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川村北城址と所縁の寺社の紹介です。11月の6日に見学し、日を改めて17日に見学した川村北城址所縁の寿昌山・大永寺の紹介です。10日ほどの間にすっかり秋が深まりました。

2016秋、川村北城址と所縁の寺社(3/4):寿昌山・大永寺、東門、鐘楼門、本堂、地蔵尊

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2016/11/06 - 2016/11/17

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旅人のくまさん

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川村北城址と所縁の寺社の紹介です。11月の6日に見学し、日を改めて17日に見学した川村北城址所縁の寿昌山・大永寺の紹介です。10日ほどの間にすっかり秋が深まりました。

  • 川村北城址所縁の寿昌山・大永寺見学の最寄り駅、ゆとりーとラインの川宮駅の光景です。駅の周りの街路樹が紅葉の時期を迎えていました。小幡城址見学の時にも最寄り駅でしたが、今度の見学地は線路の西側になります。

    川村北城址所縁の寿昌山・大永寺見学の最寄り駅、ゆとりーとラインの川宮駅の光景です。駅の周りの街路樹が紅葉の時期を迎えていました。小幡城址見学の時にも最寄り駅でしたが、今度の見学地は線路の西側になります。

  • 振り返って眺めた東方面の光景です。ゆとりーとラインの高架道路が前方右手に見えています。中央付近に見える道路標識には、東方面への直進が小幡が原、南への右折が瀬戸街道方面の小幡、左折が北方向の春日井が記されていました。

    振り返って眺めた東方面の光景です。ゆとりーとラインの高架道路が前方右手に見えています。中央付近に見える道路標識には、東方面への直進が小幡が原、南への右折が瀬戸街道方面の小幡、左折が北方向の春日井が記されていました。

  • ゆとりーとラインからは、左手の西側に見えていた大永寺に到着しました。川宮駅から歩いて、5分ほど、300娶るほどの距離でした。駐車場のような場所の塀に、大永寺東門の表示がありましたので、ここから入場することにしました。

    ゆとりーとラインからは、左手の西側に見えていた大永寺に到着しました。川宮駅から歩いて、5分ほど、300娶るほどの距離でした。駐車場のような場所の塀に、大永寺東門の表示がありましたので、ここから入場することにしました。

  • 東門から入って、庫裏などがある場所を通って本堂がある方面に向かいました。大永寺が川村北城の所縁のお寺とされるのは、川村北城の2代城主の岡田時常を始め、境内に岡田氏歴代の墓石が並んでいるためです。

    東門から入って、庫裏などがある場所を通って本堂がある方面に向かいました。大永寺が川村北城の所縁のお寺とされるのは、川村北城の2代城主の岡田時常を始め、境内に岡田氏歴代の墓石が並んでいるためです。

  • 通路脇にあった大きな『サザンカ(山茶花)』の木の光景です。満開の時期は過ぎていましたが、ピンクの花がまだ見頃でした。

    イチオシ

    通路脇にあった大きな『サザンカ(山茶花)』の木の光景です。満開の時期は過ぎていましたが、ピンクの花がまだ見頃でした。

  • 真っ赤に熟れた、『ナンテン(南天)』の実です。庭木として重宝されている灌木の一つです。難を福に転じる意味に通じる、『ナンテン(南転)』の名前も好まれるようです。

    真っ赤に熟れた、『ナンテン(南天)』の実です。庭木として重宝されている灌木の一つです。難を福に転じる意味に通じる、『ナンテン(南転)』の名前も好まれるようです。

  • 本堂の前に山門が目に入りましたので、こちらから先に紹介することにします。二階建ての楼門の造りでした。二階には梵鐘が置かれているようですから、『鐘楼門』と呼ばれているようです。

    本堂の前に山門が目に入りましたので、こちらから先に紹介することにします。二階建ての楼門の造りでした。二階には梵鐘が置かれているようですから、『鐘楼門』と呼ばれているようです。

  • 一旦は門を潜って外に出て、南側から眺めた鐘楼門の光景です。二階には望楼の手摺りが設けてありました。

    一旦は門を潜って外に出て、南側から眺めた鐘楼門の光景です。二階には望楼の手摺りが設けてありました。

  • 鐘楼門の周りの塀と石碑の光景です。石碑には、前週のお寺でよく見掛ける、『山門禁葷酒』の文字が刻まれていました。

    鐘楼門の周りの塀と石碑の光景です。石碑には、前週のお寺でよく見掛ける、『山門禁葷酒』の文字が刻まれていました。

  • 山門の左手にあった掲示板の光景です。『曹洞宗・寿昌山・大永寺』の文字が記されていました。やはり禅宗のお寺だったようです。

    山門の左手にあった掲示板の光景です。『曹洞宗・寿昌山・大永寺』の文字が記されていました。やはり禅宗のお寺だったようです。

  • 寿昌山・大永寺の入口付近から眺めた、鐘楼門の光景です。格式の高いお寺で亜sることが分かる山門付近の光景でした。

    寿昌山・大永寺の入口付近から眺めた、鐘楼門の光景です。格式の高いお寺で亜sることが分かる山門付近の光景でした。

  • 『曹洞宗・寿昌山・大永寺』の文字が刻まれた、まだ新しい石碑の光景です。平成8年(1996年)の改築により、建築物は一新された時の石碑かも知れません。この時の新築と改修の内容は、後ほど紹介します。

    『曹洞宗・寿昌山・大永寺』の文字が刻まれた、まだ新しい石碑の光景です。平成8年(1996年)の改築により、建築物は一新された時の石碑かも知れません。この時の新築と改修の内容は、後ほど紹介します。

  • 鐘楼門の瓦屋根のズームアップ光景です。軒丸瓦には花弁の様な五つの円が細い線で結ばれた紋がありました。梅紋の1種でしょうか。軒平瓦には、波目模様がありました。

    鐘楼門の瓦屋根のズームアップ光景です。軒丸瓦には花弁の様な五つの円が細い線で結ばれた紋がありました。梅紋の1種でしょうか。軒平瓦には、波目模様がありました。

  • 鐘楼門で切り取って眺めた境内の光景です。問中には、『寿昌山・大永寺』の白く大きな表札が懸かっていました。

    鐘楼門で切り取って眺めた境内の光景です。問中には、『寿昌山・大永寺』の白く大きな表札が懸かっていました。

  • 平成4年(1992年)12月に着工され、平成8年(1996年)2月に完工した、竣工記録の石碑です。新築された建物は、鐘楼門、寿昌閣と秋葉堂、修復されたのが本堂と開山堂と記されていました。

    平成4年(1992年)12月に着工され、平成8年(1996年)2月に完工した、竣工記録の石碑です。新築された建物は、鐘楼門、寿昌閣と秋葉堂、修復されたのが本堂と開山堂と記されていました。

  • 少し離れた場所から眺めた、本堂の光景です。鐘楼門から真っすぐに石畳の参道が伸びていました。その参道脇に石灯篭が置かれていました。

    イチオシ

    少し離れた場所から眺めた、本堂の光景です。鐘楼門から真っすぐに石畳の参道が伸びていました。その参道脇に石灯篭が置かれていました。

  • 名古屋市保存樹の『ラカンマキ(羅漢槙)』の光景です。表示の木杭には、樹齢490年と記してありました。現在では500年を迎えたようです。

    名古屋市保存樹の『ラカンマキ(羅漢槙)』の光景です。表示の木杭には、樹齢490年と記してありました。現在では500年を迎えたようです。

  • 十三重石塔の光景です。十三重石塔最古のものは、大阪太子町鹿谷寺の十三重石塔とされ、8世紀後半の造立とされます。十三重石塔が数多く造られ始めたのは、平安後期からとされます。

    イチオシ

    十三重石塔の光景です。十三重石塔最古のものは、大阪太子町鹿谷寺の十三重石塔とされ、8世紀後半の造立とされます。十三重石塔が数多く造られ始めたのは、平安後期からとされます。

  • 地蔵尊が祀られた、小さな社の光景です。地蔵尊ではよく見かける、前がオープンになった質素な社です。敢て、地蔵堂とは呼ばれないような雨露凌ぎの宿です。

    地蔵尊が祀られた、小さな社の光景です。地蔵尊ではよく見かける、前がオープンになった質素な社です。敢て、地蔵堂とは呼ばれないような雨露凌ぎの宿です。

  • 20体近くあった地蔵尊の中央部分のズームアップ光景です。風化したのか、撫でられてすり減ったのか、顔の表情がほとんど読み取れない地蔵尊でした。

    20体近くあった地蔵尊の中央部分のズームアップ光景です。風化したのか、撫でられてすり減ったのか、顔の表情がほとんど読み取れない地蔵尊でした。

  • 名古屋市保存樹の『イヌマキ(犬槙)』の横から眺めた、地蔵菩薩を祀った小さな社の光景です。イヌマキには、樹齢380年の表示がありました。既に400年に達しているかも知れません。

    名古屋市保存樹の『イヌマキ(犬槙)』の横から眺めた、地蔵菩薩を祀った小さな社の光景です。イヌマキには、樹齢380年の表示がありました。既に400年に達しているかも知れません。

  • 緑色の『大永寺』の文字が記された扁額の光景です。歴代住職が揮毫されたものかもしれませんが、落款はありませんでした。

    緑色の『大永寺』の文字が記された扁額の光景です。歴代住職が揮毫されたものかもしれませんが、落款はありませんでした。

  • 柱の一番長い竿の部分に『報恩塔』の文字が記された、真新しい石灯篭の光景です。春日灯篭に似た部分もありますが、いくつかの点で異なっていました。

    柱の一番長い竿の部分に『報恩塔』の文字が記された、真新しい石灯篭の光景です。春日灯篭に似た部分もありますが、いくつかの点で異なっていました。

  • 同じく、春日灯篭によく似た真新しい石灯篭の光景です。春日灯篭と一番異なる点は火袋の部分でした。同じ六角形ですが、すべてが明かり窓のデザインでした。

    同じく、春日灯篭によく似た真新しい石灯篭の光景です。春日灯篭と一番異なる点は火袋の部分でした。同じ六角形ですが、すべてが明かり窓のデザインでした。

  • 寺社には付きものの『ソテツ(蘇鉄)』の光景です。ソテツは、裸子植物ソテツ科の常緑低木です。ソテツ類の中では、日本に自生する唯一の種とされます。

    寺社には付きものの『ソテツ(蘇鉄)』の光景です。ソテツは、裸子植物ソテツ科の常緑低木です。ソテツ類の中では、日本に自生する唯一の種とされます。

  • 鐘楼門の軒丸瓦にも記された寺紋です。ネットなどで名前を探してもまだ、見つけることが出来ない家紋です。

    鐘楼門の軒丸瓦にも記された寺紋です。ネットなどで名前を探してもまだ、見つけることが出来ない家紋です。

  • 大永寺本堂の西南角付近の光景です。濡れ縁の周囲には、欄干がありました。この後は、2代目の川村北城主だった岡田家のお墓に向かいます。

    大永寺本堂の西南角付近の光景です。濡れ縁の周囲には、欄干がありました。この後は、2代目の川村北城主だった岡田家のお墓に向かいます。

  • 同じく、大永寺本堂の北側の側面光景です。赤い実が生った灌木は、ナンテンでした。その背後には、鬱蒼とした竹林がありました。

    同じく、大永寺本堂の北側の側面光景です。赤い実が生った灌木は、ナンテンでした。その背後には、鬱蒼とした竹林がありました。

  • 本堂の裏手にあるお墓に向かう途中の光景です。その通路脇にも、周りより高くなった石段に上に、菊の花がお供えされた墓標が並んでいました。禅寺らしい、院と居士が使われた諡でした。

    本堂の裏手にあるお墓に向かう途中の光景です。その通路脇にも、周りより高くなった石段に上に、菊の花がお供えされた墓標が並んでいました。禅寺らしい、院と居士が使われた諡でした。

  • 四体並んだ小さな地蔵尊の光景です。四体とも光背と一緒に彫刻されていました。この後は、お寺の裏に回って、川村北城の城主だった岡田家のお墓などの紹介です。織田信長の死後、秀吉の謀略にかかり、織田信雄が殺した織田家の三家老、津川義冬、岡田重孝、浅井長時のうち、岡田重孝に繋がるの累代のお墓もここにあるようです。

    四体並んだ小さな地蔵尊の光景です。四体とも光背と一緒に彫刻されていました。この後は、お寺の裏に回って、川村北城の城主だった岡田家のお墓などの紹介です。織田信長の死後、秀吉の謀略にかかり、織田信雄が殺した織田家の三家老、津川義冬、岡田重孝、浅井長時のうち、岡田重孝に繋がるの累代のお墓もここにあるようです。

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