規模的には、小さな神社ですが、都会の中の安らぎの空間というような感じがしました。
- 3.5
- 旅行時期:2024/01(約2年前)
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by Lily-junjunさん(男性)
三田・田町・芝浦 クチコミ:12件
初めに「御田八幡神社」の歴史と概要を紐解いてみると、「御田八幡神社」は、和銅2年(709牟)東国鎮護の神として鎮祀され「延喜式内稗田神社」と伝えられています。「御田八幡神社」は、1300年を超える歴史と伝統ある神社です。何度かの遷座を経て、元和5年(1619年)に、僧「快尊」によって社殿の造営が開始され、寛永五年(1628)、社殿が竣工し現在地へ遷座しました。しかし、寛文8年(1668年)の大火によって社殿が全焼しましたが、寛文12年(1672年)に「細川越中守」によって社殿が再建されました。明治2年(1869年)に、延喜式記載の「稗田神社」に改称し、さらに明治30年(1897年)に現在の名称である「御田八幡神社」と改称しました。そして、昭和20年(1945年)には、東京大空襲で社殿が焼失しまいましたが、昭和29年(1954年)に、社殿を再建しました。ちなみに、「延喜式神名帳」は、延長5年(927年)にまとめられた『延喜式』の巻九・十のことで、当時「官社」に指定されていた全国の神社一覧で、延喜式に記載された神社と同一もしくはその後裔と推定される神社のことを「論社」、「比定社」などと呼びます。
では、早速「御田八幡神社」を参拝したいと思います。「鳥居」の先には急勾配の石段が控えています。ただし、右手にはやや勾配の緩やかな石段があります。参道から続く急勾配の石段の方が男坂、緩やかな石段が女坂ということになりますかね。石段を上る手前には、金網で囲まれ、保護されている一対の「狛犬」が鎮座しています。この「狛犬」の奉納された年代は不詳ですが、おそらく江戸時代のものかと思われます。狛犬は、阿吽の両方とも子持ちで、特に、阿形の子は乳飲みの姿で愛くるしい姿です。急勾配の石段を上り切ると、右手に「手水舎」、左手には「神楽殿」があります。さらに進むと、「社殿」前にずんぐりむっくりとした体型の非常に古い「狛犬」が鎮座しています。この「狛犬」は、元禄9年(1696年)に奉納されたものだそうです。その他「社殿」の付近には、大きな絵馬やこれまた古い「天水桶」もありました。現在の「社殿」は、東京大空襲にて焼失し、昭和29年(1954年)に再建されたものです。「社殿」は、木々に囲まれた緑の中にひっそりと佇み、都会の喧騒を忘れさせてくれます。「社殿」の左手には、合殿の境内社である「五光稲荷神社」と「御嶽神社」があります。興味深いのは、「五光稲荷神社」と「御嶽神社」は、合殿にもかかわらず、別々の鳥居が建立されているということです。さらに、その奥にも小さな祠がありました。鳥居の扁額は、劣化していて読みにくいのですが、「稲荷社」と書かれていました。規模的には、小さな神社ですが、都会の中の安らぎの空間というような感じがしました。
01_【「御田八幡神社」の一口メモ】
⑴ 所在地…〒108-0073 東京都港区三田3丁目7-16 電話:03-3451-4687
⑵ 受付時間:9:00~17:00 ※ 正月は7:00-18:00
⑶ 休業日…年中無休
⑷ 「御田八幡神社」の概要
①社号…八幡神社 ②御祭神…誉田別尊 ③相殿…天児屋根命 、武内宿禰命
④境内社…五光稲荷神社、御嶽神社
02_【「御田八幡神社」へのアクセス】
⑴ JR「田町駅」三田口西口から徒歩13分800m
⑵ 都営浅草線・三田線「三田駅」A3出口から徒歩10分650m
⑶ 都営浅草線・三田線「泉岳寺駅」A3出口から徒歩7分500m
《赤穂義士関連》
「赤穂浪士」一行が、「吉良上野介」の首級をとって「泉岳寺」に向かう途中にあるのが、「御田八幡神社」です。「御田八幡神社」の前で、「高田郡兵衛」が現れ、お祝いを述べたと言われています。しかし、「高田郡兵衛」は江戸急進派の一人でありながら、討ち入りから脱落したため、「赤穂浪士」一行は無視したそうです。ただし、「堀部弥兵衛」だけが討入りが成功し「吉良上野介」の首を「泉岳寺」に持っていくところだと話したそうです。その後、「高田郡兵衛」は「泉岳寺」に祝い酒を持参して来ましたが、「赤穂義士」たちから罵声を受けて追い返された、酒樽を受け取ってもらえなかったそうです。また、別の話として、「御田八幡神社」で討入り後の「赤穂義士」に酒樽を振舞ったという説もあります。いずれにせよ「御田八幡神社」も「赤穂義士」の物語の有名な一コマです。
ちなみに、「高田郡兵衛」は、高田派槍術開祖の「高田又兵衛」の孫の1人と云われ、「高田郡兵衛」も槍の達人といわれています。元禄14年3月14日に、主君「浅野内匠頭」が「江戸城本丸御殿松之大廊下」で「吉良上野介」に刃傷におよび、「浅野内匠頭」は即日切腹になりました。赤穂浅野家は断絶となった年の4月に、「高田郡兵衛」は「堀部安兵衛」、「奥田孫太夫」とともに江戸から赤穂へ赴き、「大石内蔵助」に篭城を主張しています。赤穂城明け渡し後に、「高田郡兵衛」は江戸に戻り、「堀部安兵衛」らとともに「江戸急進派」と呼ばれる派を浅野家中に作り、仇討ちを強硬に主張しました。しかし、同年12月頃に「高田郡兵衛」は突然脱盟してしまった。この脱盟については、「高田郡兵衛」の伯父にあたるといわれる旗本「内田三郎衛門元知」から養子になるようとの申し出を受けましたが、「高田郡兵衛」は「存じ寄りある」といって断わりました。しかし「内田三郎衛門元知」は「高田郡兵衛」の「存じ寄りのこととは敵討のことではないか。養子に来れば口を閉ざすが、来なければ「村越伊代守」に訴え出る。」と言い出し、ついに「高田郡兵衛」は、討ち入り計画を口外しない条件でそれを受け入れたとされています。いずれにしても江戸急進派リーダー格の一人「高田郡兵衛」の突然の脱盟は「江戸急進派」の顔に泥を塗ることになりました。討ち入り後、「赤穂義士」が英雄されるのに対して、脱盟した「高田郡兵衛」の評価は地に堕ちてしまい、「高田郡兵衛」のその後の消息は不明だそうです。
- 施設の満足度
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3.5
- 利用した際の同行者:
- 一人旅
- アクセス:
- 3.0
- 都営浅草線・三田線「泉岳寺駅」A3出口から徒歩7分500m
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 時期的に会社関係者がかなり来ていました。
クチコミ投稿日:2024/02/09
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