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「赤穂義士」の足跡とゆかりの地と周辺の名所・旧跡の巡りの第3回目は、中央区にスポットをあてて巡ってみました。前回までの足どりを振り返ってみると、「赤穂義士」は討ち入りのあと、「回向院」で開門を拒絶された後、「両国橋」東詰から最も近い「一之橋」を渡り深川に入りました。「萬年橋」を渡りさらに進むと、狭い範囲に連続して架かっている「上ノ橋」、「中ノ橋」、「下ノ橋」を渡ります。そして、「永代橋」の袂にある元禄元年(1688年)から今なお現在まで続いている「ちくま味噌」で甘酒粥が振る舞われます。「赤穂義士」一行は、体と心を温め、また、前方から「上杉家」、後方から「津軽家」の追手を警戒して、「両国橋」を渡らず、「永代橋」を渡り、隅田川西岸を南下します。そして、「亀島橋」、「高橋」、「稲荷橋」をわたり、「鉄砲洲稲荷神社」の近く通り、鉄砲洲(現在の中央区湊、明石町付近)にあった「旧赤穂藩上屋敷跡」へ向かいました。「鉄砲洲」では、「奥平家」、「小浜坂井家」の取り調べを受け、赤穂藩邸跡に近づくことができなかったそうです。そして、「赤穂藩江戸上屋敷」のあった明石町地区は、明治初期に「築地外国人居留地」に設定された場所です。明石町地区内にはカトリック築地教会聖堂やミッションスクールの発祥を記念した石碑が多数散在しています。今、「赤穂藩江戸上屋敷」の面影を留めているのは「浅野内匠頭邸跡」だけです。せっかくですので、周辺に多数散在する大学等の発祥の記念碑等も合わせて訪ねてみたいと思います。<br /><br />《中央区付近での見学ルート》 ※ 「★」は赤穂義士関連の名所・旧跡<br />①★「亀島橋」⇒②★「堀部安兵衛武庸之碑」⇒③「芭蕉句碑八丁堀」⇒④★「高橋」⇒⑤★「稲荷橋跡」⇒⑥「鉄砲洲稲荷神社」⇒⑦「青山学院記念の地碑(旧海岸女学校跡)」⇒⑧「女子聖学院発祥の地碑」⇒⑨「明治学院発祥の地碑」⇒⑩「ヘンリーフォールズ住居の跡碑」⇒⑪「アメリカ公使館跡(説明板)」⇒⑫「明石町区民館入口前のガス街灯の柱」⇒⑬「東京税関発祥の地碑(運上所跡)」⇒⑭「電信創業之地碑」⇒⑮「月島の渡し跡碑」⇒⑯「シーボルトの胸像」⇒⑰「慶應義塾発祥の地記念碑」⇒⑱「女子学院発祥の地碑」⇒⑲「立教学院発祥の地」⇒⑳「アメリカ公使館跡の記念碑」⇒&#12881;「聖路加国際病院トイスラー記念館」⇒&#12882;「暁星学園発祥の地記念碑」⇒&#12883;「カトリック築地教会聖堂」⇒&#12884;「ガス街灯柱」⇒&#12885;「雙葉学園発祥の地」⇒&#12886;「東京中学院発祥の地」⇒&#12887;「築地外国人居留地跡の碑」⇒&#12888;「芥川龍之介生誕の地」⇒&#12889;★「浅野家内匠頭邸跡」⇒&#12890;「暁橋跡」⇒&#12891;「堺橋跡」⇒&#12892;「工学院大学学園発祥之地」⇒&#12893;「門跡橋親柱」⇒&#12894;★「築地本願寺」⇒&#12895;「名犬チロリ記念碑」⇒&#12977;「歌舞伎稲荷神社」⇒&#12978;「東京商工会議所発祥の地」⇒&#12979;「采女橋の碑」<br /><br />当日は、自宅から電車を乗り継ぎ、東京メトロ日比谷「八丁堀駅」で下車しました。まず「亀嶋橋」へ向かいました。東京メトロ日比谷「八丁堀駅」のA4出口を出て、進行方向に直進すると40mほど先に信号(表示名「八丁堀」)があります。横断歩道を渡り右折し、50mほど「八重洲通り」を直進すると、「亀嶋橋」の西詰があります。<br /><br />①★「亀島橋」<br />「亀島橋」は、「隅田川」に注ぐ小さな「亀島川」にかかる橋です。「亀島橋」は、元禄時代に架橋されたと言われています。その記事が、元禄12年(1699年)の町触に橋普請の記載があるからです。大正12年(1923年)の関東大震災で被害を受け、内務省復興局により昭和4年(1929年)に「鋼上路アーチ橋」として復興されましたが、戦時中の物資不足を補うため高欄等が供出されました。しかし、現在の「亀島橋」をよく見てみると「亀島橋」の橋の欄干が甲羅の形をしています。そして、上流に目を移してみると、川の真ん中の延長線上に「東京スカイツリー」がそびえ立って見えます。また、「亀島橋」は、赤穂義士が討ち入り凱旋時に通った橋のひとつといわれています。そして、「亀島橋」の名前の由来は、昔、瓶を売る者が多くいたからという説と、かつて亀に似た小島があったからという説があります。下流に目を移してみると、川は90度近く曲がっていました。<br /><br />②★「堀部安兵衛武庸之碑」<br />「堀部安兵衛武庸之碑」は「亀嶋橋」の西詰(北側)にあります。「堀部安兵衛武庸の碑」は、地元の八丁堀一丁目町会が昭和44年(1969年)8月に建立したものです。「堀部安兵衛武庸の碑」を読んでみると、「堀部安兵衛」が京橋水谷町の儒者である「細井次郎大夫家」に居住したという記載があります。これをもとに京橋水谷町に「堀部安兵衛」が住んだことがあるということで、この記念碑を建立したのでしょうね。ただし「京橋水谷町」というのはここではなく、現在の銀座一丁目にありましたが、火事になり、享保4年(1719年)に八丁堀に移転になりました。ということは、「赤穂義士」の討ち入り、切腹後になっていましますが、「八丁堀一丁目町会」の方々は水谷町の故地、京橋水谷町に「堀部安兵衛」が住んだことがあるということで、おそらく「堀部安兵衛武庸の碑」を建立したのでしょう。<br />「堀部安兵衛」は、寛文10(1670)年5月に、越後の新発田藩士であった「中山弥次右衛門」の長男として生まれました。「中山安兵衛」は、14歳のときに、父親の「中山弥次右衛門」が浪人の身となってしまい、中山家の再興を志し、江戸へ旅立ちました。牛込町天龍寺(新宿区納戸町)に居住。江戸での「中山安兵衛」は、江戸随一といわれた「堀内道場」で剣術を学び、師範代を勤めるほどになりました。また、堀内道場の同門で、伯父と甥の義を結ぶこととなる「菅野六郎左衛門」や高名な儒者となる「細井広沢」とも親交を深めたそうです。元禄7年(1694年) 2月2月11日には、歴史的にも名高い「高田馬場の決闘」を繰り広げました。元禄7(1694年)6月には、赤穂藩士「堀部弥兵衛」が養子に迎えたいと訪ねて、「堀部弥兵衛」の娘「ほり」と結婚して「堀部安兵衛」がここに誕生したのです。「堀部安兵衛武庸の碑」には安兵衛の略歴と法名が刻まれています。<br /><br />③「芭蕉句碑八丁堀」<br />「堀部安兵衛武庸之碑」の反対側(「亀嶋橋」西詰南側)の歩道には、「芭蕉句碑八丁堀」の碑があります。「芭蕉句碑八丁堀」は、「松尾芭蕉」が50歳晩年の元禄6年(1693年)の秋に詠んだ句です。句碑には「菊の花 咲くや石屋の 石の間」と刻まれています。そして、添書きに「八丁堀にて」とあります。句碑の隣に説明板があり、この句は「戸名所図会」三ツ橋の挿絵に八丁堀として載っている。」と書かれていました。かつて八丁堀には、掘割に面した石屋があったそうです。石材の間から咲いている菊の花を詠んだのでしょうか。ちなみに、「名所図会」とは、江戸時代末期に刊行された諸国の名所旧跡・景勝地の由緒来歴などを記し、風景画を多数載せた案内書のことです。<br /><br />④★「高橋」<br />「芭蕉句碑八丁堀」の先に左側に入る道があります。その道を道なりに280mほど進むと「高橋」があります。途中に道が二又に分かれますが、「亀島川」沿いの左方向に進みます。<br />「高橋」は、正保年間(1644年-1647年)頃に架けられた橋で、「高橋」の名前の由来は、亀島川の河口近く江戸湊からの船の通行が多いので、橋脚の「高い橋」(太鼓橋)を架けたことによるそうです。明治15年(1882年)鉄製トラス橋に架け替え、大正8年(1919年)に3径間コンクリートアーチ橋に架け替えられましたが、この際約50m上流に移設されています。そして、現在の「高橋」は、老朽化のために、昭和59年(1984年)3月に架け替えられた「鉄製ホイルトラス橋」です。やはり、「赤穂浪士」が引き上げの時に渡った橋の一つです。ちなみに、「高橋」は、管理者である東京都中央区によれば「たかばし」と濁って読むのが正式だそうです。「高橋」で気に入ったことは、アーチ形の欄干から南高橋や下流側の川幅が広いので佃の高層マンションが一望でき、右岸がすぐ道路(鉄砲州通り)となっていることなどもあって、なかなか見晴らしがよいことです。<br /><br />⑤★「稲荷橋跡」<br />「高橋」から「亀島川」沿いに「鉄砲洲通り」沿いに130mほど進むと歩道の左側にあります。「稲荷橋」と刻まれた名残の橋名標柱が八丁堀地区と湊地区を結ぶ「鉄砲洲通り」の両側に二箇所ありますので見逃さないように注意してください。橋の名前の由来は、「湊稲荷」(現在の「鉄砲洲稲荷神社」)があったことによるそうです。ちなみに、「八丁堀」の名前の由来は、「亀島川」から京橋川結節点までの距離が八丁(約870m)あったので「八丁堀」とされたそうです。そした、「稲荷橋」は「亀島川」に注ぎ込む河口の第1番目の橋だった。明治期に「八丁堀」は「桜川」と名を変え、この付近は埋め立てられましたが、今でも何となく舟入らしい地形が感じ取れる場所です。赤穂義士が引き揚げの際は、「永代橋」から「高橋」を経てここ「稲荷橋」を渡った橋です。また、「現鉄砲洲稲荷」の東側あたりには、かの「鬼平犯科帳」で有名な「長谷川平蔵」が住んでいたともいわれています。<br /><br />⑥「鉄砲洲稲荷神社」<br />「稲荷橋跡」の橋名標柱から「鉄砲洲通り」沿いに140mほど進むと右手に「鉄砲洲稲荷神社」があります。「鉄砲洲稲荷神社」は、中央区湊にある稲荷神社です。最初に「鉄砲洲稲荷神社」の歴史と概要を紐解いてみると、「鉄砲洲稲荷神社」の創建は、社伝によると、平安初期の承和8年(841年)に創建と伝わっています。凶作が続く中、住民達が自らの産土神を「生成太神」として祀り、日々の守護を祈願したことが始まりとされています。室町時代になると少しずつ入江の埋め立てが進み、大永年間(1521年-1527年)頃に更に埋め立てが進むと新しく海岸となった新京橋付近へ遷座しました。社名は、地名から「八町堀稲荷神社」と呼ばれていました。江戸時代の寛永元年(1624年)に、南八町堀と地続きになった鉄砲洲の稲荷橋付近に遷座しました。また、寛政2年(1790年)には、富士塚が築造され、「鉄砲洲富士」と呼ばれ人気を博していました。また、「鐵砲洲稲荷」とも「湊神社」とも呼ばれ、地域や船乗りからの崇敬を集めていたそうです。明治時代に入ると、明治元年(1868年)には、外国人居留地に指定されたため境内が接収されてしまい、明治2年(1869年)に、現在の地に移りました。大正12年(1923年)に、関東大震災が発生し湊一帯は焼け野原となり「鉄砲洲稲荷神社」も建物のほとんどを焼失しました。昭和10年(1932年)に、現在の「社殿」を造営しました。昭和12年(1937年)に、「神楽殿」も再建されました。平成28年(2016年)には、御鎮座千百八十年記念事業として「平成の大改修」が開始され、第一期工事として「富士塚」や「社務所」の解体や建築が行われました。<br />それでは「鉄砲洲稲荷神社」に参拝したいと思います。「石鳥居」の前には、社号碑と一対の小さめの狛犬があります。この「狛犬」は、昭和15年(1940年)に奉納されてものです。普通の「狛犬」に比べるとかなり小さめのサイズです。「石鳥居」をくぐると右手に大正14年(1925年)に建立された「百度石」がありました。その先の参道の右手には「手水舎」があります。一般的に「手水舎」には、作法が書かれているのですが、ここでは「戒めの言葉」が掲出されていました。反省と題し、「威張る時には 神に捨てられ 欲張る時には 金に背かれ 妬むときには 友を持ち得ず 興るときには 己を失うのだ 正光(中川正光宮司)」と書かれていました。確かにその通りで納得しました。「手水舎」の先の参道の正面には、昭和10年(1932年)に再建された「社殿」があり、その前には、昭和11年(1936年)に奉納された筋肉隆々でたくましい体格をした「狛犬」があります。「社殿」の右手には、「六番組の火桶」や昭和20年(1945年)に境内の松の根元から発見された「力石」があり、中央区の民有形民俗文化財に指定されています。その右手には、「社務所」があります。「社殿」の左手には、平成14年(2002年)に奉納された「二宮金次郎像」があります。そして、「社殿」の右奥には、中央区唯一の「富士塚」があります。この「富士塚」は、平成29年(2017年)3月に、「平成の大改造」の第一期工事として解体されていた「富士塚」が復興・再築されたものです。「富士塚」に上ることはできませんが、富士塚の周囲をぐるりと回れるように舗装されています。そして、「富士塚」の山頂には、高層ビルを背景に末社「鉄砲洲富士浅間神社」がありました。ただし、「富士塚」は普段の登拝はできませんが、富士山の山開きに合わせて7月1日のみ登拝が可能となるそうです。「富士塚」は、中央区の民有形民俗文化財に指定されています。<br />「社殿」の左手には、昭和12年(1937年)に、「神楽殿」も再建された「神楽殿」と「八幡神社」、「琴平神社」、「住吉社」、「浅間社」、「三輪社」、「天満社」が合祀されている境内社があります。さらに「社殿」の右奥には、「針塚」等の石碑もありました。<br /><br />⑦「青山学院記念の地碑(旧海岸女学校跡)」<br />「鉄砲洲稲荷神社」を出て右方向に「鉄砲洲通り」沿いに徒歩7分450mほど進むと歩道の右手に「青山学院記念の地碑(旧海岸女学校跡)」があります。途中の「都道473号線」(新富晴海線)の高架をくぐり抜ければ、「ヤマト運輸中央明石町営業所」がありその前にあります。<br />「青山学院」は、多くの源流を持ちますが、いずれも米国メソジスト監督教会の宣教師たちが設立した3つの学校が統合してできたものです。まず、明治7年(1874年)に、麻布新堀町に「ドーラ・E・スクーンメーカー」が「女子小学校」という学校を設立します。「ドーラ・E・スクーンメーカー」はわずか23歳で、アメリカで教師をしていましたが、志願して派遣されました。翌明治8年(1875年)には、芝に移って「救世学校」と校名を改称しました。さらに、明治10年(1877年)に築地居留地明石町10番地に移転し、「海岸女学校」と校名を改称します。それが「青山学院記念の地碑(旧海岸女学校跡)」のある場所です。「青山学院記念の地碑(旧海岸女学校跡)」は、平成20年(2008年)に建立されました。<br /><br />⑧「女子聖学院発祥の地碑」<br />「青山学院記念の地碑(旧海岸女学校跡)」の40m先の歩道の右側に「女子聖学院発祥の地碑」があります。「女子聖学院」は、明治38年(1905年)にアメリカから来日したプロテスタント教会の婦人宣教師「バーサ・F・クローノン」によって、築地外国人居留地14番に設立されたミッションスクールです。当初は神学部で女性宣教師の養成を行いましたが、数年後に普通科を設け一般女子の教育を始め、明治40年(1907年)には現在地の北区中里に移転しました。戦後 昭和22年(1947) の学制変更により中学校・高等学校・小学校となった。現在「学校法人聖学院」は、傘下に「聖学院大学」、「聖学院高校・中学」(男子校)、「女子聖学院高校・中学」(女子校)、小学校、幼稚園がある総合学園に成長しました。この「女子聖学院発祥の地碑」は平成16年(2004年) 10月に設置されましたが、隣接地に新しいビルを建設するため、一時期金属カバーで覆われ見ることができませんでした。平成18年(2006年) 10月になって工事が完了し、ようやく石碑の実物を見ることができるようになりました。<br /><br />⑨「明治学院発祥の地碑」<br />「女子聖学院発祥の地碑」の40m先の歩道の右側に「明治学院発祥の地碑」があります。「明治学院」は、江戸末期の文久2年(1863年)に、米国長老派教会の医療伝道宣教師「ジェームス・カーティス・ヘボン」が「横浜居留地」に私塾(「ヘボン塾」)を開設しました。この「ヘボン塾」は 、明治13年(1880年)に築地に移転し、「東京一致神学校」に人材を送り込む教育機関として「築地大学校」を設立しました。そして、これが母体となって明治20年(1887年)に「明治学院」が発足しました。昭和24年(1949年)に「明治学院大学」が設置され, 現在は 港区白金と横浜市戸塚区にキャンパスがあります。「明治学院発祥の地碑」は、昭和62年(1987年)10月31日に建立されました。<br /><br />⑩「ヘンリーフォールズ住居の跡碑」<br />「明治学院発祥の地碑」をさらに70mほど進むと「聖路加タワー」の前の信号の植え込みに、「ヘンリーフォールズ住居の跡碑」があります。ここには、かつての「築地居留地」の18号地で、英国人医師である「ヘンリー・フォールズ」が明治7年(1874年)から明治19年(1886年)まで12年間にわたり居住した場所です。「ヘンリー・フォールズ」はスコットランド一致長老教会の宣教師として来日し、キリスト教布教のかたわら、「築地病院」を開いて診療に従事しました。「ヘンリー・フォールズ」は、外科、眼科などが専門の医師でした。また、日本人の有志と連携して盲人の保護教育にも尽力しました。<br />そして、ここは日本のみならず、世界レベルの発祥地です。人間に指紋があることは古くから知られていました。また、その模様にいくつかパターンがあり、人によって違うこともわかっていましたが、個人の識別にまで応用できるとは考えられていませんでした。「ヘンリー・フォールズ」は、日本でおこなわれていた指印の習慣に興味をもち、たまたま発掘された土器に付着していた古代人の指紋を発見し、これにヒントを得てここではじめて科学的な指紋の研究を行いました。そして、明治13年(1880年)10月英国の雑誌「ネーチュア」に日本から投稿した彼の論文は科学的指紋法に関する世界最初の論文といわれ、その中で早くも犯罪者の個人識別の経験を発表し、また指紋の遺伝関係にも言及しています。「ヘンリーフォールズ住居の跡碑」は、明治44年(1911年)4月1日わが国の警察においてはじめて指紋法が採用されてから満50年目の日に記念碑が建立されました。<br /><br />⑪「アメリカ公使館跡(説明板)」<br />「ヘンリーフォールズ住居の跡碑」から70mほど先に「アメリカ公使館跡(説明板)」があります。「アメリカ大使館」の歴史を紐解いてみると、嘉永6年(1853年)のペリー来航に始まります。安政3年(1856年)に、初代アメリカ総領事「タウンゼント・ハリス」が、下田の「玉泉寺」に臨時の領事館を開きます。安政6年(1859年)弁理公使に任ぜられた「ハリス」は、幕府より貸与された麻布の「善福寺」に、公使館と住居を移します。文久3年(1863年)に公使館が置かれていた麻布善福寺の庫裏から出火し、建物が消失したため、公使館は横浜関内の外国人居留地に移転します。そして明治7年(1874年)に「ジョン・ビンガム公使」は築地の外国人居留地(現在の中央区明石町)に公使館と住居を移しました。<br />「アメリカ大使館」は、現在、港区赤坂にありますが、それ以前は、「聖路加ガーデン」の場所に、明治7年(1874年)から明治23(1890年)にかけて「アメリカ公使館」がありました。築地外国人居留地の「アメリカ公使館」は、木造2階建てでクリーム色のペンキが塗られた洋館だったといわれています。そして明治23年(1890年)に日本政府と「ジョン・スウィフト公使」は、東京市赤坂区溜池榎坂町1番地(現在の港区赤坂1-10-5)の地所並びに建物を「アメリカ公使館」用として賃貸する契約を交わし、現在の場所である赤坂に移転しました。「アメリカ公使館」が、赤坂に移転した後の建物は、数年後に増築されて「ホテル・メトロポール」となりました。<br /><br />⑫「明石町区民館入口前のガス街灯の柱」<br />「アメリカ公使館跡(説明板)」を20mほど進むと斜め左に入る道があります。その先50mほどの左手に「明石町区民館入口前のガス街灯の柱」があります。文明開化の時代を偲ばせる街の灯りである「ガス街灯の柱」や「ガス街灯」が、かつて「築地外国人居留地」があった地に今でも大切に保存されています。まず、「ガス街灯の柱」が、外国人居留地中央通り沿いに2基、明石町区民館に1基残されています。柱頭のランプ部分は新たに復元されたものですが、2基に「築地ホテル館」の塔が据えられています。その他、「明石小学校」正面玄関右側に3基、トイスラー記念館前に2基の「ガス街灯」があります。<br /><br />⑬「東京税関発祥の地碑(運上所跡)」<br />「明石町区民館入口前のガス街灯の柱」から70mほど進むと料亭「治作」の入口の左側に「東京税関発祥の地碑(運上所跡)」があります。「運上所」とは、江戸幕府が、鉄砲洲明石町の一帯を外国人居留地と定め、この地に税関業務等を行う「運上所」を設置し、これが「東京税関」の始まりとなりました。そして、「税関」という名になったのは 1872年(明治5年)からで、横浜税関の東京支署となりました。その理由としては、江戸は開港場ではなく開市という位置づけで多くの外国人商人は住もうとせず、さらに国防上の理由から大型船が東京に近づかないようにしたいためです。「東京税関発祥の地碑(運上所跡)」の銘板には、「江戸幕府は、慶応3年(1867年)に、江戸築地鉄砲洲明石町の一帯を外国人居留地と定め、この地に税関業務等を行う運上所を設置しました。これが東京税関の始まりです。」と刻まれていました。<br /><br />⑭「電信創業之地碑」<br />「東京税関発祥の地碑(運上所跡)」から道なりに110mほど進むと信号があります。信号の右手の植え込みに「電信創業之地碑」があります。明治2年(1869年)9月19日に横浜裁判所と東京築地の運上所内に設けられた「電信機役所」を結ぶ 約32㎞の電信線架設工事が開始され、同明治2年(1869年)12月25日に業務を開始しました。これが, 我が国における公衆電気通信の始まりです。この「電信創業之地碑」は、先駆者の業績を後世に伝えるため、昭和15年(1940年)に建立されたもので、 昭和53年(1978年)に南南東約40メートルの地点から 現在の地へ移設されたものです。ちなみに、「運上所」とは、江戸幕府が、鉄砲洲明石町の一帯を外国人居留地と定め、この地に税関業務等を行う「運上所」を設置し、これが「東京税関」の始まりとなりました。現在は、料亭「治作」に姿を変えています。<br /><br />⑮「月島の渡し跡碑」<br />「月島の渡し跡」は、明治から昭和にかけて月島と南飯田町を繋いだ渡船跡地です。「月島の渡し」の歴史を紐解いてみると、明治25年(1892年)11月に、土木請負業の「鈴木由三郎」が, 南飯田町(現在の築地7丁目18番)から月島(現在の月島3丁目24番)へ、手漕ぎの船で私設の有料渡船を開始したことに始まります。その後、明治34年(1901年)に月島への交通の重要性を考慮した東京市が渡船の市営化を決め, 明治35年(1902年)に汽船曳舟二隻で交互運転を開始し、渡し賃も無料となりました。しかし、約50年間運航された渡船は、昭和15年(1940年)に「勝鬨橋」が完成したことによりその役目を終えて廃止となりました。現在、横断歩道わきの緑地に説明板が設置されています。いずれにしても、「月島の渡し」は,月島工業地帯の発展を支え、日本の近代化に寄与した渡船だそうです。<br /><br />⑯「シーボルトの胸像」<br />「月島の渡し跡碑」のある信号の斜め右手に「中央区立あかつき公園」があり、その中に「シーボルトの胸像」がます。ドイツ人医師の「フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト」は、オランダの陸軍軍医で、文政6年(1823年) 7月に、27歳の若さで長崎の出島の商館医として最初の来日をしました。「シーボルト」は、医者の仕事ばかりでなく日本との貿易のため、日本のことを調べるようにも命じられていました。「シーボルト」は、文政9年(1826年)正月に、オランダ商館長と共に江戸参府に同行し、江戸へ向かい、何と旅の途中で植物や動物を採取、山の高さの測量もしたそうです。江戸に到着したのが文政9年(1826年)3月4日で、文政9年(1826年)4月12日出発するまでの間に、多くの医者や蘭学者を指導し、江戸蘭学発展のために貢献するところが大きかったそうです。特に、「築地本願寺」に墓のある「土生玄碩」は、江戸滞在中の「シーボルト」が治験した瞳孔を散大させる秘薬「散瞳薬」に驚嘆し、施術に有効な新薬の製法を得ようと何度も会見し、手に入れようと懇願したといわれています。最終的には、危険を顧みずに将軍下賜の国禁品と引き換えに製薬教示を得ましたが、数年後にこのことが発覚し文政11年(1828年)の「シーボルト事件」に連座し、改易・禁錮の身となりました。そして、ここが江戸蘭学発祥の地であり、シーボルトの娘である「いね」も医者になり、築地で産婦人科を開院したことなどのゆかりから「シーボルトの胸像」が建立されました。<br /><br />⑰「慶應義塾発祥の地記念碑」<br />「中央区立あかつき公園」の中央の道を進むと「居留地中央通り」にでます。右方向に進むと信号がありますので、左折し横断歩道を渡ると、目の前の三角州に「慶應義塾発祥の地記念碑」があります。徒歩2分180mほどの距離です。「慶應義塾発祥の地記念碑」が何故ここに建立されたかというと、幕末の頃にまで遡ります。実は、現在の地(築地鉄砲洲)に「福沢諭吉」の出身である「中津藩中屋敷」があり、安政5年(1858年)に「中津藩中屋敷」内の蘭学塾に「福沢諭吉」が教師に就任したことが、「慶應義塾」のルーツということで記念碑が建立されました。そして、慶應4年(1868年)に、蘭学塾を芝の新銭座(現在の港区浜松町付近)に移し、イギリスのパブリックスクールにならって近代的学塾として、当時の元号にちなんで、「慶應義塾」と命名しました。そして、明治4年(1871年)3月23日に三田に校舎を移転し、「三田の慶応義塾」の歴史が始まりました。「慶應義塾発祥の地記念碑」は、昭和33年(1958年)4月23日に「慶應義塾創立100周年」を記念して、「聖路加国際病院」敷地内に建立されましたが、中央区の道路整備に伴って現在地に移されました。特徴的な書籍型オブジェには、「学問のすすめ」の初編初版本の活字と同じ字型で「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」の文字が刻まれています。また、その隣には「蘭学の泉はここに」の碑も立っています。ちなみに、築地鉄砲洲の「中津藩中屋敷」は、藩医であった「前野良沢」が「解体新書」を翻訳した地でもあるそうです。<br /><br />⑱「女子学院発祥の地碑」<br />「慶應義塾発祥の地記念碑」のところにある横断歩道で「聖ルカ通り」の反対側の歩道に渡ります。左方向に80mほど進むと「女子学院発祥の地碑」が歩道の右手にあります。「女子学院」は明治3年(1870年)に、「ジュリア・カロゾルス」によって「築地居留地」に開設されたキリスト教主義の学校です。当初は、「A六番女学校」として発足し、それがルーツで, 後に「新栄女学校」となりました。そして、明治23年(1890年)に、「新栄女学校」と「桜井女学校」が合併して、現在の校舎のある千代田区一番町に移転し, 校名も「女子学院」となりました。「女子学院発祥の地碑」は、平成11年(1999年)に創立130周年を記念して建てられました。ちなみに、「A六番館」は築地居留地に建てられた初めての洋館で、建設当初は、見物人が絶えなかったそうです。しかし、明治5年(1872年)4月4日に全焼し、その後すぐに再建されたそうです。<br /><br />⑲「立教学院発祥の地碑」<br />「女子学院発祥の地碑」から元来た道を戻り信号の左手に「聖路加病院」の中庭に入る道があります。30mほど進むと右手に「立教学院発祥の地碑」があります。「立教学院」は、明治7年(1874年)に、米国聖公会の宣教師、「チャニング・M・ウィリアムズ」主教によって築地の外国人居留地に開かれた、聖書と英学を教える私塾「立教学校」がそのルーツです。その後、「立教大学校」、「立教専修学校」、「立教中学校」などと名称を変更しています。そして、明治40年(1907年)には「立教大学」を開設し、大正7年(1918年)に豊島区池袋に移転し、現在、「立教大学」は、10学部27学科を擁する総合大学へと発展し、池袋と新座にキャンパスあります。そして、「立教大学」は、世界の約120大学とともに「世界聖公会大学連合」(CUAC)に加盟し、「アングリカン・コミュニオン」(世界の聖公会)の広がりの中でつながっています。「立教学院発祥の地」の記念碑は、立教学院の創立125周年を記念して平成12年(2000年)に建立されました<br /><br />⑳「アメリカ公使館跡の記念碑」<br />「立教学院発祥の地碑」の正面の右手には、「アメリカ公使館跡の記念碑」と「聖路加国際病院トイスラー記念館」が隣接してあります。「聖路加国際病院」の中庭には、明治7年(1874年)から明治23年(1890年)まで約16年間にわたり「アメリカ公使館」が設置されていました。そこには、約80センチ四方の小松石でできた3基の記念碑があります。図柄は、アメリカを象徴する星、鷲、盾のデザインである「五稜の星」、「盾型の星条旗」、「白頭鷲」の3種類です。記念碑は、開設当初に公使館があった隅田川畔の「聖路加ガーデン」(明石町8番)の「親水公園」に2基、「聖路加国際病院トイスラー記念館」(明石町10番)前に3基あり、平成2年(1990年)4月1日に中央区の区民有形文化財歴史資料に指定されています。実は、「アメリカ公使館跡の記念碑」は8基あったそうですが、残りの3基は、昭和59年(1984年)に、赤坂のアメリカ大使館に寄贈されたそうです。<br />ちなみに、日本に「アメリカ公使館」が設置された歴史を紐解いてみると、安政5年(1859年)には、「日米修好通商条約」を締結し、外交使節の江戸駐在や箱館、神奈川、長崎、新潟、兵庫の開港、江戸と大坂の開市などが定められました。そして、この条約の翌年から江戸に外国公使が赴任してきました。最初の「アメリカ公使館」は、安政6年(1860年)6月に麻布山善福寺の庫裏に設置されました。しかし、文久3年(1863年)に火災で焼失し、「横浜外国人居留地」へと移転し、その後、明治元年(1868年)に開市した江戸の「築地外国人居留地」に移転してきました。「アメリカ公使館」は、現在の明石町8番にあり、クリーム色のペンキが塗られた木造2階建てのオシャレな洋館だったそうです。そして、最終的には、溜池榎坂町(現在のアメリカ大使館)に再移転しました。<br /><br />&#12881;「聖路加国際病院トイスラー記念館」<br />「聖路加国際病院トイスラー記念館」は、昭和8年(1933年)に現在地から約210メートル東の隅田川畔の明石町19番地、現在の「聖路加タワー」辺りに建設されました。そして、解体保存工事を経て平成10年(1998年)に現在の「聖路加国際病院」の中庭へと移築復元されました。建物の建築様式は、鉄筋コンクリート造一部木造2階建で、外観はヨーロッパの山荘を思わせる特徴的な造りで、屋内は木の内装となっています。完成当初は、「トイスラー院長」に看護教育宣教師として招かれた「アリス・C・セントジョン」女史の宿舎として使用されていました。設計は、旧聖路加病院棟、聖ルカ礼拝堂の設計に携わったアメリカ人建築家の「J・V・W・バーガミニィ」で、施工は「清水組」(現在の「清水建設株式会社」)が担当しました。「トイスラー記念館」は、移築復元前までは地下にボイラー設備を有するなど、耐震性と機能性を備えた住宅建築となっていたそうです。残念ながら、「トイスラー記念館」の内部は非公開で、周囲から鑑賞するしかありません。また、「トイスラー記念館」は、平成16年(2004年)4月1日中央区の区民有形文化財に指定されています。<br /><br />&#12882;「暁星学園発祥の地記念碑」<br />「聖路加国際病院トイスラー記念館」の裏手に回り、「居留地中央通り」に出ます。「居留地中央通り」に出たら左折し、80mほど進むと信号があります。信号を右折し、渡り終えたら左折します。10m先の歩道の左手に「暁星学園発祥の地記念碑」があります。「暁星学園発祥の地記念碑」の前には、「カトリック築地教会」があります。「カトリック築地教会」は、明治7年(1874年)11月22日に開かれた東京で最初のカトリック教会です。創設したのはパリから来た宣教師たちでした。ここを拠点にし、やはりパリのカトリック教育修道会マリア会の4人の宣教師が、教会の一角に明治11年(1888年)に開いた小規模の学校が日本最古のカトリック男子校である「暁星学園」の始まりです。開校時には特に名前がなく、明治11年(1888年)2月にできてすぐ、そして、明治11年(1888年)7月には麹町区元薗町に移転します。この時に「暁星」という名前が付けられました。「暁星」とは「金星」のことです。碑の裏に彫られた「Ecole de l&#39;Etoile du Matin」は「明けの明星の学校」すなわち「暁星学園」との意味です。麹町の校地は借家で、現在の麹町学園のあたりでした。さらに明治23年(1890年)に麹町区富士見(現在地)に移転しました。それと碑の上には、1冊の本が開かれた形のモニュメントがあり、「あなたがたは地の塩 世の光である(マタイによる福音書)」と刻まれていました。この言葉は、イエスが弟子たちに対して語ったもので、「あなたはかけがえのない存在で、社会の中で活躍していくことのできる賜物・才能を持っているので、それを充分に使っていくように」ということを示したものです。<br /><br />&#12883;「カトリック築地教会聖堂」<br />「カトリック築地教会」は、明治7年(1874年)11月22日に開かれた東京で最初のカトリック教会です。創設したのはパリから来た宣教師たちでした。「カトリック神田教会」と同じく、東京で比較的早い段階から日本人のために開かれていた教会で、現在の聖堂は、平成11年(1999年)4月に東京都選定歴史的建造物および平成13年(2001年)3月に東京都中央区の区民文化財に指定されています。「カトリック築地教会」の歴史を紐解いてみると、「カトリック築地教会」は、明治4年(1871年)にパリ外国宣教会の「マラン神父」が、鉄砲洲の稲荷橋付近の商家を借りて伝導活動を行ったことに始まります。その後、明治7年(1874年)に築地外国人居留地35・36番(現在地)を借り受け、明治11年(1878年)にはゴシック様式の立派な聖堂が建立されました。<br />現在の「カトリック築地教会」の建築様式は非常に特徴的で、教会としては珍しいギリシャ神殿パルテノン様式を採用しています。現聖堂は、当時の東京大司教であるレイ大司教の希望によりギリシャ建築パルテノン型が採用されたそうです。正面にはドリス式の円柱が6本並びペディメントには、左右にバラと中央にユリの彫刻がなされていました。聖堂の歴史を遡ってみると、古くは、明治11年(1878年)に完成した旧聖堂は、ゴシック式赤レンガ造りでしたが、大正12年(1923年)に関東大震災で焼失しました。昭和2年(1927年)に、木造2階建の現聖堂が完成しました。<br /><br />&#12884;「ガス街灯柱」<br />「カトリック築地教会」を出て右方向に40mほど進むと横断歩道があります。左折して反対側に渡ります。80mほど進むと、左手に「リハポート明石」があり、入口の右側にクリーム色の「ガス街灯の柱」があります。文明開化の時代を偲ばせる街の灯りである「ガス街灯の柱」や「ガス街灯」が、かつて「築地外国人居留地」があった地に今でも大切に保存されています。まず、「ガス街灯の柱」が、外国人居留地中央通り沿いに2基、明石町区民館に1基残されています。柱頭のランプ部分は新たに復元されたものですが、2基に「築地ホテル館」の塔が据えられています。その他、「明石小学校」正面玄関右側に3基、トイスラー記念館前に2基の「ガス街灯」があります。<br /><br />&#12885;「雙葉学園発祥の地」<br />「ガス街灯柱」のある「リハポート明石」の入口の反対側の斜め右手の歩道に「雙葉学園発祥の地碑」があります。明治5年(1872年)にカトリック系の「サンモール修道会」の宣教師5人がフランスより来日し, 横浜で布教と教育慈善活動を開始しました。明治8年(1875年)に築地に、「築地童貞学校」を開校し、さらに隣接して、「築地語学校」を開校しました。明治42年(1909年) 初代校長の「メール・セント・テレーズ」が 私財を投じてJR四谷駅前に フランス風の優雅な木造2階建ての校舎を建造して「雙葉高等女学校」を創立しました。昭和23年(1947年)の学制改革により「雙葉高等学校」となりました。なお, この場所は 中央区立第二中学校があった所で, 今年 平成17年(2005) 跡地に“リハポート明石”という大きなビルが建てられた。ここで何と言っても印象に残ったのは、「ハート形」した石碑です。しかし、よく見るとハートではなく、二枚の葉が重なっているようにも見えます。実は、これは「ふたば葵」で「雙葉学園」の「雙葉」は,「フタバアオイ」という植物の名から採ったということです。碑文には、「徳に於ては純真に 義務に於ては堅実に」と刻まれていました。碑文は「雙葉学園」の校訓で、日本語とフランス語で書かれています。「徳においては純真に」は「まっすぐに明るく生きる心の清さを尊び、品位と礼儀を重んじる美しい心を持つ」ということで、そして、「義務においては堅実に」は「秩序と規律を守り、愛と責任を持って、誠実に事をやり遂げる強い心を持つ」ということだそうです。<br /><br />&#12886;「東京中学院発祥の地碑」<br />「雙葉学園発祥の地碑」から「居留地中央通り」を40mほど戻ると歩道の右手に「東京中学院発祥の地碑」があります。「東京中学院」は、キリスト教プロテスタントの一教派であるアメリカ北部バプテストが設立した男子校で、明治28年(1895年)に「築地居留地」に開校しました。その後、明治32年(1899年)には、「東京学院」と校名を変更し,新宿区市谷左内町に移転しました。ところが、大正12年(1923年)の関東大震災により大きな被害を受けたため、昭和2年(1927) に横浜の「中学関東学院」と合併して、「財団法人関東学院」が組織されました。戦後の学制改革により「関東学院中学校・高等学校」および「関東学院大学」となって現在に至っています。<br />ちなみに、「関東学院大学」にはいくつか源流があり、その一番古いものは、明治17年(1884年)に横浜山手にアメリカ北部バプテスト同盟の「アルバート・アーノルド・ベネット」が設立した「横浜バプテスト神学校」です。「横浜バプテスト神学校」は明治43年(1910年)に「福岡バプテスト神学校」と合併して東京文京区小石川に移り、名前も「日本バプテスト神学校」となります。「東京中学院発祥の地碑」は、平成21年(2009年)に学院創立125周年記念事業として築地に建てられました。<br /><br />&#12887;「築地外国人居留地跡の碑」<br />「東京中学院発祥の地碑」から100mほど進むと信号があり右手の角に「築地外国人居留地跡の碑」があります。「築地」というと豊洲に移転した「旧東京都中央卸売市場」や「築地本願寺」が頭に浮かんできますが、「外国人居留地」もありました。明治2年(1869年)に、現在の中央区明石町一帯にあたる「築地鉄砲洲」に、「外国人居留地」が設けられました。その歴史を辿ってみると、アメリカ、オランダ、ロシア、イギリス、フランスと締結した「安政5カ国条約」に基づき、函館、横浜、長崎、新潟、神戸の5港を開港し、江戸と大坂では、開市をすることが取り決められました。日本における「外国人居留地」は、条約締結国の外国人の居住や通商のための専用特別区として開港場、開市場の土地に設けられました。江戸の開市は、明治元年(1868年)11月19日、明治新政府になってから実現し、現在の明石町地区に「築地外国人居留地」が設定されました。また、「築地外国人居留地」には、ここを発祥の地とするキリスト教系の学校も数多く設立されました。「築地外国人居留地」の大きな特徴は、商館の多かった横浜や神戸などとは異なり、外国公使館や領事館をはじめ、海外からの宣教師、医師、教師などの知識人が居住し、教会や学校などを数多く開いて教育を行っていました。「築地外国人居留地跡の碑」の傍らには、「築地外国人居留地」時代の「レンガ塀遺構」と「ガス街灯」が残っていて、その当時の面影を今に残しています。「レンガ塀遺構」のレンガは、イギリス積みで積まれた築地外国人居留地時代のレンガ塀遺構の一部です。「ガス街灯」の柱は、コリント風の様式で上部にある左右20㎝の腕金や下部に施された帯状の操り形など、特徴的な装飾が見られる鋳鉄製の柱です。<br /><br />&#12888;「芥川龍之介生誕の地」<br />「築地外国人居留地跡の碑」の前の信号の横断歩道を渡り右折します。90mほど進むと歩道の右手に「芥川龍之介生誕の地」の説明板があります。「芥川龍之介」は、明治25年(1892年)3月1日に、牛乳販売会社「耕牧舎」を経営する「新原敏三」の長男として、東京市京橋区入船八丁目一番地(現在の中央区明石町十番)で生まれました。辰年辰の日辰の刻の生まれにより「龍之介」と命名されたと言います。生後7ヶ月で母親の「ふく」が病気になったため、「龍之介」は母の実家の「芥川家」に引き取られて成長しました。当時本所区小泉町15番地に住んでいた「ふく」の長兄「芥川道章」に引き取られ、後13歳の時、芥川家の養子となりました。「芥川龍之介」は、「夏目漱石」門下で、「鼻」、「羅生門」、「河童」、「或阿呆の一生」などの多くの文学作品を残しました。<br /><br />&#12889;★「浅野家内匠頭邸跡」<br />「芥川龍之介生誕の地」から60mほど進むとT字路になります。左折し90mほど進むと左手の植え込みに「浅野家内匠頭邸跡」の石碑と説明があります。「浅野家内匠頭邸」は、現在の「聖路加国際病院」のところにありました。「聖路加国際病院」の西側に「築地川公園」という公園がありますが、ここには、かつて「築地川」と呼ばれた川が流れており、「浅野家」の屋敷はその川に面して建っていました。「浅野家」の歴史と概要を紐解いてみると、常陸笠間藩主「浅野長直」(現在の茨城県笠間市)は、正保2年(1645年)に、「播磨赤穂」(兵庫県赤穂市)に領地替えとなり、5万3500石を領して「内匠頭」と称しました。そして、「赤穂藩」が築地の地に江戸上屋敷を構えたのは、明暦3年(1657年)のことです。それまでの上屋敷は外桜田にありました。浅野家初代藩主「浅野長直」の治世の時に備中国「高梁藩」との相対替えによって移転してきました。「浅野長矩」が生まれたのもこの屋敷でした。そして、元禄14年(1701年)3月14日に切腹を命じられ赤穂浅野藩が断絶するまで、赤穂浅野藩の藩屋敷に使用されていました。<br /><br />&#12890;「暁橋跡」<br />「浅野家内匠頭邸跡」から40mほど先に「聖ルカ通り」があります。「聖ルカ通り」をはさんで、「中央区立築地川公園」の両側の歩道には、「暁橋跡」の碑があります。「暁橋」は、築地川南支流に架かっていた橋で、震災復興橋梁のひとつです。築地川本流に新しく架けられた橋長31.5m、幅15mの鈑桁橋で、昭和2年(1927年)3月に完成しました。そして、昭和60年(1985年)に撤去されました。現在は、その川は、「中央区立築地川公園」に生まれ変わっています。「暁橋」の下流の西南の方向に「備前橋」がありましたが、そこから上流は、昭和46年(1971年)に埋めたてられたそうです。ちなみに、「築地川」は、東京都中央区築地付近を流れていた川です。人工河川ですが他の河川とは生い立ちが異なります。どこが違うのかというと、「築地川」は、江戸時代に、海を埋め立てた際に陸地と陸地に挟まれた部分がそのまま川状になりました。しかし、高度経済成長期に、水運の衰退と陸運の増加により、「築地川」は「浜離宮」付近を除くほとんどが埋め立てられ、一部が首都高速へと転用されたそうです。それと、もう一つ見逃してはならないのが、両側に残されている橋の親柱にある「橋名板」です。「中央区立築地川公園」の左側にある「橋名板」は、漢字で「暁橋」と表記され、右側にある「橋名板」には、「あかつきばし」とひらがなで表記されています。漢字表記が入口でひらがな表記は出口だそうです。昔は「すべての道路の起点は東京の日本橋」とされていて、日本橋に近い方を起点(入口)、遠い方を終点(出口)としていたそうです。<br /><br />&#12891;「堺橋跡」<br />「暁橋跡」から「中央区立築地川公園」に入り、60mほど進むと「堺橋跡」があります。「堺橋」は、築地川に架かる橋で震災復興橋梁の一つです。かつては、小田原町(現在の築地7丁目)から明石町へ架けられていました。関東大震災前は橋長5.5m、幅4mの木橋でしたが、関東大震災後に橋長25m、幅8mの鈑桁橋として改築され、昭和3年(1928) 7月に完成しました。ちなみに、「鈑桁橋」とは、アルファベットの「I」の字の形に鉄板を組んで、桁けたを製作し、この桁を柱はしらと柱の間に横桁を渡し、荷重を支ささえる橋のことです。「築地川」は、「堺橋」の先で分流し、南への水路が「築地川南支川」となり、北へ曲がる本流は「合引川」とも呼ばれていました。この橋を境にして「築地川」の川筋が分かれていました。「堺橋」は、昭和46年(1971年)に、首都高速道蕗の建設のため、「築地川」の埋立てに伴い撤去されました。<br /><br />&#12892;「工学院大学学園発祥之地」<br />「中央区立築地川公園」の「暁橋跡」の道路の反対側には、「あかつき公園冒険広場」がありその入口のところに「工学院大学学園発祥之地碑」があります。「工学院大学」の歴史は 明治20年(1887年)に、築地に創設された「工手学校」に始まります。昭和3年(1928年) に新宿区に移転して戦後の昭和24年(1949年) に「工学院大学」となりました。時代の背景として、明治初期における富国強兵策のなかで、高等教育の学校は整備されつつあって人材も育ってきていましたが、現場の工場を支える熟練工や現場監督が不足していたそうです。こうした中堅層の職工育成を目的に作られたのが「工学院大学」の前身である「工手学校」だそうです。また、創立にあたっては、東京帝国大学初代総長の「渡辺洪基」らが中心となり、「工手学校」創立協議会を組織しました。現在は、新宿副都心の 28階建ての超高層ビルと八王子市に校舎があります。「工学院大学学園発祥之地」碑は、昭和31年(1956年)に中央区小田原町に建立されました。<br /><br />&#12893;「門跡橋親柱」<br />「工学院大学学園発祥之地」を出て、「築地市場」の方へ向かい、280mほど進むと二つ目の信号が「晴海通り」になります。「晴海通り」を右折し、70mほど進むと右手に「門跡橋親柱」があります。「門跡橋」は、昭和3年(1928)6月に「築地川南支川」に架橋された関東大震災後の鉄筋コンクリート造りの震災復興橋梁です。「門跡橋」は、築地3丁目(現在の築地3・4丁目)と南小田原町1・2丁目(現在の築地6丁目)との間に架けられた橋です。そして、昭和3年(1928年)の架設時には、「小田原橋」の俗称から取った「築南橋」と橋名が付けられましたが、「築地本願寺」の門徒代表以下59人による名称変更の陳情があり、新しく架橋された橋に「築地本願寺」(西本願寺)を意味する「門跡」をつけて、「門跡橋」と改称された橋でもありました。<br />「門跡橋親柱」には、「門跡橋」の一部である高さ約122cm、幅約119cm、奥行約118cmの「親柱」1基が正方形の基壇上にあります。その他に花崗岩製の親柱には橋梁の名称を示す「門跡橋」の橋名板と竣工年月を記した「昭和三年六月 復興局建造」と刻まれた銅板も設置されています。戦後まであった「築地川」は、東京オリンピックに向けた道路整備の一環で首都高速道路の用地となり、昭和から平成と段階的に埋め立てが進められて現在に至っています。「門跡橋親柱」は、令和2年(2021年)4月1日に中央区の区民有形文化財(建造物)に指定されました。<br /><br />&#12894;★「築地本願寺」<br />「門跡橋親柱」から80mほど進むと、郵便ポストがありその右手に「築地本願寺」の南門は通じる道があります。<br />「築地本願寺」は、浄土真宗本願寺派の寺院です。本山は、京都下京区にある「龍谷山本願寺」(西本願寺)で、「築地本願寺」は、その直轄の寺院になります。「築地本願寺」の正門から入ると、その建築様式に驚かされるというか、感激します。誰もが、まず、お寺というと頭に浮かぶのは和風の建築ですが、「築地本願寺」は古代インドやアジアの古代仏教建築のデザインが取り入れられた、非常に珍しいお寺です。<br />「築地本願寺」の歴史を紐解いてみると、「築地本願寺」は、元和3年(1617年)に浅草近くに「龍谷山本願寺」(西本願寺)の別院として建立されましたが、明暦3年(1657年)の「明暦の大火」と呼ばれる大火事で焼失してしまいました。その後、再建のため江戸幕府から与えられた土地が現在の場所ですが、その当時は海上だったので埋め立て工事と造成をしなければなりませんでした。そして、そこに海を埋め立てて土地を築き「本堂」を建立しました。意外にもそのことが「築地」という名称の由来になったそうです。そして、「築地御坊」と呼ばれるようになりました。この時の「本堂」の正面は西(現在の「築地市場」)を向いて建てられ、築地場外市場のあたりには58カ所の寺院からなる寺内町だったそうです。<br />また、大正12年(1923年)には「関東大震災」に伴う火災により再度本堂を焼失しましたが、昭和9年(1934年)に再建し、現在の「本堂」の姿となりました。「本堂」は、東京帝国大学工学部(現東京大学)教授で建築家の「伊東忠太」博士の設計による古代インド・アジア仏教様式を模した独特の外観が独創的かつ特徴的です。インドにある「アジャンター石窟寺院」などがモデルになっているそうです。「伊東忠太」は、建築家初の文化勲章を受章するなど、建築界に大きな足跡を残した人物です。<br />しかし、「本堂」内に入ると幻想的な浄土真宗の造りとなっています。そして、「本堂」でも何よりも目を引くのが、巨大な「パイプオルガン」です。この「パイプオルガン」は、昭和45年(1970年)に、仏教音楽の普及を願い寄贈されたもので、毎月最終金曜日に行われる「ランチタイムコンサート」で楽しむことができます。<br />また、建物の細部には、インドのみならず和洋中と世界の建築要素が取り入れられていることも有名です。「本堂」正面にある「有翼の獅子」や「牛」、「獅子」、「馬」、「象」、「孔雀」、「猿」など様々な霊獣など全13種の動物像が寺の各所に隠れています。これを探すのにチャレンジするのも「築地本願寺」の建築様式を楽しむ一つの方法です。平成26年(204年)には、「本堂」、「門柱(正門・北門・南門)」、「石塀」が国の重要文化財に指定されました。<br /><br />《「築地本願寺」のお薦め参拝巡路》<br />「石塀」(重要文化財)⇒「門柱(正門)」(重要文化財)⇒「手水舎」⇒「酒井抱一墓」⇒「九条武子様歌碑」⇒「土生玄碩墓」⇒「大瀛師之塔」⇒「間新六之塔」⇒「陸上交通殉難者追悼の碑」⇒「台湾物故者遺骨安置所」⇒「親鸞聖人の像」⇒「門柱(南門)」(重要文化財)⇒「本堂」⇒「」⇒「」⇒「」<br /><br />それでは「築地本願寺」を参拝します。まず、「正門」から入る前に国の重要文化財に指定されている「石塀」と正門「門柱」の外観を鑑賞するのをお薦めします。「正門」から入るとすぐ右手に「手水舎」があります。ちなみに、浄土真宗では、参拝の際に身を清める儀式をする必要はありません。「手水舎」は参拝者が遠路はるばる歩いてきた時代に、本堂を汚さないように足を洗うためのものだったそうです。次に「手水舎」の手前の道を右方向に進むと、「酒井抱一墓」、「九条武子様歌碑」、「土生玄碩墓」、「大瀛師之塔」、「間新六之塔」、「陸上交通殉難者追悼の碑」、「台湾物故者遺骨安置所」、「親鸞聖人の像」などの旧跡等が連続して並んでいます。「親鸞聖人の像」を見学し終えたら、重要文化財に指定されている「南門」です。さて、いよいよ「本堂」の参拝です。「本堂」は、建物中央の階段を利用しますが、バリアフリールートや「本堂」内にはエレベーターもありますので、ベビーカーや車椅子の方はそちらを利用すると良いと思います。「本堂」の中央には、中央には浄土真宗の御本尊である「阿弥陀如来像」が安置されています。「築地本願寺」での参拝方法は、まず御本尊に一礼します。香をつまみ、香炉に入れます。複数回行うのでなく1回のみです。それから合掌して、「なもあみだぶつ」と称えてから礼拝し、一礼して退出するのが正式な参拝方法です。ここでの注意点ですが、お香はつまんだ後、額に寄せないで香炉に入れるようにしまます。そして、「本堂」を参拝すると「参拝記念カード」があり、参拝後に持ち帰ることができます。何故「参拝記念カード」とかというと、「築地本願寺」には、御朱印やお守りはありません。御朱印は追善供養(故人に対する供養)の受取印が起源なので、追善供養を行わない浄土真宗には御朱印がないそうだらだそうです。そして、「参拝記念カード」に書いてある言葉や色は毎月変わります。ちなみに、12カ月分の「参拝記念カード」集めると記念品などがもらえるそうです。<br />参拝後は、「築地本願寺」の「本堂」の素晴らしい建築様式やモニュメント等を見学します。「本堂」への入口の上部には、蓮の花が描かれた色鮮やか「ステンドグラス」があります。外からの日が「ステンドグラス」に当たる時間帯に見るのがベストだそうです。そして、「ステンドグラス」を背景にその両脇には、「本堂」で最も目を引く、巨大な「パイプオルガン」が目に入ってきます。この「パイプオルガン」は、昭和45年(1970年)に、仏教音楽の普及を願い寄贈されたもので、2mから2cmまで、大小約2,000本ものパイプで構成されています。毎月最終金曜日に行われる参加無料の「ランチタイムコンサート」で「パイプオルガン」の音色を楽しむことができます。<br />次は、「本堂」をはじめあらゆるところにある「動物像」探しです。「本堂」正面にある「有翼の獅子」をはじめ、「牛」、「獅子」、「馬」、「象」、「孔雀」、「猿」等の霊獣など全13種の動物像が寺の各所に隠れています。これらの像を設置したのは、動物好きで知られる「築地本願寺」の設計者「伊東忠太」です。「伊東忠太」は、もともと動物や妖怪が好きで、建築にも摩訶不思議な動物の彫刻、彫像を取り入れています。通称「幻獣建築」とも呼ばれています。そして、晩年には毎日のように風刺画を描き、おびただしい数の動物や妖怪の絵を描くなど、漫画家、イラストレーターとしての側面もあったそうです。<br />本堂に続く階段の入り口にある「有翼の獅子」は、左側の像は口が閉じていて右側の像が口を空けており、阿吽になっています。また、階段の上に上半身だけ彫刻されている「獅子像」は、この「あ」「うん」が、階段下の像と逆になっています。「本堂」内部の広間の階段の手すりや壁には、大理石で造られた像や「牛」、「馬」、「ライオン」などの

泉岳寺への義の道のり~赤穂義士の足跡とゆかりの地と周辺の名所・旧跡の巡り~第3回目【中央区付近】

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2024/01/08 - 2024/01/08

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Lily-junjunさん

この旅行記のスケジュール

2024/01/08

  • 北千住(9:00発)⇒八丁堀(9:22着) ※東京メトロ日比谷線を利用

この旅行記スケジュールを元に

「赤穂義士」の足跡とゆかりの地と周辺の名所・旧跡の巡りの第3回目は、中央区にスポットをあてて巡ってみました。前回までの足どりを振り返ってみると、「赤穂義士」は討ち入りのあと、「回向院」で開門を拒絶された後、「両国橋」東詰から最も近い「一之橋」を渡り深川に入りました。「萬年橋」を渡りさらに進むと、狭い範囲に連続して架かっている「上ノ橋」、「中ノ橋」、「下ノ橋」を渡ります。そして、「永代橋」の袂にある元禄元年(1688年)から今なお現在まで続いている「ちくま味噌」で甘酒粥が振る舞われます。「赤穂義士」一行は、体と心を温め、また、前方から「上杉家」、後方から「津軽家」の追手を警戒して、「両国橋」を渡らず、「永代橋」を渡り、隅田川西岸を南下します。そして、「亀島橋」、「高橋」、「稲荷橋」をわたり、「鉄砲洲稲荷神社」の近く通り、鉄砲洲(現在の中央区湊、明石町付近)にあった「旧赤穂藩上屋敷跡」へ向かいました。「鉄砲洲」では、「奥平家」、「小浜坂井家」の取り調べを受け、赤穂藩邸跡に近づくことができなかったそうです。そして、「赤穂藩江戸上屋敷」のあった明石町地区は、明治初期に「築地外国人居留地」に設定された場所です。明石町地区内にはカトリック築地教会聖堂やミッションスクールの発祥を記念した石碑が多数散在しています。今、「赤穂藩江戸上屋敷」の面影を留めているのは「浅野内匠頭邸跡」だけです。せっかくですので、周辺に多数散在する大学等の発祥の記念碑等も合わせて訪ねてみたいと思います。

《中央区付近での見学ルート》 ※ 「★」は赤穂義士関連の名所・旧跡
①★「亀島橋」⇒②★「堀部安兵衛武庸之碑」⇒③「芭蕉句碑八丁堀」⇒④★「高橋」⇒⑤★「稲荷橋跡」⇒⑥「鉄砲洲稲荷神社」⇒⑦「青山学院記念の地碑(旧海岸女学校跡)」⇒⑧「女子聖学院発祥の地碑」⇒⑨「明治学院発祥の地碑」⇒⑩「ヘンリーフォールズ住居の跡碑」⇒⑪「アメリカ公使館跡(説明板)」⇒⑫「明石町区民館入口前のガス街灯の柱」⇒⑬「東京税関発祥の地碑(運上所跡)」⇒⑭「電信創業之地碑」⇒⑮「月島の渡し跡碑」⇒⑯「シーボルトの胸像」⇒⑰「慶應義塾発祥の地記念碑」⇒⑱「女子学院発祥の地碑」⇒⑲「立教学院発祥の地」⇒⑳「アメリカ公使館跡の記念碑」⇒㉑「聖路加国際病院トイスラー記念館」⇒㉒「暁星学園発祥の地記念碑」⇒㉓「カトリック築地教会聖堂」⇒㉔「ガス街灯柱」⇒㉕「雙葉学園発祥の地」⇒㉖「東京中学院発祥の地」⇒㉗「築地外国人居留地跡の碑」⇒㉘「芥川龍之介生誕の地」⇒㉙★「浅野家内匠頭邸跡」⇒㉚「暁橋跡」⇒㉛「堺橋跡」⇒㉜「工学院大学学園発祥之地」⇒㉝「門跡橋親柱」⇒㉞★「築地本願寺」⇒㉟「名犬チロリ記念碑」⇒㊱「歌舞伎稲荷神社」⇒㊲「東京商工会議所発祥の地」⇒㊳「采女橋の碑」

当日は、自宅から電車を乗り継ぎ、東京メトロ日比谷「八丁堀駅」で下車しました。まず「亀嶋橋」へ向かいました。東京メトロ日比谷「八丁堀駅」のA4出口を出て、進行方向に直進すると40mほど先に信号(表示名「八丁堀」)があります。横断歩道を渡り右折し、50mほど「八重洲通り」を直進すると、「亀嶋橋」の西詰があります。

①★「亀島橋」
「亀島橋」は、「隅田川」に注ぐ小さな「亀島川」にかかる橋です。「亀島橋」は、元禄時代に架橋されたと言われています。その記事が、元禄12年(1699年)の町触に橋普請の記載があるからです。大正12年(1923年)の関東大震災で被害を受け、内務省復興局により昭和4年(1929年)に「鋼上路アーチ橋」として復興されましたが、戦時中の物資不足を補うため高欄等が供出されました。しかし、現在の「亀島橋」をよく見てみると「亀島橋」の橋の欄干が甲羅の形をしています。そして、上流に目を移してみると、川の真ん中の延長線上に「東京スカイツリー」がそびえ立って見えます。また、「亀島橋」は、赤穂義士が討ち入り凱旋時に通った橋のひとつといわれています。そして、「亀島橋」の名前の由来は、昔、瓶を売る者が多くいたからという説と、かつて亀に似た小島があったからという説があります。下流に目を移してみると、川は90度近く曲がっていました。

②★「堀部安兵衛武庸之碑」
「堀部安兵衛武庸之碑」は「亀嶋橋」の西詰(北側)にあります。「堀部安兵衛武庸の碑」は、地元の八丁堀一丁目町会が昭和44年(1969年)8月に建立したものです。「堀部安兵衛武庸の碑」を読んでみると、「堀部安兵衛」が京橋水谷町の儒者である「細井次郎大夫家」に居住したという記載があります。これをもとに京橋水谷町に「堀部安兵衛」が住んだことがあるということで、この記念碑を建立したのでしょうね。ただし「京橋水谷町」というのはここではなく、現在の銀座一丁目にありましたが、火事になり、享保4年(1719年)に八丁堀に移転になりました。ということは、「赤穂義士」の討ち入り、切腹後になっていましますが、「八丁堀一丁目町会」の方々は水谷町の故地、京橋水谷町に「堀部安兵衛」が住んだことがあるということで、おそらく「堀部安兵衛武庸の碑」を建立したのでしょう。
「堀部安兵衛」は、寛文10(1670)年5月に、越後の新発田藩士であった「中山弥次右衛門」の長男として生まれました。「中山安兵衛」は、14歳のときに、父親の「中山弥次右衛門」が浪人の身となってしまい、中山家の再興を志し、江戸へ旅立ちました。牛込町天龍寺(新宿区納戸町)に居住。江戸での「中山安兵衛」は、江戸随一といわれた「堀内道場」で剣術を学び、師範代を勤めるほどになりました。また、堀内道場の同門で、伯父と甥の義を結ぶこととなる「菅野六郎左衛門」や高名な儒者となる「細井広沢」とも親交を深めたそうです。元禄7年(1694年) 2月2月11日には、歴史的にも名高い「高田馬場の決闘」を繰り広げました。元禄7(1694年)6月には、赤穂藩士「堀部弥兵衛」が養子に迎えたいと訪ねて、「堀部弥兵衛」の娘「ほり」と結婚して「堀部安兵衛」がここに誕生したのです。「堀部安兵衛武庸の碑」には安兵衛の略歴と法名が刻まれています。

③「芭蕉句碑八丁堀」
「堀部安兵衛武庸之碑」の反対側(「亀嶋橋」西詰南側)の歩道には、「芭蕉句碑八丁堀」の碑があります。「芭蕉句碑八丁堀」は、「松尾芭蕉」が50歳晩年の元禄6年(1693年)の秋に詠んだ句です。句碑には「菊の花 咲くや石屋の 石の間」と刻まれています。そして、添書きに「八丁堀にて」とあります。句碑の隣に説明板があり、この句は「戸名所図会」三ツ橋の挿絵に八丁堀として載っている。」と書かれていました。かつて八丁堀には、掘割に面した石屋があったそうです。石材の間から咲いている菊の花を詠んだのでしょうか。ちなみに、「名所図会」とは、江戸時代末期に刊行された諸国の名所旧跡・景勝地の由緒来歴などを記し、風景画を多数載せた案内書のことです。

④★「高橋」
「芭蕉句碑八丁堀」の先に左側に入る道があります。その道を道なりに280mほど進むと「高橋」があります。途中に道が二又に分かれますが、「亀島川」沿いの左方向に進みます。
「高橋」は、正保年間(1644年-1647年)頃に架けられた橋で、「高橋」の名前の由来は、亀島川の河口近く江戸湊からの船の通行が多いので、橋脚の「高い橋」(太鼓橋)を架けたことによるそうです。明治15年(1882年)鉄製トラス橋に架け替え、大正8年(1919年)に3径間コンクリートアーチ橋に架け替えられましたが、この際約50m上流に移設されています。そして、現在の「高橋」は、老朽化のために、昭和59年(1984年)3月に架け替えられた「鉄製ホイルトラス橋」です。やはり、「赤穂浪士」が引き上げの時に渡った橋の一つです。ちなみに、「高橋」は、管理者である東京都中央区によれば「たかばし」と濁って読むのが正式だそうです。「高橋」で気に入ったことは、アーチ形の欄干から南高橋や下流側の川幅が広いので佃の高層マンションが一望でき、右岸がすぐ道路(鉄砲州通り)となっていることなどもあって、なかなか見晴らしがよいことです。

⑤★「稲荷橋跡」
「高橋」から「亀島川」沿いに「鉄砲洲通り」沿いに130mほど進むと歩道の左側にあります。「稲荷橋」と刻まれた名残の橋名標柱が八丁堀地区と湊地区を結ぶ「鉄砲洲通り」の両側に二箇所ありますので見逃さないように注意してください。橋の名前の由来は、「湊稲荷」(現在の「鉄砲洲稲荷神社」)があったことによるそうです。ちなみに、「八丁堀」の名前の由来は、「亀島川」から京橋川結節点までの距離が八丁(約870m)あったので「八丁堀」とされたそうです。そした、「稲荷橋」は「亀島川」に注ぎ込む河口の第1番目の橋だった。明治期に「八丁堀」は「桜川」と名を変え、この付近は埋め立てられましたが、今でも何となく舟入らしい地形が感じ取れる場所です。赤穂義士が引き揚げの際は、「永代橋」から「高橋」を経てここ「稲荷橋」を渡った橋です。また、「現鉄砲洲稲荷」の東側あたりには、かの「鬼平犯科帳」で有名な「長谷川平蔵」が住んでいたともいわれています。

⑥「鉄砲洲稲荷神社」
「稲荷橋跡」の橋名標柱から「鉄砲洲通り」沿いに140mほど進むと右手に「鉄砲洲稲荷神社」があります。「鉄砲洲稲荷神社」は、中央区湊にある稲荷神社です。最初に「鉄砲洲稲荷神社」の歴史と概要を紐解いてみると、「鉄砲洲稲荷神社」の創建は、社伝によると、平安初期の承和8年(841年)に創建と伝わっています。凶作が続く中、住民達が自らの産土神を「生成太神」として祀り、日々の守護を祈願したことが始まりとされています。室町時代になると少しずつ入江の埋め立てが進み、大永年間(1521年-1527年)頃に更に埋め立てが進むと新しく海岸となった新京橋付近へ遷座しました。社名は、地名から「八町堀稲荷神社」と呼ばれていました。江戸時代の寛永元年(1624年)に、南八町堀と地続きになった鉄砲洲の稲荷橋付近に遷座しました。また、寛政2年(1790年)には、富士塚が築造され、「鉄砲洲富士」と呼ばれ人気を博していました。また、「鐵砲洲稲荷」とも「湊神社」とも呼ばれ、地域や船乗りからの崇敬を集めていたそうです。明治時代に入ると、明治元年(1868年)には、外国人居留地に指定されたため境内が接収されてしまい、明治2年(1869年)に、現在の地に移りました。大正12年(1923年)に、関東大震災が発生し湊一帯は焼け野原となり「鉄砲洲稲荷神社」も建物のほとんどを焼失しました。昭和10年(1932年)に、現在の「社殿」を造営しました。昭和12年(1937年)に、「神楽殿」も再建されました。平成28年(2016年)には、御鎮座千百八十年記念事業として「平成の大改修」が開始され、第一期工事として「富士塚」や「社務所」の解体や建築が行われました。
それでは「鉄砲洲稲荷神社」に参拝したいと思います。「石鳥居」の前には、社号碑と一対の小さめの狛犬があります。この「狛犬」は、昭和15年(1940年)に奉納されてものです。普通の「狛犬」に比べるとかなり小さめのサイズです。「石鳥居」をくぐると右手に大正14年(1925年)に建立された「百度石」がありました。その先の参道の右手には「手水舎」があります。一般的に「手水舎」には、作法が書かれているのですが、ここでは「戒めの言葉」が掲出されていました。反省と題し、「威張る時には 神に捨てられ 欲張る時には 金に背かれ 妬むときには 友を持ち得ず 興るときには 己を失うのだ 正光(中川正光宮司)」と書かれていました。確かにその通りで納得しました。「手水舎」の先の参道の正面には、昭和10年(1932年)に再建された「社殿」があり、その前には、昭和11年(1936年)に奉納された筋肉隆々でたくましい体格をした「狛犬」があります。「社殿」の右手には、「六番組の火桶」や昭和20年(1945年)に境内の松の根元から発見された「力石」があり、中央区の民有形民俗文化財に指定されています。その右手には、「社務所」があります。「社殿」の左手には、平成14年(2002年)に奉納された「二宮金次郎像」があります。そして、「社殿」の右奥には、中央区唯一の「富士塚」があります。この「富士塚」は、平成29年(2017年)3月に、「平成の大改造」の第一期工事として解体されていた「富士塚」が復興・再築されたものです。「富士塚」に上ることはできませんが、富士塚の周囲をぐるりと回れるように舗装されています。そして、「富士塚」の山頂には、高層ビルを背景に末社「鉄砲洲富士浅間神社」がありました。ただし、「富士塚」は普段の登拝はできませんが、富士山の山開きに合わせて7月1日のみ登拝が可能となるそうです。「富士塚」は、中央区の民有形民俗文化財に指定されています。
「社殿」の左手には、昭和12年(1937年)に、「神楽殿」も再建された「神楽殿」と「八幡神社」、「琴平神社」、「住吉社」、「浅間社」、「三輪社」、「天満社」が合祀されている境内社があります。さらに「社殿」の右奥には、「針塚」等の石碑もありました。

⑦「青山学院記念の地碑(旧海岸女学校跡)」
「鉄砲洲稲荷神社」を出て右方向に「鉄砲洲通り」沿いに徒歩7分450mほど進むと歩道の右手に「青山学院記念の地碑(旧海岸女学校跡)」があります。途中の「都道473号線」(新富晴海線)の高架をくぐり抜ければ、「ヤマト運輸中央明石町営業所」がありその前にあります。
「青山学院」は、多くの源流を持ちますが、いずれも米国メソジスト監督教会の宣教師たちが設立した3つの学校が統合してできたものです。まず、明治7年(1874年)に、麻布新堀町に「ドーラ・E・スクーンメーカー」が「女子小学校」という学校を設立します。「ドーラ・E・スクーンメーカー」はわずか23歳で、アメリカで教師をしていましたが、志願して派遣されました。翌明治8年(1875年)には、芝に移って「救世学校」と校名を改称しました。さらに、明治10年(1877年)に築地居留地明石町10番地に移転し、「海岸女学校」と校名を改称します。それが「青山学院記念の地碑(旧海岸女学校跡)」のある場所です。「青山学院記念の地碑(旧海岸女学校跡)」は、平成20年(2008年)に建立されました。

⑧「女子聖学院発祥の地碑」
「青山学院記念の地碑(旧海岸女学校跡)」の40m先の歩道の右側に「女子聖学院発祥の地碑」があります。「女子聖学院」は、明治38年(1905年)にアメリカから来日したプロテスタント教会の婦人宣教師「バーサ・F・クローノン」によって、築地外国人居留地14番に設立されたミッションスクールです。当初は神学部で女性宣教師の養成を行いましたが、数年後に普通科を設け一般女子の教育を始め、明治40年(1907年)には現在地の北区中里に移転しました。戦後 昭和22年(1947) の学制変更により中学校・高等学校・小学校となった。現在「学校法人聖学院」は、傘下に「聖学院大学」、「聖学院高校・中学」(男子校)、「女子聖学院高校・中学」(女子校)、小学校、幼稚園がある総合学園に成長しました。この「女子聖学院発祥の地碑」は平成16年(2004年) 10月に設置されましたが、隣接地に新しいビルを建設するため、一時期金属カバーで覆われ見ることができませんでした。平成18年(2006年) 10月になって工事が完了し、ようやく石碑の実物を見ることができるようになりました。

⑨「明治学院発祥の地碑」
「女子聖学院発祥の地碑」の40m先の歩道の右側に「明治学院発祥の地碑」があります。「明治学院」は、江戸末期の文久2年(1863年)に、米国長老派教会の医療伝道宣教師「ジェームス・カーティス・ヘボン」が「横浜居留地」に私塾(「ヘボン塾」)を開設しました。この「ヘボン塾」は 、明治13年(1880年)に築地に移転し、「東京一致神学校」に人材を送り込む教育機関として「築地大学校」を設立しました。そして、これが母体となって明治20年(1887年)に「明治学院」が発足しました。昭和24年(1949年)に「明治学院大学」が設置され, 現在は 港区白金と横浜市戸塚区にキャンパスがあります。「明治学院発祥の地碑」は、昭和62年(1987年)10月31日に建立されました。

⑩「ヘンリーフォールズ住居の跡碑」
「明治学院発祥の地碑」をさらに70mほど進むと「聖路加タワー」の前の信号の植え込みに、「ヘンリーフォールズ住居の跡碑」があります。ここには、かつての「築地居留地」の18号地で、英国人医師である「ヘンリー・フォールズ」が明治7年(1874年)から明治19年(1886年)まで12年間にわたり居住した場所です。「ヘンリー・フォールズ」はスコットランド一致長老教会の宣教師として来日し、キリスト教布教のかたわら、「築地病院」を開いて診療に従事しました。「ヘンリー・フォールズ」は、外科、眼科などが専門の医師でした。また、日本人の有志と連携して盲人の保護教育にも尽力しました。
そして、ここは日本のみならず、世界レベルの発祥地です。人間に指紋があることは古くから知られていました。また、その模様にいくつかパターンがあり、人によって違うこともわかっていましたが、個人の識別にまで応用できるとは考えられていませんでした。「ヘンリー・フォールズ」は、日本でおこなわれていた指印の習慣に興味をもち、たまたま発掘された土器に付着していた古代人の指紋を発見し、これにヒントを得てここではじめて科学的な指紋の研究を行いました。そして、明治13年(1880年)10月英国の雑誌「ネーチュア」に日本から投稿した彼の論文は科学的指紋法に関する世界最初の論文といわれ、その中で早くも犯罪者の個人識別の経験を発表し、また指紋の遺伝関係にも言及しています。「ヘンリーフォールズ住居の跡碑」は、明治44年(1911年)4月1日わが国の警察においてはじめて指紋法が採用されてから満50年目の日に記念碑が建立されました。

⑪「アメリカ公使館跡(説明板)」
「ヘンリーフォールズ住居の跡碑」から70mほど先に「アメリカ公使館跡(説明板)」があります。「アメリカ大使館」の歴史を紐解いてみると、嘉永6年(1853年)のペリー来航に始まります。安政3年(1856年)に、初代アメリカ総領事「タウンゼント・ハリス」が、下田の「玉泉寺」に臨時の領事館を開きます。安政6年(1859年)弁理公使に任ぜられた「ハリス」は、幕府より貸与された麻布の「善福寺」に、公使館と住居を移します。文久3年(1863年)に公使館が置かれていた麻布善福寺の庫裏から出火し、建物が消失したため、公使館は横浜関内の外国人居留地に移転します。そして明治7年(1874年)に「ジョン・ビンガム公使」は築地の外国人居留地(現在の中央区明石町)に公使館と住居を移しました。
「アメリカ大使館」は、現在、港区赤坂にありますが、それ以前は、「聖路加ガーデン」の場所に、明治7年(1874年)から明治23(1890年)にかけて「アメリカ公使館」がありました。築地外国人居留地の「アメリカ公使館」は、木造2階建てでクリーム色のペンキが塗られた洋館だったといわれています。そして明治23年(1890年)に日本政府と「ジョン・スウィフト公使」は、東京市赤坂区溜池榎坂町1番地(現在の港区赤坂1-10-5)の地所並びに建物を「アメリカ公使館」用として賃貸する契約を交わし、現在の場所である赤坂に移転しました。「アメリカ公使館」が、赤坂に移転した後の建物は、数年後に増築されて「ホテル・メトロポール」となりました。

⑫「明石町区民館入口前のガス街灯の柱」
「アメリカ公使館跡(説明板)」を20mほど進むと斜め左に入る道があります。その先50mほどの左手に「明石町区民館入口前のガス街灯の柱」があります。文明開化の時代を偲ばせる街の灯りである「ガス街灯の柱」や「ガス街灯」が、かつて「築地外国人居留地」があった地に今でも大切に保存されています。まず、「ガス街灯の柱」が、外国人居留地中央通り沿いに2基、明石町区民館に1基残されています。柱頭のランプ部分は新たに復元されたものですが、2基に「築地ホテル館」の塔が据えられています。その他、「明石小学校」正面玄関右側に3基、トイスラー記念館前に2基の「ガス街灯」があります。

⑬「東京税関発祥の地碑(運上所跡)」
「明石町区民館入口前のガス街灯の柱」から70mほど進むと料亭「治作」の入口の左側に「東京税関発祥の地碑(運上所跡)」があります。「運上所」とは、江戸幕府が、鉄砲洲明石町の一帯を外国人居留地と定め、この地に税関業務等を行う「運上所」を設置し、これが「東京税関」の始まりとなりました。そして、「税関」という名になったのは 1872年(明治5年)からで、横浜税関の東京支署となりました。その理由としては、江戸は開港場ではなく開市という位置づけで多くの外国人商人は住もうとせず、さらに国防上の理由から大型船が東京に近づかないようにしたいためです。「東京税関発祥の地碑(運上所跡)」の銘板には、「江戸幕府は、慶応3年(1867年)に、江戸築地鉄砲洲明石町の一帯を外国人居留地と定め、この地に税関業務等を行う運上所を設置しました。これが東京税関の始まりです。」と刻まれていました。

⑭「電信創業之地碑」
「東京税関発祥の地碑(運上所跡)」から道なりに110mほど進むと信号があります。信号の右手の植え込みに「電信創業之地碑」があります。明治2年(1869年)9月19日に横浜裁判所と東京築地の運上所内に設けられた「電信機役所」を結ぶ 約32㎞の電信線架設工事が開始され、同明治2年(1869年)12月25日に業務を開始しました。これが, 我が国における公衆電気通信の始まりです。この「電信創業之地碑」は、先駆者の業績を後世に伝えるため、昭和15年(1940年)に建立されたもので、 昭和53年(1978年)に南南東約40メートルの地点から 現在の地へ移設されたものです。ちなみに、「運上所」とは、江戸幕府が、鉄砲洲明石町の一帯を外国人居留地と定め、この地に税関業務等を行う「運上所」を設置し、これが「東京税関」の始まりとなりました。現在は、料亭「治作」に姿を変えています。

⑮「月島の渡し跡碑」
「月島の渡し跡」は、明治から昭和にかけて月島と南飯田町を繋いだ渡船跡地です。「月島の渡し」の歴史を紐解いてみると、明治25年(1892年)11月に、土木請負業の「鈴木由三郎」が, 南飯田町(現在の築地7丁目18番)から月島(現在の月島3丁目24番)へ、手漕ぎの船で私設の有料渡船を開始したことに始まります。その後、明治34年(1901年)に月島への交通の重要性を考慮した東京市が渡船の市営化を決め, 明治35年(1902年)に汽船曳舟二隻で交互運転を開始し、渡し賃も無料となりました。しかし、約50年間運航された渡船は、昭和15年(1940年)に「勝鬨橋」が完成したことによりその役目を終えて廃止となりました。現在、横断歩道わきの緑地に説明板が設置されています。いずれにしても、「月島の渡し」は,月島工業地帯の発展を支え、日本の近代化に寄与した渡船だそうです。

⑯「シーボルトの胸像」
「月島の渡し跡碑」のある信号の斜め右手に「中央区立あかつき公園」があり、その中に「シーボルトの胸像」がます。ドイツ人医師の「フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト」は、オランダの陸軍軍医で、文政6年(1823年) 7月に、27歳の若さで長崎の出島の商館医として最初の来日をしました。「シーボルト」は、医者の仕事ばかりでなく日本との貿易のため、日本のことを調べるようにも命じられていました。「シーボルト」は、文政9年(1826年)正月に、オランダ商館長と共に江戸参府に同行し、江戸へ向かい、何と旅の途中で植物や動物を採取、山の高さの測量もしたそうです。江戸に到着したのが文政9年(1826年)3月4日で、文政9年(1826年)4月12日出発するまでの間に、多くの医者や蘭学者を指導し、江戸蘭学発展のために貢献するところが大きかったそうです。特に、「築地本願寺」に墓のある「土生玄碩」は、江戸滞在中の「シーボルト」が治験した瞳孔を散大させる秘薬「散瞳薬」に驚嘆し、施術に有効な新薬の製法を得ようと何度も会見し、手に入れようと懇願したといわれています。最終的には、危険を顧みずに将軍下賜の国禁品と引き換えに製薬教示を得ましたが、数年後にこのことが発覚し文政11年(1828年)の「シーボルト事件」に連座し、改易・禁錮の身となりました。そして、ここが江戸蘭学発祥の地であり、シーボルトの娘である「いね」も医者になり、築地で産婦人科を開院したことなどのゆかりから「シーボルトの胸像」が建立されました。

⑰「慶應義塾発祥の地記念碑」
「中央区立あかつき公園」の中央の道を進むと「居留地中央通り」にでます。右方向に進むと信号がありますので、左折し横断歩道を渡ると、目の前の三角州に「慶應義塾発祥の地記念碑」があります。徒歩2分180mほどの距離です。「慶應義塾発祥の地記念碑」が何故ここに建立されたかというと、幕末の頃にまで遡ります。実は、現在の地(築地鉄砲洲)に「福沢諭吉」の出身である「中津藩中屋敷」があり、安政5年(1858年)に「中津藩中屋敷」内の蘭学塾に「福沢諭吉」が教師に就任したことが、「慶應義塾」のルーツということで記念碑が建立されました。そして、慶應4年(1868年)に、蘭学塾を芝の新銭座(現在の港区浜松町付近)に移し、イギリスのパブリックスクールにならって近代的学塾として、当時の元号にちなんで、「慶應義塾」と命名しました。そして、明治4年(1871年)3月23日に三田に校舎を移転し、「三田の慶応義塾」の歴史が始まりました。「慶應義塾発祥の地記念碑」は、昭和33年(1958年)4月23日に「慶應義塾創立100周年」を記念して、「聖路加国際病院」敷地内に建立されましたが、中央区の道路整備に伴って現在地に移されました。特徴的な書籍型オブジェには、「学問のすすめ」の初編初版本の活字と同じ字型で「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」の文字が刻まれています。また、その隣には「蘭学の泉はここに」の碑も立っています。ちなみに、築地鉄砲洲の「中津藩中屋敷」は、藩医であった「前野良沢」が「解体新書」を翻訳した地でもあるそうです。

⑱「女子学院発祥の地碑」
「慶應義塾発祥の地記念碑」のところにある横断歩道で「聖ルカ通り」の反対側の歩道に渡ります。左方向に80mほど進むと「女子学院発祥の地碑」が歩道の右手にあります。「女子学院」は明治3年(1870年)に、「ジュリア・カロゾルス」によって「築地居留地」に開設されたキリスト教主義の学校です。当初は、「A六番女学校」として発足し、それがルーツで, 後に「新栄女学校」となりました。そして、明治23年(1890年)に、「新栄女学校」と「桜井女学校」が合併して、現在の校舎のある千代田区一番町に移転し, 校名も「女子学院」となりました。「女子学院発祥の地碑」は、平成11年(1999年)に創立130周年を記念して建てられました。ちなみに、「A六番館」は築地居留地に建てられた初めての洋館で、建設当初は、見物人が絶えなかったそうです。しかし、明治5年(1872年)4月4日に全焼し、その後すぐに再建されたそうです。

⑲「立教学院発祥の地碑」
「女子学院発祥の地碑」から元来た道を戻り信号の左手に「聖路加病院」の中庭に入る道があります。30mほど進むと右手に「立教学院発祥の地碑」があります。「立教学院」は、明治7年(1874年)に、米国聖公会の宣教師、「チャニング・M・ウィリアムズ」主教によって築地の外国人居留地に開かれた、聖書と英学を教える私塾「立教学校」がそのルーツです。その後、「立教大学校」、「立教専修学校」、「立教中学校」などと名称を変更しています。そして、明治40年(1907年)には「立教大学」を開設し、大正7年(1918年)に豊島区池袋に移転し、現在、「立教大学」は、10学部27学科を擁する総合大学へと発展し、池袋と新座にキャンパスあります。そして、「立教大学」は、世界の約120大学とともに「世界聖公会大学連合」(CUAC)に加盟し、「アングリカン・コミュニオン」(世界の聖公会)の広がりの中でつながっています。「立教学院発祥の地」の記念碑は、立教学院の創立125周年を記念して平成12年(2000年)に建立されました

⑳「アメリカ公使館跡の記念碑」
「立教学院発祥の地碑」の正面の右手には、「アメリカ公使館跡の記念碑」と「聖路加国際病院トイスラー記念館」が隣接してあります。「聖路加国際病院」の中庭には、明治7年(1874年)から明治23年(1890年)まで約16年間にわたり「アメリカ公使館」が設置されていました。そこには、約80センチ四方の小松石でできた3基の記念碑があります。図柄は、アメリカを象徴する星、鷲、盾のデザインである「五稜の星」、「盾型の星条旗」、「白頭鷲」の3種類です。記念碑は、開設当初に公使館があった隅田川畔の「聖路加ガーデン」(明石町8番)の「親水公園」に2基、「聖路加国際病院トイスラー記念館」(明石町10番)前に3基あり、平成2年(1990年)4月1日に中央区の区民有形文化財歴史資料に指定されています。実は、「アメリカ公使館跡の記念碑」は8基あったそうですが、残りの3基は、昭和59年(1984年)に、赤坂のアメリカ大使館に寄贈されたそうです。
ちなみに、日本に「アメリカ公使館」が設置された歴史を紐解いてみると、安政5年(1859年)には、「日米修好通商条約」を締結し、外交使節の江戸駐在や箱館、神奈川、長崎、新潟、兵庫の開港、江戸と大坂の開市などが定められました。そして、この条約の翌年から江戸に外国公使が赴任してきました。最初の「アメリカ公使館」は、安政6年(1860年)6月に麻布山善福寺の庫裏に設置されました。しかし、文久3年(1863年)に火災で焼失し、「横浜外国人居留地」へと移転し、その後、明治元年(1868年)に開市した江戸の「築地外国人居留地」に移転してきました。「アメリカ公使館」は、現在の明石町8番にあり、クリーム色のペンキが塗られた木造2階建てのオシャレな洋館だったそうです。そして、最終的には、溜池榎坂町(現在のアメリカ大使館)に再移転しました。

㉑「聖路加国際病院トイスラー記念館」
「聖路加国際病院トイスラー記念館」は、昭和8年(1933年)に現在地から約210メートル東の隅田川畔の明石町19番地、現在の「聖路加タワー」辺りに建設されました。そして、解体保存工事を経て平成10年(1998年)に現在の「聖路加国際病院」の中庭へと移築復元されました。建物の建築様式は、鉄筋コンクリート造一部木造2階建で、外観はヨーロッパの山荘を思わせる特徴的な造りで、屋内は木の内装となっています。完成当初は、「トイスラー院長」に看護教育宣教師として招かれた「アリス・C・セントジョン」女史の宿舎として使用されていました。設計は、旧聖路加病院棟、聖ルカ礼拝堂の設計に携わったアメリカ人建築家の「J・V・W・バーガミニィ」で、施工は「清水組」(現在の「清水建設株式会社」)が担当しました。「トイスラー記念館」は、移築復元前までは地下にボイラー設備を有するなど、耐震性と機能性を備えた住宅建築となっていたそうです。残念ながら、「トイスラー記念館」の内部は非公開で、周囲から鑑賞するしかありません。また、「トイスラー記念館」は、平成16年(2004年)4月1日中央区の区民有形文化財に指定されています。

㉒「暁星学園発祥の地記念碑」
「聖路加国際病院トイスラー記念館」の裏手に回り、「居留地中央通り」に出ます。「居留地中央通り」に出たら左折し、80mほど進むと信号があります。信号を右折し、渡り終えたら左折します。10m先の歩道の左手に「暁星学園発祥の地記念碑」があります。「暁星学園発祥の地記念碑」の前には、「カトリック築地教会」があります。「カトリック築地教会」は、明治7年(1874年)11月22日に開かれた東京で最初のカトリック教会です。創設したのはパリから来た宣教師たちでした。ここを拠点にし、やはりパリのカトリック教育修道会マリア会の4人の宣教師が、教会の一角に明治11年(1888年)に開いた小規模の学校が日本最古のカトリック男子校である「暁星学園」の始まりです。開校時には特に名前がなく、明治11年(1888年)2月にできてすぐ、そして、明治11年(1888年)7月には麹町区元薗町に移転します。この時に「暁星」という名前が付けられました。「暁星」とは「金星」のことです。碑の裏に彫られた「Ecole de l'Etoile du Matin」は「明けの明星の学校」すなわち「暁星学園」との意味です。麹町の校地は借家で、現在の麹町学園のあたりでした。さらに明治23年(1890年)に麹町区富士見(現在地)に移転しました。それと碑の上には、1冊の本が開かれた形のモニュメントがあり、「あなたがたは地の塩 世の光である(マタイによる福音書)」と刻まれていました。この言葉は、イエスが弟子たちに対して語ったもので、「あなたはかけがえのない存在で、社会の中で活躍していくことのできる賜物・才能を持っているので、それを充分に使っていくように」ということを示したものです。

㉓「カトリック築地教会聖堂」
「カトリック築地教会」は、明治7年(1874年)11月22日に開かれた東京で最初のカトリック教会です。創設したのはパリから来た宣教師たちでした。「カトリック神田教会」と同じく、東京で比較的早い段階から日本人のために開かれていた教会で、現在の聖堂は、平成11年(1999年)4月に東京都選定歴史的建造物および平成13年(2001年)3月に東京都中央区の区民文化財に指定されています。「カトリック築地教会」の歴史を紐解いてみると、「カトリック築地教会」は、明治4年(1871年)にパリ外国宣教会の「マラン神父」が、鉄砲洲の稲荷橋付近の商家を借りて伝導活動を行ったことに始まります。その後、明治7年(1874年)に築地外国人居留地35・36番(現在地)を借り受け、明治11年(1878年)にはゴシック様式の立派な聖堂が建立されました。
現在の「カトリック築地教会」の建築様式は非常に特徴的で、教会としては珍しいギリシャ神殿パルテノン様式を採用しています。現聖堂は、当時の東京大司教であるレイ大司教の希望によりギリシャ建築パルテノン型が採用されたそうです。正面にはドリス式の円柱が6本並びペディメントには、左右にバラと中央にユリの彫刻がなされていました。聖堂の歴史を遡ってみると、古くは、明治11年(1878年)に完成した旧聖堂は、ゴシック式赤レンガ造りでしたが、大正12年(1923年)に関東大震災で焼失しました。昭和2年(1927年)に、木造2階建の現聖堂が完成しました。

㉔「ガス街灯柱」
「カトリック築地教会」を出て右方向に40mほど進むと横断歩道があります。左折して反対側に渡ります。80mほど進むと、左手に「リハポート明石」があり、入口の右側にクリーム色の「ガス街灯の柱」があります。文明開化の時代を偲ばせる街の灯りである「ガス街灯の柱」や「ガス街灯」が、かつて「築地外国人居留地」があった地に今でも大切に保存されています。まず、「ガス街灯の柱」が、外国人居留地中央通り沿いに2基、明石町区民館に1基残されています。柱頭のランプ部分は新たに復元されたものですが、2基に「築地ホテル館」の塔が据えられています。その他、「明石小学校」正面玄関右側に3基、トイスラー記念館前に2基の「ガス街灯」があります。

㉕「雙葉学園発祥の地」
「ガス街灯柱」のある「リハポート明石」の入口の反対側の斜め右手の歩道に「雙葉学園発祥の地碑」があります。明治5年(1872年)にカトリック系の「サンモール修道会」の宣教師5人がフランスより来日し, 横浜で布教と教育慈善活動を開始しました。明治8年(1875年)に築地に、「築地童貞学校」を開校し、さらに隣接して、「築地語学校」を開校しました。明治42年(1909年) 初代校長の「メール・セント・テレーズ」が 私財を投じてJR四谷駅前に フランス風の優雅な木造2階建ての校舎を建造して「雙葉高等女学校」を創立しました。昭和23年(1947年)の学制改革により「雙葉高等学校」となりました。なお, この場所は 中央区立第二中学校があった所で, 今年 平成17年(2005) 跡地に“リハポート明石”という大きなビルが建てられた。ここで何と言っても印象に残ったのは、「ハート形」した石碑です。しかし、よく見るとハートではなく、二枚の葉が重なっているようにも見えます。実は、これは「ふたば葵」で「雙葉学園」の「雙葉」は,「フタバアオイ」という植物の名から採ったということです。碑文には、「徳に於ては純真に 義務に於ては堅実に」と刻まれていました。碑文は「雙葉学園」の校訓で、日本語とフランス語で書かれています。「徳においては純真に」は「まっすぐに明るく生きる心の清さを尊び、品位と礼儀を重んじる美しい心を持つ」ということで、そして、「義務においては堅実に」は「秩序と規律を守り、愛と責任を持って、誠実に事をやり遂げる強い心を持つ」ということだそうです。

㉖「東京中学院発祥の地碑」
「雙葉学園発祥の地碑」から「居留地中央通り」を40mほど戻ると歩道の右手に「東京中学院発祥の地碑」があります。「東京中学院」は、キリスト教プロテスタントの一教派であるアメリカ北部バプテストが設立した男子校で、明治28年(1895年)に「築地居留地」に開校しました。その後、明治32年(1899年)には、「東京学院」と校名を変更し,新宿区市谷左内町に移転しました。ところが、大正12年(1923年)の関東大震災により大きな被害を受けたため、昭和2年(1927) に横浜の「中学関東学院」と合併して、「財団法人関東学院」が組織されました。戦後の学制改革により「関東学院中学校・高等学校」および「関東学院大学」となって現在に至っています。
ちなみに、「関東学院大学」にはいくつか源流があり、その一番古いものは、明治17年(1884年)に横浜山手にアメリカ北部バプテスト同盟の「アルバート・アーノルド・ベネット」が設立した「横浜バプテスト神学校」です。「横浜バプテスト神学校」は明治43年(1910年)に「福岡バプテスト神学校」と合併して東京文京区小石川に移り、名前も「日本バプテスト神学校」となります。「東京中学院発祥の地碑」は、平成21年(2009年)に学院創立125周年記念事業として築地に建てられました。

㉗「築地外国人居留地跡の碑」
「東京中学院発祥の地碑」から100mほど進むと信号があり右手の角に「築地外国人居留地跡の碑」があります。「築地」というと豊洲に移転した「旧東京都中央卸売市場」や「築地本願寺」が頭に浮かんできますが、「外国人居留地」もありました。明治2年(1869年)に、現在の中央区明石町一帯にあたる「築地鉄砲洲」に、「外国人居留地」が設けられました。その歴史を辿ってみると、アメリカ、オランダ、ロシア、イギリス、フランスと締結した「安政5カ国条約」に基づき、函館、横浜、長崎、新潟、神戸の5港を開港し、江戸と大坂では、開市をすることが取り決められました。日本における「外国人居留地」は、条約締結国の外国人の居住や通商のための専用特別区として開港場、開市場の土地に設けられました。江戸の開市は、明治元年(1868年)11月19日、明治新政府になってから実現し、現在の明石町地区に「築地外国人居留地」が設定されました。また、「築地外国人居留地」には、ここを発祥の地とするキリスト教系の学校も数多く設立されました。「築地外国人居留地」の大きな特徴は、商館の多かった横浜や神戸などとは異なり、外国公使館や領事館をはじめ、海外からの宣教師、医師、教師などの知識人が居住し、教会や学校などを数多く開いて教育を行っていました。「築地外国人居留地跡の碑」の傍らには、「築地外国人居留地」時代の「レンガ塀遺構」と「ガス街灯」が残っていて、その当時の面影を今に残しています。「レンガ塀遺構」のレンガは、イギリス積みで積まれた築地外国人居留地時代のレンガ塀遺構の一部です。「ガス街灯」の柱は、コリント風の様式で上部にある左右20㎝の腕金や下部に施された帯状の操り形など、特徴的な装飾が見られる鋳鉄製の柱です。

㉘「芥川龍之介生誕の地」
「築地外国人居留地跡の碑」の前の信号の横断歩道を渡り右折します。90mほど進むと歩道の右手に「芥川龍之介生誕の地」の説明板があります。「芥川龍之介」は、明治25年(1892年)3月1日に、牛乳販売会社「耕牧舎」を経営する「新原敏三」の長男として、東京市京橋区入船八丁目一番地(現在の中央区明石町十番)で生まれました。辰年辰の日辰の刻の生まれにより「龍之介」と命名されたと言います。生後7ヶ月で母親の「ふく」が病気になったため、「龍之介」は母の実家の「芥川家」に引き取られて成長しました。当時本所区小泉町15番地に住んでいた「ふく」の長兄「芥川道章」に引き取られ、後13歳の時、芥川家の養子となりました。「芥川龍之介」は、「夏目漱石」門下で、「鼻」、「羅生門」、「河童」、「或阿呆の一生」などの多くの文学作品を残しました。

㉙★「浅野家内匠頭邸跡」
「芥川龍之介生誕の地」から60mほど進むとT字路になります。左折し90mほど進むと左手の植え込みに「浅野家内匠頭邸跡」の石碑と説明があります。「浅野家内匠頭邸」は、現在の「聖路加国際病院」のところにありました。「聖路加国際病院」の西側に「築地川公園」という公園がありますが、ここには、かつて「築地川」と呼ばれた川が流れており、「浅野家」の屋敷はその川に面して建っていました。「浅野家」の歴史と概要を紐解いてみると、常陸笠間藩主「浅野長直」(現在の茨城県笠間市)は、正保2年(1645年)に、「播磨赤穂」(兵庫県赤穂市)に領地替えとなり、5万3500石を領して「内匠頭」と称しました。そして、「赤穂藩」が築地の地に江戸上屋敷を構えたのは、明暦3年(1657年)のことです。それまでの上屋敷は外桜田にありました。浅野家初代藩主「浅野長直」の治世の時に備中国「高梁藩」との相対替えによって移転してきました。「浅野長矩」が生まれたのもこの屋敷でした。そして、元禄14年(1701年)3月14日に切腹を命じられ赤穂浅野藩が断絶するまで、赤穂浅野藩の藩屋敷に使用されていました。

㉚「暁橋跡」
「浅野家内匠頭邸跡」から40mほど先に「聖ルカ通り」があります。「聖ルカ通り」をはさんで、「中央区立築地川公園」の両側の歩道には、「暁橋跡」の碑があります。「暁橋」は、築地川南支流に架かっていた橋で、震災復興橋梁のひとつです。築地川本流に新しく架けられた橋長31.5m、幅15mの鈑桁橋で、昭和2年(1927年)3月に完成しました。そして、昭和60年(1985年)に撤去されました。現在は、その川は、「中央区立築地川公園」に生まれ変わっています。「暁橋」の下流の西南の方向に「備前橋」がありましたが、そこから上流は、昭和46年(1971年)に埋めたてられたそうです。ちなみに、「築地川」は、東京都中央区築地付近を流れていた川です。人工河川ですが他の河川とは生い立ちが異なります。どこが違うのかというと、「築地川」は、江戸時代に、海を埋め立てた際に陸地と陸地に挟まれた部分がそのまま川状になりました。しかし、高度経済成長期に、水運の衰退と陸運の増加により、「築地川」は「浜離宮」付近を除くほとんどが埋め立てられ、一部が首都高速へと転用されたそうです。それと、もう一つ見逃してはならないのが、両側に残されている橋の親柱にある「橋名板」です。「中央区立築地川公園」の左側にある「橋名板」は、漢字で「暁橋」と表記され、右側にある「橋名板」には、「あかつきばし」とひらがなで表記されています。漢字表記が入口でひらがな表記は出口だそうです。昔は「すべての道路の起点は東京の日本橋」とされていて、日本橋に近い方を起点(入口)、遠い方を終点(出口)としていたそうです。

㉛「堺橋跡」
「暁橋跡」から「中央区立築地川公園」に入り、60mほど進むと「堺橋跡」があります。「堺橋」は、築地川に架かる橋で震災復興橋梁の一つです。かつては、小田原町(現在の築地7丁目)から明石町へ架けられていました。関東大震災前は橋長5.5m、幅4mの木橋でしたが、関東大震災後に橋長25m、幅8mの鈑桁橋として改築され、昭和3年(1928) 7月に完成しました。ちなみに、「鈑桁橋」とは、アルファベットの「I」の字の形に鉄板を組んで、桁けたを製作し、この桁を柱はしらと柱の間に横桁を渡し、荷重を支ささえる橋のことです。「築地川」は、「堺橋」の先で分流し、南への水路が「築地川南支川」となり、北へ曲がる本流は「合引川」とも呼ばれていました。この橋を境にして「築地川」の川筋が分かれていました。「堺橋」は、昭和46年(1971年)に、首都高速道蕗の建設のため、「築地川」の埋立てに伴い撤去されました。

㉜「工学院大学学園発祥之地」
「中央区立築地川公園」の「暁橋跡」の道路の反対側には、「あかつき公園冒険広場」がありその入口のところに「工学院大学学園発祥之地碑」があります。「工学院大学」の歴史は 明治20年(1887年)に、築地に創設された「工手学校」に始まります。昭和3年(1928年) に新宿区に移転して戦後の昭和24年(1949年) に「工学院大学」となりました。時代の背景として、明治初期における富国強兵策のなかで、高等教育の学校は整備されつつあって人材も育ってきていましたが、現場の工場を支える熟練工や現場監督が不足していたそうです。こうした中堅層の職工育成を目的に作られたのが「工学院大学」の前身である「工手学校」だそうです。また、創立にあたっては、東京帝国大学初代総長の「渡辺洪基」らが中心となり、「工手学校」創立協議会を組織しました。現在は、新宿副都心の 28階建ての超高層ビルと八王子市に校舎があります。「工学院大学学園発祥之地」碑は、昭和31年(1956年)に中央区小田原町に建立されました。

㉝「門跡橋親柱」
「工学院大学学園発祥之地」を出て、「築地市場」の方へ向かい、280mほど進むと二つ目の信号が「晴海通り」になります。「晴海通り」を右折し、70mほど進むと右手に「門跡橋親柱」があります。「門跡橋」は、昭和3年(1928)6月に「築地川南支川」に架橋された関東大震災後の鉄筋コンクリート造りの震災復興橋梁です。「門跡橋」は、築地3丁目(現在の築地3・4丁目)と南小田原町1・2丁目(現在の築地6丁目)との間に架けられた橋です。そして、昭和3年(1928年)の架設時には、「小田原橋」の俗称から取った「築南橋」と橋名が付けられましたが、「築地本願寺」の門徒代表以下59人による名称変更の陳情があり、新しく架橋された橋に「築地本願寺」(西本願寺)を意味する「門跡」をつけて、「門跡橋」と改称された橋でもありました。
「門跡橋親柱」には、「門跡橋」の一部である高さ約122cm、幅約119cm、奥行約118cmの「親柱」1基が正方形の基壇上にあります。その他に花崗岩製の親柱には橋梁の名称を示す「門跡橋」の橋名板と竣工年月を記した「昭和三年六月 復興局建造」と刻まれた銅板も設置されています。戦後まであった「築地川」は、東京オリンピックに向けた道路整備の一環で首都高速道路の用地となり、昭和から平成と段階的に埋め立てが進められて現在に至っています。「門跡橋親柱」は、令和2年(2021年)4月1日に中央区の区民有形文化財(建造物)に指定されました。

㉞★「築地本願寺」
「門跡橋親柱」から80mほど進むと、郵便ポストがありその右手に「築地本願寺」の南門は通じる道があります。
「築地本願寺」は、浄土真宗本願寺派の寺院です。本山は、京都下京区にある「龍谷山本願寺」(西本願寺)で、「築地本願寺」は、その直轄の寺院になります。「築地本願寺」の正門から入ると、その建築様式に驚かされるというか、感激します。誰もが、まず、お寺というと頭に浮かぶのは和風の建築ですが、「築地本願寺」は古代インドやアジアの古代仏教建築のデザインが取り入れられた、非常に珍しいお寺です。
「築地本願寺」の歴史を紐解いてみると、「築地本願寺」は、元和3年(1617年)に浅草近くに「龍谷山本願寺」(西本願寺)の別院として建立されましたが、明暦3年(1657年)の「明暦の大火」と呼ばれる大火事で焼失してしまいました。その後、再建のため江戸幕府から与えられた土地が現在の場所ですが、その当時は海上だったので埋め立て工事と造成をしなければなりませんでした。そして、そこに海を埋め立てて土地を築き「本堂」を建立しました。意外にもそのことが「築地」という名称の由来になったそうです。そして、「築地御坊」と呼ばれるようになりました。この時の「本堂」の正面は西(現在の「築地市場」)を向いて建てられ、築地場外市場のあたりには58カ所の寺院からなる寺内町だったそうです。
また、大正12年(1923年)には「関東大震災」に伴う火災により再度本堂を焼失しましたが、昭和9年(1934年)に再建し、現在の「本堂」の姿となりました。「本堂」は、東京帝国大学工学部(現東京大学)教授で建築家の「伊東忠太」博士の設計による古代インド・アジア仏教様式を模した独特の外観が独創的かつ特徴的です。インドにある「アジャンター石窟寺院」などがモデルになっているそうです。「伊東忠太」は、建築家初の文化勲章を受章するなど、建築界に大きな足跡を残した人物です。
しかし、「本堂」内に入ると幻想的な浄土真宗の造りとなっています。そして、「本堂」でも何よりも目を引くのが、巨大な「パイプオルガン」です。この「パイプオルガン」は、昭和45年(1970年)に、仏教音楽の普及を願い寄贈されたもので、毎月最終金曜日に行われる「ランチタイムコンサート」で楽しむことができます。
また、建物の細部には、インドのみならず和洋中と世界の建築要素が取り入れられていることも有名です。「本堂」正面にある「有翼の獅子」や「牛」、「獅子」、「馬」、「象」、「孔雀」、「猿」など様々な霊獣など全13種の動物像が寺の各所に隠れています。これを探すのにチャレンジするのも「築地本願寺」の建築様式を楽しむ一つの方法です。平成26年(204年)には、「本堂」、「門柱(正門・北門・南門)」、「石塀」が国の重要文化財に指定されました。

《「築地本願寺」のお薦め参拝巡路》
「石塀」(重要文化財)⇒「門柱(正門)」(重要文化財)⇒「手水舎」⇒「酒井抱一墓」⇒「九条武子様歌碑」⇒「土生玄碩墓」⇒「大瀛師之塔」⇒「間新六之塔」⇒「陸上交通殉難者追悼の碑」⇒「台湾物故者遺骨安置所」⇒「親鸞聖人の像」⇒「門柱(南門)」(重要文化財)⇒「本堂」⇒「」⇒「」⇒「」

それでは「築地本願寺」を参拝します。まず、「正門」から入る前に国の重要文化財に指定されている「石塀」と正門「門柱」の外観を鑑賞するのをお薦めします。「正門」から入るとすぐ右手に「手水舎」があります。ちなみに、浄土真宗では、参拝の際に身を清める儀式をする必要はありません。「手水舎」は参拝者が遠路はるばる歩いてきた時代に、本堂を汚さないように足を洗うためのものだったそうです。次に「手水舎」の手前の道を右方向に進むと、「酒井抱一墓」、「九条武子様歌碑」、「土生玄碩墓」、「大瀛師之塔」、「間新六之塔」、「陸上交通殉難者追悼の碑」、「台湾物故者遺骨安置所」、「親鸞聖人の像」などの旧跡等が連続して並んでいます。「親鸞聖人の像」を見学し終えたら、重要文化財に指定されている「南門」です。さて、いよいよ「本堂」の参拝です。「本堂」は、建物中央の階段を利用しますが、バリアフリールートや「本堂」内にはエレベーターもありますので、ベビーカーや車椅子の方はそちらを利用すると良いと思います。「本堂」の中央には、中央には浄土真宗の御本尊である「阿弥陀如来像」が安置されています。「築地本願寺」での参拝方法は、まず御本尊に一礼します。香をつまみ、香炉に入れます。複数回行うのでなく1回のみです。それから合掌して、「なもあみだぶつ」と称えてから礼拝し、一礼して退出するのが正式な参拝方法です。ここでの注意点ですが、お香はつまんだ後、額に寄せないで香炉に入れるようにしまます。そして、「本堂」を参拝すると「参拝記念カード」があり、参拝後に持ち帰ることができます。何故「参拝記念カード」とかというと、「築地本願寺」には、御朱印やお守りはありません。御朱印は追善供養(故人に対する供養)の受取印が起源なので、追善供養を行わない浄土真宗には御朱印がないそうだらだそうです。そして、「参拝記念カード」に書いてある言葉や色は毎月変わります。ちなみに、12カ月分の「参拝記念カード」集めると記念品などがもらえるそうです。
参拝後は、「築地本願寺」の「本堂」の素晴らしい建築様式やモニュメント等を見学します。「本堂」への入口の上部には、蓮の花が描かれた色鮮やか「ステンドグラス」があります。外からの日が「ステンドグラス」に当たる時間帯に見るのがベストだそうです。そして、「ステンドグラス」を背景にその両脇には、「本堂」で最も目を引く、巨大な「パイプオルガン」が目に入ってきます。この「パイプオルガン」は、昭和45年(1970年)に、仏教音楽の普及を願い寄贈されたもので、2mから2cmまで、大小約2,000本ものパイプで構成されています。毎月最終金曜日に行われる参加無料の「ランチタイムコンサート」で「パイプオルガン」の音色を楽しむことができます。
次は、「本堂」をはじめあらゆるところにある「動物像」探しです。「本堂」正面にある「有翼の獅子」をはじめ、「牛」、「獅子」、「馬」、「象」、「孔雀」、「猿」等の霊獣など全13種の動物像が寺の各所に隠れています。これらの像を設置したのは、動物好きで知られる「築地本願寺」の設計者「伊東忠太」です。「伊東忠太」は、もともと動物や妖怪が好きで、建築にも摩訶不思議な動物の彫刻、彫像を取り入れています。通称「幻獣建築」とも呼ばれています。そして、晩年には毎日のように風刺画を描き、おびただしい数の動物や妖怪の絵を描くなど、漫画家、イラストレーターとしての側面もあったそうです。
本堂に続く階段の入り口にある「有翼の獅子」は、左側の像は口が閉じていて右側の像が口を空けており、阿吽になっています。また、階段の上に上半身だけ彫刻されている「獅子像」は、この「あ」「うん」が、階段下の像と逆になっています。「本堂」内部の広間の階段の手すりや壁には、大理石で造られた像や「牛」、「馬」、「ライオン」などの

旅行の満足度
4.5
観光
4.5
同行者
一人旅
交通手段
私鉄 徒歩

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