2024/11/09 - 2024/11/09
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kojikojiさん
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駅前の「大福楼」でお昼を食べて元気を取り戻した後は別ルートの巡回バスに乗って「モンセラーテ宮殿/Parque e Palácio de Monserrate」に向かいます。ここはかなり離れた場所にあるということと、バスはこの後もかなり先まで行ってからシントラの町に戻るので見学以外にもかなり時間を取られます。バスはエントランスのゲート前に停車するので須賀、ここから邸宅まではかなりの距離を歩きます。晩秋の天気の良い午後だったので散歩するには気持ち良いところでした。この土地には元々礼拝堂があり、この礼拝堂はアフォンソ・エンリケスによるシントラ奪還以前から存在し、この地域を支配する裕福なアラブ人と戦って亡くなったキリスト教徒モサラベ派の墓でした。1601年にこの土地はメロ・エ・カストロ家に賃貸され、1718年にインド副王のD・カエターノ・デ・メロ・エ・カストロが取得しました。1856年になると数十年にわたる放棄を経て、キンタ・デ・モンセラーテはメロ・エ・カストロ家の手を離れ、イギリスの繊維業の億万長者フランシス・クックが購入します。宮殿はジェームズ・ノウルズによって設計され、庭園はランドスケープアーキテクトのウィリアム・ストックデール、植物学者のウィリアム・ネヴィル、そしてマスターガーデナーのジェームズ・バートによって計画されました。クックはモンセラーテを家族の夏の別荘とし、膨大な美術品を収めて部屋を埋め尽くしました。建設中に宮殿では2000人以上が働いたと考えられており、そのうち50人は園芸専任の仕事でした。工事が終わると約300人の使用人を雇い、家屋、公園、家族の世話を担当させました。彼らは隣接する13の農場を購入し、周囲の土地の所有者で雇用主となりました。この土地は1947年までクック家の所有でしたが、20世紀前半に家族が多くの財産を失い、リスボンの骨董商が宮殿を購入し、1949年にポルトガル政府に売却します。その後の修復を経て2010年から一般公開しました。前回来たときはこの宮殿についての情報は何もありませんでした。今回王宮と4つの宮殿を見学しましたが、それ以外にもいくつか後悔しているところや修復中のものも見掛けました。まだまだシントラのディズニーランド化は進んでいきそうです。巡回バスで駅まで戻り、妻を残してホテルから荷物を持って「シントラ駅」に戻り、近郊線に乗ってリスボンとの中間にある「ケルース駅」で下車します。アフリカ系の人たちで駅周辺は溢れかえっていたので少しびっくりしましたが、危険な感じはありませんでした。そのまま坂道を下ってたどり着いたのは「ポサダ パラシオ デ ケルース/Pousada Palácio de Queluz - Pousada D. Maria I」です。今回初のポサーダの宿泊です。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 4.5
- グルメ
- 4.0
- 交通
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 50万円 - 100万円
- 交通手段
- 鉄道 高速・路線バス 観光バス 船 タクシー 徒歩
- 航空会社
- ルフトハンザドイツ航空
- 旅行の手配内容
- 個別手配
- 利用旅行会社
- Agoda
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「大福楼」で遅い昼食を食べた後は「シントラ駅」の前からバスに乗って「モンセラーテ宮殿/Parque e Palácio de Monserrate」に向かいます。
シントラ駅 駅
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午前中は「434」番のバスでしたが、今度は「435」のバスに乗って30分ほどの移動になります。
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何度も同じような所を走りまわっているので須賀「シントラ王宮」もこれが見納めになります。
シントラの王宮 城・宮殿
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今回王宮と要塞と3つの宮殿を見学しましたが、もう1日泊まってあまり有名では無い邸宅を見学しても良かったなと思います。パリとロワール渓谷とモン・サン・ミッシェルの旅ではロワール渓谷の城館を14カ所計画に入れて妻に呆れられました。
シントラの文化的景観 史跡・遺跡
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「モンセラーテ宮殿/Parque e Palácio de Monserrate」の目の前にあるバス停で下車しました。これなら簡単に見学できると思ったのは大きな間違いでした。
モンセラーテ宮殿 城・宮殿
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門を潜った先にチケット売り場があり、そこでチケットを見せて見学に移りますが宮殿はどこにもありません。
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広大な敷地を予感させるような巨大な木々が続いています。
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背の長け2メートルを超えるリュウゼツランが良く育っています。チュニジアを旅した際にはバスの車窓からたくさんの花が咲いているのが見えました。
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宮殿のあるこの地にはかつて礼拝堂があり、アフォンソ・エンリケスによるシントラ再征服以前から存在し、裕福なアラブ人と戦って亡くなったキリスト教徒モサラベ人の墓を示すものでした。1540年に聖職者ガスパル・プレトはモンセラーテの聖母に捧げられた礼拝堂の建設を命じました。
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1601年にこの土地はメロ・エ・カストロ家に賃貸され、1718年に最終的にインド副王のD・カエターノ・デ・メロ・エ・カストロが取得しました。家族はゴアに住んでいたため、1755年の激しい地震で家が住めなくなるまでは管理人によって管理されていました。
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1790年に裕福なイギリス人商人でブラジルの木材貿易の独占権をポンバル侯爵から得ていたジェラド・デヴィスメは農場をドナ・フランシスカ・ザビエル・マリアナ・デ・ファロ・メロ・エ・カストロに賃貸し、最初のネオゴシック様式の宮殿を建てました。
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1856年になってから数十年にわたる放棄を経て、キンタ・デ・モンセラーテはメロ・エ・カストロ家の手を離れ、ゴアから戻ってリスボンに邸宅を建てました。
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インドに由来する持ち主の時代を感じさせる「インド門」がありました。ムンバイやニューデリーのインド門と比べると実に質素なデザインです。1857年のインド反乱後にインド総督チャールズ・キャニングからサフランシス・クックが取得したものです。
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新たな買い手はイギリスの繊維業の億万長者フランシス・クックで、クック・サン&カンパニーの相続人であり、エミリー・ルーカスの夫でもありました。宮殿はジェームズ・ノウルズによって設計され、庭園はランドスケープアーキテクトのウィリアム・ストックデール、植物学者のウィリアム・ネヴィル、そしてモンセラーテで生涯を過ごした庭師のジェームズ・バートにより管理されました。 クックはモンセラーテを家族の夏の別荘とし、彼の膨大なコレクションをから美術品を宮殿で満たしました。
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建設中に宮殿には2000人以上が従事し、そのうち50人は園芸専任の人員とされています。工事が終わるとクック夫妻は約300人のスタッフを雇い、家や庭園や家族の世話を担当させました。
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彼らは隣接する13の農場(キンタス・デ・サン・ベント、インファンタ、カベッサ、ポンテ・レドンダ、ベラ・ビスタ、サン・ティアゴ、ポンバル、ボチェチャス、ボイサ、キンタ・グランデ、キンタ・ペケナ)と「カプチョス修道院」を購入し、イングランドの田舎の邸宅のように周辺の土地の所有者および雇用者となりました。
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フランシス・クックが農場の再建やガラマレスとコラレスに彼の雇用者の子供たちのための小学校2校や住宅、さらには劇場の建設に尽力したことによりルイス1世は彼にモンセラーテ子爵の称号を授けました。
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ゲラド・デヴィスメによって建てられた最初の建物は細長い構造で、両端は2つの円筒形の塔と円錐形の屋根で覆われています。この城はネオゴシック様式でベックフォードによって改修され、数多くのパーティの舞台となりました。
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噴水の池のある正面入り口からではなく、右手に廻った邸宅の中央のエントランスから内部の見学に移ります。
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中央のエントランスから中に入ると小さな円形の噴水が据えられているのが見えました。
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避難経路の平面図は意外に雄弁に建物の情報を見学者に与えてくれます。
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1858年にフランシス・クックはイギリス人建築家ジェームズ・ノウルズを雇い、前の建物の基礎や一部の壁を活用して新しい宮殿を設計しました。1863年から1865年まで続いたこの建設はオリエンタリズムと折衷主義の趣味を明らかにし、ゴシック、インド、アラブの要素が取り入れられました。
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全体として厳格な対称性を示しており、中央には新中世のアーケードを支える優雅な柱が配置されています。 イギリス人請負業者のJ・サミュエル・ベネットが雇われ、フェルナンド王と共に「ジェロニモス修道院」の修復に携わることになりました。
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午後の遅い時間ということと高台に建つ建物なので太陽光線が建物の奥まで差し込んでとてもきれいです。
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アラバスターのスクリーンが多用されたギャラリーを見ているとここ数年通っているインドのムガール帝国の建築を思い出させます。
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「リビングルーム」
書斎とは対照的にリビングルームは宮殿の女主人を中心とした空間でした。実際にこの部屋は来客をもてなす場であり、家族が気軽に交流することにも使われました。 -
夕食後に女性たちはこの部屋に戻り、男性たちはビリヤードルームに向かいました。
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置かれてある家具は19世紀後半のインドのボンベイ周辺で製作された「ボンベイ・ブラックウッド」と呼ばれる黒檀やローズウッドを用いた彫刻家具です。
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背もたれからアームにかけてピアズド・カービングと呼ばれる透かし彫りが施され、植物や花などのモチーフが複雑に表現されています。ものすごく高価なものですが、当時のヨーロッパの金持ちから見るとそれほどのものではなかったのかもしれません。いずれにせよこの家具が喜望峰を廻って船で運ばれたことは間違いないでしょう。
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「音楽室」は宮殿のメインホールとして客人を迎え、交流するための重要な場所でした。ここは音楽が奏でられる場所でありクック家とその客たちの夏のシントラの邸宅での社交の場でした。
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ドーム天井の中心部は金彩が施された花々で飾られています。そこから広がる精緻な装飾は葉を広げるソテツの雄株のように見えました。
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この部屋の全体の構造と装飾は音響効果を最優先に設計されており、これはこの部屋だけでなく音楽が容易に広がる家全体にも該当します。円形のクーポラの基部にはアポロンやミューズ、音楽の守護聖人である聖セシリアの胸像が並んでいます。
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ミューズ(ムーサ)は技芸・文芸・学術・音楽・舞踏などを司るギリシア神話の女神です。ムーサが司る技芸は古代ギリシア語でムーシケと言い、音楽を基本とする古代の芸術一般を指していました。ミュージックの語源でもあります。
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エラト(Erato)は「独吟叙事詩」を司り、その持ち物は竪琴です。
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アガニッペ(Aganippe)はアガニッピデスとも呼ばれ、彼女の井戸の水を飲むことは詩的なインスピレーションの源と考えられていました。
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タレイア(Tháleia)は「喜劇」を司り、その名前はギリシア語の「開花する」という意味です。喜劇用の仮面や蔦の冠、羊飼いの杖が彼女のアトリビュートです。
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クレイオ(Clios)は「英雄詩」と「歴史」を司り、表される際の持ち物は巻物あるいは巻物入れです。
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サッフォー(Sappho)はレスボス島のエレソスまたはミティレネ出身の古代ギリシャの詩人で、最も偉大な叙情詩人の1人として広く認められ、「第十のミューズ」や「女詩人」といった称号を与えられました。サッフォーの詩の多くは現在は失われており、唯一確実に完成しているのは「アフロディーテへの頌歌」です。
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音楽の守護聖人である聖セシリア(Cecilia of Rome )はカトリック教会において有名な聖人であり、音楽家と盲人の守護聖人とされます。彼女が改宗させた夫や友人たちとともに230年頃の皇帝アレクサンデル・セウェルスの時代に殉教しました。ローマのトラステヴェレ地区には、セシリアを称え、サンタ・チェチーリア教会が5世紀頃に建築され、納められたステファノ・マデルノの「聖セシリアの殉教」という彫刻を観に行ったことがあります。
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エウテルペ(Euterpē)は抒情詩のムーサとされ、オーボエのようなアウロスという楽器ないしはフルートを持った姿で描かれます。
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カスタリア(Castalia)はアポロンの追跡を避けるために自ら身を投げ込んで泉に変わったニンフの名前です。その泉は彼女の名前にちなんで名付けられ、アポロンやミューズたちのインスピレーションの源となりました。ミューズは泉との関連からカスタリデスとも呼ばれました。
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ウラニア(Urania)はギリシャ神話に登場する女神で、「天上の女」の意味があります。「占星術」と「天文」を司り、表される際の持ち物は杖とコンパス、天球儀などです。ウィーンのユーゲントシュティール建築の美しい天文台も「ウラニア」という名前でした。
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メルポメネ(Melpoménē)はギリシャ神話に登場する文芸の女神ムーサたちの1柱で、その名は「女性歌手」の意味があり、「悲劇」「挽歌」を司り楽器リラの女神とされます。
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アオニデス(Aonides)はローマ文学およびその後の時代において詩的な用語として使われ、特にミューズの故郷でありギリシャ詩人ヘシオドスの生誕地であるヘリコン山を指すようになりました。そのため、「アオニアン」という形容詞は通常「ヘリコニアン」を意味し、ミューズを指していました。
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メレアグロス(Meleagro)はギリシャ神話に登場する英雄で、アルゴナウタイの1人で「カリュドーンの猪狩り」の中心人物です。ミューズの像の間にはこのような像が並べられています。
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明るいうちに広大な庭園の見学もしなければならないので外が気になります。
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連続するアラバスターの透かし彫刻が本当に美しいです。
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夕方に近づくにつれて見学者の数も減ってきて、貸し切りのような状態で宮殿の見学が出来るようになりました。
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「図書館」はフランシス・クックとその子孫たちの執務室として利用されていました。したがって、この部屋は豊かでしっかりとした扉で囲まれている唯一の部屋でもあります。この部屋自体がウォールナット材で造られた芸術作品であり、狩猟の女神ダイアナという古典的なテーマで装飾されています。
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この階段は、大理石の重さと中央の支柱のない構造の軽さとのコントラストから、壮観な効果を生み出しています。宮殿が居住されていた当時は「名誉の階段」と呼ばれていました。
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夕方の更衣を終えた女性たちが宝石を身にまとい、イギリス上流階級の間での慣習として夕食のために降りてくる特別な瞬間を際立たせていました。
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「キッチン」は主に2つのセクションに分かれていました。熱い食事の準備用での中央には巨大なストーブがあり、もう一方にはサラダやデザートなどの冷たい料理用のスペースがありました。さらに階段の下にはパントリーとワインセラーがありました。
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とうとう宮殿を見学しているのは我々だけになってしまったようです。
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「ギャラリー」は宮殿を構成する多様な部屋や塔をつなぐ回廊で、ムーア様式の浮彫プラスターで仕上げられています。アーチの連続は柱間の距離を決め、遠近法や天頂の照明効果を可能にしています。これは内部建築と外観の調和を示す手がかりとなり、この宮殿の最も興味深い特徴の1つです。
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我々以外に見学者の姿はなく、水盤から零れ落ちる水の音しか聞こえてきません。その妻もどこかへ行ってしまいました。
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この宮殿を一番説明しやすいのはこの模型だと思います。
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左の円形の部屋が「音楽室」で中央のドームが「メインホール」と「階段室」です。2階があるのは中央のドームの周りだけになります。
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最後に2階に上がってみます。階高に対して階段の一段の高さが低いので、その分階段は長くなります。裾の長いドレスを着た女性にはこれくらいの勾配が歩きやすかったのだと感じます。
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天井から壁面までが石膏で造られたアカンサスの葉ので覆われています。
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緩やかな階段を上がりながら変化する視線の高さを楽しむことが出来ます。
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天井のドームの開口から差し込む外の光が不思議な雰囲気を醸し出しています。夜になったら間接照明などが入ってきれいなのだろうと想像してしまいます。
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アトリウムの八角形の形状はデヴィスメが建て、ウィリアム・ベックフォードが住んでいた元のモンセラーテ宮殿にすでに存在していました。これはゴシック時代へのオマージュで、英国ゴシック復興主義にとって非常に重要な記念碑である「バターリャ修道院」の創設礼拝堂に触発されたものです。説明文を読んでいると納得できることが多いです。以前にバターリャには行っているのでなるほどと思えます。
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中央の2階から「音楽室」のタワーを見ると途中の回廊にもトップライトになっていたことがよく分かりました。
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夕日が建物の中を突っ切って反対側まで届きそうです。この宮殿には仕掛けはありませんが、日時計にもなりそうな気がします。あるいは夏至と冬至に建物の奥まで晃が届く「アブシンベル宮殿」を思い出します。
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フランシス・クックはモンセラートのこの部屋に聖美術品のコレクションを集めていたそうです。現在それらは美術館に納められているのでここには残されていません。当時置かれていた祭壇の写真パネルが物悲しいです。
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庭園側の扉から表に出て、宮殿の見学を終えます。
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このエリアは主にモンセラーテに滞在する家族とそのゲストのために設計されました。イギリスの夏の別荘に非常に一般的な中央の位置にあり、人々の移動が快適かつ非公式に行われることを可能にしました。
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これにより、庭園と社交室(座席室、音楽室、ビリヤード室)を図書館や正面玄関を通らずにつながることができ、同時に上階へ続く階段にもアクセスできるようになりました。
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早くしないと反対側の山の向こうに太陽が沈みそうです。
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宮殿の前にはこのような芝生の庭が広がっています。その高低差はスイスかオーストリアの山間部のようにも見えます。
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転ばないように妻の手をひいて芝生の丘を下ります。
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下りきったところには水辺があり、クニフォフィア(トリトマ)がきれいな花を咲かせていました。
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ジョン・エヴァレット・ミレーの「オフィーリア」を思い出させるような美しい水辺です。それまであまり好きではなかったラファエル前派の作品でしたが、ロンドンの「テート・ギャラリー」で見たときは感動し、これが夏目漱石が「草枕」で「風流な土左衛門」と呼んだ作品かと思いました。
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宮殿だけでは感じませんでしたが、この庭園も英国のマナーハウスや宮殿を意識して造られているのだと感じてきます。
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広大な芝生の庭はどんどん日影に占領されていきます。ノーフォーク・アラウカリアは庭園で最も高い木で、現在は50メートル以上に達しています。
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フランシス・クックが設計した偽の廃墟で、ジェラール・ド・ヴィスメが建てた礼拝堂を元に、かつてのモンセラーテの聖母礼拝堂に代わって建てられました。植生に覆われたこの遺跡は、隣接するオーストラリアのゴムの木と密接に結びついています。
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礼拝堂のニッチにはかつて庭園装飾として使われたエトルリアの石棺が3つありました。現在、これらはシントラの「サン・ミゲル・デ・オドリニャス考古学博物館」のコレクションに所蔵されています。
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庭園を歩いていて廃墟の修道院を見ているとスリランカの建築家ジェフリー・バワとブベス・バワの兄弟の設計を思い出します。2週間かけて設計した全てのホテルを訪ね、自宅兼事務所の「No,11 」と別荘の「ルヌガンガ」に宿泊して、ブベスの自宅でも感じた雰囲気を再び感じた気がします。
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芝生の庭を下って池を周った分の坂道を再び上がって宮殿の前に戻ってきました。そろそろ閉館の時間なので我々もシントラへ戻ることにします。
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入口の門の前でバスを待ちます。バスは一方通行の巡回なので同じバス停で待つことになります。
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やってきたバスは混雑していましたが、運よく座ることが出来ました。ここからかなり大回りしてシントラの駅前まで戻りました。
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町に戻る前にバスと並行して路面電車の線路が見えました。残念ながら電車の姿は見えませんが、一度乗ってみたいと思っていた路面電車でした。
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ホテルの門は開いたままだったのでフロントまで進むことが出来ました。ところが誰もいないので自分たちの荷物を持ってホテルを後にします。
カーサ ホルシュタイン キンタ ジ サオ セバスチアオ ホテル
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1泊だけではもったいない素敵な邸宅でした。
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最後に「シントラ王宮」の姿も見ることが出来ました。
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妻には駅で待ってもらっていましたが、日帰りの観光客がちょうど一斉に帰るタイミングになってしまいました。特にロシオ駅へ行く列車は超満員です。オリエンテ駅行の電車は空いているのでそちらに乗ることにします。
シントラ駅 駅
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この日は「ケルース/Queluz」に宿泊するのでどちらの電車にも乗れました。「ケルース/Queluz」の駅で下車して驚いたのは駅前にたくさんの人で溢れかえって、そのほとんどがアフリカ系の人々だったことです。女性もたくさん歩いているので危険な感じはしないのですが、これにはビックリです。歴史を振り返ると旧植民地だったモザンピークの人なのでしょうか?
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重たい荷物を持ちながらさらに途中のスーパーでコーラなどを買ってしまい余計に重たくなります。坂道を下りながら20分ほど歩いてようやく「ケルス宮殿/Palácio Nacional e Jardins de Queluz」が見えてきました。
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「ポルトガルのマリア1世女王像/Estátua Dona Maria I」がきれいにライトアップしていたので近くに行ってみます。
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その奥には宮殿の建物がきれいにライトアップされています。
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暗闇に浮かぶ姿はぞっとするほどの美しさでした。
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さてこの日宿泊するのは「ポサダ パラシオ デ ケルース/Pousada Palácio de Queluz - Pousada D. Maria I」です。23年前に宮殿の見学に来て、いつか泊まってみたいと思った夢がようやく叶います。
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18世紀後半のマリア1世女王の治世中に王宮の建設の最後に時計塔が建てられました。宮殿と同じ建築群の一部であり、王室警備隊、行政棟、厩舎の別棟も同様に建てられました。
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ここでは現地での支払いでしたが、クレジットカードが何度トライしても弾かれてしまいました。今回のポルトガル旅行ではほぼポルトガル全土で同じようなトラブルがあり、現金を多めに持って行って良かったと思いました。そのカードは途中のスペインはおろかその後の世界中の旅でも普通に使えています。
23年前に泊まりたいと思った念願のポウサーダ。 by kojikojiさんPousada Queluz ホテル
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19世紀の宮殿時代の建物を利用しているので天井はかなり高いです。部屋も広いのですが、空調の調整が難しく窓を開けたのですがその上げ下げ窓の重たいこと。妻の力ではびくとも動きませんでした。
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もう1つ残念だったのはレストランが営業していないので食事が出来ないということでした。遅いお昼を食べていたのと疲れ切っていたので風呂に入った後はすぐに寝てしまいました。
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バスルームは左にシャワー、右にトイレがありました。お湯の出もよくて使いやすいホテルでした。翌日は朝ご飯をしっかり食べて、チェックアウト前に「ケルース王宮」の見学をします。
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