「浅野内匠頭終焉之地碑」が建てられたのは、四半世紀後の昭和15年(1940年)のことです。
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- 旅行時期:2024/02(約2年前)
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by Lily-junjunさん(男性)
新橋 クチコミ:4件
江戸時代には、この辺りは奥州一之関藩(現在の岩手県)「田村右京太夫」の上屋敷がありました。元禄14年(1701年)3月14日に、江戸城松之大廊下で「吉良上野介」(吉良義央)を切りつけた赤穂藩の第3代藩主「浅野長矩」(浅野内匠頭)は、この田村邸に預けられます。当日は、江戸幕府の1年間の行事の中でも最も格式高い儀式の行なわれる日に、江戸城内で殺傷に及んだのですから、幕府の権威を著しく傷つけたことにもなり、即日切腹が申し渡され、「磯田武大夫」(幕府徒目付)の介錯で切腹しています。浅野家家臣の「片岡高房」、「糟谷勘左衛門」、「建部喜六」、「田中貞四郎」、「礒貝正久」、「中村清右衛門」が田村邸へと出向いて遺体を引き取り、「泉岳寺」に埋葬したそうです。「吉良義央」を打ち取れなかった無念の思いを辞世の句「風さそう花よりもなほ我はまた春の名残をいかにとやせん」に残しました。「日比谷通り」に面して「浅野内匠頭終焉之地」の碑が建っています。「浅野内匠頭終焉之地碑」が建てられたのは、四半世紀後の昭和15年(1940年)のことで、青山の石材店「石勝」が建立しました。
ちなみに、赤穂藩の第3代藩主「浅野長矩」が江戸城松之大廊下「吉良上野介」(吉良義央)を切りつけた当日は、朝廷は答礼として朝廷と幕府との間の取次役をする公卿(武家伝奏)が江戸へ下向して、将軍に拝謁し、叡旨(天皇のお言葉)、院旨(上皇のお言葉)を伝えるのが慣例でした。この慣例は朝廷と幕府の関係を密接に保つための重要な儀式であり朝廷、幕府の双方とも最大級の饗応をもって対応していました。
01_【「浅野内匠頭終焉の地」の一口メモ】
所在地…〒105-0004 東京都港区新橋4丁目31
02_【「浅野内匠頭終焉の地」へのアクセス】
⑴ JR「新橋駅」烏森口から徒歩11分700m
⑵ 都営浅草線「新橋駅」A1出口から徒歩9分600m
- 施設の満足度
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3.0
- 利用した際の同行者:
- 一人旅
- アクセス:
- 3.0
- 都営浅草線「新橋駅」A1出口から徒歩9分600m
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 観光客はだれもいませんでした。
クチコミ投稿日:2024/02/09
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