高千穂から延岡に向かう予定だったのでコースに入れた。結果は正解と言えよう。
ただし国道を走るだけでは橋そのものを見ることはできないので、見学スポットがないかと思っていたら、橋の手前にあった。駐車場に車を置いて進んで行くと、見えてきた。看板には「東洋一のアーチ橋 高さ137m 長さ410m」と書かれていた。なかなか見応えがあった。- 旅行時期
- 2019年12月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- アクセス:
- 3.5
- 景観:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 4.0
-
投稿日 2020年04月26日
総合評価:3.5
通潤橋のことは以前から聞いていたので、いつかは見てみたいと思っていた。熊本地震やその後の大雨の影響で復旧工事が行われ、2019年12月の訪問時は一部にシートや足場が掛けられていた。訪問当日は人吉見学終了後、高速を降りて高千穂に向かう途中、通潤橋に寄った。土地勘は全くないので、カーナビを頼りながらもけっこう迷いながらようやく到着した。通潤橋はそもそも水不足に悩む白糸台地に水を送るため、嘉永7年(1854年)に完成したというだけあって、橋の周辺は棚田が広がっていた。少し離れた、道の駅通潤橋から見学した。
なお今年3月に工事を終え、4月に通潤橋復興事業竣工式や記念放水が行われる予定だったが延期となり、定時放水も当面の間、延期になってしまった。新型コロナウイルスの感染拡大防止のためだから仕方がないが、早く収束してほしい。- 旅行時期
- 2019年12月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- アクセス:
- 2.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 見ごたえ:
- 3.5
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投稿日 2020年04月26日
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投稿日 2020年04月26日
総合評価:3.5
菱の門を出て天守閣に向かうには、三国堀の右と左の経路があり、見学順路としては
左に向かって「はの門」に進む。一方、「ぬの門」は、天守閣見学後に備前丸に出て、そこから降りていくところにある。「ぬの門」は城内で唯一の三層の櫓門で、扉は木部を全て黒鉄張りにして太鼓鋲で留めたという頑丈な門だ。二層目には迫りくる敵兵に対する隠し石落としもある。なお門の前面には「扇の勾配」をもつ高石垣が張り出し防御機能を高めているそうだが、事前学習不足で撮影しなかった。残念!!- 旅行時期
- 2018年05月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- 見ごたえ:
- 3.5
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投稿日 2020年04月26日
総合評価:3.5
徳川秀忠の長女である千姫は豊臣秀頼に嫁ぐが、大阪夏の陣で秀頼と死別した跡本多忠刻と再婚して姫路城で約10年過ごした。その千姫に仕えた侍女たちが居た場所が西の丸長局だ。百廊下と呼ばれるだけあって、実際121間(約240m)あるということだ。長い廊下には歴代藩主の略歴説明や所縁の品々が展示してあったり、侍女たちが住んでいた多数の部屋が並んでいた。
- 旅行時期
- 2018年05月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- 見ごたえ:
- 3.5
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投稿日 2020年04月23日
総合評価:3.5
備前丸はもともと藩主池田輝政の本丸御殿があったところだが、本多忠政が城主になると、御殿は三の丸に移されたそうだ。今は石塁や「池田輝政居館跡」標識等があるだけで、辺り一面は広場になっている。姫路城見学では、色々な所から天守閣を撮影したが、備前丸からの撮影は、姫路城が連立天守閣であることがよくわかり、その大きさも実感できる画像が撮れた。
- 旅行時期
- 2018年05月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- 見ごたえ:
- 3.5
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投稿日 2020年04月23日
総合評価:3.5
菱の門は東側が石垣に支えられ、西側は地盤面に載るという設置になっている。また門の外側2階部分には窓が有り、中央部分は黒漆塗りに金の飾り金具で装飾を施された三連の格子窓、その左右には黒漆に飾り金具の華頭窓が設置されていた。なお門の内側には忍者がいて、入場者を次々と切っていた。関西系の人達の反応がとてもユニークで面白かったように思う。なお、この辺りから見る天守閣も素晴らしい。
- 旅行時期
- 2018年04月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.5
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投稿日 2020年04月23日
総合評価:3.5
JR姫路駅で降りてホテルに荷物を置き、まず向かったのは姫路城。駅前から城に向かって一直線に続く大手前通りでは、沢山の人が集まって何かイベントがあるようだった。新型コロナウィルスの関係で3密厳禁の今では考えられない程沢山の人が集まっていた。イベントは書道パフォーマンスだった。最初は姫路書道キッズという団体が入場し、礼儀正しく挨拶等をした後、パフォーマンスの開始だ。書いている字を見たかったが大混雑で身動きがとれなかったので、撮影も自分の立ち位置からのみ。
- 旅行時期
- 2018年05月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 2.0
- 見ごたえ:
- 3.0
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投稿日 2020年04月23日
総合評価:3.5
天守閣見学を終了して、出口方面に行く途中に、お菊井戸があった。
お菊井戸の説明板には
「永正年間(1500年頃)、姫路城主小寺則職(のりもと)の執権青山鉄山は町坪段四郎と語らい、城を奪おうと企てていました。則職の忠臣衣笠元信は、お菊を青山家に女中として住み込ませ、その企てを探らせました。則職暗殺を探知したお菊が元信に知らせたため、則職は家島(姫路市)に逃げて殺されずにすみましたが、城は鉄山に乗っ取られました。お菊の動きを知った段四郎はお菊を助ける代わりに結婚を強要しました。元信を慕うお菊はそれを拒みました。段四郎はそんなお菊を憎み、青山家の家宝の10枚揃いの皿の一枚を隠し、その罪をお菊にかぶせて責めあげました。それでも段四郎を拒むお菊は、ついに斬り殺されて井戸に投げ込まれました。
その後、毎夜この井戸から「1枚、2枚、3枚・・・9枚」と9枚目まで何度も数えるお菊の声が聞こえたといいます。(後略)」
何となく知っているような気がしていたが、こういうお話だったんだねえ・・・- 旅行時期
- 2018年05月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- 見ごたえ:
- 3.5
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投稿日 2020年04月23日
総合評価:4.0
姫路城は、1600年に姫路藩主となった池田輝政が、1601年に築城を開始して1609年に完成した。「はの門」への石段の坂道は通称「将軍坂」と呼ばれているが、TV「暴れん坊将軍」で度々登場したためだ。将軍坂から「はの門」を臨む景色は姫路城で最も有名な撮影スポットと言われている。つまり「暴れん坊将軍」で江戸城として描かれているのは実は姫路城だった。
「はの門」は国の重要文化財に指定されている。「はの門」は天守への侵入を防ぐ重要な門で、櫓の造りになっていて門扉には石落としが備えられている。なお坂の下から見上げると、正面に天守閣が見え、敵に天守閣がすぐそこだと錯覚させる造りになっているとのことだが、画像は「はの門」の近くから撮り、狭間のある塀もほとんど入っていない。従って天守閣も後ろに少ししか見えない。残念!- 旅行時期
- 2018年05月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- 見ごたえ:
- 4.0
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投稿日 2020年04月20日
総合評価:4.0
春休み、孫たちを迎えに行く時にランチで立ち寄った。ここは障害者自立支援施設くるみ、というところが運営している。春休み、と言っても今年は一ヶ月以上続き、4月末の今現在は新型コロナの関係で全国的に飲食関係は営業しているかどうかもわからない。
さて、場所は国道12号線沿いにあってわかりやすい。中はけっこう広かった。私はミートソースを頼み、味は普通というところだ。
そろそろ帰ろうかという時、ちょっとしたサプライズがあった。食べ終わると、孫1(当時は小1)が店内で展示販売している小物を見たいと言うので、しばらく見ていた。その後、自席に戻ろうとしたら、妻が「アイスとケーキ、どっちがいい?」と聞くので、理由を聞くと「お店からのサービス」ということだ。有り難くアイスを頂いた。品名はミニアイスだが、それほどミニではなくとても美味しかった。孫たちも喜んだのはもちろんだ。- 旅行時期
- 2020年03月
- 利用した際の同行者
- 乳幼児連れ家族旅行
- 一人当たり予算
- 1,000円未満
- 利用形態
- ランチ
- アクセス:
- 4.0
- コストパフォーマンス:
- 4.0
- サービス:
- 4.0
- 雰囲気:
- 4.0
- 料理・味:
- 4.0
-
投稿日 2020年04月20日
総合評価:3.5
孫たちの冬休みの終盤、孫たちを送り届けて、帰路にランチで立ち寄った。時間的には滝川周辺になり、以前行ってちょっとお気に入りのラーメン屋を探したが見つからなかった。そこでスマホで調べて評判が良かったのがここだ。中に入り、注文はいつも通り、私は味噌で妻は塩だ。出来上がりを待ってる間、テレビではずっとカルロスゴーンの逃亡顛末をやっていた。ラーメンが届くと美味しかったが、特別と言うわけではなかった。これで850円というのは相場かもしれないが、ちょっと高いかも。
- 旅行時期
- 2020年03月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人当たり予算
- 1,000円未満
- 利用形態
- ランチ
- アクセス:
- 3.5
- コストパフォーマンス:
- 3.0
- サービス:
- 3.0
- 雰囲気:
- 3.0
- 料理・味:
- 4.0
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投稿日 2020年03月26日
総合評価:3.5
松江ごころでしばらく休憩した後、レイクラインバスに乗って月照寺を目指した。ここは小泉八雲が大好きなお寺だったそうだ。
掲示板には月照寺の由緒について下記の内容が記載されていた。
「月照寺はもと禅林のお寺で、洞雲寺と称したが、松平直政公が生母月照院の零牌を安置するため、寛文四年(1664)、浄土宗の長誉上人を開基として、蒙光山月照寺と改称復興したもの」
また境内には、雷電の碑があって、江戸時代の名力士である雷電右為衛門のことがわかりやすく書かれていた。要約すると下記の通り。
雷電は明和四年(1767)信濃国に生まれた力士。天明八年、松江藩主松平治郷公(不昧公)に召し抱えられ、不昧公より雷電為右衛門の名前を給わった。21年間258試合の相撲を行い、負けたのはわずか10回で、勝率は相撲史上第一位とのこと。
なお石碑には手形が彫られていたが、自分の手を合わせてみると為右衛門の手はホントにデカかった。- 旅行時期
- 2019年07月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 見ごたえ:
- 3.5
-
投稿日 2020年03月26日
総合評価:3.5
松江城天守閣を出て、塩見縄手方面に向かう途中、経路の右側に鎮座していた。朱色の鳥居が3基と石造らしい鳥居が2基あった。
城山稲荷神社の説明板には、下記の内容が記載されていた。
小泉八雲は通勤途上に散歩がてら、ここ城山稲荷神社に立ち寄った。当時二千以上を数えた石狐に、八雲は大変興味を抱いた。(中略)「ほとんどすべての家の戸口には、特に、特に、他国の人の注意をひきそうなお札がある。(中略)このお札は、城内のお城山からいただいたもので、防火の護符である。実際、木造建築に関する限り、これらの護符は松江で唯一の防火設備である」(「知られぬ日本の面影」より)- 旅行時期
- 2019年07月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 見ごたえ:
- 3.5
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投稿日 2020年03月26日
総合評価:4.0
松江神社の由緒を記す掲示板には、
「松江神社は、松江の有志により松平直政公を御祭神として明治十(1877)年に西川津村楽山(現松江市西川津町)に楽山神社として創建されました。
明治31年(1898)朝酌村(現松江市西尾町)にあった東照宮の御神霊を合祀し、翌年現在地の松江城山に遷座して、社名を松江神社と改めました(後略)」と書かれていた。
つまり現在の松江神社の社殿等の建築物は寛永期に創建された東照宮のもので、明治31年(1898)、朝酌村にあった東照宮と、松平直政公を御祭神とする楽山神社の御神霊を合祀し、現在地の松江城山に遷座したのが現在の松江神社ということだ。- 旅行時期
- 2019年07月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 見ごたえ:
- 4.0
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投稿日 2020年03月26日
総合評価:3.5
興雲閣は、明治36年(1903)に松江市が松江市工芸品陳列所として建てた建物だ。場所は松江神社に向かって左側に隣接している。当初、明治天皇の行在所に使用する目的でつくられたため、装飾・彫刻を多く用いた華麗な仕上げとなっている。結果的には天皇の巡幸は実現しなかったが、明治40年(1907)、皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)の山陰行啓幸にあたって、同年5月22日から26日まで御旅館となり、迎賓館としての役割を果たしたということだ。
明治40年(1907)皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)の山陰行啓幸の際、御座所や御寝所として使われた部屋である貴顕室は、建具とシャンデリアの本体は現存するものを修復して展示しているとのこと。- 旅行時期
- 2019年07月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- アクセス:
- 3.5
- コストパフォーマンス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 展示内容:
- 3.5
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投稿日 2020年03月09日
総合評価:3.5
山陰旅行3泊目は玉造温泉にした。チェックイン後、「係りの者が参りますからしばらくお待ちください」ということでしばらく待っていると、係りのお姉さんが来て色々説明してくれて部屋まで案内してくれ、部屋でも色々丁寧に説明してくれた。しかしチェックイン後、案内のお姉さんが部屋から退出するまで30分近く経過していた。係りのお姉さんのネームプレートに研修中と書かれ、ホテルが大変丁寧にもてなしてくれていることは有り難いけれども、もっと忙しい部署があるならそこを優先していいよ!と思ってしまった。風呂は広く良かったが、サウナに水風呂が無かったと思う。これは実に残念だ。
夜は広いラウンジで、安来節が演じられた。今までこのような時間帯は爆睡していたが、この時は珍しく見ることができた。最後はギャラリーも参加して「どじょうすくい」に笑えた。
朝食バイキングは、あまりオシャレな内容ではなかったが、旅行中3泊とも、しじみの味噌汁が出て味比べできたので、まあいいだろう。チェックアウト後、玉造温泉駅までワゴン車で送迎してくれたのは有り難かった。- 旅行時期
- 2019年07月
- 利用目的
- 観光
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 1人1泊予算
- 10,000円未満
- アクセス:
- 3.5
- コストパフォーマンス:
- 3.5
- 客室:
- 3.5
- 接客対応:
- 4.0
- 風呂:
- 4.0
- 食事・ドリンク:
- 3.5
-
投稿日 2020年03月09日
総合評価:4.0
玉造温泉に宿泊して、翌朝の散歩で訪問した。といってもあらかじめ玉作湯神社のことを知っていたわけではなく、川に沿って散歩しながら写真を撮っている私に、通りがかりの方が「被写体として良いところがありますよ」と声をかけて教えてくださった。
玉作湯神社は、奈良時代の「出雲国風土記」に記されているということが、玉作湯神社の説明板に書かれていた。また同説明板には、藩主の崇敬が厚く、隣接する玉造御茶屋(松江藩の静養施設)に松江藩主が訪れる際には、必ず玉作湯神社に参詣している、とも記載されていた。訪問時は早朝ということもあり人気(ひとけ)は全くなく、荘重な雰囲気に包まれていた。- 旅行時期
- 2019年07月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 見ごたえ:
- 4.0
-
投稿日 2020年03月09日































































