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築地本願寺 施設情報・クチコミに戻る

独創的な建築様式でまるイスラムのモスクを見ているようです。そして古代と現代が混在しています。

  • 4.0
  • 旅行時期:2024/01(約5ヶ月前)
Lily-junjunさん

by Lily-junjunさん(男性)

築地 クチコミ:25件

「築地本願寺」へのアクセスは、東京メトロ日比谷線「築地駅」の1番出口を出ると正面が「築地本願寺」に直結しています。「正門」から入りたい場合は、「築地市場」方面へ50mほど進むと左手が「築地本願寺」の「正門」になります。ちなみに、入口は東京メトロ日比谷線「築地駅」直結しているもの、正門、南門、北門があります。
「築地本願寺」は、浄土真宗本願寺派の寺院です。本山は、京都下京区にある「龍谷山本願寺」(西本願寺)で、「築地本願寺」は、その直轄の寺院になります。「築地本願寺」の正門から入ると、その建築様式に驚かされるというか、感激します。誰もが、まず、お寺というと頭に浮かぶのは和風の建築ですが、「築地本願寺」は古代インドやアジアの古代仏教建築のデザインが取り入れられた、非常に珍しいお寺です。
「築地本願寺」の歴史を紐解いてみると、「築地本願寺」は、元和3年(1617年)に浅草近くに「龍谷山本願寺」(西本願寺)の別院として建立されましたが、明暦3年(1657年)の「明暦の大火」と呼ばれる大火事で焼失してしまいました。その後、再建のため江戸幕府から与えられた土地が現在の場所ですが、その当時は海上だったので埋め立て工事と造成をしなければなりませんでした。そして、そこに海を埋め立てて土地を築き「本堂」を建立しました。意外にもそのことが「築地」という名称の由来になったそうです。そして、「築地御坊」と呼ばれるようになりました。この時の「本堂」の正面は西(現在の「築地市場」)を向いて建てられ、築地場外市場のあたりには58カ所の寺院からなる寺内町だったそうです。
また、大正12年(1923年)には「関東大震災」に伴う火災により再度本堂を焼失しましたが、昭和9年(1934年)に再建し、現在の「本堂」の姿となりました。「本堂」は、東京帝国大学工学部(現東京大学)教授で建築家の「伊東忠太」博士の設計による古代インド・アジア仏教様式を模した独特の外観が独創的かつ特徴的です。インドにある「アジャンター石窟寺院」などがモデルになっているそうです。「伊東忠太」は、建築家初の文化勲章を受章するなど、建築界に大きな足跡を残した人物です。
しかし、「本堂」内に入ると幻想的な浄土真宗の造りとなっています。そして、「本堂」でも何よりも目を引くのが、巨大な「パイプオルガン」です。この「パイプオルガン」は、昭和45年(1970年)に、仏教音楽の普及を願い寄贈されたもので、毎月最終金曜日に行われる「ランチタイムコンサート」で楽しむことができます。
また、建物の細部には、インドのみならず和洋中と世界の建築要素が取り入れられていることも有名です。「本堂」正面にある「有翼の獅子」や「牛」、「獅子」、「馬」、「象」、「孔雀」、「猿」など様々な霊獣など全13種の動物像が寺の各所に隠れています。これを探すのにチャレンジするのも「築地本願寺」の建築様式を楽しむ一つの方法です。平成26年(204年)には、「本堂」、「門柱(正門・北門・南門)」、「石塀」が国の重要文化財に指定されました。

《「築地本願寺」のお薦め参拝巡路》
「石塀」(重要文化財)⇒「門柱(正門)」(重要文化財)⇒「手水舎」⇒「酒井抱一墓」⇒「九条武子様歌碑」⇒「土生玄碩墓」⇒「大瀛師之塔」⇒「間新六之塔」⇒「陸上交通殉難者追悼の碑」⇒「台湾物故者遺骨安置所」⇒「親鸞聖人の像」⇒「門柱(南門)」(重要文化財)⇒「本堂」⇒「」⇒「」⇒「」

それでは「築地本願寺」を参拝します。まず、「正門」から入る前に国の重要文化財に指定されている「石塀」と正門「門柱」の外観を鑑賞するのをお薦めします。「正門」から入るとすぐ右手に「手水舎」があります。ちなみに、浄土真宗では、参拝の際に身を清める儀式をする必要はありません。「手水舎」は参拝者が遠路はるばる歩いてきた時代に、本堂を汚さないように足を洗うためのものだったそうです。次に「手水舎」の手前の道を右方向に進むと、「酒井抱一墓」、「九条武子様歌碑」、「土生玄碩墓」、「大瀛師之塔」、「間新六之塔」、「陸上交通殉難者追悼の碑」、「台湾物故者遺骨安置所」、「親鸞聖人の像」などの旧跡等が連続して並んでいます。「親鸞聖人の像」を見学し終えたら、重要文化財に指定されている「南門」です。さて、いよいよ「本堂」の参拝です。「本堂」は、建物中央の階段を利用しますが、バリアフリールートや「本堂」内にはエレベーターもありますので、ベビーカーや車椅子の方はそちらを利用すると良いと思います。「本堂」の中央には、中央には浄土真宗の御本尊である「阿弥陀如来像」が安置されています。「築地本願寺」での参拝方法は、まず御本尊に一礼します。香をつまみ、香炉に入れます。複数回行うのでなく1回のみです。それから合掌して、「なもあみだぶつ」と称えてから礼拝し、一礼して退出するのが正式な参拝方法です。ここでの注意点ですが、お香はつまんだ後、額に寄せないで香炉に入れるようにしまます。そして、「本堂」を参拝すると「参拝記念カード」があり、参拝後に持ち帰ることができます。何故「参拝記念カード」とかというと、「築地本願寺」には、御朱印やお守りはありません。御朱印は追善供養(故人に対する供養)の受取印が起源なので、追善供養を行わない浄土真宗には御朱印がないそうだらだそうです。そして、「参拝記念カード」に書いてある言葉や色は毎月変わります。ちなみに、12カ月分の「参拝記念カード」集めると記念品などがもらえるそうです。
参拝後は、「築地本願寺」の「本堂」の素晴らしい建築様式やモニュメント等を見学します。「本堂」への入口の上部には、蓮の花が描かれた色鮮やか「ステンドグラス」があります。外からの日が「ステンドグラス」に当たる時間帯に見るのがベストだそうです。そして、「ステンドグラス」を背景にその両脇には、「本堂」で最も目を引く、巨大な「パイプオルガン」が目に入ってきます。この「パイプオルガン」は、昭和45年(1970年)に、仏教音楽の普及を願い寄贈されたもので、2mから2cmまで、大小約2,000本ものパイプで構成されています。毎月最終金曜日に行われる参加無料の「ランチタイムコンサート」で「パイプオルガン」の音色を楽しむことができます。
次は、「本堂」をはじめあらゆるところにある「動物像」探しです。「本堂」正面にある「有翼の獅子」をはじめ、「牛」、「獅子」、「馬」、「象」、「孔雀」、「猿」等の霊獣など全13種の動物像が寺の各所に隠れています。これらの像を設置したのは、動物好きで知られる「築地本願寺」の設計者「伊東忠太」です。「伊東忠太」は、もともと動物や妖怪が好きで、建築にも摩訶不思議な動物の彫刻、彫像を取り入れています。通称「幻獣建築」とも呼ばれています。そして、晩年には毎日のように風刺画を描き、おびただしい数の動物や妖怪の絵を描くなど、漫画家、イラストレーターとしての側面もあったそうです。
本堂に続く階段の入り口にある「有翼の獅子」は、左側の像は口が閉じていて右側の像が口を空けており、阿吽になっています。また、階段の上に上半身だけ彫刻されている「獅子像」は、この「あ」「うん」が、階段下の像と逆になっています。「本堂」内部の広間の階段の手すりや壁には、大理石で造られた像や「牛」、「馬」、「ライオン」などの像があります。1階の窓と天井の間には、「ヤモリ」の像がありました。いずれも表情豊かで、胴体はムクムクと膨らんでいる愛嬌たっぷりな動物たちでした。

【築地本願寺に棲む動物たち】
①「有翼の獅子」、②「牛」、③「馬」、④「獅子」、⑤「象」、⑥「孔雀」、⑦「猿」、⑧「鳳凰」、⑨「グロテスク(珍獣)」、⑩「青龍」、⑪「朱雀」、⑫「白虎」、⑬「玄武」

もう少し詳しく見てみると、扉から本堂へ入ると右手の階段手すりの支柱部分に「牛」の像があります。そして、「牛」の像の向こうには、「孔雀」を発見しました。キョトンとした顔をしていますが、実は、こちらの「孔雀」像は阿弥陀経に説かれている鳥の一種だそうです。その生態から、物事を包み隠さず、自分の心をさらけ出すものの例えとされているようです。そして、中央の扉の付近に、「獅子」と「馬」の像がありました。「馬」の像は見るからに、飛び出してきそうな躍動感を感じます。また、「獅子」は、神聖な動物であると共に、仏教では、仏の知恵の象徴とされているそうです。そして、堂内に入ると、白い梁と柱があり、そこに「朱雀」、「青龍」、「玄武」、「白虎」のが装飾として施されていました。この四聖獣の起源は中国で、世界の四方向を守る神獣といわれています。ちなみに、北は「玄武」、南は「朱雀」、東は「青龍」、西は「白虎」が守護する役目を担っています。また、「講堂」の付近に階段があり、その手すりに「グロテスク」といわれている彫像を発見しました。「本堂」から外出ると、外壁に半鐘がありその上に「鳳凰」像がありました。次から次へと動物像を見つけていくと、子供時代にやった宝探しを思い出すような、何となく満足感が心の中に芽生え、楽しくなりました。

「本堂」を出ると右手には「インフォメーションセンター」があります。「インフォメーションセンター」には、数量限定の人気メニューの「18品の朝ごはん」で有名な「築地本願寺カフェ Tsumugi」があります。私も食べてみたいと思い、自分の都合のいい日時に何回かネットで予約をトライしたのですが、連日予約が一杯で、いまだに食べていません。「Tsumugi」は、年中無休で、営業時間は8:00~18:00、朝食は8:00〜10:30となっています。ちなみに、「18品の朝ごはん」は、16種類のおかずとお粥、お味噌汁からなり、湯葉いくら、海苔明太、里芋田楽、タコの塩麹和え、鴨の山椒焼きなど少しずつ色々なものが食べることができます。その他「つきぢ松露」の卵焼きや「築地江戸一」の甘口昆布の佃煮などの築地の名物も味わうことができます。そしてお粥はなんとおかわり自由だそうです。お茶もこだわっていて、温かい三重県産や福岡八乙女産のかぶせ茶か冷たい鹿児島産の深蒸し茶のどちらかを選ぶことができます。
また、「インフォメーションセンター」内には、仏事関連の商品、文具雑貨等を取り揃えた「オフィシャルショップ」があります。営業時間は、9:00~17:00で年中無休となっています。そして、「インフォメーションセンター」には、「築地本願寺」が一望できる「屋上テラス」があり、誰でも自由に入ることができます。「屋上テラス」から「築地本願寺」の眺めは、また違った趣があります。その他、「第一伝道会館」の1階には、本格的な日本料理が食べられる「紫水」や気軽に休むことのできる「ティーラウンジ」もあります。
最後に忘れてはならないのは、「築地本願寺」は、「X JAPAN」の「hide」の葬儀・告別式が執り行われた場所です。そして、5月2日は「X JAPAN」の「hide」の命日です。当時、葬儀が行われた「築地本願寺」には、約5万人のファンの方が献花に訪れ、その列は、2、3キロにも及んだそうです。いまでも多くのファンが、「築地本願寺」に訪れています。「本堂」は、お葬儀の時に、「Toshi」が「hide」を偲んで、「Yoshiki」のピアノと共に「Forever Love」を歌った場所になります。「本堂」への階段を上り、扉からラウンジに入ると左側に階段があります。その階段を降りると、この奥に「hide」の「追悼コーナー」が設置されています。

01_【「築地本願寺」の一口メモ】
⑴ 所在地…〒104-8435 東京都中央区築地3丁目15-1 電話:0120-792-048(コンタクトセンター)
⑵ 本堂参拝時間…6:00〜16:00 ※夕方のお勤め終了後
⑶ 「築地本願寺」の概要
①宗祖…親鸞聖人 ②宗派…浄土真宗本願寺派 ③本山…龍谷山本願寺(西本願寺)
④御本尊…阿弥陀如来(南無阿弥陀仏)

02_【「築地本願寺」へのアクセス】
⑴ 東京メトロ日比谷線「築地駅」1番出口から徒歩1分50m
⑵ 東京メトロ有楽町線「新富町駅」4番出口から徒歩6分400m
⑶ 都営地下鉄浅草線「東銀座駅」5番出口から徒歩6分400m
⑷ 都営地下鉄大江戸線「築地市場駅」A1出口から徒歩6分450m

03_【「築地本願寺」の見どころ】
⑴ 「酒井抱一墓」
「酒井抱一」は、江戸後期に活躍した画家です。「酒井抱一」は、播磨国(兵庫県)姫路藩主「酒井忠仰」の次男として江戸に生まれ育ちました。寛政9年(1797年)、江戸下向中の京都西本願寺「文如」上人の弟子として出家し、等覚院文詮暉真と称し、「抱一」と号しました。江戸時代の日本画では、幕府御用絵師の「狩野派」や宮廷画家で絵所預の「土佐派」が二大流派として有名です。この他にも、両派とは様式・画法を異にして純日本的な装飾美を絵師の解釈で構成させた「琳派」などがありました。「酒井抱一」は、「琳派」の「尾形光琳」に傾倒し、その画風を受け継ぎながらいっそうの洒脱さを加味し、四季の花鳥風月を詩情豊かに描き出す独自の作風を確立し、いわゆる「江戸琳派」の創始者となりました。「酒井抱一墓」は、昭和30年(1955年)3月28日に東京都の旧跡に指定されています。
⑵ 「九条武子歌碑」
「九条武子」は「柳原白蓮」、「江木欣々」とともに「大正三美人」と称された歌人です。「武子」は西本願寺第21代法主「大谷光尊」の次女として、明治20年(1887年)に京都に生まれました。明治42年(1909年)には公爵家出身で正金銀行に勤務する「九条良致」と結婚しました。そして「佐々木信綱」の門下になり和歌を学ぶようになりました。明治44年(1911年)に義姉「大谷籌子」裏方の早世に伴い、30歳の若さで「仏教婦人会本部長」に就任し、仏教に基づく教育との視点から、現在の「京都女子学園」・「京都女子大」の設立にも参画しました。大正12年(1923年)の関東大震災により崩壊した築地本願寺の再建に努めるとともに、社会救済活動にも奔走しました。「九条武子様歌碑」には、「おほいなるものゝちからにひかれゆくわがあしあとのおぼつかなしや」と刻まれていました。
⑶ 「土生玄碩墓」
「土生玄碩」は、シーボルトから教えを受けた門人の一人である眼科医です。「土生玄碩」は、安芸国高田郡吉田(現在の広島県安芸高田市)の眼科医・土生家に生まれ、「和田東郭」に学び、のち西洋眼科を修め、享和3年(1803年)に広島藩医となりました。さらに、文化7年(1810年)には幕府の奥医師となり、文化13年(1816年)には「法眼」を授けられました。しかし、江戸滞在中のシーボルトが治験した瞳孔を散大させる秘薬「散瞳薬」に驚嘆し、施術に有効な新薬の製法を得ようと何度も会見・懇願したといわれています。最終的には、危険を顧みずに将軍下賜の国禁品と引き換えに製薬教示を得ましたが、数年後にこのことが発覚し文政11年(1828年)のシーボルト事件に連座し、改易・禁錮の身となりました。その後、子の玄昌による第12代将軍「徳川家慶」への眼病治療の功で天保8年(1837年)に解かれたそうです。「土生玄碩墓」は、昭和30年(1955年)3月28日に東京都の旧跡に指定されています。
⑷ 「大瀛師之塔」
「大瀛師」は広島県の生まれで、浄土真宗本願寺派の学僧です。石見津和野藩の御典医「森養哲」の子として生まれ、11歳で得度し、安芸報専坊の「慧雲」に師事し宗学を学びました。 安永5年(1776年)に西本願寺の学林に入り、のち河内の「法性寺」に逗留し各地で聖教を講じました。その後、各地の寺に転住しましたが勉学のため住職を辞して広島城西に学寮を設立し、子弟を育成しました。
⑸ 「間新六之塔」
「泉岳寺」には仇討ちに関係した48人の墓があります。この内、三つの墓には遺体が無いと言われています。まず、討ち入りに参加を希望しながら参加出来ず義を全うして切腹して果てた「萱野三平」、「吉田忠左衛門」の家来である足軽の「寺坂吉右衛門」、そして築地本願寺に墓のある「間新六」の三人です。間家からは「堀部弥兵衛」についで高齢の69歳の父、「間喜兵衛」と「吉良上野介」に初鎗を付け、「大石内蔵助」の命によりその首級を上げた兄の「間十次郎」と次男の「間新六」の三人が討ち入りに参加しています。父と兄は「泉岳寺」に葬られていますが、「間新六」の墓だけは「築地本願寺」にあります。しかし、その真相はいまだ不明だそうです。ただし、本懐を遂げて「泉岳寺」へ引き揚げる途中で、携えた槍に金子を結び付け、自身の供養料として「築地本願寺」の塀の中へ投げ入れたという言い伝えが残っています。ただし、この供養塔は、当初のものが、天保5年(1834年)の火災にあって焼失したため、「羽佐間宗玄」が再建したものだそうです。
⑹ 「陸上交通殉難者追悼の碑」
「陸上交通殉難者追悼之碑」は、昭和44年(1969年)に「三笠宮」を名誉総裁とした「陸上交通殉難者追悼建設会」が交通事故の犠牲者を悼み、交通事故の絶滅を願って建てられたものです。
⑺ 「台湾物故者遺骨安置所」
「台湾物故者遺骨安置所」は、太平洋戦争敗戦の後に台湾の日本人遺骨安置所から分骨して持ち帰った遺骨などが納められた安置所です。
⑻ 「親鸞聖人の像」
浄土真宗の宗祖である「親鸞聖人の像」は南門付近にあります。「親鸞聖人」は、承安3年(1173年)に京都の日野の里で生まれました。9歳から比叡山で学ばれましたが、29歳で師である「法然聖人」と出遇い、本願念仏の道に入られ、念仏停止による越後流罪を経て、関東の地で主著『教行信証』の執筆を始めました。「煩悩に満ちた私たちは、阿弥陀如来のみ教えを仰ぐことこそ、苦しみの世を生き抜く道である」と90年の生涯をかけて説き、弘長2年(1263年)に他界しました。

施設の満足度

4.0

利用した際の同行者:
一人旅
アクセス:
4.0
東京メトロ日比谷線「築地駅」1番出口から徒歩1分50m
人混みの少なさ:
2.0
人気のスポットだけあって参拝者が絶えません。
見ごたえ:
4.0
本堂はもちろん記念碑、動物像、ショップなど見どころ沢山です。

クチコミ投稿日:2024/02/04

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