2024/11/09 - 2024/11/09
266位(同エリア473件中)
kojikojiさん
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この旅行記スケジュールを元に
シントラで1泊することが出来た翌朝は、まずホテル内の探検からスタートしました。昨日は降りなかった階段を下って行くと廃墟のような庭園まであったり、新しくプールを発見したりとシントラの邸宅の雰囲気を満喫しました。盆地のようななったシントラの町には霧が立ち込めて幻想的な風景や、朝日に輝く「ムーア人の要塞」も望めました。妻の準備が出来たところでレセプションの貝かにあるレストランに入るとここがまた美しい設えです。元々は古い厨房だったところで、館にある大きな煙突がここの暖炉に繋がっていることも分かりました。後から入ってきたご夫婦を見てびっくりしました。彼らは昨晩中華料理店で奥のテーブルで食事していた人たちでした。ご主人が箸の使い方が欧米人とは思えないのでよく覚えていました。先方も我々を覚えていて、箸の使い方の事を褒めるととても喜んでくれました。美味しい朝食の後はレセプションに荷物を預けて「シントラ駅」まで戻ります。巡回バスの案内所で手続きをしてからバス停に向かいます。午前9時半でもバスは混んでいましたが、座ることが出来て良かったです。何しろシントラのバスは細い道をくねくね走るので立っているのは大変です。「ペーナ宮殿/Palácio Nacional da Pena」のエントランスでバスを降りて、さらに宮殿の前まで行く有料シャトルバスに乗ります。それでもまだ坂を登るとようやく宮殿の入り口が見えてきますが、ここでもまた長い列が出来ています。30分ほど並んでようやく予約してあった午前10時30分の回で入場しますが、午前10時の列の最後尾は目の前に見えています。結局キュ殿内はほとんど列に並んだままの見学になり、なるほどシントラはディスに―ランドだなと思います。「ペーナ宮殿」の外観はとても城館とは思えないような色彩感覚と彫刻があることで有名なのでポルトガルのオーバーツーリズムの頂点に位置していると思います。何とか見学を終えて再びシャトルバスに乗り、エントランスからは「ムーア人の要塞」まで坂道を下ります。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 4.5
- グルメ
- 4.5
- 交通
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 50万円 - 100万円
- 交通手段
- 鉄道 高速・路線バス 観光バス 船 タクシー 徒歩
- 航空会社
- ルフトハンザドイツ航空
- 旅行の手配内容
- 個別手配
- 利用旅行会社
- Agoda
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前夜は早く寝てしまったこともあり早起きしました。リスボンでは朝の散歩などしませんでしたが、シントラでは周囲を見てみたい気になりました。
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山の上には「ムーア人の要塞/Castelo dos Mouros」がきれいに見えています。この城は8世紀から9世紀にかけてイスラム教徒イベリア半島の時代に建設され、主に農業地帯の中心地として住民を守るために必要とされていました。
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23年前にもここへは訪れていますが、あまり時間が無かったので城壁の上をほとんど歩けませんでした。今日は時間をしっかり取ってあるので一周したいと思っています。
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2つの小塔に朝日が当たって輝きだしました。シントラはどちらかというと夕日をイメージするところですが日の出の時間帯も美しいようです。
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あの城壁の上から眺めるシントラの町並みが楽しみになってきます。
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上空を飛ぶ航空機の飛行機雲にも朝日が当たってきれいでした。スマホで音楽を聴きながら散歩していたので荒井由実時代の「飛行機雲」を探してみます。
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今回のシントラの滞在はこの「カーサ ホルシュタイン キンタ ジ サオ セバスチアオ」を選んでよかったと思います。
カーサ ホルシュタイン キンタ ジ サオ セバスチアオ ホテル
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リスボンのホテルでこのような環境を得ることは至難の業ですが、少し離れるだけでこんな時間と空間を楽しめます。
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11月中旬になろうとしている時期でもシントラは温暖で湿潤なようで美しい花々が咲き誇っています。宿泊費だkでこの庭園は維持できないだろうなと思います。この邸宅の一部にはオーナーも済んでいるようで、プライベートエリアで入れないところもありました。
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「ムーア人の要塞」の山の北側にある「シントラ王宮」に太陽光線が届くまではしばらく時間がかかりそうです。
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守衛小屋のあるこちらのゲートが本来のこの邸宅の入口なのかもしれません。
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敷地内の一番高い所には大きなプールまでありました。さすがに11月では人が泳いでいた形跡もありません。小さな小屋があり、シーズンはスナックバーみたいな形で営業もしているようです。
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プールサイドからはシントラの町の中でも盆地状になったところに朝霧が立ち込めています。
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今回はテラス付きの1階の部屋に泊まりました。扉と横のニッチの先までが1部屋になります。2階の部屋の方は窓2つ分が1部屋になるので1階よりは安くて明るいと思います。
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レセプションと客室は1つに繋がっていますが、その先にはテラスがあり、大きな煙突がありました。この煙突の意味は朝食のダイニングで意味が分かりました。
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テラスから下にも邸宅の敷地が広がり、こちらにも小さなプールとその奥にジムの建物もあります。さらにその下に庭が広がっています。
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プールやジムへは脇の階段で降りていくことになります。
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下のテラスにもくつろげるスペースがあり、緑色の扉の中がダイニングになります。
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ダイニングルームが開く時間に合わせて朝食をいただきます。客室が少ないのでテーブルの数も少ないです。トップシーズンだと朝食の時間が決められるのかもしれません。真白なクロスやカバーは清潔的で好感が持てます。
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小さいながらも上品に食材が並べられています。
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朝早くに焼き上げられたクロワッサンやパステル・デ・ナタはとても美味しいです。卵料理は注文して厨房で調理示唆たものが届けられました。
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妻の後ろに座っているご夫婦は昨晩「大福楼」にいらした方たちでした。中華料理店では話はしませんでしたが、お互いに覚えてたようです。呉主任に「箸の使い方が完璧です。」と伝えるととても喜んでいらっしゃいました。
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ホテルでゆっくりしたいところですが、この日も予定が目白押しなので早々にチェックアウトして荷物を預かってもらいます。
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「市役所」まで坂を登り、「シントラ駅」の前から循環バスに乗ります。午前9時のバスはすでに満員だったので1本見送って15分のバスにします。
シントラ市庁舎 建造物
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バスはすぐに満席になりますが、立って乗るにはシントラの町の九十九折の道はしんどいです。
シントラ駅 駅
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昨日も通過した「サブガの泉/Fonte de Sabuga」を再び通り過ぎます。いつもハッチバックの車が停まっているのは泉の水を汲んでいるからのようです。
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「Castelo dos Mouros」のバス停の次が目的地の「Palácio da Pena」のバス停です。始発の「シントラ駅」からここまでほとんど乗り降りする人はいませんでした。
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「ペーナ宮殿/Palácio Nacional da Pena」の入り口のチケット売り場では当日券の長い列が出来ていましたが、入れるのは遅い時間になってしまうようです。入り口でチケットのチェックがあり、出力してきたものを見せて中に入ります。
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ここから宮殿までは基本的には歩いて行くのですが、かなりの急坂をかなり歩くのでシャトルバスに乗ります。シャトルバスは別料金ですが、入場券もバスも65歳以上はシニア割引があります。
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上手い具合に先頭になったので1番にバスに乗り込みました。屋根が開放されていたので一番後ろに座ることにします。
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宮殿を見上げるような感じでバスは進むので窓を開けたのだと分かります。23年前にも来たところですが、いろいろな所が改善されているようです。
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こんな景色が見られるのですから屋根を撮った意味が分かります。10分ほどでバスを降りますが、ここからまだ坂道を登ることになります。
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ここはどうしても妻を連れて来たいと思っていた場所の1つです。今日はもうリュックを背負っていませんが、その荷物は全部私の背中に納まっています。
ペーナ宮殿 城・宮殿
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坂を登ると最初のイスラム風の馬蹄形のアーチが見えてきます。スペインのコルドバの「メスキータ」の連続するアーチの事が思い出されてきます。この宮殿は19世紀に流行したロマン主義建築であったことを最初から感じさせてくれます。
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馬蹄型のアーチの上部の要石には「ファティマの手」が据えられています。語源となったハムサはアラビア語で「5」を意味する数字で、5本指はムスリムにとってその行動規範である六信五行の5に通じ、1日のうちに行うべき礼拝の回数の5に通じます。また、ユダヤ教徒にとって「5」はモーセ五書に通じ、いずれの宗教にとっても「5」は神の摂理を表す神秘的な数字として扱われます。
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美しいアズレージョタイルの壁の中には3つのバラの紋章が見えます。薔薇騎士団に由来される紋章で、17世紀の初頭にドイツで宣言書を発表した友愛組織を意味します。この宣言書ではクリスチャン・ローゼンクロイツという謎の人物によって15世紀に創設された秘密の組織であるとされています。
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少し歩を進めるとインドのムガール建築の「チャトリ(chatri)」を載せたような見張り台が見えてきます。小さい方のアーチの要石にはローマカトリックのシンボル「聖ペドロの天国の鍵」が彫られています。
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同じ門にワニがアゴを突き出しています。ワニは古代エジプト神話の「セベク神」のシンボルということくらいしか思い当たりません。セベク↓はカオスの水の中から出現して世界を創造したという伝説があります。
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小さな跳ね橋の手前のゲートはリスボンの「カサ・ドス・ビコス/Casa dos Bicos」のファサードとまったく同じ装飾が施されています。
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外壁を少し見ているだけで時間がかかりそうです。これくらいにしておかないと予約した入館の時間に間に合わなくなりそうです。
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マヌエル様式の小さな見張り台の下には獅子の頭部が埋め込まれています。ガーゴイル(gargoyle)のようにも見えますが、雨樋としての機能は無さそうです。
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来客を拒むような四角錐の亀の内側には連続した球体の連続するアーチがあります。ほぼ球体なので頭上に落ちてこないか気になるほどです。さらにロープのように見えたのは絡み合った蛇頭がこちらを向いています。
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ヤギの頭蓋骨の紋章の下には「ANNO DE MDCCCXL」というラテン語の文字が見えます。これは1840年という建設年を表しています。
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モンステラの花を初めて見ました。同じサトイモ科のミズバショウの花に似ているのだ思いました。昔フラワーアーチストの友人と打ち合わせしていて急に雨が降ってきたことがありました。偶然モンステラの葉を持っていたのでそれを借りてエ人で盾に並んで横断歩道を渡ったら、停車していた車の人に思いきり笑われたことがありました。
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白い漆喰壁のトンネルを抜けると異世界へ迷い込んでしまいそうな気分になってきます。実際ここから先の宮殿の建築は不思議な世界が連続していきます。
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通り抜けた辺りから予約していた午前10時30分のウェイティングの列が始まっていました。
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宮殿に入らなければこの辺りの展望台へは自由に行けるのでものすごい混雑でした。23年振りの「ペーナ宮殿」に気分は高揚してきます。妻もここへ来るのを楽しみにしていました。
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メインゲートの建物が見えてきました。中央の出窓の下にはこの宮殿で一番有名な「トリトン」の彫刻があります。
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これはロマン主義なのかグロテスクに分類されるのか判別がつきません。
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午前10時のプレートが午前10時30分に切り替わりました。ところが10時の最後尾はまだ宮殿の中に入れずにいます。つまり宮殿内は人で埋まっているということです。
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開館は午前9時からですが、ここまでのバスの移動時間を考えて10時30分で予約しましたが正解だったのかは分かりません。その時間だとホテルでゆっくり朝食を摂ることは出来なかったと思います。
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ようやくエントランスホールまでたどり着きました。階段を上がって1階の回廊へと進みます。
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マヌエル様式のグロテスクな一対の柱に護られたかのようにフェルディナンド2世の胸像が置かれてあります。彼は1838年に廃墟となっていた「ペーナ宮殿」を購入しました。
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見学ルートは1階の回廊とそこに付随する部屋の見学から始まり、2階へ上がった後も同じような見学が続いていきます。中庭は中央に向かって緩やかな傾斜になっていて、この地方に雨が多いことを想像させます。
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現在の宮殿があるシントラ山脈の急峻な頂上にポルトガル王ジョアン2世の治世中にペーニャの聖母を祈る小さな礼拝堂の建設されたことによりこの宮殿の物語がスタートします。
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16世紀になってポルトガル王マヌエル1世は礼拝堂の再建を命じました。彼はこの建物を聖ジェローム騎士団に寄贈し、木造修道院の建設を決定します。その後まもなく石造りの建物に建て替えられて18人の修道士を収容できるようになります。
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18世紀には雷撃で塔や礼拝堂、聖具室の一部が破壊され、1755年の地震で修道院は廃墟となりました。19世紀になってシントラ山脈の風景と旧修道院の廃墟にポルトガル王フェルナンド2世が驚嘆しました。1838年に彼は古い修道院、周囲の柵、ムーア人の城、そして周辺の農場や森を取得することを決めました。
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旧修道院の敷地については将来の夏の別荘として建物を建てることを目指し、いくつかの修復工事を推進しました。この新しいプロジェクトはドイツの鉱物学者でアマチュア建築家のバロン・フォン・エシュヴェーゲに依頼されました。
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ヘッセン生まれのエシュヴェーゲは旅が好きだったようで、少なくともプロジェクトの段階でのプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が「ライン城」でシンケルの競合と共に取り組んだ作品を知っていたと思われます。
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シントラでは工事が迅速に進み、エシュヴェーゲの計画によれば1847年にはほぼ完成する予定でしたが、王配の装飾的かつ象徴的な細部に決定的な介入が加えられました。建設や装飾の多くの細部は君主自身のロマンチックな気質によるもので、尖頭アーチや中世の雰囲気の塔、アラブ風の要素とともに宮殿の北正面にはトマールのキリスト修道院を模倣したものが追加されました。
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フェルディナント王の死後にこの宮殿は彼の2番目の妻であるエドラ伯爵夫人エリーザ・ヘンドラーに遺されましたが、当時この歴史的建造物はすでに記念建造物と見なされていたため大きな論争を巻き起こしました。その後の1889年にルイス1世から国家を代表して購入提案を受け入れ、伯爵夫人はシャレーだけを自分のために留めてそこに住み続けました。
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ポルトガル王カルロス1世の治世中に王室は頻繁に宮殿を使用し、アメリア王妃のお気に入りの居城となり、彼女は親密な居室の装飾を担当しました。
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カルロス1世はリスボンで行った「サン・ヴィセンテ・デ・フォーラ教会」の「ブラサンガ王室霊廟」に埋葬されている王で、等身大の嘆き悲しむアメリア王妃の大理石像が印象的だったところです。
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カルロス1世とその後継者であるルイス・フィリペが共和派とポルトガル・カルボナリアの一部によって暗殺された王殺害後にアメリア王妃はペーナ宮殿に引きこもり、友人たちやペットの犬たちに囲まれてすごしました。
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1910年10月4日の反乱が勃発した際にアメリアは「ペーナ宮殿」で状況の報告を待ち、リスボンでの戦闘の兆候を観察するためにテラスに登りました。彼女はマフラでマヌエル2世に会うために出発し、同日午後には「ペーナ宮殿」に戻り、10月4日から5日にかけての夜をそこで過ごしました。
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これが君主制崩壊前の最後のポルトガル滞在となりまとなりましになって共和国の樹立が知られると彼女は再びマフラへ向かって息子と義母に会い、そこで亡命へ向かいました。
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ポルトガル共和国の成立に伴い宮殿は博物館に改装されていきます。アメリア王妃は第2次世界大戦中にポルトガルから帰国の招待を受けますがこれを拒否します。王妃がポルトガルの地を踏んだのは亡命から35年後の1945年になってからです。
住む主もなく色褪せた宮殿に足を踏み入れたアメリア王妃はかつての自分の部屋でしばらく1人にしてくれるよう頼んだそうです。 -
宮殿のほぼ全体が巨大な岩の上に建てられており、ネオ・ゴシック様式、ネオ・マヌエル様式、ネオ・イスラム様式、ネオ・ルネサンス様式が混在し、さらに19世紀のロマン主義的な要素が異国情緒を感じさせる不思議な空間を醸し出しています。
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聖母修道院時代のオリジナルのニッチも残されています。ここにはテラコッタの聖ヒエロニムスの像が置かれてあったようですが、その後は物置として使われたそうです。
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階段の手摺は中空の銅製ですが、タコの足のような有機的な曲線を感じます。ある意味ユニバーサルデザインになっているのが凄いと思います。
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8分割にされた中庭の床タイルは青と白の2色だけで美しく空間を仕切っています。上等な祥瑞の角皿のように見えてきてしまいます。
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アズレージョタイルの張られた壁面は途端にイスラム建築に見えてくるのが不思議です。
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避難経路図でこの宮殿の平面プランを知ることが出来ます。
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オオシャコガイもこうやってポルトガルでデザインされるとマヌエル様式の植木鉢になってしまいます。
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この時計塔だけが唯一ドームを持たない形になっています。
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バスルームには床と壁と天井に同じタイルが使われています。
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修道院の2階には元々14の独房に分かれて内部の廊下で繋がっていました。フェルディナンド2世はそれらをアーチ型の天井を持つ部屋に改装し、2番目の妻であるエドラ伯爵夫人と共有する私室としました。1890年以降は1910年に亡命するまでまでアメリア王妃が使いました。この部屋はその当時は秘書の寝室として使われました。
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アーチ型の天井のモールディングは石膏で造られた松の枝を表現し、壁面には松ぼっくりをあしらっています。
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この部屋はエドラ伯爵夫人の衣裳部屋とされましたが、後にアメリア王妃の侍女の寝室として使われました。王府には交代で勤務する複数の侍女がいました。
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天井のアーチ部分は漆喰で古典的なモチーフの装飾が施されています。
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1860年か羅1880年までの20年間はフェルディナンド2世とエドラ伯爵夫人の寝室として使われました。
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その後の1890年の初頭にこの部屋はアメリア王妃の寝室となりました。
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壁面に組み込まれた暖炉にはロマン主義的な女性と花鳥を描いたタイルが嵌めこまれています。
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アメリア王妃はここで外を眺めながら1人お茶でも飲んだのでしょうか。そう連想させるような家具や調度品のレイアウトを感じます。
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マリア2世女王の王配だったフェルナンド2世はマリアが34歳で亡くなった後にスイス生まれのエリーゼ・ヘンスラーに一目惚れしてしまいます。オペラ歌手で17歳も年下の女性との結婚は既に退位していたとはいえ、たいへんな困難があり、ようやく結婚できたのは1869年になってからでフェルナンド2世は53歳になっていました。
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結婚式の直前には急遽エドラ伯爵夫人という称号が送られました。フェルナンド2世は遺言でペナ宮殿及びその周辺をエドラ伯爵夫人に遺しますが、カルロス1世が買い取り、アメリア王妃が住むことになります。
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キーストーンにはポルトガル王家であるブラガンサ=サクセ=コブルゴ・イ・ゴーダ家の紋章が見えます。この家系はポルトガルのブラガンサ家とドイツのザクセン=コーブルク=ゴータ家が合流して出来ました。紋章にはポルトガルの盾とザクセン広告の黄色と黒の縞模様が見えます。19世紀から20世紀初頭のポルトガル王に紋章となります。
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アメリア王妃のドレッシングルームは元々ふぇりでぃなのd2世の執務室として使われていました。
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王妃はこの部屋をドレッシングルームとして使うために抽斗付きのドレッサーと化粧台を運び込みました。
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天井には星をモチーフにした木目が施された漆喰装飾になっています。本物の木に見間違えそうですが、漆喰に火にが入っているので疑似木だと分かります。
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回廊に通じる2連の出入り口を持つ区画はフェルディナンド2世の時代にはエドラ夫人の私室の前室として使われました。
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アメリア王妃は私室と執務室の間に位置するこの部屋をティールームとして使い、最も親しい訪問者たちを迎えたようです。
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天井は石膏で造られたアカンサス模様のメダリオンが埋め込まれています。
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テーブル上には暗殺されたことから「殉難王」とも呼ばれたカルロス1世の写真フレームや遍年のアメリア王妃の写真が飾られています。こういった展示はヨーロッパの方は上手だと思います。
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エドラ伯爵夫人の今だったhりゃはアメリア王妃時代には執務室に変わりました。王政時代を通じて壁はカーテンに覆われていました。現在の壁画は第1共和政時代の1917年にエウジェニオ・コトリムによって描かれました。
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マイセンと思われるマントルクロックの左右にはついとなる燭台も配置されています。ポルトガル王家であるブラガンサ=サクセ=コブルゴ・イ・ゴーダ家を考えるとザクセンの名産であるマイセンの陶器が置かれてあるのは当たり前なのかもしれません。ただ、この城にロココスタイルの陶器は合わない気もします。
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この豪華な装飾が施された家具はバルゲーニョ(Bargueno)と呼ばれる16世紀から17世紀に流行した伝統的なポータブル・キャビネットです。
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肖像画の人物はマリア・アメリアで、ブラジル皇帝ペドロ1世と2番目の妻のアメリ―・ド・レウクテンベルグの娘です。美しく沿う姪であったことが知られていますが、若くして21歳で結核で亡くなっています。
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ブラジル皇帝ペドロ1世は元々ポルトガル王ジョアン6世の長男で、ポルトガル王太子でした。1822年にポルトガルからの独立を宣言し、ブラジル帝国の初代皇帝「ペドロ1世」として即位します。1826年に父ジョアン6世の死後、今度はポルトガル王位も継承し「ポルトガル王ペドロ4世」にもなっています。
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ここにもフェルディナンド2世の胸像がありました。芸術を熱心に支援した「芸術家王」はペーナ宮殿の建設を主導しました。
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この毛夜には宮殿全体で唯一人物像が描かれた壁画があります。ムーア建築をモチーフにしたこの壁画はフェルディナント2世が巨匠のパオロ・ピッツィに依頼したものです。
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遠近法によって部屋の物理的な境界を越えて、空間が広がっているように見えます。壁画にはまだ建設中だったこのペーナ宮殿も描かれています。
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居間の中に置かれたアンティークのポルトガル家具は建設以来同じ場所に置かれているそうです。このメデューサ・ベース(壺)は16世紀のフランスの陶芸家ベルナール・パリッシーの様式でパリッシー・ウェアと呼ばれます。胴にはメデューサの顔が立体的に施され、その周囲を這う蛇が持ち手を形成しています。
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この部屋の天井も素晴らしい石膏細工で覆われています。
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宮殿の一部の見学が終わりましたが、部屋はまだまだ続きます。表のテラスはものすごい人の数で、ほとんどアミューズメントパーク化しています。
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宮殿の中とは全く違う時間が流れているようにも感じます。入館の時間は30分刻みで限られていますが、滞在時間は決められていないのでゆっくりと見学することは出来ます。
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このアングルから眺めるメインエントランスのトリトン像はより不思議なグロテスクな姿のように見えます。
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グリーンルームはペーナ宮殿で初めて壁面装飾が施された部屋で、淡い緑色の明暗対比で描かれています。
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古い修道院の時代を思わせる部屋もグリーンと白のタイルを市松に貼るだけでモダンな感じに変わります。
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「喫煙室」は「新宮殿」最初の部屋になります。オリジナルの家具は1866年にフェルディナンド2世がカサ・バルボサ・エ・コスタに依頼したものです。
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天井はイスラム様式の影響を受けており、ムーア様式の芸術への嗜好が感じられます。
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ガラスのシャンデリアはフェルディナンド2世の時代に造られたもので、宮殿に蔓延していた自然主義的な趣味を反映しています。
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「大広間」は宮殿におけるレセプションや娯楽の主要な会場として使われました。中央には1865年に設置されたビリヤード台があり、チェッカーやドミノなど他のゲームが行われていた形跡もあります。
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この部屋のために造られた家具やトーチホルダーやシャンデリアなどは1866年にカサ・バルボサ・エ・コスタに依頼したものです。
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ポルトガルと雄鶏というとバルセロスの雄鶏伝説」が思い出されます。その昔、バルセロスで銀貨が盗まれるという事件が起きます。平和な村の住人たちは「この村に住む者がそんなことをするはずがない。これはよそ者の仕業に違いない。」と考えました。町にはスペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラに巡礼に向かう途中に村に立ち寄った若い巡礼者が宿泊していました。村人たちは彼が銀貨を盗んだのではないかと疑い、裁判官のもとまで連れて行きました。
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若い巡礼者は無実を主張しましたが彼は縛り首を言い渡されてしまいます。巡礼者は刑に処される前にどうしてももう一度裁判官に会いたいと懇願します。裁判官の家を訪ねると宴会の最中で、食卓にはたくさんのご馳走が並んでいました。巡礼者はテーブルの上の鶏の丸焼きを指さして、「もし私が無実ならば、刑が執行される時、その丸焼きの雄鶏が鳴くだろう。」と叫びました。
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裁判官たちは当然信じず、巡礼者は処刑場へと連れていかれてしまいます。ついに絞首刑が執行されようとしたその時、丸焼きにされていたはずの雄鶏が本当に立ち上がって高らかに鳴きました。このことに驚いた裁判官は急いで処刑場へと駆け付けますが、刑はすでに執行されていました。しかし、彼の首に巻かれたロープがゆるんでいたことで彼は奇跡的に一命をとりとめて釈放されました。ポルトガルで見掛ける黒い雄鶏のお土産はこの物語に由来するものです。
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窓はステンドグラスのパネルで覆われていますが、これも1859年にフェルディナンド2世の指示によって造られたものだそうです。
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多灯式のシャンデリア(トーチ)を掲げる等身大のムーア人の彫像がずらりと並んで壮観です。「大広間」は「インドの間」とも呼ばれていたようです。ムーア人( Moors/Moro)は中世のマグレブ、イベリア半島、シチリア、マルタに住んでいたイスラム教徒のことで、キリスト教徒のヨーロッパ人が最初に使った外来語です。ムーア人は当初はマグレブ地方の先住民であるベルベル人を指すものでしたが、8世紀初頭以降はイベリア半島がイスラム化されるにつれ、イスラム教徒を意味するようになりました。
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ヴェネツィアの古いホテルに行くと大きな松明を持ったムーア人の対になった象だったり、レストランの前に立っていたりよく目にします。マグレブと呼ばれる北アフリカのモロッコやチュニジアへも妻と旅しましたが、現代でもこの時代の人が感じた憧憬のようなものは残っているなと感じました。
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「マヌエル2世の執務室」はフェルディナンド2世とエドラ閣釈夫人の時代が終わると来賓用の部屋として確保されました。その後ポルトガル最後の国王となるマヌエル2世の執務室として使われました。
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1908年にマヌエルが即位したのは父王カルロス1世と兄の王太子ブラガンサ公爵ルイス・フィリペが弾圧していた急進的共和主義者に暗殺されたためでした。王太子として育てられた兄と違い、若いマヌエルは国王としての教育を受けていませんでしたが独裁者ジョアン・フランコの内閣から国を守ろうと努めました。しかし、自由選挙が行われた後に革命が起こり、王政の廃止と共和政が成立します。王位を追われたマヌエル2世はジブラルタルを経てイギリスへ亡命しました。
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キャビネットの下には無造作にマイセンのパゴダ人形が一対置かれていました。パゴダは中国の神の坐像の形をした小像で、マイセンでは1720年以降に作られました。1760年にプロシアのフリードリッヒ2世が10個のパゴダを注文して、マイセン初期の造型師ケンドラーが型をつくったといわれます。
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男女の神の頭と両手が動き、舌が出入りする仕掛け人形です。手を招き福を寄せるという縁起の良い人形で、一番大きい高さ約32センチのものをケンドラーが1730年デザインし、その下のサイズが高さ約18センチでエーベリンによるもの、一番小さいパゴダ高さ約15センチと続きます。ヨーロッパの宮殿や城館で見掛けることが多く、いつか欲しいなと思っていました。この旅の後に無傷の一対のものと出会えました。我が家に服はやってくるのかはまだ分かりません。
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19世紀のチェコの芸術家のヴェンツェスラフ・チフカによって制作されたファイアンス焼の作品です。ローマ神話の女神のセレスやバッカスなどが描かれています。実際には弾く音は出来ないようです。
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「マヌエル2世の寝室」は執務室の隣にありました。彼は王子時代からこの宮殿に住んでおり、弟のルイス・フェリペ皇太子の部屋は上階にありました。
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「ペーナ宮殿」をじっくり見学していると一時はスペインと世界を2分したポルトガル王家の落日を肌で感じることが出来ました。
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若い頃はヨーロッパの宮殿や騎馬像な度には深い思い入れはありませんでしたが、還暦を過ぎる年齢になってくると自分の人生の遍歴と規模の大小は別としても相通じるものがあります。
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ここにも魔除けの一対の獅子のキャンドルスタンドがありました。18世紀から19世紀に西洋向けに造られた仏獅子(Foo Dog/Lion Dog)と呼ばれるものです。鮮やかなオレンジ色と粉彩の獅子はヨーロッパのいろいろな美術館で出会うものです。
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ロンドンのウォレス・コレクションにあるポール・ドラローシュの「聖母子」を思い出します。19世紀フランスのロマン主義の作品です。
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スペインのヴァレンシアで造られた大皿ですが、リスボンのグルペルギアン美術館で見てきた金属光沢を帯びたラスター彩のようです。ラテン不語で「主よ、立ち上がれ」と書かれてあります。
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「イサクの犠牲」
サイモン・トロガーによって象牙トと木で造られた彫刻です。題材は旧約聖書の「創世記」にあるアブラハムの物語です。不妊の妻サラとの間に年老いてからもうけ一人息子イサクを生贄に捧げるように彼が信じる神によって命じられるという話です。この試練を乗り越えたことによりアブラハムは模範的な信仰者としてユダヤ教徒、キリスト教徒、並びにイスラム教徒によって讃えられています。そんな信仰を試すような神を信じる人たちは現在まで大義無き戦争を続けているように思えます。 -
「ポルトガル王カルロス1世の肖像」カルロス・レイス
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「ポルトガル王妃アメリ・デ・オルレアンの肖像」カルロス・レイス
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「ポルトガル王マヌエル2世の肖像」ホセ・ヌネス・リベイロ.Jr
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螺旋階段室になっている塔の壁の厚さは1メートルほどあるようです。不思議なマニエル様式の丸窓にクラゲのような海洋生物を感じます。
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階段を上がった先には円形の「鹿の間」です。壁面には武器や旗や楽器などを組み合わせたトロフィーと呼ばれる戦勝記念装飾で飾られ、その上には狩猟で得られた鹿の頭部のハンティングトロフィーが飾られています。この部屋は新宮殿のダイニングルームとしても使われました。
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こちらの階段室の上部はマヌエル様式の石造りの中に明暗対比で描かれた淡いピンク色のフレスコ画で覆われています。
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美しい螺旋階段にこのようなグロテスクな模様を描かせたのでしょうか?個人的には諸星大二郎の初期の作品を思わせるので好きではありますが。
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宮殿を支えるメインキッチンまでやってきました。銅製の調理器具にはペーナ宮殿を意味するPPのシンボルとふぇりでぃ納戸1世の王冠付きのモノグラムが刻印されています。
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大抵の城館や宮殿と同じく見学ルートの祭儀がキッチンなので、ようやく長い見学が終わりを迎えます。
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最初に見た時計塔からここまで長い道のりでした。カラフルな「ペーナ宮殿」が映える最高の青空です。
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サン・ピエトロ大聖堂のべルニーニのバルダッキーノのねじれた柱もすごいと思いましたが、このねじれた柱もインパクトがあります。紀元前587年のネブカドネザル2世によるエルサレム攻囲戦で破壊されるまでエルサレムにあったとされる「ソロモン神殿」にあったとされる「ソロモンの柱」と呼ばれるものがルーツにあるのでしょうか。淡い紫色の19世紀のネオ・イスパノ・アラブ様式のタイルも美しいです。
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タマネギ型の黄金のドームを見るとインドのムガール建築の「チャトリ(chatri)」を連想してしまいます。そして爆風スランプの名曲が頭の中に浮かんできます。
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ここまで2回災難に見舞われた妻ですがすっかり元気になりました。
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新旧2つの宮殿の見学を終えてメインエントランスまでやってきました。
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ここへ妻を連れて戻ってくるまで23年は長かったと思います。
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「弓窓」と呼ばれる窓の下の基部には半分魚で半分人間のような姿が浮彫されており、頭は髪で覆われその髪はツタの幹に変わり、その枝は謎めいた人物によって支えられています。これは数日後に訪問するトマールの「キリスト修道院」の聖歌隊室の窓の髭の男を思い起こさせます。
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ほとんど悪魔的な容姿を持つ怪物のような存在へと変貌させたこの彫刻は「トリトン・ポルティコ」として知られ、D・フェルナンド自身が「世界の創造の寓意的なポルチコ」として設計しました。象徴的な意味で「四元素理論」を凝縮しているようです。
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そのゲートの内側には左右に大きなニッチがあり、扉が設けられています。
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ニッチの中のアズレージョタイルの美しさと連続性が面白いです。映画のフィルムを1コマづつ見ているような気になってきます。
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ここまでリスボンの「アズレージョ美術館」などで学んできたタイルの集大成のような宮殿です。
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アカンサスは葉を使った装飾の中でも非常に一般的なもので、「アカンサス文様」とは古代ギリシア・ローマで流行した西洋アザミがモチーフの模様を指します。
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たった1種類のタイルだけでこれだけのインパクトのある壁面を構成できるのですからすごい発明だと思います。タイルもすごいですが左右の扉の枠のデザインもすごいです。
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12世紀にトマールを本拠地としたテンプル騎士団をデザインしたアズレージョタイルのようです。
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このゲートの反対側の窓はディオゴ・デ・アルルーダによる有名なマヌエル様式の装飾が施されています。時間的に逆光なのが少し残念です。
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この窓のデザインはトマールの「キリスト教修道院」が根ければデザインされなかったであろうと思います。
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ゲートの先にはテラスがあり、ここからシントラ周辺を見渡すことが出来、その先には大西洋が望めます。
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この後はしばらくポルトガルの内陸部を旅するので大西洋ともしばらくお別れです。
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最後に礼拝堂の見学をしていきます。外観はいたってシンプルな造りになっています。
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内部は一転の隙間もなくマヌエル様式の装飾とアズレージョタイルで覆われています。そして美しい祭壇が置かれてあります。
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フランスの彫刻家二コラ・シャントレンヌによって1528年から1532年の間に完成した彩五段です。
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描かれている場面は「降誕」「受胎告知」「神殿奉献」「東方さん博士の礼拝」「エジプトへの逃避」が描かれています。
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比較的柔らかいアラバスターと黒色のメム・マルタン石灰岩を用いています。
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1840年にフェルディナンド2世がニュルンベルグのケルナー工房に依頼したステンドグラスです。1503年のペナ修道院創建を暗示していて、下段にはベレンの塔近くで跪くバスコ・ダ・ガマとマヌエル1世が描かれ、上段では聖母マリアとドラゴンを踏みつける聖ゲオルギウスを描いています。上部には天球儀、キリスト騎士団の十字架、フェルディナンド2世の紋章である、ザクセンの紋章(左)とポルトガルの紋章(右)も読み取れます。
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いったい何時間見学していたのか分からないほど充実した「ペーナ宮殿」でした。
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帰りは歩きたかったのですが、再びバスに乗って入り口まで戻ります。ほんの数分ですが、ようやく座ることが出来ました。この後は巡回バスのバス停を1つ戻って「ムーア人の要塞The Moorish Castle」に向かいます。
ムーアの城跡 城・宮殿
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