2024/11/10 - 2024/11/10
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kojikojiさん
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この旅行記のスケジュール
2024/11/10
この旅行記スケジュールを元に
「ポサダ パラシオ デ ケルース/Pousada Palácio de Queluz - Pousada D. Maria I」での一夜が明けました。23年前にケルースへ来た際にいつか泊まってみたいと思ったポサーダでの宿泊でした。早く目が覚めたので周辺を少し散歩して、早目に朝ご飯を食べることにします。1階のダイニングルームに用意された朝食のメニューはとても豪華でやはりポサーダは違うなと感じさせます。この日はお昼を食べている時間が無いかもしれないのでしっかりといただいておきます。チェックアウトは正午なので荷物はそのままにして、午前9時に「ケルース宮殿/Palácio Nacional e Jardins de Queluz」向かい、ほぼ開館と同時に見学をスタートさせます。こんな時間に見学に来る人はいないようで、それを見越してのケルースでの宿泊でした。お陰で宮殿の見学中に出会ったのは数人の係員だけでした。それもお客がいないのでみんなで集まって井戸端会議をしているだけです。この宮殿も以前に来ているのですが23年の間にきれいに修復されていて、当時の寂れた感じは全く残っていません。ヨーロッパで設計された最後のロココ建築の1つであり、 ペドロ・オブ・ブラガンサの夏の隠れ家として設計された当時の姿を取り戻しているようです。ケルスの建築は1690年のブラジル金鉱発見に続くポルトガル文化の最後の贅沢な時代を代表しています。18世紀初頭から多くの外国人芸術家や建築家がポルトガルで新たに富んだ貴族層のニーズを満たすために雇われました。彼らはルネサンスに由来する古典的な建築思想を持ち込みました。その設計はヨーロッパ全土でロココ様式に先立ったより重厚でイタリアの影響を受けたバロック様式に対する反発だったようです。1つ1つの部屋に移る度に新たな発見と驚きがあり、シントラの宮殿の見学では感じられなかった優雅な時間を楽しみました。この宮殿は建物以外にも素晴らしい庭園があるので宮殿の見学はまだまだ続きます。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 5.0
- グルメ
- 5.0
- 交通
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 50万円 - 100万円
- 交通手段
- 鉄道 高速・路線バス 観光バス 船 タクシー 徒歩
- 航空会社
- ルフトハンザドイツ航空
- 旅行の手配内容
- 個別手配
- 利用旅行会社
- Agoda
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シントラからケルースへ移動して、昨晩はぐっすり眠ったせいか早朝から目が覚めてしまいました。部屋にいてもすることも無いのでポサーダの周辺を散歩することにしました。
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「ドナ・マリア1世女王の像/Estátua Dona Maria I」は芸術と文学の守護者ミネルヴァのローブと月桂冠を身に着用しています。台座にはタイトルと裏側には女王の紋章、側面にはメルクリウスとミネルヴァ、女王に謁見するディオゴ・イナシオ・デ・ピニクが描かれています。
ケルース宮殿 城・宮殿
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この像はポルトガルの彫刻家ジョアン・ジョゼ・デ・アギアールによって造られましたが、残念ながらかなり苔生してしまっています。台座の周囲には四大陸の寓意的な彫像が置かれています。
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象の頭を帽子にして被るのはアフリカの寓意です。
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アジアの寓意の女性は花の冠を被っています。背後には女王の紋章とメルクリウスの被る羽の生えた帽子ペソタスが見えています。
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羽根をまとったアメリカの寓意の女性像です。
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ヨーロッパの寓意の女性はちょうど朝日が当たって美しく見えます。
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ドナ・マリア1世はジョゼ1世と王妃マリアナ・ヴィトーリアの娘で、敬虔女王(a Piedosa) と呼ばれました。
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1740年以降イギリスを始めとする諸国との貿易収支は黒字であり、1789年に諸国と結んだ通商条約の結果、ポルト産ワインやブラジル産砂糖などの輸出が増加しました。ブラジルとイギリスの間の中継国として繁栄をきわめていたポルトガルでしたが1789年のフランス革命勃発で事態が悪化していきます。
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1806年ナポレオンの大陸封鎖令が発令されますが、ポルトガルはこれに従いませんでした。ナポレオンはスペインと密約を結び、ポルトガルを3分割することに同意し、ジュノー将軍の軍勢がポルトガルに侵入します。摂政ジョアンはイギリス国王ジョージ3世と密約を結んでいたため、王家の乗ったポルトガル艦隊はイギリス艦隊に護られてブラジルへ避難しました。多数の貴族や裕福な商人たちも加わり、合計1万人が王室とともに脱出したとされます。
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在位中に宮廷のブラジル移転およびポルトガル・ブラジル及びアルガルヴェ連合王国の成立というポルトガル海上帝国において重大な転換点を迎えた女王でありました。崩御するまで24年間の長きにわたって完全な狂気に陥り、ブラジルにおいては狂女ドナ・マリア(Dona Maria, a Louca)と呼ばれるそうです。
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ヨーロッパで設計された最後のロココ建築の1つであり、ペドロ・オブ・ブラガンサの夏の隠れ家として設計されました。ペドロは後に彼の姪であるドナ・マリア1世女王の王配となりました。
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宿泊したポサーダは18世紀後半のドナ・マリア1世の治世中に王宮建設の最終期に時計塔が建てられました。同じ建築群の一部で王室警備隊、行政棟、厩舎も同様に建てられました。
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「ポサダ パラシオ デ ケルース/Pousada Palácio de Queluz - Pousada D. Maria I」の建物を一周してみます。
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「第1高射砲連隊/Regiment Artilharia Anti-Aérea Nº1」の建物はまだ夜が明けていないようです。同じデザインの2階建ての建物は同じ水色なので親近感が感じられます。
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王宮に向けて高射砲が置かれていますが問題ないのでしょうか?
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グーグルマップで周囲を検索してみましたが、特にみるべきも無いのでポサーダに戻ることにします。
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妻の支度も出来たようなので朝食を食べに行くことにします。
Pousada Queluz ホテル
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建物の外観はクラシックですがパブリックスペースはモダンなデザインで統一されています。
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かなり広いダイニングルームですが、午前8時でもお客さんの姿は見えません。
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オレンジを搾ったオレンジジュースと洋梨ジュースと市販のオレンジジュースがあります。
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一番メニューが多いのがデザートで、タルト類の種類の多さには驚きました。
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カップに入ったケーキ1つだけでお腹がいっぱいになりそうです。
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今回の旅では各地の名物のお菓子を食べていましたが、どこで食べても美味しいのがパステル・デ・ナタだった気がします。
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フルーツは最後にいただきました。
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ポサーダのチェックアウトは正午なので午前9時のオープンに合わせて出発します。
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先ほどまで固く閉ざされていた大きな門扉は開いていました。
ケルース宮殿 城・宮殿
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午前9時にリスボンを出てここまで来る酔狂な人はいないようで、入り口の辺りには観光客の姿はありませんでした。
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3時間もあれば見学を終えられると思っていたのですが、じっくり庭園迄見学したらそれほど余裕はありませんでした。
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1654年にジョアン4世はカサ・ド・インファンタードを設立し、そこにはケルス・カントリーハウスが含まれていました。この邸宅は初代カステロ・ロドリゴ侯爵クリストヴァン・デ・モウラの依頼で建てられ、1640年の独立回復後に没収されました。
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カサ・ド・インファンタードはポルトガル君主の次男たちのために設立された領地であり、王位継承者にはならないと運命づけられた王子たちが彼ら自身の財産と収入を持つことを可能にしていました。その頃この土地はカサ・ド・インファンタードの初代領主であり、後のペドロ2世に与えられました。
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1747年にカサ・ド・インファンタードの第3代領主であり、後のペドロ3世(ドナ・マリア1世女王との結婚に伴う王配)は建築家マテウス・デ・ビセンテ・デ・オリベイラを任命し、当時「旧宮殿」と呼ばれていた建物の拡張を依頼しました。
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1760年にペドロと王位継承者マリア王女の結婚が発表され、王宮の貴族としての地位を整えようとする大規模な拡張工事が行われました。この段階では建築家で金細工師のジャン・バティスト・ロビリオンの監督のもとで建設が行われました。
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宮廷の政治や陰謀から離れかなりの財産と洗練された習慣を持つペドロ3世はこの場所に注力し、王室のレジャーとレクリエイションの場へと変貌させ、「玉座の間」の「大使の間」などの一連の応接ホールを設置しました。
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1755年の地震以来王室の恒久的な居住地であったアジュダ王室複合施設が1794年の火災で焼失し、ケルース宮殿は未亡人となったダナ・マリア1世女王の公式居住地となり、その後摂政ジョアン6世とカルロタ・ジョアキナのもとで、宮廷を収容するための内部空間の改修や新築建物の建設が命じられました。
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それでは「玉座の間」に見学に移ります。23年前に来た時にその美しさに感嘆した部屋です。この宮殿は1807年のナポレオン侵攻時に王室がブラジルへ向かうまで恒久的に居住され、フランス軍がジュノー将軍指揮下でリスボンに入城する直前の日まで使用されました。同じ年にジュノー自身が宮殿を訪れたことが後にナポレオン・ボナパルトを迎え入れ、居座らせることにつながったと言われています。
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1821年にジョアン6世がポルトガルに帰還しましたが、宮殿は再びカルロタ・ジョアキナ女王による半亡命体制下でのみ使用されました。彼女は夫に対する陰謀の疑いをかけられていて、宮殿の黄金時代には二度と戻ることはなく、宮廷の宴や祝宴で活気づく大広間や庭園を見ることはありませんでした。
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次の世代ではミゲルが弟であるポルトガル王ペドロ4世とブラジル初代皇帝の間で対立した内戦によってケルース宮殿での王室の居住期間を終えました。絶対主義の擁護者であったミゲルは王位時代と立憲自由主義の到来のために戦った兄ペドロ4世と血なまぐさい内戦の間にこの宮殿に住んでいました。
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ペドロ4世は戦争に勝利するはずでしたが、病気を理由に幼い娘のマリア2世に王位を譲りました。ペドロ4世は生まれたケルース宮殿の「ドン・キホーテの間」で亡くなりました。
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1910年10月に共和派によるクーデターが起こり、マヌエル2世はイギリスに亡命し、ポルトガルの王政は廃止されて共和政に移行しました。
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「ケルース宮殿」は国定記念物に指定され、1957年以降になると宮殿の東翼であるマリア1世パビリオンはポルトガルへの公式訪問を行う国家元首の迎賓館として機能し始めました。
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「玉座の間」は宮殿のの中で最大のもので1770年頃に建てられました。繊細な装飾はリージェンシー・ロココ様式の金箔を施した木製で、巨大なアトランテス像が際立ち、部屋の隅にペアで天井を支えているかのようです。これは彫刻家のシルベストレ・ファリア・ロボによるものです。
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ここでペドロ3世とドナ・マリア1世の時代には盛大な宴会やレセプションが開催されました。その後は「玉座の間」として使われるようになりました。王室の洗礼式の際に礼拝堂のスペースが不足することが判明した際、この空間は隣接する音楽の祭壇が設置された「音楽室」と連携して即席の宗教空間としても機能しました。
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「音楽室」
1761年の宮殿の最初の目録が示すように、この空間はほとんど変わっていません。部屋の装飾は精巧に彫刻された木材で、天井の凹面部分からリボンや房飾りで吊るされたバイオリンや他の楽器の表現を通じてその使用目的を暗示しています。 -
この空間では王室メンバーの誕生日やその他の宮廷の祝典の際に多くのセレナーデが演奏されました。壇上のマリア1世女王の肖像の下には最近修復された希少なクレメンティ製ピアノフォルテが置かれ、現在もコンサートで使用されています。
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「ランタンルーム」
当初はダークルームとして知られ、「礼拝堂」へと続いています。部屋の内部が明るいのは天井に設けられたトップライトのせいで、これは1807年の第1次ナポレオン侵攻の際にジュノー将軍の命により設けられました。 -
サイドテーブルは彫刻と金箔を施した松材と大理石で造られ、壁面の鏡はクルミ材に彫刻と金箔を施しています。どちらも18世紀末に造られました。一対の「青花尊形瓶」は清乾隆年製のものです。
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床の絨毯は羊毛と麻で織られたアライオロスのものです。
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「マリア・フランシスカ・デ・アシス王女の肖像」
スペインの画家ルイス・デ・ラ・クルス・イ・リオスによって描かれました。ポルトガル王ジョアン6世の娘で、スペイン王フェルディナンド7世の弟であるカルロス・マリア・イシドロ・デ・ボルボンの妻となりました。 -
「カルロス・イシドロ・デ・ボルボン王子の肖像」
カルロスは王位継承をめぐる第3次カルリスタ戦争を指揮し、1872年から1876年にかけてスペイン支配に影響を及ぼしました。 -
「ブラサンガ王子ミゲルの肖像」
ポルトガル内戦に敗れた父ミゲル1世は1834年の追放令によって帰国を禁じられていました。そのため、子供たちはドイツとオーストリアで教育を受けました。彼はオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の臣下となり、ボスニア占領の任に就きました。皇帝はミゲルを非常に重用し、ポルトガル政府が拒否しようとも彼がポルトガル国籍を保持することを許し、治外法権の特権を与えました。 -
「礼拝堂」
テウス・ヴィセンテ・デ・オリベイラによって設計された宮殿礼拝堂は、建物の中で1752年頃に最初に建設された部分の1つです。ロココ様式の金箔彫刻はシルヴェストレ・デ・ファリア・ロボの監督下で制作され、壁と天井は大理石とラピスラズリを再現するように塗装されています。 -
主礼拝堂の祭壇画はケルースの守護聖人である聖母マリアを表しています。
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アンドレ・ゴンサルヴェスとペドロ・アレクサンドリノによる側祭壇の祭壇画は、聖ペテロ、聖パウロ、聖フランシスコ・デ・パウラを表しています。
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主祭壇近くの絵画の一部はマリア1世女王の姉妹である王女たちによって描かれました。
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ロココはバロックに続く時代の美術様式を指し、18世紀にルイ15世のフランス宮廷から始まり、ヨーロッパの他国にも伝えられて流行した。ロココ様式はあまり好きではない様式のですが、フランスの宮殿などで見られるものと違って落ち着いた雰囲気から今までと違った印象を受けます。
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ロココはロカイユ(rocaille)に由来する言葉で、ロカイユは岩の意味があります。バロック時代のグロット(庭園洞窟)に特徴的な貝殻で装飾された岩組を指しましたが、そこから転じて1730年代に流行した貝殻の曲線を多用したインテリア装飾をロカイユ装飾(ロカイユ模様)と呼びました。
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18世紀末から始まる新古典主義の時代になると、前時代の装飾様式が退廃的であるとして蔑称的に使われましたが、時代一般の美術や文化の傾向を指す用語として広く使われるようになりました。
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「マリア・フランチェスカ・ベネディタ王女の居室」
ドナ・マリア様式で装飾された寝室はポンペイをテーマにインスピレーションされたヤシの葉や翼のあるスフィンクスや花輪をあしらっています。 -
「マリア・フランチェスカ・ベネディタ王女の居室」
19世紀初頭のフランスで流行していたフランス帝政時代の様式を反映した居室になります。 -
「マリア・フランチェスカ・ベネディタ王女の礼拝堂」
1788年に建てられたこの礼拝堂はカルロタ・ホアキナ女王が深く信仰していた聖母像が安置されていることから「カルメンの聖母礼拝堂」としても知られています。 -
女王はここで毎日ミサに参列していました。豪華な金箔を施したポルトガル・バロックやロココ様式の影響が感じられる祭壇です。
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「彫刻ルーム」
この部屋は19世紀後半にサヴォイア家のルイス王とマリア・ピア王妃が宮殿を訪れた際に、王妃の彫刻工房として使用されたことに因んで名づけられました。 -
部屋の正面にはドナ・マリア1世女王の胸像があります。これは18世紀後半にリスボンのリアルマウスファクトリーで造られました。
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部屋の左右に置かれたチェストは18世紀半ばにポルトガルで造られたものです。上に置かれた小型の祭壇は18世紀にインドとポルトガルで造られた半貴石や象牙を使ったものです。肖像画はマリアナ・ヴィトリア・デ・ブルボンを描いたもので、ミゲル・アントニオ・ド・アマラルが描きました。
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反対側の壁面には同じチェストと清朝乾隆年製の蓋付きの壺が置かれてあります。壁面の肖像画はヨーゼフ1世を描いたもので、同じミゲル・アントニオ・ド・アマラルが描きました。
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「コーヒールーム」
この名称は19世紀後半にサヴォイア家のルイス王とマリア・ピア王妃の滞在時にコーヒーを飲むために使われたことに由来します。 -
18世紀にはコーヒーなどの異国の飲み物を飲む習慣が生まれ、そのために専用の部屋が設けられました。
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「ダイニングルーム」
宮殿の内部も外観と同様に細部に至るまで細部に配慮されていました。フランスの職人たちが部屋の装飾を依頼され、その多くは小規模で、壁や天井は寓意的かつ歴史的な場面を描くように描かれました。 -
ここまで宮殿内には係員が1人もいませんでしたが、この部屋の角で何人もが集まって歓談していました。ヨーロッパの他の国では受け持った部屋に異常な執着を持った方がいらして熱心に説明してくれることが多いのでちょっと拍子抜けしました。
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「カスタードカップとトレイのセット」
18世紀後半にパリのボンディ通りにあった「アングレーム公爵の工房(ディール・エ・ゲラール)」で作られたものです。 -
「三美神を描いたトレイ」
1814年頃にオーストリアのウィーン磁器製造所で造られたものです。ホットチョコレートの消費は17世紀後半からヨーロッパの上流階級の間で定着し、銀や磁器製の豪華な食器やセットが作られるようになりました。 -
このセットは2人用(テート・ア・テート)で古典的な様式と金彩装飾が特徴的です。トレイにはピーテル・パウル・ルーベンスの絵画から模写された三美神の構図が描かれています。
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これは作品の裏面にフランス語で「ルーベンスによるオリジナル作品はウィーンのアントニオ・デ・ランベルク伯爵のギャラリーに所蔵されている。クロード・ヘールによる模写。1816年」と記されています。
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「スープボウル(エキュイユ)」
この種の個人用皿は19世紀初頭まで特権階級の間で非常に人気があり、鶏のスープを入れるのに適しており、朝食に好んで使われました。バラの花輪と2つのメダリオンで装飾されており、1つはジョアン6世の肖像、もう1つは彼の娘の1人であるマリア・ダ・アスンソン王女にちなんだモノグラムMAが刻まれています。 -
「蓋と受け皿付きのスープボウル」
モロッコ革のケースに収められたこの豪華なセットは当時幼少で後の国王となるドン・ミゲルを主役に据えており、皿の蓋にはグレゴリオ・フランシスコ・デ・ケイルズの版画に基づいてドン・ミゲルが描かれています。他には洗濯女とアグアス・リヴレス水道橋のある風景(皿の蓋)、テュイルリー宮殿とサン・クルー宮殿(皿本体)、テージョ川とリスボンの眺め(皿)を描いており、すべてフランス語のキャプションが付いています。 -
このセットはアブリラーダ蜂起の失敗後、ウィーンに定住する前にドン・ミゲルが1824年にパリを訪れた際に制作されたと考えられています。テュイルリー宮殿とサン・クルー宮殿が描かれているのはドン・ミゲルがルイ18世に謁見した場所であるためです。皿の縁にポルトガル、ブラジル、アルガルヴェ連合王国の紋章が描かれていることはブラジルの独立がポルトガルによって承認されたのは1825年であったことを考えると、この皿の年代推定を裏付けるものです。
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「ホロホロ鳥」
18世紀を通じてザクセン州マイセンで生産された磁器製の置物はヨーロッパの宮廷で非常に人気があり、公式の食卓を飾る装飾品として欠かせないものでした。ケルース宮殿の目録には寓話、神話、動物を題材とした白または多色の「ザクセン陶器の置物」が多数記載されています。これらの置物の一部は1838年にマリア2世女王の命令によりリスボンの「ネセシダーデス宮殿」に移され、1910年の共和国成立後にこれらの置物が目録に記載されました。 -
巨大な宮殿の見学をしている途中でこのような小さい庭を見るとホッとします。
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「嗅ぎ煙草入れ」
1760年頃の清時代の乾隆年製の磁器です。乾隆帝の自物である陶磁器のクオリティとはかなり違うようです。 -
「アヒルの形をしたテリーヌ入れ」
動物の形をした中国の輸出用磁器は18世紀にヨーロッパのいくつかの製造業者によって作られた動物を模したモデルに由来します。これらの品々は食卓に彩り豊かで魅力的な雰囲気を醸し出し、ロココ様式における五感の祭典として高く評価されました。入れられた料理は描かれた動物に対応するように作られ、通常はシチューを入れることが多かったようです。19世紀半ば以降はこれらの料理は美術品としての地位を獲得し始め、フェルナンド王の「ネセシダデス宮殿」のコレクションの一部であったようです。 -
「盛り付け皿」
1770年頃の清朝乾隆年間に造られた赤絵に金彩が施された皿です。中国では福を意味する蝙蝠が取っ手になっていますが、きっと意味までは伝わっていないのだろうと思います。 -
「ペドロ3世の紋章があしらわれたディナーセット」
清朝乾隆年間に発注されたこのセットは1775年8月22日にケルス宮殿に持ち込まれたことが知られており、目録には「マカオ陶器のセット、白地に赤い網目模様と陰影、金色の帯。各ピースにマルタの紋章とともに2本の王家の紋章の帯」と記載されています。 -
ナポレオンの侵攻に伴いこの食器セットは王室とともにブラジルに渡り、1821年の帰国時にポルトガルに戻りました。現在ではさまざまな公的および私的コレクションに分散していますが最大の点数は今もこの宮殿に保存されており、合計で123点を数えます。
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「ブドウの葉皿」
ブドウの葉を写実的かつ繊細に再現したこれら3枚の磁器皿は、食事の際に果物や菓子を盛り付けるために作られたものと思われます。恐らく1776年のケルース宮殿の目録に記載されているものと一致し、正式な食卓の中央に飾られる装飾品一式である「デセレス」(フランス語のデザートに由来)の一部を構成するものと考えられます。1750年頃にオーストリアのウィーン磁器製作所で造られました。 -
「中国のパゴダ」
木と象牙で造られた一対の塔と宮殿がセットになっています。18世紀後半から19世紀初頭の清朝嘉慶年間に造られたものと思われます。 -
「コーナールーム」
この部屋の名前の由来は宮殿の2つの交点に位置していることから名付けられました。シャンデリアは18世紀末のヴェネツィアで造られ、絨毯は18世紀のポルトガルの新井降ろすで織られたものです。ジョアン・バプティスタ・リベイロによる「カルロッタ・ジョアキナ・デ・ボルボンの肖像」が掲げられています。彼女はポルトガル王ジョアン6世の王妃でした。 -
「アズレージョの部屋」
ポルトガル植民地の豊かさを示すタイルパネルで装飾された「サラ・デ・マンガス(Corredor das Mangas)」です。部屋というよりも広い廊下という感じです。 -
16世紀後半の「旧王宮」と建築家マテウス・ビセンテ・デ・オリベイラとジャン=バティスト・ロビヨンが設計した「新王宮」をつなぐ部屋です。
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壁面は1784年に造られた新古典主義様式の多色アズレージョ釉薬タイルパネルで覆われています。
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モチーフは四季と四大陸や古典神話の場面や中国趣味のシノワズリーなモチーフが描かれています。
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これは分かりやすいギリシャ神話の物語の場面です。テュロスの王女として生まれたエウロペは美しく成長しました。あるとき彼女を見たゼウスは一目で恋に落ち、彼女を誘惑するために自身を白い牡牛に変え、エウロペが侍女と花を摘んでいるときに近づきます。そして白い牡牛を見つけたエウロペがその背にまたがると、白い牡牛は海を渡ってクレタ島へと連れ去さりました。そこでゼウスは本来の姿を現し、エウローペーとの間にミノス、ラダマンテュス、サルペドンをもうけました。エウロペが海を渡った西方の地域は彼女の名前から「ヨーロッパ(Europa)」 と呼ばれるようになりました。
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植民地のエキゾチックな風景も描かれています。樹上で木の実を食べる猿を弓で射楼としている原住民の姿が描かれています。
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アルキメデスがシラクーサ攻防戦のときに大きな鏡や多数の鏡を並べて太陽光を一点に集め、ローマ軍の木造船に照射して火をつけたという話は中世以降の文献や絵画で広まりました。「インディ・ジョーンズ/運命のダイヤル」で時空を超えた先のシチリア島のシラク―サの戦いです。映画より前にアテネの考古学博物館でアルキメデスが創ったと言われる「アンティキティラのダイヤル」を見たときは感動しました。
アテネ考古学博物館:https://4travel.jp/travelogue/11862930 -
パゴダを背景に天秤棒でオレンジを担いでいる中国風の男性が描かれています。この宮殿にも清朝の時代の陶磁器がたくさん収蔵されているので中国に対しての憧憬もあったのだと感じます。
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オレンジの原産地はインドのアッサム地方で、これが交雑などで変化しながら世界各地に伝播したものとされます。中国へ渡ったものはマンダリンと呼ばれ、これは中国清朝の官吏のことで、彼らが身につけていた服の色に由来します。
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ここは蝋燭を風から守るために使われたガラスのカバーである火屋(ほや)が保管されていた場所だと考えられています。
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「トーチルーム」
この名前はこの部屋の以前の用途を反映しています。現在はケルース宮殿を最もよく表す3つのポルトガル装飾様式のうちの1つ、ドン・ジョゼ様式で装飾されています。壁面のガラスケースには祭壇が納められています。 -
たくさんの騎馬兵が描かれた朱漆の屏風は18世紀から19世紀に中国で造られたものです。手前に置かれたローズウッドの猫脚のロココ様式のイストテーブルと調和しています。床に敷かれたカサック(Kasak)、コーカサス絨毯とインターナショナルな組み合わせです。
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「射手の部屋」
「衛兵の部屋」とも呼ばれ、宮殿の唯一の入り口でした。現在はドナ・マリア様式で装飾されています。ヴェネチアンガラスのシャンデリアが豪華です。 -
この部屋も左右対称のレイアウトになっています。フランシスコ・ヴィエイラ・デ・マトスによって描かれた「マリア・アナ・フランシスカ・ジョセファ王女」「マリア・フランシスカ・ドロテイア王女 」の肖像画が飾られています。
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反対側も同じ画家による「ペドロ王子」「マリア・フランシスカ王女 イザベル・ジョセファ」の肖像画が飾られています。後のマリア1世とペドロ3世というわけです。黒釉薬の瓶は清朝康熙年製のもので統一されています。
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「大使の間」
ここまでは窓の鎧戸が閉められていて暗い雰囲気でしたが、この先は扉が開放されて明るい雰囲気を感じさせます。 -
元々は「柱の間」または「セレニン」と呼ばれ、ペドロ王とマリア1世女王が主催したコンサートにちなんで名付けられています。
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天井の中央にある大きな絵画には王室のメンバーがコンサートに参加している様子が描かれています。
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1794年以降は「大使の間」と改名されました。ジョアン6世は謁見室としてこの場所を選びました。これは貴族や宮廷関係者、外交団のメンバーが宮殿に招かれ、王の手にキスし、君主に敬意を表すために行われる行事でした。
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天井にはオリュンポス十二神も描かれています。ギリシャ神話においてオリュンポス山の山頂に住まうと伝えられる12柱の神々です。主神のゼウスを中心に妻のヘラ、アテナ、アポロン、アプロディーテ、アレス、アルテミス、デメテル、ヘーパイストス、ヘルメス、ポセイドン、ヘスティアが該当します。
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中国の大型磁器の壺は金箔を施した彫刻品の上に置かれており、これが「サラ・ダス・タルハス」と呼ばれる名称の由来でもあります。
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「指令室」
18世紀後半に建築家ジャン・バティスト・ロビリオンによって建てられたロビリオン・パビリオンの一部です。新古典主義様式で装飾され、ジョヴァンニ・ベラルディによる古典遺跡を描いた絵画が飾られているこの部屋はドルム・ジョアン王子が閣僚会議や通信に使用していました。 -
ペドロ3世の時代にはこの属地は君主の侍従長たちの待合室として使われていました。夏の祭りである聖ヨハネ祭と聖ペテロ祭の際にはこの空間が宴会や夕食のために使用されました。摂政王で後のジョアン6世は閣僚会議や謁見、派遣にこの場所を使用しました。
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コの字型に広がる宮殿の最後のウイングの見学に移ります。ここ迄ですでに1時間以上かかっています。そろそろ妻が飽きてくるころです。その後は庭園の見学もあるので急がないとホテルもチェックアウトしなければなりません。
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2024/11/05~
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2024/11/06~
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長年の夢だった妻を伴ってのポルトガル4週間の旅(10)グルペルギアン美術館の至宝、ルネ・ラリックのジュエリー...
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長年の夢だった妻を伴ってのポルトガル4週間の旅(11)ボルダロ・ピニェーロ美術館でラファエル・ボルダロの生涯...
2024/11/06~
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長年の夢だった妻を伴ってのポルトガル4週間の旅(12)17世紀修道院の国立アズレージョ博物館でポルトガルのア...
2024/11/06~
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長年の夢だった妻を伴ってのポルトガル4週間の旅(14)サンタ・エングラシア教会を参拝し、路面電車の28に乗車...
2024/11/06~
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長年の夢だった妻を伴ってのポルトガル4週間の旅(13)サン・ヴィセンテ・デ・フォーラ教会のブラガンサ家のポル...
2024/11/06~
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長年の夢だった妻を伴ってのポルトガル4週間の旅(16)カダヴァル公爵邸とセナクロ美術館の見学の後はポサーダで...
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長年の夢だった妻を伴ってのポルトガル4週間の旅(18)予約時間に追われてレイガイラ宮殿に向かい、19世紀の富...
2024/11/08~
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長年の夢だった妻を伴ってのポルトガル4週間の旅(19)シントラからバスに乗ってロカ岬へ夕日を見に行き、1週間...
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長年の夢だった妻を伴ってのポルトガル4週間の旅(20)シントラの1日バス乗車券で行ったペーナ宮殿は予約があっ...
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長年の夢だった妻を伴ってのポルトガル4週間の旅(21)ペーナ宮殿の雑踏から逃れたムーアの城塞でポルトガルの晩...
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長年の夢だった妻を伴ってのポルトガル4週間の旅(22)ムガール様式のレース模様のようなモンセラーテ宮殿でシン...
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