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「赤穂義士」の足跡とゆかりの地と周辺の名所・旧跡の巡りの第4回目は、最終地点の「泉岳寺」のある港区にスポットをあてて巡ってみました。前回までの足どりを振り返ってみると、「赤穂義士」は討ち入りのあと、「回向院」で開門を拒絶された後、「両国橋」東詰から最も近い「一之橋」を渡り深川に入りました。「萬年橋」を渡りさらに進むと、狭い範囲に連続して架かっている「上ノ橋」、「中ノ橋」、「下ノ橋」を渡ります。そして、「永代橋」の袂にある元禄元年(1688年)から今なお現在まで続いている「ちくま味噌」で甘酒粥が振る舞われます。「赤穂義士」一行は、体と心を温め、また、前方から「上杉家」、後方から「津軽家」の追手を警戒して、「両国橋」を渡らず、「永代橋」を渡り、隅田川西岸を南下します。そして、「亀島橋」、「高橋」、「稲荷橋」をわたり、「鉄砲洲稲荷神社」の近く通り、鉄砲洲(現在の中央区湊、明石町付近)にあった「旧赤穂藩上屋敷跡」へ向かいました。「鉄砲洲」では、「奥平家」、「小浜坂井家」の取り調べを受け、赤穂藩邸跡に近づくことができなかったそうです。<br />今回は、まず、「築地本願寺」、「築地市場」の前を進み、「汐留橋」を渡ります。愛宕では、中屋敷を通るのを「伊達家」に阻まれたため、迂回して「金杉橋」を渡りました。「金杉橋」の手前で「吉田忠左衛門」「と富森助右衛門」の二人が、大目付の「仙石伯耆守盛」に襲撃を報告するため、一行を離脱しました。そして、「札の辻」を進みます。「間新六」が「札の辻」まで来たとき、前にバッタリ倒れ込んでしまいました。その時父の「間喜兵衛」が 「ここまで来たのではないか、もう少しだ、不甲斐ない奴だ。」と叱咤激励したところ、その一言に奮起して、しばらくして 立ち上がり「泉岳寺」まで歩いたといわれています。「赤穂義士」一行は、ついに「泉岳寺」に到着しました。「泉岳寺」に到着した一行は、粥を振舞われ、「吉良上野介」の首と遺品の小刀も亡き主君「浅野内匠頭」の墓前に供えました。また、鞘から取り出した小刀を「吉良上野介」の首に軽く3回あてる儀式は、その場にいたすべての「赤穂義士」によって行われたそうです。そして、焼香後に箱に詰めて寺に預け、僧から吉良家へと送り届けられました。<br /><br />当日は、自宅から電車を乗り継ぎ、東京メトロ銀座線「新橋駅」で下車しました。まず、赤穂義士が渡った「汐留橋」(蓬莱橋)跡地を訪ねてみることにしてみました。東京メトロ銀座線「新橋駅」の2番出口を出て、「旧新橋停車場 鉄道歴史展示室」の前を通り、160mほど進むと蓬莱橋歩道橋があります。その周辺が「汐留橋」(蓬莱橋)跡地です。<br /><br />①★「汐留橋」(蓬莱橋)跡地<br />「汐留橋」は、赤穂義士が討ち入りに成功した後に、泉岳寺へ引き上げる途中に渡った橋の一つです。「汐留橋」の歴史を紐解いてみると、「汐留橋」は、かつて「御堀」と「三十間堀」の合流点に近く「汐留川」に架かっていた橋で、江戸時代には「汐留橋」と呼ばれていました。明治7年(1874年)11月に、土佐藩の家老「後藤象二郎」は、長崎の「高島炭鉱」(軍艦島)を佐賀藩から買上げ金55万円で譲り受けて、商社「蓬莱社」ビルを竣工しました。この「蓬莱社」の拠出金で、明治7年(1874年)7年5月に「汐留木橋」から「汐留石橋」を完成して「蓬莱橋」と改称しました。そして、関東大震災の復興橋梁として、橋長が32m、橋幅が44mの2径間の上路式コンクリートアーチ橋に改架されました。しかし、「汐留川」の埋め立てに伴い昭和39年(1964年)に廃橋となりました。現在も「汐留橋」(蓬莱橋)跡地の道路上にある信号機の標識に「蓬莱橋」と「蓬莱橋南」の名が残されています。「汐留橋跡」は、港区と中央区の区界に位置し、昭和通りと海岸通りの起点となる交差点にあります。<br /><br />②「日比谷神社」<br />「汐留橋」(蓬莱橋)跡地から120mほどJR「新橋駅」歩行に進むと「国道15号」(第一京浜)があります。そこを左折し、「国道15号」(第一京浜)を420mほど進むと、都道405号(新虎通り)と「国道15号」(第一京浜)の交差点の角に「日比谷神社」があります。徒歩で8分程度です。<br />最初に、「日比谷神社」の歴史と概要を紐解いてみる、「日比谷神社」は、現在の「日比谷公園」である「旧麹町区日比谷公園」の「大塚山」という場所にありました。また、別名で「日比谷稲荷明神旅泊稲荷明神」と呼ばれていました。残念ながら「日比谷神社」の創建年代は不明です。「日比谷神社」は、数々の遷座を繰り返している歴史があります。まず、安土桃山時代末期の慶長11年(1606年)に、江戸城築城に際し「日比谷御門」の造営のため、芝口に遷座しました。明治5年(1872年)に村社に列せられ、その後、大正12年(1923年)に発生した関東大震災の影響で昭和3年(1928年)の都市計画区割整理の対象となり、愛宕下町二丁目に換地されて、現在の新橋4丁目に「日比谷神社」の社殿が造営されました。鎮座している地は日比谷から新橋へと移っていますが、社名の「日比谷」は当初より残されている形です。また、何故「日比谷神社」が「旅泊稲荷」と呼ばれているのかというとその由来は、「日比谷神社」が「日比谷公園」の中にあった頃、全国の苦しんでいる旅人たちに「日比谷神社」の社務所を開放し、無病息災の祈願を受けさせたところ、御利益があったので、旅人や周囲の人々は「旅泊稲荷」と呼ぶようになったそうです。そして、新橋に遷座した後に「魚の鯖」に変わるようになり、「鯖稲荷」と呼ばれるようになりました。特に昔、虫歯に苦しむ人が鯖を断って祈誓をすると治るといわれ、それ以降、治った人々が「日比谷神社」に鯖を奉納するようになったそうです。大祭は、同じく新橋にある烏森神社と、隔年で交互に行われています。新橋や汐留の鎮守として、古くから人々に厚く崇敬されている神社です。<br />それでは早速、「日比谷神社」に参拝したいと思います。交差点を渡ると正面に朱色の鳥居とその左手に「日比谷神社」社柱碑があります。「社殿」は鳥居をくぐり石段を上った先にあります。一礼して鳥居を見上げると、今まで訪れた神社と違い奥に高層ビルがその奥に見えます。意外とこれがマッチしていて絵になりインスタ映えします。私は、写真を撮るのがあまり上手ではないので、上手く撮ることができませんでしたが、まさに大都会の真ん中にある神聖な場所と行った感じです。鳥居をくぐり石段を上がると、左手に「洗心台」、正面に「社殿」、右手に「授与所・社務所」があります。そして、社殿の左側には、境内社の「稲荷社」がありまました。「社殿」は、平成21年(2002年)に造営されたばかりの真新しい、都会的で、洗練された感じがしました。見どころはあまりありませんが、境内から眺める風景は、今までに見たことないような大都会の景色に囲まれていて、とても不思議な感じがしました。<br /><br />③「御菓子司 新正堂」<br />「日比谷神社」の石段を降り斜め左手の横断歩道を渡り、都道405号(新虎通り)を徒歩5分300mほど進むと、歩道の左手に「御菓子司 新正堂」があります。<br />「御菓子司 新正堂」に立ち寄ったのは、「浅野内匠頭終焉の地」を訪れた途中にあり、「浅野内匠頭」がお預けになり切腹された奥州一之関藩(現在の岩手県)「田村右京太夫」の屋敷跡にあることそして、「赤穂義士」に関連する「切腹最中」を販売しているからです。<br />店の入口の前には、巨大な「切腹最中」のぬいぐるみのようなものが飾ってあり、インパクトがありました。「切腹最中」も種類が増え、全国からよりすぐった高級茶葉をふんだんに使用した抹茶餡の「抹茶切腹最中」もありました。私は、昔からある「切腹最中」を購入し、家に帰って食べました。「切腹最中」」は、皮の間に溢れんばかりの餡が入っていて、ボリューム満点で、求肥入りの、甘さをおさえたさっぱりした、食べやすい味です。大きくてもこれなら2、3個は食べられるというような感じです。「忠臣蔵」ファンの私にとっては、「浅野内匠頭」や「赤穂義士」に食べさせてあげたいという思いにかれました。ちょっと高めな最中でしたが、見た目良し、味よし、そして、何よりも良かったのは「忠臣蔵」の世界に没入できたことです。<br />ちなみに、この「切腹最中」は、お詫びの品として有名ですが、今では部下と腹を割って会話をしたいビジネスマンや、結婚式の引菓子としても人気になっています。「腹を切る覚悟で一緒になります。」という意味を込めて、この最中を使いたいという熱烈なファンがいるそうです。お店の和菓子の入っているショーケースに目をやるとおもしろい商品も発見しました。それは、「景気上昇最中」です。形は小判型で、中の餡は黒糖を使っていてコクがあるそうです。よく考えたものだと感心しました。<br /><br />④★「浅野内匠頭終焉の地」<br />「御菓子司 新正堂」から160mほど進むと信号(表示名「新橋四丁目」)があり、「都道409号」(日比谷通り)と交差します。その交差点を左折して30mほど進むと「浅野内匠頭終焉の地」の碑が歩道の右手にあります。徒歩で3分ほどです。<br />江戸時代には、この辺りは奥州一之関藩(現在の岩手県)「田村右京太夫」の上屋敷がありました。元禄14年(1701年)3月14日に、江戸城松之大廊下で「吉良上野介」(吉良義央)を切りつけた赤穂藩の第3代藩主「浅野長矩」(浅野内匠頭)は、この田村邸に預けられます。当日は、江戸幕府の1年間の行事の中でも最も格式高い儀式の行なわれる日に、江戸城内で殺傷に及んだのですから、幕府の権威を著しく傷つけたことにもなり、即日切腹が申し渡され、「磯田武大夫」(幕府徒目付)の介錯で切腹しています。浅野家家臣の「片岡高房」、「糟谷勘左衛門」、「建部喜六」、「田中貞四郎」、「礒貝正久」、「中村清右衛門」が田村邸へと出向いて遺体を引き取り、「泉岳寺」に埋葬したそうです。「吉良義央」を打ち取れなかった無念の思いを辞世の句「風さそう花よりもなほ我はまた春の名残をいかにとやせん」に残しました。「日比谷通り」に面して「浅野内匠頭終焉之地」の碑が建っています。「浅野内匠頭終焉之地碑」が建てられたのは、四半世紀後の昭和15年(1940年)のことで、青山の石材店「石勝」が建立しました。<br />ちなみに、赤穂藩の第3代藩主「浅野長矩」が江戸城松之大廊下「吉良上野介」(吉良義央)を切りつけた当日は、朝廷は答礼として朝廷と幕府との間の取次役をする公卿(武家伝奏)が江戸へ下向して、将軍に拝謁し、叡旨(天皇のお言葉)、院旨(上皇のお言葉)を伝えるのが慣例でした。この慣例は朝廷と幕府の関係を密接に保つための重要な儀式であり朝廷、幕府の双方とも最大級の饗応をもって対応していました。<br /><br />⑤★「金杉橋」<br />「浅野内匠頭終焉の地」からもと来た道を「国道15号」(第一京浜)まで戻ります。「国道15号」(第一京浜)を右折し、1200mほど進むと「金杉橋」があります。少し距離はありますが徒歩で25分ほどです。<br />「金杉橋」は、赤穂義士たちが討ち入り後、泉岳寺に向かう道中に渡ったとされる橋の一つです。「金杉橋」は、現在の港区浜松町2丁目・芝大門2丁目と芝1、2丁目を結ぶ、金杉川(古川)に架かる橋です。江戸後期の資料によると、当時の大きさは橋長が11間(約20m)、橋幅が4間(約7.3m)あったそうです。橋のほんの数十m先には海が広がっていました。そして、大正8年(1919年)に橋長が18.182m、橋幅が36.606mの鉄筋コンクリート橋になりました。また、現在の橋は、昭和46年(1971年)に架替えられたもので橋長が19m、橋幅が42mの単純活荷重合成プレートガーダー橋となりました。また、「金杉橋」は、明治7年(1874年)に、京橋との間で、東京で初めてガス灯がともった場所として有名です。そして、「金杉橋」の下は、付近で営業を行う屋形船の係留場所となっており、一面に様々な船が浮かぶ光景が見られます。<br />ちなみに、「金杉橋」の名前の由来は、江戸時代に東海道の公儀橋として架橋されており、近くにあったセンダンの木が光って見えるようであったことから名づけられたそうです。また、この国道15号(第一京浜)架かる「金杉橋」は、昭和時代には、橋の上を都電金杉線が走っており、橋の南側に金杉橋停留所がありました。昭和42年(1967年)に都電金杉線が廃止された以降は、都営バスの金杉橋停留所になりました。<br /><br />⑥「薩摩藩蔵屋敷跡(江戸開城 西郷南州・勝海舟会見之地)」<br />「金杉橋」から左側の歩道を「国道15号」(第一京浜)沿いに道なりに900mほど進むと、信号(表示名「芝五丁目」)があります。横断歩道のすぐ先の左手に角があります。50mほど進むと右手に「薩摩藩蔵屋敷跡(江戸開城 西郷南州・勝海舟会見之地)」の碑があります。徒歩で13分ほどです。<br />新政府軍による江戸城総攻撃を目前にした慶應4年(1868年)3月13日、14日の両日に薩摩屋敷において「勝海舟」と「西郷隆盛」の会見が行われました。両者による講和が結ばれ、新政府軍による江戸総攻撃は回避され、歴史的な無血開城がなされました。そして両者の会談から約1ヶ月後の慶應4年(1868年)4月11日に江戸城は新政府側に引き渡され、一滴の血も流さない世界史上でも稀な「無血開城」が実現しました。<br />「薩摩藩蔵屋敷跡(江戸開城 西郷南州・勝海舟会見之地)」の石碑は、昭和27年(1952年)に建立され、石碑は「西郷隆盛」の孫である「西郷吉之助」の筆によるものです。石碑の案内文には「この蔵屋敷(現在地)の裏はすぐ海に面した砂浜で当時、薩摩藩国元より船で送られて来る米などは、ここで陸揚げされました。現在は、鉄道も敷かれ更に埋め立てられ海までは遠くなりましたが、この付近は最後まで残った江戸時代の海岸線です。」と刻まれており、当時は、まだこのあたりが海の近くだったということを物語っています。<br /><br />⑦★「水野監物邸跡」<br />「薩摩藩蔵屋敷跡(江戸開城 西郷南州・勝海舟会見之地)」から「国道15号」(第一京浜)に戻り、左折して150mほど進むと信号(「田町駅西口」)の信号があります。信号を右折し30mほど進むと「慶応仲通り商店街」のアーケードが右手にあります。「慶応仲通り商店街」を60mほど進むと「カラオケの鉄人」があり、その先の小道を右折するとすぐ右側に「水野監物邸跡(岡崎藩水野家下屋敷跡)」の説明板があります。徒歩で5分ほどです。<br />「水野監物邸跡」は、三河岡崎藩水野家下屋敷跡です。岡崎は「徳川家康」誕生の地であり、水野家は徳川家と親密な関係にありました。「水野監物」(忠之)が藩主の時、この屋敷には、元禄15年(1702年)12月14日に「吉良義央」(上野介)の屋敷に討ち入った「赤穂義士」の「奥田貞右衛門」、「神崎与五郎」ら9名が預けられ、元禄16年(1703年)2月4日にこの屋敷で切腹し、本懐を遂げました。「赤穂義士」の中では、身分が低いものが預けられ、そのため「熊本藩細川家」ほど待遇は良くなかったそうでが、「水野忠之」は義士を丁重に待遇したと伝えられています。ただし、水野氏は、江戸市民や浪人たちに藩邸を襲撃され、破損・火災などにより屋敷を移動したため、実際に義士が切腹した当時の屋敷は同地より北へ50メートルほど離れた別の場所だそうです。そして、現在は二か国語の案内板が、狭い路地に寂しそうに設置されているだけです。<br />ちなみに、「水野家」に預けられたのは、「奥田貞右衛門」、「神崎与五郎」、「間瀬孫九郎」、「間 十次郎」、「村松三太夫」、「矢頭右衛門七」、「茅野和助」、「横川勘平」、「三村次郎左衛門」の9名です。<br /><br />⑧★「伊予松山藩松平家下屋敷跡(現イタリア大使館)」<br />「水野監物邸跡」から「慶応仲通り商店街」を200mほど進むと「国道1号」(桜田通り)になります。横断歩道を渡らずに右折し、400mほど道なりに直進します。二つ目の信号の先の二つ目の角を右折し、150mほど直進すると左手に「イタリア大使館」の正門入口があります。徒歩で11分ほどです。<br />「伊予松山藩中屋敷」は現在、「イタリア大使館」になっています。寛永12年(1635年)「徳川家康」の異父弟「松平定勝」の子である「松平定行」が桑名より15万石で松山城主なりました。この屋敷に「大石主税」ら10名が預けられました。 対応は、「熊本藩細川家」や「岡崎藩水野家」と比べると悪かったということです。ちなみに、預けられた10名は、「大石主税」、「堀部安兵衛」、「中村勘助」、「不破数右衛門」、「千馬三郎兵衛」、「木村岡右衛門」、「岡野金右衛門」、「菅谷半之丞」、「貝賀弥左衛門」、「大高源五」です。切腹した場所を掘って池とし、その土を築山に盛って庭園の小丘にしたと伝えられています。松山藩の御屋敷は、明治維新後は「松方正義」の手を経た後、昭和9年(1934年)に「イタリア政府」が土地を取得したそうです。「松山藩」の屋敷跡には赤穂事件の遺構は残っていませんが、昭和14年(1939年)に、当時のイタリア大使により建立された「赤穂浪士十名切腹ノ地・伊太利大使館」の記念碑があるそうです。残念ながら「イタリア大使館」敷地内のため見学できません。「赤穂浪士十名切腹ノ地・伊太利大使館」碑は、日本語とイタリア語で刻まれていて、日本語の方の揮毫は「徳富蘇峰」によるものだそうです。そして、「赤穂民報」によると数年に一度は、赤穂義士の命日には、歴代イタリア大使が供養をおこなっているそうです。<br /><br />⑨★「札の辻」<br />「伊予松山藩松平家下屋敷跡(現イタリア大使館)」から「国道1号」(桜田通り)に戻り、右折して道なり700mほど進むと、「国道1号」(桜田通り)と「国道15号」(第一京浜)が交わる「札の辻」になります。徒歩で12分ほどかかります。<br />「札の辻」は、かつて江戸の入り口でした。現在は、「芝地区」の南西の端に第一京浜の交差点名として残っている「札の辻」は、平行してJR山手線、京浜東北線、新幹線、東海道線の線路が走り、芝浦方面には「札の辻橋」が架けられています。「札の辻」という名称の由来は、江戸時代に三辻(三差路)の一角を利用して、ここにきまりや注意などを多くの人々に知らせる「高札場」が設置され、「布告法令」などが掲示されていたことによります。<br />江戸初期の元和2年(1616年)に、この「札の辻」に「芝口門」が建てられ、江戸の町の正面の入り口としての役割を担い、東が江戸湾に接し、海を隔ててはるか遠くには房総の山を望む、一日眺めても飽きない景色であったため、別名「日暮御門」とも呼ばれていました。<br />また、「吉良上野介」を討ち取った「赤穂義士」たちは、「吉良上野介」の首を亡き主君「浅野内匠頭」の墓前に供えるため、「浅野内匠頭」の眠る泉岳寺へ向かいました。そして、この「札の辻」を経て、「泉岳寺」に到着した。そして、ここでもひとつエピソードがあります。「赤穂義士」義士たちは、午前4時ごろから約2時間の死闘を終え、「両国」から「泉岳寺」まで約11kmの雪道を3時間弱という驚異的なスピードで歩いた。それも鎖帷子等着込み、その他武器、武具で 約12kg以上あったといわれています。 「間新六」が「札の辻」まで来たとき、前にバッタリ倒れ込んでしまいました。その時父の「間喜兵衛」が 「ここまで来たのではないか、もう少しだ、不甲斐ない奴だ。」と叱咤激励したところ、その一言に奮起して、しばらくして 立ち上がり「泉岳寺」まで歩いたといわれています。<br /><br />⑩「御田八幡神社」<br />「札の辻」から「国道15号」(第一京浜)沿いに300mほど進むと「御田八幡神社」があります。徒歩で6分ほどの距離です。<br />初めに「御田八幡神社」の歴史と概要を紐解いてみると、「御田八幡神社」は、和銅2年(709牟)東国鎮護の神として鎮祀され「延喜式内稗田神社」と伝えられています。「御田八幡神社」は、1300年を超える歴史と伝統ある神社です。何度かの遷座を経て、元和5年(1619年)に、僧「快尊」によって社殿の造営が開始され、寛永五年(1628)、社殿が竣工し現在地へ遷座しました。しかし、寛文8年(1668年)の大火によって社殿が全焼しましたが、寛文12年(1672年)に「細川越中守」によって社殿が再建されました。明治2年(1869年)に、延喜式記載の「稗田神社」に改称し、さらに明治30年(1897年)に現在の名称である「御田八幡神社」と改称しました。そして、昭和20年(1945年)には、東京大空襲で社殿が焼失しまいましたが、昭和29年(1954年)に、社殿を再建しました。ちなみに、「延喜式神名帳」は、延長5年(927年)にまとめられた『延喜式』の巻九・十のことで、当時「官社」に指定されていた全国の神社一覧で、延喜式に記載された神社と同一もしくはその後裔と推定される神社のことを「論社」、「比定社」などと呼びます。<br />では、早速「御田八幡神社」を参拝したいと思います。「鳥居」の先には急勾配の石段が控えています。ただし、右手にはやや勾配の緩やかな石段があります。参道から続く急勾配の石段の方が男坂、緩やかな石段が女坂ということになりますかね。石段を上る手前には、金網で囲まれ、保護されている一対の「狛犬」が鎮座しています。この「狛犬」の奉納された年代は不詳ですが、おそらく江戸時代のものかと思われます。狛犬は、阿吽の両方とも子持ちで、特に、阿形の子は乳飲みの姿で愛くるしい姿です。急勾配の石段を上り切ると、右手に「手水舎」、左手には「神楽殿」があります。さらに進むと、「社殿」前にずんぐりむっくりとした体型の非常に古い「狛犬」が鎮座しています。この「狛犬」は、元禄9年(1696年)に奉納されたものだそうです。その他「社殿」の付近には、大きな絵馬やこれまた古い「天水桶」もありました。現在の「社殿」は、東京大空襲にて焼失し、昭和29年(1954年)に再建されたものです。「社殿」は、木々に囲まれた緑の中にひっそりと佇み、都会の喧騒を忘れさせてくれます。「社殿」の左手には、合殿の境内社である「五光稲荷神社」と「御嶽神社」があります。興味深いのは、「五光稲荷神社」と「御嶽神社」は、合殿にもかかわらず、別々の鳥居が建立されているということです。さらに、その奥にも小さな祠がありました。鳥居の扁額は、劣化していて読みにくいのですが、「稲荷社」と書かれていました。規模的には、小さな神社ですが、都会の中の安らぎの空間というような感じがしました。<br /><br />⑪「高輪大木戸跡」<br />「御田八幡神社」から「国道15号」(第一京浜)沿いに500mほど進むと、道路の左手の歩道に「高輪大木戸跡」があります。<br />江戸時代は町ごとに「町木戸」を設け、自身番において警固させました。高輪の「大木戸」は、江戸の治安維持のため、宝永7年(1710年)に東海道の両側に石垣を築き、設置されました。各町にある「町木戸」に対し、江戸全体を守る木戸であることから、「大木戸」と呼ばれ、旅人やその送迎客でにぎわいました。旅人が旅装を整えたり、送り迎えされるのも高輪の「大木戸」まででした。高輪の「大木戸」の木戸の幅は約10mあり、初めは柵門が設置されて、明六ツ、暮六ツに開閉していましたが、後に廃止されました。現在は国道15号線(第一京浜国道)沿いに東側の石垣だけが残されています。「伊能忠敬」は正確な日本地図を作るため、「高輪大木戸」を起点として測量を初め、17年間かけ自分で考案した測量車を押して全国を歩きました。「伊能忠敬」は寛政12年(1800年)4月19日55歳で亡くなりましたが、その3年後に、弟子たちの手によって完成し幕府に献上されました。この地図を国外に持ち出そうとして発覚し、国外追放となったのが「シーボルト」です。<br /><br />⑫「歯科医学教育発祥之地」<br />「高輪大木戸跡」から「国道15号」(第一京浜)を75mほど戻ると信号(表示名「高輪大木戸跡」)があります。左折して横断歩道を渡ります。横断歩道を渡ると斜め右に細い道がありますので、190mほど道なりに進むとT字路になり信号があります。右折して「伊皿子坂」を150mほど進むと最初の信号(表示名「伊皿子」)があります。その信号の角地に「歯科医学教育発祥之地」があります。<br />「高山紀齋」は明治8年(1875年)に、わが国最初の歯科医師免許をとった人物です。その後はアメリカに渡り、米国の歯科医師の免許を取得しました。当時日本では、まだ西洋歯科技術は全く理解されていない時代でした。アメリカ留学を終えた明治11年(1875年)6月に、京橋区銀座3丁目14番地第3戸に「高山歯科診療所」を開設し、明治17年(1881年)9月には東京医術開業試験委員に就任しています。そして、明治23年(1990年)にこの伊皿子の付近の芝区伊皿子町70番地に歯科医学院を開設し、これが「東京歯科大学」の前身です。それを記念して建立されたのが、黒御影石の「歯科医学教育発祥之地」碑です。「高山紀齋」は、明治29年(1893年)11月28日、日本歯科医会を設立、明治35年1月20日にはその初代会長にも就任しています。<br /><br />⑬★「大石良雄等自刃の跡の碑」<br />「歯科医学教育発祥之地」から「伊皿子坂」の信号を左折して横断歩道を渡ります。そのまま道なりに「二本榎通り」沿いを300mほど進むと「都営高輪一丁目アパート1号棟」が右手にあり、植え込みの中に「大石良雄等自刃の跡の碑」があります。徒歩で4分ほどの距離です。<br />東京都港区高輪1丁目の「都営高輪アパート」内にあるのが、「大石良雄外十六人忠烈の跡」で、そこから少し離れた「二本榎通り」沿いにある「都営高輪一丁目アパート1号棟」の植え込みの中にあるのが、「大石良雄等自刃の跡の碑」です。「大石良雄等自刃跡碑」の建つ場所は、厳密には旧細川邸から少し離れた位置に建立されたものであり、切腹した場所ではありません。元禄14年(1701年)の「江戸城松之廊下」の刃傷事件に端を発し、吉良邸の討ち入りという大事件に発展した「赤穂事件」の際に、「大石内蔵助」ら17名は幕府の命により「細川家」に預けられ、「細川家」では高輪にあった下屋敷で保護していました。元禄16年2月4日に、幕府から切腹の沙汰が通知され、その日のうちに全員が切腹し、「赤穂義士」たちは、主君「浅野長矩」の眠る高輪の「泉岳寺」に葬られました。<br /><br />⑭★「大石良雄外十六人忠烈の跡」<br />「大石良雄等自刃の跡の碑」を右折し、100mほど直進すると突き当りになりそこが「大石良雄外十六人忠烈の跡」です。徒歩で2分以内の距離です。<br />「大石良雄外十六人忠烈の跡」は、東京都港区高輪1丁目の「都営高輪アパート」の奥にあります。「港区高輪地区総合支所」、「港区立高松中学校」一帯は、「熊本藩細川家下屋敷跡」で、吉良邸討ち入り事件を起こした「大石良雄外赤穂義士16人」が切腹した場所です。<br />元禄15年(1702)年12月15日の未明に、47名の「赤穂義士」は本所の「吉良邸」に討ち入り、2時間余の激闘の末に、「吉良義央」の首級を挙げて本懐を遂げました。「大石内蔵助良雄」ら17名は、肥後熊本藩「細川越中守綱利」の高輪下屋敷にお預けとなりました。「細川越中守綱利」は「大石内蔵助良雄」ら17名を厚遇したと伝わり、「細川の 水の(水野監物)流れは清けれど ただ大海(毛利甲斐守)の沖(松平隠岐守)ぞ濁れる」との狂歌が伝わっていいます。元禄16年(1703年)2月4日に、江戸幕府から切腹の沙汰が通知され、その日のうちに全員が切腹しました。その後、「赤穂義士」たちは、江戸高輪の泉岳寺葬られました。「大石良雄外十六人忠烈の跡」碑は平成10年(1998年)に、東京都港区教育委員会が設置したものです。私有地のため門外からの見学のみとなります。そして、「港区高輪地区総合支所」の横にある旧細川邸のシイは、「熊本藩細川家下屋敷」にあった巨木が現存しています。「大石良雄外十六人」の「赤穂義士」とは下記のとおりとなります。<br />①大石内蔵助(良雄) ② 吉田忠左衛門(兼亮) ③ 原惣右衛門(元辰) ④片岡源五右衛門(高房)<br />⑤ 間瀬久大夫(正明) ⑥ 小野寺十内(秀和) ⑦ 間喜兵衛(光延) ⑧ 礒貝十郎左衛門(正久)<br />⑨ 堀部弥兵衛(金丸) ⑩近松勘六(行重) ⑪ 富森助右衛門(正因) ⑫ 潮田又之丞(高教)<br />⑬ 早水藤左衛門(満尭) ⑭赤埴源蔵(重賢) ⑮奥田孫太夫(重盛) ⑯ 矢田五郎右衛門(助武)<br />⑰ 大石瀬左衛門(信清)<br /><br />⑮「松島屋」<br />「大石良雄外十六人忠烈の跡」から「大石良雄等自刃の跡の碑」まで戻り、もと来た道を230mほど進むと左側の歩道に「松島屋」があります。徒歩にして4分ほどの距離です。<br />「大石良雄外十六人忠烈の跡」へ向かう細い坂道の途中で行列ができている店がありました。それが、老舗和菓子店の「松島屋」です。とりあえず目的地である「大石良雄外十六人忠烈の跡」を見た帰りに「松島屋」に立ち寄りました。赤地に白字の暖簾が目印です。私が行ったときは、前に5人くらいで、そんなに待たずに店に入ることができました。二人の店員の方が手際よく対応してくれました。「松島屋」の人気は、「きび大福」、「草大福」、「豆大福」などの大福類です。その中で一番人気なのは、十勝産の赤えんどう豆を入れたお餅で、石狩産小豆で作るコクのある餡をくるんだ「豆大福」です。私は、「豆大福」と醤油味の「御団子」を買って帰りました。その他、「桜餅」や「くず餅」「栗むし羊羹」などもありました。家に帰って食べてみると、「豆大福」の皮は、薄皮で弾力がある赤えんどう豆を入れたお餅なので今までと違う味と食感でした。餡も甘さ控えめで、さっぱりしていて、これなら何個も食べられそうな気になりました。もちろん御団子のお餅と醤油の餡もバランスがとれていて美味しくいただきました。<br /><br />⑯★「泉岳寺」<br />「松島屋」に来る手前の信号まで戻ります。信号を渡り右折して110mほど進むと「堀江歯科医院」の手前に細い道があります。そこを道なりに300mほど進むと「泉岳寺」の「山門」の所に出ます。徒歩で6分ほどの距離です。<br />最初に「泉岳寺」の歴史と概要を紐解いてみると、「泉岳寺」は、慶長17年(1612年)に、「徳川家康」が、「門庵宗関和尚」を迎え外桜田(桜田門周辺)に創建された曹洞宗寺院で、福井県の「永平寺」と横浜鶴見の「総持寺」を大本山としているお寺です。しかし、寛永18年(1641年)に発生した「寛永の大火」で焼失してしまいました。その後、3代将軍「徳川家光」の命を受けて毛利、浅野、朽木、丹羽、水谷の5大名の手で現在の地である高輪に再建されました。そして、元禄14年(1701年)3月14日に、江戸城中で旗本「吉良義央」に切りつけ、即日切腹処分となった播磨赤穂藩の藩主「浅野長矩」と翌元禄15年(1702年)12月14日に江戸本所の吉良邸に押し入って主君の仇を討った「47人の赤穂義士」の墓があり、現在もなお多くの参拝客が訪れています。私が「泉岳寺」を訪れたのは、12月初旬でしたが、かなりの「赤穂義士四十七士」のお墓参りの参拝客がいました。また、日本人だけでなく外国のツアーできた団体の旅行者もいました。一般的に「赤穂浪士」は、「赤穂義士四十七士」といわれていますが、「泉岳寺」には討ち入り前に自害した浅野氏の家臣「萱野重実」の供養塔を含めて48基の墓があります。「赤穂義士」たちの墓の特徴は、討ち入り後の預け先である「細川家」、「松平家」、「水野家」、「毛利家」によってそれぞれ分けられていることです。そして、討入りに参加した「赤穂義士」の中で、「間新六」の遺体は遺族が引き取り「築地本願寺」に葬り、また、唯一人切腹をまぬがれた「寺坂吉右衛門」、この二人の墓塔は、遺骸の埋葬を伴わない供養塔で、「寺坂吉右衛門」以外の「赤穂義士」の戒名はすべて最初の文字が「刃」となっています。<br />そして、「泉岳寺」の境内には、討ち入り300年に因み平成13年(2001年)に建設された「赤穂四十七士」の遺品などを納めた「赤穂義士記念館」や義士47名の木像を納めた「義士木像館」が建てられ、「主税梅」、「首洗い井戸」、「血染めの梅と血染めの石」など「赤穂義士」ゆかりのものも点在し、忠臣蔵のファンが絶えず訪れる寺院となっています。そして、討ち入り日の12月14日の「義士祭」は、全国から多くの参拝者が訪れて忠義を尽くした義士一人一人に線香をあげていく歳末の風物詩となっています。また、4月1日から7日までには「春の義士祭」も行われます。<br /><br />《「泉岳寺のお薦め参拝巡路」》<br />①「中門」⇒②「義士堂小泉商店」⇒③「大石内蔵助吉雄銅像」⇒④「山門」⇒⑤「本堂」⇒⑥「梵鐘」⇒<br />⑦「講堂」⇒⑧「主税梅」⇒⑨「遥池梅」⇒⑩「血染めの梅と血染めの石」⇒⑪「赤穂義士記念館」⇒<br />⑫「義士木像館」⇒⑬「首洗い井戸」⇒⑭「赤穂義士墓入口の門」⇒⑮「浅野長矩」と「赤穂義士の墓」<br /><br />それでは、早速、「泉岳寺」を参拝したいと思います。<br />《「中門」》<br />まずは、「中門」をくぐります。「中門」の扁額「萬松山」は、中国明時代の禅僧「為霖堂」の書によるものです。初代の「中門」はは焼失したので、「中門」は天保7年(1836年)に「35世大龐梅庭和尚」によって再建されたものです。「中門」は、昭和7年(1932年)に大修理を行いました。「中門」は、平成11年(1999年)2月1日に港区登録有形文化財に指定されています。<br /><br />《「義士堂小泉商店」》<br />「中門」から「山門」に向かう参道の途中に、門前町風のお土産店、飲食店が右手に数件ほど建ち並んでいます。その中で、印象に残ったのは「義士堂小泉商店」です。赤穂義士の羽織を着た店の主人や店の看板の上にある太鼓の飾りが印象的でした。お店のお土産も赤穂義士に関するものが沢山ありました。<br />《「大石内蔵助吉雄銅像」》<br />参道を進むと「山門」の手前の右手に「大石内蔵助吉雄銅像」があります。「大石内蔵助吉雄」が元禄袴を身につけ、連判状を手に江戸のある東の空をじっと睨んでいる姿を表した銅像です。明治から大正にかけて活躍した浪曲師の「桃中軒雲右衛門」の発願で鋳造されたものが「泉岳寺」に大正10年(1921年)12月14日に寄贈されました。<br /><br />《「山門」》<br />「大石内蔵助吉雄銅像」の左手に、「山門」があります。「山門」はくぐることができないので、正面から鑑賞した後に、右側にある「泉岳寺本堂入口」から入ります。「泉岳寺」には、もともと「総門」、「中門」、「山門」の3つの門「三門」がありましたが、現存しているのは「山門」と「中門」の二つのみです。しかし、どちらも初代のものは焼失しています。「山門」は天保3年(1832年)に「34世大道貞鈞和尚」によって再建されたものです。「山門」の2階部分には、「十六羅漢」と「釈迦三尊像」が安置され、1階天井には「江戸三龍」のひとつ「銅彫大蟠龍」がはめこまれています。「銅彫大蟠龍」は、「日本彫金の祖」と呼ばれる「関義則」の手になる龍の彫り物で、蟠龍とは、とぐろを巻いた龍のことです。「山門」の「泉岳寺」の扁額は、晋唐の墨跡研究者であった「大野約庵」による書です。平成11年(1999年)2月1日に港区の登録有形文化財に指定されています。<br /><br />《「本堂」》<br />「山門」の次は「本堂」です。「本堂」の右手には「授与所・寺務所」があります。本堂の手前には、「御柱」と「香炉台」があります。「本堂」は、東京大空襲で焼失した「旧本堂」に代わり、現在の本堂は昭和28年(1953年)12月14日に完成した鎌倉様式の建築です。「本堂」の正面に掲げられている「獅子吼」の扁額は「ししく」と読むそうです。お釈迦様が説法する様子を獅子が吼える様子に例えたもので、何事にも動じず大衆に向かって心理を説く釈迦の姿勢を表しています。御本尊は「釈迦如来座像」、他に曹洞宗の宗祖である道元禅師「瑩山禅師像」、また「大石内蔵助」の守り本尊である「摩利支天」(秘仏)などが納められています。<br /><br />《「梵鐘」》<br />「本堂」の左手には「梵鐘」があります。朝の坐禅時と夕方の閉門時に撞かれている「梵鐘」は、大正2年(1913年)に、「41世普天霊明和尚」によって造られたものです。江戸から明治まで使われていた「梵鐘」は、現在ウィーンの「国立民族博物館」に所蔵されているそうです。<br /><br />《「講堂」》<br />「梵鐘」から引き返すと右手に「講堂」があります。「講堂」は、関東大震災後の大正14年(1925年)に建てられました。1階では毎週土曜日に学寮講座が開かれています。2階は「赤穂義士」47名の木像を納めた「義士木像館」になっています。<br /><br />《「主税梅」、「遥池梅」、「血染めの梅と血染めの石」》<br />「講堂」を右折すると「赤穂義士墓所」へ通じる参道があります。そこには、「主税梅」、「遥池梅」、「血染めの梅と血染めの石」が並ぶようにしてあります。<br />「主税梅」は、「赤穂義士」で最年少だった「大石主税」が切腹した伊予松山藩松平隠岐守三田屋敷(現在の三田にあるイタリア大使館内)に植えられていた梅と伝えられています。<br />「遥池梅」は、義士の墓守をしていた「堀妙海法尼」が「遥泉院」から賜った鉢植えの梅を移植したものと伝えられています。<br />「血染めの梅と血染めの石」は、浅野内匠頭が、現在の新橋4 丁目付近にった「田村右京大夫」の庭先で切腹した際、その血がかかったと伝えられている梅と石です。「田村右京太夫」邸の庭から移されたとされています。<br /><br />《「赤穂義士記念館」と「義士木像館」》<br />「赤穂義士墓所」へ通じる参道を少し進むと、右側の「赤穂義士記念館」へ降りる石段があり、先に進むと「赤穂義士記念館」があります。チケット売り場で入館券を購入します。入場料は、2施設共通の料金で、大人500円、中高生400円、小人250円となっています。「赤穂義士記念館」及び「義士木像館」は残念ながら撮影禁止です。まず、「赤穂義士記念館」入口では討ち入りで使った陣笠があります。最初に映像コーナーで仇討ちの様子をビデオで鑑賞できます。展示室内には赤穂義士たち所縁の道具が展示されています。また、仇討ちのために資金を援助した商人の「天野屋利兵衛」の木造もあります。「天野屋利兵衛」の墓も「首洗い井戸」の付近にあります。そして、「鷲屋石欒」作と云われる大石父子の木像もあるほか、赤穂事件絵巻や土佐光成による四十七士の絵もあり、ファンにとってはたまらないものでしょう。「赤穂義士記念館」の向かい側にある「義士木像館」には、江戸時代から明治初めまでに造られた義士の木像が納めてあります。これらの木像は、「鷲屋石欒」やその弟子たちによるものです。<br /><br />《「首洗い井戸」》<br />「義士木像館」を出て、参道を右方向に進むと右手に、「首洗い井戸」があります。「首洗い井戸」は、「赤穂義士」が本懐成就後に「吉良上野介」の首級をこの井戸水で洗い、主君「浅野長矩」の墓前に供え報告したことから「首洗い井戸」と呼ばれています。「首洗い井戸」は、鉄製のネットで覆われていて中がよく見えませんでした。「首洗の井戸」の「玉垣」は、「オッペケペー節」で一世を風靡した「川上音二郎」の寄進によるものです。「川上音二郎」は、明治24年(1891年)に「泉岳寺」にある「赤穂浪士の墓」が荒れ果てているのを見て、貧者救済の名目で寄付を行ないました。「泉岳寺」はこの寄付で、「首洗の井戸」を整備したそうです。<br /><br />《「赤穂義士墓入口の門」》<br />「首洗の井戸」の先には、「赤穂義士墓入口の門」があります。「赤穂義士墓入口の門」は、浅野家の「鉄砲州上屋敷」(現在の聖路加病院)の裏門で、明治時代に移築したものです。平成11年(1999年)2月1日に港区の登録有形文化財に指定されています。<br /><br />《「赤穂義士の墓」》<br />「赤穂義士墓入口の門」をくぐると「赤穂義士の墓」です。「授与所」が右手にあり、その反対側で、焼香用のお線香を300円で買います。お寺のお坊さんが100本くらいあるので、一つのお墓に2本ずつおいても足りるという説明がありました。順番に思いを込めて回りたいと思います。元禄15年(1703年)12月14日に、「吉良上野介」邸に押し入り仇討ちを果たした「大石内蔵助」を筆頭とした「赤穂義士」47名は事件後、熊本藩「細川家」、伊予松山藩「松平家」、長府藩「毛利家」、岡崎藩「水野家」の各大名の下屋敷に預けられました。そして、元禄16年(1703年年)2月4日のほぼ同時刻に切腹し、主君「浅野内匠頭」(長矩)の眠る泉岳寺に葬られました。だだし、「寺坂吉右衛門」は関係者に討ち入りの成功を報告した後、江戸に戻って自首しましたが赦され、麻布の「曹渓寺」で83歳まで生き、「曹渓寺」に埋葬されました。現在、「泉岳寺」にある「寺坂吉右衛門」の供養塔は、慶応4年(1868年)に建てられたものです。また、「間新六」は他の浪士と同時に墓は造られましたが、遺体は遺族が引き取り「築地本願寺」に埋葬されたそうです。さらに明和四年(1767年)には討ち入りへの参加を希望したが周囲の反対に遭い、討ち入り前に切腹した「萱野三平」の供養塔も建てられたため、現在墓碑は48基あります。大正11年(1922年)3月8日に国指定史跡に指定されています。最後まで、自分たちの信念と義を貫いた赤穂義士全員にお参りできました。<br /><br />ここまでは、徒歩で移動しましたが、さらに赤穂義士のゆかりの地を訪ねるために電車を利用して、六本木まで行きます。まず、都営浅草線「泉岳寺駅」のA2出口を目指します。「泉岳寺」の「中門」を出ると坂の斜め左手に「泉岳寺駅」A2出口があります。<br />《移動経路》<br />都営浅草線「泉岳寺駅」から都営浅草線「大門駅」へ行き、都営大江戸線に乗り換えます。「大門駅」から三つ目の駅が「六本木駅」です。都営大江戸線「六本木駅」5番出口を出て、「毛利庭園(長門長府城主毛利甲斐守網元麻布上屋敷跡)」のある「六本木ヒルズ」までは徒歩9分650mです。<br /><br />⑰★「毛利庭園(長門長府城主毛利甲斐守網元麻布上屋敷跡)」<br />最初に「毛利庭園」の概要と歴史を遡ってみると、「毛利庭園」は、およそ350年前の江戸時代の。慶安3年(1650年)に、「毛利元就」の孫である「毛利秀元」が甲斐守となり、「麻布日ヶ窪」 (現在の六本木六丁目付近)に上屋敷を設け、その大名屋敷の庭園として誕生しました。元禄15年(1702年)の「赤穂義士」による吉良邸討ち入り後に、「岡島八十右衛門」ら10人が毛利家に預けられ、翌年の元禄16年(1703年)2月4日に10名全員が、ここで切腹しで武士の本懐を遂げた場所としても有名です。そして、日露戦争における旅順攻囲戦の指揮や、明治天皇を慕い、あとを追って殉死したことでも有名なる明治時代の陸軍大将「乃木希典」が、「長府藩上屋敷」の侍屋敷に「乃木希次」の三男として、嘉永12年(1849年)生まれた場所でもあります。「乃木希典」は、幼年期9年をこの「日ヶ窪屋敷」で過ごしました。元治2年(1865年)には「堀田相模守」がこの「日ヶ窪屋敷」を拝領します。明治時代に入ると、中央大学の創始者であり、弁護士、法学者、法学博士でもあった「増島六一郎」が、明治20年(1887年)に自邸として取得し、その庭園を「芳暉園」と名付けました。大正時代には、大正8年(1919年)4月に「乃木大将誕生地」として、旧跡(現東京都旧跡)に指定されました。昭和時代になると「毛利庭園」は、昭和18年(1943年)3月に「毛利甲斐守邸跡」として旧跡(現東京都旧跡)に指定されました。昭和27年(1952年)3月には「ニッカウヰスキー」の東京工場となり、昭和52年(1982年)には、「テレビ朝日」が当地を取得しました。池は「ニッカ池」と通称されていました。ちなみに、「ニッカ池」は現在の「毛利池」の下に隠れているそうです。平成15年(2003年)4月に「六本木ヒルズ」がオープンし、現在の「毛利庭園」として誕生しました。<br />「六本木ヒルズ」の「毛利庭園」は、六本木という大都会の賑わいの中で、心が休まる都会のオアシスのような場所です。「毛利庭園」は、面積が4,300㎡の広大な敷地を誇り、池を中心に滝や渓流、川などを配した回遊式の日本庭園です。都心にいながら、本格的な回遊式日本庭園を散策することができます。園内には、高さ25mのシンボルツリー「大銀杏」をはじめサクラやモミジなども配置され、春には桜、秋には紅葉と、季節ごとの風情が楽しめます。また、園内には、「六本木ヒルズ」と「森美術館」の10周年を記念して設置されたジャン=ミシェル・オトニエル作の恋人たちに人気のあるハート型のパブリックアート「Kin no Kokoro」や平成6年(1994年)にスペースシャトル「コロンビア」内で「向井千秋」が行なった実験で誕生した「宇宙メダカ」が放流されていたり、毎年やってくる「カルガモ親子」などもおり、見どころ満載で、心も休まります。<br /><br />⑱★「檜町公園」(萩藩毛利家麻布下屋敷庭園跡)<br />「六本木ヒルズ」を出て、右方向に「六本木通り」沿いに450mほど進むと信号(表示名「六本木」)があります。左折して横断歩道を渡り、さらに右折して横断歩道を渡り道路の反対側に行きます。左方向に210mほど進むと、「ミッドタウン」の地下鉄の出入口があります。そこを右折し、300mほど道なりに進むと、左手に「檜町公園」(萩藩毛利家麻布下屋敷庭園跡)の入口があります。「六本木ヒルズ」を抜けるのに時間がかかるので、徒歩15分ほどの距離になります。<br />「檜町公園」(萩藩毛利家麻布下屋敷庭園跡)は東京ミッドタウンの東に位置する港区立公園です。かつては、檜の木が多いことから「檜屋敷」と呼ばれた萩藩毛利家の「麻布下屋敷」の庭園跡です。その広大な庭園は「清水亭」と呼ばれ、江戸の町並みを一望できる名園として有名だったそうです。昭和40年(1965年)に港区の公園になり、公園に沿って檜坂があります。「ミッドタウン」が完成した平成19年(2007年)頃に再整備されて、池や流れは庭園風に、ミッドタウンの緑地に隣接する部分は広々とした中に遊具が置かれた広場になっています。そもそも、「檜町公園」の再整備は「ミッドタウン」の開発の一環であり、区の公園(「檜町公園」)と民間所有の緑地(「ミッドタウン・ガーデン」)、そして二つの公園とオフィス、住宅、商業施設が一つになって地区の魅力を高めることが意図されていたそうです。再整備費用についても開発事業者が負担しており、市街地再開発における官民連携の一例として知られています。「檜町公園」の池は、1.4haと公園全体の敷地の約半分を占める大きなものとなっています。この回遊式庭園をはじめ、木造りの東屋や遊歩道から鑑賞でき、アートでユニークな遊具のある芝生エリアなど地域の人々の憩いの場となっているそうです。また、「歩兵第一聯隊跡」、エミリオ・グレコ作の「ネレイス -海の精-」像や春に満開の花をたわわに咲かせる「藤棚」もあります。<br /><br />⑲★「赤坂氷川神社」<br />「檜町公園」(萩藩毛利家麻布下屋敷庭園跡)を出て左方向に進みます。徒歩5分ほどの距離になります。突き当りを右折して右方向に坂を下ります。坂を下ると道が突き当たりますので、左折して道なりに210mほど進むと、「赤坂氷川神社」の「石鳥居」が左手にあります。<br />港区にある「赤坂氷川神社」についての情報を発信していきます。今回、「赤坂氷川神社」を訪れたのは2023年12月27日です。「赤坂氷川神社」へは、東京メトロ南北線「六本木一丁目駅」が最寄り駅ですが、今回は、「赤坂氷川神社」と忠臣蔵で有名な「南部坂」を途中で見ることを予定していたので、都営大江戸線「六本木駅」を利用しました。東京メトロ日比谷線・都営大江戸線「六本木駅」の6番出口を出て、左方向に350mほど道なりに進むと突き当りになります。途中の左手に「檜町公園」があります。突き当りを左折100mほど進むとまた突き当りになります。そこを左折し、210mほど進むと左手に「赤坂氷川神社」<br />「赤坂氷川神社」は、港区赤坂にある「氷川神社」で、大都会の赤坂にありながら、江戸時代の面影を残しています。例えば、江戸の年号が刻まれた石碑、灯籠、7対の狛犬と歴史を感じさせる遺産など、江戸時代の歴史が感じられる境内が残っています。<br />「赤坂氷川神社」の歴史と概要を紐解いてみると、「赤坂氷川神社」の創建年代は不詳ですが、天暦5年(951年)に東国を遊行していた「蓮林僧正」が、現在の赤坂4丁目付近の「一ツ木村」で一夜を明かすと夢の中で御祭神のお告げがあり、この地に「氷川明神」の「社殿」を建てお祀りをしたことにはじまります。また、100年後の治暦2年(1066年)の夏の、関東一円を襲った大旱魃があり、苦しむ村人たちが「氷川明神」に雨乞いの祈願をするとたちまち雨が降りはじめたという話も残っています。そして、江戸時代には第8代将軍「徳川吉宗」から篤い崇敬を受け、以後は徳川将軍家より庇護されました。「徳川吉宗」の命によって造営された社殿が現存しています。歴史を振り返ってみれば、現在までに「安政の大地震」、「関東大震災」、「東京大空襲」などがあったにもかかわらず、それらの被災を免れているのは奇跡的とも言えるのではないでしょうか。「氷川」の名称の由来は、出雲国「簸川」(現在の島根県斐伊川)にあるとされ、「簸川」の上流は御祭神「素盞嗚尊」の「八岐大蛇退治」の舞台と伝えられています。<br /><br />《「赤坂氷川神社」のお薦め参拝巡路》<br />①「力石」⇒②「大銀杏」⇒③「包丁塚」⇒④「九神社」⇒⑤「山口稲荷」⇒⑥「桶新稲荷」⇒<br />⑦4基の「石灯籠」⇒⑧「社殿」⇒⑨「縁結ひ」⇒⑩「山車展示場」⇒⑪「四合稲荷」⇒⑫「西行稲荷」⇒<br />⑬「太鼓橋」⇒⑭「苗村翁頌徳碑」<br /><br />それでは、早速「赤坂氷川神社」の境内に足を踏み入れます。「赤坂氷川神社」には、南側と東側に二つの「一の鳥居」があります。江戸時代には、東側の「一の鳥居」から入るのが正式なルートであったそうですが、現在では、南側の「一の鳥居」から入るのが一般的というらしいです。赤坂方面から来ると東側の「一の鳥居」が近く、六本木方面からは南側の「一の鳥居」が最寄りとなります。私は、都営大江戸線「六本木駅」を利用したので、南側の「一の鳥居」をくぐりました。<br />《「力石」》<br />「一の鳥居」をくぐると右手に「港区立氷川神社遊び場」があり、左手に「力石」があります。江戸時代から明治時代まで鍛錬や娯楽として「力石」を用いた力試しが盛んに行われたといわれています。境内の土中から発見された力石には「三拾五貫目」(約130kg)と刻まれていました。「力石」は、平成7年(1995年)3月27日に港区登録有形民俗文化財に指定されました。<br />《「大銀杏」と「包丁塚」》<br />「一の鳥居」の参道を進むと、右手の緑地に「大銀杏」と「包丁塚」があります。「赤坂氷川神社」の「大銀杏」は推定樹齢400年で、幹の周囲は約7.5mにもなります。「社殿」が現在の地に建立された享保15年(1730年)には、すでに100年を超える樹齢をであったと考えられています。そして、裏から見るとかなりダメージを負っていますが、これは昭和20年(1945年)の東京大空襲によるものです。平成6年(1994年)に港区天然記念物に指定されました。<br />「包丁塚」とは、料理人の使い古した包丁を納め、その恩恵に感謝するとともに、調理した動物や魚の霊を慰めるものです。境内の「包丁塚」は、赤坂青山料飲組合が使わなくなった包丁を奉納したもので、昭和49年(1974年)11月に赤坂青山料飲組合によって建立されました。傍らの左側には、「包丁塚30周年記念」の碑も建てられています。<br />《「九神社」》<br />「一の鳥居」の参道に戻り、少し進むと左手に「九神社」があります。「九神社」は、かつて境内の各所に鎮座していた「天祖神社」、「春日神社」、「鹿島神社」、「八幡神社」、「諏訪神社」、「秋葉神社」、「厳島神社」、「金刀比羅神社」、「塞神社」の9社を合祀した神社です。それぞれの神社への遥拝所として役割がありました。戦前は仲ノ町小学校(現在の赤坂小学校)に鎮座していましたが、戦後に「赤坂氷川神社」の境内に遷座されました。<br />《「山口稲荷」と「桶新稲荷」》<br />「三の鳥居」の手前の道を左方向進むと「社殿」の左側に、「山口稲荷」と「桶新稲荷」があります。<br />「山口稲荷」は、終戦後、赤坂3丁目にあった山口邸から遷された神社です。鳥居には享保3年(1718年)銘があり、向かって右側の水盤には文化10年(1813年)、左側の水盤には嘉永4年(1851年)、狛犬の台座には文政8年(1825年)の文字が刻まれていています。<br />「桶新稲荷」は「社殿」の左手の「山口稲荷」の先にあります。「稲荷社」の主祭神である「宇迦之御魂」は稲の神で、古来は農業神として信仰をされてきました。時代が下り産業が発展すると、「稲荷神」の神格は諸産業の守護神として拡大しました。江戸時代、江戸市中では稲荷神の勧請が盛んに行われたようです。赤坂5丁目の「桶屋」の稲荷もそのうちの一社で、戦後「赤坂氷川神社」に遷されたと伝えられています。<br />《4基の「石灯籠」》<br />「三の鳥居」まで戻り、さらに先に進むと「手水舎」があり、「楼門」の両側には、平成7年(1995年)3月27日に港区の登録有形文化財に指定された4基の「石灯籠」があります。「楼門」前に安置されている灯籠は、遷座を担当していた老中「水野忠之」が「社殿」の完成を記念して奉納したものです。<br />《社殿》<br />「社殿」は、享保15年(1730年)に八代将軍「徳川吉宗」の命より建立されました。この「社殿」は、「本殿」、「幣殿」、「拝殿」の三つの建物が一体となった、いわゆる権現造りの形式です。当時は幕府による倹約政策が進められていたため、「社殿」には質実かつ簡素な気風が表れています。通常は将軍の寄進するような社寺であれば、軒下の組物を何重にも重ねたり、彫刻や彩色などで飾り立てたりするのですが、この「社殿」の組物は簡素で、彫刻も目立ちません。ただ、将軍の寄進だけあって、大きな「雲形組物」や「吹寄せ垂木」など重厚な意匠を取り入れる工夫もなされています。昭和51年(1976年) 7月1日に東京都の有形文化財(建築物)に指定されています。<br />《縁結ひ》<br />縁結びにまつわる「縁結ひ」は、「楼門」をくぐってすぐ左手にあります。実は、「宮神輿庫」になっていた一画でしたが、「山車庫」が完成したため令和5年(2023年)に再整備して、縁結び祈願の「縁結ひ」となりました。日本には願いをしたためた紙を社寺の格子に結い、縁結びを願う風習がありました。「赤坂氷川神社」ではこの風習にちなみ、季節の和紙に願い事を書き、その成就を祈る「縁結ひ」を行っています。季節の色の和紙を結い願い事の成就を祈るそうです。<br />《山車展示場》<br />「社殿」の右手には、「山車展示場」があります。「山車展示場」では、全国的にも貴重な「江戸型山車」を展示しています。「山車展示場」は、以前駐車場だった一画で、駐車場が別に整備され、令和3年(2021年)9月に「山車展示場」が完成しました。展示されている山車は、全国的にも珍しい「三層型」構造で、高さは7mほど

泉岳寺への義の道のり~赤穂義士の足跡とゆかりの地、いよいよ泉岳寺へ~第4回目【港区付近】

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2024/01/10 - 2024/01/10

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Lily-junjunさん

この旅行記のスケジュール

2024/01/10

  • 北千住(9:01発…東京メトロ日比谷線)⇒上野経由⇒新橋(9:31着…東京メトロ銀座線)

  • 「泉岳寺」⇒都営浅草線「泉岳寺駅」 徒歩3分200mほど

  • 泉岳寺(13:32発…都営浅草線)⇒大門経由⇒六本木(13:49着)

この旅行記スケジュールを元に

「赤穂義士」の足跡とゆかりの地と周辺の名所・旧跡の巡りの第4回目は、最終地点の「泉岳寺」のある港区にスポットをあてて巡ってみました。前回までの足どりを振り返ってみると、「赤穂義士」は討ち入りのあと、「回向院」で開門を拒絶された後、「両国橋」東詰から最も近い「一之橋」を渡り深川に入りました。「萬年橋」を渡りさらに進むと、狭い範囲に連続して架かっている「上ノ橋」、「中ノ橋」、「下ノ橋」を渡ります。そして、「永代橋」の袂にある元禄元年(1688年)から今なお現在まで続いている「ちくま味噌」で甘酒粥が振る舞われます。「赤穂義士」一行は、体と心を温め、また、前方から「上杉家」、後方から「津軽家」の追手を警戒して、「両国橋」を渡らず、「永代橋」を渡り、隅田川西岸を南下します。そして、「亀島橋」、「高橋」、「稲荷橋」をわたり、「鉄砲洲稲荷神社」の近く通り、鉄砲洲(現在の中央区湊、明石町付近)にあった「旧赤穂藩上屋敷跡」へ向かいました。「鉄砲洲」では、「奥平家」、「小浜坂井家」の取り調べを受け、赤穂藩邸跡に近づくことができなかったそうです。
今回は、まず、「築地本願寺」、「築地市場」の前を進み、「汐留橋」を渡ります。愛宕では、中屋敷を通るのを「伊達家」に阻まれたため、迂回して「金杉橋」を渡りました。「金杉橋」の手前で「吉田忠左衛門」「と富森助右衛門」の二人が、大目付の「仙石伯耆守盛」に襲撃を報告するため、一行を離脱しました。そして、「札の辻」を進みます。「間新六」が「札の辻」まで来たとき、前にバッタリ倒れ込んでしまいました。その時父の「間喜兵衛」が 「ここまで来たのではないか、もう少しだ、不甲斐ない奴だ。」と叱咤激励したところ、その一言に奮起して、しばらくして 立ち上がり「泉岳寺」まで歩いたといわれています。「赤穂義士」一行は、ついに「泉岳寺」に到着しました。「泉岳寺」に到着した一行は、粥を振舞われ、「吉良上野介」の首と遺品の小刀も亡き主君「浅野内匠頭」の墓前に供えました。また、鞘から取り出した小刀を「吉良上野介」の首に軽く3回あてる儀式は、その場にいたすべての「赤穂義士」によって行われたそうです。そして、焼香後に箱に詰めて寺に預け、僧から吉良家へと送り届けられました。

当日は、自宅から電車を乗り継ぎ、東京メトロ銀座線「新橋駅」で下車しました。まず、赤穂義士が渡った「汐留橋」(蓬莱橋)跡地を訪ねてみることにしてみました。東京メトロ銀座線「新橋駅」の2番出口を出て、「旧新橋停車場 鉄道歴史展示室」の前を通り、160mほど進むと蓬莱橋歩道橋があります。その周辺が「汐留橋」(蓬莱橋)跡地です。

①★「汐留橋」(蓬莱橋)跡地
「汐留橋」は、赤穂義士が討ち入りに成功した後に、泉岳寺へ引き上げる途中に渡った橋の一つです。「汐留橋」の歴史を紐解いてみると、「汐留橋」は、かつて「御堀」と「三十間堀」の合流点に近く「汐留川」に架かっていた橋で、江戸時代には「汐留橋」と呼ばれていました。明治7年(1874年)11月に、土佐藩の家老「後藤象二郎」は、長崎の「高島炭鉱」(軍艦島)を佐賀藩から買上げ金55万円で譲り受けて、商社「蓬莱社」ビルを竣工しました。この「蓬莱社」の拠出金で、明治7年(1874年)7年5月に「汐留木橋」から「汐留石橋」を完成して「蓬莱橋」と改称しました。そして、関東大震災の復興橋梁として、橋長が32m、橋幅が44mの2径間の上路式コンクリートアーチ橋に改架されました。しかし、「汐留川」の埋め立てに伴い昭和39年(1964年)に廃橋となりました。現在も「汐留橋」(蓬莱橋)跡地の道路上にある信号機の標識に「蓬莱橋」と「蓬莱橋南」の名が残されています。「汐留橋跡」は、港区と中央区の区界に位置し、昭和通りと海岸通りの起点となる交差点にあります。

②「日比谷神社」
「汐留橋」(蓬莱橋)跡地から120mほどJR「新橋駅」歩行に進むと「国道15号」(第一京浜)があります。そこを左折し、「国道15号」(第一京浜)を420mほど進むと、都道405号(新虎通り)と「国道15号」(第一京浜)の交差点の角に「日比谷神社」があります。徒歩で8分程度です。
最初に、「日比谷神社」の歴史と概要を紐解いてみる、「日比谷神社」は、現在の「日比谷公園」である「旧麹町区日比谷公園」の「大塚山」という場所にありました。また、別名で「日比谷稲荷明神旅泊稲荷明神」と呼ばれていました。残念ながら「日比谷神社」の創建年代は不明です。「日比谷神社」は、数々の遷座を繰り返している歴史があります。まず、安土桃山時代末期の慶長11年(1606年)に、江戸城築城に際し「日比谷御門」の造営のため、芝口に遷座しました。明治5年(1872年)に村社に列せられ、その後、大正12年(1923年)に発生した関東大震災の影響で昭和3年(1928年)の都市計画区割整理の対象となり、愛宕下町二丁目に換地されて、現在の新橋4丁目に「日比谷神社」の社殿が造営されました。鎮座している地は日比谷から新橋へと移っていますが、社名の「日比谷」は当初より残されている形です。また、何故「日比谷神社」が「旅泊稲荷」と呼ばれているのかというとその由来は、「日比谷神社」が「日比谷公園」の中にあった頃、全国の苦しんでいる旅人たちに「日比谷神社」の社務所を開放し、無病息災の祈願を受けさせたところ、御利益があったので、旅人や周囲の人々は「旅泊稲荷」と呼ぶようになったそうです。そして、新橋に遷座した後に「魚の鯖」に変わるようになり、「鯖稲荷」と呼ばれるようになりました。特に昔、虫歯に苦しむ人が鯖を断って祈誓をすると治るといわれ、それ以降、治った人々が「日比谷神社」に鯖を奉納するようになったそうです。大祭は、同じく新橋にある烏森神社と、隔年で交互に行われています。新橋や汐留の鎮守として、古くから人々に厚く崇敬されている神社です。
それでは早速、「日比谷神社」に参拝したいと思います。交差点を渡ると正面に朱色の鳥居とその左手に「日比谷神社」社柱碑があります。「社殿」は鳥居をくぐり石段を上った先にあります。一礼して鳥居を見上げると、今まで訪れた神社と違い奥に高層ビルがその奥に見えます。意外とこれがマッチしていて絵になりインスタ映えします。私は、写真を撮るのがあまり上手ではないので、上手く撮ることができませんでしたが、まさに大都会の真ん中にある神聖な場所と行った感じです。鳥居をくぐり石段を上がると、左手に「洗心台」、正面に「社殿」、右手に「授与所・社務所」があります。そして、社殿の左側には、境内社の「稲荷社」がありまました。「社殿」は、平成21年(2002年)に造営されたばかりの真新しい、都会的で、洗練された感じがしました。見どころはあまりありませんが、境内から眺める風景は、今までに見たことないような大都会の景色に囲まれていて、とても不思議な感じがしました。

③「御菓子司 新正堂」
「日比谷神社」の石段を降り斜め左手の横断歩道を渡り、都道405号(新虎通り)を徒歩5分300mほど進むと、歩道の左手に「御菓子司 新正堂」があります。
「御菓子司 新正堂」に立ち寄ったのは、「浅野内匠頭終焉の地」を訪れた途中にあり、「浅野内匠頭」がお預けになり切腹された奥州一之関藩(現在の岩手県)「田村右京太夫」の屋敷跡にあることそして、「赤穂義士」に関連する「切腹最中」を販売しているからです。
店の入口の前には、巨大な「切腹最中」のぬいぐるみのようなものが飾ってあり、インパクトがありました。「切腹最中」も種類が増え、全国からよりすぐった高級茶葉をふんだんに使用した抹茶餡の「抹茶切腹最中」もありました。私は、昔からある「切腹最中」を購入し、家に帰って食べました。「切腹最中」」は、皮の間に溢れんばかりの餡が入っていて、ボリューム満点で、求肥入りの、甘さをおさえたさっぱりした、食べやすい味です。大きくてもこれなら2、3個は食べられるというような感じです。「忠臣蔵」ファンの私にとっては、「浅野内匠頭」や「赤穂義士」に食べさせてあげたいという思いにかれました。ちょっと高めな最中でしたが、見た目良し、味よし、そして、何よりも良かったのは「忠臣蔵」の世界に没入できたことです。
ちなみに、この「切腹最中」は、お詫びの品として有名ですが、今では部下と腹を割って会話をしたいビジネスマンや、結婚式の引菓子としても人気になっています。「腹を切る覚悟で一緒になります。」という意味を込めて、この最中を使いたいという熱烈なファンがいるそうです。お店の和菓子の入っているショーケースに目をやるとおもしろい商品も発見しました。それは、「景気上昇最中」です。形は小判型で、中の餡は黒糖を使っていてコクがあるそうです。よく考えたものだと感心しました。

④★「浅野内匠頭終焉の地」
「御菓子司 新正堂」から160mほど進むと信号(表示名「新橋四丁目」)があり、「都道409号」(日比谷通り)と交差します。その交差点を左折して30mほど進むと「浅野内匠頭終焉の地」の碑が歩道の右手にあります。徒歩で3分ほどです。
江戸時代には、この辺りは奥州一之関藩(現在の岩手県)「田村右京太夫」の上屋敷がありました。元禄14年(1701年)3月14日に、江戸城松之大廊下で「吉良上野介」(吉良義央)を切りつけた赤穂藩の第3代藩主「浅野長矩」(浅野内匠頭)は、この田村邸に預けられます。当日は、江戸幕府の1年間の行事の中でも最も格式高い儀式の行なわれる日に、江戸城内で殺傷に及んだのですから、幕府の権威を著しく傷つけたことにもなり、即日切腹が申し渡され、「磯田武大夫」(幕府徒目付)の介錯で切腹しています。浅野家家臣の「片岡高房」、「糟谷勘左衛門」、「建部喜六」、「田中貞四郎」、「礒貝正久」、「中村清右衛門」が田村邸へと出向いて遺体を引き取り、「泉岳寺」に埋葬したそうです。「吉良義央」を打ち取れなかった無念の思いを辞世の句「風さそう花よりもなほ我はまた春の名残をいかにとやせん」に残しました。「日比谷通り」に面して「浅野内匠頭終焉之地」の碑が建っています。「浅野内匠頭終焉之地碑」が建てられたのは、四半世紀後の昭和15年(1940年)のことで、青山の石材店「石勝」が建立しました。
ちなみに、赤穂藩の第3代藩主「浅野長矩」が江戸城松之大廊下「吉良上野介」(吉良義央)を切りつけた当日は、朝廷は答礼として朝廷と幕府との間の取次役をする公卿(武家伝奏)が江戸へ下向して、将軍に拝謁し、叡旨(天皇のお言葉)、院旨(上皇のお言葉)を伝えるのが慣例でした。この慣例は朝廷と幕府の関係を密接に保つための重要な儀式であり朝廷、幕府の双方とも最大級の饗応をもって対応していました。

⑤★「金杉橋」
「浅野内匠頭終焉の地」からもと来た道を「国道15号」(第一京浜)まで戻ります。「国道15号」(第一京浜)を右折し、1200mほど進むと「金杉橋」があります。少し距離はありますが徒歩で25分ほどです。
「金杉橋」は、赤穂義士たちが討ち入り後、泉岳寺に向かう道中に渡ったとされる橋の一つです。「金杉橋」は、現在の港区浜松町2丁目・芝大門2丁目と芝1、2丁目を結ぶ、金杉川(古川)に架かる橋です。江戸後期の資料によると、当時の大きさは橋長が11間(約20m)、橋幅が4間(約7.3m)あったそうです。橋のほんの数十m先には海が広がっていました。そして、大正8年(1919年)に橋長が18.182m、橋幅が36.606mの鉄筋コンクリート橋になりました。また、現在の橋は、昭和46年(1971年)に架替えられたもので橋長が19m、橋幅が42mの単純活荷重合成プレートガーダー橋となりました。また、「金杉橋」は、明治7年(1874年)に、京橋との間で、東京で初めてガス灯がともった場所として有名です。そして、「金杉橋」の下は、付近で営業を行う屋形船の係留場所となっており、一面に様々な船が浮かぶ光景が見られます。
ちなみに、「金杉橋」の名前の由来は、江戸時代に東海道の公儀橋として架橋されており、近くにあったセンダンの木が光って見えるようであったことから名づけられたそうです。また、この国道15号(第一京浜)架かる「金杉橋」は、昭和時代には、橋の上を都電金杉線が走っており、橋の南側に金杉橋停留所がありました。昭和42年(1967年)に都電金杉線が廃止された以降は、都営バスの金杉橋停留所になりました。

⑥「薩摩藩蔵屋敷跡(江戸開城 西郷南州・勝海舟会見之地)」
「金杉橋」から左側の歩道を「国道15号」(第一京浜)沿いに道なりに900mほど進むと、信号(表示名「芝五丁目」)があります。横断歩道のすぐ先の左手に角があります。50mほど進むと右手に「薩摩藩蔵屋敷跡(江戸開城 西郷南州・勝海舟会見之地)」の碑があります。徒歩で13分ほどです。
新政府軍による江戸城総攻撃を目前にした慶應4年(1868年)3月13日、14日の両日に薩摩屋敷において「勝海舟」と「西郷隆盛」の会見が行われました。両者による講和が結ばれ、新政府軍による江戸総攻撃は回避され、歴史的な無血開城がなされました。そして両者の会談から約1ヶ月後の慶應4年(1868年)4月11日に江戸城は新政府側に引き渡され、一滴の血も流さない世界史上でも稀な「無血開城」が実現しました。
「薩摩藩蔵屋敷跡(江戸開城 西郷南州・勝海舟会見之地)」の石碑は、昭和27年(1952年)に建立され、石碑は「西郷隆盛」の孫である「西郷吉之助」の筆によるものです。石碑の案内文には「この蔵屋敷(現在地)の裏はすぐ海に面した砂浜で当時、薩摩藩国元より船で送られて来る米などは、ここで陸揚げされました。現在は、鉄道も敷かれ更に埋め立てられ海までは遠くなりましたが、この付近は最後まで残った江戸時代の海岸線です。」と刻まれており、当時は、まだこのあたりが海の近くだったということを物語っています。

⑦★「水野監物邸跡」
「薩摩藩蔵屋敷跡(江戸開城 西郷南州・勝海舟会見之地)」から「国道15号」(第一京浜)に戻り、左折して150mほど進むと信号(「田町駅西口」)の信号があります。信号を右折し30mほど進むと「慶応仲通り商店街」のアーケードが右手にあります。「慶応仲通り商店街」を60mほど進むと「カラオケの鉄人」があり、その先の小道を右折するとすぐ右側に「水野監物邸跡(岡崎藩水野家下屋敷跡)」の説明板があります。徒歩で5分ほどです。
「水野監物邸跡」は、三河岡崎藩水野家下屋敷跡です。岡崎は「徳川家康」誕生の地であり、水野家は徳川家と親密な関係にありました。「水野監物」(忠之)が藩主の時、この屋敷には、元禄15年(1702年)12月14日に「吉良義央」(上野介)の屋敷に討ち入った「赤穂義士」の「奥田貞右衛門」、「神崎与五郎」ら9名が預けられ、元禄16年(1703年)2月4日にこの屋敷で切腹し、本懐を遂げました。「赤穂義士」の中では、身分が低いものが預けられ、そのため「熊本藩細川家」ほど待遇は良くなかったそうでが、「水野忠之」は義士を丁重に待遇したと伝えられています。ただし、水野氏は、江戸市民や浪人たちに藩邸を襲撃され、破損・火災などにより屋敷を移動したため、実際に義士が切腹した当時の屋敷は同地より北へ50メートルほど離れた別の場所だそうです。そして、現在は二か国語の案内板が、狭い路地に寂しそうに設置されているだけです。
ちなみに、「水野家」に預けられたのは、「奥田貞右衛門」、「神崎与五郎」、「間瀬孫九郎」、「間 十次郎」、「村松三太夫」、「矢頭右衛門七」、「茅野和助」、「横川勘平」、「三村次郎左衛門」の9名です。

⑧★「伊予松山藩松平家下屋敷跡(現イタリア大使館)」
「水野監物邸跡」から「慶応仲通り商店街」を200mほど進むと「国道1号」(桜田通り)になります。横断歩道を渡らずに右折し、400mほど道なりに直進します。二つ目の信号の先の二つ目の角を右折し、150mほど直進すると左手に「イタリア大使館」の正門入口があります。徒歩で11分ほどです。
「伊予松山藩中屋敷」は現在、「イタリア大使館」になっています。寛永12年(1635年)「徳川家康」の異父弟「松平定勝」の子である「松平定行」が桑名より15万石で松山城主なりました。この屋敷に「大石主税」ら10名が預けられました。 対応は、「熊本藩細川家」や「岡崎藩水野家」と比べると悪かったということです。ちなみに、預けられた10名は、「大石主税」、「堀部安兵衛」、「中村勘助」、「不破数右衛門」、「千馬三郎兵衛」、「木村岡右衛門」、「岡野金右衛門」、「菅谷半之丞」、「貝賀弥左衛門」、「大高源五」です。切腹した場所を掘って池とし、その土を築山に盛って庭園の小丘にしたと伝えられています。松山藩の御屋敷は、明治維新後は「松方正義」の手を経た後、昭和9年(1934年)に「イタリア政府」が土地を取得したそうです。「松山藩」の屋敷跡には赤穂事件の遺構は残っていませんが、昭和14年(1939年)に、当時のイタリア大使により建立された「赤穂浪士十名切腹ノ地・伊太利大使館」の記念碑があるそうです。残念ながら「イタリア大使館」敷地内のため見学できません。「赤穂浪士十名切腹ノ地・伊太利大使館」碑は、日本語とイタリア語で刻まれていて、日本語の方の揮毫は「徳富蘇峰」によるものだそうです。そして、「赤穂民報」によると数年に一度は、赤穂義士の命日には、歴代イタリア大使が供養をおこなっているそうです。

⑨★「札の辻」
「伊予松山藩松平家下屋敷跡(現イタリア大使館)」から「国道1号」(桜田通り)に戻り、右折して道なり700mほど進むと、「国道1号」(桜田通り)と「国道15号」(第一京浜)が交わる「札の辻」になります。徒歩で12分ほどかかります。
「札の辻」は、かつて江戸の入り口でした。現在は、「芝地区」の南西の端に第一京浜の交差点名として残っている「札の辻」は、平行してJR山手線、京浜東北線、新幹線、東海道線の線路が走り、芝浦方面には「札の辻橋」が架けられています。「札の辻」という名称の由来は、江戸時代に三辻(三差路)の一角を利用して、ここにきまりや注意などを多くの人々に知らせる「高札場」が設置され、「布告法令」などが掲示されていたことによります。
江戸初期の元和2年(1616年)に、この「札の辻」に「芝口門」が建てられ、江戸の町の正面の入り口としての役割を担い、東が江戸湾に接し、海を隔ててはるか遠くには房総の山を望む、一日眺めても飽きない景色であったため、別名「日暮御門」とも呼ばれていました。
また、「吉良上野介」を討ち取った「赤穂義士」たちは、「吉良上野介」の首を亡き主君「浅野内匠頭」の墓前に供えるため、「浅野内匠頭」の眠る泉岳寺へ向かいました。そして、この「札の辻」を経て、「泉岳寺」に到着した。そして、ここでもひとつエピソードがあります。「赤穂義士」義士たちは、午前4時ごろから約2時間の死闘を終え、「両国」から「泉岳寺」まで約11kmの雪道を3時間弱という驚異的なスピードで歩いた。それも鎖帷子等着込み、その他武器、武具で 約12kg以上あったといわれています。 「間新六」が「札の辻」まで来たとき、前にバッタリ倒れ込んでしまいました。その時父の「間喜兵衛」が 「ここまで来たのではないか、もう少しだ、不甲斐ない奴だ。」と叱咤激励したところ、その一言に奮起して、しばらくして 立ち上がり「泉岳寺」まで歩いたといわれています。

⑩「御田八幡神社」
「札の辻」から「国道15号」(第一京浜)沿いに300mほど進むと「御田八幡神社」があります。徒歩で6分ほどの距離です。
初めに「御田八幡神社」の歴史と概要を紐解いてみると、「御田八幡神社」は、和銅2年(709牟)東国鎮護の神として鎮祀され「延喜式内稗田神社」と伝えられています。「御田八幡神社」は、1300年を超える歴史と伝統ある神社です。何度かの遷座を経て、元和5年(1619年)に、僧「快尊」によって社殿の造営が開始され、寛永五年(1628)、社殿が竣工し現在地へ遷座しました。しかし、寛文8年(1668年)の大火によって社殿が全焼しましたが、寛文12年(1672年)に「細川越中守」によって社殿が再建されました。明治2年(1869年)に、延喜式記載の「稗田神社」に改称し、さらに明治30年(1897年)に現在の名称である「御田八幡神社」と改称しました。そして、昭和20年(1945年)には、東京大空襲で社殿が焼失しまいましたが、昭和29年(1954年)に、社殿を再建しました。ちなみに、「延喜式神名帳」は、延長5年(927年)にまとめられた『延喜式』の巻九・十のことで、当時「官社」に指定されていた全国の神社一覧で、延喜式に記載された神社と同一もしくはその後裔と推定される神社のことを「論社」、「比定社」などと呼びます。
では、早速「御田八幡神社」を参拝したいと思います。「鳥居」の先には急勾配の石段が控えています。ただし、右手にはやや勾配の緩やかな石段があります。参道から続く急勾配の石段の方が男坂、緩やかな石段が女坂ということになりますかね。石段を上る手前には、金網で囲まれ、保護されている一対の「狛犬」が鎮座しています。この「狛犬」の奉納された年代は不詳ですが、おそらく江戸時代のものかと思われます。狛犬は、阿吽の両方とも子持ちで、特に、阿形の子は乳飲みの姿で愛くるしい姿です。急勾配の石段を上り切ると、右手に「手水舎」、左手には「神楽殿」があります。さらに進むと、「社殿」前にずんぐりむっくりとした体型の非常に古い「狛犬」が鎮座しています。この「狛犬」は、元禄9年(1696年)に奉納されたものだそうです。その他「社殿」の付近には、大きな絵馬やこれまた古い「天水桶」もありました。現在の「社殿」は、東京大空襲にて焼失し、昭和29年(1954年)に再建されたものです。「社殿」は、木々に囲まれた緑の中にひっそりと佇み、都会の喧騒を忘れさせてくれます。「社殿」の左手には、合殿の境内社である「五光稲荷神社」と「御嶽神社」があります。興味深いのは、「五光稲荷神社」と「御嶽神社」は、合殿にもかかわらず、別々の鳥居が建立されているということです。さらに、その奥にも小さな祠がありました。鳥居の扁額は、劣化していて読みにくいのですが、「稲荷社」と書かれていました。規模的には、小さな神社ですが、都会の中の安らぎの空間というような感じがしました。

⑪「高輪大木戸跡」
「御田八幡神社」から「国道15号」(第一京浜)沿いに500mほど進むと、道路の左手の歩道に「高輪大木戸跡」があります。
江戸時代は町ごとに「町木戸」を設け、自身番において警固させました。高輪の「大木戸」は、江戸の治安維持のため、宝永7年(1710年)に東海道の両側に石垣を築き、設置されました。各町にある「町木戸」に対し、江戸全体を守る木戸であることから、「大木戸」と呼ばれ、旅人やその送迎客でにぎわいました。旅人が旅装を整えたり、送り迎えされるのも高輪の「大木戸」まででした。高輪の「大木戸」の木戸の幅は約10mあり、初めは柵門が設置されて、明六ツ、暮六ツに開閉していましたが、後に廃止されました。現在は国道15号線(第一京浜国道)沿いに東側の石垣だけが残されています。「伊能忠敬」は正確な日本地図を作るため、「高輪大木戸」を起点として測量を初め、17年間かけ自分で考案した測量車を押して全国を歩きました。「伊能忠敬」は寛政12年(1800年)4月19日55歳で亡くなりましたが、その3年後に、弟子たちの手によって完成し幕府に献上されました。この地図を国外に持ち出そうとして発覚し、国外追放となったのが「シーボルト」です。

⑫「歯科医学教育発祥之地」
「高輪大木戸跡」から「国道15号」(第一京浜)を75mほど戻ると信号(表示名「高輪大木戸跡」)があります。左折して横断歩道を渡ります。横断歩道を渡ると斜め右に細い道がありますので、190mほど道なりに進むとT字路になり信号があります。右折して「伊皿子坂」を150mほど進むと最初の信号(表示名「伊皿子」)があります。その信号の角地に「歯科医学教育発祥之地」があります。
「高山紀齋」は明治8年(1875年)に、わが国最初の歯科医師免許をとった人物です。その後はアメリカに渡り、米国の歯科医師の免許を取得しました。当時日本では、まだ西洋歯科技術は全く理解されていない時代でした。アメリカ留学を終えた明治11年(1875年)6月に、京橋区銀座3丁目14番地第3戸に「高山歯科診療所」を開設し、明治17年(1881年)9月には東京医術開業試験委員に就任しています。そして、明治23年(1990年)にこの伊皿子の付近の芝区伊皿子町70番地に歯科医学院を開設し、これが「東京歯科大学」の前身です。それを記念して建立されたのが、黒御影石の「歯科医学教育発祥之地」碑です。「高山紀齋」は、明治29年(1893年)11月28日、日本歯科医会を設立、明治35年1月20日にはその初代会長にも就任しています。

⑬★「大石良雄等自刃の跡の碑」
「歯科医学教育発祥之地」から「伊皿子坂」の信号を左折して横断歩道を渡ります。そのまま道なりに「二本榎通り」沿いを300mほど進むと「都営高輪一丁目アパート1号棟」が右手にあり、植え込みの中に「大石良雄等自刃の跡の碑」があります。徒歩で4分ほどの距離です。
東京都港区高輪1丁目の「都営高輪アパート」内にあるのが、「大石良雄外十六人忠烈の跡」で、そこから少し離れた「二本榎通り」沿いにある「都営高輪一丁目アパート1号棟」の植え込みの中にあるのが、「大石良雄等自刃の跡の碑」です。「大石良雄等自刃跡碑」の建つ場所は、厳密には旧細川邸から少し離れた位置に建立されたものであり、切腹した場所ではありません。元禄14年(1701年)の「江戸城松之廊下」の刃傷事件に端を発し、吉良邸の討ち入りという大事件に発展した「赤穂事件」の際に、「大石内蔵助」ら17名は幕府の命により「細川家」に預けられ、「細川家」では高輪にあった下屋敷で保護していました。元禄16年2月4日に、幕府から切腹の沙汰が通知され、その日のうちに全員が切腹し、「赤穂義士」たちは、主君「浅野長矩」の眠る高輪の「泉岳寺」に葬られました。

⑭★「大石良雄外十六人忠烈の跡」
「大石良雄等自刃の跡の碑」を右折し、100mほど直進すると突き当りになりそこが「大石良雄外十六人忠烈の跡」です。徒歩で2分以内の距離です。
「大石良雄外十六人忠烈の跡」は、東京都港区高輪1丁目の「都営高輪アパート」の奥にあります。「港区高輪地区総合支所」、「港区立高松中学校」一帯は、「熊本藩細川家下屋敷跡」で、吉良邸討ち入り事件を起こした「大石良雄外赤穂義士16人」が切腹した場所です。
元禄15年(1702)年12月15日の未明に、47名の「赤穂義士」は本所の「吉良邸」に討ち入り、2時間余の激闘の末に、「吉良義央」の首級を挙げて本懐を遂げました。「大石内蔵助良雄」ら17名は、肥後熊本藩「細川越中守綱利」の高輪下屋敷にお預けとなりました。「細川越中守綱利」は「大石内蔵助良雄」ら17名を厚遇したと伝わり、「細川の 水の(水野監物)流れは清けれど ただ大海(毛利甲斐守)の沖(松平隠岐守)ぞ濁れる」との狂歌が伝わっていいます。元禄16年(1703年)2月4日に、江戸幕府から切腹の沙汰が通知され、その日のうちに全員が切腹しました。その後、「赤穂義士」たちは、江戸高輪の泉岳寺葬られました。「大石良雄外十六人忠烈の跡」碑は平成10年(1998年)に、東京都港区教育委員会が設置したものです。私有地のため門外からの見学のみとなります。そして、「港区高輪地区総合支所」の横にある旧細川邸のシイは、「熊本藩細川家下屋敷」にあった巨木が現存しています。「大石良雄外十六人」の「赤穂義士」とは下記のとおりとなります。
①大石内蔵助(良雄) ② 吉田忠左衛門(兼亮) ③ 原惣右衛門(元辰) ④片岡源五右衛門(高房)
⑤ 間瀬久大夫(正明) ⑥ 小野寺十内(秀和) ⑦ 間喜兵衛(光延) ⑧ 礒貝十郎左衛門(正久)
⑨ 堀部弥兵衛(金丸) ⑩近松勘六(行重) ⑪ 富森助右衛門(正因) ⑫ 潮田又之丞(高教)
⑬ 早水藤左衛門(満尭) ⑭赤埴源蔵(重賢) ⑮奥田孫太夫(重盛) ⑯ 矢田五郎右衛門(助武)
⑰ 大石瀬左衛門(信清)

⑮「松島屋」
「大石良雄外十六人忠烈の跡」から「大石良雄等自刃の跡の碑」まで戻り、もと来た道を230mほど進むと左側の歩道に「松島屋」があります。徒歩にして4分ほどの距離です。
「大石良雄外十六人忠烈の跡」へ向かう細い坂道の途中で行列ができている店がありました。それが、老舗和菓子店の「松島屋」です。とりあえず目的地である「大石良雄外十六人忠烈の跡」を見た帰りに「松島屋」に立ち寄りました。赤地に白字の暖簾が目印です。私が行ったときは、前に5人くらいで、そんなに待たずに店に入ることができました。二人の店員の方が手際よく対応してくれました。「松島屋」の人気は、「きび大福」、「草大福」、「豆大福」などの大福類です。その中で一番人気なのは、十勝産の赤えんどう豆を入れたお餅で、石狩産小豆で作るコクのある餡をくるんだ「豆大福」です。私は、「豆大福」と醤油味の「御団子」を買って帰りました。その他、「桜餅」や「くず餅」「栗むし羊羹」などもありました。家に帰って食べてみると、「豆大福」の皮は、薄皮で弾力がある赤えんどう豆を入れたお餅なので今までと違う味と食感でした。餡も甘さ控えめで、さっぱりしていて、これなら何個も食べられそうな気になりました。もちろん御団子のお餅と醤油の餡もバランスがとれていて美味しくいただきました。

⑯★「泉岳寺」
「松島屋」に来る手前の信号まで戻ります。信号を渡り右折して110mほど進むと「堀江歯科医院」の手前に細い道があります。そこを道なりに300mほど進むと「泉岳寺」の「山門」の所に出ます。徒歩で6分ほどの距離です。
最初に「泉岳寺」の歴史と概要を紐解いてみると、「泉岳寺」は、慶長17年(1612年)に、「徳川家康」が、「門庵宗関和尚」を迎え外桜田(桜田門周辺)に創建された曹洞宗寺院で、福井県の「永平寺」と横浜鶴見の「総持寺」を大本山としているお寺です。しかし、寛永18年(1641年)に発生した「寛永の大火」で焼失してしまいました。その後、3代将軍「徳川家光」の命を受けて毛利、浅野、朽木、丹羽、水谷の5大名の手で現在の地である高輪に再建されました。そして、元禄14年(1701年)3月14日に、江戸城中で旗本「吉良義央」に切りつけ、即日切腹処分となった播磨赤穂藩の藩主「浅野長矩」と翌元禄15年(1702年)12月14日に江戸本所の吉良邸に押し入って主君の仇を討った「47人の赤穂義士」の墓があり、現在もなお多くの参拝客が訪れています。私が「泉岳寺」を訪れたのは、12月初旬でしたが、かなりの「赤穂義士四十七士」のお墓参りの参拝客がいました。また、日本人だけでなく外国のツアーできた団体の旅行者もいました。一般的に「赤穂浪士」は、「赤穂義士四十七士」といわれていますが、「泉岳寺」には討ち入り前に自害した浅野氏の家臣「萱野重実」の供養塔を含めて48基の墓があります。「赤穂義士」たちの墓の特徴は、討ち入り後の預け先である「細川家」、「松平家」、「水野家」、「毛利家」によってそれぞれ分けられていることです。そして、討入りに参加した「赤穂義士」の中で、「間新六」の遺体は遺族が引き取り「築地本願寺」に葬り、また、唯一人切腹をまぬがれた「寺坂吉右衛門」、この二人の墓塔は、遺骸の埋葬を伴わない供養塔で、「寺坂吉右衛門」以外の「赤穂義士」の戒名はすべて最初の文字が「刃」となっています。
そして、「泉岳寺」の境内には、討ち入り300年に因み平成13年(2001年)に建設された「赤穂四十七士」の遺品などを納めた「赤穂義士記念館」や義士47名の木像を納めた「義士木像館」が建てられ、「主税梅」、「首洗い井戸」、「血染めの梅と血染めの石」など「赤穂義士」ゆかりのものも点在し、忠臣蔵のファンが絶えず訪れる寺院となっています。そして、討ち入り日の12月14日の「義士祭」は、全国から多くの参拝者が訪れて忠義を尽くした義士一人一人に線香をあげていく歳末の風物詩となっています。また、4月1日から7日までには「春の義士祭」も行われます。

《「泉岳寺のお薦め参拝巡路」》
①「中門」⇒②「義士堂小泉商店」⇒③「大石内蔵助吉雄銅像」⇒④「山門」⇒⑤「本堂」⇒⑥「梵鐘」⇒
⑦「講堂」⇒⑧「主税梅」⇒⑨「遥池梅」⇒⑩「血染めの梅と血染めの石」⇒⑪「赤穂義士記念館」⇒
⑫「義士木像館」⇒⑬「首洗い井戸」⇒⑭「赤穂義士墓入口の門」⇒⑮「浅野長矩」と「赤穂義士の墓」

それでは、早速、「泉岳寺」を参拝したいと思います。
《「中門」》
まずは、「中門」をくぐります。「中門」の扁額「萬松山」は、中国明時代の禅僧「為霖堂」の書によるものです。初代の「中門」はは焼失したので、「中門」は天保7年(1836年)に「35世大龐梅庭和尚」によって再建されたものです。「中門」は、昭和7年(1932年)に大修理を行いました。「中門」は、平成11年(1999年)2月1日に港区登録有形文化財に指定されています。

《「義士堂小泉商店」》
「中門」から「山門」に向かう参道の途中に、門前町風のお土産店、飲食店が右手に数件ほど建ち並んでいます。その中で、印象に残ったのは「義士堂小泉商店」です。赤穂義士の羽織を着た店の主人や店の看板の上にある太鼓の飾りが印象的でした。お店のお土産も赤穂義士に関するものが沢山ありました。
《「大石内蔵助吉雄銅像」》
参道を進むと「山門」の手前の右手に「大石内蔵助吉雄銅像」があります。「大石内蔵助吉雄」が元禄袴を身につけ、連判状を手に江戸のある東の空をじっと睨んでいる姿を表した銅像です。明治から大正にかけて活躍した浪曲師の「桃中軒雲右衛門」の発願で鋳造されたものが「泉岳寺」に大正10年(1921年)12月14日に寄贈されました。

《「山門」》
「大石内蔵助吉雄銅像」の左手に、「山門」があります。「山門」はくぐることができないので、正面から鑑賞した後に、右側にある「泉岳寺本堂入口」から入ります。「泉岳寺」には、もともと「総門」、「中門」、「山門」の3つの門「三門」がありましたが、現存しているのは「山門」と「中門」の二つのみです。しかし、どちらも初代のものは焼失しています。「山門」は天保3年(1832年)に「34世大道貞鈞和尚」によって再建されたものです。「山門」の2階部分には、「十六羅漢」と「釈迦三尊像」が安置され、1階天井には「江戸三龍」のひとつ「銅彫大蟠龍」がはめこまれています。「銅彫大蟠龍」は、「日本彫金の祖」と呼ばれる「関義則」の手になる龍の彫り物で、蟠龍とは、とぐろを巻いた龍のことです。「山門」の「泉岳寺」の扁額は、晋唐の墨跡研究者であった「大野約庵」による書です。平成11年(1999年)2月1日に港区の登録有形文化財に指定されています。

《「本堂」》
「山門」の次は「本堂」です。「本堂」の右手には「授与所・寺務所」があります。本堂の手前には、「御柱」と「香炉台」があります。「本堂」は、東京大空襲で焼失した「旧本堂」に代わり、現在の本堂は昭和28年(1953年)12月14日に完成した鎌倉様式の建築です。「本堂」の正面に掲げられている「獅子吼」の扁額は「ししく」と読むそうです。お釈迦様が説法する様子を獅子が吼える様子に例えたもので、何事にも動じず大衆に向かって心理を説く釈迦の姿勢を表しています。御本尊は「釈迦如来座像」、他に曹洞宗の宗祖である道元禅師「瑩山禅師像」、また「大石内蔵助」の守り本尊である「摩利支天」(秘仏)などが納められています。

《「梵鐘」》
「本堂」の左手には「梵鐘」があります。朝の坐禅時と夕方の閉門時に撞かれている「梵鐘」は、大正2年(1913年)に、「41世普天霊明和尚」によって造られたものです。江戸から明治まで使われていた「梵鐘」は、現在ウィーンの「国立民族博物館」に所蔵されているそうです。

《「講堂」》
「梵鐘」から引き返すと右手に「講堂」があります。「講堂」は、関東大震災後の大正14年(1925年)に建てられました。1階では毎週土曜日に学寮講座が開かれています。2階は「赤穂義士」47名の木像を納めた「義士木像館」になっています。

《「主税梅」、「遥池梅」、「血染めの梅と血染めの石」》
「講堂」を右折すると「赤穂義士墓所」へ通じる参道があります。そこには、「主税梅」、「遥池梅」、「血染めの梅と血染めの石」が並ぶようにしてあります。
「主税梅」は、「赤穂義士」で最年少だった「大石主税」が切腹した伊予松山藩松平隠岐守三田屋敷(現在の三田にあるイタリア大使館内)に植えられていた梅と伝えられています。
「遥池梅」は、義士の墓守をしていた「堀妙海法尼」が「遥泉院」から賜った鉢植えの梅を移植したものと伝えられています。
「血染めの梅と血染めの石」は、浅野内匠頭が、現在の新橋4 丁目付近にった「田村右京大夫」の庭先で切腹した際、その血がかかったと伝えられている梅と石です。「田村右京太夫」邸の庭から移されたとされています。

《「赤穂義士記念館」と「義士木像館」》
「赤穂義士墓所」へ通じる参道を少し進むと、右側の「赤穂義士記念館」へ降りる石段があり、先に進むと「赤穂義士記念館」があります。チケット売り場で入館券を購入します。入場料は、2施設共通の料金で、大人500円、中高生400円、小人250円となっています。「赤穂義士記念館」及び「義士木像館」は残念ながら撮影禁止です。まず、「赤穂義士記念館」入口では討ち入りで使った陣笠があります。最初に映像コーナーで仇討ちの様子をビデオで鑑賞できます。展示室内には赤穂義士たち所縁の道具が展示されています。また、仇討ちのために資金を援助した商人の「天野屋利兵衛」の木造もあります。「天野屋利兵衛」の墓も「首洗い井戸」の付近にあります。そして、「鷲屋石欒」作と云われる大石父子の木像もあるほか、赤穂事件絵巻や土佐光成による四十七士の絵もあり、ファンにとってはたまらないものでしょう。「赤穂義士記念館」の向かい側にある「義士木像館」には、江戸時代から明治初めまでに造られた義士の木像が納めてあります。これらの木像は、「鷲屋石欒」やその弟子たちによるものです。

《「首洗い井戸」》
「義士木像館」を出て、参道を右方向に進むと右手に、「首洗い井戸」があります。「首洗い井戸」は、「赤穂義士」が本懐成就後に「吉良上野介」の首級をこの井戸水で洗い、主君「浅野長矩」の墓前に供え報告したことから「首洗い井戸」と呼ばれています。「首洗い井戸」は、鉄製のネットで覆われていて中がよく見えませんでした。「首洗の井戸」の「玉垣」は、「オッペケペー節」で一世を風靡した「川上音二郎」の寄進によるものです。「川上音二郎」は、明治24年(1891年)に「泉岳寺」にある「赤穂浪士の墓」が荒れ果てているのを見て、貧者救済の名目で寄付を行ないました。「泉岳寺」はこの寄付で、「首洗の井戸」を整備したそうです。

《「赤穂義士墓入口の門」》
「首洗の井戸」の先には、「赤穂義士墓入口の門」があります。「赤穂義士墓入口の門」は、浅野家の「鉄砲州上屋敷」(現在の聖路加病院)の裏門で、明治時代に移築したものです。平成11年(1999年)2月1日に港区の登録有形文化財に指定されています。

《「赤穂義士の墓」》
「赤穂義士墓入口の門」をくぐると「赤穂義士の墓」です。「授与所」が右手にあり、その反対側で、焼香用のお線香を300円で買います。お寺のお坊さんが100本くらいあるので、一つのお墓に2本ずつおいても足りるという説明がありました。順番に思いを込めて回りたいと思います。元禄15年(1703年)12月14日に、「吉良上野介」邸に押し入り仇討ちを果たした「大石内蔵助」を筆頭とした「赤穂義士」47名は事件後、熊本藩「細川家」、伊予松山藩「松平家」、長府藩「毛利家」、岡崎藩「水野家」の各大名の下屋敷に預けられました。そして、元禄16年(1703年年)2月4日のほぼ同時刻に切腹し、主君「浅野内匠頭」(長矩)の眠る泉岳寺に葬られました。だだし、「寺坂吉右衛門」は関係者に討ち入りの成功を報告した後、江戸に戻って自首しましたが赦され、麻布の「曹渓寺」で83歳まで生き、「曹渓寺」に埋葬されました。現在、「泉岳寺」にある「寺坂吉右衛門」の供養塔は、慶応4年(1868年)に建てられたものです。また、「間新六」は他の浪士と同時に墓は造られましたが、遺体は遺族が引き取り「築地本願寺」に埋葬されたそうです。さらに明和四年(1767年)には討ち入りへの参加を希望したが周囲の反対に遭い、討ち入り前に切腹した「萱野三平」の供養塔も建てられたため、現在墓碑は48基あります。大正11年(1922年)3月8日に国指定史跡に指定されています。最後まで、自分たちの信念と義を貫いた赤穂義士全員にお参りできました。

ここまでは、徒歩で移動しましたが、さらに赤穂義士のゆかりの地を訪ねるために電車を利用して、六本木まで行きます。まず、都営浅草線「泉岳寺駅」のA2出口を目指します。「泉岳寺」の「中門」を出ると坂の斜め左手に「泉岳寺駅」A2出口があります。
《移動経路》
都営浅草線「泉岳寺駅」から都営浅草線「大門駅」へ行き、都営大江戸線に乗り換えます。「大門駅」から三つ目の駅が「六本木駅」です。都営大江戸線「六本木駅」5番出口を出て、「毛利庭園(長門長府城主毛利甲斐守網元麻布上屋敷跡)」のある「六本木ヒルズ」までは徒歩9分650mです。

⑰★「毛利庭園(長門長府城主毛利甲斐守網元麻布上屋敷跡)」
最初に「毛利庭園」の概要と歴史を遡ってみると、「毛利庭園」は、およそ350年前の江戸時代の。慶安3年(1650年)に、「毛利元就」の孫である「毛利秀元」が甲斐守となり、「麻布日ヶ窪」 (現在の六本木六丁目付近)に上屋敷を設け、その大名屋敷の庭園として誕生しました。元禄15年(1702年)の「赤穂義士」による吉良邸討ち入り後に、「岡島八十右衛門」ら10人が毛利家に預けられ、翌年の元禄16年(1703年)2月4日に10名全員が、ここで切腹しで武士の本懐を遂げた場所としても有名です。そして、日露戦争における旅順攻囲戦の指揮や、明治天皇を慕い、あとを追って殉死したことでも有名なる明治時代の陸軍大将「乃木希典」が、「長府藩上屋敷」の侍屋敷に「乃木希次」の三男として、嘉永12年(1849年)生まれた場所でもあります。「乃木希典」は、幼年期9年をこの「日ヶ窪屋敷」で過ごしました。元治2年(1865年)には「堀田相模守」がこの「日ヶ窪屋敷」を拝領します。明治時代に入ると、中央大学の創始者であり、弁護士、法学者、法学博士でもあった「増島六一郎」が、明治20年(1887年)に自邸として取得し、その庭園を「芳暉園」と名付けました。大正時代には、大正8年(1919年)4月に「乃木大将誕生地」として、旧跡(現東京都旧跡)に指定されました。昭和時代になると「毛利庭園」は、昭和18年(1943年)3月に「毛利甲斐守邸跡」として旧跡(現東京都旧跡)に指定されました。昭和27年(1952年)3月には「ニッカウヰスキー」の東京工場となり、昭和52年(1982年)には、「テレビ朝日」が当地を取得しました。池は「ニッカ池」と通称されていました。ちなみに、「ニッカ池」は現在の「毛利池」の下に隠れているそうです。平成15年(2003年)4月に「六本木ヒルズ」がオープンし、現在の「毛利庭園」として誕生しました。
「六本木ヒルズ」の「毛利庭園」は、六本木という大都会の賑わいの中で、心が休まる都会のオアシスのような場所です。「毛利庭園」は、面積が4,300㎡の広大な敷地を誇り、池を中心に滝や渓流、川などを配した回遊式の日本庭園です。都心にいながら、本格的な回遊式日本庭園を散策することができます。園内には、高さ25mのシンボルツリー「大銀杏」をはじめサクラやモミジなども配置され、春には桜、秋には紅葉と、季節ごとの風情が楽しめます。また、園内には、「六本木ヒルズ」と「森美術館」の10周年を記念して設置されたジャン=ミシェル・オトニエル作の恋人たちに人気のあるハート型のパブリックアート「Kin no Kokoro」や平成6年(1994年)にスペースシャトル「コロンビア」内で「向井千秋」が行なった実験で誕生した「宇宙メダカ」が放流されていたり、毎年やってくる「カルガモ親子」などもおり、見どころ満載で、心も休まります。

⑱★「檜町公園」(萩藩毛利家麻布下屋敷庭園跡)
「六本木ヒルズ」を出て、右方向に「六本木通り」沿いに450mほど進むと信号(表示名「六本木」)があります。左折して横断歩道を渡り、さらに右折して横断歩道を渡り道路の反対側に行きます。左方向に210mほど進むと、「ミッドタウン」の地下鉄の出入口があります。そこを右折し、300mほど道なりに進むと、左手に「檜町公園」(萩藩毛利家麻布下屋敷庭園跡)の入口があります。「六本木ヒルズ」を抜けるのに時間がかかるので、徒歩15分ほどの距離になります。
「檜町公園」(萩藩毛利家麻布下屋敷庭園跡)は東京ミッドタウンの東に位置する港区立公園です。かつては、檜の木が多いことから「檜屋敷」と呼ばれた萩藩毛利家の「麻布下屋敷」の庭園跡です。その広大な庭園は「清水亭」と呼ばれ、江戸の町並みを一望できる名園として有名だったそうです。昭和40年(1965年)に港区の公園になり、公園に沿って檜坂があります。「ミッドタウン」が完成した平成19年(2007年)頃に再整備されて、池や流れは庭園風に、ミッドタウンの緑地に隣接する部分は広々とした中に遊具が置かれた広場になっています。そもそも、「檜町公園」の再整備は「ミッドタウン」の開発の一環であり、区の公園(「檜町公園」)と民間所有の緑地(「ミッドタウン・ガーデン」)、そして二つの公園とオフィス、住宅、商業施設が一つになって地区の魅力を高めることが意図されていたそうです。再整備費用についても開発事業者が負担しており、市街地再開発における官民連携の一例として知られています。「檜町公園」の池は、1.4haと公園全体の敷地の約半分を占める大きなものとなっています。この回遊式庭園をはじめ、木造りの東屋や遊歩道から鑑賞でき、アートでユニークな遊具のある芝生エリアなど地域の人々の憩いの場となっているそうです。また、「歩兵第一聯隊跡」、エミリオ・グレコ作の「ネレイス -海の精-」像や春に満開の花をたわわに咲かせる「藤棚」もあります。

⑲★「赤坂氷川神社」
「檜町公園」(萩藩毛利家麻布下屋敷庭園跡)を出て左方向に進みます。徒歩5分ほどの距離になります。突き当りを右折して右方向に坂を下ります。坂を下ると道が突き当たりますので、左折して道なりに210mほど進むと、「赤坂氷川神社」の「石鳥居」が左手にあります。
港区にある「赤坂氷川神社」についての情報を発信していきます。今回、「赤坂氷川神社」を訪れたのは2023年12月27日です。「赤坂氷川神社」へは、東京メトロ南北線「六本木一丁目駅」が最寄り駅ですが、今回は、「赤坂氷川神社」と忠臣蔵で有名な「南部坂」を途中で見ることを予定していたので、都営大江戸線「六本木駅」を利用しました。東京メトロ日比谷線・都営大江戸線「六本木駅」の6番出口を出て、左方向に350mほど道なりに進むと突き当りになります。途中の左手に「檜町公園」があります。突き当りを左折100mほど進むとまた突き当りになります。そこを左折し、210mほど進むと左手に「赤坂氷川神社」
「赤坂氷川神社」は、港区赤坂にある「氷川神社」で、大都会の赤坂にありながら、江戸時代の面影を残しています。例えば、江戸の年号が刻まれた石碑、灯籠、7対の狛犬と歴史を感じさせる遺産など、江戸時代の歴史が感じられる境内が残っています。
「赤坂氷川神社」の歴史と概要を紐解いてみると、「赤坂氷川神社」の創建年代は不詳ですが、天暦5年(951年)に東国を遊行していた「蓮林僧正」が、現在の赤坂4丁目付近の「一ツ木村」で一夜を明かすと夢の中で御祭神のお告げがあり、この地に「氷川明神」の「社殿」を建てお祀りをしたことにはじまります。また、100年後の治暦2年(1066年)の夏の、関東一円を襲った大旱魃があり、苦しむ村人たちが「氷川明神」に雨乞いの祈願をするとたちまち雨が降りはじめたという話も残っています。そして、江戸時代には第8代将軍「徳川吉宗」から篤い崇敬を受け、以後は徳川将軍家より庇護されました。「徳川吉宗」の命によって造営された社殿が現存しています。歴史を振り返ってみれば、現在までに「安政の大地震」、「関東大震災」、「東京大空襲」などがあったにもかかわらず、それらの被災を免れているのは奇跡的とも言えるのではないでしょうか。「氷川」の名称の由来は、出雲国「簸川」(現在の島根県斐伊川)にあるとされ、「簸川」の上流は御祭神「素盞嗚尊」の「八岐大蛇退治」の舞台と伝えられています。

《「赤坂氷川神社」のお薦め参拝巡路》
①「力石」⇒②「大銀杏」⇒③「包丁塚」⇒④「九神社」⇒⑤「山口稲荷」⇒⑥「桶新稲荷」⇒
⑦4基の「石灯籠」⇒⑧「社殿」⇒⑨「縁結ひ」⇒⑩「山車展示場」⇒⑪「四合稲荷」⇒⑫「西行稲荷」⇒
⑬「太鼓橋」⇒⑭「苗村翁頌徳碑」

それでは、早速「赤坂氷川神社」の境内に足を踏み入れます。「赤坂氷川神社」には、南側と東側に二つの「一の鳥居」があります。江戸時代には、東側の「一の鳥居」から入るのが正式なルートであったそうですが、現在では、南側の「一の鳥居」から入るのが一般的というらしいです。赤坂方面から来ると東側の「一の鳥居」が近く、六本木方面からは南側の「一の鳥居」が最寄りとなります。私は、都営大江戸線「六本木駅」を利用したので、南側の「一の鳥居」をくぐりました。
《「力石」》
「一の鳥居」をくぐると右手に「港区立氷川神社遊び場」があり、左手に「力石」があります。江戸時代から明治時代まで鍛錬や娯楽として「力石」を用いた力試しが盛んに行われたといわれています。境内の土中から発見された力石には「三拾五貫目」(約130kg)と刻まれていました。「力石」は、平成7年(1995年)3月27日に港区登録有形民俗文化財に指定されました。
《「大銀杏」と「包丁塚」》
「一の鳥居」の参道を進むと、右手の緑地に「大銀杏」と「包丁塚」があります。「赤坂氷川神社」の「大銀杏」は推定樹齢400年で、幹の周囲は約7.5mにもなります。「社殿」が現在の地に建立された享保15年(1730年)には、すでに100年を超える樹齢をであったと考えられています。そして、裏から見るとかなりダメージを負っていますが、これは昭和20年(1945年)の東京大空襲によるものです。平成6年(1994年)に港区天然記念物に指定されました。
「包丁塚」とは、料理人の使い古した包丁を納め、その恩恵に感謝するとともに、調理した動物や魚の霊を慰めるものです。境内の「包丁塚」は、赤坂青山料飲組合が使わなくなった包丁を奉納したもので、昭和49年(1974年)11月に赤坂青山料飲組合によって建立されました。傍らの左側には、「包丁塚30周年記念」の碑も建てられています。
《「九神社」》
「一の鳥居」の参道に戻り、少し進むと左手に「九神社」があります。「九神社」は、かつて境内の各所に鎮座していた「天祖神社」、「春日神社」、「鹿島神社」、「八幡神社」、「諏訪神社」、「秋葉神社」、「厳島神社」、「金刀比羅神社」、「塞神社」の9社を合祀した神社です。それぞれの神社への遥拝所として役割がありました。戦前は仲ノ町小学校(現在の赤坂小学校)に鎮座していましたが、戦後に「赤坂氷川神社」の境内に遷座されました。
《「山口稲荷」と「桶新稲荷」》
「三の鳥居」の手前の道を左方向進むと「社殿」の左側に、「山口稲荷」と「桶新稲荷」があります。
「山口稲荷」は、終戦後、赤坂3丁目にあった山口邸から遷された神社です。鳥居には享保3年(1718年)銘があり、向かって右側の水盤には文化10年(1813年)、左側の水盤には嘉永4年(1851年)、狛犬の台座には文政8年(1825年)の文字が刻まれていています。
「桶新稲荷」は「社殿」の左手の「山口稲荷」の先にあります。「稲荷社」の主祭神である「宇迦之御魂」は稲の神で、古来は農業神として信仰をされてきました。時代が下り産業が発展すると、「稲荷神」の神格は諸産業の守護神として拡大しました。江戸時代、江戸市中では稲荷神の勧請が盛んに行われたようです。赤坂5丁目の「桶屋」の稲荷もそのうちの一社で、戦後「赤坂氷川神社」に遷されたと伝えられています。
《4基の「石灯籠」》
「三の鳥居」まで戻り、さらに先に進むと「手水舎」があり、「楼門」の両側には、平成7年(1995年)3月27日に港区の登録有形文化財に指定された4基の「石灯籠」があります。「楼門」前に安置されている灯籠は、遷座を担当していた老中「水野忠之」が「社殿」の完成を記念して奉納したものです。
《社殿》
「社殿」は、享保15年(1730年)に八代将軍「徳川吉宗」の命より建立されました。この「社殿」は、「本殿」、「幣殿」、「拝殿」の三つの建物が一体となった、いわゆる権現造りの形式です。当時は幕府による倹約政策が進められていたため、「社殿」には質実かつ簡素な気風が表れています。通常は将軍の寄進するような社寺であれば、軒下の組物を何重にも重ねたり、彫刻や彩色などで飾り立てたりするのですが、この「社殿」の組物は簡素で、彫刻も目立ちません。ただ、将軍の寄進だけあって、大きな「雲形組物」や「吹寄せ垂木」など重厚な意匠を取り入れる工夫もなされています。昭和51年(1976年) 7月1日に東京都の有形文化財(建築物)に指定されています。
《縁結ひ》
縁結びにまつわる「縁結ひ」は、「楼門」をくぐってすぐ左手にあります。実は、「宮神輿庫」になっていた一画でしたが、「山車庫」が完成したため令和5年(2023年)に再整備して、縁結び祈願の「縁結ひ」となりました。日本には願いをしたためた紙を社寺の格子に結い、縁結びを願う風習がありました。「赤坂氷川神社」ではこの風習にちなみ、季節の和紙に願い事を書き、その成就を祈る「縁結ひ」を行っています。季節の色の和紙を結い願い事の成就を祈るそうです。
《山車展示場》
「社殿」の右手には、「山車展示場」があります。「山車展示場」では、全国的にも貴重な「江戸型山車」を展示しています。「山車展示場」は、以前駐車場だった一画で、駐車場が別に整備され、令和3年(2021年)9月に「山車展示場」が完成しました。展示されている山車は、全国的にも珍しい「三層型」構造で、高さは7mほど

旅行の満足度
4.5
観光
4.5
グルメ
4.0
同行者
一人旅
交通手段
私鉄 徒歩

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