墳丘に立ち入ることのできる都内最大規模の前方後円墳です!
- 3.5
- 旅行時期:2022/11(約3年前)
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by hiroさん(男性)
三田・田町・芝浦 クチコミ:16件
『芝丸山古墳』は、江戸時代に徳川将軍家の菩提寺であった現在の浄土宗「増上寺」境内などの外周部分をリング状に取り囲むように形成されている広大な「都立芝公園」敷地内南側エリアの港区芝公園4丁目に位置する都内最大規模の前方後円墳であり、1952年(昭和27年)に「東京都指定史跡」として指定されたのちの1955年(昭和30年)になると一時期「東京都指定旧跡」に指定されますが、1979年(昭和54年)の種別変更により再度「東京都指定旧跡」に指定されています。
この『芝丸山古墳』の築造時期については、前方後円墳の築造が全国各地に広まったとされる古墳時代中期となる4世紀後半から5世紀後半と推測されており、現地に掲示されている案内板によると前方部が南南西の方角を向いた配置とされる古墳の規模は、全長:106メートル前後・後円部径:約64メートル・前方部前端幅:約40メートル・くびれ部幅:約22メートルと記載されていますが、江戸時代以降に後円部の改変が加えられ墳頂部などの一部が削られているのをはじめとして原型が部分的に失われていることから全容が不明確な部分もあり全長が125メートル前後などと推測する説も存在しています。
『芝丸山古墳』に関する調査については、この周辺の地形が不自然であると感じていた日本における人類学および考古学の創始者とされる「坪井正五郎」氏が1898年(明治31年)に発掘調査を実施したことで埴輪片などが出土していますが、後円部中央に位置していたと考えられる古墳の主体部となる埋葬施設が失われている状態でこの地に埋葬されたと思われる人物の遺骨および副葬品などは確認できていません。
そのほか『芝丸山古墳』前方部となる南東側裾の緩やかな傾斜地には、古墳が築造された時代よりさらに歴史の古い現在より約3500年前から4000年前の縄文時代中期末から後期のものと推測される「丸山貝塚」も確認されており、この貝塚からは海産系の貝殻が出土していることからもこの周辺エリアが当時の海岸沿いであり、『芝丸山古墳』に埋葬されたとされる人物についてはこの周辺付近の水田地帯に生産基盤を構えながら海岸周辺の海上交通および南北に通じる陸路などを支配していた南武蔵有数の豪族であると推測されています。
今回は「芝公園」エリアを訪れる機会があり少し時間に余裕があったので1873年(明治6年)に国内初の公園として開園した「芝公園」(1号地から25号地)であり、現在では「都立芝公園」をはじめ「港区立芝公園」さらにホテル施設(ザ・プリンス パークタワー東京)となる「プリンス芝公園」として整備されているそれぞれの公園敷地内の一部(1号地)に初めて立ち寄り『芝丸山古墳』周辺を散策して廻りました。
『芝丸山古墳』自体は、樹木に覆われているため案内板などが設置されていなければこの場所が古墳であることを実感することはできませんが、平日の午後に人とすれ違うこともなくひとりで樹木で覆われた中に整備されている遊歩道で標高約16メートルとされる墳丘を登っていると都会の雑踏が消えて都心にいることを忘れてリフレッシュすることができるとともにその後に『芝丸山古墳』についてもいろいろと調べながら学び楽しむこともできました。
また『芝丸山古墳』南東側の「都立芝公園」敷地内には、梅林が整備されているエリアもあるので梅の花が咲く時期に花見を兼ねてゆっくりと時間をかけて『芝丸山古墳』周辺を改めて散策してみたいと思います。
そのほか『芝丸山古墳』について調べた中で得た情報ですが、『芝丸山古墳』からの出土品が「明治大学考古博物館」(千代田区神田駿河台)に収蔵されているそうなので機会があれば「明治大学考古博物館」にも立ち寄ってみたいと思います。
- 施設の満足度
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3.5
- 利用した際の同行者:
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 都営地下鉄三田線・芝公園駅のA4出口から徒歩3分程度です。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 平日の午後に立ち寄りましたが、墳丘に向かう遊歩道で人とすれ違うことはありませんでした。
- バリアフリー:
- 2.0
- 標高約16メートルとされる高低差のある墳丘の遊歩道は階段状になっています。
- 見ごたえ:
- 3.0
- 樹木で覆われた中に整備されている遊歩道を歩いていると都心にいることを忘れてリフレッシュすることができました。
クチコミ投稿日:2023/04/15
いいね!:9票
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