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名鉄瀬戸線矢田駅より徒歩約10分守山城(もりやまじょう、愛知県名古屋市守山区市場)は大永年間(1521~1527)尾張国まで進出していた今川氏の出城として築城されたようですが築城者や時期については不詳です。<br /><br />天文年間(1533~1555)には三河国をほぼ制圧した松平清康(まつだいら・きよやす、1511~1535)は尾張国統一に向けて伸長著しい織田信秀(おだ・のぶひで、1511~1552)を攻略するため天文4年(1535)当城に布陣するも夜間に陣中で馬が暴れ出すという騒動が起こり、この騒動を聞いた家臣が清康に斬りつけ清康は絶命します。(守山崩れ)<br /><br />斬りつけた家臣阿部正豊(あべ・まさとよ)は以前より父定吉(さだよし)に逆心の疑いありとの噂がたち、父より「万一のことがあれば弁明するように」と言われており、この騒動は父が成敗されたものと勘違いし父を助けたいとして清康に斬りつけたものです。<br /><br />斬りつけた正豊はすぐさま植村氏明(うえむら・うじあき)によって討たれ、一方定吉は息子の所業を知り責任を取って自害しようとしますが清康嫡男広忠(ひろただ、1526~1549)はなぜか定吉を許してそのまま家臣としてします。<br /><br />定吉はかつて清康を殺害した息子の罪を深く自覚していたのか以降広忠に.忠義を尽くし、松平氏内紛で父清康の叔父松平信定(まつだいら・のぶさだ、生誕不詳~1540)の圧力により本拠岡崎城を奪われ更に広忠殺害の危機に際し終始広忠に寄り添い伊勢放浪を経て駿河今川氏の支援を引き出し岡崎城復帰実現に貢献します。<br /><br />その後の守山城は清康の叔父松平信定の居城となりますが、信定以降は織田氏勢力圏となり織田信光、信光の弟信次そして信時が城主となり、桶狭間における今川義元戦死で今川氏影響が後退すると廃城となります。<br /><br /><br />宝勝寺から裏山に行く途中の道端には簡単な説明板が建てられています。<br /><br />「 守 山 城 跡<br /><br />平山城。林の中に大規模な東西方向の堀が見られる。<br /><br />築城年代、築城者とも不詳。<br /><br />大永6年(1526)連歌師宗長がこの城を訪れ、連歌の会が盛大に催されたと伝えられる。<br /><br /><br />天文4年(1535)徳川家康の祖父松平清康が大軍を率いてこの地に赴任、尾張図ったが家臣に殺害された。<br /><br />その後、織田信長の叔父信次、弟の信時が城主となり、桶狭間の戦い後廃城となった。<br /><br />              名古屋市教育委員会」  

尾張守山 三河統一めざす家康祖父松平清康が家臣に殺害され勢力急減し駿河今川氏傘下に入る契機とされる「守山崩れ」の『守山城』訪問

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2016/07/17 - 2016/07/17

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滝山氏照

滝山氏照さん

名鉄瀬戸線矢田駅より徒歩約10分守山城(もりやまじょう、愛知県名古屋市守山区市場)は大永年間(1521~1527)尾張国まで進出していた今川氏の出城として築城されたようですが築城者や時期については不詳です。

天文年間(1533~1555)には三河国をほぼ制圧した松平清康(まつだいら・きよやす、1511~1535)は尾張国統一に向けて伸長著しい織田信秀(おだ・のぶひで、1511~1552)を攻略するため天文4年(1535)当城に布陣するも夜間に陣中で馬が暴れ出すという騒動が起こり、この騒動を聞いた家臣が清康に斬りつけ清康は絶命します。(守山崩れ)

斬りつけた家臣阿部正豊(あべ・まさとよ)は以前より父定吉(さだよし)に逆心の疑いありとの噂がたち、父より「万一のことがあれば弁明するように」と言われており、この騒動は父が成敗されたものと勘違いし父を助けたいとして清康に斬りつけたものです。

斬りつけた正豊はすぐさま植村氏明(うえむら・うじあき)によって討たれ、一方定吉は息子の所業を知り責任を取って自害しようとしますが清康嫡男広忠(ひろただ、1526~1549)はなぜか定吉を許してそのまま家臣としてします。

定吉はかつて清康を殺害した息子の罪を深く自覚していたのか以降広忠に.忠義を尽くし、松平氏内紛で父清康の叔父松平信定(まつだいら・のぶさだ、生誕不詳~1540)の圧力により本拠岡崎城を奪われ更に広忠殺害の危機に際し終始広忠に寄り添い伊勢放浪を経て駿河今川氏の支援を引き出し岡崎城復帰実現に貢献します。

その後の守山城は清康の叔父松平信定の居城となりますが、信定以降は織田氏勢力圏となり織田信光、信光の弟信次そして信時が城主となり、桶狭間における今川義元戦死で今川氏影響が後退すると廃城となります。


宝勝寺から裏山に行く途中の道端には簡単な説明板が建てられています。

「 守 山 城 跡

平山城。林の中に大規模な東西方向の堀が見られる。

築城年代、築城者とも不詳。

大永6年(1526)連歌師宗長がこの城を訪れ、連歌の会が盛大に催されたと伝えられる。


天文4年(1535)徳川家康の祖父松平清康が大軍を率いてこの地に赴任、尾張図ったが家臣に殺害された。

その後、織田信長の叔父信次、弟の信時が城主となり、桶狭間の戦い後廃城となった。

              名古屋市教育委員会」  

交通手段
高速・路線バス 私鉄
  • 宝勝寺(ほうしょうじ)参道<br /><br />参道の中頃から石段が施され上り切った所に宝勝寺境内があります。

    宝勝寺(ほうしょうじ)参道

    参道の中頃から石段が施され上り切った所に宝勝寺境内があります。

  • 「守山区史跡散策路」説明板<br /><br />参道入口には「守山区史蹟散策路」と題する地図掲載の看板が建っています。

    「守山区史跡散策路」説明板

    参道入口には「守山区史蹟散策路」と題する地図掲載の看板が建っています。

  • 宝勝寺・山門<br /><br />当該寺は徳川家康の祖父松平清康を弔うため寛永14年(1637)創建されています。<br />

    宝勝寺・山門

    当該寺は徳川家康の祖父松平清康を弔うため寛永14年(1637)創建されています。

  • 宝勝寺・本堂<br /><br />正式には「玉峰山宝勝寺」と称する漕洞宗の寺院です。

    宝勝寺・本堂

    正式には「玉峰山宝勝寺」と称する漕洞宗の寺院です。

  • 宝勝寺・標柱

    宝勝寺・標柱

  • 宝勝寺・境内<br /><br />かつては守山城の主郭であったと伝えられています。

    宝勝寺・境内

    かつては守山城の主郭であったと伝えられています。

  • 宝勝寺裏山<br /><br />宝勝寺をいったん出て裏山を見ながら東側道路を歩きます。

    宝勝寺裏山

    宝勝寺をいったん出て裏山を見ながら東側道路を歩きます。

  • 宝勝寺裏山<br /><br />裏山は全面的に竹林となっており内部は何も見えません。

    宝勝寺裏山

    裏山は全面的に竹林となっており内部は何も見えません。

  • 守山城跡・説明板<br /><br />通りの一角に守山城跡説明板があります。<br />

    守山城跡・説明板

    通りの一角に守山城跡説明板があります。

  • 大空堀<br /><br />竹林に覆われているので中に立ち入ることはできませんが深い空堀らしき状況が窺えます。<br /><br />

    大空堀

    竹林に覆われているので中に立ち入ることはできませんが深い空堀らしき状況が窺えます。

  • 大空堀<br /><br />更に接近しますがやはり空堀のようで、下りる道もなく内部確認はできません。

    大空堀

    更に接近しますがやはり空堀のようで、下りる道もなく内部確認はできません。

  • 宝勝寺裏山<br /><br />暫く歩くとアパートの脇から小さな上り階段が見つかりここから裏山に入ます。

    宝勝寺裏山

    暫く歩くとアパートの脇から小さな上り階段が見つかりここから裏山に入ます。

  • 石碑<br /><br />見晴らしの効く高台に近づくと樹木の間から何やら石碑らしきものが視野に入ります。

    石碑

    見晴らしの効く高台に近づくと樹木の間から何やら石碑らしきものが視野に入ります。

  • 高台<br /><br />残存の土塁の一部が高台となっていると思われ、ここにその石碑が建てられています。<br />

    高台

    残存の土塁の一部が高台となっていると思われ、ここにその石碑が建てられています。

  • 守山城趾石碑<br /><br />

    守山城趾石碑

  • 市街展望<br /><br />「守山城趾」石碑の立っている位置から市街を一望します。

    市街展望

    「守山城趾」石碑の立っている位置から市街を一望します。

  • 大空堀<br /><br />高台から裏山側を見下ろすと竹林に遮られ内部が見えませんが、相当深い空堀と思われます。<br /><br />

    大空堀

    高台から裏山側を見下ろすと竹林に遮られ内部が見えませんが、相当深い空堀と思われます。

  • 宝勝寺外周<br /><br />今度は宝勝寺の南東部分は三叉路となっており、左右の道路が宝勝寺を取り囲み、手前の道路が矢田川方向に下って行きます。

    宝勝寺外周

    今度は宝勝寺の南東部分は三叉路となっており、左右の道路が宝勝寺を取り囲み、手前の道路が矢田川方向に下って行きます。

  • 矢田川方向<br /><br />右側はコンクリートで道路への崩落を防御しています。

    矢田川方向

    右側はコンクリートで道路への崩落を防御しています。

  • 土塁<br /><br />矢田川からの侵入を防ぐためか土塁らしきものが残っています。

    土塁

    矢田川からの侵入を防ぐためか土塁らしきものが残っています。

  • 残存土塁

    残存土塁

  • 空堀

    空堀

  • 陸林内部

    陸林内部

  • 宝勝寺・境内<br /><br />外周道路から左側の境内を見上げます。往時は外周道路は空堀であったようです。

    宝勝寺・境内

    外周道路から左側の境内を見上げます。往時は外周道路は空堀であったようです。

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