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名古屋市天白区に残る、島田城址と所縁の寺社の紹介です。島田城主の子孫の方の私有地として土塁址が現在も保存、公開されていました。

2016秋、尾張・島田城址と所縁の寺社(1/3):島田城址立札、城址の土塁、小さな社

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2016/11/05 - 2016/11/05

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旅人のくまさん

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名古屋市天白区に残る、島田城址と所縁の寺社の紹介です。島田城主の子孫の方の私有地として土塁址が現在も保存、公開されていました。

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  • 天保15年(1844年)に編纂された『尾張志』に、東西42間(約76メートル)、南北101間(約182メートル)、また、宝暦2年(1752年)に完成した尾張藩最初の藩撰地誌、『張州志府』には、『地元では城主が牧寅蔵であると言われている』と紹介されている島田城址とされる場所です。土塁の址のようでした。名古屋市の天白区内に位置します。『尾張志』、『張州志府』ともにディジタル・ライブラリーを閲覧できます。

    天保15年(1844年)に編纂された『尾張志』に、東西42間(約76メートル)、南北101間(約182メートル)、また、宝暦2年(1752年)に完成した尾張藩最初の藩撰地誌、『張州志府』には、『地元では城主が牧寅蔵であると言われている』と紹介されている島田城址とされる場所です。土塁の址のようでした。名古屋市の天白区内に位置します。『尾張志』、『張州志府』ともにディジタル・ライブラリーを閲覧できます。

  • 名古屋市教育委員会名で立てられた、『島田城址』の立札です。築城年代は不詳ですが、尾張守護職の斯波氏の一族、牧氏が関わるお城であることが紹介されていました。

    イチオシ

    名古屋市教育委員会名で立てられた、『島田城址』の立札です。築城年代は不詳ですが、尾張守護職の斯波氏の一族、牧氏が関わるお城であることが紹介されていました。

  • 植田城址の土塁址の北端部分の光景です。城跡の西端になるようでした。見学に便利なよう、石段が付いていました。この通りは鎌倉街道のの要所で、植田城は室町時代(1336~1573年)に造られたとする説もあります。

    植田城址の土塁址の北端部分の光景です。城跡の西端になるようでした。見学に便利なよう、石段が付いていました。この通りは鎌倉街道のの要所で、植田城は室町時代(1336~1573年)に造られたとする説もあります。

  • 土塁址の北側から入って、土塁の裏側に回るところです。この一帯はすべて私有地のようです。かつての島田城主の末裔の方の土地のようでした。

    土塁址の北側から入って、土塁の裏側に回るところです。この一帯はすべて私有地のようです。かつての島田城主の末裔の方の土地のようでした。

  • 土塁址に沿った道の南側方面の光景です。途中から緩やかな上り坂になり、その先にミカン畑がありました。後ほど散策することにしました。

    土塁址に沿った道の南側方面の光景です。途中から緩やかな上り坂になり、その先にミカン畑がありました。後ほど散策することにしました。

  • 土塁址の内側から登る石段の光景です。10数段ありました。1段を25センチとして略算しますと、3メートルほどの高さの土塁趾となります。

    土塁址の内側から登る石段の光景です。10数段ありました。1段を25センチとして略算しますと、3メートルほどの高さの土塁趾となります。

  • 石段を登った右手にあった小さな社の光景です。西面の土塁の北端近くに鎮座していました。城主だった牧氏の子孫の方が設置されたようでした。『牧氏』は、古くは『真木氏』とも記されているようです。

    石段を登った右手にあった小さな社の光景です。西面の土塁の北端近くに鎮座していました。城主だった牧氏の子孫の方が設置されたようでした。『牧氏』は、古くは『真木氏』とも記されているようです。

  • 西面の土塁の北端近くに鎮座していた小さな社のズームアップ光景です。石造りの基壇の周りには、立派な石の柵が設けられていました。今も手入れが怠りなく、緑の榊も飾られていました。牧氏に所縁の方のネット情報では、『牧神社』と紹介されていました。

    イチオシ

    西面の土塁の北端近くに鎮座していた小さな社のズームアップ光景です。石造りの基壇の周りには、立派な石の柵が設けられていました。今も手入れが怠りなく、緑の榊も飾られていました。牧氏に所縁の方のネット情報では、『牧神社』と紹介されていました。

  • 島田城址の土塁址の上から眺めた西側方面の光景です。土塁の周りの木々で、前方の視界が遮られていました。

    島田城址の土塁址の上から眺めた西側方面の光景です。土塁の周りの木々で、前方の視界が遮られていました。

  • 島田城址の土塁址の上から眺めた南側方面の光景です。土塁址に山の背の様な小道が続いていました。

    島田城址の土塁址の上から眺めた南側方面の光景です。土塁址に山の背の様な小道が続いていました。

  • 島田城址の土塁址の光景が続きます。確実なことではありませんが、右手がかつての城外、左手が城内のようでした。

    島田城址の土塁址の光景が続きます。確実なことではありませんが、右手がかつての城外、左手が城内のようでした。

  • 土塁址の南端部分の光景です。通せんぼをするような、根元が膨らんだ大木が生えていました。役割を心得て、根元が膨らんだ木のようにも見えました。

    土塁址の南端部分の光景です。通せんぼをするような、根元が膨らんだ大木が生えていました。役割を心得て、根元が膨らんだ木のようにも見えました。

  • 土塁址行の止まりに見えた、根元が膨らんだ木の横から眺めた、前方の光景です。すぐ先が下り勾配になっていました。やはり、膨らんだ木の根元が土塁址の行止まりでした。

    土塁址行の止まりに見えた、根元が膨らんだ木の横から眺めた、前方の光景です。すぐ先が下り勾配になっていました。やはり、膨らんだ木の根元が土塁址の行止まりでした。

  • 土塁址の上から眺めた、東側方面の光景です。城内側になります。この辺りの斜面にも落ち葉が厚く積もっっていました。その斜面の先に、土塁に沿った道が見えていました。

    土塁址の上から眺めた、東側方面の光景です。城内側になります。この辺りの斜面にも落ち葉が厚く積もっっていました。その斜面の先に、土塁に沿った道が見えていました。

  • 木漏れ日が射した、土塁址の背の部分の光景です。歩くのに支障のない幅の道になっていました。

    木漏れ日が射した、土塁址の背の部分の光景です。歩くのに支障のない幅の道になっていました。

  • 同じく、土塁址の背の部分の光景です。狭い通り道を挟んで、両側に木が生い茂っていました。

    同じく、土塁址の背の部分の光景です。狭い通り道を挟んで、両側に木が生い茂っていました。

  • 土塁址の背の部分から降りて、城内側から眺めた土塁の周りの木々の光景です。大木の姿はありませんが、密に樹々が茂っていました。牧氏の祖先の一人、牧長義(生没年不詳)は、戦国時代の武将で、尾張国の織田信秀に仕えました。長義は信秀の娘(織田信長の妹・小林殿)を子の長清の室に迎えました。信秀が末森城に拠点に移すと、天文17年(1548年)、尾張愛知郡に前津小林城を築き、城主となり4千石を知行しました。その時、尾張島田城を修理して出城とし、親族の牧虎蔵を置いたとされます。これが冒頭で紹介した、立札に記された『牧虎蔵・城主』のことです。

    土塁址の背の部分から降りて、城内側から眺めた土塁の周りの木々の光景です。大木の姿はありませんが、密に樹々が茂っていました。牧氏の祖先の一人、牧長義(生没年不詳)は、戦国時代の武将で、尾張国の織田信秀に仕えました。長義は信秀の娘(織田信長の妹・小林殿)を子の長清の室に迎えました。信秀が末森城に拠点に移すと、天文17年(1548年)、尾張愛知郡に前津小林城を築き、城主となり4千石を知行しました。その時、尾張島田城を修理して出城とし、親族の牧虎蔵を置いたとされます。これが冒頭で紹介した、立札に記された『牧虎蔵・城主』のことです。

  • 土塁址の内側、かつての島田城内側の光景です。牧長義が前津に小林城を築いた時、現在の守山区にあった川村北城は廃城としました。牧長義とその正室の墓所は、名古屋市中区大須の小林城址の清浄寺境内にあります。

    土塁址の内側、かつての島田城内側の光景です。牧長義が前津に小林城を築いた時、現在の守山区にあった川村北城は廃城としました。牧長義とその正室の墓所は、名古屋市中区大須の小林城址の清浄寺境内にあります。

  • 土塁の上から降りたあと、土塁の内側に沿って南側方面に歩きました。その南端近くにあったミカンの木です。黄色く色付いた実が生っていました。畑を踏み荒らしてはいけませんので、ズームアップでの撮影です。牧氏の子孫の話の続きです。牧長清の子孫は曾孫盛永のとき外姓の岡村氏を称しました。このため、牧氏は徳川家康の家臣となっていた長正が継承し、子の長勝は江戸幕府で旗本となりました。

    土塁の上から降りたあと、土塁の内側に沿って南側方面に歩きました。その南端近くにあったミカンの木です。黄色く色付いた実が生っていました。畑を踏み荒らしてはいけませんので、ズームアップでの撮影です。牧氏の子孫の話の続きです。牧長清の子孫は曾孫盛永のとき外姓の岡村氏を称しました。このため、牧氏は徳川家康の家臣となっていた長正が継承し、子の長勝は江戸幕府で旗本となりました。

  • ミカン畑の手前で折り返し、戻る途中での撮影です。左手に見えていた土塁址の内側からの光景です。牧氏の子孫の話の続きです。幕府旗本の長勝の家督は、次男の長重が継ぎ、三男勝重は尾張藩士、長男家恒は伯父の丹波山家藩主谷衛友に養育され郷士となって夫々存続しました。

    ミカン畑の手前で折り返し、戻る途中での撮影です。左手に見えていた土塁址の内側からの光景です。牧氏の子孫の話の続きです。幕府旗本の長勝の家督は、次男の長重が継ぎ、三男勝重は尾張藩士、長男家恒は伯父の丹波山家藩主谷衛友に養育され郷士となって夫々存続しました。

  • 最初に登った、小さな社がある場所への石段の光景です。今度は前を通り過ぎただけです。この写真で数えられる石段は、14段でした。

    最初に登った、小さな社がある場所への石段の光景です。今度は前を通り過ぎただけです。この写真で数えられる石段は、14段でした。

  • 島田城址の見学を終え、出口に向かう途中の光景です。石段の手前から入口までは、土塁の保護のためと思われる、フェンスが張ってありました。

    島田城址の見学を終え、出口に向かう途中の光景です。石段の手前から入口までは、土塁の保護のためと思われる、フェンスが張ってありました。

  • 同じく、島田城址の見学を終え、出口に向かう途中の光景です。土塁址に茂る樹木の光景です。

    同じく、島田城址の見学を終え、出口に向かう途中の光景です。土塁址に茂る樹木の光景です。

  • 同じく、土塁址に茂る樹木の光景です。島田城址は、源氏足利氏の後裔の斯波高経の末流『牧氏』の居城でした。斯波高経は足利氏の一統で、足利氏室町幕府成立の第一の功臣とされます。このため守護職となり、尾張を守るため、一族の鎌倉街道の要地の島田に居た牧氏に守らせました。初代の島田城主は、牧顕朝(義顕)とされるようです。牧顕朝以降は、義次→義汎→左近→虎蔵と続いたとされます。(牧氏に所縁の方のネット情報)

    同じく、土塁址に茂る樹木の光景です。島田城址は、源氏足利氏の後裔の斯波高経の末流『牧氏』の居城でした。斯波高経は足利氏の一統で、足利氏室町幕府成立の第一の功臣とされます。このため守護職となり、尾張を守るため、一族の鎌倉街道の要地の島田に居た牧氏に守らせました。初代の島田城主は、牧顕朝(義顕)とされるようです。牧顕朝以降は、義次→義汎→左近→虎蔵と続いたとされます。(牧氏に所縁の方のネット情報)

  • 道路に面した土手の下部は、近代工法の石垣で土留めがされていますが、土塁跡であることが分かる遺構です。南北約182メートルとされる嶋田城址の土塁の西面の光景です。中間部分から北側方面になります。

    イチオシ

    道路に面した土手の下部は、近代工法の石垣で土留めがされていますが、土塁跡であることが分かる遺構です。南北約182メートルとされる嶋田城址の土塁の西面の光景です。中間部分から北側方面になります。

  • 同じく、南北約182メートルとされる嶋田城址の土塁の遺構の西面の光景です。中間部分から南側方面になります。これだけの土塁が残された理由は、城主だった牧氏の一族がこの地に住み着き、守られてきたことが背景にあるようでした。牧氏末裔の方の地元情報では、城址を中心にした1平方キロの範囲に、牧氏姓の末裔65戸ほどがあるようです。

    同じく、南北約182メートルとされる嶋田城址の土塁の遺構の西面の光景です。中間部分から南側方面になります。これだけの土塁が残された理由は、城主だった牧氏の一族がこの地に住み着き、守られてきたことが背景にあるようでした。牧氏末裔の方の地元情報では、城址を中心にした1平方キロの範囲に、牧氏姓の末裔65戸ほどがあるようです。

  • この日の散策で目にした季節を表す光景の紹介です。少しだけ緑色が残っていますが、黄色く色付いたミカンの光景です。生食用の甘い品種ではなく、味付け、香り付け用の酸っぱいミカンのようでした。通称、平針街道脇での撮影です。

    この日の散策で目にした季節を表す光景の紹介です。少しだけ緑色が残っていますが、黄色く色付いたミカンの光景です。生食用の甘い品種ではなく、味付け、香り付け用の酸っぱいミカンのようでした。通称、平針街道脇での撮影です。

  • 味付け、香り付け用の酸っぱいミカンのズームアップ光景です。カボスかスダチの仲間でしょうか、料理だけでなく、飲み物用にも使えそうです。

    味付け、香り付け用の酸っぱいミカンのズームアップ光景です。カボスかスダチの仲間でしょうか、料理だけでなく、飲み物用にも使えそうです。

  • 真っ赤に色付いた『ナンテン(南天)』の実です。この後紹介する地蔵寺の境内で撮影しました。中国原産ですが、西日本、四国、九州に自生しています。古い時代に渡来した栽培種が野生化したものとされます。

    真っ赤に色付いた『ナンテン(南天)』の実です。この後紹介する地蔵寺の境内で撮影しました。中国原産ですが、西日本、四国、九州に自生しています。古い時代に渡来した栽培種が野生化したものとされます。

  • 同じく、真っ赤に色付いた『ナンテン(南天)』の実のズームアップ光景です。メギ科ナンテン属の常緑低木です。初夏に白い花が咲き、晩秋から初冬にかけて赤色の実が生りますが、今年は少し色月が早かったようです。

    同じく、真っ赤に色付いた『ナンテン(南天)』の実のズームアップ光景です。メギ科ナンテン属の常緑低木です。初夏に白い花が咲き、晩秋から初冬にかけて赤色の実が生りますが、今年は少し色月が早かったようです。

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