リスボン旅行記(ブログ) 一覧に戻る
明け方から日本時間に合わせてクレジット会社に電話をかけて、5日後の引き落としまでカードの使用限度額を100万ほど上げてもらいました。これで旅行中の使用と事前に予約してあったホテルの引き落としがあっても大丈夫です。いきなり到着の翌日から2つのトラブルが続きましたがひとまず安心です。リスボン2日目の観光はベレン地区まで行って「ジェロニモス修道院/Mosteiro dos Jerónimos」と併設する「サンタ・マリア・デ・ベレン教会/Igreja de Santa Maria de Belém」、「発見のモニュメント/Padrão dos Descobrimentos」、「ベレンの塔/Torre de Belém」を見学する予定です。移動ルートとしてはホテルのある高台のバイロ・アルト地区から坂を下り、途中から「ビッカ線」のケーブルカーで海岸線のカイス・ド・ソドレ地区へ向かいます。地下鉄か路面電車に乗ってベレン地区まで移動します。移動の交通費は昨日からのリスボンカードが使えるのでスムーズです。ベルンへの路面電車はめちゃくちゃ混んでいたので先が思いやられます。「ジェロニモス修道院」の巨大な建物が見えてくると同時に入り口に並ぶ長蛇の列も目に入ってきます。ここでもオーバーツーリズムを感じます。もっともポルトガルでオーバーツーリズムを感じたのはこの日とシントラの1日だけで、それ以外の年では古き良きヨーロッパを旅している気分に浸れました。小雨の中を傘を差して1時間ほど並んで入り口ではタッチパネル式で日本人であるとかいくつかのチェックをして中に入ります。「サンタ・マリア・デ・ベレン修道院」、通称「ジェロニモス修道院」は15世紀末にマヌエル1世によって建てられ、聖ヒエロニム騎士団に引き渡されたポルトガルの修道院です。23年前にも来ていますが、その素晴らしさを妻にも見せたかった場所の1つです。中に入ってしまうと広大なスペースの回廊なので落ち着いて見学ができます。続く「サンタ・マリア・デ・ベレン教会」も一度表に出て30分ほど並ぶことになりました。以前は西側の門から入りましたが、現在は人が多いので南側に変わったようです。こちらもじっくり見学したのでこれだけで昼過ぎになってしまいました。修道院の列に並んでいるときは小雨も振っていましたが、中に入った後は天気も回復して11月とは思えない陽射しでした。

長年の夢だった妻を伴ってのポルトガル4週間の旅(5)マヌエル様式の最高傑作のジェロニモス修道院にヴァスコ・ダ・ガマのインド航路の偉業を想う。

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2024/11/05 - 2024/11/05

836位(同エリア2903件中)

旅行記グループ 2024ポルトガルの旅(1)

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kojikoji

kojikojiさん

この旅行記スケジュールを元に

明け方から日本時間に合わせてクレジット会社に電話をかけて、5日後の引き落としまでカードの使用限度額を100万ほど上げてもらいました。これで旅行中の使用と事前に予約してあったホテルの引き落としがあっても大丈夫です。いきなり到着の翌日から2つのトラブルが続きましたがひとまず安心です。リスボン2日目の観光はベレン地区まで行って「ジェロニモス修道院/Mosteiro dos Jerónimos」と併設する「サンタ・マリア・デ・ベレン教会/Igreja de Santa Maria de Belém」、「発見のモニュメント/Padrão dos Descobrimentos」、「ベレンの塔/Torre de Belém」を見学する予定です。移動ルートとしてはホテルのある高台のバイロ・アルト地区から坂を下り、途中から「ビッカ線」のケーブルカーで海岸線のカイス・ド・ソドレ地区へ向かいます。地下鉄か路面電車に乗ってベレン地区まで移動します。移動の交通費は昨日からのリスボンカードが使えるのでスムーズです。ベルンへの路面電車はめちゃくちゃ混んでいたので先が思いやられます。「ジェロニモス修道院」の巨大な建物が見えてくると同時に入り口に並ぶ長蛇の列も目に入ってきます。ここでもオーバーツーリズムを感じます。もっともポルトガルでオーバーツーリズムを感じたのはこの日とシントラの1日だけで、それ以外の年では古き良きヨーロッパを旅している気分に浸れました。小雨の中を傘を差して1時間ほど並んで入り口ではタッチパネル式で日本人であるとかいくつかのチェックをして中に入ります。「サンタ・マリア・デ・ベレン修道院」、通称「ジェロニモス修道院」は15世紀末にマヌエル1世によって建てられ、聖ヒエロニム騎士団に引き渡されたポルトガルの修道院です。23年前にも来ていますが、その素晴らしさを妻にも見せたかった場所の1つです。中に入ってしまうと広大なスペースの回廊なので落ち着いて見学ができます。続く「サンタ・マリア・デ・ベレン教会」も一度表に出て30分ほど並ぶことになりました。以前は西側の門から入りましたが、現在は人が多いので南側に変わったようです。こちらもじっくり見学したのでこれだけで昼過ぎになってしまいました。修道院の列に並んでいるときは小雨も振っていましたが、中に入った後は天気も回復して11月とは思えない陽射しでした。

旅行の満足度
4.5
観光
5.0
ホテル
4.0
グルメ
4.0
交通
4.5
同行者
カップル・夫婦(シニア)
一人あたり費用
50万円 - 100万円
交通手段
鉄道 高速・路線バス 観光バス タクシー 徒歩
航空会社
ルフトハンザドイツ航空
旅行の手配内容
個別手配
利用旅行会社
Agoda
  • リスボンでの2泊が明けました。今日はベレン地区(Belém)に向かいます。明け方からクレジットカード会社に電話をかけて無事に使えるようになりました。以前はチュニジアからマルタ島へ向かうフェリーの中でクレジットカードが使えなくなり、銀行への振り込みを頼んだ家族からはオレオレ詐欺に間違えられたこともありました。

    リスボンでの2泊が明けました。今日はベレン地区(Belém)に向かいます。明け方からクレジットカード会社に電話をかけて無事に使えるようになりました。以前はチュニジアからマルタ島へ向かうフェリーの中でクレジットカードが使えなくなり、銀行への振り込みを頼んだ家族からはオレオレ詐欺に間違えられたこともありました。

    ザ インディペンデント スイーツ&テラス ホテル

  • 今日もしっかりと朝ご飯を頂きます。何より昨日のトラブルから妻が元気になったのがよかったです。プラダのポシェットは自分の年金で買い直してもらいましょう。

    今日もしっかりと朝ご飯を頂きます。何より昨日のトラブルから妻が元気になったのがよかったです。プラダのポシェットは自分の年金で買い直してもらいましょう。

  • 午前8時過ぎに高台のバイロ・アルト地区にあるホテルの裏側から「ビッカ線/Bica - Lg. Calhariz」のケーブルカー乗り場に向かいます。ポルトガルは以外に洗濯物の脱水が甘いのでぽたぽた水が垂れています。その真下にATM.

    午前8時過ぎに高台のバイロ・アルト地区にあるホテルの裏側から「ビッカ線/Bica - Lg. Calhariz」のケーブルカー乗り場に向かいます。ポルトガルは以外に洗濯物の脱水が甘いのでぽたぽた水が垂れています。その真下にATM.

  • 観光客など歩かないルートで坂道を下っていきます。

    観光客など歩かないルートで坂道を下っていきます。

  • ローザ通りの突き当りは道路を横断して建物が繋がっています。

    ローザ通りの突き当りは道路を横断して建物が繋がっています。

  • 突き当たったロレト通りを右に曲がるとケーブルカー乗り場がありました。ここから海岸線のカイス・ド・ソドレ地区まで下ります。

    突き当たったロレト通りを右に曲がるとケーブルカー乗り場がありました。ここから海岸線のカイス・ド・ソドレ地区まで下ります。

    ビカのケーブルカー その他の交通機関

  • 最後尾から写真を撮ります。この「ビッカ線」のケーブルカーに乗るのはこれが初めてです。

    最後尾から写真を撮ります。この「ビッカ線」のケーブルカーに乗るのはこれが初めてです。

  • 取り外し式のブレーキハンドルなど日本の路面電車と同じような構造です。ハンドルは何のためにあるのでしょうか?

    取り外し式のブレーキハンドルなど日本の路面電車と同じような構造です。ハンドルは何のためにあるのでしょうか?

  • 妻は早々にベンチシートに座っています。

    妻は早々にベンチシートに座っています。

  • 狭い道路なのですれ違う部分だけ車両がぶつからない程度に広がっています。

    狭い道路なのですれ違う部分だけ車両がぶつからない程度に広がっています。

  • 驚いたのはカイス・ド・ソドレ地区の乗降場はちゃんと駅舎のようになっていることです。これで2か所のケーブルカーに乗りましたが、3つある最後の「ラヴラ線/Elevador do Lavra」に行く機会はありませんでした。

    驚いたのはカイス・ド・ソドレ地区の乗降場はちゃんと駅舎のようになっていることです。これで2か所のケーブルカーに乗りましたが、3つある最後の「ラヴラ線/Elevador do Lavra」に行く機会はありませんでした。

  • ホテルン近くの「グローリア線」は乗車すると床がフラットですが、「ビッカ線」は階段式になっています。同じようなケーブルカーでもデザインが違うのが面白いです。

    ホテルン近くの「グローリア線」は乗車すると床がフラットですが、「ビッカ線」は階段式になっています。同じようなケーブルカーでもデザインが違うのが面白いです。

  • ケーブルカー乗り場の外観は完全に駅舎のようです。ここからさらに歩いて「カイス・ソドレ/Cais Sodré」の路面電車乗り場に向かいます。ここで最新式の路面電車に乗って30分ほどで「ベルン/Belém」に着きました。

    ケーブルカー乗り場の外観は完全に駅舎のようです。ここからさらに歩いて「カイス・ソドレ/Cais Sodré」の路面電車乗り場に向かいます。ここで最新式の路面電車に乗って30分ほどで「ベルン/Belém」に着きました。

  • 「ジェロニモス修道院/Mosteiro dos Jeronimos」は午前10時30分で長蛇の列でした。チケットはリスボンカードがあるので買い求める必要はありませんが、この日の予定がずれ込んでいくのが予想されます。

    「ジェロニモス修道院/Mosteiro dos Jeronimos」は午前10時30分で長蛇の列でした。チケットはリスボンカードがあるので買い求める必要はありませんが、この日の予定がずれ込んでいくのが予想されます。

    ジェロニモス修道院 寺院・教会

  • スペインを3週間旅した時はバルセロナのガウディ建築などは全て予約しなければならない状態だったし、グラナダのアルハンブラ宮殿は2カ月前でも通常では予約が取れず、現地の旅行会社の方にフラメンコのショーなどと抱き合わせで手配してもらたこともありました。ポルトガルについてはリスボンの数カ所以外はそこまでの予約は無くても大丈夫でした。

    スペインを3週間旅した時はバルセロナのガウディ建築などは全て予約しなければならない状態だったし、グラナダのアルハンブラ宮殿は2カ月前でも通常では予約が取れず、現地の旅行会社の方にフラメンコのショーなどと抱き合わせで手配してもらたこともありました。ポルトガルについてはリスボンの数カ所以外はそこまでの予約は無くても大丈夫でした。

  • リスボンカードの72時間を購入してフルで使いましたが、チケットを購入する手間は省けましたが4日間で数十ユーロほど安くなっただけでした。

    リスボンカードの72時間を購入してフルで使いましたが、チケットを購入する手間は省けましたが4日間で数十ユーロほど安くなっただけでした。

  • 右手にある「サンタ・マリア・デ・ベレーン教会/Igreja de Santa Maria de Belém」はまだそれほどの列が出来ていませんが、先に「ジェロニモス修道院/Mosteiro dos Jerónimos」の見学を済ませないと列はどんどん長くなっています。

    右手にある「サンタ・マリア・デ・ベレーン教会/Igreja de Santa Maria de Belém」はまだそれほどの列が出来ていませんが、先に「ジェロニモス修道院/Mosteiro dos Jerónimos」の見学を済ませないと列はどんどん長くなっています。

  • 「ジェロニモス修道院」は15世紀末にマヌエル1世によって建てられ、聖ヒエロニムス騎士団に引き渡されたポルトガルの修道院です。ジェロニモスはヒエロニムスのポルトガル読みです。

    「ジェロニモス修道院」は15世紀末にマヌエル1世によって建てられ、聖ヒエロニムス騎士団に引き渡されたポルトガルの修道院です。ジェロニモスはヒエロニムスのポルトガル読みです。

  • 14世紀のスペインでは聖ヒエロニムの生涯と聖性の模範に動機づけられた複数の男性グループが生まれ、よりキリスト教的な完成度の高い生活を追求することを決意しました。この改革への願いから非常に混乱した時代に聖ヒエロニム会が誕生し、短期間でイベリア半島全域で聖ヒエロニムの模範を模倣しようとする隠遁生活を受け入れる人々が現れました。

    14世紀のスペインでは聖ヒエロニムの生涯と聖性の模範に動機づけられた複数の男性グループが生まれ、よりキリスト教的な完成度の高い生活を追求することを決意しました。この改革への願いから非常に混乱した時代に聖ヒエロニム会が誕生し、短期間でイベリア半島全域で聖ヒエロニムの模範を模倣しようとする隠遁生活を受け入れる人々が現れました。

  • 修道士たちは王の魂のために祈ることや、この地を離れて他の世界を発見する航海者や航海士たちに霊的な支援を提供する役割を担いました。この宗教共同体は4世紀にわたりこの場所に住んでいましたが1833年に解散され、修道院は国家の資産の一部となりました。

    修道士たちは王の魂のために祈ることや、この地を離れて他の世界を発見する航海者や航海士たちに霊的な支援を提供する役割を担いました。この宗教共同体は4世紀にわたりこの場所に住んでいましたが1833年に解散され、修道院は国家の資産の一部となりました。

  • 「書斎の聖ヒエロニムス」ホセ・アベラール・レベロ<br />ジョゼ・デ・アベラル・レベロは17世紀中頃のポルトガルの画家で、ポルトガル王ジョアン4世の王室画家でした。ヒエロニムスは修道服を着て書き物をしています。足元には棘を抜いてやったライオンが座り、書棚の本は彼が聖書のウルガタ訳の翻訳者であることを暗示しています。背後には彼が枢機卿という地位を暗示する帽子が掛かっています。この絵画の構図はデューラーが1514年に製作した版画に由来します。

    「書斎の聖ヒエロニムス」ホセ・アベラール・レベロ
    ジョゼ・デ・アベラル・レベロは17世紀中頃のポルトガルの画家で、ポルトガル王ジョアン4世の王室画家でした。ヒエロニムスは修道服を着て書き物をしています。足元には棘を抜いてやったライオンが座り、書棚の本は彼が聖書のウルガタ訳の翻訳者であることを暗示しています。背後には彼が枢機卿という地位を暗示する帽子が掛かっています。この絵画の構図はデューラーが1514年に製作した版画に由来します。

  • 階段を上がった正面にも聖ヒエロニムスを描いた絵画が飾られていますが、とくに有名なものではないようです。

    階段を上がった正面にも聖ヒエロニムスを描いた絵画が飾られていますが、とくに有名なものではないようです。

  • 聖ヒエロニムスを絵描いた加賀の特徴は、野や洞窟の中に1人でいる、赤い枢機卿帽子やマント、頭蓋骨、本、十字架、悔悛の象徴を表す石、足元か傍らにライオン、祈り、断食、苦行の姿があげられます。ここでは右手に持った石で胸を叩き、懺悔している姿が強調されています。

    聖ヒエロニムスを絵描いた加賀の特徴は、野や洞窟の中に1人でいる、赤い枢機卿帽子やマント、頭蓋骨、本、十字架、悔悛の象徴を表す石、足元か傍らにライオン、祈り、断食、苦行の姿があげられます。ここでは右手に持った石で胸を叩き、懺悔している姿が強調されています。

  • 天井の装飾はトロンプ・ルイユと呼ばれる騙し絵になっています。階段を上がってくるときには豪華に見えますが、上がってしまうと平面な絵画なのだと分かってしまいます。中央の紋章は左半分にポルトガルの紋章、右半分は聖ヒエロニムスのシンボルのライオン、上部には枢機卿の帽子ではなく司教冠にたくさんの房が下がっています。

    天井の装飾はトロンプ・ルイユと呼ばれる騙し絵になっています。階段を上がってくるときには豪華に見えますが、上がってしまうと平面な絵画なのだと分かってしまいます。中央の紋章は左半分にポルトガルの紋章、右半分は聖ヒエロニムスのシンボルのライオン、上部には枢機卿の帽子ではなく司教冠にたくさんの房が下がっています。

  • 天井と同じ紋章のレリーフが壁には掛けられています。この紋章も国章とライオンを組み合わせた聖ヒエロニムス会を表すものです。デザインからもバロック期に製作されたのではないかと思います。

    天井と同じ紋章のレリーフが壁には掛けられています。この紋章も国章とライオンを組み合わせた聖ヒエロニムス会を表すものです。デザインからもバロック期に製作されたのではないかと思います。

  • この修道院が出来るに至る大航海時代のポルトガルについて時系列に確認していくと、アフォンソ5世の時代から始まったと思われます。アフォンソ5世は探検協定という仕組みを作り、探検を行う商人に探検地での貿易独占権を与えます。

    この修道院が出来るに至る大航海時代のポルトガルについて時系列に確認していくと、アフォンソ5世の時代から始まったと思われます。アフォンソ5世は探検協定という仕組みを作り、探検を行う商人に探検地での貿易独占権を与えます。

  • その見返りに利益の一部と譲歩を還元させました。アフリカとの取引には収益性が高く、その特権を王が独占する取引、王が開発の許可を与える取引、似里組員が自分のために行う取引に分け、外国人の取引は禁止しました。

    その見返りに利益の一部と譲歩を還元させました。アフリカとの取引には収益性が高く、その特権を王が独占する取引、王が開発の許可を与える取引、似里組員が自分のために行う取引に分け、外国人の取引は禁止しました。

  • 無欠王と呼ばれた息子のジョアン2世に時代にはギアナを越えてさらに南へ加ラベル戦を派遣し続けます。1483年にはディオゴ・カンにコンガ河の入り江を探検させます。カンはその辺りを統治する王から大陸内のの王からもらった贈り物に十字の形があったと聞かされます。これを聞いたジョアン2世は「プレスター・ジョンの国」の探索に取りつかれます。

    無欠王と呼ばれた息子のジョアン2世に時代にはギアナを越えてさらに南へ加ラベル戦を派遣し続けます。1483年にはディオゴ・カンにコンガ河の入り江を探検させます。カンはその辺りを統治する王から大陸内のの王からもらった贈り物に十字の形があったと聞かされます。これを聞いたジョアン2世は「プレスター・ジョンの国」の探索に取りつかれます。

  • 「プレスター・ジョン」とはアジアあるいはアフリカに存在すると考えられていた、伝説上のキリスト教国の国王で、プレスター・ジョン伝説ではネストリウス派キリスト教の司祭が東方に王国を建国し、イスラーム教徒に勝利を収めたことが述べられています。

    「プレスター・ジョン」とはアジアあるいはアフリカに存在すると考えられていた、伝説上のキリスト教国の国王で、プレスター・ジョン伝説ではネストリウス派キリスト教の司祭が東方に王国を建国し、イスラーム教徒に勝利を収めたことが述べられています。

  • この時代に新たな地域の探検が進むと、発見の日付と各県者の名前を彫り込んだ石の標識「パドラン」を用意させて建てさせました。ディオゴ・カン2000キロを超える宦官を探検し、最南端はクロス岬まで達しました。

    この時代に新たな地域の探検が進むと、発見の日付と各県者の名前を彫り込んだ石の標識「パドラン」を用意させて建てさせました。ディオゴ・カン2000キロを超える宦官を探検し、最南端はクロス岬まで達しました。

  • 1487年にジョアン2世は2組の使節団を陸と海のルートを使って派遣します。その頃の世界地図はエジプトのプトレマイオス朝下のアレクサンドリアで作られた地理書を基にしたものが使われていました。アフリカ南部は無限に広がる大陸テラ・インコニータ、未知の土地と考えられていました。

    1487年にジョアン2世は2組の使節団を陸と海のルートを使って派遣します。その頃の世界地図はエジプトのプトレマイオス朝下のアレクサンドリアで作られた地理書を基にしたものが使われていました。アフリカ南部は無限に広がる大陸テラ・インコニータ、未知の土地と考えられていました。

  • 海のルートを進んだバルトロメウ・ディアスは2隻のカラベル船と補給船1隻でリスボンを発ち、西南アフリカ海岸を南下していくうちに暴風雨に遭います。南東方向に進めず南に12日間流され、真東に進路を変えますが陸地は見えず、北に進むと岬を発見します。

    海のルートを進んだバルトロメウ・ディアスは2隻のカラベル船と補給船1隻でリスボンを発ち、西南アフリカ海岸を南下していくうちに暴風雨に遭います。南東方向に進めず南に12日間流され、真東に進路を変えますが陸地は見えず、北に進むと岬を発見します。

  • ディアスはこれを「嵐の岬」と名付けてパラドンを建てます。失意のうちに戻ったディアスに王は華々しい歓迎で迎えます。ジョアン2世はインド洋へ向かうアフリカルートがあると確信し、岬の名前を「喜望峰」に変えました。

    ディアスはこれを「嵐の岬」と名付けてパラドンを建てます。失意のうちに戻ったディアスに王は華々しい歓迎で迎えます。ジョアン2世はインド洋へ向かうアフリカルートがあると確信し、岬の名前を「喜望峰」に変えました。

  • 陸路を進んだ2人のうちのペロ・ダ・コヴィリアンはインドのゴアからカリカットへ至り、スパイス市場と輸送路について克明なメモを作りました。その中でインドではスパイスの値段が海路の半分以下であると書き残しています。

    陸路を進んだ2人のうちのペロ・ダ・コヴィリアンはインドのゴアからカリカットへ至り、スパイス市場と輸送路について克明なメモを作りました。その中でインドではスパイスの値段が海路の半分以下であると書き残しています。

  • 出発から2年でホルムズ海峡を抜けて海路に戻ったコヴィリアンはジョアン2世が派遣したユダヤ人密使と会合をします。ジョアン2世は「プレスター・ジョンの国」と思われるエチオピアに行き、同盟を結ぶように指令を出します。

    出発から2年でホルムズ海峡を抜けて海路に戻ったコヴィリアンはジョアン2世が派遣したユダヤ人密使と会合をします。ジョアン2世は「プレスター・ジョンの国」と思われるエチオピアに行き、同盟を結ぶように指令を出します。

  • コヴィリアンはジョアン2世に克明な報告書を送り、ギニアからマダガスカルの海岸を通り、インド洋へ偏西風に乗って一気に横断するルートの開拓を提案します。コヴィリアンはその後エチオピア王に謁見し、死ぬまで使えてポルトガルに戻ることはありませんでした。

    コヴィリアンはジョアン2世に克明な報告書を送り、ギニアからマダガスカルの海岸を通り、インド洋へ偏西風に乗って一気に横断するルートの開拓を提案します。コヴィリアンはその後エチオピア王に謁見し、死ぬまで使えてポルトガルに戻ることはありませんでした。

  • この頃ジョアン2世の元には評判を聞いて航海への許可と援助を求めて多くの人がやってきました。その中にはジェノバ人のコロンブス兄弟もいました。彼らの提案は当時の世界地図を分析し、世界地誌を精読し、独自の見解を持っていました。

    この頃ジョアン2世の元には評判を聞いて航海への許可と援助を求めて多くの人がやってきました。その中にはジェノバ人のコロンブス兄弟もいました。彼らの提案は当時の世界地図を分析し、世界地誌を精読し、独自の見解を持っていました。

  • 叔父のエンリケと同様に地図と天文学に没入していたアフォンソ5世は部下に軽度の計算を研究させていました。当時王と文通していたフィレンツェの天文学者で地図製作者のパオロ・トスカネッリからスパイスの国へ行く最短のルートの提案を受けます。

    叔父のエンリケと同様に地図と天文学に没入していたアフォンソ5世は部下に軽度の計算を研究させていました。当時王と文通していたフィレンツェの天文学者で地図製作者のパオロ・トスカネッリからスパイスの国へ行く最短のルートの提案を受けます。

  • ジョアン2世はコロンブスの売り込みに躊躇した理由は探検に必要な資金の全てを王室に依存するという計画だったのと、ディアスが「喜望峰」を発見して帰還したことでした。

    ジョアン2世はコロンブスの売り込みに躊躇した理由は探検に必要な資金の全てを王室に依存するという計画だったのと、ディアスが「喜望峰」を発見して帰還したことでした。

  • コロンブス兄弟はスペインのセビリアに向かい、イザベラ女王を8年間も説得を続け、1492年にようやく女王の承認を受けます。カリブ海の島々を発見した彼はそこをインド諸島の一部と信じて多くの情報を持ち帰りました。

    コロンブス兄弟はスペインのセビリアに向かい、イザベラ女王を8年間も説得を続け、1492年にようやく女王の承認を受けます。カリブ海の島々を発見した彼はそこをインド諸島の一部と信じて多くの情報を持ち帰りました。

  • この湾曲された発見の土地がどこに帰属するかが問題となり、当時のローマ教皇のアレキサンドル6世ボルジアはイザベル女王から書簡を受け取り、アゾーレス諸島とヴェルデ岬諸島の西100レグアの経線から西をスペインの物にするという大勅令を出してしまいます。

    この湾曲された発見の土地がどこに帰属するかが問題となり、当時のローマ教皇のアレキサンドル6世ボルジアはイザベル女王から書簡を受け取り、アゾーレス諸島とヴェルデ岬諸島の西100レグアの経線から西をスペインの物にするという大勅令を出してしまいます。

  • ポルトガルのジョアン2世にとってこれは到底受け入れることのできないもので、叩きも辞さない覚悟の講義がなされ、1494年に教皇仲裁の下にポルトガルとスペインの間に世にもな画会「トルデシーリャス条約」が結ばれます。

    ポルトガルのジョアン2世にとってこれは到底受け入れることのできないもので、叩きも辞さない覚悟の講義がなされ、1494年に教皇仲裁の下にポルトガルとスペインの間に世にもな画会「トルデシーリャス条約」が結ばれます。

  • この条約により西経48度から西に発見される土地をスペイン、東に発見される土地をポルトガルが排他的独裁権を持つことになります。この条約の存在は後のアメリカ大陸の運命を決め、その後に発見されるブラジルがポルトガルの領土となる契機になります。

    この条約により西経48度から西に発見される土地をスペイン、東に発見される土地をポルトガルが排他的独裁権を持つことになります。この条約の存在は後のアメリカ大陸の運命を決め、その後に発見されるブラジルがポルトガルの領土となる契機になります。

  • ジョアン2世の跡を継いだマヌエル1世は傍流の6男として生まれながら、偶然が重なって平和裏に王位につき、さらにその治世においてインド航路の開設等の吉事に恵まれてポルトガル王国の黄金期を築いたことから、幸運王と称されます。先王ジョアン2世の推し進めた中央集権化政策を継承し、海外交易による莫大な利益を背景にポルトガルの絶対王政を確立しました。

    ジョアン2世の跡を継いだマヌエル1世は傍流の6男として生まれながら、偶然が重なって平和裏に王位につき、さらにその治世においてインド航路の開設等の吉事に恵まれてポルトガル王国の黄金期を築いたことから、幸運王と称されます。先王ジョアン2世の推し進めた中央集権化政策を継承し、海外交易による莫大な利益を背景にポルトガルの絶対王政を確立しました。

  • マヌエル1世は即位した年にキリスト騎士団長となり、主に海外にある騎士団領を王領に併合して王室財産を拡大しました。騎士団長の称号は1516年にレオ10世によって正式に公認され、教皇に対してはレオ10世が即位した1513年に祝賀の使節を送り関係を強化しました。

    マヌエル1世は即位した年にキリスト騎士団長となり、主に海外にある騎士団領を王領に併合して王室財産を拡大しました。騎士団長の称号は1516年にレオ10世によって正式に公認され、教皇に対してはレオ10世が即位した1513年に祝賀の使節を送り関係を強化しました。

  • マヌエル1世はポルトガルの探検隊や商業の発展を積極的に支援し、マヌエルの命令により1497年7月にリスボンを出港したヴァスコ・ダ・ガマは1498年5月にインド のカリカットに到達しました。これによりポルトガルから「喜望峰」を経てインドへ至る海上ルートが発見されました。

    マヌエル1世はポルトガルの探検隊や商業の発展を積極的に支援し、マヌエルの命令により1497年7月にリスボンを出港したヴァスコ・ダ・ガマは1498年5月にインド のカリカットに到達しました。これによりポルトガルから「喜望峰」を経てインドへ至る海上ルートが発見されました。

  • 1500年にはマヌエルによってインドに派遣されたペドロ・アルヴァレス・カブラルがブラジルに漂着した後に東航してインドに着きました。トルデシリャス条約の締結時には予想されていなかった位置に存在していたブラジルは条約の取り決めに基づきポルトガル領となりました。

    1500年にはマヌエルによってインドに派遣されたペドロ・アルヴァレス・カブラルがブラジルに漂着した後に東航してインドに着きました。トルデシリャス条約の締結時には予想されていなかった位置に存在していたブラジルは条約の取り決めに基づきポルトガル領となりました。

  • 一方でインド洋では古くからアラブのイスラーム商人が活発に交易をしていましたが、彼らをここから締め出そうと考えます。この交易路をポルトガル商人に独占させることを目的として1505年にフランシスコ・デ・アルメイダを初代インド総督に任命します。

    一方でインド洋では古くからアラブのイスラーム商人が活発に交易をしていましたが、彼らをここから締め出そうと考えます。この交易路をポルトガル商人に独占させることを目的として1505年にフランシスコ・デ・アルメイダを初代インド総督に任命します。

  • 2代目の総督にアフォンソ・デ・アルブケルケを任命し、彼は1510年にゴアを占領してインド領の首府としました。続いて1511年にマラッカを占領し、そこを東南アジアでの中心拠点として、周辺の島々から集めた香辛料などをゴアに送る体制を作ります。さらに1517年に、中国の広東に入港して、この2人の総督時代にインド洋とペルシア湾での海上ルートはポルトガルの独占となり、アジアとポルトガルを直接結びつける海上交易路が完成しました。

    2代目の総督にアフォンソ・デ・アルブケルケを任命し、彼は1510年にゴアを占領してインド領の首府としました。続いて1511年にマラッカを占領し、そこを東南アジアでの中心拠点として、周辺の島々から集めた香辛料などをゴアに送る体制を作ります。さらに1517年に、中国の広東に入港して、この2人の総督時代にインド洋とペルシア湾での海上ルートはポルトガルの独占となり、アジアとポルトガルを直接結びつける海上交易路が完成しました。

  • また大西洋のマデイラ島での砂糖生産を王室の直轄とし、生産量を大幅に拡大させてヨーロッパ各地へ輸出可能とします。ポルトガルはアジアからの香辛料、アフリカからの金、そしてマデイラ島からの砂糖によって莫大な利益を得ていきます。

    また大西洋のマデイラ島での砂糖生産を王室の直轄とし、生産量を大幅に拡大させてヨーロッパ各地へ輸出可能とします。ポルトガルはアジアからの香辛料、アフリカからの金、そしてマデイラ島からの砂糖によって莫大な利益を得ていきます。

  • 海外交易によって豊かになったマヌエル1世は宮廷に芸術家や科学者を多く招き、パトロンとして彼らの活動を後援しました。そしてここ「ジェロニモス修道院」や「ベレンの塔」、トマールの「キリスト教修道院」の回廊の増築に代表される華美な建造物を新築または増改築しました。

    海外交易によって豊かになったマヌエル1世は宮廷に芸術家や科学者を多く招き、パトロンとして彼らの活動を後援しました。そしてここ「ジェロニモス修道院」や「ベレンの塔」、トマールの「キリスト教修道院」の回廊の増築に代表される華美な建造物を新築または増改築しました。

  • これらにはアフリカやアジアの珍しい動物や珊瑚やロープなど海に関するものをモチーフとした装飾が過剰なほどに施されました。このポルトガル独自の建築様式は後の19世紀になって「マヌエル様式」と呼ばれるようになりました。

    これらにはアフリカやアジアの珍しい動物や珊瑚やロープなど海に関するものをモチーフとした装飾が過剰なほどに施されました。このポルトガル独自の建築様式は後の19世紀になって「マヌエル様式」と呼ばれるようになりました。

  • ポルトガルの小説家であり歴史家であったアレクサンドル・エルクラーノの石棺が納められていました。「ドン・セバスチャン年代記」「ジョアン3世年代記」という2つの古い年代記と「王政の始まりからアフォンソ3世治世の終わりまでのポルトガル史」が彼の業績のようです。

    ポルトガルの小説家であり歴史家であったアレクサンドル・エルクラーノの石棺が納められていました。「ドン・セバスチャン年代記」「ジョアン3世年代記」という2つの古い年代記と「王政の始まりからアフォンソ3世治世の終わりまでのポルトガル史」が彼の業績のようです。

  • エルクラーノの詩の一部が彼の墓に刻まれていました。「眠り?眠るのは冷たい死体だけだ。死体は何も感じない。魂は飛び立ち、全能なる神の足元に身を隠す。」

    エルクラーノの詩の一部が彼の墓に刻まれていました。「眠り?眠るのは冷たい死体だけだ。死体は何も感じない。魂は飛び立ち、全能なる神の足元に身を隠す。」

  • マヌエル様式は建物の空間を規定する建築様式ではなく、後期ゴシック建築に付随する装飾手法の一種とも位置付けられます。マヌエル様式を構成する要素として螺旋状の柱、多中心のアーチ、八角形の塔、円錐状の尖塔などが挙げられます。

    マヌエル様式は建物の空間を規定する建築様式ではなく、後期ゴシック建築に付随する装飾手法の一種とも位置付けられます。マヌエル様式を構成する要素として螺旋状の柱、多中心のアーチ、八角形の塔、円錐状の尖塔などが挙げられます。

  • マヌエル様式を代表する建築家にはフランス出身と考えられている建築家ボワタック、ポルトガル出身のジョアン・デ・アルタが挙げられています。ボワタックはマヌエル様式を確立した人物とされ、この「ジェロニモス修道院」と「バターリャ修道院」の増築を手がけています。

    マヌエル様式を代表する建築家にはフランス出身と考えられている建築家ボワタック、ポルトガル出身のジョアン・デ・アルタが挙げられています。ボワタックはマヌエル様式を確立した人物とされ、この「ジェロニモス修道院」と「バターリャ修道院」の増築を手がけています。

  • スペイン出身の建築家ジョアン・デ・カスティーリョは「トマールの修道院」の増築の設計を担当し、彼が手がけた部分には母国スペインのプラテレスコ様式の影響が見られます。リスボンからシントラとケルースの旅を終えた後はトマールへ移動して、その後は北上するルートで旅を続けます。

    スペイン出身の建築家ジョアン・デ・カスティーリョは「トマールの修道院」の増築の設計を担当し、彼が手がけた部分には母国スペインのプラテレスコ様式の影響が見られます。リスボンからシントラとケルースの旅を終えた後はトマールへ移動して、その後は北上するルートで旅を続けます。

  • 水の張られていない水盤の上には聖ヒエロニムスのアトリビュートでもあるライオンが据えられています。

    水の張られていない水盤の上には聖ヒエロニムスのアトリビュートでもあるライオンが据えられています。

  • 回廊にはレリーフが組み込まれていますが、その場面を読み解いていくのも楽しいです。どれもキリストの生涯を描いたもののようです。こちらは受難伝の中の鞭打ちの場面です。

    回廊にはレリーフが組み込まれていますが、その場面を読み解いていくのも楽しいです。どれもキリストの生涯を描いたもののようです。こちらは受難伝の中の鞭打ちの場面です。

  • こちらにはピエタで、死んで十字架から降ろされたキリストを抱く母マリアの姿を描いたものです。

    こちらにはピエタで、死んで十字架から降ろされたキリストを抱く母マリアの姿を描いたものです。

  • 扇方に広がる天井ヴォールドの美しい食堂も見学します。壁面には「東方三博士の礼拝」の場面の絵画が壁に組み込まれています。

    扇方に広がる天井ヴォールドの美しい食堂も見学します。壁面には「東方三博士の礼拝」の場面の絵画が壁に組み込まれています。

  • 2段のロープで壁面の空間を引き締め、組み込まれた暖炉のフレームもロープのデザインになっています。1780年かエアの修復により美しいタイルが組み込まれています。

    2段のロープで壁面の空間を引き締め、組み込まれた暖炉のフレームもロープのデザインになっています。1780年かエアの修復により美しいタイルが組み込まれています。

  • アズレージョ・タイルには「五千人の給食」の場面が描かれています。イエスは5つのパンと2匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、2匹の魚も皆に分配させました。すべての人が食べて満腹になり、パンの屑と魚の残りを集めると12の籠にいっぱいになり、パンを食べた人は男が5000人であったという奇跡が描かれています。

    アズレージョ・タイルには「五千人の給食」の場面が描かれています。イエスは5つのパンと2匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、2匹の魚も皆に分配させました。すべての人が食べて満腹になり、パンの屑と魚の残りを集めると12の籠にいっぱいになり、パンを食べた人は男が5000人であったという奇跡が描かれています。

  • 1時間並んだ後の見学で、妻はそろそろ疲れてしまったようです。ただ、今日はまだたくさん行くところがあるのでこの先が心配になります。

    1時間並んだ後の見学で、妻はそろそろ疲れてしまったようです。ただ、今日はまだたくさん行くところがあるのでこの先が心配になります。

  • 最後に美しい回廊を歩いて階航海時代の歴史を思い返します。今回も「旅名人ブックス」が非常に参考になりました。インターネットの時代になりましたが、この本に優ガイドブックは無いと思います。

    最後に美しい回廊を歩いて階航海時代の歴史を思い返します。今回も「旅名人ブックス」が非常に参考になりました。インターネットの時代になりましたが、この本に優ガイドブックは無いと思います。

  • 長時間並ぶことになりましたが、内部に入ってしまうと広大な空間に見学者の数が少ないのでゆっくり見学することが出来ました。

    長時間並ぶことになりましたが、内部に入ってしまうと広大な空間に見学者の数が少ないのでゆっくり見学することが出来ました。

  • 続いて隣接する「サンタ・マリア・デ・ベレーン教会/Igreja de Santa Maria de Belém」の見学に移ります。23年前はこの西に門から出入りしましたが、見学者の数が多いので変わったのではないかと思います。美しい門を全景で納めるには入場する人の列があるので撮ることが出来ません。

    続いて隣接する「サンタ・マリア・デ・ベレーン教会/Igreja de Santa Maria de Belém」の見学に移ります。23年前はこの西に門から出入りしましたが、見学者の数が多いので変わったのではないかと思います。美しい門を全景で納めるには入場する人の列があるので撮ることが出来ません。

  • ポルトガル王国のエスカッシャン(Escutcheon)を持つ2人の天使の上は「イエスの降誕」、左には大天使ガブリエルが聖母マリアのもとを訪れ、神の子イエスを身ごもることを告げた「受胎告知」、右手にはイエスがベツレヘムで生まれた後、東の方から占星術の学者たちが星に導かれてやって来る「東方三博士の礼拝」の場面です。

    ポルトガル王国のエスカッシャン(Escutcheon)を持つ2人の天使の上は「イエスの降誕」、左には大天使ガブリエルが聖母マリアのもとを訪れ、神の子イエスを身ごもることを告げた「受胎告知」、右手にはイエスがベツレヘムで生まれた後、東の方から占星術の学者たちが星に導かれてやって来る「東方三博士の礼拝」の場面です。

  • 左手で跪いているのはマヌエル1世で、背後にいるのは彼の守護聖人でもある聖ヒエロニムスです。そしてその周りには十二使徒の姿もあります。

    左手で跪いているのはマヌエル1世で、背後にいるのは彼の守護聖人でもある聖ヒエロニムスです。そしてその周りには十二使徒の姿もあります。

  • 右手で跪くのはマヌエル1世の2番目の妻であるマリア・デ・アラゴン王妃で、後ろに立つのは彼女の守護聖人である洗礼者ヨハネです。こちらにも十二室の姿が見えます。

    右手で跪くのはマヌエル1世の2番目の妻であるマリア・デ・アラゴン王妃で、後ろに立つのは彼女の守護聖人である洗礼者ヨハネです。こちらにも十二室の姿が見えます。

  • 表に出て南側の入り口に回り込みますが、こちらも長い列が出来ていてさらに30分並ぶことになります。マヌエル様式の荘厳な門構えに日本からやってきた天正少年使節団も圧倒されたと言われます。

    表に出て南側の入り口に回り込みますが、こちらも長い列が出来ていてさらに30分並ぶことになります。マヌエル様式の荘厳な門構えに日本からやってきた天正少年使節団も圧倒されたと言われます。

    サンタ マリア デ ベレン教会 寺院・教会

  • ジョアン・デ・カスティーリョとその将校たちによって1517年と1518年にかけて建てられた南門はポルトガル後期ゴシック建築の中でも最も豊かな作品の1つです。その構造は高さ32メートル幅12メートル以上に達し、真の「キリスト教への扉」として凱旋的な特徴を持っています。

    ジョアン・デ・カスティーリョとその将校たちによって1517年と1518年にかけて建てられた南門はポルトガル後期ゴシック建築の中でも最も豊かな作品の1つです。その構造は高さ32メートル幅12メートル以上に達し、真の「キリスト教への扉」として凱旋的な特徴を持っています。

  • ポータルの上部には聖母子像が置かれてあります。この教会の名前は「サンタ・マリア・デ・ベレーン教会」で聖母マリアに捧げられています。

    ポータルの上部には聖母子像が置かれてあります。この教会の名前は「サンタ・マリア・デ・ベレーン教会」で聖母マリアに捧げられています。

  • 2つの扉の上部のティンパヌムには聖ヒエロニムスの姿も見えます。右側は磔刑のキリストの姿を見上げる荒野で懺悔する姿のようです。その足元にはライオンの顔も見えます。

    2つの扉の上部のティンパヌムには聖ヒエロニムスの姿も見えます。右側は磔刑のキリストの姿を見上げる荒野で懺悔する姿のようです。その足元にはライオンの顔も見えます。

  • 反対側の聖ヒエロニムスは法衣を着た姿で描かれています。この違いが何を表すのかまでは分かりませんでした。

    反対側の聖ヒエロニムスは法衣を着た姿で描かれています。この違いが何を表すのかまでは分かりませんでした。

  • 2つの扉の間にはエンリケ航海王子の姿もあります。エンリケはジョアン1世の3男で、その生涯において探検事業家、パトロンとして航海者たちを援助するとともに指導し、それまで未知の領域だったアフリカ西岸を踏破させるなどしたことで大航海時代の幕を開いた人物です。

    2つの扉の間にはエンリケ航海王子の姿もあります。エンリケはジョアン1世の3男で、その生涯において探検事業家、パトロンとして航海者たちを援助するとともに指導し、それまで未知の領域だったアフリカ西岸を踏破させるなどしたことで大航海時代の幕を開いた人物です。

  • エンリケはテンプル騎士団の後継であるキリスト騎士団の指導者となり、その死に到るまでその地位にあると共に莫大な資産を保有する騎士団による援助によって、自らの探検事業の強力な資金源としました。

    エンリケはテンプル騎士団の後継であるキリスト騎士団の指導者となり、その死に到るまでその地位にあると共に莫大な資産を保有する騎士団による援助によって、自らの探検事業の強力な資金源としました。

  • 教会はラテン十字形の平面で同じ高さの3つの身廊で構成され、6本の柱で支えられた広範な多中心ヴォールトで覆われています。十字架のヴォールトは中間の支柱なしで幅30メートルをカバーしており、「最小限の支持で最大スパンを覆うという中世後期の野望の最も完全な実現」を表しているといえます。

    教会はラテン十字形の平面で同じ高さの3つの身廊で構成され、6本の柱で支えられた広範な多中心ヴォールトで覆われています。十字架のヴォールトは中間の支柱なしで幅30メートルをカバーしており、「最小限の支持で最大スパンを覆うという中世後期の野望の最も完全な実現」を表しているといえます。

  • この内陣はオーストリア王妃エカチェリーナによって王室の最終安息の地として命じられました。これはジェロニモ・デ・ルアン(ジャン・ド・ルーアン)による古典様式の作品です。王室の墓は大理石の象の上に乗せられ、イオニア式の柱の間に位置し、その上にはコリント式の柱が載っています。

    この内陣はオーストリア王妃エカチェリーナによって王室の最終安息の地として命じられました。これはジェロニモ・デ・ルアン(ジャン・ド・ルーアン)による古典様式の作品です。王室の墓は大理石の象の上に乗せられ、イオニア式の柱の間に位置し、その上にはコリント式の柱が載っています。

  • 「悲しみの聖母」は聖母マリアの人生における悲しみに関連した称号です。聖母マリアの7つの悲しみとは聖母マリアの人生において起こった出来事で、シメオンの予言、エジプトへの逃避、幼子イエスをエルサレム神殿で見失う、十字架の道行きでのイエスとの出会い、ゴルゴタの丘でのイエスの磔刑、イエスが脇腹を槍で突かれ十字架から降ろされる、アリマタヤのヨセフによるイエスの埋葬があげられます。

    「悲しみの聖母」は聖母マリアの人生における悲しみに関連した称号です。聖母マリアの7つの悲しみとは聖母マリアの人生において起こった出来事で、シメオンの予言、エジプトへの逃避、幼子イエスをエルサレム神殿で見失う、十字架の道行きでのイエスとの出会い、ゴルゴタの丘でのイエスの磔刑、イエスが脇腹を槍で突かれ十字架から降ろされる、アリマタヤのヨセフによるイエスの埋葬があげられます。

  • 主礼拝堂にはカトリック教会などで祭壇上にある聖体を入れておく聖櫃(tabernacle)が置かれてあります。

    主礼拝堂にはカトリック教会などで祭壇上にある聖体を入れておく聖櫃(tabernacle)が置かれてあります。

  • この礼拝堂では聖ヒエロニムスの像が石を胸に当てる懺悔の姿で表されています。

    この礼拝堂では聖ヒエロニムスの像が石を胸に当てる懺悔の姿で表されています。

  • イエスを抱く聖母マリアとその横に立つのは養父ヨセフです。ベレンとはベツレヘムのことでイエスが生まれた地ということで表されているのでしょうか。

    イエスを抱く聖母マリアとその横に立つのは養父ヨセフです。ベレンとはベツレヘムのことでイエスが生まれた地ということで表されているのでしょうか。

  • 23年前に感動した列柱から伸びる天井のボールドの美しさに再開できました。「風の谷のナウシカ」の腐海の底にいるような気がしてきます。

    23年前に感動した列柱から伸びる天井のボールドの美しさに再開できました。「風の谷のナウシカ」の腐海の底にいるような気がしてきます。

  • 南門を内側から見ると表の装飾の存在を感じないシンプルな造りになっています。

    南門を内側から見ると表の装飾の存在を感じないシンプルな造りになっています。

  • 聖母子像の裏側のステンドグラスも聖母子像だということに気が付きました。

    聖母子像の裏側のステンドグラスも聖母子像だということに気が付きました。

  • もうここへ3度目に来ることはないと思い、もう一度巨大な教会の中を俯瞰しておきます。熱帯の樹木のような棕櫚の木のような不思議な造形です。

    もうここへ3度目に来ることはないと思い、もう一度巨大な教会の中を俯瞰しておきます。熱帯の樹木のような棕櫚の木のような不思議な造形です。

  • ヴァスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama)の石棺も忘れずに見ておきます。ヴァスコ・ダ・ガマについて書かれた史料について現存するものは非常に少なく、これには1755年に発生したリスボン地震が関係しているとされます。このときの地震と津波でリスボン市街は壊滅的な被害を受け、王立図書館に保管された記録の多くが失われ、その中で彼についての物も滅失したと考えられています。

    ヴァスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama)の石棺も忘れずに見ておきます。ヴァスコ・ダ・ガマについて書かれた史料について現存するものは非常に少なく、これには1755年に発生したリスボン地震が関係しているとされます。このときの地震と津波でリスボン市街は壊滅的な被害を受け、王立図書館に保管された記録の多くが失われ、その中で彼についての物も滅失したと考えられています。

  • ルイス・デ・カモンイスの石棺です。ポルトガル史上最大の詩人とされる人物で、その作品はホメーロス、ヴェルギリウス、ダンテなどの古典詩人と比較されるようです。叙事詩「ウズ・ルジアダス」が最も有名で、この中でヴァスコ・ダ・ガマによるインド航路の開拓を称賛し、大航海時代で繁栄を極めたポルトガル黄金時代の航海者達を格調高くうたっています。

    ルイス・デ・カモンイスの石棺です。ポルトガル史上最大の詩人とされる人物で、その作品はホメーロス、ヴェルギリウス、ダンテなどの古典詩人と比較されるようです。叙事詩「ウズ・ルジアダス」が最も有名で、この中でヴァスコ・ダ・ガマによるインド航路の開拓を称賛し、大航海時代で繁栄を極めたポルトガル黄金時代の航海者達を格調高くうたっています。

  • ここまでで大幅に時間を超過してしまいました。予定していた「国立古美術館」などは4週間後の予備日に行くしかなさそうです。

    ここまでで大幅に時間を超過してしまいました。予定していた「国立古美術館」などは4週間後の予備日に行くしかなさそうです。

  • へとへとのはずですがお願いしたらポーズを取ってくれました。

    へとへとのはずですがお願いしたらポーズを取ってくれました。

  • とりあえず次の目的地である「発見のモニュメント/Padrão dos Descobrimentos」に向かいます。

    とりあえず次の目的地である「発見のモニュメント/Padrão dos Descobrimentos」に向かいます。

    プラサ ド インペーリオ庭園 広場・公園

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2024ポルトガルの旅(1)

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