2015/06/25 - 2015/06/25
11位(同エリア146件中)
キートンさん
とうとう現地16日間の最終日となってしまいました。
今日はフィーシュからレマン湖沿岸まで移動し、ラヴォー地区の葡萄畑の中をハイキングし、その後ローザンヌまでクルーズして最後はオリンピック博物館を訪れます。
この旅最後の観光となるのがローザンヌ。
ローザンヌはIOC(国際オリンピック委員会)本部のある都市。
後編では、この街にある「オリンピック博物館」を訪れ、往年の名選手たちを振り返るという旅行記らしからぬ特別篇。
そしてジュネーブから帰国の途に・・・
のはずが、やってくれました中国国際航空。
果たしてこの旅の結末は・・・
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- ホテル
- 4.5
- 交通
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 交通手段
- 鉄道
- 航空会社
- 中国国際航空
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
ローザンヌ・ウーシーの港から花咲く湖岸の道を東へと進む.。
-
湖岸の道を10分も歩けば、「オリンピック博物館」のエントランスに到着。
ここから先は、オリンピックのウンチク・オンパレードなので適当にスルーしてくだされ。
スルーしたらほとんど見るとこなくなる旅行記だけど・・・ -
エントランスから博物館へと続く石の階段には、過去のオリンピックの最終聖火ランナーの名が刻まれている。
「1964 TOKYO Y.Sakai」
坂井義則
広島に原子爆弾が投下された1時間半後に広島県三次市(当時は双三郡三次町)にて出生した元陸上選手。
1964年東京オリンピックに向けて400mと1600mリレーの強化選手だったが代表選手にはならなかった。
しかし、大会組織委員会は「広島への原爆投下の日」という象徴的な日に生まれた彼に聖火最終ランナーを託した。
1968年(昭和43年)にフジテレビに入社(逸見政孝と同期)、主にスポーツと報道分野を担当し、ミュンヘンオリンピックやアトランタオリンピックでオリンピック報道を手がけた。
昨年9月に惜しくも他界した。
そのほか
「1972 SAPPORO H.Takada」(高田英基)
「1998 NAGANO M.Ito」(伊藤みどり)
の名も刻まれている。 -
階段の両側には、数種類の競技のブロンズ像が建っている。
レスリングは1896年第1回アテネ大会から継続して実施されている伝統の競技。
誰だ!オリンピックからレスリングを除外しようとした奴は。
博物館の入場料は18スイスフラン。 -
近代オリンピックの歴史を語る上で、必ず登場する「ピエール・ド・クーベルタン男爵」。
近代オリンピックの創立者として、そして「オリンピックは、勝つことではなく参加することにこそ意義がある」の言葉で知られる。(最初に言ったのはクーベルタンではないが、演説で引用して有名になったという)
彼の考案・提唱によって1912年から種目に採用された「近代五種競技」(射撃・フェンシング・水泳・馬術・ランニングの複合競技)は、競技の特殊性から競技人口が広がらず中継もしにくいことから、近年オリンピックの削減競技の候補とされることが多い。
しかし、近代オリンピックの歴史や伝統という側面から容易に削減することはできないようだ。 -
博物館は3フロアーに渡って展示されている。
順路は2階から1階、地下1階へと下りていく。 -
オリンピック聖火はオリンポス山で太陽を利用して採火され、聖火リレーによってオリンピック開催地まで届けられる。
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各大会の聖火トーチ。
中央が長野オリンピック、右がシドニーオリンピック。 -
各大会のマスコット。
バルセロナオリンピックの「コビー」(左前)とモスクワオリンピックの「ミーシャ」はオリンピック史上最も商業的に成功したマスコットだという。
確かにその2つのマスコットは印象に残っている。 -
テレビ中継のカメラ。
「Rai」とはイタリアの放送局で、1960年ローマ大会のテレビ中継を行った。
それまでは記録映画やニュース映像でしか見ることができなかったオリンピックだが、1960年ローマ大会ではテレビ中継が始まり、ヨーロッパで生中継、日本やアメリカには1時間遅れで中継放送されたという。
1964年東京大会では、初めて衛星放送によって海外へ生中継された。 -
「TOKYO 2020」
2013年9月7日(日本時間8日)、日本は歓喜に沸いた。
それから2年、新国立競技場とエンブレムの問題が浮上し白紙に戻るという恥ずべき事態に陥っている。
7月下旬から8月上旬の真夏開催において、ヒートアイランド現象や異常気象にどう対応するのかも気になるところだ。
しかし大きな問題を抱えている開催地は東京だけではない。
来年のリオデジャネイロオリンピックは、競技場などの準備状況は過去の大会と比べ最悪だというし、治安の問題も根強い。
3年後の平昌オリンピックは、仁川空港〜平昌間の高速鉄道建設が中止、雪不足、競技場などの準備の遅れ、経済不況とスポンサー不足と問題山積である。
アルペンスキー滑降競技など、既定の標高差でまともなコースが造れるのかという根本的な問題もある。
7年後の北京オリンピックは、ほとんど雪が積もらない都市での冬季大会開催となる。
スキー競技など屋外の会場は北京から相当遠いにもかかわらず人工雪に頼らざるを得ないという。
夏季冬季合わせて4大会連続で欧米での開催がなく、しかも3大会連続で極東(東アジア)開催という前代未聞の事態には、オリンピックの開催がいかに負担の大きなものになっているかを物語っているように思える。 -
展示品には日本で開催された3大会に関する資料が意外に多い。
1964年東京オリンピックのエンブレムは超シンプル。
ここまでシンプルだと「盗作」だとか「パクリ」だとかの概念から外れそうだね。 -
1972年札幌オリンピックのポスター。
昔からフィギュアスケートの人気は高かったんだね。
個人的には札幌オリンピックがリアルタイムで覚えている最古の大会になる。
印象に残っているのは、70m級純ジャンプの「日の丸飛行隊」、大会のテーマソング「虹と雪のバラード」、そして「銀盤の妖精」ジャネット・リンである。
ジャネット・リンは女子フィギュアスケートのアメリか代表選手だが金メダルではなく銅メダリストとなった。
しかし、この大会で人気が爆発し、小学生の中でもアイドル的存在となった。
その理由は、この動画でも明らかだ。
https://www.youtube.com/watch?v=IwzZM9lXv44 -
記憶に新しい2008年北京オリンピックの主要会場となった北京国家体育場「鳥の巣」の模型。
この夏の世界陸上の会場となったほか、2022年冬季オリンピックでも利用される予定。
良い悪いは別にして、印象に強く残るデザインであるのは間違いない。 -
2階から1階に降りると、4つの年代別に選手が実際に使用した用具やユニホームの展示、そして映像により名選手が映し出されている。
ここは1896年第1回アテネ大会から1936年ベルリン大会までの展示スペース。
戦前の大会なので時代を感じさせる品々である。
第1回アテネ大会から実施されている伝統の競技は、陸上、水泳、体操、レスリング、フェンシング、射撃、自転車、テニスの8競技。
日本の初参加は1912年ストックホルム大会である。 -
大型スクリーンに往年の名選手が映し出される。
スクリーンの前に立つと自分の影ができるので、斜め横から撮っている。
この選手は、1900年パリ大会から1908年ロンドン大会までの3大会で8個の金メダルを獲得した、アメリカの陸上選手レイ・ユーリー。
ユーリーは、1912年ストックホルム大会までしか実施されなかった立ち幅跳びと立ち高跳びで3連覇、立ち三段跳びで2連覇(1904年セントルイス大会まで実施)と、助走なしの跳躍競技で無敵の強さを誇った。
中間年の1906年アテネ大会の2つの金メダルも含めると計10個のメダル獲得をしている。
初期の複数の大会で実施されその後廃止された主な競技は、綱引き(1900〜1908)、ゴルフ(1900〜1904)、ポロ(1900〜1936)、ラクロス(1904〜1908)などがある。
スポーツの他、1912〜1948の7大会で芸術競技(絵画、彫刻、文学、建築、音楽などでスポーツを題材にした作品による採点競技)が正式競技になっていたという。 -
1908年ロンドン大会のマラソンにおいてトップでゴールしたにもかかわらず、失格となったイタリアのドランド・ピエトリ。
トップでスタジアムに入ってきた彼は違う方向に進もうとし、係員が正しい道を示したときに疲労で倒れてしまった。
その後4回も倒れ、そのたびごとに係員に抱え上げられ、へとへとに疲れ果てながらも、何とか1着でゴールした。
しかし、2着となったジョニー・ヘイズのアメリカチームは異議を申し出て、それが認められたためピエトリは失格となった。
この事件は「ドランドの悲劇」として知られる。
1984年のロサンゼルス大会では女子マラソンでガブリエラ・アンデルセンがふらふらになりながらゴールしたのも有名だが、この時は係員が彼女の体調を冷静に判断し、ゴールラインを割るまで続けさせた上にゴール後のケアも良く大事には至らなかった。 -
1924年パリ大会における陸上競技男子100m決勝のゴールシーン。
金メダルに輝いたのはゼッケン419イギリスのハロルド・エイブラハムズ。
ユダヤ人のハロルド・エイブラハムズとスコットランド人宣教師エリック・リデル、実在の二人のランナーを描いた映画「炎のランナー」は、アカデミー賞作品賞を受賞した。
https://www.youtube.com/watch?v=Xkc6TB4EeqI -
大型スクリーンの他に、モニターを操作して選手紹介を閲覧することもできる。
「プールと銀幕のスター」ジョニー・ワイズミュラー
1924年パリ大会で金メダル3個、1928年アムステルダム大会で金メダル2個を獲得した、アメリカの競泳自由形の選手。
1924年パリ大会では水球でも銅メダルを獲得している。
彼は1922年、人類で初めて競泳で100mを1分の壁を破った。
1932年から12本のターザン映画でターザン役として主演した映画俳優としても有名である。
1928年アムステルダム大会は、200m平泳ぎで鶴田義行が、競泳競技日本人初、陸上三段跳びの織田幹雄に次ぐ2人目の金メダリストとなった。
次の1932年ロサンゼルス大会と1936年ベルリン大会は競泳で日本人が大活躍するようになる。 -
1936年ベルリン大会において、陸上競技の短距離と跳躍種目で史上初の4冠を達成した、アメリカのジェシー・オーエンス。
4冠の種目は100m、200m、4×100mリレー、走幅跳びである。
ちなみにこの頃、日本は跳躍種目を得意としており、三段跳びでは織田幹雄、南部忠平、田島直人と日本が3連覇を果たしていた。
オーエンスが金メダルを獲った走幅跳びでも、田島直人が銅メダルを獲っている。
なお、1936年ベルリン大会の記録映画「民族の祭典」「美の祭典」(2部構成)は、現在までのオリンピック記録映画の中で最高傑作の呼び声が高い。
「民族の祭典」
https://www.youtube.com/watch?v=lLnGqMoNXRI
0:40〜 100m:ジェシー・オーエンス
0:55〜 三段跳び:田島直人
0:58〜 走幅跳び:ジェシー・オーエンス、田島直人
1:18〜 10000m:村社講平
1:24〜 棒高跳び:西田修平、大江季雄
1:36〜 4×100mリレー:アメリカ(ジェシー・オーエンス)
1:40〜 マラソン:孫基禎、南昇竜(ともに朝鮮出身の日本代表選手) -
2つ目の年代は1948年ロンドン大会から1976年モントリオール大会まで。
第二次世界大戦後最初のオリンピックとなった1948年ロンドン大会は、1936年ベルリン大会以来12年ぶりに行われた夏季オリンピックである。
敗戦国であるドイツや日本の参加は認められなかった。
戦後、競泳自由形で次々と世界記録を打ち立て日本を元気づけた古橋廣之進は、ロンドンオリンピックの競泳決勝と同日に実施された日本選手権で400m自由形で4分33秒4、1500m自由形で18分37秒0を出し、オリンピック金メダリストの記録及び当時の世界記録を上回った。
その後の全米選手権に招待されて世界記録を樹立した時に「フジヤマのトビウオ」(The Flying Fish of Fujiyama)と呼ばれた。
1952年ヘルシンキ大会で、日本はオリンピックに復帰したが、古橋廣之進はすでにピークを過ぎていたことと体調不良で活躍できず、金メダルはレスリング・フリースタイルの石井庄八の1個にとどまった。 -
大型スクリーンには個々の選手のほか、マルチスクリーンにもなる。
昔は体操競技が屋内ではなく屋外で行われていたなど、興味深いシーンも映し出される。 -
「最も偉大な長距離ランナー」エミール・ザトペック
1948年ロンドン大会10000mで金メダル、1952年ヘルシンキ大会ではなんと5000m、10000m、マラソンの長距離3種目で金メダルを獲得し、「人間機関車」と呼ばれたチェコスロバキアの選手。
近年、女子では2000年シドニー大会でテグラ・ロルーペ、2004年アテネ大会でポーラ・ラドクリフが10000m、マラソンの2種目に出場したものの、いずれも金メダルどころか銅メダルさえ獲得できていない。
オリンピックでマラソンとトラック種目の両方の出場は無謀とみられており、ザトペックが達成した長距離三冠は永遠に達成する選手は出てこないと考えられている。
なお、ザトペックが陸上競技を志したきっかけは、1936年ベルリン大会の5000mと10000mで大柄な「飛ぶフィンランド人」に交じって、ともに4位入賞を果たした小柄な村社講平の力走に感銘を受けたことだといわれる。 -
「体操日本の先駆者」小野喬
1952年ヘルシンキ大会から1964年東京大会までの4大会で、金5個、銀4個、銅4個のメダルを獲得し、男子体操団体オリンピック5連覇という黄金期の礎を築いた名選手。
オールラウンダーでありながら、メルボルン大会、ローマ大会と連覇した鉄棒を得意とし、「鬼に金棒、小野に鉄棒」と呼ばれた。
獲得金メダル数では後輩の加藤沢男(日本人最多8個)や中山彰規(日本人最多6個)には及ばないが、メダル総数13個は現在でも日本人最多となっている。
この体操ニッポン黄金期の中でも1976年モントリオール大会の男子団体は記憶に残る。
エース笠松茂が直前に盲腸炎となり、日本は加藤沢男、監物永三、塚原光男、梶山広司、藤本俊に補欠の五十嵐久人というメンバーで団体戦に臨んだ。
最大のライバルソ連にリードを許したが徐々に差を詰めるも、ゆかでひざを痛めた藤本が吊り輪の着地を決め高得点をマークするが、ついに続行不能となる。
6人中上位5人の得点で争われることから、ソ連は1人のミスは許されるが日本は5人となったので1人のミスも許されない背水の陣となり、残り3種目を迎えた。
5人は驚異的な集中力で高得点を続け、6種目目の最終演技者となった塚原光男は自ら編み出したウルトラC「新月面宙返り」を決め、オリンピック5連覇を達成した。
https://www.youtube.com/watch?v=duAo3fMMR6g -
「エチオピアの裸足のマラソンマン」アベベ・ビキラ
1960年ローマ大会男子マラソン、裸足で走る当時無名のアベベ・ビキラは世界最高記録でトップゴールした。
アフリカ国籍の黒人初の金メダルの偉業を達成し「裸足の王者」と呼ばれた。
1964年東京大会では直前の盲腸手術により万全ではないとみられたが、2大会連続の世界最高記録で2連覇を果たす。
マラソンでのオリンピック2連覇は史上初の快挙で、以後世界最高記録でオリンピックを制する選手は出ていない。
ちなみにこの時、アベベに次いで国立競技場に帰ってきたのは円谷幸吉だったが、競技場内でイギリスのベイジル・ヒートリーに抜かれ銅メダル獲得となった。
https://www.youtube.com/watch?v=3iYvrxH4bMw
3連覇をかけた1968年メキシコ大会でアベベは途中棄権するが、同じエチオピアのマモ・ウォルデが優勝し、エチオピア勢3連覇を達成した。
なお、日本勢は前回銅の円谷を自殺で失いながらも、そのライバルだった君原健二が2位に入り、2大会連続のメダル獲得となった。
1969年にアベベは交通事故で下半身不随となって車いす生活を余儀なくされ、1973年41歳の若さで病死した。
昨今の長距離種目におけるケニア、エチオピアをはじめとするアフリカ勢の躍進はこの選手から幕開を開けたといってよい。 -
「ザ・グレイテスト」カシアス・クレイ
1960年ローマ大会ボクシング・ライトヘビー級で金を獲得。
しかし、帰国直後にレストランで黒人である事を理由に入店拒否され、メダルを川に捨てたというエピソードを持つ。
彼の知名度はオリンピックでの活躍より、プロに転向してリングネームをモハメド・アリに改名してから広く知れ渡ることとなる。
ヘビー級で通算3回のチャンピオン奪取に成功し、通算19度の防衛を果たした。
世界で最も偉大なボクサーのひとり。
日本で忘れられないのは、なんといっても1976年のアントニオ猪木との「格闘技世界一決定戦」。
異種格闘技という特異なルールゆえ、猪木がとった作戦は膠着状態が延々と続いた挙句の引き分けをまねき、「世紀の茶番」との酷評もあった。
引退後パーキンソン病を患い、1996年アトランタ大会の聖火台点火時の手の震えは痛々しいものであったが、この時メダルを川に捨てたエピソードが紹介され、改めてアトランタの金メダルが彼に贈られたという。 -
1964年東京大会、初めて正式競技となった男子柔道は軽量級、中量級、重量級、無差別級の4階級。
日本の国技として威信をかけ4階級制覇を狙っていた日本の野望を打ち砕いたのが、無差別級に出場したオランダのアントン・ヘーシンクである。
ヘーシンクの勝利が決まった瞬間、オランダ関係者が歓喜のあまり畳の上に土足で上がり駆け寄ろうとしたのを、ヘーシンクは手で制止して上らせなかった。
このエピソードは、彼が強いだけではなく礼を重んじる精神も体得していたとして評価される。
https://www.youtube.com/watch?v=Xq_waqLM5bE
次回のメキシコ大会では柔道は正式競技から外れるが、1972年ミュンヘン大会から再び正式競技として復活し現在に至る。
東京大会で日本はヘーシンクに野望を打ち砕かれたが、もしあの時日本が4階級制覇を成し遂げていたら、柔道がオリンピック競技として復活する日はもっと遅れていたかもしれない。 -
「重量挙げ五輪連覇」三宅義信
1960年ローマ大会重量挙げバンタム級で銀メダル、1964年東京大会、1968年メキシコ大会とフェザー級2連覇を達成した。
スナッチで13回、ジャークで6回、トータルで8回の世界記録を更新した、日本重量挙げ史上もっとも偉大な選手。
メキシコ大会では弟の義行も銅メダルを獲り、オリンピックの個人種目において兄弟で表彰台に上るという日本では唯一の偉業を成し遂げた。
さらに、姪(弟の義行の娘)三宅宏実もロンドン大会女子48kg級銀メダルを獲得し、日本女子初の重量挙げメダリストとなった。 -
「フォズの魔法使い」ディック・フォズベリー
1968年メキシコ大会走高跳びの金メダリストとなったディック・フォズベリーは、走高跳びに革命を起こしたとして知られる。
当時主流となっていたベリーロールが苦手だった彼は、はさみ跳びの腰を高く上げる方法として、背中を地面に向ける跳び方に磨きをかけていった。
この奇妙な跳び方は嘲笑の的となり、最初は記録が伸び悩んで三段跳びに転向することを薦められたが、フォスベリーは一念発起し2m10cmの記録をたたき出した。
その後順調に結果を残し、彼独自の跳び方「フォズベリー・フロップ」を引っ提げてメキシコ大会の檜舞台で金メダルを獲得する。
「フォズベリー・フロップ」は日本では「背面跳び」と呼ばれ、その後急速に広まり、走高跳びのスタンダードとなった。 -
「世紀の大ジャンプ」ボブ・ビーモン
1968年メキシコ大会は標高約2400mの高地で行われたため、持久力を必要とする競技には厳しい条件となったが、短距離走や跳躍・投てき競技には空気抵抗の低さが有利な条件となった。
そこで生まれた最も驚異的な大記録といえば、男子走幅跳びのボブ・ビーモンが出した8m90という記録だろう。
記録公認の上限の追い風2.0m/秒であったという偶然も重なり、当時の世界記録を55cmも更新する異次元の跳躍であった。
この記録は1991年世界陸上東京大会でマイク・パウエルが更新するまで23年間超える者が出なかった。
現在もオリンピック記録として残り、40年以上経った現在でも世界歴代2位の記録である。 -
アメリカの競泳選手マーク・スピッツは、1968年メキシコ大会で4×100mフリーリレーと4×200mフリーリレーの2種目で金メダルを獲得するも、個人種目では金メダルを逃していた。
しかし1972年ミュンヘン大会において、自由形100mと200m、バタフライ100mと200m、4×100mフリーリレー、4×200mフリーリレー、4×100mメドレーリレーの7種目に出場し、すべて世界新記録で金メダル獲得という前人未踏の偉業を成し遂げた。
ミュンヘン大会において最も活躍した選手である。
この大会で田口信教が100m平泳ぎで、青木まゆみが100mバタフライで、1956年メルボルンオリンピックの古川勝(200m平泳ぎ)以来16年ぶりとなる競泳での金メダルを日本にもたらした。 -
1976年モントリオール大会で話題をさらった選手といえば、若干14歳のルーマニアの女子体操選手ナディア・コマネチである。
オリンピック史上初の10点満点を連発し、個人総合、段違い平行棒、平均台で金メダル、団体で銀メダルを獲得した。
可憐な白いレオタード姿や見事な技が観衆を魅了し、「白い妖精」と呼ばれたが、日本では80年代にビートたけしによるギャグのネタになり流行した。
今となっては、「コマネチ」のギャグを知っていても、コマネチがどういう人物なのか知る若者がどの程度いるのか疑問である。 -
3つ目の年代は1980年モスクワ大会から1996年アトランタ大会まで。
1980年モスクワ大会は前年に起きたソ連のアフガニスタン侵攻の影響を受け、アメリカ、日本、西ドイツ、中国、韓国などの西側諸国の集団ボイコットという事態に至った。
1984年ロサンゼルス大会はモスクワ大会の報復として、ソ連、東ドイツ、ポーランド、ハンガリーなど東側諸国を中心にボイコットが相次いだ。
1988年ソウル大会は、ミュンヘン大会以来16年ぶりにほぼ全世界の国と地域が参加した。(モントリオール大会もアフリカ諸国のボイコットがあった)
この時代のユニフォームは各国なじみのある色使いとデザインになっている。 -
1984年ロサンゼルス大会のヒーローといえば、陸上競技のカール・ルイスだろう。
100m、200m、100×4リレー、走幅跳びの4種目で金メダルを獲得。
1936年ベルリン大会のジェシー・オーエンス以来2人目の4冠達成となる。
1988年ソウル大会では、100mはベン・ジョンソンに200mはジョー・デローチに敗れ2位となるが、ベン・ジョンソンがドーピングで失格となり、100mは繰り上げで金メダルを獲得した。
カール・ルイスが最も得意としたのは走幅跳びで、1984年ロサンゼルス大会から1996年アトランタ大会まで4連覇を達成している。
オリンピックと世界陸上で長きに渡り活躍し、おそらく世界でも最も知られた陸上選手だろう。 -
1984年ロサンゼルス大会のレスリング・グレコローマンスタイル52kg級金メダリストとなった宮原厚次が使用したシューズ。
シューズに書かれているのは監督やコーチなどのサインのようだ。
宮原厚次は1988年ソウル大会では銀メダルを獲得している。
レスリングは伝統的に日本選手が活躍してきた競技である。
男子は戦後最初に出場した1952年ヘルシンキ大会から2012年ロンドン大会までメダルを獲得できなかった大会はない。(不参加の1980年モスクワ大会を除く)
女子は正式競技となった2004年アテネ大会以降、男子以上の活躍をしている。
日本が金メダル数で世界の5位までに入っていた1964年東京大会から1976年モントリオール大会まで、日本は柔道、体操、レスリング、バレーボールがお家芸で、金メダルのほとんどはその4種目であった。
しかし1992年バルセロナ大会以降、男子レスリングは金メダルが獲れない低迷期が続いていた。
しかしながらメダル獲得は死守し続け、2012年ロンドン大会でようやく米満達弘が24年ぶりに金メダルを獲得した。
男子は現在も厳しい状況が続いているが、なんとか今後もメダルの伝統を守って欲しいものだ。 -
1928年アムステルダム大会以後、プロ選手の登場により除外されていたテニスが、1988年ソウル大会でプロテニス選手の出場が認められ、64年ぶりにオリンピック競技として復活した。
そのソウル大会女子シングルでサバティーニを破り金メダルを獲得したのは西ドイツのシュテフィー・グラフである。
彼女はこの年グランドスラムを達成し、オリンピックと合わせて史上初の「年間ゴールデンスラム」を達成した。
現在でも男女を通じて「年間ゴールデンスラム」を達成した唯一のテニスプレーヤーである。
連覇に挑んだ1992年のバルセロナ大会では、決勝で若干16歳の新鋭カプアリティに敗れ、惜しくも銀メダルとなった。
日本がオリンピックで初めてメダルを獲った競技がテニスである。
1920年アントワープ大会の男子ダブルスで熊谷一弥・柏尾誠一郎組による銀メダルだ。
この大会で熊谷一弥はシングルスでも銀メダルを獲得している。 -
アレクサンドル・カレリンはレスリング・グレコローマンスタイルの最も重い130kg級で、1988年ソウル大会から1996年アトランタ大会まで3連覇を果たした。
1988年ソウル大会はソ連代表として出場するが、母国ソ連は崩壊へと向かい、1992年バルセロナ大会はEUN、1996年アトランタ大会はロシアの代表として出場した。
1987年から2000年まで国際大会で13年間無敗を誇り、大会76連勝の記録を持つ。その間に世界選手権9連覇、公式試合連勝記録は300までに及び、「霊長類最強の男」の異名をとった。
オリンピック4連覇に挑んだ、2000年シドニー大会の決勝、アメリカのルーロン・ガードナーに敗れ、連勝記録も途絶えた。
超人的なパワーを持ち、軽・中量級でしか見られなかった、相手の胴体をクラッチし後方に反り投げる俵返し(サイド・スープレックス)の技を最重量級に持ち込み、「カレリンズ・リフト」と呼ばれた。 -
小さな体で体重の3倍のバーベルを持ち上げるそのパワーから、「ポケットヘラクレス」と呼ばれたナイム・スレイマノグルは、1988年ソウル大会(60kg級)、1992年バルセロナ大会(60kg級)、1996年アトランタ大会(64kg級)と重量挙げで3連覇を達成した。
スレイマノグルは、トルコ系少数民族として1967年にブルガリアで生まれた。
1984年ロサンゼルス大会はブルガリアがボイコットしたため出場できなかった。
その後、トルコ系民族に対するブルガリアの政策に反発し、トルコに亡命する。
ブルガリアはスレイマノグルがトルコから出場するのを認める代わりに100万ドルを要求し、トルコはこれを承諾。
スレイマノグルはソウルオリンピック以降トルコ代表として出場し、3つの大会でトルコに3つの金メダルを持ち帰った。 -
卓球競技は1988年ソウル大会から正式競技となり、2004年アテネ大会までは男女のシングルスとダブルス、2008年北京大会からは男女のシングルスと団体が実施されている。
中国のトウ・アヒョウ( 亞萍 Deng Yaping)は、1992年バルセロナ大会と1996年アトランタ大会で、女子シングルスとダブルスの2種目で2連覇を達成し、オリンピック卓球競技で最も活躍した選手である。
卓球競技は中国が圧倒的に強く選手層も厚い。
そのため中国国内で代表選手になることはオリンピックでメダルを獲ることより難しく、国籍を変えて他国の代表として出場する選手(特に女子)が続出している。
その結果、東南アジアやヨーロッパで元中国選手が主力となる国が強くなるが、その国のレベルを上げる結果になっているわけではない。
そのような情勢にあって、日本人選手のレベルが中国に肉薄してきたことは明るいニュースである。
国籍変更に関しては、ケニアやエチオピアなどアフリカの陸上競技の選手がオイルマネーで潤うカタールやバーレーンへ渡り、代表選手になっているのも目立つ。
これは、国内で代表選手になることが難しいという理由もあるが、引退後の自国での生活不安、そしてカタールやバーレーンがアフリカ選手の青田刈りをしているとの説もある。
今や陸上競技のアジア記録のうちトラック種目の多くが元アフリカ選手によって塗り替えられており、非常に違和感がある。
末續慎吾をはじめ日本人が持つアジア記録も元アフリカ選手に塗り替えられる日が近いのかもしれない。 -
女子アーチェリーのKim Soo-Nyung(金水寧)は、1988年ソウル大会から2000年シドニー大会にかけて、個人で金1銀1銅1、団体で金3のメダルを獲得した韓国の代表的選手である。
韓国は1988ソウルオリンピックに向けて選手強化が加速したが、その中でも最も成果をあげた競技がアーチェリーだろう。
特に女子は団体で7連覇とあきれるほどの強さである。
アーチェリーは体力よりも、技術力、集中力、メンタルな部分が重要なだけに、体格で劣るアジア人もハンディはない競技である。
韓国の選手育成のシステムを一口で言えば、「選択」と「集中」といえる。
国際大会で活躍できそうな競技を重点的に、将来性のある優秀な選手を集中的に支援するようなシステムだ。
受験戦争が厳しい学歴社会の韓国では、学生がスポーツをするということは一流選手を目指すことといってよい。
「文武両道」という考えは、おそらくこの国にはない。
従って韓国のスポーツの裾野は非常に狭く、典型的な少数精鋭となっている。
それが良いか悪いかは別として、1988ソウル大会以降ほとんどの大会で日本より多くの金メダルを獲得し、ある意味強化システムは成功しているともいえる。 -
4つ目の年代は2000年シドニー大会以降の大会。
近代オリンピックの歴史が100年を超えてからの大会となる。
今では当たり前となったカラー柔道着は、1997年に国際試合での導入を決定し、オリンピックでは2000年シドニー大会から白と青で対戦するようになった。
カラー柔道着の導入の大きな理由は、「見ている人に分かりやすく、どちらが技をかけたか見やすくなり誤審が減る」というものであった。
しかし皮肉にも2000年シドニー大会男子100kg超級の決勝で「世紀の誤審」ともいわれた事件が発生する。
フランスのダビド・ドゥイエに対して決まったかに見えた篠原信一の内股すかしが相手の有効と判定され、篠原は立て直せないままドゥイエの優勢勝ちとなり、銀メダルに甘んじた。
この事件以後、国際柔道連盟では誤審防止や判定の難しいケースに備えてビデオ判定を導入し、ルールの徹底と試合判定の明確化に力を入れるようになった。
また、現在のジュリー制度のきっかけとなった試合でもある。 -
「ヤワラちゃん」こと田村亮子は、オリンピックデビューの1992年バルセロナ大会で銀メダルを獲り、1996年アトランタ大会では金メダル確実と言われていた。
アトランタ大会の準決勝で最大のライバル、サボンを下し、決勝戦ではノーマークだった北朝鮮のケー・スンヒと対戦した。
しかしケー・スンヒの柔道着を左前に着るという「禁断の奇策」に屈し、またも銀メダルに終わった。
それ以降、柔道着の着方について国際ルールで明記されるようになったという。
2000年シドニー大会は、「最高で金、最低でも金」で臨み念願の金メダルを獲得。
プロ野球選手谷佳知と結婚後、夫婦そろって出場となった2004年アテネ大会は、「田村で金、谷でも金」で臨み2連覇を達成。
出産後に迎えた2008年北京大会で3連覇を狙うも、「ママでも金」はならなかったが銅メダルを獲得。
オリンピック5大会連続でメダル獲得の偉業は「ヤワラちゃん」以外、成し遂げた日本人はいない。 -
1996年アトランタ大会の男子柔道の日本代表は、小川直也、吉田秀彦、古賀稔彦というビッグネームと話題になった中村三兄弟の陰に隠れて、野村忠宏は目立たぬ存在だった。
男女の最軽量級は同日に行われるため、金メダル確実といわれた田村亮子に注目は集まり、田村が決勝で敗れ野村が金を獲ると、翌日のスポーツ紙には「田村まさかの銀、野村まさかの金」と載った。
2000年シドニー大会は、柔道軽量級初の2連覇を達成。
2004年アテネ大会も金メダルを獲得し、3連覇達成。
それは柔道史上初、全競技通してアジア人初の偉業、日本の夏季オリンピック金メダル100個目の節目となった。
にもかかわらず、マスコミは「最低でも金」「谷でも金」を大きく取り上げた。
柔道の天才「小さな巨人」野村忠宏の本当の強敵は、ある意味、もっと小さな「ヤワラちゃん」だったのかもしれない。 -
中国の女子飛込み選手カク・ショウショウ(郭晶晶 Guō Jīngjīng)は、2000年シドニー大会で、板飛込みとシンクロナイズド板飛込みの2種目で銀メダルを獲った後、2004年アテネ大会と2008年北京大会の上記2種目で2連覇を達成し、「飛び込みの女王」と呼ばれた。
美貌でも知られ、複数の外資系企業のイメージガールにもなった。
中国は技の難易度や美しさを競う採点競技が得意だ。
特に体操競技、トランポリン、飛込み、フリースタイルスキー・エアリアルなど空中技を競う種目はめっぽう強い。
フィギュアスケートではペアが強く、シンクロナイズドスイミングは井村コーチの指導もあり世界2位のレベルに達した。
2022年北京大会に向け、フリースタイルスキー・モーグルやスノーボード・ハーフパイプなどもメダル争いに加わってくるのだろう。 -
2004年アテネ大会からレスリング競技に女子フリースタイルが加わった。
2004年アテネ大会から2012年ロンドン大会まで3連覇している選手が日本に2人いる。
55kg級の吉田沙保里と63kg級の伊調馨だ。
吉田沙保里は世界選手権でも2002年から13連覇、オリンピックを含めて世界大会16連覇という、レスリング競技で男女通じて前人未踏の大記録を更新中である。
個人戦200連勝(団体戦では2つの黒星があるが)を達成しており、「霊長類最強女子」ともいわれる。
メディアの露出度が多い吉田沙保里に比べると、やや印象が薄い伊調馨ではあるが、実績は引けをとらない。
怪我での不戦敗を除くと、この12年間実際に行った試合では1度も負けたことがないという、まさに無敵状態である。
日本人でオリンピック3連覇を達成した選手は、この2人以外には野村忠宏ただ一人しかいない。
しかも2人とも2016年リオデジャネイロ大会で4連覇を目指すことになる。
ちなみに過去に個人でオリンピック4連覇した選手は、夏冬すべてのオリンピック競技を通じても、アルフレッド・オーター(1956年メルボルン大会〜1968年メキシコ大会・男子円盤投げ)とカール・ルイス(1984年ロサンゼルス大会〜1996年アトランタ大会・男子走幅跳び)の2人しかいない。
そんな偉大な記録に挑戦するダブルエースを要する日本女子レスリング界の最大の課題は、「世代交代」だろう。 -
2004年アテネ大会から2012年ロンドン大会までの3大会で18個もの金メダルを獲得した選手が存在する。
もちろんオリンピック史上最多で、2位の9個(ラリサ・ラチニナ[体操競技]、パーヴォ・ヌルミ[陸上競技]、マーク・スピッツ[競泳]、カール・ルイス[陸上競技]の4人)の実に2倍という、まさに異次元の超人。
「水の怪物」と呼ばれたアメリカの競泳選手、マイケル・フェルプスである。
中でも2008年北京大会は圧巻である。
出場した200m自由形、100m及び200mバタフライ、200m及び400m個人メドレー、4×100mフリーリレー、4×200mフリーリレー、4×100mメドレーリレーの8種目全てで金メダル獲得という史上初の離れ業をやってのけた。
北京大会の競泳競技は9日間で行われた。
個人種目は200mまでは1種目につき予選、準決勝、決勝と3レースに出場することになる。(400m個人メドレーは予選と決勝の2レース)
リレーは予選と決勝でメンバー変更可能なので、決勝のみの出場だったとしても、9日間で3×4+2+3=17レースは泳いだことになる。
スプリント系よりもスタミナを要する種目が多いことからも、単に強いというだけではなく驚異的な回復力と集中力の持続も必要となる。
リレー3種目も含まれることから、水泳大国アメリカの選手だから成しえた偉業でもある。
2012年ロンドン大会後に一度引退したものの、また現役復帰したという情報もあるので、マイケル・フェルプスの偉業はまだ終わっていないのかもしれない。
かつての日本の著名な競泳選手では、個人メドレーを含む複数の種目で活躍した選手といえば、「ハギトモ」こと萩原智子くらいしか思い浮かばないが、現在は萩野公介、瀬戸大也、渡部香生子といった個人メドレーでも世界に通用する選手が日本競泳界を牽引している。
北島康介のような競泳のスーパースターは国内では50年か100年に一人しか出現しないと思っていたが、早くもそれを超える選手が現れるかもしれない。 -
2012年ロンドン大会の男子体操競技で内村航平が着用したユニフォーム。
内村航平は個人総合において、2008年北京大会で銀、2012年ロンドン大会で金メダルを獲得した、日本が誇るオールラウンダーである。
日本の男子体操は1960年ローマ大会から1976年モントリオール大会まで団体5連覇という黄金期の後、中国の躍進があり、具志堅・森末時代、西川・池谷時代の1992年バルセロナ大会まではなんとかメダルは維持していた。
しかし、とうとう1996年アトランタと2000年シドニーの2大会連続でメダルゼロに終わってしまう。
この低迷期を支え続けたのは「月面宙返り」を編み出した塚原光男の子、塚原直也だった。
塚原を追って鹿島、冨田、米田らが実力を付け、2004年アテネ大会を迎える。
その団体決勝の日本の最終演技者は、エースへと成長した冨田洋之。
鉄棒での冨田の伸身の新月面が描く放物線が栄光への架け橋となり、28年ぶりの団体金メダルを獲得、みごと「体操ニッポン」復活を遂げた。
アテネ大会が3度目の出場となった塚原直也はこの団体金メダルにより、日本で初の親子2代金メダリストとなった。
世界屈指のオールラウンダー冨田洋之が目指した「美しい体操」は、内村航平へと受け継がれ、内村は2009年以降、世界選手権とオリンピックで個人総合6連覇を果たし、世界最強のオールラウンダーとなった。 -
現在の陸上界のスーパースターといえば、ジャマイカのウサイン・ボルトである。
2008年北京大会、2012年ロンドン大会と100m、200m、4×100リレーの2大会連続の3冠に輝く。
100m9秒58、200m19秒19の世界記録保持者で人類史上最速のスプリンターである。
2009年世界陸上100m決勝において、自らの世界記録を、電気時計導入後最大となる0秒11と大幅更新する、9秒5台という人類未知の領域へと突入した。
196cmの長身を生かした3m近い規格外のストライドが特徴で、典型的な後半追い込み型である。
190cm以上の長身の選手は一般的にスタートからの加速が鈍くなるとされるが、リアクションタイムの改善もあり驚異的なタイムをたたき出した。
北京大会では日本にとっても歴史的快挙が起こった。
男子4×100mリレー決勝、日本は塚原直貴、末續慎吾、高平慎二、朝原宣浩のメンバーで臨み、銅メダルを獲得した。
オリンピックのトラック競技では男子で日本史上初、女子も含めると、1928年アムステルダム大会の人見絹枝(800m銀)以来、実に80年ぶり2回目のメダル獲得を果たした。 -
夏季オリンピックの展示スペースの次には、狭いながらもパラリンピックの展示スペースがある。
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その次には冬季オリンピックの展示スペースとなっている。
半世紀以上前の用具の展示。
木製の器具、革製の靴が主流で、時代を感じさせる。
カーリングは第1回となった1924年シャモニー大会の正式競技であったが、第2回大会以降は実施されず、1998年長野大会で復活し現在に至っている。 -
「アルペンスキー3冠」ジャン=クロード・キリー
オリンピックのアルペンスキーの滑降、大回転、回転の3種目ですべて金メダルを獲り3冠を達成した選手が2人いる。
1人目は1956年コルティナダンペッツォ大会のトニー・ザイラー(オーストリア)で、この時の回転で2位に入ったのが日本人初の冬季オリンピックメダリストとなった猪谷千春である。
2人目が1968年グルノーブル大会のジャン=クロード・キリー(フランス)である。
キリーはワールドカップでも1967年・1968年の2シーズン連続で総合優勝を果たし、「王者キリー(King Killy)」と呼ばれた。
キリーはカーレーサーでも知られ、CMや映画にも出演することもあった。 -
1972年、日本で初めての冬季大会が札幌で開催された。
スキージャンプの笠谷幸生は1964年インスブルック大会からオリンピックに出場し、3回目となる札幌大会には絶好調を維持して迎えた。
70m級ジャンプは日本の「切り込み隊長」金野昭次が見事なジャンプでトップを維持し、青地清二がそれに続いていた。
笠谷は1回目最長不倒のトップで迎えた2回目のジャンプは、会心ではなかったが着地をきれいにまとめ「金メダルへのジャンプ」となった。
70m級で表彰台を独占した日本ジャンプ陣は、この時から「日の丸飛行隊」と呼ばれるようになる。
90m級ジャンプは一転して日本ジャンプ陣がメダル争いから脱落していくも、笠谷は1本目2位につけ金メダルの期待が高まったが、2本目は不運にも横風に煽られ7位に終わった。
笠谷は4回目の出場となる1976年インスブルック大会でも期待されたが、世界のトップは助走フォームが従来のフォアハンドスタイルから空気抵抗の少ないバックハンドスタイルへと移行されるなど進化をとげており、日本人最高順位でも16位と惨敗する。
しかしその後の日本ジャンプ陣は八木弘和・秋元正博の時代を迎え、「日の丸飛行隊」復活へと向かうことになった。 -
「史上最強の天才スラローマー」インゲマル・ステンマルク
スウェーデンのステンマルクは1976年インスブルック大会の大回転で銅メダルを獲り、1980年レークプラシッド大会では回転、大回転と技術系種目で2冠に輝いた。
1984年サラエボ大会には当時のアマチュア規定の為に参加することができず、31歳で出場した1988年カルガリー大会ではメダルに届かなかった。
100分の1秒単位で争われる技術系の種目(回転と大回転)において、しばしば5秒前後の異次元の大差をつけて優勝するなどライバルを圧倒した。
FISワールドカップでの通算86勝は2位に30以上の大差をつけるダントツの歴代1位である。 -
1980年レークプラシッド大会で、アメリカのスピードスケート選手エリック・ハイデンが着たスーツ。
ハイデンは17歳で出場した1976年インスブルック大会では入賞もできなかったが、独自のハードトレーニングで、500mから10000mまで世界でトップを狙える怪物スケーターへと成長した。
21歳で迎えた1980年レークプラシッド大会、スピードスケート5種目完全制覇が達成されるか注目が集まった。
最も難関と思われた500mは不利なアウトスタート(当時は1発勝負)だったが、最大のライバルのミスにも助けられ金メダルを獲得。
5000mは僅差で薄氷を踏むレースを制し、1000mは余裕で、1500mは転倒しかけるシーンもあったがなんとか4つ目の金メダルを獲得した。
最終種目の10000mは、同走となった世界記録保持者ラスキンが序盤からハイペースで飛ばしハイデンはおいて行かれたが、自分のペースを守り結果的には逆転大差の勝利をおさめた。
最後は大幅に更新する世界新記録というおまけ付きで、史上初のスピードスケート5種目完全制覇を達成した。
こちろん現在でも5種目完全制覇を成し遂げた唯一の選手である。
その後21歳の若さでスケート競技を引退し、大学で医学の道に専念することとなった。
しかし、、自転車競技のプロロードレース選手に転身し1990年まで活躍した。
大学医学部を卒業して整形外科医となり、文武両道をも成した選手である。 -
1988年カルガリー大会のフィギュアスケート男子シングルを制したアメリカのブライアン・ボイタノのフリーの演技は、個人的に忘れがたい。
その時のプログラム「ナポレオン」が素晴らしく、ノーミスで見事演じきった。
アメリカ人初のトリプルアクセル、手がまっすぐ伸びたタノジャンプ、たかがスプレッド・イーグルでここまで観客を魅了できる選手は見たことがない。
https://www.youtube.com/watch?v=z8p3EhqI94s
この時の最大のライバルは前回サラエボ大会の銀メダリスト、カナダのブライアン・オーサーで、「ブライアン対決」として注目された。
ブライアン・オーサーは2大会連続アメリカ選手に敗れて銀メダルに終わり、カナダ勢初の男子シングル金メダル獲得はならなかった。
その後もカナダは名選手を輩出し、エルビス・ストイコは1994年リレハンメル、1998年長野の2大会連続でロシア勢に敗れるも、銀メダルを獲得。
2014年ソチ大会でパトリック・チャンは羽生結弦に敗れるも、銀メダルを獲得。
カナダはオリンピック男子シングルで銀メダル5個を獲得するも、いまだに金メダルに手が届いていない。
皮肉にもこの時の羽生結弦のコーチはブライアン・オーサーで、自国初の金メダルを阻むことになった。 -
1988年カルガリー大会のフィギュアスケート女子シングルを制した東ドイツのカタリーナ・ビットがフリーの演技で着た衣装。
この時のビットとライバルであるアメリカのデビー・トーマスのフリープログラムは、ともにビゼーの「カルメン」を選曲していたので「カルメン対決」と呼ばれた。
ショートプログラム終了時点でわずかにデビー・トーマスがリードしていたが、トーマスはフリーで精彩を欠き3位に転落、ビットは前回サラエボ大会に続き2連覇を成し遂げた。
https://www.youtube.com/watch?v=Xbn-r9Gn_so
この時のフリーで5種類の3回転ジャンプを7度決め、フリー3位、総合5位に入賞したのが伊藤みどりである。
驚異的なジャンプ力を持つ伊藤は、女子で世界初となるトリプルアクセルを公式戦で決め、1992年アルベールビル大会のフリーでもトリプルアクセルに挑戦、1度は失敗するも演技後半で成功させ銀メダルを獲得。日本にフィギュアスケート初のオリンピックメダルをもたらした。 -
1988年カルガリー大会で話題となったひとつがボブスレー4人乗りに出場したジャマイカチームである。
雪の降らない熱帯の国からの出場なので、さすがに氷上の練習が不足していたことから既定の4本完走とはならず、転倒棄権になったようだ。
この事実をもとに、1994年に映画「クール・ランニング」が公開されヒットした。
その1994年に開催されたリレハンメル大会で、ジャマイカチームはボブスレー4人乗りで30チーム中14位と躍進を遂げた。
それはアメリカやロシアより上の順位で、熱帯のチームとしては快挙となった。
ちなみに日本チームは18位だった。 -
スピードスケートショートトラックの金(キム・ギフン)のヘルメット。
ショートトラック競技は1992年アルベールビル大会から冬季オリンピックの正式競技となった。
それまで冬季オリンピックでメダルの獲得がなかった韓国は、この大会でショートトラックとスピードスケートで計4個のメダルを獲得した。
金は1000mと5000mリレーの2種目で韓国初の金メダルをもたらした。
これ以降、ショートトラック競技は韓国のお家芸となり、メダルを量産することとなる。 -
アメリカのスピードスケート選手ダン・ジャンセンは、オリンピックにおける悲運とドラマチックな結末で記憶に残る選手である。
初出場となった1984年サラエボ大会500mは4位入賞で惜しくもメダルを逃す。
この時、世界のトップへと成長した黒岩彰に日本の期待が集中したが、屋外のスケートリンクには雪が降りしきる悪コンディションの中で実力が発揮できず10位に終わるも、伏兵の北沢欣浩が2位に入る健闘を見せ、オリンピックのスピードスケート競技で日本で初めてのメダルをもたらした。
1988年カルガリー大会、ジャンセンは500m、1000mともに金メダル最有力候補といわれたが、500mレース前日に実姉が白血病で死去という不幸が起こり、失意のどん底のレースで転倒してしまう。
続く1000mは中盤まで世界記録を上回るタイムを刻みながらも最終コーナーで再びまさかの転倒で、2種目とも記録なしと最悪の結果となった。
この時の500mでは、黒岩彰が銅メダルを獲得し、前大会の雪辱を果たした。
1992年アルベールビル大会は、直前に世界記録を出すなど好調を維持して迎えたが、500mはレース中バランスを崩し4位とメダルに届かず、1000mは全く実力を出せず26位に終わる。
なお、500mでジャンセンのメダルを阻んだのは2連覇したドイツのウーベ=イエンス・マイ(金)、黒岩敏幸(銀)、井上純一(銅)だった。1000mでは宮部行範が銅メダルを獲得した。
年齢的にラストチャンスとなった1994年リレハンメル大会もジャンセンは好調を維持して迎えたが、500mは最終コーナーで手を付くミスを犯し8位に終わる。
この時の銅メダルは堀井学、5位には後に日本初のスピードスケート金メダリストとなる清水宏保が入った。
残るジャンセンのレースは精彩を欠いていた1000mのみとなり、第一組で滑ったイーゴリ・ゼレゾフスキーがオリンピックレコードを記録して、ジャンセンの金メダルは遠のいたかに思われた。
しかしジャンセンは驚異的なラップを刻み、後半にまたもバランスを崩しながらも最後まであきらめず滑り切り世界記録で念願の金メダルを勝ち取った。
通算8回世界記録を更新したダン・ジャンセンがオリンピックで獲得したメダルは金メダルただ一つだが、計り知れない重みのあるメダルである。 -
「世界一美しいフォームといわれたジャンパー」船木和喜
1998年長野大会、船木和喜はラージヒルと団体の2種目で金メダル、ノーマルヒルで銀メダルを獲得し、日本で最も活躍した選手となった。
深い前傾姿勢から後半に飛距離を伸ばすフォームは、「世界一美しい」と称され、個人ラージヒルの2本目では、オリンピック史上初めて審判全員が飛形点20点をつけた。
過去にさかのぼると、1980年レークプラシッド大会での八木和弘、秋元正博の活躍後、世代交代が進まず日本は低迷期が続いた。
V字ジャンプが広がり始めた1990年代に入り、原田雅彦、葛西紀明、岡部孝信らが実力をつけ、1992年アルベールビル大会ではメダルにあと一歩まで迫り、「日の丸飛行隊」復活の兆しが見えた。
この大会でクロスカントリーの強化に成功した複合チームが団体(荻原健司・河野孝典・三ヶ田礼一)で、1972年札幌大会以来、史上2個目となる金メダルを日本にもたらした。
1994年リレハンメル大会では、荻原健司・河野孝典・阿部雅司が複合団体で2連覇を果たすと、岡部孝信・葛西紀明・西方仁也・原田雅彦の「日の丸飛行隊」も団体金メダル目前まで迫ったが、最終の原田のジャンプが伸びず惜しくも銀メダルとなった。
そして地元開催となった長野大会団体は大雪の不安定なコンディションの中で実施され、日本チームは1本目を終えて4位と出遅れた。
2本目が始まると吹雪となり競技はついに中断となった。
再開か中止かの協議に入ったが、中止となれば1本目の結果が最終順位となるため、日本の委員は続行を主張した。
そこで、テストジャンパーがジャンプして競技を続行できるか確かめることになったが、テストジャンパーの一人で前回大会の代表だった西方仁也が代表選手並みの飛距離を飛ぶことも再開の条件となっていたという。
競技の続行は女子選手も含むテストジャンパー25人の出来にかかっていたが、大雪の中一人も転倒者がなく25人目の西方仁也がK点越えの大ジャンプを飛び、再開が決まったという。
2本目、岡部孝信、斉藤浩哉がともにK点越えで順位を上げ、1本目に失敗していた原田雅彦はバッケンレコードとなる異次元のジャンプ、最後の船木和喜がK点越えで締めくくり、リレハンメル大会の雪辱を果たした。
https://www.youtube.com/watch?v=7rtuOyEypDo
長野大会後は、度重なるスキー板の長さに関するルール変更により、船木をはじめ日本選手は低迷した。
2002年ソルトレークシティーから2010年バンクーバーまで3大会連続で、ジャンプ、複合ともにメダルなしに終わったが、2014年ソチ大会で「レジェンド」葛西紀明が実に7回目のオリンピックで個人初の銀メダル、団体銅メダル、複合でも渡部暁斗が銀メダルを獲得した。 -
日本人の父をもつ日系アメリカ人アポロ・アントン・オーノは、2002年ソルトレークシティー大会から2010年バンクーバー大会にかけて活躍した、スピードスケートショートトラック競技の選手である。その間、金2個、銀2個、銅4個、計8個のメダルを獲得し、冬季オリンピックで最も多くのメダルを獲得したアメリカ人である。
3大会の中でもソルトレークシティー大会は、波乱のレース続いた。
1500m決勝では2着でゴールしたものの、1着でゴールした韓国の金東聖が進路妨害のため失格となり、金メダルを獲得した。
これに対して韓国側はオーノが金の反則をアピールするためにオーバーリアクションをしたと抗議し、その後韓国からオーノへの反感は国際問題にまで発展したという。
1000mは、ショートトラック競技のみならず、全競技を通してもオリンピック史上まれに見る大番狂わせとなった。
決勝はオーノ、安賢洙、李佳軍、ターコット(カナダ)、スティーブン・ブラッドバリー(オーストラリア)の5選手で争われたが、ブラッドバリーが置いて行かれ、メダル争いは4人に絞られたかに見えた。
しかしゴール直前の最終コーナーで4人の選手が全員転倒し、はるか後方を滑っていたブラッドバリーが金メダルをさらってしまった。
オーノは最もゴール近くで転倒したため、足からスライディングでゴールして辛うじて銀メダルを獲得した。
ブラッドバリーの金メダルはオーストラリアだけではなく、南半球勢初めての冬季オリンピック金メダルとなった。
https://www.youtube.com/watch?v=ImcoCs0dtwM
ブラッドバリーは決勝のみならず、準々決勝、準決勝でも強運で勝ち進んでいた。
準々決勝はアポロ、ガニヨン、田村、ブラッドバリーで争われ、田村がガニヨンに最終コーナーで押されて転倒したため最後尾のブラッドバリーが3位でゴール。
ガニヨンは妨害で失格、ブラッドバリーが繰り上げ2位で準決勝進出となった。
準決勝は、金東聖、李佳軍、ターコット、寺尾悟、ブラッドバリーで争われたが、残り半周から金東聖、李佳軍、ターコットが次々に転倒し、寺尾が1位、ブラッドバリーが2位でゴールした。
このレースで、接触に関わっていなかったはずの寺尾が2人を転倒させたとして失格となった。
日本チームの抗議も却下され、判定は覆らずブラッドバリー、李、ターコットの3名が決勝に進んだ。
これは明らかな誤審だとして、日本は国際スケート連盟にルール改正を求める文章を提出し、次のトリノオリンピックではルール改正され、ビデオ判定も導入されたという。 -
金妍兒(キム・ヨナ)は、2010年バンクーバー大会で歴代最高得点で金メダルを獲得し、フィギュアスケート競技で韓国に初めてのメダルをもたらした。
2014年ソチ大会でも銀メダルを獲得した。
同年齢の浅田真央とともに2008年頃から世界の女子フィギュアスケートをリードした。
日本のフィギュアスケートは1970年代に佐野稔や渡部絵美が日本で初めて世界選手権でメダルを獲得し、1980年代後半から「ジャンプの天才」伊藤みどりや佐藤有香が世界の舞台で活躍した。
その後、選手の早期発掘と育成の強化策が功を奏し、男女シングルでは世界有数の選手層の厚さとなった。
一方韓国のフィギュアスケートは世界で目立った実績がない状態から、いきなり世界のトップに立つ金妍兒が現れた。
韓国はアーチェリーやテコンドーやスケート・ショートトラックのように圧倒的な選手層と強さを誇るお家芸がある一方で、ほとんど実績のない競技から突然変異的に世界のトップに上り詰める選手がたまに出現する。
競泳の朴泰桓(パク・テファン)の出現も衝撃的だった。
日本の男子競泳は自由形以外の種目では技術で世界と争ってきたが、自由形ではどうしても世界トップとの差があった。
韓国は競泳でも世界で目立った実績がなかったが、体格差から東洋人には不利と思われていた自由形で、朴泰桓が2008年北京大会で世界の頂点に立った。
その後、中国からも自由形中長距離のスーパースター孫楊(ソン・ヨウ)が現れ、東洋人にも自由形で世界と戦えることを証明した。 -
過去の名選手紹介が長くなってしまったが、博物館の1階から近1階に下りると、一画に選手村を紹介するパネルがある。
戦後の高度成長期に造られたいかにも昭和チックな東京大会の隣には、「平和の祭典」には似つかわしくない1972年ミュンヘン大会の写真が掲載されている。
オリンピック史上最悪の悲劇といわれる「黒い九月事件」である。
開催中の9月5日、「黒い九月」と呼ばれるパレスチナ武装組織8人が選手村のイスラエル選手宿舎を襲撃、イスラエル選手団のコーチと選手を殺害して9名を人質に立てこもり、イスラエルに収監されているパレスチナ人ら234名を解放するよう要求した。
要求は受け入れられず救出は失敗し、銃撃戦の末、人質9人全員と犯人5人、警官1人が死亡する大惨事となった。 -
これはドーピングに関する展示物。
フェアプレーの精神に反する行為で、副作用から競技者の安全や健康を守るためにもオリンピックではドーピングが禁止されている。
1968年、グルノーブル大会とメキシコ大会で、オリンピック初のドーピング検査が実施された。
しかし、ドーピング検査技術が未熟な時代はドーピング違反した選手のうち失格者になったのは一部だったと考えられる。
1960年代後半から東欧諸国では国威発揚のため国家的にドーピングを行っていたといわれる。
特に1970年代から80年代にかけて、人口2000万に満たない東ドイツがアメリカを凌ぐ世界第2位の金メダル大国になったことは、子供から見ても違和感があるものだった。
東欧諸国で国家ぐるみのドーピングがあったことがドイツ統一後及び旧ソ連崩壊後に明らかになったという。
陸上競技の女子の世界記録には「永久に破られない記録」があるという。
100m、200m、400m、800m、10000mのトラック種目の他、跳躍競技や投てき競技の一部では20年以上更新されていないどころか、それに迫る記録すら出ていないという。
これらの記録にはドーピング疑惑がつきまとい、限りなくクロに近いグレーだが、今となっては再検証は困難であるため、現在も抹消されずに残っている。
男子ではそのような世界記録があまり見当たらないのは、男子は薬物による肉体改造での伸びしろが女子に比べ少なく、後の記録更新が可能だったからと思われる。(個人的見解)
陸上のフローレンス・ジョイナー、マリタ・コッホ、王軍霞、競泳のコルネリア・エンダー、クリスティン・オットーなどの選手は、この博物館で紹介されるべき記録やオリンピックの実績があるのに(私が見た限り)選手紹介も用具の展示みられなかったのは、ドーピング疑惑の残っている選手を除外しているからかもしれない。 -
1992年バルセロナ大会の日本競泳チーム女子スイムウェア。
この大会の競泳といえば、なんといっても女子200m平泳ぎでの岩崎恭子の快挙だろう。
ほとんど注目されなかった14歳になったばかりの少女の金メダルに誰もが驚いた。
この時の岩崎の年齢は、日本人全種目の金メダリストの中でも最年少記録である。
https://www.youtube.com/watch?v=qWsHdKTbJ1I
1992年バルセロナ大会は陸上競技でも、男女のマラソンで日本選手がともに銀メダルを獲得し活躍した。
1980年代以降1992年までに日本の男子マラソンは9人のサブ10ランナーを擁する世界一のマラソン王国だったが、1980年モスクワ大会ボイコット、1984年ロサンゼルス大会4位(宗猛)、1988年ソウル大会4位(中山竹通)とメダルにあと一歩届かなかったが、この大会でようやく森下広一が銀メダルを獲得した。
3番手で戻ってきた中山竹通は競技場で抜かれ2大会連続の4位、谷口浩美は給水所でこけちゃって8位入賞だった。
一方女子は1990年代に入って世界と戦えるレベルに達したばかりだったが、有森裕子が銀メダル、山下佐知子が4位と健闘した。
1996年アトランタ大会で有森が2大会連続のメダルとなる銅メダルを獲得。
2000年シドニーで高橋尚子が念願の金メダルを獲得。
2004年アテネ大会で野口みずきが日本人2連覇となる金メダルを獲得。
男子とは対照的に4大会連続メダルとオリンピックでも優れた結果を残した。 -
陸上競技・棒高跳びのポールの素材の変化による、記録の伸びを示すマシン。
初期は木製ポールが使われていたが、柔軟性のある竹製、アルミニウム製、複合素材へと変化している。
竹が容易に手に入る日本では棒高跳びのレベルが高く、1936年のベルリン・オリンピックで西田修平・大江季雄が銀と銅のメダルを獲得した。
この時の棒高跳びは途中から雨が降り出し日没まで及ぶ接戦となり、西田と大江は2番目の4m25の同記録で並んだ。
従来なら二人が銀メダルとなったそうだが、4m25を1回でクリアした西田が2位、2回目でクリアした大江が3位となった。
西田は前回ロサンゼルス大会でも銀メダルを獲得しており、「次の東京オリンピック(戦争で中止になる)で金を獲って金・銀・銅をそろえるんだ」と言って銀メダルを大江に譲り、表彰台でも2位に大江を立たせた。
大江は一旦は銀メダルを日本に持ち帰るが、後にベルリンから3位の表彰状が届いたのをきっかけに西田を訪れ銅メダルと交換を希望したが、相談の末、それぞれのメダルを半分に切断し、銀と銅のメダルを最新の強力接着剤でつなげることを思いつく。
そうしてできた二つの奇妙なメダルは長い間世間に知られていなかったが、1964年東京大会をきっかけに明るみになり、「友情のメダル」として知られるようになった。 -
陸上競技の400mまでの短距離で使用されるスターティングブロック。
間近で実物を見ると意外に大きい。
スタート音はスターティングブロックに内蔵されたスピーカーから発せられ、1/100秒を争う短距離走の不平等を解消している。
圧力がかかると反応するセンサーが内蔵され、医学的根拠などに基づいて合図から0.1秒以内に反応するとフライングと判定されるという。 -
体操競技の吊り輪の演技で使用されるプロテクター。
鉄棒や女子の段違い平行棒でもプロテクターが使用される。 -
いくつかの競技の疑似体験ができる施設がある。
これはバイアスロンの射撃競技のゲーム。 -
近代オリンピック初期のメダル。
現代のメダルと比べるとかなり小さめ。
しかも円形とは限らない。
誰が盗んだか、アテネオリンピックの金メダルが行方不明。 -
こちらは直近の夏季3大会のメダル。
-
1964年東京オリンピックの記録映画「東京オリンピック」のポスター。
タイトルが潔いほどそのまんま。
監督は市川崑。
中央の黒人は陸上競技男子100mを制した「黒い弾丸」ボブ・ヘイズ。
段違い平行棒の女性は、「体操の名花」と呼ばれたチェコスロバキアのベラ・チャスラフスカ。
1964年東京大会と1968年メキシコ大会の2大会で計7個の金メダルを獲得した。
レスリングの選手は知らない。 -
1968年グルノーブルオリンピックの記録映画「白い恋人たち」のポスター。
なぜか日本用のポスターである。
監督はクロード・ルルーシュ。
フランシス・レイノ主題歌も有名。
https://www.youtube.com/watch?v=JT4qH6z-cSs -
オリンピックの記念切手の展示。
第1回アテネ大会からオリンピックの宣伝と資金調達を兼ねて発行されている。 -
2時間ちょっとの見学時間はあっという間に過ぎて、博物館から出て西方向に行くと全天候型の直線コース。
3コースしかないけどね。 -
地下鉄に乗って、16:40頃ローザンヌ駅に到着。
国際オリンピック委員会(IOC)の本部が置かれているとあって、「オリンピックの首都(Capitale Olympique)」の表示がある。
駅で2日前にサンモリッツ駅からライゼケペックで送ったソフトスーツケースを無事回収。 -
17:20前、ジュネーブ・コアントラン国際空港行のIRに乗車。
なぜか車両に鎌倉の大仏と桜の絵柄。 -
この旅最終の6カ国目のスイスでは、
世界遺産:3箇所(レーティッシュ鉄道アルブラ線・ベルニナ線と周辺の景観、ユングフラウ - アレッチ - ビーチホルン、ラヴォー地区の葡萄畑)
ハイキング:6回実施(ムルテル~ロゼック谷、プレダ、アンデルマット悪魔の橋、エッギスホルンとベットマーアルプ、アレッチ氷河の道、ラヴォー地区)
映画のロケ地:1作品(「007ゴールドフィンガー」)
トーマスクック景勝ルート:5路線乗車(タールヴィル~クール、クール~サンモリッツ、サンモリッツ~アルプ・グリュム、ライヒナウ~ブリーク、クール~ローザンヌ)
を消化した。
そしてトータルでは
①世界遺産:14箇所訪問(フランス3、ベルギー1、ドイツ3、オーストリア2、チェコ2、スイス3)→1箇所不足
②美しい街:5箇所訪問(ブルージュ、ローテンブルク、ハルシュタット、チェスキー・クルムロフ、プラハ)→達成
③ハイキング8回実施(フランス1、オーストリア1、スイス6)→達成
④ヨーロッパ100名城:5箇所訪問(モン・サン・ミッシェル城郭修道院、城郭都市ローテンブルク、ホーエンザルツブルク城、チェスキー・クルムロフ城、プラハ城)→達成
⑤映画のロケ地:10作品訪問(フランス5、ベルギー1、オーストリア1、チェコ2、スイス1)→達成
⑥高速列車5種と寝台列車に乗車(上海マグレブ、TGV、タリス、ICE、RJ、CLN)→達成
⑦トーマスクック景勝ルート:11路線乗車(ドイツ3、オーストリア2、チェコ1、スイス5)→1路線不足
世界遺産1箇所とトーマスクック景勝ルート1路線ほど届かなかったが、5つのミッションを達成。
世界遺産はブリュッセルのグランプラスを省いたためで、トーマスクック景勝ルートでの未達成はカン違いによるものだった。
過密スケジュールの割にはかなり高い達成率になり、充分満足のいく旅となった。 -
ローザンヌから40分程度でジュネーブ・コアントラン国際空港に到着。
チェックインを済ませ、全く購入できていなかった土産を高いのを承知で空港内で買うことになった。
帰りの便は20:25発北京行きフライトで、北京で関空行きに乗継だ。
搭乗は予定時刻で済んだが一旦離陸体制に入りかけたもののまた戻って、出発時間を2時間近く過ぎた頃、降機して預入荷物をピックアップするようにアナウンスがあった。
どうも機体に何か異常があったようだ。
CAに北京で乗り継いで関空まで帰る搭乗券を見せると、予定の北京から関空までのフライトには間に合わないので、その次以降のフライトになるという。 -
なんだかえらいことになってきた。
荷物をピックアップすると近くのカウンターの列に並んでいると、渡されたのがホテル・バウチャーだった。
関空到着は金曜日の夜の予定だったので、仮に1日伸びたとしても大きな問題ではないのだが・・・ -
バスで空港近くの「スターリング・ホテル」に移動し泊まることとなった。
ちょうど午前0時頃だった。
部屋に向かう廊下には映画スターの絵が飾ってある。
そういえばこの旅の前半でオードリー・ヘップバーン主演の2作品のロケ地巡りをしたっけ。
ホントなら今頃機内のモニターで映画を見ていたかもしれなかったのに、まさかホテルの廊下でお会いすることになるとは・・・ -
中国国際航空が用意したホテルの部屋は、この旅で泊まった部屋の中で最も広く豪華なものだった。
このホテルって☆☆☆☆だったのね。
この事態、ショックなのか嬉しいのか複雑な気持ち。 -
洗面室が広い。
バスローブなんてあったりしちゃう。 -
わーい、この旅で初めてのバスタブ。
今まで泊まったホテルにあまり不満はなかったのに、急に☆☆☆☆との差を感じてしまう。 -
リッチな気分をゆっくりくつろいでいる時刻じゃない。
明日はいったいどんなことになるのか?
ひょっとしてまだ1日観光できるのか?
ジュネーブで1日あったら何をする?
どこまで行って帰って来られる?
終わるはずの旅がまだ終わらない。
いったいどんな旅の続きが待っているのか・・・
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