2018/05/06 - 2018/05/06
1196位(同エリア2816件中)
kojikojiさん
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- 旅行記1759冊
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絵画の教科書のような「テッセン・ボルネミッサ美術館」の後半は近代絵画のエリアです。このフロアもビックネームばかりが並んでいて、教科書で見たことのある絵もたくさんありました。また全く知らなかった画家の作品にも出会えて楽しい時間が過ごせました。薬を飲んでも体調の悪さは良くなりませんでしたが、美術館で絵を読み解いて写真を撮っている方が気が紛れて良かったかもしれません。最後の方は自分の趣味と違う絵もたくさんあったので力尽きた感が残りますが素晴らしいコレクションであることは間違いありません。マドリッドの3大美術館に順番をつけるとしたら、プラド、テッセン、ソフィアの順だと思いました。ただこれにサン・フェルナンドを加えるとしたらソフィアより上かもしれません。マドリッドは3日もあれば十分だろうと思っていましたが、あと2日は必要だったなとここでも後悔することになりました。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 5.0
- グルメ
- 5.0
- ショッピング
- 5.0
- 交通
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 交通手段
- 鉄道 高速・路線バス 観光バス タクシー 徒歩 飛行機
- 航空会社
- ルフトハンザドイツ航空 ANA
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
ようやく1フロアの見学が終わりました。この「ティッセン・ボルネミッサ美術館」の元となっているコレクションは、1920年代にドイツの鉄鋼財閥ティッセン家とハンガリー貴族ボルネミッサ男爵家の流れを汲むハインリヒ・ティッセン・ボルネミッサ男爵が買い集めたものが最初です。その息子のハンス・ハインリヒ・ティッセン・ボルネミッサ男爵は近現代の作品にも目を向け、コレクションに加えています。 男爵家の個人コレクションは、英国のエリザベス女王のコレクションに次いで世界第2位と言われています。男爵は1985年に元ミス・スペインのカルメン・セルベーラと結婚し、それがきっかけとなって男爵は将来自分のコレクションをスペイン政府に譲渡することを決めます。美術館はボルネミッサ家のコレクションを借りるという形で1992年にオープンしましたが1年後にはそのコレクションはスペイン政府がすべて買い取り、男爵夫人は自身も著名なコレクターで、今でもこの美術館に関わっているそうです。
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「ローマのナヴォーナ広場」ガスパー・ファン・ウィッテン
画家に興味があったわけでは無く、描かれているローマのナヴォーナ広場の姿があまりにも現代と変わらないことに驚きました。 -
左側の教会はサンタニェーゼ・イン・アゴーネ教会で、ボッロミーニの設計したバロック建築です。その前の広場に置かれた噴水は同じ時代のライバルであったベルニーニの「四大河の噴水」です。
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四大河とはドナウ川とラプラタ川、ナイル川ととガンジス川で、それぞれの大河を擬人化した彫刻で表わしています。ボッロミーニの作った教会に向かって、ラプラタ川が手をあげているのは「教会が倒れてしまうと困る」という皮肉が込められ、ナイル川は布で顔を覆っています。これもボッロミーニへの皮肉で、見るにたえない教会だという意味が込められています。ダン・ブラウン原作の映画「天使と悪魔」で噴水に沈められた枢機卿をラングドン教授が助ける場面にも使われています。
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「海辺の情景」ウィンスロー・ホーマー
19世紀のアメリカを代表する画家で、身辺の生活や自然を描くのを得意としていました。 -
ちょっと谷内六郎の週刊新潮の表紙を思い出します。
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「パンチ・アンド・ジョディと海辺の情景」サミュエル・S・カー
「パンチとジュディ」はイギリスを中心とした英語圏の童謡であるマザー・グースの1編です。 -
女の子を驢馬に乗せようとしている家族が題名では無くて、右手後方でお客を集めているのが人形劇でその出し物が「パンチとジョディ」という訳です。
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「海辺の子供たち」サミュエル・S・カー
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19世紀半ばのコニーアイランドは比較的孤立した寂しい場所だったようです。 1849年に詩人ウォルト・ホイットマンは、「私だけのための孤独な海岸」と海岸を賞賛しました。
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「ディアナの入浴」カミーユ・コロー
コローは19世紀の4分の3を生き、次世代の印象派との橋渡しをした画家です。詩情あふれる森や湖の風景画で知られますが、「真珠の女」のような人物画にも傑作があります。3度イタリアへ旅行してイタリア絵画の明るい光と色彩にも影響を受けています。イタリアやフランス各地のありふれた風景を詩情ゆたかに描き出す手法はのちの印象派の画家たちにも影響を与えました。 -
この月の女神の作品は風景画家コローが描いた30程のヌード作品の1つです。モデルはエマ・ドビニーという女性で、彼女の多くのヌードを描いていますが風景と肉体が融合した傑作と言えます。彼女はコローだけでなくドガなど19世紀フランス画家に好まれました。
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「干潮のトルビルと小屋」クロード・モネ
トルビルはセーヌ川河口のイギリス海峡の町です。方角からも夕方の風景のようです。水平線の高さや被写体の中心から外れたフレーム、黄昏時の海と空の間の融合、これらすべての要素はモネの作品らしいです。 -
7年前に妻と行ったモンサンミッシェルの風景を思い出します。実際のモンサンミッシェルは画中の半島の先なのでそう離れてはいません。昼過ぎについて他にお客のいないプーラールでオムレツを食べていたらすっかり遅くなってしまい、修道院の中もほとんど誰もいない状態で見学しました。テラスから眺めた干潮の夕暮れはこの世の物とは思えない美しさでした。そんな風景を思い出させます。
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「干潮のヴァレンジュヴィル」クロード・モネ
ノルマンディー海岸の海岸線にあるヴァレンジュヴィルの海岸線の風景です。 -
美しい海岸線ですがノルマンディー上陸作戦が行われたオマハ・ビーチの一部でもあり第2次世界大戦では激戦地となったところです。
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妻を見失ってしまいました。まあこの辺りの絵画は好き好きなので別々に鑑賞した方が良いかもしれません。
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「チャリング・クロス橋」クロード・モネ
1899年から1901年の3年間、モネは毎年ロンドンに滞在し、深い霧に覆われたテムズ川の風景に取り組みました。テムズ川にかかるチャリング・クロス橋の連作のほとんどは、太陽が昇り川面に光が差し込む午前中の景観を描いたものです。本作品は重い霧と柔らかな陽光がグレーとピンクで表現され、淡く微妙な色彩にまとめられています。水面のきらめきと蒸気機関車の煙のたなびきは白色でリズミカルに表されました。こうした描写によって空気の流れが表現され、画面に動きをもたらしています。モネならではの光を感じさせる作品です。正面からでは外光が写り込んで上手く写真が撮れませんでした。 -
「ライラック」ポール・ゴーギャン
ゴーギャンは地元の学校に通った後、ラ・シャペル・サン・メマンの格式あるカトリック系寄宿学校に3年間通います。その後13歳の時にパリの海軍予備校に入学しようとしますが試験に失敗し、オルレアンに戻ってリセ・ジャンヌ・ダルクを修了し、商船の水先人見習いとなり世界中の海を巡ったそうです。 -
母親の富裕な交際相手の口利きでは株式仲買人としての仕事を始めた1873年頃から、ゴーギャンは、余暇に絵を描くようになります。彼が住むパリ9区には印象派の画家たちが集まるカフェも多く、ゴーギャンは画廊を訪れたり新興の画家たちの作品を購入したりしていました。
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「ルーアンのジュベネット通り」ポール・ゴーギャン
1884年にゴーギャンは家族とともに生活費の安いルーアンに移り、生活の立て直しを図ったがうまく行かずその年のうちに妻メットはデンマークのコペンハーゲンに戻ってしまいます。作品を手にコペンハーゲンに向かったゴーギャンは、防水布の外交販売を始めたが、言葉の壁にも阻まれ失敗したようです。妻メットが外交官候補生へのフランス語の授業を持って家計を支える状態でした。 -
「マタ・ムア」ポール・ゴーギャン
マタ・ムアは昔々という意味です。1892年の作品ですので、タヒチで描かれたようです。1893年8月ゴーギャンはフランスに戻り、タヒチの題材を基に作品の制作を続けます。「マハナ・ノ・アトゥア(神の日)」や「ナヴェ・ナヴェ・モエ(聖なる泉、甘い夢)」はその頃の作品です。 -
タヒチにはまだ行ったことがありませんが、現地を自分の目で見た後はゴーギャンの作品も違って見えるのだと思います。
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「ムルナウ、オーバーマットの家並み」ワシリー・カンディンスキー
1908年にカンディンスキーはミュンヘンで自身が発起した芸術家グループ「ファランクス」をたたみます。そして愛人のガブリエラ・ミュンター共にヨーロッパ各地で絵画制作と展示会を行います。 -
その旅の後に2人は南ドイツの小さな街であるムルナウで5年ほど過ごしています。カンディンスキーはムルラウの風景に触発されて、自身の表現を木版画から油絵による風景画へ移行していったと言われます。抽象画のスタイルでありますが、作品内の木々や建物は写実に近いタッチで描かれています。
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「ミュンヘンのルードヴィヒ教会」ワシリー・カンディンスキー
バイエルンの王家ヴィッテルスバッハ家の歴代の王たちの遺体が安置されているのがミヒャエル教会です。その墓は教会の地下にあり見学もできます。ミヒャエル教会はバイエルン公ウィルヘルム5世によって16世紀後半に建設されました。教会分裂の時代にカトリックの力を強調する目的で作られたもので、アルプス以北で最大規模のルネッサンス様式の教会としてもよく知られています。 -
地下にはバイエルンの王家の墓があり、著名な人物たちの棺が安置されています。
特にバイエルン王家ヴィッテルスバッハ家の歴代王である狂王ルードヴィヒ2世や、ボヘミア王オットーなどが有名です。1896年にミュンヘンで絵の勉強を始め、象徴主義の大家フランツ・フォン・シュトゥックに師事します。1902年にベルリンの分離派展に出品し、1904年からはパリのサロン・ドートンヌにも出品しています。1909年には新ミュンヘン美術家協会会長となるが、1911年には脱退して「青騎士」(デア・ブラウエ・ライター)を結成します。 -
「刈り取り人夫」パブロ・ピカソ
文字通り収穫時期の麦秋の風景です。麦秋と言っても麦にとっても刈り入れ時で実際の秋ではありません。スペインだと何月頃になるのかは詳しく分かりませんが。 -
どんどん高くなっていく積み藁と麦わらを食む牛の姿が印象的です。
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「火吹き男」レジナルド・マーシュ
ニューヨークに住む人たちの暮らしを生き生きと描くことが得意な画家だそうです。この絵はサーカスの人間ボルケーノ、火吹き男が題材になっています。初めて知った作家ですが、とても気に入りました。 -
「劇場の仮面たち」ジェームス・アンソール
魔性もあり滑稽さもある仮面たちは、ベルギーの画家ジェームズ・アンソールの作品にはたびたび登場する主要なモチーフです。両親がオーステンドで伝統的なカーニバル用の仮面を販売する店を営んでいたため、アンソールは幼いころから仮面に親しんで育ちました。 -
この絵のどこか落ち着きのないのイメージは、ブリューゲルやボスといったフランドル派の画家たちに通じるところがあり、奇怪なイメージは彼が若いころ模写したドーミエやゴヤなどの次々と変化していく構図を思わせます。アンソールという画家が美術のなかで分類しづらい立ち位置にいるのはこのような絵を描いていたところにあるからでしょうか。
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昨年の暮れにクリスマスマーケット巡りの途中でクレラー・ミュラー美術館に立ち寄りました。というかこの美術館に行きたくて選んだツアーでもありました。その前には3週間かけてベルギーとオランダを旅していながら時間が無くなって行けなかった美術館でした。ここに収蔵されていたアンソールの作品数点が素晴らしかったのを思い出しました。
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「ホップ・フロッグの復讐」という作品はゴッホ以上にこの美術館で一番良かった作品かもしれません。エドガー・ア・ランポーの小説を題材にした作品ですが強烈な印象が残っています。
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この作品も印象に残りました。今更ながらオステンドの自宅を改造した美術館へ行っておけば良かったと後悔が残ります。
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「川沿いの家並み」エゴン・シーレ
ウィーンのレオポルド美術館にもシーレの風景画があったことを思い出しました。 -
シーレといえばかなり際どい女性の絵や自画像を多く描いていますが、風景画も数多く残しています。同タッチや色合いからシーレの作品と分かりますが、人物画には全くない清々しさをも感じてしまう作品です。
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「カール・レオ・シュミットの肖像」オスカー・ココシュカ
エゴン・シーレとくれば次はココシュカですね。クリムトの作品がスペインにあった記憶はありませんから。亡くなった原因はスペイン風邪だったと思いますが。 -
「黄色い花」アンリ・マティス
そう言えば1910年にミュンヘンでイスラム美術の大展覧会を鑑賞したあと、2ヶ月間イスラム美術を学ぶためスペインで過ごしていたことを思い出しました。。1912年と1913年にはモロッコを訪れ、タンジェ(タンジール)に滞在して絵を描きながら画風を変化させていきます。エルミタージュ美術館新館で観たマティスの「セビリアの静物画」などの一連の作品を思い出します。そして「リディア・デレクターズカヤの肖像」の秘められた物語も。 -
「Nude with Draperyのための頭部の習作」パブロ・ピカソ
「ヴェールの踊り」(キュビスムの時代”に描かれた作品)の習作のようです。
1907年トロカデロにある人類博物館でアフリカの彫刻や仮面を目にし、「キュビスム」という新しい画法にたどり着いたそうです。ピカソは1枚の絵を描くのにもたくさんの習作を描いたようで、ゲルニカでは45枚の習作を残しています。 -
「女性の頭部」アメデオ・モディリアーニ
1906年1月パリへ移住した後アカデミー・コラロッシに入学し、モンマルトルのコランクール街にアトリエを借り活動を始めます。そこはアパート洗濯船に近くモンマルトルの画家のパブロ・ピカソやギヨーム・アポリネール、アンドレ・ドランやディエゴ・リベラらと交流を結びます。この作品は1915年に描かれていますので画商ポール・ギヨームと知り合い、マックス・ジャコブの勧めもあって絵画に専念したころのものです。当時シャイム・スーティンや藤田嗣治、モーリス・ユトリロとも交友関係にあり、英国人の女性ベアトリス・ヘイスティングスと知り合います。 -
「イヴェット・ギルベール」トゥールーズ・ロートレック
ヴェット・ギルベールはベル・エポック期のフランスで、カフェ・コンセールなどで活躍したキャバレー歌手で女優です。貧しい家庭に生まれ、子どもの時から歌っていましたが、16歳のときにパリの百貨店マガザン・デュ・プランタンのモデルとして働きジャーナリストに注目されます。 -
働きながら発声や演技を学び、小さな劇場の舞台に立つようになり、ヴァリエテ劇場でデビューを果たした後はエルドラドというクラブで歌うようになり、ジャルダン・ドゥ・パリを経てモンマルトルのムーラン・ルージュに出演するまでになります。
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「白いブラウスのルース」トゥールーズ・ロートレック
ロートレックは南仏のアルビでロートレック伯爵家に生まれます。祖先は9世紀のシャルルマーニュ時代までさかのぼることができる名家でした。両親はいとこ同士で、父のアルフォンス伯は、奇妙な服装をするなど変わり者で有名だったそうです。ロートレックは、幼少期には「小さな宝石」と呼ばれて家中から可愛がられて育ちますが、弟が夭折すると両親が不仲となり、8歳のときには母親と共にパリに住むようになります。そこで絵を描き始めると母親は彼の才能を見出し、父親の友人の画家からレッスンを受けるようになります。しかし13歳の時に左の大腿骨を、14歳の時に右の大腿骨をそれぞれ骨折して以降脚の発育が停止し、成人した時の身長は152cmにしかなりませんでした。胴体の発育は正常だったが、脚の大きさだけは子供のままの状態で、医学的見解では彼の症状は近親婚に起因する骨粗鬆症や骨形成不全症などの遺伝子疾患であったと考えられています。病気によりアルビーに戻ったロートレックは活動を制限され、父親からは疎まれるようになり、孤独な青春時代を送ります。自身が身体障害者として差別を受けていたこともあってか、娼婦、踊り子のような夜の世界の女たちに共感したようです。パリのムーラン・ルージュをはじめとしたダンスホールや酒場などに入り浸り、旺盛な性欲をもとに娼婦たちと頻繁に関係を持つデカダンな生活を送り、最後の言葉は自分を認めなかった父親に「馬鹿な年寄りめ!」だったそうです。 -
「ガストン・ボネフォイ」トゥールーズ・ロートレック
画家のためにポーズを取ったガストン・ボネフォイです。 ロートレックはその年のサロン・デ・インデンバントでこれらの肖像画を出品する意図で、ボンネフォイと他の4人の友人を描いています。 外出時を想像させるオーバーコートと帽子を着て、全身像で描かれています。 -
ほぼ茶色一色の室内のクローゼットの扉は開けられていて、丁番の隙間から見えるカラフルない洋服からこの部屋は女性の部屋だと感じます。
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「揺れる踊り子」エドガー・ドガ
ドガの作品にはバレエを扱った主題、ことに楽屋や練習風景や舞台袖といった一般人では出入りできない場所での場面を描いたものが多いです。当時踊り子たちはオペラ座の「小さなネズミ」と呼ばれていたが、彼女らの舞台裏をありのままに描きました。他の印象派の多くの画家たちとくらべれば銀行家の息子であり裕福な家庭の出身であったドガはバレエを好み、オペラ座の定期会員になっていました。 -
座席を年単位で購入する定期会員はオペラ座の楽屋や稽古場に自由に立ち入ることが許されていたそうです。当時オペラ座の一般会員は上流階級の社交場でもあったので、父の逝去後に経済的には苦しくなった後もドガは一般会員を続けていたものと思われます。ドガの描いたバレエの主題の多くはそこで見た風景ですが、彼の通った時代はクラシック・バレエやモダン・バレエがまだフランスには紹介されておらず、フランスはロマンチック・バレエの時代だったので、ドガの作品はすべてロマンチック・バレエの風景といえます。
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「乗馬服の女性」エドゥアール・マネ
この絵はマネの友人で芸術相を務めていたアントナン・プルーストの依頼で、マネの亡くなる直前の2年間で描かれた四季をテーマにしたシリーズに属する未完成の作品でです。女性像で四季を表現するのは西洋絵画では比較的一般的でした。マネはこの作品を制作し始めた時はすでに重病を患っており、一番最初に描いた「春」だけが完成しています。 -
晩年の傑作「フォリー・ベルジェールのバー」とともに1882年のサロンに出品され「春」は大成功を収めます。この 「乗馬服の女」はおそらく「夏」の象徴として描かれました。ヘンリエッタ・シャボットがモデルですが、他のモデルたちと比べてあまり知られていないこの若い女性は、モスク通りにあった本屋の娘です。前年のサロンでの成功に励まされたマネは、この絵を1883年のサロンで発表すべく力を入れていました。オルセー美術館で観た「すみれの花束をつけたベルト・モリゾ」を思い出させる作品ですし、ロンドンのコートールド美術館で観た「フォリー・ベルジェールのバー」は今でも鮮烈に記憶に残った名画でした。
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「ガラテア」ギュスターブ・モロー
窓際の袖壁にひっそり飾られていたモローの作品です。ガラテアはギリシア神話に登場する女性で、その名は「乳白色の肌をもつ者」の意味があります。見た瞬間なるほどなと思いました。 -
海神ネレウスの娘ネレーイスの1人でオウィディウスの「変身物語」によれば、ガラテアはシチリア島で川の精霊ニュンペーの息子である青年アーキスと恋に落ちます。かねてよりガラテアを恋慕していたキュクロープスのポリュペーモスがこれに嫉妬し、巨石を投げつけたポリュペーモスによってアーキスは殺されてしまいます。死んだアーキスの血はエトナ山のそばを流れる川となります。
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キュクロープスはギリシア神話に登場する卓越した鍛冶技術を持つ単眼の巨人であり下級神でもありますが、この絵では三眼で表わされています。物静かで知的な雰囲気の男性像にも見えますが、大きく見開いた三番目の目はキュクロープスの精神の二面性を感じて少し怖い気もします。
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澁澤龍彦も「幻想の肖像」や「ヨーロッパの乳房」の中でヨーロッパの個人美術館に着いて書き残しています。そしてパリのモロー美術館を気に入ったであろうことも読み取れました。7年ほど前に行く機会がありましたが、素晴らしい狂気の世界でした。
モロー美術館:https://4travel.jp/travelogue/10624901 -
「午後のサントノーレ通り、雨の効果」カミーユ・ピサロ
ピサロはデンマーク植民地時代のセント・トーマス島で生まれたデンマーク系フランス人画家で、印象派および後期印象派の画家です。 1874年から1886年の間に8回開催された印象派展すべてに参加した唯一の画家でもあります。ピサロの美術史における重要性とは、前期印象派と後期印象派の両方に貢献したことです。 -
手前のテアトル・フランセの噴水の位置からするとオペラ通りのホテル・ド・ルーブルの建物から眺めたサントノーレ通りだと分かります。噴水の右手の通りの先にオペラ・ガルニエが見える位置です。ほとんど現在と変わらない姿です。
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「夕方の風景」フィンセント・ファン・ゴッホ
ゴッホはこの絵を描いた1885年当時はこういった夕暮れの風景を好んで描いたのでしょうか。クラレ・ミュラー美術館でも同じような風景の絵を観ました。 -
ゴッホの年譜を辿ると1883年に父の移り住んだオランダ北ブラバント州ニューネンの農村に2年ほど住んだ時代です。1884年の夏に近くに住む10歳年上の女性マルホットよ恋仲になりますが、両家の反対でマルホットは自殺未遂事件を起こします。この事件で友人ラッパルトとの関係悪化、ラッパルトの展覧会での成功などに追い詰められたうえに再び父との争いを勃発させます。1885年3月26日に父ドルス牧師が発作を起こして急死すると、妹アンナからは、父を苦しめて死に追いやったのはフィンセントであり、彼が家にいれば母も殺されることになるとなじられます。そんな重苦しい心境を感じさせる絵です。
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「オーヴェルの風景」フィンセント・ファン・ゴッホ
1890年5月にゴッホはパリから北西へ30キロ余り離れたオーヴェル・シュル・オワーズの農村に着き、ポール・ガシェ医師を訪れます。ガシェ医師についてゴッホは「非常に神経質でとても変わった人だが、体格の面でも精神的な面でも僕にとても似ているので、まるで新しい兄弟みたいな感じがして、まさに友人を見出した思いだ。」と妹ヴィルに手紙を書いています。 -
有名な「オーヴェルの教会」もこのころ描かれた絵です。オーヴェルをよほど気に入ったのか弟テオの家族を呼び寄せて楽しく過ごしたこともありました。ただこの年の7月にオーヴェルで亡くなっています。この絵からは精神状態は落ち着いていたのではないかと観て取れましたが…。
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「アルルの港湾労働者」フィンセント・ファン・ゴッホ
1888年の作品でアルルに移り住んですぐの作品だと思います。もうゴーギャンは到着していたのでしょうか。 -
30年ほど前に初めてアルルを訪れました。それまで印象派の絵画はあまり好きではありませんでした。モンペリエからアルルへ向かう列車の車窓から糸杉や7月の明るい日差しを眺めていたら「ああ印象派の風景って本当にあるんだ。」と思え、それ以降その心象風景が少し分かるようになった気がします。
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「ヴェトゥイユの雪解け」クロード・モネ
モネ一家は1878年9月にマネから引っ越し費用を借りて、セーヌ川の50kmほど下流にある小さな村ヴェトゥイユに移っています。ヴェトゥイユ時代には、印象派の仲間たちとの間は疎遠になっていったようです。グループ内では印象派展の売れ行きが思わしくない中、サロンに応募するか否かという点は深刻な対立点となります。ドガがサロンに応募する者はグループ展に参加させないことを強く主張していたのに対し、ルノワールは1878年にサロンに応募し、モネもグループ展が作品の販売を妨げていると考えるようになります。 -
この絵を描いた1880年のサロンには10年ぶりに出品しています。長年審査に反抗していたモネがサロンへの出品を決意した理由には、前年にルノワールが初めて高い評価を得たことに加え、経済的に逼迫する中で入選すれば画商ジョルジュ・プティが作品を購入してくれるかもしれないという期待もあったようです。
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「泉のニンフ」アルノルト・ベックリン
19世紀末のヨーロッパの美術界はフランス印象派の全盛期でしたが、戸外にキャンバスを持ち出し外光の下で身近な風景を描き出した印象派の画家たちとは対照的に、文学や神話、聖書などを題材に想像の世界を画面に表そうとする象徴主義の画家たちも活動していました。ベックリンはこうした象徴主義・世紀末芸術の代表的画家の1人です。 -
題材は古典絵画のフロアで観たクラナッハの絵と同じですが、また違った魅力を感じます。この絵を描いた1855年当時はローマに滞在していた頃です。ベックリンと言えば「死の島」が有名ですが、その絵が描かれるのはまだ5年先のことです。
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「サザーランド公爵夫人の肖像」ジョン・シンガー・サージェント
サージェントは1856年アメリカ人医師の子としてイタリアのフィレンツェに生まれ、少年時代をイタリアで過ごしています。18歳の時にはパリに出てカロリュス・デュランに師事するとともに、エコール・デ・ボザール (官立美術学校) にも通っています。こうしてアカデミックな美術教育を受けた彼は1877年からサロン・ド・パリに出品するようになります。ここまでは順風満帆でしたが1884年のパリのサロンに出品したマダムXという肖像画によってスキャンダルにまきこまれることになります。この肖像画は当初「・・夫人の肖像」という題名で発表されますが、明らかに当時の実在の女性であるゴートロー夫人を描いたものであると見なされます。この絵は人妻を描いたものとしてはあまりにも官能的で品がないとして当時の批評家から非難されました。 -
「クラリネットを吹く男」パブロ・ピカソ
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「男の肖像」パブロ・ピカソ
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「バカラ・ゲーム」フィルモス・フサール
フサールはハンガリーのブダペストに生まれ、オランダのフォールブルグに移り住みます。キュビスムおよびフューチャリズムの影響を受け、彼と並んで1917年のデ・ステイル創始の中心人物であるピエト・モンドリアンやテオ・ファン・ドゥースブルフと出会います。また、デ・ステイル誌を共同制作し、創刊号の表紙デザインを担当しています。 -
「無題」ワシリー・カンディンスキー
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ようやく妻を発見しました。
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「闘牛」パブロ・ピカソ
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「鏡を持ったアルルカン」パブロ・ピカソ
ようやくこの絵と対面することが出来ました。ピカソに限らず道化師を描いた作品が好きです。この絵は1923年の作品ですので「新古典主義の時代」の絵といえます。 -
アルルカンはフランス語でイタリア語のアルレッキーノが語源です。どちらも元々は「コンメディア・デッラルテ」(イタリアで生まれた仮面をつかった喜劇)の登場人物の名前で、アルルカンはそのなかの男の召使いの名前ですが、名前に意味はありません。
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旅の初めのバルセロナでピカソ美術館を再訪していますが、ここにたどり着くまで長かった気がします。今となってはどこも外すことが出来ない美術館ばかりですが、妻にとってはつまらなかったかもしれません。
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「グレイ・ハウス」マルク・シャガール
シャガールは1910年パリに赴き、5年間の滞在の後に故郷へ戻ります。この最初のパリ時代の作品にはキュビスムの影響が見られます。1915年に母が亡くなり、同年にベラと結婚し、10月革命(1917年)後のロシアでしばらく生活します。この絵はその頃の1917年の作品です。 -
昨年の秋に念願のロシアを旅行することが出来て、黄金の環を旅したことが思い出されるような雰囲気です。タルコフスキーの「アンドレイ・リュブロフ」の一場面のようにも見えました。
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「村のマドンナ」マルク・シャガール
シャガールと言えばこの雰囲気ですね。ベラルーシの田舎の町に住んでいたときの少年時代の風景や東欧ユダヤ人の生活の礎になっていたシュテットル文化などシャガールの記憶と想像の世界が描かれているのでしょうね。 -
ほのぼのとした気持ちにさせてくれる作品です。ただ、この絵を描いた1938年から42年は退廃芸術としてドイツ当局がシャガールの芸術も嘲笑していたころです。ドイツ軍がフランスを占領したあともシャガールはフランスにとどまっていました。ヴィシー政権がフランスにいるユダヤ人をドイツの収容所に送ろうとしていたを知らなかったようです。そして1941年にアメリカへ亡命します。
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「雄鶏」マルク・シャガール
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「目を覚ます1秒前、ザクロの実の周囲を1匹の蜜蜂が飛び回ったために見た夢」
サルバドール・ダリ
1944年に制作された作品で、後にダリはこの作品についてフロイトの夢解釈からヒントを得て描いたと話しています。 -
手前で眠る女性は妻のガラで、この作品はガラが見たザクロのまわりを飛ぶ蜂の羽音から生みだされたさまざまな物体の夢をもとに描かれています。 背景にはポルト・リガトの遠景と穏やかな海の風景を描き、ザクロから飛びだすように描かれている魚はメバル類の魚です。さらに魚の口から虎が吐きだされ、さらに虎の口から別の虎が吐きだされています。そして虎の先には銃剣が描かれ銃剣の先はガラの腕を突き刺そうとしています。背景にはダリキャラでおなじみの宇宙象が描かれています。「ミスト」という映画のエンディングに巨大な異次元の動物が出てきますが、あれは宇宙象だったのかと思いました。この絵に曲をつけるとしたらDead Can Danceの「The Host Of Seraphim」が良いと思います。
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「白い背景の絵」ホアン・ミロ
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「ギターを持ったカタルーニャの農民」ホアン・ミロ
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「The Lighting Bird blinded by Moonfire」ホアン・ミロ
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「私の若い友達」アンドリュー・ワイエス
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ワイエスの絵を観ると昔の池袋西武にあったセゾン美術館を思い出します。
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「ポシャド」スチュアート・デイビス
ポシャドとは戸外で実際の風景を油彩で簡単にスケッチした下絵という意味です。
デイビスは戦前から戦後にかけて活躍し、後のポップアートにも大きな影響を与えた作家です。この辺りになるとあまり好きなジャンルではありませんが、昔キース・へリングに何枚かイラストを描いてもらったことがありますが、それは宝物です。 -
リチャード・エステスの作品が数枚飾られてありました。
この辺りになると元々のテッセンのコレクションでは無くて代替わりした後の物だと思います。 -
「ピープルズ・フラワー」リチャード・エステス
エステスはイリノイ州エバンストンの生まれです。シカゴ美術研究所で勉強し「ハイパー・リアリズム」を代表する画家で、現代的風景を主題とし精密で写実的な絵を描く作家です。 -
「テレフォン・ブース」リチャード・エステス
アメリカに入ったことがありませんが、古き良き60年代の風景がそのまま閉じ込められているようで好感が持てます。 -
「入浴する女性」ロイ・リキテンシュタイン
リキテンスタインの代名詞となっている漫画のコマを拡大したような作品は1960年代初頭に登場します。彼は自分の子供にミッキーマウスの漫画を描いてやった時に、従来のいわゆる芸術としての絵画よりも漫画の方が強烈なインパクトと表現力を持っていることに気が付いたそうです。 -
ゴシックから始まったテッセン・ボルネミッサ美術館はリヒテンシュタインで終わりました。企画展で「ムリーリョ展」が開催されていましたがそこまで体力が残っていません。そう言えばテッセンのコレクションにもムリーリョの作品がありましたが、常設展にはありませんでした。多分企画展に移されていたのでしょう。これでマドリッドの代表的な三大美術館の見学が終わりました。最後に王立サン・フェルナンド美術アカデミーに行きましたが、ここが思っていたよりも凄かったのは驚きでした。
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