2018/05/10 - 2018/05/24
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≪2018年ドイツの春:フランケン地方・オーバープファルツ地方の旅≫
2018年5月10日(木)~5月24日(木)15日間
目的地:バイエルン州フランケン地方・オーバープファルツ地方を中心に巡る。
(ニュルンベルクを中心としたFrankenフランケン地方、レーゲンスブルクを中心としたOstbayern東バイエルンのOberpfalzオーバープファルツ地方)
①5月10日Spessartシュペッサート地方の選帝侯の古城ホテル ヴァイバーヘーフェに泊まる
②5月11日ウンターフランケン地方の要塞都市デッテルバッハ
③5月11日リーメンシュナイダーの傑作マリア巡礼教会にある“ぶどう園のマリア”とマイン川の蛇行
④5月12日フランケン・スイス地方の古城群:ドイツの英雄クラウス・シュタウフェンベルグ大佐ゆかりの城を訪ねる。
⑤5月13日フランケン・スイス地方の古城群:出くわした30年戦争時のツワモノども
番外編・フランケンの春、オースターアイ(復活祭の飾り卵)が見られる町や村を巡った。
⑥5月13日フランケン・スイス地方の古城群:人気の古城ホテル ラーベン(カラス)シュタイン城に2泊
⑦5月14日フランケン・スイス地方の古城群:100mの高さの岩壁に立つ古城エグロフシュタイン城の姿は絵画的な美しさである。
⑧5月15日懐かしの古城ホテル ヴェルンベルク城とアザム兄弟の作品が見られるミッシェルフェルト修道院
番外編・伝説:アッシジの聖フランシスコがグッビオの町を狼から救った話
⑨5月15日この旅一番のグルメレストラン・白樺の館(カワセミ)にて
⑩5月16日レーゲンスブルクの名物焼きソーセージとダンプヌーデルン
写真はレーゲンスブルク名物・焼きソーセージの厨房
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 交通手段
- レンタカー
- 航空会社
- JAL
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
5月16日(水):曇、小雨時々晴れ間 、 13.5℃、 94km
ランドホテル ビルケンホフ(白樺の館)出発9:45 ->L? ・B470・85 46km Donaustaufドナウシュタウフ・Walhallaヴァルハラ ->L? 14km Regensburgレーゲンスブルク ->L? 34km Kelheim・Gaestehaus St. Georg - Weltenburger Klosterbetriebeゲストハウス 聖ゲオルク ベルテンブルガー僧院に16:40に到着。
*起床は7:10、外は猛烈な雨だ。
写真はランドホテル ビルケンホフ(白樺の館):部屋からの眺め -
朝食は8:30~9:00、本館のRestaurant Turmstubeレストラン ツルムシュツーベ(タワールーム)にて食べる。
写真はランドホテル ビルケンホフ(白樺の館):レストラン ツルムシュツーベ(タワールーム) -
食後はいつものように、テラスに出て庭園や池を見る。
湖水地帯も遠望した。いつの間にか雨は止んでいた。
写真はランドホテル ビルケンホフ(白樺の館)のテラス -
写真はランドホテル ビルケンホフ(白樺の館)のテラス
-
写真はランドホテル ビルケンホフ(白樺の館)のテラス
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9:30にチェックアウトして、ビルケンホフ(白樺の館)を9:45に出発し、ドナウシュタウフ・ヴァルハラど内に向かう。
朝から小雨模様で、寒い一日の始まりである。
写真はランドホテル ビルケンホフ(白樺の館)のテラス -
<Donauドナウ川:ドイツのドナウ一帯>
母なるドナウ川はドイツ南部の森林地帯「シュヴァルツヴァルト(黒い森)」に源を発し、概ね東から南東方向に流れてから、東欧諸国を含む10ヶ国を通り、ルーマニアで黒海に注いでいる。ヴォルガ川に次いでヨーロッパで2番目に長い大河=全長は2,850kmである。
写真はドナウ川の支流Altmuehlアルトミュール川の河川図 -
写真は絵葉書から:
Donaustaufドナウシュタウフ・Walhallaヴァルハラ神殿=>Kelheimケールハイム・ベフライウングスハレ解放記念堂=>ドナウドゥルヒブルッフ・ドナウ観光船=> St. Georg - Weltenburger Klosterbetriebe聖ゲオルク ベルテンブルガー僧院 -
ヴァルハラ神殿はドナウシュタウフの近郊にドナウ川に面して立っている。駐車場(Euro2.5)から森の中の長い、キツイ階段を登る。
写真はドナウシュタウフ・Walhallaヴァルハラへ神殿の道・・・駐車場から長い階段が続く -
写真はドナウシュタウフ・Walhallaヴァルハラ神殿の俯瞰
-
森を切り開いたのだろう平場があり、そこに神殿がある。
このギリシャのパルテノン神殿を模した(52柱のドーリス式)神殿はドナウ川の蛇行に面した高台(358の大理石の階段を上った)にあり、そのテラスからは美しいドナウの景観を思うままに見ることができる。
ここは珍しいことに初めての訪問になる。
写真はドナウシュタウフ・Walhallaヴァルハラ神殿・・階段を上がった所ヴァルハラ神殿 城・宮殿
-
長方形の神殿のドナウ川側に来て見ると、358の大理石の階段が下の川辺に続くのが見える。高所恐怖症には少しめまいを感じるほどだ。
写真はドナウシュタウフ・Walhallaヴァルハラ神殿から見るドナウ川 -
写真はドナウシュタウフ・Walhallaヴァルハラ神殿から見るドナウ川
-
幸い雨も止み、対岸の平野が見渡せる。
神殿側の川辺には市民用の小庭園があって、小さな小屋が幾つも見える。
観光船の姿はない。
晴れていたらもっと気分も良かっただろう。
写真はドナウシュタウフ・Walhallaヴァルハラ神殿から見るドナウ川・・・階段が怖いほどドナウ川にせり出しているように見える -
<Donaustaufドナウシュタウフ・Walhallaヴァルハラ神殿>
10:40~11:45
D-93093 Donaustauf 、Walhallastrasse 48
http://vg-donaustauf.de
ドナウシュタウフの町から下流に10km程行った距離にギリシャ風の大理石の神殿がある。
雪のように白い神殿はナポレオン戦争に勝利した時代を背景にこのプランができたようだ。
写真はドナウシュタウフ・Walhallaヴァルハラ神殿をドナウ川側から見ると -
イチオシ
ドイツ民族の歴史的な記念碑として、ドイツの偉大な人々への敬意を示す殿堂をKoenig Ludwig I. von Bayernバイエルン王ルートヴィヒ1世が、Leo von Klenzeレオ・クレンゼに命じて、1830 年から1842年にかけて建設したものだ。
ヴァルハラ神殿にはドナウ川に面した側に入口があり、そこから入る。
大理石の神殿内は大変な空間が広がる。
(営業時間:4 月~9月、毎日9時から17時45分まで)
入館料は二人でEuro8、土産に絵葉書・バイエルン王の紋章入り紙ナプキンEuro5.6を購入。
写真はWalhallaヴァルハラ神殿内部:ホール内の様子、正面遠くにバイエルン王ルートヴィヒ1世の像が見える。 -
写真はWalhallaヴァルハラ神殿内部:女神像
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125X50mという長方形の神殿大広間の中央奥にはヴァルハラ神殿の建設者のバイエルン王ルートヴィヒ1世の大理石の坐像が鎮座している。
写真はWalhallaヴァルハラ神殿内部:バイエルン王ルートヴィヒ1世の像 -
左右の壁にドイツ人(ドイツ語を話す)の 130 の胸像(例えば、ルター、ベートーヴェン、モーツァルト、デューラー、ホルバイン、フリードリヒ大王、マリア・テレジア、グーテンベルク、ゲーテやシラー、ハイネと世に知られた人物、それに王侯貴族、軍人・政治家、科学者たち、変わった人物では反ナチの白バラ抵抗運動Sophie Achollゾフィー・ショルが)があり、
また、歴史を彩る、多くの聖人、英雄の 65 銘板(例えば、聖ボニファティウス、トイトブルク森の戦いに勝利したゲルマンの英雄アルミニウス(ヘルマン)、聖女エリザベート・テューリンゲン方伯妃、ナチス・ドイツに抵抗したドイツ人レジスタンス(1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件に関与したシュタウフェンベルク大佐)などである。
写真はWalhallaヴァルハラ神殿内部:ドイツ人(ドイツ語を話す)の 130 の胸像 -
写真はWalhallaヴァルハラ神殿内部:歴史を彩る、多くの聖人、英雄の 65 銘板
追記:“Das Rosenwunderバラの奇蹟”で知られるHl.Elisabeth 、Landgraefin v. Thueringen聖女エリザベート・テューリンゲン方伯妃はリスト番号51番(右下)にあります。 -
写真はWalhallaヴァルハラ神殿内部:きれいな天井
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写真はWalhallaヴァルハラ神殿内部:ドイツ人(ドイツ語を話す)の 130 の胸像・・・見慣れた顔も見て取れる
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写真はWalhallaヴァルハラ神殿内部:ドイツ人(ドイツ語を話す)の 130 の胸像
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写真はWalhallaヴァルハラ神殿内部:ドイツ人(ドイツ語を話す)の 130 の胸像
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観光客は写真を撮りながら、其々の胸像、銘板の文字をじっくり見ていた。
胸像、銘板の選出には異論も多く出そうに思われたが、その意図する事はよく分かった。
・・・・・
写真はWalhallaヴァルハラ神殿内部:ドイツ人(ドイツ語を話す)の 130 の胸像 -
写真はWalhallaヴァルハラ神殿内部:ドイツ人(ドイツ語を話す)の 130 の胸像
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見物を終えて、駐車場に戻ると、車の窓が開いていた。
駐車場料金を支払った際に窓を開けたが、家内はそのままにしていたらしい。
さすがドイツだけになにも無くなってはいない。
昨日の私がリュックサックをレンタ―カー車内に置き忘れたとか、今日の家内のミスも、お互い74歳と若くはないという事でしょう。
ヴァルハラを出て、14km先のRegensburgレーゲンスブルクに走り出す。
写真はWappen_Regensburgレーゲンスブルクの紋章 -
写真はRegensburg_Weltkulturerbe_der_UNESCO_Altstadt世界遺産の旧市街
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<Regensburgレーゲンスブルク観光>
12:15~15:45
Regenレーゲンの名前通りに今日も雨が降った。
2008年4月29日の時もそうだったように、雨に縁がある町だ。
こんな言葉でレーゲンスブルグの町を讃えている。
『この美しい町は二つの顔を持っている。一つは石、もう一つは水。ドナウ川
から眺めてみると、この二つが一つに溶け合う。 (サンドラ・パレティ)』
パークハウスからは徒歩で10分、川岸には観光船が2隻停泊している。
川岸を歩く中国人観光客も多いようだ
写真はレーゲンスブルグ:ドナウ川の川岸 -
レーゲンスブルグに12:15到着し、旧市街近くのパークハウスに駐車し、有名なドナウに架かる石橋(1135~46年の建設・プラハのカール橋などの原型になった。今日は修理中)に向かった。
写真はレーゲンスブルグ:Salzstadel旧塩の倉庫と名代のソーセージ料理”ヴルストキュッヘ”ヒストーリッシェ ヴルストキュッヘ 地元の料理
-
もう昼時ゆえ、まず行く所は名代のソーセージ料理”ヴルストキュッヘ”である。
相変わらず観光客に人気で、小屋の前のテーブルには人が一杯座って食事をしていた。
だが、今までの経験では小屋の中には席があるはず、覗いてみると2組だけほとんど空席だ。奥の席に座って、早速いつものように注文した。
写真は”ヴルストキュッヘ”の店内:店内は空席あり、外のテント下は寒い -
イチオシ
<昼食:名代のソーセージ料理”Historische Wurstkuecheヴルストキュッヘ”で>
Weisse Lammgasse 1 開店:8時から19時
12:40~13:30 Euro28(3,753円)
写真は”ヴルストキュッヘ”の店内:厨房は暑い、今年は若い人ばかり -
イチオシ
注文はSechs auf Kraut“焼きソーセージ6本とザワークラウト”、パン2個、ビール0.3LX2。
今回食べた味はかつての記憶の味より美味かった。
写真は”ヴルストキュッヘ”の店内:美味しい焼きソーセージはこんなものです -
以下は2008年4月29日に名代のソーセージ料理を食べた時の写真と旅行記:
石橋そばに昔は塩の倉庫があり、今はカフェ・レストラン(2018年は観光案内所)になっている。この建物の前には石畳の広場があって、ソーセージ料理の名代の店がある。
かつて駐在時、夏の盛りの季節でしたが、広場に張られた赤いテントの下で、家族皆がこのソーセージ料理を食べたことがあった。家族からは好評のコメントがあったことを覚えている。ドナウ川に面し、数百年もの間、人々に楽しんでもらった伝統の味の店である。
名代は自家製ソーセージの炭焼き料理である。汗をかきながらソーセージを焼いている厨房の横を通り、35名の席しかない小さな部屋に入ったが、幸いにも入口傍の角にテーブルが空いていた。
注文品は6本か、12本かの違いだけで、”Sechs auf Kraut“焼きソーセージ6本とザワークラウト(酢漬けキャベツ)とDunkelsドゥンケルビールを私が、家内は暖かい紅茶を。
ここのソーセージは太くもなく、大きくもないので、食べやすいのだ。
写真は”ヴルストキュッヘ”の店内:店内にいたドイツ人観光客が撮ってくれました -
古めかしい室内は様々な有名人の写真などが掛けてあり、洪水の記念表示もある。1954年の洪水は家内の背丈ほどの高さだ。
“Wer nicht in der Wurstkuchl war 、ist nicht in Regensburg gewesen。ヴルストキュッヘに寄らなければ、レーゲンスブルグに行ったことにはならない!”とお店のパンフレットにある。嬉しいことにこの町に入ると同時に私共はこれを実践したわけだ。(13~14)
http://www.wurstkuchl.de
・・・・・
写真は”ヴルストキュッヘ”の店内:中央に洪水の記念表示 -
<Regensburgレーゲンスブルグの歴史>
レーゲンスブルグは人口151千人のOberpfalzオーバープファルツ地方の首都であり、世界遺産の町である。2006年、旧市街が世界遺産に登録された。
ミュンヘンの北140kmにあり、ドナウ川は西南のIngolstadtインゴルシュタット方面から北に流れ下り、この町の北部で急激に曲がり、そのまま東のパッサウに流れていく。
ドナウ川の要衝として発展した古都は179年ローマ軍団の拠点の設立からの歴史を誇り、739年に聖ボニファティウスにより司教座が敷かれ、788年カール大帝の命でTassiloタシロ三世バイエルン公の支配下となる。12~13世紀にはヴェネチア、パリ、キエフ等との交易により、町は経済的繁栄を謳歌する。その頃にロマネスク、ゴシック様式の建物が建てられて、旧市街に現在でもその名残が見られる。
1180年バイエルンのHeinrich der Loeweハインリヒ獅子公は神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世(Barbarossaバルバロッサ・赤髭王)の命で、レーゲンスブルグに帝国議会を開設する。この事でWittelsbachヴィッテルスバッハ家のバイエルン支配が固まる。
1245年、Freistadt帝国自由都市(地方領主からは自立し、皇帝・国王に直属する都市)となり、ナポレオンが台頭する1803年まで続いた。
写真はレーゲンスブルグ:旧塩の倉庫の方向を石橋から見る -
<旧市街>
ドナウ川に架かるSteinerne Bruecke石橋はドイツ最古の橋(12世紀)でこの町の景観に欠かせぬものだ。石橋の真ん中まで歩いた。
振り返った眺めがこの町一番ものと云われる。
橋には町の自由権のシンボル“橋の小人”のレプリカが立っている。
橋から見るドナウ川は結構川幅もあり、水量も多いようだ。Historische Wurstkuecheヴルストキュッヘの近くに観光船が2隻ほど停泊しているのが見えた。
橋の先に市の北門、左手にSalzstadel旧塩の倉庫、Dom St.Peter聖ペーター大聖堂が見える。
写真はレーゲンスブルグ:石橋から見る市の北門 -
石橋通りから、大聖堂広場に向かう。Porta Praetoriaプレトリア門(ローマの名残、北門)を通ると、聖ペーター大聖堂は町のシンボルとして広場に建っている。大聖堂は13世紀の二本の尖塔が目立つ壮麗なゴシック建築である。聖堂内に入って、色鮮やかなステンドグラスや柔らかな顔をした聖女を拝観した。
旧市街には凡そ1200軒もの歴史的建造物が残り、繁栄の歴史を物語っている。
Bischofshof司教館の中庭(僧侶の像)、ドーム広場の西に都市貴族の館一階の宴会場(愚かなる乙女の像)も警句に満ちていて面白さがある。
・・・・・
写真はレーゲンスブルグ:ドナウ川の中州 -
レーゲンスブルグで訪れていなかったトウルン・ウント・タクシス博物館はドナウの石橋から市庁舎広場のBachgasseバッハ横丁を真っ直ぐエメラム広場まで、徒歩で15分ぐらいかかった。
写真はRegensburgレーゲンスブルグ_SchlossThurnundTaxisトウルン・ウント・タクシス・聖エメラム宮殿トゥルン & タクシス城 城・宮殿
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聖エメラム宮殿のガイドツアーは60分、90分があり、ちょうど13:30の60分ガイドが出てしまった。
次は15:30、90分ガイドが14:30といずれも待ち時間が長いので諦めて、ガイドなしの「宝物館と厩見学」に切り替えた。
写真はRegensburgレーゲンスブルグ_Schloss St. Emmeram聖エメラム宮殿の縄張り図:見たのは左中央⑥、⑦ -
【伝説:St. Emmeram聖エメラムの殉教について】
聖エメラムは7世紀の人で司教、殉教者。
最初に仏・ポワティエ司教(アキテーヌ:英仏の100年戦争時の1356年、英国が大勝したポワティエの戦いが有名)を務めた。
7世紀中頃、エメラム司教はキリスト教の普及の為、西フランケン地方からドナウ川に沿って教化活動しつつ、バイエルン公爵Theodo Iテオド1世の領地レーゲンスブルクにやって来た。
テオド1世はこの慈悲深いエメラム司教を知り、当地に滞在するよう勧め、その後、エメラムはレーゲンスブルクや周辺地方のキリスト教布教に力を注いだと云う。
エメラム司教がレーゲンスブルクに来て三年ほど経った頃、テオド1世の娘Utaウタはエメラムを信頼し、彼女の秘密を打ち明けた。ウタはある若者と恋におち、非婚の子が生まれようとしていた。
テオド1世がこの事を知れば、激怒し重い罰をあたえるであろうと思われ、若い二人を守るため、「私エメラムをその子の父と言いなさい」と助言して、ローマへ巡礼の旅に出発しました。エメラムはローマで法王に謁見し、自らの虚偽の過失を告白し、その責任を取るためでした。そして再びテオド1世の前に戻り、事の真実を明らかにするつもりでもありました。
写真はBasilika-St-Emmeram聖エメラム教会内 -
エメラム司教が出発して間もなく、ウタはエメラムに勧められた話通りに父に告白した。これを聞いて予想した如くテオド1世は烈火のごとく怒った。
妹の名誉を回復する為、テオド1世の息子Lantpertランツパートが直ちにエメラム司教を追った。
652年9 月 22日、ランツパートは目の前に徒歩でいくエメラムを見つける。ランツパートと部下たちに捕まったエメラム司教はミュンヘンの南東、Kleinhelfendorfクラインヘルフェンドルフの村(ザルツブルクとアウグスブルク間の古いローマの道にある)まで来ると、そこで停止させられた。
ランツパートは憎しみのあまり、梯子にエメラムを吊るし、まだ生きている体を徐々に切りきざみ、最後に斬首したと云う。
(初期の中世聖人に関する典型的な伝説の如く)
エメラム司教と一緒に行を共にした人たちは血の中に倒れたエメラムがまだ生きているのを見つけ、彼を直ぐにAschheimアッシュハイムに運ぼうと試みました。しかし、その道に向かう途中Feldkirchenフェルトキルヒェン近くで亡くなってしまった。その縁でエメラム司教は最初、アッシュハイムに埋葬されたそうです。
テオド1世は事の真実を知った後、エメラム司教の遺体を発掘し、レーゲンスブルクに転送させた。そして帝国修道院の新しい地下室に遺体を安置し、新しい教会をその上に建てて聖エメラムに捧げた。その後、名前も聖エメラム教会(聖エメラム修道院)になったと云う。
レーゲンスブルクの聖エメラム修道院はバイエルンの修道院世俗化まで存在し、ベネディクト会修道院は何世紀も科学知識の中心として、活動していた。
・・・・・
尚、ここで付記せねばならない。
上述したように、聖エメラムの事績・伝説を全く知らなかったので、気がつかなかったが、聖エメラムは「Emmeram der Heilige、Bischof」聖エメラム・司教として、ドナウ川に立つWalhallaヴァルハラ神殿の歴史を彩る、多くの聖人・英雄を讃える 65 銘板の20番に載っていることを、聖エメラムの事績を調べているうちに知った。
XXXXX
写真はSt.Emmeram聖エメラムの殺害 -
<Thurn-und-Taxis-Museumトウルン・ウント・タクシス博物館・
Schloss St. Emmeram聖エメラム宮殿>
D-93047 Regensburg 、Emmeramspl. 5
https://www.thurnundtaxis.de/
https://www.thurnundtaxis.de/museen/schatzkammer/
(侯爵家のSchatzkammer und Marstall宝物館と厩見学)
13:50~14:30 ガイドなし、入場券Euro9。
開館:3月24日から11月4日まで、月~金は11時~17時、土日祭日は10時~17時。
こちらのほうが気楽に見られるが、ここも撮影は禁止になっている。
写真はThurn-und-Taxis-Museumウルン・ウント・タクシス博物館, Schatzkammer宝物館_金銀装飾品 -
1748年にフランクフルトからレーゲンスブルクに移ってきたトゥルン・ウント・タクシス侯爵家が、Schloss St. Emmeram聖エメラム宮殿を200年の間、居城とした。
1812年に侯爵家は、バイエルンにおける郵便事業独占権を失った代償として、かつて聖エメラム帝国宗教財団のベネディクト修道院だった建物を手に入れ、1816年から壮麗なレジデンツに改築し、聖エメラム宮殿とした。現在、宮殿の建物(縄張り図参照)を利用して、
①Fuerstliches Schloss侯爵家の宮殿:
150mの長さを持つ南翼(ネオ・ロココ様式)に侯爵家の居住区を作った。そこにはPrunkraeumeプランクロイメ(豪華な広間)、大理石の階段ハウス、祝典(舞踏会用)の大広間、様々なサロン、侯爵家の礼拝堂、王座の間といったものが見られるらしい。
②Gruftkapelleグルフトカペレ(地下霊廟):最も古い部分は11世紀と云う。
③Kreuzgangクロイツガンク(十字路回廊):ロマネスク・ゴシック様式の聖エメラムの回廊と称し、ドイツで最も感銘を与える回廊と云われている。
尚、Turnusm?・?・ige Fuehrungen通常のガイドツアーはガイド付き。
開館:3月16日から11月15日まで毎日。(90分ガイド:10.30、12.30、 14.30、 16.30) 、(60分ガイド:11.30、13.30、 15.30) 、 但し、5人以上。
写真はThurn-und-Taxis-Museumウルン・ウント・タクシス博物館, Schatzkammer宝物館_Tafel_mit_Porzellan_der_Manufaktur_du_Paquier陶磁器 -
⑥Fuerstliche Schatzkammerシャッツカマー(侯爵家の宝物館):
侯爵家の宝物は1993年にバイエルン政府に譲渡されたものだが、1998年よりここで展示されるようになった。高価なMobiliarモビリアー(家具)、美しいPorzellanポルツェラン(陶磁器)、Tabatierenタバティーレン(嗅ぎタバコ入れ(箱)、芸術性の高いWaffenヴァッフェン(銃器)や金銀のPretiosenプレティオーゼン(装飾品)等、素晴らしい展示品が並ぶ。
写真はウルン・ウント・タクシス博物館-宝物館_Schnupftabaksdose嗅ぎ煙草入れ -
写真はウルン・ウント・タクシス博物館-宝物館_Biedermeiersalonビーダーマイヤー様式のサロン
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写真はウルン・ウント・タクシス博物館-宝物館_ビーダーマイヤー様式のサロン_決闘用?ピストル鞄
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⑦Marstallmuseumマルシュタール・ミュージアム(厩博物館):
侯爵家の厩部分は600㎡の広さがあり、1829~32年をかけて完成した。
勿論乗馬訓練も可能である。博物館に展示されたものは18~9世紀のもので、郵便・乗り合い馬車(Kutsche)、橇(ソリ:Schlitte)、椅子籠(Saenfte)、輿(コシ:Tragsesseln)、乗馬関係の衣服、歴史資料といった興味深いもの。
写真はウルン・ウント・タクシス博物館-厩博物館:侯爵家の馬車 -
尚、トゥルン・ウント・タクシス侯爵家はオーストリア皇帝の親戚にもなっている。
つまりMaximilian Anton Lamoral von Thurn und Taxis(1831~1867年)マクシミリアン・アントン・フォン・トゥルン・ウント・タクシス侯世子が、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフの皇妃エリザベートの姉であるHelene Caroline Therese・Herzogin in Bayern(1834~1890年)ヘレーネ・フォン・バイエルンと結婚したことで、皇帝の親戚にもなっている。
この結婚に際しては、ヴィッテルスバッハ家家長であるバイエルン王ルートヴィヒ2世は、マクシミリアン・アントンの一族は1806年のドイツ諸侯の陪臣化に伴って領邦君主の身分を失っているため、王族として認められないとして、この結婚を許そうとしなかった。
しかし、ヘレーネの妹のオーストリア皇妃エリザベートとその夫のオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世のとりなしにより、この結婚は1858年、実現に至った。
写真はウルン・ウント・タクシス侯爵家:Maximilian_Anton_Lamoral,_Hereditary_Princeマクシミリアン・アントン・フォン・トゥルン・ウント・タクシス侯世子 -
マクシミリアンは妻ヘレーネとの間に二男二女をもうけた。長女Luiseルイーズはドイツ皇帝を出した一族・ホーエンツォレルン・ジグマリンゲン侯国家の長・プロイセン王国宰相の息子であったFriedrich Eugen Johann Prinz von Hohenzollern‐Sigmaringenフリードリヒ・オイゲン・ヨハン・ホーエンツォレルン・ジグマリンゲン(後にプロイセン王国の騎兵大将)と結婚。
次女Elisabethエリザベートはポルトガルの廃王ミゲル1世の長男のブラガンサ公ミゲル(2世)と結婚した。
写真はウルン・ウント・タクシス侯爵家:Correns_helene_thurn_und_taxis_ヘレーネ・フォン・バイエルン王女はマクシミリアン・アントン・フォン・トゥルン・ウント・タクシス侯世子に嫁いだ。 -
そのヘレーネはかつてオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の皇妃にと、フランツ・ヨーゼフの母ゾフィー大后妃(ヘレーネの伯母になる)に望まれていて、有力な花嫁候補であった。
しかし、フランツ・ヨーゼフはヘレーネの妹エリザベートに心を奪われており、いくら母がヘレーネを推しても聞かず、エリザベートとの結婚を果たした。
XXX
写真はウルン・ウント・タクシス侯爵家:トゥルン・ウント・タクシス侯世子夫人ヘレーネの妹Elisabethエリザベート・オーストリア皇妃 -
今日は昨夜からの雨の続きのようで、一日13℃前後と寒い日となった。レーゲンスブルクは時々雨がぱらついたが、聖エメラム宮殿の宝物館と厩見学を終えて出ると、ザーと降って来た。
ウインドブレーカーを着て、我慢我慢と小走りに旧市庁舎広場に戻った。
偶々、Kohlenmarktコーレンマルクト(石炭市場)で本屋Freytag & Berndtを見つけて、レーゲンスブルクの2019年カレンダーを2つ購入した。(Euro3.5、Euro8.95)。
写真は軍人Don Juan de Austriaドン・ファン・デ・アウストリアの像。
彼は神聖ローマ皇帝カール5世の庶子で、オスマン帝国とカトリック連合との間で繰り広げられたレパントの海戦で勝利に導いた人として知られている。
母はレーゲンスブルク出身で、この地で生まれたのでここに銅像がある。 -
<お茶:”Dampfnudel-Uliダンプヌーデルン-ウリ“で>
Am Watmarkt 4
15:00~15:30 Euro18(2,412円)
開店:火~金10時から18時、土10時から15時まで。
薄くなった朱色の塔Baumburger Turmバンブルクの塔の一階にある。
小さなお店だが、中に入るとちょっとびっくりだ。
アーチ形の天井の下はバイエルンの旗や新白鳥城の絵、古い写真の数々、ビールのジョッキなどが脈絡なく、飾ってあった。
この点は前回と変わっていないというよりも、増えたようだ。
写真はDampfnudel-Uliダンプヌーデルン-ウリの建物はこちらダンプフヌーデル ウーリ 地元の料理
-
写真はDampfnudel-Uliダンプヌーデルン-ウリの店内
-
イチオシ
注文はリンゴジュース(Euro4.2)とダンプヌーデルン(Euro13.2、ミルクと油で蒸し焼きにした酵母入りフワットした甘いパン。
元来はシュヴァーベン地方のお菓子)にした。
写真はダンプヌーデルンを楽しむ -
店内はお茶時らしく、数組のお客がいて、オーナーシェフも忙しい。
日本人と見たのか、オーナーもスタッフも私共には愛想が良い。
写真はダンプヌーデルン-ウリの店内 -
イチオシ
以下は2008年4月29日にダンプヌーデルンを食べた時の旅行記:
私どもが座った席の後の壁に、こげ茶色の板に白抜きの文字が張ってあった。“Es muss nicht immer Kaviar sein。(いつもキャヴィアが要るとは限らない。)” 声に出して読むと、隣の席にいた50代前半の女性がこれを聞いて、笑いながら、“そーそー!!”と言って相槌をうった。
ドイツの人なら、殆どの人が知っているのでしょう。
写真はダンプヌーデルン-ウリの店内:横長の看板に「Es muss nicht immer Kaviar seinいつもキャヴィアが要るとは限らない」とある。 -
この言葉は作家Jimmelジンメルの最初のベストセラーの本の題名である。作家ジンメルがこの店を訪れたことがあるのか、その本にこの料理や、店が登場するのか?店のマスターに聞きそびれてしまった。
店の名物はDampfnudelダンプヌーデルン(ミルクと油で蒸し焼きにした酵母入りフワットしたパン。元来はシュヴァーベン地方のお菓子)に温かいバニラソースをかけたもの。
Apfelkucherlリンゴ入りのお菓子パンにシャンパンソースかけも。二人とも紅茶を頼んだ。いずれも甘く、三時のお茶にはもってこいのものだ。確かにいつもキャヴィアを食べるわけでもなく、食べたいものではない。 (14:45~15:20)
写真はダンプヌーデルン-ウリの店内:ブッシュ(父)米元大統領の写真も -
【Johannes Mario Jimmelヨハネス・マリオ・ジンメルの作品について】
ヨハネス・マリオ・ジンメルは1924年4月27日、ウイーンに生まれた。2009年1月1日に84歳でスイスのルツェルンで死去した。
作者名は本名である。両親はハンブルグ出身のドイツ人でしたが、彼自身はオーストリア国籍を取得し、少年時代をオーストリアとイギリスで過ごした。やがて、化学を学んだことで、ウイーンの化学研究所で化学技師として働く。
第二次大戦後は米駐留軍司令部で英語を生かして、通訳となる。1950年、西ドイツに移住し、ジャーナリストの道に転身し、取材の為に世界の各地を訪れる。
1950年から1960年にかけて、ジャーナリストの仕事をしながら、映画のシナリオや戯曲をたくさん発表し始める。中には童話作品もある。
1960年に“Es muss nicht immer Kaviar sein。(いつもキャヴィアが要るとは限らない。)”
(あるいは“人間はキャヴィアばかりを食べて生きているばかりではない” とも訳す。“Kaviar fuer Volk ”俗人には高尚すぎるもの(ハムレットの句)との言葉もある。);邦題『白い国籍のスパイ』;
が大ベストセラーになり、作家としての地位を確固たるものにした。以後、作家活動に専念し、数々のベストセラーを生んでいる。
ドイツ語圏の国々で最も多く読まれる作家であり、その著作は様々な国で翻訳されている。
2005年Bundesverdienstkreuz 1 Klasse・ドイツ連邦功労十字勲章を授与される。
スイス山中の湖畔にある小さな町の小さな家に隠棲していたと云われている。
写真はJohannes Mario Jimmelヨハネス・マリオ・ジンメル氏の画像 、 -
1981年、日本での最初の翻訳本が中西和夫氏【1929年岡山県出身。日本精工株式会社のドイツNSK支配人としてDuesseldorfに勤務・在住中であった。】の訳で出版された。
私がドイツ二回目の駐在を打診されていた頃の1981年12月2日にこの翻訳本(1981年7月10日初版・同年11月10日第5版;祥伝社)を購入している。
勿論、私にとっては初めてのジンメル本であったが、本は実に面白く、その後は翻訳本が出る度に購入した。
(Es muss nicht immer Kaviar seinのあらすじ);
主人公T.Lievenトーマス・リーヴェンはドイツ人の銀行家でしたが、ロンドンで何不自由なく生活をエンジョイしていたところ、無理やりドイツ、フランス、イギリスからスパイになるように強制される。彼はどこの国にも忠誠を尽くそうとはせず、かえって、各国を手玉にとりながら、自分流を貫く。そのやり方がドライでしゃれていて、極めて痛快なスパイ小説になっている。
特に主人公が料理好きであり、小説の流れはその料理を介した、香辛料のピリッと利いたものとなっている。1977年、ドイツZDFのTVドラマとして、13篇が放送され、大変な人気を博したと云う。
その料理のメニュー・レシピ36編が小説中に出てくる。その中の2例は次のようなもので詳しいレシピも書かれていて、興味深い。
①1946年2月2日 フランス・パリⅦ
ロシア風ボルシチ、牛フィレ肉のストロガノフ、レモン入りスフレ
②1948年8月14日 ドイツ・フランケン
南ドイツ風玉ねぎのケーキ、仔牛の巻き肉、ポテト・ピューレ添え、詰め物入り林檎
写真はJohannes Mario Jimmelヨハネス・マリオ・ジンメルの作品:Es muss nicht immer Kaviar sein:いつもキャヴィアが要るとは限らない(1960年)ベストセラーの表紙 -
【ジンメルの作品集】
その時代の政治や社会の出来事をテーマにしている。2、3年毎に発売される作品は必ずその年のベストセラーの1位になるという人気で、殆どの作品は映画化、TV化されていると云う。作品の原題は皆、含蓄のある、洒落たものだ。
Begegnung im Nebel :霧の中の出会い (1946年)
Mich wundert , dass ich so froehlich bin :こんなに楽しいのが不思議だ (1948年)
Das geheime Brot :秘密のパン (1950年)
Ich gestehe alles :私は全てを告白する (1952年)
注・邦題『白い逃亡者』
Gott schuetzt die Liebenden :神は愛し合うものを守りたもう (1956年)
Affaere Nina B :ニーナ・Bの事件 (1958年)
注・邦題『ニーナ・Bの事件』
Es muss nicht immer Kaviar sein:いつもキャヴィアが要るとは限らない(1960年)
注・邦題『白い国籍のスパイ』1981年7月
Bis zur bitteren Neige :世の辛酸をなめるまで (1962年)
Liebe ist nur ein Wort :愛はただ一言 (1963年)
Lieb Vaterland , magst ruhig sein :祖国よ、安らかなれ (1965年)
注・邦題『白い壁の越境者』1982年4月
ドイツの人気高い民謡;Die Wacht am Rhein:ラインの護りの一節から。
Alle Menschen werden Brueder :すべての人間は兄弟となる (1967年)
Und Jimmy ging zum Regenbogen :そしてジミーは虹へ行った (1970年)
注・邦題『シーザーの暗号』
Der Stoff , aus dem die Traeume sind :夢を作る素材 (1971年)
Die Antwort kennt nur der Wind :答を知っているのは風だけ (1973年)
Niemand ist eine Insel :人は島ではない (1976年)
Hurra , wir leben noch :どっこい、我らは生きている (1978年)
Wir heissen euch hoffen :我ら汝が手に希望を与えん (1980年)
注・邦題『白い影の脅迫者』1984年11月
Bitte , lasst die Blumen leben :花を生かしておいて (1983年)
注・邦題『白い殺意の異邦人』1985年7月
Doch mit den Clowns kamen die Traenen :涙が道化師たちとやってきた(1987年)
注・邦題『白い悪夢の実験室』1988年10月
Die im Dunkeln sieht man nicht :暗がりの奴らは見えっこないさ (1985年)
注・邦題『暗がりの奴らは見えっこないさ』1991年8月
Im Fruehling singt zum letztenmal die Lerche :ひばりの歌はこの春かぎり (1990年)
注・邦題『ひばりの歌はこの春かぎり』1992年12月
以下の作品は邦訳されたのか不明:
Auch wenn ich lache , muss ich weinen :(1993年)
Traeum den ummoeglichen Traum :(1996年)
Der Mann , der die Mandelbaeumchen malte :(1998年)
Liebe ist die letzte Bruecke :(1999年)
上記の内、我が家の本箱にあるのは、以下の7冊(2番目を除き、全て上下巻)である。
Es muss nicht immer Kaviar sein:いつもキャヴィアが要るとは限らない(1960年)
Lieb Vaterland , magst ruhig sein :祖国よ、安らかなれ (1965年)
Wir heissen euch hoffen :我ら汝が手に希望を与えん (1980年)
Bitte , lasst die Blumen leben :花を生かしておいて (1983年)
Doch mit den Clowns kamen die Traenen :涙が道化師たちとやってきた(1987年)
Die im Dunkeln sieht man nicht :暗がりの奴らは見えっこないさ (1985年)
Im Fruehling singt zum letztenmal die Lerche :ひばりの歌はこの春かぎり(1990年)
(2008.08.10.作成)
写真は我が家の本箱 -
レーゲンスブルクを15:45に出て、34kmの距離にある Kelheimケールハイムへ向かう。予定していたベフライウングスハレ解放記念堂を明日にまわし、聖ゲオルク ベルテンブルガー僧院のゲストハウスに16:40到着した。
珍しく、行程予想の距離がぴったりで、僧院ホテルに至った。ゲストハウス前の中庭で荷物を降ろし、チェックインする。
写真はWappen_Kelheimケールハイムの紋章 -
夕食までに1時間あり、僧院周辺に駐車してから、ドナウ川の川辺にいってみた。砂利が広く堆積し、丸い石が様々、雨で増水したドナウ川は川幅も広くなり、流れも速い。
写真は聖ゲオルク ベルテンブルガー僧院の川岸ヴェルテンブルク修道院 寺院・教会
-
イチオシ
そのドナウ川を鴨の親子が渡ろうとしていたが、親の背に乗る最後尾の3羽目が背中も狭いのか、水圧も強くて何度か滑り落ちてしまい、都度、親鴨が浅瀬に誘導して、子鴨を背に乗せること繰り返した。
写真は親鴨の子鴨を背にドナウ川を渡る -
写真は親鴨の子鴨を背にドナウ川を渡る
-
幸い最後にしっかり背に乗り、親子共々ドナウ川を横切り、対岸の草むらに流れ着く事に成功した。その一部始終を見て安心して僧院に戻った。
写真は親鴨の子鴨を背にドナウ川を渡る -
<聖ゲオルク ベルテンブルガー僧院>
聖ゲオルク ベルテンブルガー僧院の起源は7世紀である。
このベネディクト派僧院で有名な、独創的なバロック様式の聖堂は1716~21年に兄のCosmas Damian Asamコスマス・ダミアン・アザム(1686~1739年:油絵とフレスコ画を得意とした) と、弟のEgid Quirin Asamエギット・クウィリン・アザム(1692~1750年:彫刻とスタッコ細工を得意とした)が造営したもので、光の効果で天に昇るような錯覚を覚えると云う、見事な祭壇が知られている。
ついでに言えば、ミュンヘンのアザム教会(正式名称をSt. Johann Nepomuk Kirche聖ヨハン・ネポムーク教会)も有名。
・・・・・
そして、聖堂で「天の啓示」?!を見た。・・・神秘なる出来事、意味する啓示が何かは分からないが、あれは不思議な一瞬であった。
この僧院には名工アザム兄弟の光の効果で天に昇るような錯覚を覚えると云う、見事なバロック様式の祭壇があり、柵越しに見学している最中に天窓から光が入り、聖壇の聖ゲオルグ像下にある十字架に光が当たった。
なんと稀有な体験かと、見ているうちに天光は消えた。撮影禁止だったので写真を撮ることも思い至らず、誰もいない教会での出来事、その余韻で私共も少々興奮したものです。
写真は絵葉書:ベルテンブルガー僧院のバロックの聖堂アザム兄弟の傑作 -
イチオシ
僧院の土産店でカレンダー2(Euro12.99、7.95)、煙突掃除人と豚さんのZinnスズ製の人形(Euro10)、絵葉書3枚(Euro1.5)・・・そのうち1枚は美しい聖壇の聖ゲオルグ像で、先ほどの十字架もしっかり見える・・・合計Euro32.44(4,328円)を土産にした。
写真は長い廊下に部屋が続く光景 -
⑦2018年5月16日(水)~5月17日(木)1泊
Gaestehaus St. Georg - Weltenburger Klosterbetriebe GmbH
<ゲストハウス 聖ゲオルク ベルテンブルガー僧院>
D-93309 Kelheim 、Asamstrasse 32
TEL: 49(0)9441 6757-500 、FAX: -6757-537
http://kloster-weltenburg.de/gaestehaus/
3星・全43室。DZツインは3階No.210号室、Euro104(朝食込み:13,830円)。
ゲストハウスも結構進んでいて部屋の鍵はカード式である。部屋は僧院の宿泊施設らしい、質素なものだったが、シャワー機能も良く、ベッドの寝心地も良かった。
ただ、長い廊下に部屋が続く光景に修行僧の個室、あるいは少年院のような施設を思い浮かべてしまった。窓の外は雨で増水したドナウ川が見えるが、向こう岸には人家が無く、夜は真っ暗だ。
当然と言えば当然なのだが、TV、水、スリッパ、浴用ガウンと、ホテルによくあるサービスは全くなかった。
夕食はKlosterschenke僧院シェンケで食べる予定。
観光シーズンの3月中旬から10月末まで、毎日9時から19時まで開店する。14時チェックイン、9時チェックアウト。
写真は階No.210号室 -
Klosterbrauerei Weltenburgベルテンブルガー僧院付属醸造所の一番古い記録は1050年、世界最古のものと云われ、Klosterbier僧院ビールはヘレス、ピルス、ヴァイツェンや、季節限定ビールなど10種類以上が提供され、一番の人気はBarock Dunkelバロックドゥンケルだそうだ。その他にもWeltenburger Klosterlikoer ベルテンブルガー僧院リキュール、Klosterwurst僧院ソーセージなどが名物とか。
写真は階No.210号室 -
写真は階No.210号室の浴室・トイレ
-
写真は階No.210号室の窓から見るドナウ川
-
<夕食:ベルテンブルガー僧院のKlosterschenke僧院シェンケにて>
17:45~18:45 Euro47(6,300円)
写真はベルテンブルガー僧院の絵・・・上部にアザム兄 -
時間は早いのだが、シェンケの終了時間は19時までなので、こうした夕食時間になった。お客は早い時間でもすでに一杯で、スタッフの小母さんたちもゆっくりできない様子だ。
写真は町の名の付いた絵 -
注文は僧院醸造の名物Dunkles Bierドゥンケルビール0.5L@Euro3.9x2=7.8、
Spargelrahmsuppeシュパーゲルクリームスープ@Euro4.9x2=9.8、
Spargel mit Kartoffel シュパーゲルにジャガイモ添え@Euro14.2x2=28.4。
写真はドゥンケルビールとシュパーゲルクリームスープ -
イチオシ
本日もシュパーゲル料理で満足した。
写真はシュパーゲルにジャガイモ添え
・・・・・
明日はAltmuehltalアルトミュールタール(渓谷)を走る。
ケールハイム・ベフライウングスハレ解放記念堂、吟遊詩人(ミンネゼンガー)などのKodex(Codexコデックス)写本で知られる古城、城址、鷹匠によるショー、懐かしい古城ホテルと様々で楽しみ。
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この旅行記へのコメント (8)
-
- M-koku1さん 2020/06/13 23:18:21
- ジンメルという作家さん
- jijijidarumaさん
ドイツ文学に疎いものですから この作家さんのお名前は初耳でした。
一番のお薦めはどの作品ですか?
教えていただいたら 図書館で探してみようかと思います。
やっと図書館が開き 予約すれば貸出してくれるようになりましたので、トライしてみたいです。
ホワイトシュパーゲル 美味しそう!
もう季節終わっちゃいましたね。
ドイツの展示会がいつも五月だったので、ヴルストよりも 印象に残っています。
でもレーゲンスブルクに行くチャンスがあったら、石橋のところへヴルスト食べに行きます!
ではまた
Mより
- jijidarumaさん からの返信 2020/06/14 00:25:21
- Re: ジンメルという作家さん
- M-koku1さん、
今晩は。いつもコメントをありがとうございます。
≪番外編:バート・ガンデルスハイム ・中世の女流詩人ロスヴィータ について≫でWalhallaヴァルハラ神殿の事に付いて書きましたが、その際に「2018年ドイツの春:⑩レーゲンスブルクの名物・焼きソーセージとダンプヌーデルン」の旅行記を参考に付記しました。
同時に「マールブルク:“聖エリザベートのバラの奇蹟Das Rosenwunder”」の伝説話も新たに追記した為、私の旅行記が年次を越えた形で、出現してしまいました。
御蔭でそれらをお読みいただいたようで、深謝です。
さて、ジンメル作品でお勧めと言えば、「私にとっては初めてのジンメル本であったが、本は実に面白く」と書きましたように、“Es muss nicht immer Kaviar sein。(いつもキャヴィアが要るとは限らない。)” ;邦題『白い国籍のスパイ』翻訳者が中西和夫氏;ですね。
これは大ベストセラーになり、作家としての地位を確固たるものにしたそうです。
料理好きには「牛フィレ肉のストロガノフ、南ドイツ風玉ねぎのケーキ」などといった料理の事も出てきて、興味深い事でしょう。
1981年12月2日にこの翻訳本(1981年7月10日初版・同年11月10日第5版;祥伝社)を購入していますから、古いだけに図書館にありますかどうか?
邦題『白い国籍のスパイ』翻訳者が中西和夫氏で検索してみると、家庭料理研究家奥薗壽子さんのオフィシャルサイト(読書日記:2020.05.22. https://www.nabekama.jp/blog/blog-12466/)「開高健さん絶賛おすすめのスパイ小説。スパイ小説なのに、料理レシピ付き」といった事が出てきます。
ご参考にブログを添付しました。
図書館に無ければ、中古品ながらアマゾンなどに出ていますから、手に入るかもしれません。
ドイツの旅は時々、むしょうにホワイトシュパーゲルを食べたくなります。
今年は春に予定していたのも、白アスパラ目的でした。残念!
ではまた。
jijidaruma
- M-koku1さん からの返信 2020/06/14 01:07:58
- Re: ジンメルという作家さん
- jijidarumaさん
早速のご連絡ありがとうございます。
実家の近くの図書館にあることを確認。
まだ予約制なので 一般に向けて図書館が開いたら、借りに行ってきます。
Mより
- jijidarumaさん からの返信 2020/06/14 02:19:03
- Re: ジンメルという作家さん
- M-koku1さん、
それは良かった。都内の図書館はさすがにすごいですね。
jijidaruma
-
- Rolleiguyさん 2018/08/08 21:36:37
- ジンメル
- jijidarumaさん、今晩は。
レーゲンスブルクを興味深く拝見しました。5年前に行きましたが、あのソーセージのお店はその日閉まっていて食べられませんでした。
ジンメルのことが詳しく記されていて勉強になりました。最初の小説である「白い国籍のスパイ」は、出版されて間もなく読んだのですが、今日たまたまあの本はどこにいっただろうと考えていたら、jijidarumaさんの旅行記に出ていてとてもびっくりしました。1977年にテレビ化されたそうですが、当時ZDFは4回のシリーズで毎年冬になるといろいろ放送していて、まだよくドイツ語を理解出来ないままに楽しんでいました。
いくつかはDVDになって市販されていて、今日そのひとつを見ていたところです。
ジュール・ヴェルヌのDer Kurier des Zarenというのです。19世紀ロシア帝国末期、
シベリアの民族自立の反乱に対抗する、皇帝の密使の働きを描いたもので、美しいテーマ音楽を伴う映画です。
いつも興味深い旅行記を楽しく拝見しています。
Rolleiguy
- jijidarumaさん からの返信 2018/08/08 23:29:13
- Re: ジンメル
- Rolleiguyさん、
こんばんは。いつもありがとうございます。
レーゲンスブルクの項にご興味を頂き嬉しいです。
“Wer nicht in der Wurstkuchl war 、ist nicht in Regensburg gewesen。ヴルストキュッヘに寄らなければ、レーゲンスブルグに行ったことにはならない!”とお店のパンフレットにあるから、まだレーゲンスブルグに行ったことになっていないわけですね(笑)。是非次回に。
さて、神殿から、レーゲンスブルグ名代の食べ物、博物館、伝説、
ヘレーネとエリザベートの姉妹、ジンメル、聖ゲオルク ベルテンブルガー僧院と話が様々で、本来ならば、ジンメルだけを1回分として掲載したかったです。
ドイツ好きでもジンメルとなると、もう御存じでない方も多くなり、
こうしてコメント頂くとは、思いもしませんでした。ありがとうございます。
今読んでも面白い「白い国籍のスパイ」は1977年、ドイツZDFのTVドラマで
放映されていたので、私も見たのかもしれません。どうも記憶が鮮明でなく、
日々の業務に疲れて、多分ビールを飲んでTVの前で寝ていたのでしょう。
今日の旅行記も「天の啓示」でしょうか(笑)、「白い国籍のスパイ」の本も
ひょっとして簡単に出てくるかもしれませんよ。
残暑の候となりましたね。暑さに負けずに、お元気でお過ごしください。
jijidaruma
-
- rinnmamaさん 2018/08/08 15:45:30
- レ―ゲンスブルク
- jijidarumaさん、こんにちは
何時も有難うございます。
関東は台風の影響で雨でしょうか?台風は厭ですが雨が降ってほしいです。
本日もこちらは39度(ほぼ)で雲ひとつない青空で、洗濯ものもカリカリです。
そして、水道もお湯状態です。。ずっと出していても延々と・・・
間違って沸かしているかしら?と思うほどの温度ですから、お風呂も沸かすと熱い位です。
さて、ドイツ旅・・
ユックリ説明を拝見して場所を確認したいのですが、分からない所が出てきますとお手上げです。
でも、今回は少し興味を持っている地域でして、分かる名前が出てきました(^^)
レーゲンスブルクです。
jijidarumaさんの立ち寄られたソーセージ料理・ヴルストキュッへ・・
行ってみたいです~目の前で焼いて下さるんですね・・見ただけで美味しそう^^
ドイツは色んな所に石橋があって、時計塔があって、歴史的建造物がある風景ですね!
この町も風情があって、やっぱり行ってみたいです。
少しお伺いします。
旅行記で理解できない所ですが、聖エメラム宮殿は撮影禁止で、写真掲載されている部分はタクシス博物館でよろしいですか?
同じ場所にあるのでしょうか?・・
へレーナ王女様・・気品がおありになる肖像画ですね!
エリザベートはどなたも御存じの華やかなイメージですが、へレーナ王女様は堅実なイメージで素敵だなと感じました。
奥行きのある旅行記の制覇は、まだまだ先になりそうです(^^;)
台風の被害が無いと良いですが・・お気をつけて下さい。
rinnmama
- jijidarumaさん からの返信 2018/08/08 19:40:13
- Re: レ―ゲンスブルク
- rinnmamaさん、
こんばんは。いつもありがとうございます。
そちらは酷暑続き、当方は台風13号の接近で先ほどから、
大雨・暴風警報が発令されました。
雨は恵みの雨ですが、大風は瓦や雨戸が飛んでしまわないか、
いつものことながら心配です。
普段なら、近所の孫たちの極真空手の道場への送り迎えの日で、
丁度終わる時間帯ですが、さすがに今日は孫も練習はやめました。
レーゲンスブルクは世界遺産に旧市街が認定されているだけに、
確かに見所満載です。母なるドナウ川沿いに発展したレーゲンスブルク
ですが、近くにStraubingシュトラウビング、Passauパッサウがあり、
回遊するには楽しい地域です。
北に行けば陶磁器街道、ガラス街道もありますし。
ローマ軍団が残した様々な宝物や武器が見られる郷土博物館もある
Straubingシュトラウビング、
また、三つの川(ドナウ、イン、イルツ川)の合流点に発展した
Passauパッサウには旧市街の市庁舎横にあるHotel Wilder Mann
ホテル ヴィルダーマンは1862年オーストリア皇妃エリザベート
(ヨーゼフ皇帝とエリザベート皇妃のウイーンでの婚儀は1854年4月24日)
がこのホテルで8日を過ごし、エリザベートの両親・Max公とLudowika公妃、
妹のMarieマリー王女とお会いになったそうです。
1878年にも宿泊され、皇妃の美しい部屋がSissi- Saalシシーの間と称して、
今もガラス博物館内(ホテル内にある)に残されて、ガラスコレクション
ともども公開されていますよ。
タクシス博物館は宮殿もあり、一体化したようなものです。
宮殿、宝物館、厩博物館等々です。写真は参考に借用しています。
バイエルン家の女性は皆お綺麗で、妹たちも驚くほどです。
伯母、叔母たちも係累を一度辿ったことがありますが、
見事な美形ぞろいでした。
ソウルから娘と孫娘たちが一時帰国し、バタバタした日が過ぎると、
夏が終わった気がしています。
残暑の候となりましたね。ご元気でお過ごしください。
jijidaruma
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