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2022年4月22日(金)指宿スカイラインの知覧ICを出て、南九州市知覧町の市街地へ。2007年に南九州市が誕生するまでは川辺郡知覧町だった。町域の南部は東シナ海に面するが、北部の内陸部のこの辺りが町の中心地域。<br /><br />江戸時代は島津氏の傍流、佐多島津氏による統治が行われた。主に江戸中期の享保年間(1716~36年)に島津久峰の統治下で上級武士の住居と外敵からの防御を兼ねた武家屋敷が築かれた。<br /><br />太平洋戦争勃発前の1941年に陸軍の知覧飛行場が完成し、戦争末期の沖縄戦では本土最南端の神風特別攻撃隊の出撃地となった。<br /><br />1889年(明治22年)の町村制施行により知覧村が発足。1932年(昭和7年)に町制施行して知覧町となるが、2007年に川辺町・頴娃町と合併し南九州市となった。<br /><br />2014年にノーベル物理学賞受賞した赤崎勇博士は知覧町で1929年に生まれた。幼少期に鹿児島市内に引っ越して、1949年に京都大学理学部に入学するまで鹿児島市で育った。また、声優の赤崎千夏も知覧町出身で鹿児島市内の錦江湾高校卒業。<br /><br />1時半前、知覧ICから続く県道23号谷山知覧線が市街地に入ってすぐに左折し、麓川に架かる城山橋を渡る。この橋は武家屋敷通りの東の入口に当たるため、高欄や橋面に地元産の石を使かって武家屋敷群との一体感が図っている。<br /><br />橋を渡って左側にある知覧武家屋敷庭園の無料駐車場に車を止める。知覧城の出城として築かれた亀甲城があった丘の麓にある。鹿児島市方面からの外敵侵入に備えた前衛的城跡で、南面大地の通路を経て知覧城と連絡がなされていた。<br /><br />登城路がらせん状になっており、巻貝の蜷(にな)に似ているため、蜷尻城とも呼ばれた。現在城址は「知覧亀甲城公園」として整備されており、堀切、土塁などが確認できるほか、本丸跡に南北朝の忠臣、知覧又四郎忠世の石碑が建てられている。<br /><br />北面に麓川が流れ、上流側に矢櫃(やびつ)橋が架かっている。川幅の狭くなった場所に自然の石を利用し掛けられた美しい姿の二重眼鏡橋。永久橋修復の残石で幕末の1852年(嘉永5年)に造られたと伝えられている。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.24357394020570626&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br />国の重要伝統的建造物群保存地区となっている武家屋敷通りへ進む。東西に通る延長約800mの侍町の通りで、薩摩藩による藩政時代は、鹿児島への往来に使われた街道だった。第十八代知覧領主・島津久峰の時代に造られたもので、折れ曲がった本馬場通りに沿って連なる石垣と大刈り込みの生垣に当時の面影が残る。<br /><br />薩摩藩(島津77万石)は領地を外城と呼ばれる113の地区に分け、地頭や領主の屋敷である御仮屋を中心に「麓」と呼ばれる武家集落を作り、鹿児島に武士団を集結させることなく分散して統治にあたらせた。知覧もその外城の一つで、薩摩藩の中でも重要な役目を果たした第十六代佐多久達の時代に島津姓の使用と私領地化が許され、城塁型の区画が形成された。<br /><br />武家屋敷通りの沿線には、名勝庭園として国の指定を受けた武家屋敷が、石垣とイヌマキの生け垣に囲まれて集落を形成している。領主島津久峯が、藩主の参勤交代に伴って江戸から戻る道中で接した京の文化を持ち帰ったとされる。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.24357407953902566&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br /><br />それぞれの知覧武家屋敷庭園を訪ねるが、続く

鹿児島 南九州 知覧(Chiran,Minamikyusyu,Kagoshima,Japan)

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2022/04/22 - 2022/04/22

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ちふゆ

ちふゆさん

2022年4月22日(金)指宿スカイラインの知覧ICを出て、南九州市知覧町の市街地へ。2007年に南九州市が誕生するまでは川辺郡知覧町だった。町域の南部は東シナ海に面するが、北部の内陸部のこの辺りが町の中心地域。

江戸時代は島津氏の傍流、佐多島津氏による統治が行われた。主に江戸中期の享保年間(1716~36年)に島津久峰の統治下で上級武士の住居と外敵からの防御を兼ねた武家屋敷が築かれた。

太平洋戦争勃発前の1941年に陸軍の知覧飛行場が完成し、戦争末期の沖縄戦では本土最南端の神風特別攻撃隊の出撃地となった。

1889年(明治22年)の町村制施行により知覧村が発足。1932年(昭和7年)に町制施行して知覧町となるが、2007年に川辺町・頴娃町と合併し南九州市となった。

2014年にノーベル物理学賞受賞した赤崎勇博士は知覧町で1929年に生まれた。幼少期に鹿児島市内に引っ越して、1949年に京都大学理学部に入学するまで鹿児島市で育った。また、声優の赤崎千夏も知覧町出身で鹿児島市内の錦江湾高校卒業。

1時半前、知覧ICから続く県道23号谷山知覧線が市街地に入ってすぐに左折し、麓川に架かる城山橋を渡る。この橋は武家屋敷通りの東の入口に当たるため、高欄や橋面に地元産の石を使かって武家屋敷群との一体感が図っている。

橋を渡って左側にある知覧武家屋敷庭園の無料駐車場に車を止める。知覧城の出城として築かれた亀甲城があった丘の麓にある。鹿児島市方面からの外敵侵入に備えた前衛的城跡で、南面大地の通路を経て知覧城と連絡がなされていた。

登城路がらせん状になっており、巻貝の蜷(にな)に似ているため、蜷尻城とも呼ばれた。現在城址は「知覧亀甲城公園」として整備されており、堀切、土塁などが確認できるほか、本丸跡に南北朝の忠臣、知覧又四郎忠世の石碑が建てられている。

北面に麓川が流れ、上流側に矢櫃(やびつ)橋が架かっている。川幅の狭くなった場所に自然の石を利用し掛けられた美しい姿の二重眼鏡橋。永久橋修復の残石で幕末の1852年(嘉永5年)に造られたと伝えられている。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.24357394020570626&type=1&l=223fe1adec

国の重要伝統的建造物群保存地区となっている武家屋敷通りへ進む。東西に通る延長約800mの侍町の通りで、薩摩藩による藩政時代は、鹿児島への往来に使われた街道だった。第十八代知覧領主・島津久峰の時代に造られたもので、折れ曲がった本馬場通りに沿って連なる石垣と大刈り込みの生垣に当時の面影が残る。

薩摩藩(島津77万石)は領地を外城と呼ばれる113の地区に分け、地頭や領主の屋敷である御仮屋を中心に「麓」と呼ばれる武家集落を作り、鹿児島に武士団を集結させることなく分散して統治にあたらせた。知覧もその外城の一つで、薩摩藩の中でも重要な役目を果たした第十六代佐多久達の時代に島津姓の使用と私領地化が許され、城塁型の区画が形成された。

武家屋敷通りの沿線には、名勝庭園として国の指定を受けた武家屋敷が、石垣とイヌマキの生け垣に囲まれて集落を形成している。領主島津久峯が、藩主の参勤交代に伴って江戸から戻る道中で接した京の文化を持ち帰ったとされる。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.24357407953902566&type=1&l=223fe1adec


それぞれの知覧武家屋敷庭園を訪ねるが、続く

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