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ベトナムとラオスの旅の紹介です。ラオスでは、世界遺産の街、ルアンパバーンに2泊しました。ラオスの首都はビエンチャンですが、ビエンチャン、ルアンパバーンともに、かつては王国があった地域です。

2019早春、ベトナムとラオスの旅(5/28):2月13日(2):ルアンパバーン(2):ルアンパバーンのホテル、世界遺産の街散策、市場

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2019/02/12 - 2019/02/16

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旅人のくまさん

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ベトナムとラオスの旅の紹介です。ラオスでは、世界遺産の街、ルアンパバーンに2泊しました。ラオスの首都はビエンチャンですが、ビエンチャン、ルアンパバーンともに、かつては王国があった地域です。

交通手段
観光バス

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  • ルアンパバーンにあるホテル、『マノラック・ホテル』の全景です。2泊3日をゆったりと過ごすことができました。ホテルの施設を紹介しながら、ラオスの歴史の紹介です。現在の正式名称は社会主義国の『ラオス人民民主共和国』、通貨はキープ、人口約691万人、首都はヴィエンチャンです。

    ルアンパバーンにあるホテル、『マノラック・ホテル』の全景です。2泊3日をゆったりと過ごすことができました。ホテルの施設を紹介しながら、ラオスの歴史の紹介です。現在の正式名称は社会主義国の『ラオス人民民主共和国』、通貨はキープ、人口約691万人、首都はヴィエンチャンです。

  • 2階のベランダからの光景です。東南アジア諸国連合(ASEAN:アセアン)加盟国で、ASEAN加盟10カ国中、唯一の内陸国です。面積は日本の約63%に相当し、国土の約70%は高原や山岳地帯です。国土は南北に細長く、北は中国、東はベトナム、南はカンボジア、南西はタイ、北西はミャンマーの五カ国と国境を接しています。

    2階のベランダからの光景です。東南アジア諸国連合(ASEAN:アセアン)加盟国で、ASEAN加盟10カ国中、唯一の内陸国です。面積は日本の約63%に相当し、国土の約70%は高原や山岳地帯です。国土は南北に細長く、北は中国、東はベトナム、南はカンボジア、南西はタイ、北西はミャンマーの五カ国と国境を接しています。

  • 2階のベランダの光景です。ワックスを塗って、ピカピカに床板が磨かれていました。現在のラオス国は、国連が定める『後発開発途上国』の一つです。市場経済に移行したものの、政治はラオス人民革命党による一党独裁制です。

    2階のベランダの光景です。ワックスを塗って、ピカピカに床板が磨かれていました。現在のラオス国は、国連が定める『後発開発途上国』の一つです。市場経済に移行したものの、政治はラオス人民革命党による一党独裁制です。

  • 建物と建物の間に簡易な屋根が造られ、その下にテーブル席が設けられていました。時代を遡って、1951年にはカンボディア、ベトナムの抗仏組織らと『インドシナ合同民族統一戦線』を結成、対仏ゲリラ闘争を開始しました。ベトナムおよびラオスによる対仏ゲリラ闘争の始まりにより、フランスは植民地支配の終結を判断、1953年10月22日にラオス王国は完全独立しました。

    イチオシ

    建物と建物の間に簡易な屋根が造られ、その下にテーブル席が設けられていました。時代を遡って、1951年にはカンボディア、ベトナムの抗仏組織らと『インドシナ合同民族統一戦線』を結成、対仏ゲリラ闘争を開始しました。ベトナムおよびラオスによる対仏ゲリラ闘争の始まりにより、フランスは植民地支配の終結を判断、1953年10月22日にラオス王国は完全独立しました。

  • 独立後、ラオス王国ではプーマ首相の下、『第一次経済・社会開発五ヶ年計画』が実行に移され、国づくりへの取組みが本格的に始動しました。 1954年5月8日からインドシナ停戦会議がジュネーヴで開催され、全外国軍隊のラオス王国からの撤退、パテート・ラーオ軍の中南部10県からの撤収と北部二県への結集、および軍事的中立が合意、採択されました。

    独立後、ラオス王国ではプーマ首相の下、『第一次経済・社会開発五ヶ年計画』が実行に移され、国づくりへの取組みが本格的に始動しました。 1954年5月8日からインドシナ停戦会議がジュネーヴで開催され、全外国軍隊のラオス王国からの撤退、パテート・ラーオ軍の中南部10県からの撤収と北部二県への結集、および軍事的中立が合意、採択されました。

  • 先ほど紹介した、簡易な屋根の下のテーブル席の光景です。インドシナ停戦会議で、王国政府とパテート・ラーオの間でパテート・ラーオ軍の一部を王国政府軍に編入する事、パテート・ラーオは北部二県の行政権をパテート・ラーオから王国政府に返還する事、パテート・ラーオは政治団体『ネオ・ラーオ・ハクサート』を設立、改組し、王国政府との連合政府を樹立する事。の3点が合意されました。

    先ほど紹介した、簡易な屋根の下のテーブル席の光景です。インドシナ停戦会議で、王国政府とパテート・ラーオの間でパテート・ラーオ軍の一部を王国政府軍に編入する事、パテート・ラーオは北部二県の行政権をパテート・ラーオから王国政府に返還する事、パテート・ラーオは政治団体『ネオ・ラーオ・ハクサート』を設立、改組し、王国政府との連合政府を樹立する事。の3点が合意されました。

  • 1956年7月4日、王国政府とネオ・ラーオ・ハクサート(NLHS)の連立政権樹立の合意をうけて、カタイ内閣が総辞職、8月10日にプーマ親王を首相とする連立政権が発足しました。1975年、ラオス王国からラオス人民民主共和国への移行は大きな衝突は発生することなく粛々と行われたことから、『静かな革命』とも呼ばれますが、2~3年はラオスの経済および行政は混乱状態に陥りました。

    1956年7月4日、王国政府とネオ・ラーオ・ハクサート(NLHS)の連立政権樹立の合意をうけて、カタイ内閣が総辞職、8月10日にプーマ親王を首相とする連立政権が発足しました。1975年、ラオス王国からラオス人民民主共和国への移行は大きな衝突は発生することなく粛々と行われたことから、『静かな革命』とも呼ばれますが、2~3年はラオスの経済および行政は混乱状態に陥りました。

  • 写真のピントが遠くの花に合ってしまいましたが、アデニウムの赤い花の光景です。キョウチクトウ科アデニウム属の多年草で、原産地は、南西アフリカ、南アフリカ、ソコトラ島、アラビア半島などです。『砂漠のバラ』別名を持ちます。

    写真のピントが遠くの花に合ってしまいましたが、アデニウムの赤い花の光景です。キョウチクトウ科アデニウム属の多年草で、原産地は、南西アフリカ、南アフリカ、ソコトラ島、アラビア半島などです。『砂漠のバラ』別名を持ちます。

  • 現地では咲き終えた『ゴクラクチョウカ(極楽鳥花)』の花かと思いましたが、違っていたようです。ネット検索では、ヘリコニア・リングラタの花が似ているようでした。垂下する花序では、ヘリコニア・ロストラータがあります。

    現地では咲き終えた『ゴクラクチョウカ(極楽鳥花)』の花かと思いましたが、違っていたようです。ネット検索では、ヘリコニア・リングラタの花が似ているようでした。垂下する花序では、ヘリコニア・ロストラータがあります。

  • 椰子の実の光景です。『椰子の実(やしのみ)』では、島崎藤村の同名の詩を想い出します。1898年(明治31年)の夏、1ヶ月半ほど伊良湖岬に滞在した柳田國男が浜に流れ着いた椰子の実の話を藤村に語ったのが作詞のきっかけとなりました。一番の歌詞は『名も知らぬ遠き島より流れ寄る椰子の実一つ故郷の岸を離れて汝(なれ)はそも波に幾月』です。

    椰子の実の光景です。『椰子の実(やしのみ)』では、島崎藤村の同名の詩を想い出します。1898年(明治31年)の夏、1ヶ月半ほど伊良湖岬に滞在した柳田國男が浜に流れ着いた椰子の実の話を藤村に語ったのが作詞のきっかけとなりました。一番の歌詞は『名も知らぬ遠き島より流れ寄る椰子の実一つ故郷の岸を離れて汝(なれ)はそも波に幾月』です。

  • 日本でもよく見かける観葉植物のサンセベリアです。花が咲いているのを見たのは初めてでした。主な原産地はアフリカ(ナイジェリア・コンゴ民主共和国)の乾燥地帯で、スズラン亜科(リュウゼツラン科、キジカクシ科)チトセラン属の多年草です。標準和名は、『アツバチトセラン(厚葉千歳蘭)』です。

    日本でもよく見かける観葉植物のサンセベリアです。花が咲いているのを見たのは初めてでした。主な原産地はアフリカ(ナイジェリア・コンゴ民主共和国)の乾燥地帯で、スズラン亜科(リュウゼツラン科、キジカクシ科)チトセラン属の多年草です。標準和名は、『アツバチトセラン(厚葉千歳蘭)』です。

  • 泊まったホテルの表札の光景です。『マノラック・ホテル』の名前がラオス語でも記されているようでした。『マノラック』の意味を調べてみましたが、まだ分かりません。『アームを自由に巻きつけて好きな所へ取り付ける小物ラック』をマノラックと呼ぶようですが、これとホテルの名前の結びつきが分かりませんでした。

    泊まったホテルの表札の光景です。『マノラック・ホテル』の名前がラオス語でも記されているようでした。『マノラック』の意味を調べてみましたが、まだ分かりません。『アームを自由に巻きつけて好きな所へ取り付ける小物ラック』をマノラックと呼ぶようですが、これとホテルの名前の結びつきが分かりませんでした。

  • 夕食のための再集合まで4時間の自由時間がありましたので、世界遺産の街、ルアンパバーンを散策しました。街歩きをしながら、1975年以降のラオスの歴史の紹介です。1976年からヴィエンチャン及びルアンパバーンへの国営商店の開設、物資の退蔵や価格操作を禁止する法案の成立、配給制度の実施など、次々と対策を打ち立てられました。経済状況は徐々に改善されてきました。(ウィキペディア)

    夕食のための再集合まで4時間の自由時間がありましたので、世界遺産の街、ルアンパバーンを散策しました。街歩きをしながら、1975年以降のラオスの歴史の紹介です。1976年からヴィエンチャン及びルアンパバーンへの国営商店の開設、物資の退蔵や価格操作を禁止する法案の成立、配給制度の実施など、次々と対策を打ち立てられました。経済状況は徐々に改善されてきました。(ウィキペディア)

  • 1977年にはベトナムとの間に『ラオス・ベトナム友好協力条約』が締結され、ベトナムより国家建設に必要な資金援助や文化・教育・技術などに関する専門家派遣が受けられる体制が整えられました。1975年4月30日のサイゴン陥落によってベトナム戦争は終戦していました。

    1977年にはベトナムとの間に『ラオス・ベトナム友好協力条約』が締結され、ベトナムより国家建設に必要な資金援助や文化・教育・技術などに関する専門家派遣が受けられる体制が整えられました。1975年4月30日のサイゴン陥落によってベトナム戦争は終戦していました。

  • ラオスは、ソビエト連邦や中国との関係強化にも着手し、カイソーン書記長などが頻繁にモスクワや北京へ訪問、会談を実施し両国間の全面協力体制樹立に向けての共同声明を発表するなどの成果を挙げました。写真は、贈り物に使われる人形のようです。バレンタインデーに関連するような話もお聞きしました。

    ラオスは、ソビエト連邦や中国との関係強化にも着手し、カイソーン書記長などが頻繁にモスクワや北京へ訪問、会談を実施し両国間の全面協力体制樹立に向けての共同声明を発表するなどの成果を挙げました。写真は、贈り物に使われる人形のようです。バレンタインデーに関連するような話もお聞きしました。

  • 写真は、ちょっと変わった造りの建物の光景です。マーケットのようでした。1979年からはさらなる経済活性化を求め、『新経済政策』が閣議決定されました。これは自由主義経済原理の導入を目的とした政策で、実施に先立ち、キープ貨幣の100対1というデノミネーションが実施され、インフレーションの抑制を行いました。

    写真は、ちょっと変わった造りの建物の光景です。マーケットのようでした。1979年からはさらなる経済活性化を求め、『新経済政策』が閣議決定されました。これは自由主義経済原理の導入を目的とした政策で、実施に先立ち、キープ貨幣の100対1というデノミネーションが実施され、インフレーションの抑制を行いました。

  • 新経済政策の効果は大きく、1980年にはラオスの米の生産量が初めて100万トンを突破しました。一方、1980年6月14日、メコン川を挟んだタイ・ラオスの国境警備隊の間にて銃撃事件が発生しました。これにより、外交努力により解除へ動きつつあった国境封鎖に対して再び歯止めがかかることとなりました。写真は、これもバレンタインデーの贈り物のようです。

    新経済政策の効果は大きく、1980年にはラオスの米の生産量が初めて100万トンを突破しました。一方、1980年6月14日、メコン川を挟んだタイ・ラオスの国境警備隊の間にて銃撃事件が発生しました。これにより、外交努力により解除へ動きつつあった国境封鎖に対して再び歯止めがかかることとなりました。写真は、これもバレンタインデーの贈り物のようです。

  • バレンタインデーの贈り物のような籠盛のズームアップ光景です。瓶詰めの容器がセットになっていました。日本では祝い事には使いにくい色ですが、紫色の包装も使われていました。

    バレンタインデーの贈り物のような籠盛のズームアップ光景です。瓶詰めの容器がセットになっていました。日本では祝い事には使いにくい色ですが、紫色の包装も使われていました。

  • 長い鞘が垂れ下がった樹木の光景です。樹木の名前は特定できませんが、マメ科の植物には間違いがないようです。ところで、ラオスの国花は、公用語のラオス語で『チャンパ』と呼ばれています。日本でもお馴染みの『プルメリア』のことです。香りが高く、寺院に結びつきが深い花です。

    長い鞘が垂れ下がった樹木の光景です。樹木の名前は特定できませんが、マメ科の植物には間違いがないようです。ところで、ラオスの国花は、公用語のラオス語で『チャンパ』と呼ばれています。日本でもお馴染みの『プルメリア』のことです。香りが高く、寺院に結びつきが深い花です。

  • イベント会場の光景です。寺院の広大な境内が利用されているようでした。夜はナイト・マーケットになりそうな場所でした。現在時刻は午後の3時半前、まだ暑い時間帯ですから、お昼寝タイムかも知れません。買い物客は疎らでした。

    イチオシ

    イベント会場の光景です。寺院の広大な境内が利用されているようでした。夜はナイト・マーケットになりそうな場所でした。現在時刻は午後の3時半前、まだ暑い時間帯ですから、お昼寝タイムかも知れません。買い物客は疎らでした。

  • イベント会場の中心を示すようは、カラフルで大きなパラソルの光景です。先程とは違う場所から撮影した同じパラソルの光景です。白色は見当たりませんが、仏旗(ぶっき)を連想させる色合いでした。国際仏旗は、左から青、黄、赤、白、橙、そして一番右の列には5色を上から順番に並べた縞模様となっていて、それらの色にはそれぞれ意味が込められています。

    イベント会場の中心を示すようは、カラフルで大きなパラソルの光景です。先程とは違う場所から撮影した同じパラソルの光景です。白色は見当たりませんが、仏旗(ぶっき)を連想させる色合いでした。国際仏旗は、左から青、黄、赤、白、橙、そして一番右の列には5色を上から順番に並べた縞模様となっていて、それらの色にはそれぞれ意味が込められています。

  • テントの下にあった商店街の光景です。買い物客の姿は少なかったですが、それぞれのお店が営業していました。このお店は電気ポットや電気鍋など、電化製品が多く置かれていました。

    テントの下にあった商店街の光景です。買い物客の姿は少なかったですが、それぞれのお店が営業していました。このお店は電気ポットや電気鍋など、電化製品が多く置かれていました。

  • 敷地境界らしい場所にあった門の光景です。左に見えるのが1975年12月のラオス人民共和国成立時に制定された、ラオス国旗です。横に赤青赤、中央に白丸を配した国旗です。赤は独立闘争で流された血の色を、青は国の豊かさを象徴し、中央の白丸はメコン川に昇る月を表しています。

    敷地境界らしい場所にあった門の光景です。左に見えるのが1975年12月のラオス人民共和国成立時に制定された、ラオス国旗です。横に赤青赤、中央に白丸を配した国旗です。赤は独立闘争で流された血の色を、青は国の豊かさを象徴し、中央の白丸はメコン川に昇る月を表しています。

  • 現在のラオスを形成する中心民族は、ラオ族です。そのラオ族が初めて歴史の上に登場したのは、14世紀のラーンサーン王朝の時代です。ラーンサーン王朝の歴史は、統一ラーンサーン時代(1353~1710年前後)と、三国時代(1779年まで)に分けられます。三国は、ルアンパバーン王国、ヴィエンチャン王国とチャンパーサック王国です。

    現在のラオスを形成する中心民族は、ラオ族です。そのラオ族が初めて歴史の上に登場したのは、14世紀のラーンサーン王朝の時代です。ラーンサーン王朝の歴史は、統一ラーンサーン時代(1353~1710年前後)と、三国時代(1779年まで)に分けられます。三国は、ルアンパバーン王国、ヴィエンチャン王国とチャンパーサック王国です。

  • ラーンサーン王朝の滅亡後にフランスの植民地となりました。フランスは、ラオ族の複数形として『ラオス(Laos)』という言葉を作りました。独立した後のラオス政府の2000年8月の発表によりますと、49の民族が存在する多民族国家です。一説では68の民族が居住するともいわれています。また、フランス統治時代には38の民族に分類されていました。

    ラーンサーン王朝の滅亡後にフランスの植民地となりました。フランスは、ラオ族の複数形として『ラオス(Laos)』という言葉を作りました。独立した後のラオス政府の2000年8月の発表によりますと、49の民族が存在する多民族国家です。一説では68の民族が居住するともいわれています。また、フランス統治時代には38の民族に分類されていました。

  • 一般的には、ラオス人は、居住地の高さにより、次の『三つの民族』に大別されています。ラオスの通貨1,000キップ札には、3人の女性が描かれていますが、これは、この三つの民族を表しています。また、ラオスの公用ポスターにも、三つの民族が描かれています。現在のラオスに居住する人は、すべてラオス民族とみなされています。

    一般的には、ラオス人は、居住地の高さにより、次の『三つの民族』に大別されています。ラオスの通貨1,000キップ札には、3人の女性が描かれていますが、これは、この三つの民族を表しています。また、ラオスの公用ポスターにも、三つの民族が描かれています。現在のラオスに居住する人は、すべてラオス民族とみなされています。

  • ナイトマーケットのイベント光景などの写真です。先に紹介した、『三つの民族』の内の『低地ラオ(ラーオ・ルム)』は、メコン川周辺の低地に居住します。ラオ族、プー・タイ族、ルー族、プゥアン族、タイダム族、タイデーン族、タイカオ族、赤タイ族、黒タイ族、白タイ族などが居住しますが、その中心となるのが、全人口の60%を占めるラオ族です。主食はモチ米で、高床の家に住む仏教徒です。

    ナイトマーケットのイベント光景などの写真です。先に紹介した、『三つの民族』の内の『低地ラオ(ラーオ・ルム)』は、メコン川周辺の低地に居住します。ラオ族、プー・タイ族、ルー族、プゥアン族、タイダム族、タイデーン族、タイカオ族、赤タイ族、黒タイ族、白タイ族などが居住しますが、その中心となるのが、全人口の60%を占めるラオ族です。主食はモチ米で、高床の家に住む仏教徒です。

  • 次に『山腹ラオ(ラーオ・トゥン)』は、高度300~900メートルに居住する、ラオスの先住民族です。ラーオ・ルムに追いやられて中腹に住むようになったともいわれます。ロベン(ラバン)族、カム(クゥム)族、カッセン族、カトゥ族、アラック族などが居住します。焼き畑による稲作を行い、様々な精霊信仰を持ちます。

    次に『山腹ラオ(ラーオ・トゥン)』は、高度300~900メートルに居住する、ラオスの先住民族です。ラーオ・ルムに追いやられて中腹に住むようになったともいわれます。ロベン(ラバン)族、カム(クゥム)族、カッセン族、カトゥ族、アラック族などが居住します。焼き畑による稲作を行い、様々な精霊信仰を持ちます。

  • 三つ目の『高地ラオ(ラーオ・スン)』は、主にラオスの中部から北部の海抜千メートル以上の高地にアカ族、ハニ族、モン(メオ)族、ヤオ(ミエン)族、ローロー族、ランテン族などで、人口の8%程度が居住します。200年程前に中国から移り住んだといわれます。ランテン族は、かつてはアヘンを換金作物として栽培していました。

    三つ目の『高地ラオ(ラーオ・スン)』は、主にラオスの中部から北部の海抜千メートル以上の高地にアカ族、ハニ族、モン(メオ)族、ヤオ(ミエン)族、ローロー族、ランテン族などで、人口の8%程度が居住します。200年程前に中国から移り住んだといわれます。ランテン族は、かつてはアヘンを換金作物として栽培していました。

  • 文字の左側が途切れてしまいましたが、左端に『タート・ルアン・ナイトバザール』らしい文字が読み取れました。タート・ルアンは、ラオスを代表する仏塔の一つです。ラオスのシンボルであり、国章にもタート・ルアンが描かれています。ラオスの首都のヴィエンチャンにあ利ます。

    文字の左側が途切れてしまいましたが、左端に『タート・ルアン・ナイトバザール』らしい文字が読み取れました。タート・ルアンは、ラオスを代表する仏塔の一つです。ラオスのシンボルであり、国章にもタート・ルアンが描かれています。ラオスの首都のヴィエンチャンにあ利ます。

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