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川村南城址と所縁の神社の紹介です。11月6日に続いて、17日に再訪しました。撮り忘れの川村南城主の墓や、前回は見学しなかった、川村南城址の候補の一つ、白沢公園の見学です。(ウィキペディア)<br />

2016秋、川村南城址と所縁の寺社(2/3):長命禅寺、墓所、鐘楼、山門、再訪・川村南城址

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2016/11/06 - 2016/11/17

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旅人のくまさん

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川村南城址と所縁の神社の紹介です。11月6日に続いて、17日に再訪しました。撮り忘れの川村南城主の墓や、前回は見学しなかった、川村南城址の候補の一つ、白沢公園の見学です。(ウィキペディア)

  • 川村南城址の所縁のお寺、『医王山・長命禅寺』の本堂裏にある墓地の光景です。川村南城址の所縁の人や、この地に長く住われている人たちのお墓が並んでいるようでした。正面に三つ並んだお墓は、岡田家のものです。長命禅寺や、水野家でも使われている、『丸に立沢瀉』の家紋がありました。

    川村南城址の所縁のお寺、『医王山・長命禅寺』の本堂裏にある墓地の光景です。川村南城址の所縁の人や、この地に長く住われている人たちのお墓が並んでいるようでした。正面に三つ並んだお墓は、岡田家のものです。長命禅寺や、水野家でも使われている、『丸に立沢瀉』の家紋がありました。

  • 中央やや左に見えるは墓標は、先ほどの『岡田家の墓』の新しい墓標です。その右側に、岡田家累代のものと思われる古い墓標が七つ纏められていました。

    中央やや左に見えるは墓標は、先ほどの『岡田家の墓』の新しい墓標です。その右側に、岡田家累代のものと思われる古い墓標が七つ纏められていました。

  • 右手前の墓は、水野家代々の墓です。右の方の墓誌に書ききれなくなったのでしょうか、左端には、平成年代が記された新しい墓誌がありました。墓標に記されていたのは、『丸に立沢瀉』の家紋でした。

    右手前の墓は、水野家代々の墓です。右の方の墓誌に書ききれなくなったのでしょうか、左端には、平成年代が記された新しい墓誌がありました。墓標に記されていたのは、『丸に立沢瀉』の家紋でした。

  • こちらも墓地の区域境の塀に近い東西の通路の光景です。手向けの花や、五色の布で飾られていました。

    こちらも墓地の区域境の塀に近い東西の通路の光景です。手向けの花や、五色の布で飾られていました。

  • 墓地の中の東西の通路の光景です。右手前が安藤家の墓、その隣と、その先も、縁石で仕切られた安藤家の墓でした。家紋は、『丸に左三階松』のように見えます。

    墓地の中の東西の通路の光景です。右手前が安藤家の墓、その隣と、その先も、縁石で仕切られた安藤家の墓でした。家紋は、『丸に左三階松』のように見えます。

  • こちらも三区画並んだ安藤家の墓です。二段に石垣を積んだお墓は、本家であることを表しているのでしょうか。その背後にも安藤家の墓標が見えました。

    こちらも三区画並んだ安藤家の墓です。二段に石垣を積んだお墓は、本家であることを表しているのでしょうか。その背後にも安藤家の墓標が見えました。

  • 三つ並んだ古い墓標ですが、菊の花が手向けられていました。左から二基は無縫塔ですから、歴代住職のお墓のようです。左端の墓標には、『前住』で始まり、途中は読めませんが、『素忍首座』で終わる戒名が読み取れました。

    三つ並んだ古い墓標ですが、菊の花が手向けられていました。左から二基は無縫塔ですから、歴代住職のお墓のようです。左端の墓標には、『前住』で始まり、途中は読めませんが、『素忍首座』で終わる戒名が読み取れました。

  • 歴代住職のお墓らしい、四基並んだ無縫塔の光景です。無縫塔(むほうとう)は、主に僧侶の墓塔として使われる仏塔です。塔身が卵形をしていますので、『卵塔』とも呼ばれ、墓場のことを『卵塔場』とも呼ばれます。

    歴代住職のお墓らしい、四基並んだ無縫塔の光景です。無縫塔(むほうとう)は、主に僧侶の墓塔として使われる仏塔です。塔身が卵形をしていますので、『卵塔』とも呼ばれ、墓場のことを『卵塔場』とも呼ばれます。

  • 長命禅寺の本堂の西側エリアの墓地の光景です。真新しい、『南無菩提』の文字が記された礼拝所の周りに、古い墓標や地蔵尊などが置かれていました。

    長命禅寺の本堂の西側エリアの墓地の光景です。真新しい、『南無菩提』の文字が記された礼拝所の周りに、古い墓標や地蔵尊などが置かれていました。

  • 長命禅寺の本堂裏のお墓の見学を終え、本堂前に戻って来ました。斜め前からズームアップした、『長命禅寺』扁額が懸かった建物光景です。

    長命禅寺の本堂裏のお墓の見学を終え、本堂前に戻って来ました。斜め前からズームアップした、『長命禅寺』扁額が懸かった建物光景です。

  • 本堂前から眺めた、東方面の境内光景です。掃き清められた砂の庭が広がっていました。細かい粒子の砂ではなく、小石の様な砂利でした。

    本堂前から眺めた、東方面の境内光景です。掃き清められた砂の庭が広がっていました。細かい粒子の砂ではなく、小石の様な砂利でした。

  • 逆光の写真になってしまいましたが、鐘楼のズームアップ光景です。7段ほどの石段がある立派な基壇の上に建つ鐘楼でした。

    逆光の写真になってしまいましたが、鐘楼のズームアップ光景です。7段ほどの石段がある立派な基壇の上に建つ鐘楼でした。

  • 逆光での撮影になってしまいました。刻まれているの文字は、『殉国慰霊碑』でした。風化が進んでいないようですから、第二次大戦の慰霊碑でしょうか。

    逆光での撮影になってしまいました。刻まれているの文字は、『殉国慰霊碑』でした。風化が進んでいないようですから、第二次大戦の慰霊碑でしょうか。

  • 『殉国慰霊碑』の周りの、枯山水風の庭園の光景です。石橋が架けられ、玉砂利で水の流れが表現してありました。元々あった枯山水の庭に、慰霊碑が設けられたのかもしれません。

    『殉国慰霊碑』の周りの、枯山水風の庭園の光景です。石橋が架けられ、玉砂利で水の流れが表現してありました。元々あった枯山水の庭に、慰霊碑が設けられたのかもしれません。

  • 本堂前から眺めた、長命禅寺の境内光景です。左端が山門です。その山門から本堂まで伸びた参道が、右手に枝分かれしていました。鐘楼か、寿老人堂に向かっているようです。

    本堂前から眺めた、長命禅寺の境内光景です。左端が山門です。その山門から本堂まで伸びた参道が、右手に枝分かれしていました。鐘楼か、寿老人堂に向かっているようです。

  • 瀬戸市の郷土史研究会の『水野氏史研究会』からの紹介です。尾張地区には、水野氏が関係する城址は、川村南城址をはじめ計17城址が残されていると纏められています。同会の講師として活動された、笹山忠氏(1935~2012年)が平成20(2008年)に自費出版された、『尾張の古城ー全三四〇城を訪ねて』からの紹介です。紹介されている城の内訳は、名古屋市の城址(93城)、東尾張の城址(91城)、西尾張の城址(91城、南尾張の城址(65城)です。

    イチオシ

    瀬戸市の郷土史研究会の『水野氏史研究会』からの紹介です。尾張地区には、水野氏が関係する城址は、川村南城址をはじめ計17城址が残されていると纏められています。同会の講師として活動された、笹山忠氏(1935~2012年)が平成20(2008年)に自費出版された、『尾張の古城ー全三四〇城を訪ねて』からの紹介です。紹介されている城の内訳は、名古屋市の城址(93城)、東尾張の城址(91城)、西尾張の城址(91城、南尾張の城址(65城)です。

  • 瀬戸市の郷土史研究会の『水野氏史研究会』からの紹介の続きです。『水野氏』については、篠山氏の著作の『人名索引(50音順)』に、水野右京進、(以下水野を省略)、作右衛門、勝重、勝成、貞守、大膳、高康、忠氏、忠綱、忠政、忠守、忠分、帯刀、為善、藤助、信元、宗国、致国、守隆、良春、分長の21名が登場しています。

    瀬戸市の郷土史研究会の『水野氏史研究会』からの紹介の続きです。『水野氏』については、篠山氏の著作の『人名索引(50音順)』に、水野右京進、(以下水野を省略)、作右衛門、勝重、勝成、貞守、大膳、高康、忠氏、忠綱、忠政、忠守、忠分、帯刀、為善、藤助、信元、宗国、致国、守隆、良春、分長の21名が登場しています。

  • 三門とも呼ばれる、山門から振り返って眺めた本堂方面の光景です。寺社の建築史からは、初期の寺院の門構えは南面する正門、東西二つの副門から構成されていて、これを称して三門と呼んだとされます。時代が下ると左右に脇門が付属する大門の形式となり、更に大門のみとなりましたが、三門の呼び方は残ったとされます。

    三門とも呼ばれる、山門から振り返って眺めた本堂方面の光景です。寺社の建築史からは、初期の寺院の門構えは南面する正門、東西二つの副門から構成されていて、これを称して三門と呼んだとされます。時代が下ると左右に脇門が付属する大門の形式となり、更に大門のみとなりましたが、三門の呼び方は残ったとされます。

  • 長命禅寺の山門光景です。三門は元来は門の形式で、中央の大きな門と左右の小さな門との3門を連ねて1門としたものの呼び名です。しかし、仏教寺院に用いられた結果、寺院の仏殿前の門を、形式に関わらず三門と呼ぶようになりました。三解脱門の呼び方もあります。山門の呼び名は、寺院がもっぱら山林にあり、山号を持つからとされます。現在では、三門と山門の両方が使われ、使い分けはされなくなってきたようです。

    長命禅寺の山門光景です。三門は元来は門の形式で、中央の大きな門と左右の小さな門との3門を連ねて1門としたものの呼び名です。しかし、仏教寺院に用いられた結果、寺院の仏殿前の門を、形式に関わらず三門と呼ぶようになりました。三解脱門の呼び方もあります。山門の呼び名は、寺院がもっぱら山林にあり、山号を持つからとされます。現在では、三門と山門の両方が使われ、使い分けはされなくなってきたようです。

  • ゆとりーとラインの川宮駅に戻って来ました。これで、この日(11/6)の尾張・守山の城址と所縁の寺社巡りはおしまいです。ゆとりーとラインのダイヤは、10分に1本ほどです。

    ゆとりーとラインの川宮駅に戻って来ました。これで、この日(11/6)の尾張・守山の城址と所縁の寺社巡りはおしまいです。ゆとりーとラインのダイヤは、10分に1本ほどです。

  • ここからは、補足の写真を撮るために再訪した時(11/17)のものです。川村南城址と目されている場所の一つ、白沢公園の公孫樹の黄葉光景です。尾張徇行記の牛牧村の項に『城山見取畠三反三畝……是ハ水野内蔵助古城跡ノ由土人申伝ヘリ、延享三寅年畠ニ開墾ス、此畑山ノ嶺ニアリ』と記載されている場所と思しき公園です。

    イチオシ

    ここからは、補足の写真を撮るために再訪した時(11/17)のものです。川村南城址と目されている場所の一つ、白沢公園の公孫樹の黄葉光景です。尾張徇行記の牛牧村の項に『城山見取畠三反三畝……是ハ水野内蔵助古城跡ノ由土人申伝ヘリ、延享三寅年畠ニ開墾ス、此畑山ノ嶺ニアリ』と記載されている場所と思しき公園です。

  • 白沢公園の東側の上り坂の光景です。権兵衛坂と呼ばれているようです。詳しいことが分かっていない川村南城の比定地としては、この白沢公園付近や、この場所より北側の城土公園付近、南側の小幡公園西園などの説があるようです。この権兵衛坂は、見た目より急坂でした。

    白沢公園の東側の上り坂の光景です。権兵衛坂と呼ばれているようです。詳しいことが分かっていない川村南城の比定地としては、この白沢公園付近や、この場所より北側の城土公園付近、南側の小幡公園西園などの説があるようです。この権兵衛坂は、見た目より急坂でした。

  • 前回の訪問(11月6日)から11日後の再訪でしたが、公孫樹の黄葉が廃坑の時期でした。白沢公園の公孫樹の黄葉のズームアップ光景です。

    前回の訪問(11月6日)から11日後の再訪でしたが、公孫樹の黄葉が廃坑の時期でした。白沢公園の公孫樹の黄葉のズームアップ光景です。

  • 地上に降り注いだ、公孫樹の落葉光景です。散策中に、僅かな風でも銀杏の葉が舞い散っていました。下草の緑とあいまったこの時期ならではの彩りでした。

    地上に降り注いだ、公孫樹の落葉光景です。散策中に、僅かな風でも銀杏の葉が舞い散っていました。下草の緑とあいまったこの時期ならではの彩りでした。

  • 白沢公園の広場の光景です。こちらでは黄葉ではなく、紅葉か褐葉の光景が本格的になり始めていました。川村南城址の候補地としては、広さと見晴らしに優れた場所の印象でした。

    白沢公園の広場の光景です。こちらでは黄葉ではなく、紅葉か褐葉の光景が本格的になり始めていました。川村南城址の候補地としては、広さと見晴らしに優れた場所の印象でした。

  • 白沢公園の広場の南側に張られていたフェンス越しに眺めた西側方面の光景です。所縁のお寺の『医王山・長命禅寺』の甍が眼下に見えていました。小牧。長久手の戦いの戦火を受けたお寺ですが、戦国時代には、お寺や神社も城の守りとして重要な役割があったようです。

    白沢公園の広場の南側に張られていたフェンス越しに眺めた西側方面の光景です。所縁のお寺の『医王山・長命禅寺』の甍が眼下に見えていました。小牧。長久手の戦いの戦火を受けたお寺ですが、戦国時代には、お寺や神社も城の守りとして重要な役割があったようです。

  • 現在の白沢公園は、広さが約3100平方メートル、名古屋市の街区公園です。建設省のHPでは、街区公園は住区基幹公園に分類され、『もっぱら街区に居住する者の利用に供することを目的とする公園で、誘致距離250mの範囲内で1箇所当たり面積0.25haを標準として配置する』と定義されていました。

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    現在の白沢公園は、広さが約3100平方メートル、名古屋市の街区公園です。建設省のHPでは、街区公園は住区基幹公園に分類され、『もっぱら街区に居住する者の利用に供することを目的とする公園で、誘致距離250mの範囲内で1箇所当たり面積0.25haを標準として配置する』と定義されていました。

  • 白沢公園の周りの光景です。傾斜地にある公園らしい地肌が見えていました。コンクリートで固めてしまっては興覚めの区域かもしれません。県指定の急傾斜地の指定はされていないように見受けました。守山区の城址では、守山城址の西側が急傾斜地に指定され、区域図を示した立札もありました。

    白沢公園の周りの光景です。傾斜地にある公園らしい地肌が見えていました。コンクリートで固めてしまっては興覚めの区域かもしれません。県指定の急傾斜地の指定はされていないように見受けました。守山区の城址では、守山城址の西側が急傾斜地に指定され、区域図を示した立札もありました。

  • 白沢公園の紹介が都築升。公園内の施設と、錦多方面の光景です。見晴らしの利く高台であることも、白沢公園が川村南城址の比定地の一つになっている理由のようでした。

    白沢公園の紹介が都築升。公園内の施設と、錦多方面の光景です。見晴らしの利く高台であることも、白沢公園が川村南城址の比定地の一つになっている理由のようでした。

  • 白沢公園の背後になる、東側方面の光景です。更に広い台地の光景がありました。白沢公園を川村南城址と仮定した場合、東側の守りは、空堀や土塁などの大掛かりな施設が必要だったことも窺えました。残念ながら、江戸時代に治水工事のため川村南城址地は割り取られ、姿を消したとの古文書もあるようです。ただし、この場所とは限らないようです。

    白沢公園の背後になる、東側方面の光景です。更に広い台地の光景がありました。白沢公園を川村南城址と仮定した場合、東側の守りは、空堀や土塁などの大掛かりな施設が必要だったことも窺えました。残念ながら、江戸時代に治水工事のため川村南城址地は割り取られ、姿を消したとの古文書もあるようです。ただし、この場所とは限らないようです。

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