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世界文化遺産のルアンパバーンは、1353年から約200年の間に、ランサン王国の王都として栄えた街です。ナムカーン川とメコン川の合流地点にあるこの小さな街には、目抜き通りのシー・サワンウォン通りやサッカリン通りを中心に、80余りの寺院が集まっています。

2019早春、ベトナムとラオスの旅(11/28):2月14日(4):ルアンパバーン(8):ワット・マイ 、御本尊、脇侍群、ホー・パバーン

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2019/02/12 - 2019/02/16

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旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

世界文化遺産のルアンパバーンは、1353年から約200年の間に、ランサン王国の王都として栄えた街です。ナムカーン川とメコン川の合流地点にあるこの小さな街には、目抜き通りのシー・サワンウォン通りやサッカリン通りを中心に、80余りの寺院が集まっています。

交通手段
観光バス 徒歩

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  • 写真撮影が許可されていた、通称、『ワット・マイ』の御本尊のズームアップ光景です。ラオスの重要な仏像は、ほとんどが金属製の黄金物のようでした。すらりとした姿態の座禅姿でした。

    写真撮影が許可されていた、通称、『ワット・マイ』の御本尊のズームアップ光景です。ラオスの重要な仏像は、ほとんどが金属製の黄金物のようでした。すらりとした姿態の座禅姿でした。

  • 通称、『ワット・マイ』の御本尊の頭部のズームアップ光景です。やや右前からの撮影です。座禅姿ですから、目元は半眼(はんがん)で表現されていました。半眼と言っても、正面を見作植えた、きりりとした顔立ちの姿でした。

    通称、『ワット・マイ』の御本尊の頭部のズームアップ光景です。やや右前からの撮影です。座禅姿ですから、目元は半眼(はんがん)で表現されていました。半眼と言っても、正面を見作植えた、きりりとした顔立ちの姿でした。

  • 同じく、『ワット・マイ』の御本尊の頭部のズームアップ光景です。やや左前からの撮影です。帽子のような被り物を身に着けられていますが、その防止に施された文様が、螺髪(らほつ)を表現しているようでした。仏像の内、如来像の頭髪の呼び名が螺髪とされます。如来像には、大日如来、阿弥陀如来、釈迦如来があります。螺髪は、仏の三十二相の一つともされます。

    イチオシ

    同じく、『ワット・マイ』の御本尊の頭部のズームアップ光景です。やや左前からの撮影です。帽子のような被り物を身に着けられていますが、その防止に施された文様が、螺髪(らほつ)を表現しているようでした。仏像の内、如来像の頭髪の呼び名が螺髪とされます。如来像には、大日如来、阿弥陀如来、釈迦如来があります。螺髪は、仏の三十二相の一つともされます。

  • 赤色の木枠に吊り下げられた、小振りな鐘の光景です。遠くまで音を響かせたのではなく、近くの人達に知らせるのが目的の鐘だったように見えます。吊下げる木枠があるのは、室内用として、この場所で使用されたものと考えてよさそうです。

    赤色の木枠に吊り下げられた、小振りな鐘の光景です。遠くまで音を響かせたのではなく、近くの人達に知らせるのが目的の鐘だったように見えます。吊下げる木枠があるのは、室内用として、この場所で使用されたものと考えてよさそうです。

  • こちらは、絡み合った二頭の黄金龍のレリーフ飾りがあった枠に吊り下げられていました。ドラ(銅鑼)のような光景です。先程の鐘とセットで使われた鳴り物のようでした。ドラは、青銅、真鍮、鉄などでできた金属製円盤を枠(ドラスタンド)に吊るして、桴で打ち鳴らします。仏教の法要、民俗芸能の囃子、歌舞伎下座音楽、出帆の合図等、広く用いられます。(ウィキペディア)

    こちらは、絡み合った二頭の黄金龍のレリーフ飾りがあった枠に吊り下げられていました。ドラ(銅鑼)のような光景です。先程の鐘とセットで使われた鳴り物のようでした。ドラは、青銅、真鍮、鉄などでできた金属製円盤を枠(ドラスタンド)に吊るして、桴で打ち鳴らします。仏教の法要、民俗芸能の囃子、歌舞伎下座音楽、出帆の合図等、広く用いられます。(ウィキペディア)

  • 再度紹介する、『ワット・マイ』の釈迦如来のような御本尊と、その周りの脇侍の光景です。沢山の脇侍が祀られていましたので、脇侍群と呼んだ方がよさそうな光景でした。

    再度紹介する、『ワット・マイ』の釈迦如来のような御本尊と、その周りの脇侍の光景です。沢山の脇侍が祀られていましたので、脇侍群と呼んだ方がよさそうな光景でした。

  • 端正なお顔の脇侍のズームアップ光景です。手を上げて手の平を前に向けた印相は、『施無畏印(せむいいん)』と呼ばれています。漢字の文字が示す通り、『恐れ(畏)なくてよい』と相手を励ますサインとされます。不空成就如来が結びます。

    イチオシ

    端正なお顔の脇侍のズームアップ光景です。手を上げて手の平を前に向けた印相は、『施無畏印(せむいいん)』と呼ばれています。漢字の文字が示す通り、『恐れ(畏)なくてよい』と相手を励ますサインとされます。不空成就如来が結びます。

  • 左斜め前から眺めた、脇侍群の光景です。すべてが黄金仏でした。最前列の右端には、遺影写真が飾られた、このお寺の高僧だったらしい方の、写実的な造りの座像もありました。

    左斜め前から眺めた、脇侍群の光景です。すべてが黄金仏でした。最前列の右端には、遺影写真が飾られた、このお寺の高僧だったらしい方の、写実的な造りの座像もありました。

  • ドラのような鳴り物の光景です。先に紹介したドラとは、本堂の反対側に置かれていました。同じように8個の小さな円状の突起と、その中心に大きな突起があるデザインでした。先に紹介したドラと比べますと、こちらの方がかなり新しそうでした。

    ドラのような鳴り物の光景です。先に紹介したドラとは、本堂の反対側に置かれていました。同じように8個の小さな円状の突起と、その中心に大きな突起があるデザインでした。先に紹介したドラと比べますと、こちらの方がかなり新しそうでした。

  • 裏側に回って眺めた仏像群の光景です。通称『ワット・マイ』、正式名『ワット・マイ・スワナプームマー』の公式HP(観光協会)からの紹介です。『1796年に建立された本寺院は、1821年マンタトゥラート王の時代に修復され、その際に現在の名前が付けられました。地元の人々からはワット・マイの名で親しまれています』と、現在の名前の由来が紹介されていました。

    裏側に回って眺めた仏像群の光景です。通称『ワット・マイ』、正式名『ワット・マイ・スワナプームマー』の公式HP(観光協会)からの紹介です。『1796年に建立された本寺院は、1821年マンタトゥラート王の時代に修復され、その際に現在の名前が付けられました。地元の人々からはワット・マイの名で親しまれています』と、現在の名前の由来が紹介されていました。

  • 横から眺めた、仏像群の光景です。公式HP(観光協会)からの紹介の続きです。『70年の歳月をかけて建てられた本堂は豪華絢爛。5層に重なる華やかな屋根とヴェッサンタラの物語や地元の人々の伝統的な暮らしぶりが描かれた黄金の壁画が見どころです』と、寺院の見所が紹介されていました。

    横から眺めた、仏像群の光景です。公式HP(観光協会)からの紹介の続きです。『70年の歳月をかけて建てられた本堂は豪華絢爛。5層に重なる華やかな屋根とヴェッサンタラの物語や地元の人々の伝統的な暮らしぶりが描かれた黄金の壁画が見どころです』と、寺院の見所が紹介されていました。

  • ダイナミックな唐草風文様のレリーフの後背をバックにした、黄金仏の光景です。黄金物もレリーフの範疇になるようです。御本尊と同じように、スリムでしなやかなお姿でした。左手を上にしたポーズです。

    ダイナミックな唐草風文様のレリーフの後背をバックにした、黄金仏の光景です。黄金物もレリーフの範疇になるようです。御本尊と同じように、スリムでしなやかなお姿でした。左手を上にしたポーズです。

  • 同じく、ダイナミックな唐草風文様のレリーフの後背をバックにした、黄金仏の光景です。こちらは右手を上にしたポーズでした。同じような被り物で、服装などの飾りも同じようでした。

    同じく、ダイナミックな唐草風文様のレリーフの後背をバックにした、黄金仏の光景です。こちらは右手を上にしたポーズでした。同じような被り物で、服装などの飾りも同じようでした。

  • 石造らしい柱の全体光景です。二本の柱が近接しているのは、建物の強度を担う役割より、装飾的な色彩が濃いためのようでした。公式HP(観光協会)からの紹介の続きです。『国立博物館の祠に納められているパバーン仏は、4月のラオス正月(ピーマイ・ラオ)の後半3日間だけこの寺院に運ばれ、地元の人々にお披露目されます』と紹介されていました。

    石造らしい柱の全体光景です。二本の柱が近接しているのは、建物の強度を担う役割より、装飾的な色彩が濃いためのようでした。公式HP(観光協会)からの紹介の続きです。『国立博物館の祠に納められているパバーン仏は、4月のラオス正月(ピーマイ・ラオ)の後半3日間だけこの寺院に運ばれ、地元の人々にお披露目されます』と紹介されていました。

  • 落ち着いた色調の赤色と、黄金色を基調とした室内の装飾と、石造らしい柱の光景です。柱にも同じような赤色と黄金色を基調とした装飾が施されていました。壁面の黄金飾りをズームアップしてみましたら、それぞれが小さな仏座像でした。

    落ち着いた色調の赤色と、黄金色を基調とした室内の装飾と、石造らしい柱の光景です。柱にも同じような赤色と黄金色を基調とした装飾が施されていました。壁面の黄金飾りをズームアップしてみましたら、それぞれが小さな仏座像でした。

  • 石造らしい柱の最上部付近のズームアップ光景です。近接した場所の柱でしたが、それぞれ、主要な梁の交点や終端を支えているようでしたから、まったくの飾りではないようでした。

    石造らしい柱の最上部付近のズームアップ光景です。近接した場所の柱でしたが、それぞれ、主要な梁の交点や終端を支えているようでしたから、まったくの飾りではないようでした。

  • 出入口付近の繊細なレリーフのズームアップ光景です。金箔で仕上げられているようでした。公式HP(観光協会)からの紹介の最後です。拝観上の注意事項が記されていました。?ノースリーブやひざ上丈の短パン、ミニスカートでは入場できません。?本堂では帽子、靴を脱いでください。③女性が僧侶に触れることは禁止されています。④手をつなぐ、肩をくむ等のスキンシップはご遠慮ください。?骨董品の輸出、売買は違法です。の五点でした。

    出入口付近の繊細なレリーフのズームアップ光景です。金箔で仕上げられているようでした。公式HP(観光協会)からの紹介の最後です。拝観上の注意事項が記されていました。?ノースリーブやひざ上丈の短パン、ミニスカートでは入場できません。?本堂では帽子、靴を脱いでください。③女性が僧侶に触れることは禁止されています。④手をつなぐ、肩をくむ等のスキンシップはご遠慮ください。?骨董品の輸出、売買は違法です。の五点でした。

  • 室内装飾の紹介を終えて、この場所は正面出入口前の軒下部分になります。室内と同じような意匠の飾りでした。左側の柱の飾りは、幾何学模様と、植物をデフォルメしたような文様でした。また、天井には、扇風機とシャンデリアが交互に吊り下げられていました。

    室内装飾の紹介を終えて、この場所は正面出入口前の軒下部分になります。室内と同じような意匠の飾りでした。左側の柱の飾りは、幾何学模様と、植物をデフォルメしたような文様でした。また、天井には、扇風機とシャンデリアが交互に吊り下げられていました。

  • 日本の寺社で例えれば、境内摂社か、境内末社のような建物光景でした。その小さな社の前には、三体並んだ黄金仏が祀られていました。社(やしろ)の破風は、5戸分が見えていました。

    日本の寺社で例えれば、境内摂社か、境内末社のような建物光景でした。その小さな社の前には、三体並んだ黄金仏が祀られていました。社(やしろ)の破風は、5戸分が見えていました。

  • 三体並んで祀られていた黄金仏のズームアップ光景です。二体が座像で、一体が立像でした。左端の座像の上には、七つの頭の大蛇がありました。七つの頭の大蛇は、インド神話に起源を持つ、蛇の精霊あるいは蛇神です。釈迦が悟りを開く時に守護したとされ、仏教に竜王として取り入れらました。

    三体並んで祀られていた黄金仏のズームアップ光景です。二体が座像で、一体が立像でした。左端の座像の上には、七つの頭の大蛇がありました。七つの頭の大蛇は、インド神話に起源を持つ、蛇の精霊あるいは蛇神です。釈迦が悟りを開く時に守護したとされ、仏教に竜王として取り入れらました。

  • こちらの建物は、日本の寺社で例えれば、庫裏か社務所鵜のような造りに見えました。あるいは、修行僧の方達が起居している建物かもしれません。寺院と比べますと色彩や飾りが抑制された建物でした。

    こちらの建物は、日本の寺社で例えれば、庫裏か社務所鵜のような造りに見えました。あるいは、修行僧の方達が起居している建物かもしれません。寺院と比べますと色彩や飾りが抑制された建物でした。

  • この写真では三層分か、はっきりとは見えませんが、『ワット・マイ』の五重の屋根の光景になるようです。ラオスの伝統的な寺院建築様式とされます。最上層の屋根の中央に飾られるストゥパ風の飾りも共通しているようでした。『ドクソファ』と呼ばれる飾で、宇宙の中心のメール山(須弥山)とそれを取りまく宇宙を表しているとの解説もありました。

    この写真では三層分か、はっきりとは見えませんが、『ワット・マイ』の五重の屋根の光景になるようです。ラオスの伝統的な寺院建築様式とされます。最上層の屋根の中央に飾られるストゥパ風の飾りも共通しているようでした。『ドクソファ』と呼ばれる飾で、宇宙の中心のメール山(須弥山)とそれを取りまく宇宙を表しているとの解説もありました。

  • 『ワット・マイ』の境内光景です。境内の一番端になる付近のようでした。確認はできていませんが、赤い色彩はベンガラを使ったものに見えました。

    『ワット・マイ』の境内光景です。境内の一番端になる付近のようでした。確認はできていませんが、赤い色彩はベンガラを使ったものに見えました。

  • 二つ並んだ破風の光景と、その後ろに続く黄金のストゥパらしい尖塔の光景です。屋根の端の飾りは、タイ国の上座部仏教寺院の屋根の突端部分には、『 チョー・ファー 』と呼ばれる神聖な棟飾りが乗せられています。ラオス建築の寺院の場合の正式名称は、まだ調べが付きませんが、同じ趣旨の屋根飾りになるようです。

    二つ並んだ破風の光景と、その後ろに続く黄金のストゥパらしい尖塔の光景です。屋根の端の飾りは、タイ国の上座部仏教寺院の屋根の突端部分には、『 チョー・ファー 』と呼ばれる神聖な棟飾りが乗せられています。ラオス建築の寺院の場合の正式名称は、まだ調べが付きませんが、同じ趣旨の屋根飾りになるようです。

  • 斜め前から眺めた、『ワット・マイ』の建物光景です。左側の離れた場所から眺めますと、五層の屋根が見えるようでした。ネット情報では、道路側から撮影した写真に五層の屋根が写っていました。

    イチオシ

    斜め前から眺めた、『ワット・マイ』の建物光景です。左側の離れた場所から眺めますと、五層の屋根が見えるようでした。ネット情報では、道路側から撮影した写真に五層の屋根が写っていました。

  • 『ルアンパバーン・シティ・マップ』のタイトルがあった庵兄看板の光景です。北方向はセオリー通り真上の地図です。ルアンパバーンは、メコン川本流の左岸に位置し、本流から分岐したナム・カーン川に守られるような場所に位置しています。ルアンパバーン国際空港が、ナム・カーン川の東側に記されていました。

    『ルアンパバーン・シティ・マップ』のタイトルがあった庵兄看板の光景です。北方向はセオリー通り真上の地図です。ルアンパバーンは、メコン川本流の左岸に位置し、本流から分岐したナム・カーン川に守られるような場所に位置しています。ルアンパバーン国際空港が、ナム・カーン川の東側に記されていました。

  • 2006年に完成した『ホー・パバーン』の建物光景です。入口右手の少し高い基壇の上に建っていました。『パバーン(黄金仏)像安置祠』の呼び名もあります。『パバーン(黄金仏)』は、スリランカから来た仏像という伝承がありますが、タイに奪取され、返却されるなど、波乱な歴史を持ちます。

    2006年に完成した『ホー・パバーン』の建物光景です。入口右手の少し高い基壇の上に建っていました。『パバーン(黄金仏)像安置祠』の呼び名もあります。『パバーン(黄金仏)』は、スリランカから来た仏像という伝承がありますが、タイに奪取され、返却されるなど、波乱な歴史を持ちます。

  • 青空をバックにした、『ヤシ(椰子)』の光景です。『ヤシ(椰子)』は、単子葉植物のヤシ目ヤシ科に属する植物の総称とされます。高木では、30メートルほどに成長します。有用植物で、この樹にも椰子の実が生っていました。

    青空をバックにした、『ヤシ(椰子)』の光景です。『ヤシ(椰子)』は、単子葉植物のヤシ目ヤシ科に属する植物の総称とされます。高木では、30メートルほどに成長します。有用植物で、この樹にも椰子の実が生っていました。

  • 高い台座の上に建つ、最後のルアンパバーン国王で、初代ラオス国王の『シーサワンウォン王像』の光景です。太平洋戦争末期の1945年3月9日、日本軍が明号作戦を発動し、インドシナに駐留するフランス軍を攻撃、駆逐しました。しかし、当時のラオスは交通不便な山地だったため、日本側の渡辺耐三領事がラオス王宮にたどり着いたのは3月20日頃、同領事は、国王にフランス軍を駆逐したことを伝えましたが、『シーサワーンウォン王(1885~1959年)』は、当初はこれを信じなかったとされます。

    高い台座の上に建つ、最後のルアンパバーン国王で、初代ラオス国王の『シーサワンウォン王像』の光景です。太平洋戦争末期の1945年3月9日、日本軍が明号作戦を発動し、インドシナに駐留するフランス軍を攻撃、駆逐しました。しかし、当時のラオスは交通不便な山地だったため、日本側の渡辺耐三領事がラオス王宮にたどり着いたのは3月20日頃、同領事は、国王にフランス軍を駆逐したことを伝えましたが、『シーサワーンウォン王(1885~1959年)』は、当初はこれを信じなかったとされます。

  • 初代ラオス国王の『シーサワンウォン王像』のズームアップ光景です。1945年4月7日に日本軍部隊の姿を見るに到って、漸く領事の言を信じ、翌8日にラオス王国の『独立宣言』を発しました。日本の敗戦後に独立を撤回、その後、1949年に再びラオス王国を建国し、立憲君主としてその初代国王となりました。現地ガイドさんによれば、かなりの肥満体で、糖尿病により亡くなったようです。1959年に崩御、子のサワーンワッタナーが国王となりました。この像は、当時のレニングラード(現在のサンクトペテルブルグ)から寄贈されたことがロシア語で書かれています。

    初代ラオス国王の『シーサワンウォン王像』のズームアップ光景です。1945年4月7日に日本軍部隊の姿を見るに到って、漸く領事の言を信じ、翌8日にラオス王国の『独立宣言』を発しました。日本の敗戦後に独立を撤回、その後、1949年に再びラオス王国を建国し、立憲君主としてその初代国王となりました。現地ガイドさんによれば、かなりの肥満体で、糖尿病により亡くなったようです。1959年に崩御、子のサワーンワッタナーが国王となりました。この像は、当時のレニングラード(現在のサンクトペテルブルグ)から寄贈されたことがロシア語で書かれています。

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