さいたまさんのクチコミ(94ページ)全2,813件
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上野公園の一角に、上野戦争の折、官軍に抵抗した彰義隊戦士の墓があります。
投稿日 2016年10月29日
総合評価:3.5
上野公園の一角に、上野戦争の折、官軍に抵抗した彰義隊戦士の墓があります。
鳥羽伏見の戦いの後、江戸に戻った徳川慶喜の側近達は、慶喜の助命を求め、同盟を結成、彰義隊と称して、徳川家霊廟の警護などを目的として、上野山(東叡山寛永寺)にたてこもりました。
大村益次郎指揮の東征軍は、上野山を総攻撃したため、彰義隊は同夕刻敗走しました。
彰義隊士の遺体は、上野山内に放置されましたが、円通寺等の住職らによって、茶毘に付されました。
正面の小墓石は、寒松院と護国院の住職が密かに付近の地中に埋納し、後に堀り出され、大墓石は、元彰義隊小川興郷らによって造立されたものです。
彰義隊戦士の墓を訪れ、上野戦争の実態を耳にし、墓を目にしますと、義のため亡くなった戦士の思いが伝わってくるようです。
歴史の転換点における戦いといえども、戦士にとっては悲しい歴史です。
時間を見つけて、彰義隊戦士の墓を訪れ、歴史のはかなさの一端を感じて頂ければと願っています。- 旅行時期
- 2016年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- バリアフリー:
- 2.5
- 見ごたえ:
- 3.0
-
上野公園の中に、寛永寺清水観音堂があります。国の重要文化財に指定されています。
投稿日 2016年10月29日
総合評価:3.5
上野公園の中に、寛永寺清水観音堂があります。国の重要文化財に指定されています。
重要文化財の清水観音堂は、寛永8年に徳川家康の師であった慈眼大師天海大僧正によって、天台宗東叡山寛永寺として創建されました。
天海大僧正は、寛永2年に、二代将軍徳川秀忠から寄進されていた上野忍が岡に、平安京と比叡山の関係に倣って、「東叡山寛永寺」を開きました。
天海大僧正は、比叡山が京都御所の鬼門を守護し、御所の鎮護を担うと伝えられるのに倣い、上野寛永寺が、江戸城の鬼門を守るという役割を果たすことを考えていました。
そして、比叡山や京都の有名寺院になぞらえた堂舎を次々と建立した中の一つが清水観音堂です。
今回、清水観音堂を訪れ、上野寛永寺の果たすべき役割の中で、清水観音堂が担う部分を知ることができました。
特に、広い上野寛永寺の境内の中で、清水観音堂の役割が理解できたことは、新しい喜びでした。
清水観音堂において、ぜひともこれらを知ってもらいたいと思っています。- 旅行時期
- 2016年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- バリアフリー:
- 2.5
- 見ごたえ:
- 4.0
-
一説に、日本に論語や千字文を伝えたともされる王仁博士の石碑が、上野公園に建てられています。
投稿日 2016年10月29日
総合評価:3.5
一説に、日本に論語や千字文を伝えたともされる王仁博士の石碑が、上野公園に建てられています。
王仁博士(わにはくし)は、百済から日本に渡来し、千字文と論語を伝えたとされる古事記や日本書紀等に記述されている伝承上の人物です。
日本書紀では、王仁、古事記では和邇吉師(わにきし)と表記されているそうです。
伝承によると、百済に渡来した中国人であるとされていますが、王仁博士が伝えたとされる千字文が、王仁博士の時代には成立していないことなど、史料解釈上、実在を疑問視する人達が多数いるそうです。
今回、いろいろな説を、目にしたり、耳にしましたが、いずれにしましても、数多くの渡来人により、多くの知識が日本に紹介されているのは、事実のようですので、新たな知識を活かして日本の文化として発展させていった日本の包容力に感心しています。
今回の訪問時により、大陸文化の渡来について勉強することができ、とても有意義な王仁博士の石碑でした。- 旅行時期
- 2016年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 2.5
-
上野の時忘れじの塔は、関東大震災と東京大空襲の犠牲者を慰霊するための塔です。
投稿日 2016年10月29日
総合評価:3.5
上野公園の時忘れじの塔は、関東大震災と東京大空襲の犠牲者を慰霊するための塔です。
時忘れじの塔は、大正12年の関東大震災及び昭和20年の東京大空襲の犠牲者を悼む慰霊碑で、平成17年に海老名香葉子さん(故林家三平の夫人)によって、上野恩賜公園内に建立されました。
この塔は、関東大震災と東京大空襲を忘れないことと、同じような悲劇が起こらないように、平安な願いをこめて造られました。
時忘れじの塔は、関東大震災や大空襲で亡くなったご家族がモチーフになっていて、安寧を祈念する母子像と時計塔からなっています。
今回、時忘れじの塔を訪れ、首都東京を襲った関東大震災と東京大空襲の犠牲者がいかに多く、かつご遺族に深い悲しみを与えたかを改めて思い起こし、このような悲劇が起こらないことを願うきっかけになりました。
特に、母子の悲しみの大きさに深く胸をうたれる思いがします。
上野公園に行かれる機会がありましたら、ぜひ、時忘れじの塔を訪れることをお勧めします。- 旅行時期
- 2016年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.5
-
上野公園の擂鉢山古墳は、弥生時代の前方後円古墳と言われています。
投稿日 2016年10月29日
総合評価:3.5
上野公園の擂鉢山古墳は、弥生時代の前方後円古墳と言われています。
古墳の形が、擂鉢山のようだったことから擂鉢山古墳と名づけられたようです。
現在の頂上は、平坦になっていて、あとで手が入れられたものかもしれません。
休憩所のようになっています。
擂鉢山古墳は、上野公園内の西側にあり、前方後円墳と言われていますが、全長約70m、後円部は径約43m、高さ約5m、前方部は最大幅約23mと比較的大きいもののようです。
葺石は未確認ですが、埴輪片が出土しているそうです。
内部構造は不明ですが、5世紀頃の築造と言われています。
階段を登ってみますと、単なる平坦地があるだけで古墳のような感じはありません。
周辺に、腰を下ろすような石が置かれているだけです。
古墳の形状を期待していくと、がっかりしますが、出土した石棺は博物館に収められていて、価値があるようです。
擂鉢山古墳に行くよりも、博物館に行った方が良いかもしれません。
古墳の形は、擂鉢山のようになっていますので、間違いはありません。
期待する対象をしっかり決めてから、訪れることが大事でしょう。- 旅行時期
- 2016年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 2.5
- 見ごたえ:
- 3.0
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正岡子規は、野球の愛好家であって、自ら野球の捕手として活動した他、作品で野球を普及しました。
投稿日 2016年10月29日
総合評価:3.5
正岡子規は、野球の愛好家であって、自ら野球の捕手として活動した他、作品で野球を普及しました。
打者、走者、直球等、現在も多用されている野球用語を、英語から日本語に翻訳し、野球の普及に尽力しました。
このため野球の殿堂に名前を連ねるとともに、上野公園の野球場を、正岡子規記念球場と名づけられました。
正岡子規は、明治初期に日本に紹介されて間もない頃の野球を愛好し、明治20年代頃に、この球場がある上野公園内で野球を楽しんでいたと言われています。
今回、上野公園の正岡子規記念球場を訪れ、正岡子規が野球界に貢献した経緯を知ることができました。
実際の球場は、マウンドも整備されておらず、かつ観客席も無く、単なる野球の練習場のような感じで、目を見張る球場というものでありませんが、正岡子規が文芸の世界で、野球を紹介し、普及させた功績は、当時として目を見張るものでしょう。
そのような功績の面を理解して、正岡子規記念球場を見る必要があります。- 旅行時期
- 2016年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 3.5
- 見ごたえ:
- 3.0
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東京文化会館は、上野駅公園口改札口を出た、真ん前にある東京都のコンサートホールです。
投稿日 2016年10月28日
総合評価:3.5
東京文化会館は、上野駅公園口改札口を出た、真ん前にある東京都のコンサートホールです。
東京文化会館は、東京開都500年を記念して建設されたコンサートホールです。
1961年に完成しましたので、約60年に近い年月が経っています。
首都東京に、オペラやバレエもできる本格的な音楽ホールを建設するとの方針で作られたようです。
2300人も入る大ホールや650人収容の小ホール等の施設があります。
音響効果が素晴らしいとのことで、国内はもとより海外でも有名なホールのようです。
上野公園に、10時ごろ着いたのですが、東京文化会館は、開いていませんでした。
レストランや各種のショップも開いておらず、入れませんでした。
開演時間を見てみると、午後6時台が多く、早いものでも午後2時でした。
音楽関係の標準的な活動時間とは、そんなものかなあと不思議な思いを感じました。
やむを得ず、動物園や東照宮に廻りました。
一般的な感覚で考えますと、失敗をすることもあるのだと感じました。
ご注意を!- 旅行時期
- 2016年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.5
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.5
-
浜離宮恩賜庭園は、将軍の鷹狩りの場や休憩所として、江戸時代中期に造営されました。
投稿日 2016年10月26日
総合評価:3.5
浜離宮恩賜庭園は、将軍の鷹狩りの場や休憩所として、江戸時代中期に造営されました。
江戸時代は、浜御殿と呼ばれていましたが、江戸城の防衛や外国船への備えとしての側面もありました。
明治維新後、明治政府の管理下に置かれ、浜離宮と名称を変え、外国賓客のための迎賓館としての役割に変わりました。
創設当時の大名屋敷の庭園の構造を受け継ぎ、基本的に、潮入りの池を中心とする周回型の庭園として設計されていますが、将軍のための鷹狩りの鴨場もあります。
池の周りには、4ケ所あまりの御茶屋が建てられていて、賓客をもてなす場もあります。
地震や戦火により、焼・壊滅した施設もあり、戦後に復元された施設が少なからずあります。
特別名勝及び特別史跡の両方の指定を受けている珍しい例の庭園です。
都会の喧騒の中に、落ち着いた雰囲気の浜離宮恩賜庭園を訪れることにより、必ずや心が洗われるようなやすらぎの気持になるものと思います。
ぜひとも、浜離宮恩賜庭園を訪れるようにお薦めします。
きっと来て良かった、もっと早く来るべきだったと思われるでしょう。- 旅行時期
- 2016年09月
- 利用した際の同行者
- 家族旅行
- アクセス:
- 4.0
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- 人混みの少なさ:
- 3.5
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- バリアフリー:
- 3.5
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- 見ごたえ:
- 4.0
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浜離宮の東にある築地川ほど時代の変遷により、姿を変えた場所はありません。
投稿日 2016年10月26日
総合評価:3.5
浜離宮の東側にある築地川ほど時代の変遷により、姿を変えた場所はありません。
江戸時代以前には、その姿すらなかった築地川が、江戸時代初期に造成され、交通や物資等の輸送に大活躍しましたが、東京オリンピックの開催に際し、埋め立てられ、現在は、浜離宮の東側のみにその姿を留めています。
現在の浜離宮や築地の周辺は、江戸湾の海岸の浅瀬でした。
江戸時代初期には、お鷹場と称されていて、水鳥の狩場とされていた水草の生えた浅瀬でした。
江戸に幕府が開設され、築地一帯は、埋め立てられ、築地という地名が誕生しました。
埋め立てられた地域の中に、運河としての築地川やその他の河川が造成され、交通運輸面で重宝されました。
昭和30年代末期の東京オリンピックの際に、高速道路を建設することになりましたが、用地取得が困難なため、築地川をはじめとする河川・運河を埋め立て、高速道路等の主要道路にしました。
一部、残されたのが、現在の築地川です。
現在の築地川のよどんだ姿を見ますと、肥大化する都市空間の中で、長期的な見通しがいかに難しいものか、現実の形で理解できます。
外国の賓客を迎えていた美しい浜離宮恩賜公園の姿と、時代の流れに翻弄された築地川が、対照的な姿として、私どもの前に並んでいます。
美しい浜離宮の歴史とともに、歴史の裏側も理解することは、有意義かもしれません。- 旅行時期
- 2016年09月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 景観:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- バリアフリー:
- 3.0
-
浜離宮恩賜庭園の中の御門は、浜離宮の西側の出入り口です。現在も利用できます。
投稿日 2016年10月25日
総合評価:3.5
浜離宮恩賜庭園の中の御門は、浜離宮の西側の出入り口です。現在も利用できます。
中の御門は、江戸時代初期から大正時代まで浜離宮の西側の出入り口と使用されていました。
表門として使用されていたこともあり、また通用門として使用されていたこともあり、時代により役割が変遷しました。
大正12年(1923年)の関東大震災で、中の御門橋がなくなり、また昭和2年に橋台であった石垣が撤去されました。
平成17年の中の御門の整備により、現在の姿になりました。
中の門は、表門としての期間が永かった大手門に比し、地味な感じの門です。
現在の中の御門を構造的に見ますと、枡形の複郭式の門であり、大手門と同じ形式であったと考えられます。
中の御門は、土手や石垣がありますが、土手の厚さが薄く、土手の上の柵も簡単な矢来型のもので、全体的に簡素になっています。
しかしながら、門の中間に広い広場があり、複郭式の枡形の門の構造は変わらず、江戸城の門と酷似しています。
今回、大手門や中の御門を見る機会があり、江戸城の各御門や見附との比較ででき、有意義でした。
浜離宮の中の御門を見られる方も、江戸城の御門を併せて見られることをお勧めします。- 旅行時期
- 2016年09月
- 利用した際の同行者
- 家族旅行
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.5
-
浜離宮恩賜庭園の野外卓広場は、野外の食卓にも利用できるテーブルがある広場です。
投稿日 2016年10月25日
総合評価:3.5
浜離宮恩賜庭園の野外卓広場は、野外の食卓にも利用できるテーブルがある広場です。
野外卓広場は、延遼館跡の南側にあります。
中の御門から入園しても、入ってすぐの右手に、野外卓広場が広がっています。
その名称のとおり、木製の野外卓やベンチが設置された広場です。
ピクニック感覚で楽しめる一角となっています。
広場内には松や楠など、さまざまな樹木が植えられ、芝生が広がっているので、子供連れの家族にとっては、再興の場所です。
家族のみならず、親しい者同志の楽しい空間となっています。
都会のビル群を避け、静かな環境の中で、野外卓を囲むのも楽しいと思います。
ぜひ、お誘いあわせの上、野外卓広場を楽しまれると良いと思います。
親しい人達の集まりとして、最高の広場です。- 旅行時期
- 2016年09月
- 利用した際の同行者
- 家族旅行
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- バリアフリー:
- 3.5
- 見ごたえ:
- 3.5
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浜離宮恩賜庭園の延遼館は、日本で初めて造られた洋風石造建築物です。
投稿日 2016年10月25日
総合評価:3.5
浜離宮恩賜庭園の延遼館は、日本で初めて造られた洋風石造建築物です。
明治12年に、外国要人の迎賓館として建てられましたが、明治20年の地震で被害を受け、22年に取り壊されたそうです。
その間、多くの外国からの賓客が、延遼館を利用しています。
明治12年には、第18代アメリカ大統領の職を辞したグラント将軍夫妻一行が、世界周遊の途中で来日、約2ヶ月間にわたり逗留し、盛大な歓迎を受けたとの記述があります。
それらは、内堀の傍の解説板に記されています。
昔の絵地図を探して、確認したところ、かなり大規模な建物のようです。
築地の海軍兵学校が記載されていますので、地震の被害を受ける前の明治10年代後半の絵地図のようです。
現在は、跡地の案内板のみが、残されています。
延遼館の跡地に佇み、華やかだったであろう延遼館を想像するとなんとなく侘しい感じがします。
歴史の栄華とはかなさを感じることも有意義なものと考えられます。
時間を見て、歴史の一端に耽るのも良いのではないでしょうか。- 旅行時期
- 2016年09月
- 利用した際の同行者
- 家族旅行
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.0
-
浜離宮恩賜庭園の松の御茶屋は、潮入りの池の北側の岸辺に建てられています。
投稿日 2016年10月25日
総合評価:3.5
浜離宮恩賜庭園の松の御茶屋は、潮入りの池の北側の岸辺に建てられています。
松の茶屋は、11代将軍徳川家斉により建てられました。
その後、戦災で焼失し、平成22年に復元されたとのことです。
松の御茶屋は、潮入りの池の近くにあり、池の眺望に恵まれているので、将軍や来客に利用されることが多かったようです。
この茶屋の特徴は、鷹狩りの装束のまま休息するために、土間を広くとり、土間の中央には囲炉裏があり、 自在かぎには茶釜がかけてあったそうです。
今回、松の御茶屋を訪れることにより、松の御茶屋の由来を耳にすると、将軍の鷹狩りと潮入りの池と松の御茶屋のと密接な関係が見えてきます。
江戸時代の文武の道と風流の道の融合について、思いを巡らすことができました。
将軍家の浜御殿における過ごし方について、一端を理解することができ、大変有意義でした。再度、時間を取ってゆっくり見てみたいと思う松の御茶屋でした。- 旅行時期
- 2016年09月
- 利用した際の同行者
- 家族旅行
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.5
-
浜離宮恩賜公園の庚申堂鴨場は、庭園内にある鴨狩りのための池です。
投稿日 2016年10月25日
総合評価:3.5
浜離宮恩賜公園の庚申堂鴨場は、庭園内にある鴨狩りのための池です。
浜離宮には、鴨狩のための鴨場が、庚申堂鴨場と新銭座鴨場の2ケ所あります。
鴨狩の方法としては、江戸時代は、鷹を使って鴨を捕獲する鷹狩りと、その後の二股の網を使って鴨を捕獲する又手狩りの2種類の方法がありました。
いずれも、鴨等の水鳥を近くまでおびき寄せるため、気付かれないように隠れていることが必要になります。土手の陰、樹木の陰の他、小屋の陰に潜んで鴨等の近づくのを見張ります。
このため、見張るための覗穴があります。
今回、鴨場を見るための覗穴のある小屋を訪れ、鴨場を見ることができました。
静かな鴨場の水面を、覗穴を通して観察していると江戸時代の鷹狩りを想像して、なんとなく不思議な思いになりました。
庚申堂鴨場の池面は、淡緑色で神秘的な感じがします。自然の世界です。
人間が造った御茶屋の雰囲気とは、趣が異なり、別世界にいるようです。
時間があれば、人工的なものが無い自然に満ちた鴨場の雰囲気を味わうことも、意義あることと思われます。- 旅行時期
- 2016年09月
- 利用した際の同行者
- 家族旅行
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.5
-
谷中の慈雲山瑞輪寺には、独立した安産飯匙祖師の入口が、別にあります。
投稿日 2016年10月24日
総合評価:3.5
谷中の慈雲山瑞輪寺には、独立した安産飯匙祖師の入口が、別にあります。
正規の入口は、南側に面した山門の方ですが、東側に別の入口があり、安産飯匙祖師の入口となっています。
日蓮上人が流罪から赦され、京に戻る際、難産に苦しむ女性に会い、飯匙をもって無事出産に導いたとされることから、安産に効能のある安産飯匙祖師として崇められています。
開山の慈雲院日新上人は、徳川家康が幼少時の学問の師でしたので、家康が寺地を寄進し、開山に至ったそうです。
今回、最初に安産飯匙祖師堂の瑞輪寺を訪れ、その後、南側の瑞輪寺の入口に廻ったところ、同じ瑞輪寺の標示が掲げられていて、同じ名称のお寺が、2ケ所あるのかと考えてしまいました。
よく理解していないと、間違えてしまいます。
注意する必要があります。
実際に、訪れてみないとなかなか理解できないかもしれません。
くれぐれもご注意ください。まず、安産飯匙祖師堂について、紹介します。- 旅行時期
- 2016年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- バリアフリー:
- 3.5
- 見ごたえ:
- 3.5
-
浜離宮恩賜公園の御亭山は、園内のほぼ中央にある小高い丘で、眺望が最高です。
投稿日 2016年10月24日
総合評価:3.5
浜離宮恩賜公園の御亭山は、園内のほぼ中央にある小高い丘で、頂上からの眺望が最高です。
御亭山は、潮入りの池の東側にあり、頂上と周囲の平地部の標高差は、約3m程度の小高い丘です。
約3mの標高差ですが、頂上からの眺望は、素晴らしいものがあります。
浜離宮の庭園内の四周を見ることができます。
御亭山の頂上に通ずる小路は、2本あり、いずれも石の階段になっています。
頂上は、広くはありませんが、ベンチがありますので、腰を下ろして休憩をとることができます。
今回、浜離宮の御亭山に登って、四周への眺望が素晴らしいことがわかりました。
浜離宮の庭園の中で、必ず訪れるべきスポットの一つです。
是非とも訪れることをお勧めします。
できれば、最初に訪れ、庭園内の全般配置を理解して、その後、庭園内をゆっくり廻るのが良いと思っています。- 旅行時期
- 2016年09月
- 利用した際の同行者
- 家族旅行
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- バリアフリー:
- 2.5
- 見ごたえ:
- 3.5
-
浜離宮恩賜公園の富士見山は、浜離宮の南東端にある小高い丘で、庭園内を望めます。
投稿日 2016年10月23日
総合評価:3.5
浜離宮恩賜公園の富士見山は、浜離宮の南東端にある小高い丘で、庭園内を望めます。
江戸時代及び明治時代までは、名前のとおり富士山が見えていたそうです。
現在は、富士山を見ることは、周囲のビル群に遮られてできません。
しかしながら、浜離宮庭園内は、一望に収めることができて、とても気持ちが良いです。
玉石でできた階段を登りますと、すぐ頂上に登れます。
頂上は、やや狭いですが腰を下ろして座ることができるベンチもあり、ゆっくりできます。
西方向の潮入りの池から東方向の芝生の広がりまで、くまなく見ることができます。
浜離宮に行かれたら、ぜひとも富士見山に登られ、素晴らしい眺望を楽しまれると良いと思います。
富士見山の絶景は、今でも印象深く記憶に残っています。
浜離宮におけるお薦めの場所です。- 旅行時期
- 2016年09月
- 利用した際の同行者
- 家族旅行
- アクセス:
- 4.0
- 景観:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- バリアフリー:
- 2.5
-
中島の御茶屋は、浜離宮恩賜庭園の潮入りの池のほぼ中央にある休憩所です。
投稿日 2016年10月22日
総合評価:3.5
中島の御茶屋は、浜離宮恩賜庭園の潮入りの池のほぼ中央にある休憩所です。
浜離宮恩賜公園の最も人気のある場所の一つで、観光客が次から次へとやってきます。
中島の御茶屋は、江戸時代中期に、将軍が賓客をもてなすため、食事やお茶を味わった建物として建てられましたが、戦火により焼失し、現在の建物は、修復された建物です。
江戸時代には、魚釣りをして獲物の大小を競ったとの話が伝わっています。
現在は、無料の休憩所になっていますが、有料で抹茶や和風菓子を味わうことができます。
潮入りの池や池の周囲の景色は、素晴らしく、東京の都会の中で、落ち着いた雰囲気のもとでゆっくりするには最適の場所です。
外国人観光客が多く、人気ポットになっているようです。
中島の御茶屋は、時間をやりくりしてでも、一度見る価値のある場所だと思います。
特に、潮入りの池の水面に浮かぶ風景の映り絵と静かな雰囲気は、心が洗われるようです。
ぜひとも訪れることをお勧めします。- 旅行時期
- 2016年09月
- 利用した際の同行者
- 家族旅行
- 一人当たり予算
- 1,000円未満
- 利用形態
- その他
- アクセス:
- 4.0
- コストパフォーマンス:
- 3.5
- サービス:
- 3.5
- 雰囲気:
- 4.0
- 料理・味:
- 3.5
- バリアフリー:
- 3.0
- 観光客向け度:
- 4.0
-
浜離宮恩賜庭園のお伝い橋は、中島へのお伝い橋の他、横堀の海手お伝い橋もあります。
投稿日 2016年10月22日
総合評価:3.5
浜離宮恩賜庭園のお伝い橋は、中島へのお伝い橋の他、横堀の海手お伝い橋もあります。
浜離宮のお伝い橋とは、一般的に大泉水の中島に架けられている橋を指している他、東側の横堀に架かっている海手お伝い橋もあります。
中島の御茶屋は、江戸時代中期に、将軍がお茶を楽しむために建てらたそうですが、古い地図を見ますと、御茶屋に渡るためには、西側から渡っていたようです。また、北側に船着き場があり、船で渡っていたとの記述もあります。
中島の南北方向に架かっているお伝い橋が、記載されている地図は、明治時代中期の地図です。
古い地図を見ながら、江戸時代の賓客をもてなすための御茶屋とお伝い橋の様子を想像することは、楽しい思いを感じます。
お伝い橋を渡りながら、遠く古き時代の絵巻物の世界に入り込んだような気持になります。
お伝い橋は、ゆっくり思いをはせながら渡ると別の感激が沸いてくる場所です。- 旅行時期
- 2016年09月
- 利用した際の同行者
- 家族旅行
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.5
-
浜離宮恩賜庭園の潮入りの池は、海水の満ち干により、趣が変わる池です。
投稿日 2016年10月22日
総合評価:3.5
浜離宮恩賜庭園の潮入りの池は、海水の満ち干により、趣が変わる池です。
浜離宮は、大名屋敷であった関係上、一般的な大名屋敷の例にもれず、中央に池があり、その周辺を巡る小路あります。
潮入りの池は、海水を引き入れているため、周辺の景況が、潮の満ち干により変わります。
大名屋敷のうち海水が入っている池は、築地の松平定信の欲恩園がありましたが、埋め立てられたため、現在残っているのは、浜離宮の潮入りの池のみになっています。
浜離宮の説明と地図によれば、潮入りの池は浜離宮の南中央の大泉水とされる他、海岸沿いの南北に細い横堀も、潮入りの池とされています。
今回、浜離宮の潮入りの池を訪れましたが、六義園や安田庭園よりも規模が大きく、周囲の御茶屋も立派で、びっくりしました。
特に、橋により池の中まで、進むことができるのは、浜離宮の潮入りの池のみです。
やはり、諸外国の賓客を迎える施設として活用されて来た理由がわかります。
皆さんに紹介すべき趣のある池と言えます。- 旅行時期
- 2016年09月
- 利用した際の同行者
- 家族旅行
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- バリアフリー:
- 3.5
- 見ごたえ:
- 3.5











































































































































































































