2025/10/18 - 2025/10/18
9位(同エリア49件中)
さっくんさん
マグレブと呼ばれる地域があります。アラビア語で西を意味し、現在では狭義でチュニジア、アルジェリア、モロッコの三国を指し、広義ではリビア、モーリタニアを含めたり、歴史的にはアンダルシアも加える事があります。マッカを中心としたアラビア視点に立っての地域呼称である故、アラビア半島+エジプト以西なら、ある意味全てマグレブであるとも言えます。私的見解としては、先述した広義でのマグレブ諸国に加え、サハラ交易で深く関わりを持つマリ(当時のマリ、ソンガイ帝国)も加えマグレブの旅と捉えたく思います。
写真はモーリタニア。サハラ砂漠の最西端で眺めた大西洋に沈む2018大晦日の落日。
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私がマグレブ諸国を初めて訪れたのは2010年モロッコの旅の事です。当時はイスラームをテーマに始めた旅も、まだ駆け出し。モロッコと言えばエジプトやトルコで初めてイスラーム圏を滞在し、気に入った旅人さんが次なるイスラーム諸国の旅先として選ぶ事が多い旅先ですが、当時の私も同様な想いでモロッコに旅立ったと思います。
写真はクトゥビア
モロッコの旅
https://4travel.jp/travelogue/11767964 -
旅は赤い迷宮、マラケシュから始まりました。アラブから西へと続いた交易路の西の果て、はたまた地中海を挟んだイベリア半島からの交易品、この街で見つからないものは無いと言われたマラケシュのスーク。当時の賑わいを彷彿させるジャマ・エル・フナ広場。交易はアラブやイベリア半島に留まらず、サハラ砂漠を越えて行われた事を知りました。
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嘗ての隊商達の旅路を追ってアトラス山脈を越えました。峠を越して驚愕しました。峠を越せばそれ迄の緑豊かな風景は一変して、緑一つ無い灼熱の荒野に変わります。アトラス山脈がモロッコの気候を大きく分断していました。逆に言えばこの山脈があったからこそモロッコに王国が存在し得たのだと思います。
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アトラス山脈からサハラ砂漠に至る道程には、日干し煉瓦で築いた城塞の様な集落が点在します。荒野に点在する僅かなオアシスにベルベル人達が築いたカスバと呼ばれる集落です。隊商達はそのカスバを伝いサハラ砂漠を目指しました。人呼んでカスバ街道とはこの道の事です。
写真はアイドベンハドゥ -
以前エジプトでサハラ砂漠とは対面していますが、滞在するのは初めての事。其処での1泊は私の旅に大きな影響を及ぼしました。ありきたりな感想ですが、
「この途方も無い規模のサハラ砂漠を前にすると、人間の存在なんて、なんてちっぽけなものだろう。でも、このサハラ砂漠を超え、交易を行っていた人々がいたと思えば、人々の可能性もまた無限大なのではあるまいか?」
と。サハラ砂漠を眺めながらひとしきり感動を覚えました。 -
そして、その感動が次なる旅に私を導きます。人々がそれ迄して旅した旅先はどんな街なのだろう?人々が命を懸けて迄サハラ砂漠を超えた、その原動力は何処にあったのだろう?
そ行き着いた答は現在のマリ、トンブクトゥ。当時のマリ帝国は金が豊富に摂れたが、内陸国故塩が乏しい。一方モロッコの隊商達はサハラ砂漠のタウデニ(現在のマリ、サハラ砂漠部)の塩田を掌握していました。こうしてアラブの商人達は、塩と金を等価交換する交易を始めたのです。考えても見てください。そこらのスーパーで塩を1㎏買って、マリ迄持っていけば金1㎏と交換してくれるんです。行くっきゃないでしょ! -
こうして始まったサハラ交易は、金と塩だけに留まらず、文化、宗教、学問等人の生きる上での全てに於いて交流が深まりました。こうしてイスラームに帰依した当時のマリ帝国の王、マンサ・ムーサはマッカに巡礼の旅に出ますが、途中立ち寄ったエジプトのカイロで、ふんだんに持参した金を大量に喜捨したおかげで、エジプトの金市場が大いに混乱してしまう結果となりました。
写真はフェズ -
そんな金に関わる噂は欧州に伝わり、黄金大好きな彼等は大量の探検隊をマリのトンブクトゥに向けて送り込みます。しかしその殆どはサハラ砂漠に散り、帰還した者はいませんでした。
1828年、フランスのルネ・カイエが遂にトンブクトゥから帰還を果たします。しかし、その時ルネが見たトンブクトゥは、海洋交易に押され、衰退し、サハラ砂漠に埋もれつつある街並みだったと言われます。それ以来、トンブクトゥは欧州では、「遥かなる~」と言う意味を持つ代名詞となったと言われます。
そんな事を知ってしまっては、旅人として訪れない訳にはいきません。
写真はフェズ -
こうして次なる旅に多いな期待を持った私をぶちのめすかの様な事態が発生しました。欧米が言う「アラブの春」です。(他国で起こった暴動を「春」と表現する、余りにも不適切で配慮に欠いた表現だと思います。)この一連の事態により、リビアのカダフィ大佐がNATOにより嬲り殺しにされ、リビアは崩壊しました。
リビアは当時は大手の旅行会社HISもツアーを開始し、私も大いに関心を持っていた国。私が興味を抱いたサハラ交易の重要な街であるガダミスのある国。「欧米の糞野郎が!」何度も、何度も、地団太を踏んだ、本当悔しい事件でした。
写真はメクネス・アグノウ門 -
でも、悔しがってばかりではいられません。リビアには貧しいマリから出稼ぎにきていた大勢のトゥワレグ族がいました。只の移住者ではありません。彼等はリビアで軍事に携わっていました。リビアが崩壊した今、彼等は故郷を目指します。しかもリビアで手に入れた戦闘能力と兵器を持って…。
しかも、これ迄トゥワレグ族は独立を賭けて何度もマリ政府と紛争を起こしています。此の侭ではヤバい。絶対何かがマリで起こる。早く、早くマリに行かねば!早く乾季になってくれ!(雨季だとトンブクトゥへ向かうダートの道が走行出来なくなる可能性があった。)多分当時、外務省より誰より、マリの危機を私は察知していたと思います。
写真はカサブランカ・ハッサン2世モスク -
「トンブクトゥに行きたい!」そんな私の想いを挫くかの様に、様々な障害が立ちはだかりました。幾度にも及ぶエチオピア航空のフライトキャンセルで、結局ケニア航空にルート変更、それに合わせてバンコク迄の航空券の買い直し、やっと航空券が落ち着いたと思えば、バンコクのスワンナプーム空港が大雨により水没、毎日ニュースで空港の水位を見ながら冷や汗を垂らし、出発当日には人身事故。やっと空港に辿り着いたと思えば、不慣れな地上係員にビザの件でイチャモンをつけられる始末。
「貴女とお話ししたいと言う人がいるので代わってくれませんか?」
私が通話中の電話を差し出すと、訝しそうな彼女の表情が恐縮の表情に一変しました。通話後彼女の対応も一変しました。通話の相手はマリ大使館。大使館の鶴の一声は、ヘナチョコ地上係員の嫌疑を一撃で粉砕です。
写真はバマコ・ニジェール川
マリの旅
https://4travel.jp/travelogue/11207282 -
そんなこんなで漸くマリの首都バマコに到着しました。忘れもしない2011年11月25日。民族衣装をきた大柄で優しそうな現地旅行者のボス、アマドゥが直々出迎えてくれました。私の恩人です。
出発当日の予定は無かったので、バマコの中心迄送ってもらいました。その途中彼に電話がかかりました。私は嫌な予感がしました。こう言う不安は何故か当たります。アマドゥの通話は最終的には絶叫が混じりました。そして彼の会話の中にトンブクトゥと言う単語が含まれていた事が、私の不安を増幅させました。
写真はセコロ村のモスク -
一旦バマコの街を歩けば、アフリカの熱気に満ちた市場の勢いに、私の不安は吹っ飛びました。アフリカの熱気と優しさを堪能し、宿に戻るとアマドゥが待っていました。私が大好きになったマリのぶっかけご飯に舌鼓を打つのを待ち、彼は話し始めました。(聞きたくない!って心の底から思った。)
「本日、トンブクトゥでアルカイダが観光客を拉致、抵抗した者が射殺される事件が発生しました。犯人は逃走中。さっくんさん。私の最大の使命は、さっくんさんを無事故郷に見送る事です。トンブクトゥは諦めてください。代わりに満足頂けるコースを…」
「私はトンブクトゥを見る為に、此処に来たのです…。」
私は言葉を遮ってしまいました。アマドゥの誠実さは、その言葉から痛い程伝わって来ました。しかし、だけど、私は諦めきれなかった。解ってます。こうした国に、この様な事が起こっては…もう次など無い事を。解ってます。私がとんでもない我儘である事を。
写真はセグー・ニジェール川 -
結果、初日に向かう筈だったトンブクトゥを最終目的地に変更し、事件の経緯を見ながら判断する事とし、旅は始まりました。マリで目にした建築、人々、文化はそれまで見て来たものと大いに異なり、そのパワーや造形、そしてアフリカ独特のおおらかな人々との出逢いは、本当掛け替えのない思い出となりました。
写真はモプティ・グランド・モスク -
中でも子供達との触れ合いは特に印象に残っています。初めて黒くない肌の私と出逢い、ギャン泣きされた事もありましたが、歩ける様になると、何故か私の手を握る子が多い。何故かと言うと、年配の外国人をガイドさんが手を繋ぎ介助するのを見様見真似しているとの事。彼等彼女達は年端も無いうちから見事なガイドさんの卵なのです。
アフリカ人ならではのつぶらな瞳、くったくの無い笑顔。そんな彼等ですが、五人に一人は5歳までに亡くなってしまう過酷な環境で暮らしています。私が出逢った彼等、彼女達が、そんな過酷な環境と闘っている、若しくは生き残りだなんて知った時は号泣しました。
そんな彼等も今では成人となっている事でしょう。戦火の中、逞しく生き抜いていて欲しいです。銃など、持っていない様に…。
写真はモプティ旧市街 -
トンブクトゥで事件が起こり、日程が変わった事で偶然にも諦めていたジェンネの曜日市に参加する事が叶いました。トンブクトゥ迄サハラ砂漠を越えて運ばれてきた交易品は、ニジェール川の船便でジェンネ迄運ばれ、この街から西アフリカへと広まっていきました。ジェンネはトンブクトゥと双子都市と呼ばれ、マリ、ソンガイ帝国に無くてはならない都市でした。
曜日市は現在でも、職業毎に分かれた民族同士が互いに足りないものを、物々交換し当時の勢いを感じさせてくれます。マリの民族の民族衣装は原色が多く、土色一色の街並みは曜日市の日だけ咲き誇る花畑の様になります。
写真はグランド・モスク前の曜日市 -
曜日市は、ガウディのサグラダファミリアの元ネタにもなった泥で左官されたグランド・モスクの前で行われます。
この夜、アマドゥから連絡がありました。結局犯人は捕まらず、政府は観光客をトンブクトゥから撤収命令を出したと…。それでも、私は諦めきれずにいると、アマドゥは危険な陸路を避け、航空機で往復する案を出してくれました。
このやり取りを聞いていた、先程迄しつこく土産物を勧めてきた物売りが、
「君がトンブクトゥに行ける事、祈ってる。俺、トンブクトゥ出身だから。」
何気ない言葉だけど、今でも心に刺さってます。ありがとう!
写真はグランド・モスク -
その後、イスラーム以前からこの地に暮らし、自然と共に暮らすドゴン族の村々を訪れました。そしてアマドゥからの最終報告を待ちます。結果は最悪なものでした。襲撃を恐れた航空会社は、トンブクトゥに機体を一泊させるのを嫌い、トンボ返りする予定に変更。
これでは行っても意味がありません。陸路は危険でドライバーも難色を示しました。これで詰みかと言うタイミングで、アマドゥが最後の手段を提示してくれました。マリ軍の警護をつけると言うものです。これでドライバーも承諾してくれました。 -
残すは時間との闘いです。早朝にモプティを発ち航空会社の職員の自宅に押し掛け帰りの航空券を押さえ、その足で駐屯地に赴き軍人を同乗、ドゥエンザに張られた検問を軍人に開放して貰い、ひたすらダートを北上。
途中ジェントルなドライバーの運転では間に合わないと判断した軍人が、パリダカの様な運転で激走。なんとか出発直前のニジェール川の渡し舟を捕まえ渡河。なんとか日没前にトンブクトゥに辿り着けました。
写真はトンブクトゥ・ジンガリベリ・モスク -
翌日、トンブクトゥを発つ飛行機の出発が遅れた事もあり、再びトンブクトゥを散策、これ程我儘を通し、漸く辿り着いた念願の街、その感動を言葉に表す事はとても難しい。
バマコに帰還後、アマドゥの家に招かれました。
どうして私がそれ程トンブクトゥに拘ったかを尋ねるアマドゥにその経緯を話す私。だけど私とて疑問がありました。何故アマドゥは、それ迄して私をサポートしてくれたのか?採算の合わないだろう一人旅の旅行者。政府が撤収を決めた後で下手をすれば責任問題にも成り得るリスクを負ってまで、何故私の願いを叶えてくれたのか?
聞かずもがなアマドゥは語り始めました。
「もうすぐ戦争が始まります。始まったら何もかもオシマイです。旅行会社だけじゃない。商売してる人々…全てが繋がってます。あの事件以来キャンセルが相次ぎ、悔しさでいっぱいです。私の国は貴方の国と違い貧しいです。しかし素晴らしい歴史の遺産があります。それを紹介するこの仕事を私は誇りを持っていました。その誇りを勇敢にも危険を顧みず見たいと言ってくれた貴方に見せてあげたかったのです。」
もう、四つの眼は涙で一杯でした。私の生涯が終わり、もしあの世に行くのに旅の思い出をひとつしか持っていけないとしたら、迷わず私はこの旅を持っていくでしょう。アマドゥ。私は貴方の親切、そして誇りを生涯忘れない。ありがとう!
写真はトンブクトゥ・サンコーレ・モスク -
2012年4月、アマドゥが心配していた戦争が始まってしまいました。そんなマグレブ一帯を震撼させた、その震源地ともなったチュニジアに2013年訪れました。
マグレブ諸国で一番一般的な旅先はモロッコとチュニジアで、大手の旅行会社もツアーを組んでいます。アラビアンな街並みとサハラ砂漠。共通している魅力がある事から、「モロッコとチュニジア、どっちが良い?」なんて聞かれる事も多々あります。でもアジアに詳しくない欧州人が、日本と韓国、そして中国の違いが解らないのと同様、二つの国は結構違います。
写真はシェニニの村のクサール
チュニジアの旅
https://4travel.jp/travelogue/11425022 -
先ずモロッコは第二次大戦後を除き、長い間独立状態が続きました。一方チュニジアは、カルタゴのローマとの戦いに始まり、ビザンティン帝国、オスマン帝国等様々な強国の支配下にあった歴史的背景があります。こうした歴史的背景は、その国民性に大きな影響を与えます。
また国土の広さも違います。モロッコの方が広いので、移動に結構時間を有するのに対し、チュニジアは小さな国なので移動は簡単便利です。
写真はクサール・ウレド・スルタン -
私のイメージで話すと、モロッコはワイルドで男性的、一方チュニジアは女性的に感じます。例えばモロッコのメルズーカ砂丘は大きくうねる嵐の波の様な大きさがあるのに対し、チュニジアのクサール・ギレンのサハラ砂漠は均等な小規模な砂丘が連なります。
マラケシュやフェズなどアラブ色の強い迷宮都市が有名なモロッコに対し、シディ・ブー・サイードやカイルアン等、白壁が美しい瀟洒な街並みが美しいチュニジアと言う具合です。
写真はクサール・ギレン -
アフリカの地中海沿岸のマグレブ諸国に共通する傾向ですが、地中海沿岸、即ち人が暮らしやすい地域には、外来の勢力、即ち古来ならビザンティンの人々。そして中世から現代に至る迄はアラブ人が暮らし、先住民族であるベルベル人は争いを避ける為、過酷な内陸部で暮らしています。更にサハラ砂漠では、放牧を生業とするトゥワレグ族が暮らし、其々棲み分けが出来ている事が多いです。
写真はエル・ジェムの円形闘技場 -
そんな過酷な荒野で暮らすベルベル人達が、生きていく為に日中に穴を掘り、まるで蟻の巣の様な洞窟で暮らすマトマタは、映画スターウォーズに多分にインスパイアを与え、それらの地域タタウィンは映画の中ではタートゥイーン星と言う設定に変わり、現地の人々の民族衣装が、映画内でもそのまま使われています。
その他にも欧州から近く、治安も安定しているチュニジアでは、様々な映画のロケ地となっているので探して見ると面白いでしょう。
写真はスース旧市街 -
チュニジア中部から南部にかけてはアラブ色が強くなり、内陸部にはビザンティン時代の遺跡が点在します。また強い日差しを避ける為の白壁とドームや扉の青が良く映える美しい街が点在します。
カイルアンもそんな街の一つですが、宗教的にも重要な街で、現地ではマッカ、メディナ、アル・クドゥス(異教徒が呼ぶエルサレム)に継ぐ第四の聖地とされています。(1から3位は確定していますが、第四に関しては地方によりまちまちで、ダマスカスを第四位にする地方もあります。)
写真はカイルアンのグランド・モスク -
此方はハマメットの街。白い街並みと紺碧の海のコントラストが美しい街です。チュニジアは欧州の人々にとって、日本で言うグアム、サイパンの距離感で訪れる事が出来る避暑地です。なので多くの欧州からの観光客が訪れる事で、リゾート色が強い街が多いです。
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一方此方は内陸部の街ル・ケフ。訪れる観光客は少ないですが、斜面上に街が築かれ、頂上のカスバからの展望は素晴らしいです。ドウッガ遺跡等遺跡観光の拠点として足を延ばして見みては如何でしょうか?
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今回は自由旅行だったので、交通の便が悪い南部から旅を始め、空港の有る北部へ向けて旅を進めました。首都チュニスに戻ったと言う事は旅も終盤に差し掛かりました。
近郊にはポエニ戦争で有名なカルタゴの遺跡が残り、ビザンティン帝国が残したモザイクを展示したバルド博物館等、この街の複雑な歴史を垣間見る事が出来ます。勿論チュニジアらしい白壁の街並みが広がる旧市街、喧騒のスークもあり、アラブらしい町並みを堪能する事が出来ます。 -
チュニジア最後に訪れたのはシディ・ブー・サイード。白い壁に青いドア。そんな美しい街が多いチュニジアに於いても一際美しい街です。チュニスからも近く、カルタゴ遺跡も目の前です。チュニジアは国土が狭い分、交通の便は良く、ルアージュと呼ばれる乗り合いバスが頻繁に街と街を結んでいます。
日中はかなりの乗客がいるので定時制よりストレスなく移動が出来ました。また、欧州から多くの観光客が訪れる事から、人々も観光客慣れしており、自由旅行初心者の旅人さんにもお勧め出来るイスラーム圏の国だと思います。
唯一残念な事は、北部タタウィーンから程近い、リビアとの国境の目と鼻の先にガダメスが存在する事。行きたい!でも、国境が…。 -
現在のスペイン、アンダルシア。即ちアル・アンダルスもイスラーム史におって超重要な地域です。そのアンダルスで一番重要な建築と言えば、間違いなくアル・ハムラー宮殿、即ちアルハンブラ宮殿でしょう。レコンキスタに追われイベリア半島最後のイスラーム王朝となったナスル朝の宮殿であり、イベリア半島最後のイスラームの拠点です。
アンダルシアの旅
https://4travel.jp/travelogue/11514617 -
アルハンブラ宮殿は当時のイスラームの美学が凝縮されたかの様な宮殿です。イスラームの戒律に従って、豪華絢爛な調度品で着飾るのでは無く、シンメトリーに徹したシンプル且つ緻密な装飾は心落ち着かせるものがあります。
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スペインをイメージすると、どう言うフレーズが出て来るでしょう?フラメンコ、パエリア等が思い浮かびますが、どちらもイスラーム起源のものです。パエリアはイスラームが持ち込んだビリヤニが転化したもの。フラメンコはイスラームの舞踏が現地のロマの文化と融合し生まれたもの。元々は神を称える舞踏であり、フラメンコ特有の「オッレ!」の掛け声は「アッラー」が訛ったものです。
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イベリア半島にイスラーム王朝を初めて開いたのは、バグダッドに興ったアッバース朝に追われて西へ逃げ延びたウマイヤ朝でした。これを後ウマイヤ朝と呼びます。当時世界最大の街は東のバグダッドと西のゴルドバ。そう呼ばれる程当時のイスラームの繁栄は凄いものがありました。
その後ウマイヤ朝の首都となったゴルドバには数多くのイスラームの残り香が残りますが、その最大なものがメスキータです。当時は、未だ大規模なドームの建築技法が至らなかった事から、屋内に大規模なスペースを確保するには、多くの柱で屋根を支える必要がありました。多くの柱は、邪魔になってしまうものの、そのデメリットを芸術の域に押し上げた、そんな美しさがメスキータにはあります。
レコンキスタが完了した後は教会に改築されましたが、余りの美しさに教会に改築の命令を下したカルロス1世が
「何処にでも作れるものの為に、何処にもないものを破壊してしまった。」
と後悔の念を述べた為、それ以上の破壊を逃れ、モスクと教会の要素が共存する、世界にまたと無い建築が残る事となりました。 -
ヨーロッパは他国を侵略すると、其処の文化、宗教、建築、全てを破壊し尽くし、其処に自分達の文化、宗教、建築、全てを押し付けました。インカやマヤ文明で起きた事がその証明の一つです。それが欧米、白人共のやり方です。現在だって何ら変わりません。暴力による侵略の後の民主主義の押しつけ。鯨は食うな!からポリコレに至る迄、何もかもが押しつけがましくて鬱陶しい。
そんなヨーロッパに於いて、これだけイスラーム文化が残されているのは何故でしょう?当時のスペインでは圧倒的にイスラームが優れていたからです。つまり彼等はイスラームに憧れていた。だから壊せなかったのです。上述したカルロス1世然り、ペドロ1世に至っては、セビーリャにアルハンブラ宮殿そっくりのアルカサルを建造させ、場内ではアラブ風の服装を身に纏い、アラビア語しか話してはいけないと言う決め事迄制定しました。正にイスラーム・ヲタクです。私と馬が合いそうです(笑)
この様なイスラーム文化への憧れが、キリスト教文化と融合して、ムハデル様式が編み出されました。
因みに先に述べたアルカサルと言う、要塞、城と言う意味を持つスペイン語も、アル・クサールと言うアラビア語から生まれたものです。クサールはマグレブ地方の集落を指す言葉で、チュニジアのサハラ砂漠近郊で良く見られます。 -
その昔、ローマは東西に分裂し、ギリシャで産まれた叡智はビザンティン帝国が引き継ぎ、西ヨーロッパから分断されました。その叡智はビザンティン帝国から徐々に領土を奪っていったイスラームに引き継がれ、進化を遂げ、イスラームと共に北西アフリカ、即ちマグレブを旅し続け、イスラームと共に地中海を渡りイベリア半島に到達しました。
そしてレコンキスタにより、イスラーム勢力は再び北アフリカへと戻っていきましたが、彼等の持ち込んだ叡智はスペインに残りました。そしてその叡智の数々はスペインに於けるルネッサンスを後押しし、スペインの大航海時代の開幕に繋がっていきます。
写真はサアラ・デ・ラ・シエラ -
アンダルシアに於けるレコンキスタ軍の拠点となったセビーリャから、イスラーム最後の拠点となったアルハンブラ宮殿へと続く、急峻な地形の大地には、アルハンブラ宮殿を守るかの様に防御の工夫がなされた街が点在します。
先の写真はサアラ・デ・ラ・シエラ。小高い丘に家屋が密集し、その頂点に見張り台が建ちます。此方の写真はセテニル・ラス・ボデガス。岩の窪みに隠れるが如く家屋が密集しています。 -
此方はこの地方の中心都市となるロンダです。闘牛の発祥の地としても有名です。急峻な崖を利用して建てられた街で、レコンキスタ後には疫病の流行もあり一旦街は荒んでしまいますが、この荒々しい風景に憧れて、多くの人々がロンダにやって来ました。ヘミングウェイもその一人です。
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旅の途中。折角此処まで来たのですからと、まるで何者かに呼ばれる様に地中海を渡りモロッコのタンジェを訪れました。世界中からアフリカを目指す旅人を、歴戦のインチキガイドが鴨にすると言われる街。
ジブラルタル海峡に位置する交通の要衝の街であり、第二次大戦後は国際管理に置かれた事もあり、何でもありのヤバい噂に満ちた街でもあります。スペインは、日本人がパスポートを盗まれる数のもっと多い国ですが、盗まれたパスポートはジブラルタル海峡を渡り、此処タンジェに運ばれ、アフリカで偽造される等々逸話を挙げだしたら、きりがありません。な訳で気合を入れて船を降りれば…。
もう鴨を見つけて去ってしまったか?のんびりしている内に港はもぬけの殻でした。これでは道を尋ねる訳にもいきません(泣) -
スペインの旅行だったのでガイドブックも無く、地図はあっても迷宮の様な街並みでは現在地などすぐ忘れてしまう。道が細過ぎてグーグルマップも働かず、故に適当に歩く。いや、何故か足は自然と動いてしまう…。
そして唐突に辿り着いたのが、イブン・バトゥータの霊廟。彼がモロッコ人だとは知っていましたが、タンジェの人とは知らなんだ。現代のイブン・バトゥータを自称して、その気になって旅を続けていた私が偶然にも彼の墓標に辿り着くなんて…。元々モロッコに来る予定なんて無かったし…この迷宮の様な街で、地図も無く辿り着くなんて…もう、呼ばれたとしか思えない。そんな不思議な出逢いでした。
その後入ったチャイハネで、嘗ての何でもありの国際都市時代に良い思い出を残したと言うベルギー人の旅人と、その思い出話に花を咲かせました。
「この街来るの初めてなのですが、私もね…なんか懐かしい気もするのです。」
と先程見たイブン・バトゥータの霊廟を振り返りながら応えると、オジサンは興味深そうに私の目を見つめると、チャイで乾杯しました。そんなチャイハネの前を、線の細そうな日本人バックパッカーが、インチキガイドに引率されて喧騒に消えていきます。頑張れ!負けるなよ!良い旅を!私は消えゆく彼にも乾杯を交わしました。 -
チョット於いて2018年。モーリタニアを旅しました。トンブクトゥを訪れ、サハラ交易の最重要な街は訪れる事が叶いましたが、サハラ交易の重要拠点は未だ残されています。リビアのガダメス、アルジェリアのガルダイアと共に私が重要視していたのがモーリタニアのシンゲッティ。
モロッコからトンブクトゥへと伸びた交易路の中継地として栄えたと共に、マグレブに於けるイスラームの聖地としても崇められる街でもあります。また、サハラ砂漠を交易した隊商達の気分を味わう為に、点では無く線で旅をしたかった。サハラ砂漠を満喫できる、それならモーリタニアが最適でしょう。
モーリタニアの旅
https://4travel.jp/travelogue/11444260 -
そんな訳で、こうした方面に強いパッケージツアーに参加する事にしました。団体旅行は苦手で、人生で二度目の経験です。
どうして団体ツアーに参加したかは理由があります。シンゲッティ等街から街への移動なら問題はありませんが、砂漠を走り続けると言う事は例え4WDでも至難の業なのです。個人で旅すると自分が乗る車の他に、緊急用の車両も手配する事になります。費用的にもとても現実的とは言えないのです。
実際ツアー中、一日に一台は何処かで、パンク、スタック等トラブルが発生し、仲間同士で助け合うシーンがありました。一日走っても対向車に遭遇しない様な砂漠では、車の単独行は命取りなのです。 -
幸い、メンバーは場所が場所だけあって、目的意識がハッキリしていて旅慣れており、私の心配は杞憂に終わりました。それにしても驚いたのはメンバーが殆ど女性だった事。こんなトイレも無いキャンプ泊がメインの旅先に…。バックパッカー時代も感じましたが、肝が据わると女性の方が男性よりずっと豪胆な旅をしているものです。
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シンゲッティに到着しました。私はサハラ交易に重要な都市を勝手に四天王と格付けしており、それら全ての都市に訪れる事を目標としています。先ずは11年に訪れたマリのトンブクトゥ。そしてアルジェリアのガルダイア、リビアのガダメス。そして此処モーリタニアのシンゲッティです。嘗てサハラ交易の重要中継地であり、今も尚聖地として崇められるシンゲッティですが、サハラ砂漠に埋もれつつある危険性も孕んでいます。
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シンゲッティからウワダンを目指します。途中横切る砂漠は360度真っ平です。此処まで平だと、此処まで何も無いと、とてつもなく不安になってしまう光景でした。砂漠には砂丘があるものと言う概念をぶちこわされてしまうからでしょうか?素晴らしいのだけど、何処か気持ち悪さを感じてしまう風景でした。走っていて何もない車窓の風景から、いつしか異世界に行ってしまうのでは無いかと感じました。
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ウワダンに到着しました。此方も嘗てサハラ交易の中継地として隊商達で賑わった街です。シンゲッティが宗教、学問の中心として栄えた一方、ウワダンは塩田から近い立地故、交易が中心の経済都市として発展しました。シンゲッティと同様、遺跡保護の観点から住民は新市街に移住しています。
ウワダンから更に東に走ったところにリンシャット構造と呼ばれる不思議な地形があります。巨大なクレーター状の地形で、隕石の落下によるものと推測されましたが、特定の鉱物が発見されず、円形都市だったと言われるアトランティスだったのではないかとも囁かれています。しかし直径50キロの円形は、地上からでは確認する事が出来ず、宇宙から眺めるとまるで人間の目の様に見える事からサハラの目とも言われています。 -
モーリタニアでは幾つもの砂漠でキャンプを張り、其々の砂漠を堪能する事が叶いましたが、中でも印象的だったのがモン・エデルグと呼ばれる砂丘でした。此処周辺にはアフリカなどで良く見られるテーブルマウンテンが連続する地域ですが、一際巨大なテーブルマウンテンを背後に、一際深く刻まれた風紋が美しかったです。
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サハラ砂漠と砂漠に埋もれつつある嘗ての隊商都市、それだけしか無いモーリタニアですが、貴重なオアシスが存在します。テルジット・オアシスです。テーブルマウンテンが連なるその谷間に、小川が流れ椰子の木が生い茂ります。砂漠の中にも川はあります。しかし暑過ぎて地上では渇いてしまう為、地下水脈を形成します。テーブルマウンテンの深い谷間が直射日光を遮る為でしょうか、この部分だけ水が地上に現れます。砂漠を数日も走り抜けてきて、この光景は反則過ぎました。嗚呼美しや…。
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2018年12月31日大晦日。モーリタニアのサハラ砂漠をぐるっと周遊してきて、遂に大西洋に到達しました。砂漠漬けの状態から、大晦日に大西洋到達。流石プロの旅行代理店、ツアーの組み方が秀逸です。2018年最後に沈む夕陽を大西洋に眺め、2019年初日の出をサハラ砂漠に眺める。良いツアーになりました。
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モーリタニア唯一の自然遺産であるバン・ダルガン国立公園にて、フラミンゴ、ペリカン等野鳥のサンクチュアリを観察しました。鳥自体は珍しいものではありませんが、これまで砂漠を走ってきて、この光景は、やっぱり反則です。
その後もサハラ砂漠が大西洋へと落ち込む波打ち際を、野鳥を蹴散らせながら?突っ走り首都であるヌアクショット迄戻りました。最初こそ全編砂漠と言う行程に不安も感じましたが、なんの、なんの、砂漠とは言え多様性があり、そしてシンゲッティとウワダン、そして砂漠を行き来した隊商達の気分を存分に味わえる素晴らしいツアーでした。 -
2022年コロナ明け最初の訪問先がアルジェリアになりました。ビザ関連が面倒で、且つガルダイアやアルジェのカスバ等、現地ガイドの同伴が必須など、観光に関して制限の多い国です。しかし昨今の我が国の現状を鑑みれば頷ける事も多いです。
アルジェリアはフランス侵略時代、そしてフランスからの独立を勝ち取った戦争で大きな国民の犠牲を産みました。こうした事から外圧に対して非常にナーバスな部分を感じます。観光に関しても非常に消極的で、独自の文化を守りたいと言う気持ちを強く感じます。アラブ諸国では、比較的緩和されてきましたがオマーン等にその傾向がみられ、他ではブータン等が独自の厳しい観光政策を施しています。
観光公害が叫ばれる昨今、これらの国の政策も注目されるべきかもしれません。
アルジェリアの旅
https://4travel.jp/travelogue/11779961 -
アルジェのカスバからアルジェを見下ろします。フランスはアルジェリアを他のアフリカの植民地とは異なり、本格的にフランス化を目指しました。アルジェの街並みはまるでフランスの都市であるかの様な外観です。坂が多い港町で、風光明媚な街でもあります。
そんな中、フランスとの独立戦争時彼等の拠点となったのがカスバと呼ばれる地域です。歴史ある建築が折り重なる様に建つこの地域は世界〇大スラムと恐れられる事もありますが、実際は大きく異なります。
スラムとは多くの流民が流入し、意図せず建てられた違法建築で迷宮化し、ギャングが仕切り、治安は最悪と言うのが通常です。これに対してアルジェのカスバはイスラーム法に依り意図的に迷宮化した市街区であり、住民は敬虔なムスリム、戒律により守られた住民達は至って平穏、治安は保たれており、夕方を過ぎても子供が外で遊んでいます。
カスバはスラムではありません。アルジェのカスバが怖い所と言う通説は、入り組んだその外観や、ガイド無しでは入場不可と言う規則が生み出した迷信と言って良いでしょう。 -
カスバの坂を下りきった、旧市街とカスバの境界にケチョウア・モスクが建っています。この界隈はスークとなっており、アルジェでも一際人が詰めかける賑やかな界隈です。そしてその先にはアルジェの港。現在も大型船が次々と出航していきます。往時は伝説の海賊バルバロッサが帆を揚げて出航していった事でしょう。
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独立記念塔を訪れました。アルジェは坂が多い風光明媚な港町。その高台に位置する記念塔はアルジェの何処からでも眺める事が出来ると共に、此処からのアルジェの展望も素晴らしい。独立記念塔の真下に位置する植物園も広大で美しいので、是非セットで訪れて欲しいです。(ロープウェイで結ばれているから楽ちん)そして、美しい展望だけでは無く、独立に際し多くの犠牲を払った歴史も、少しは振り返って欲しいです。
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終にやって参りました。ムザブの谷です。此処に迫害を受けたイバード派の人々の隠れ里として暮らし始めたのが始まりで、谷の中の丘に同心円状に家屋を築き、現代に至る迄厳しい戒律を守りながら暮らしています。
イバード派はハワリージュ派の分派。ハワリージュ派はイスラームで初めて分派した派閥であり、正統派4代目カリフ、アリーを暗殺した派閥です。そのハワリージュ派から分派したイバード派はハワリージュ派系統の中では一番穏健な派閥とされており、現在ではオマーンや此処ガルダイアに信徒がいます。イスラームの中でも人気の高いアリーを暗殺した系統の派閥である為、肩身の狭い派閥である事は容易に推測できます。
写真はガルダイア -
戒律は非常に厳しく、女性は片目だけを抜かし、全身をベールで身を包みます。外部との接触は厳しく制限され、観光客は地元ガイドを雇わないと内部の入場は出来ません。ムザブの谷にはこうした集落が5つ存在し、現在では集落外の平野部にも市街が整備され、新市街は旅人も自由に歩く事が出来ます。
写真はブー・ヌーラ -
こんもりとした丘に同心円状に建てられた家屋、遠くから眺めればまるでピラミッドの様な美しい外観。その威容はル・コルビュジェを始め、多くのヨーロッパの近代建築家にインスパイアを与えました。彼はアイデアが尽きるとガルダイアを訪れたとさえ言います。
私は不思議に感じた事があります。ガルダイアの各集落は、イスラームの平等の精神から各家屋が均等に建てられています。だからこそ、均整の取れた素晴らしい外観となるのですが、これだけの規模の集落をどうやて統治していたのでしょう?昔の街並みには、いや現代だって、その街、その地域を統治していただろう者の、豪邸やら王宮がある筈です。私が見つけられなかっただけなのでしょうか?
写真はエル・アーテフ -
厳しい戒律と外界からの遮断、その恩恵を得て、これだけの規模の集落が、まるで往時を真空パックしたかの様な世界観を現世に伝えています。もちろんそれには此方も厳しいルールの下、レスペクトを持って拝観すべきです。美しい外観に留まらず、生活スタイルも独自の姿を保持し続ける、生きた化石の様な貴重な集落です。
同じくサハラ交易で栄えたトンブクトゥは紛争地のまま、シンゲッティは砂漠に埋もれつつあり半遺跡化してしまっています。だからこそこれからも後世に残して欲しい、残さねばならない、大切な、大切な遺産。そして其処を観光する旅人の我々に課せられた使命。本当色々考えさせられた訪問となりました。
写真はメリカ -
ガルダイアのツアーを終え、5つの集落の外観を眺められる場所とその其々の街への訪問と言う約束を完了し、ホテルへと戻る前に、
「あと一つお願いがあります。夕陽を眺めたい、叶うならば集落と一緒に。」
なぁんて唐突で、無茶なリクエストにドライバー兼ガイドさんは暫し考え込み、そしてジャストなタイミングで私をエスコートしてくれました。
ベニ・イスゲンをバックにガルダイアに沈む夕日を堪能します。部屋に戻り、フォトショップでおめかしして、出来上がった写真をインスタックスで出力して、お世話になったホテルのホテルマンに手渡すと、なんとベニ・イスゲンの住民さんで、大変喜んで下さりました。こう言う事もあるんですね。
こうしてサハラ交易四天王都市、トンブクトゥ、シンゲッティ、そしてガルダイア。三都市目を訪問する事が叶いました。残すはリビアのガダメスのみです。
写真はベニ・イスゲン -
こうしてこれ迄マグレブと呼ばれる国々を旅してきました。モロッコに始まり、それはトンブクトゥ、つまりマリへの旅へと私を導きました。チュニジア、そして地中海を挟んでアンダルスの旅。そして嘗てから念願だったサハラ交易の重要都市を巡って、モーリアニアのシンゲッティ、アルジェリアのガルダイアを旅しました。そしてマグレブの旅も、残すはリビア、即ちガダメスのみ。そしてこの10月24日、私のマグレブ最期の旅が始まります。
最後までご覧になってくださり、ありがとうございました。
写真はクレオパトラの娘の墓だとされるモーリアニア王家の墓
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