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2022年4月24日(日)朝の9時45分頃、福岡からレンタカーで移動し、万田坑ステーションに到着。ここは2009年にオープンした施設で、三池炭鉱の歴史を解説した映像、展示資料の他、1939年(昭和14年)頃の万田坑施設全体を復元した模型、万田坑の古写真などのパネル、映像、万田第二堅坑櫓の部材などが展示されている。<br /><br />また、現在は埋め立てられ見ることのできない地下270メートルの坑道をCGで再現し、採炭現場を見に行く仮想体験ができるVR視聴設備もあり、私も経験してみた。世の中進んでるよなあって感じ。<br /><br />さらに2014年8月に公開された佐藤健主演の映画「るろうに剣心 京都大火編」(第2作)の撮影地と云うことで、ポスターや江口洋介演じた斎藤一の衣装や大友啓史監督や江口洋介などのサイン色紙が飾られている。<br /><br />三池炭鉱は日本一出炭量を誇り、日本の近代化を支えた炭鉱。「月が出た出た、月が出た、三池炭鉱の上に出た」と云う炭坑節は多くの人が知ってると思う。有明海沿いの福岡県みやま市(旧高田町)から大牟田市、熊本県荒尾市に広がる。炭鉱=筑豊のイメージから筑豊地方と思ってる人もいるかも知れない(私がそうだった)が、そうではない。<br /><br />炭鉱の名前はかつてみやま市、大牟田市が属していた藩名、郡名で、現在の大牟田市の東北部に藩庁である陣屋が置かれた三池町もあった。三池の名は三池地区に伝わる伝説がある。大蛇の生贄にされようとしたお姫様をツガネ(サワガニ)が救った話で、ツガネのハサミで大蛇は3つに切られ、それが3つの池になったと云うもの。市の東部、熊本県南関町との県境にある三池山に3つの池があるそうだが、それが由来かどうかは不明。<br /><br />室町時代の文明元年(1469年)に稲荷山(とおかやま)(JR大牟田駅の東の三井化学大牟田工場辺り)で、農夫が焚き火をしていた時にその焚き火の下の石が一緒に燃えているのを見つけたという話が残るが、たぶんそれ以前から記録には残らないが知ってた人はいただろう。<br /><br />江戸時代中期の1721年に柳川藩の家老、小野春信によって山の北側で大がかりな採炭の事業が始められるまでは、住民が薪代わりに日常の煮炊きに用いていた程度で、組織立った採掘の記録も存在しない。その後三池藩も山の南側で採炭を開始する。<br /><br />明治に入ると旧柳川藩と旧三池藩からそれぞれ鉱山を引き継いだ士族の間で争いが勃発し、事態を重く見た工部省が調査に入るが、両者併存による経営は困難と判断し、1873年(明治6年)に全面的に政府が買い取ることとなる。<br /><br />1889年(明治22年)、三池炭鉱は三井に払い下げられ、後に百年以上にわたる三井三池炭鉱時代が幕を開ける。最高責任者に任命された團琢磨の元、炭鉱経営の近代化、合理化が進められ、三池炭鉱は発展してゆく。<br /><br />戦後になり、1959年(昭和34年)には三池争議が勃発、その4年後には死者458名、一酸化炭素中毒者839名を出す三川鉱炭じん爆発事故を起こす。さらに1984年にも死者83人名、一酸化炭素中毒患者16名を出した有明鉱坑内火災事故が発生、1997年に閉山した。<br /><br />七浦坑、宮浦坑、勝立坑、宮原坑、四山坑、三川坑、有明坑、万田坑などの坑口があり、2015年に宮原坑と万田坑、さらに専用鉄道敷跡が「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」として世界遺産に登録された。<br /><br />万田坑は三池炭鉱のほとんどの坑口が大牟田市にあるが、唯一荒尾市にある坑口。1897年(明治30年)に開発され、1902年(明治35年)完成の第一竪坑と1908年(明治41年)完成の第二竪坑からなり、1945年頃まで1600万トン以上を越す膨大な量を採炭する国内最大規模の竪坑で、石油に切り替わるまで明治・大正期の日本の近代化を支え続けた。<br /><br />1951年(昭和26年)に採炭効率が低下したために採炭を中止し、第一竪坑などを解体したが、第二竪坑は揚水や坑内管理のため、1997年まで施設が維持されていた。現在も第二竪坑櫓、巻揚機室をはじめ、第一竪坑跡、汽罐場跡などの遺構が残り、当時の優れた炭鉱の技術を伝えている。<br /><br />万田坑ステーションでチケット(大人410円)を購入して、実際の万田坑の見学に向かう。見学は無料のガイドツアーもあるが、自由見学もできるので、息子と2人で勝手に回ることとする(下の写真1)。<br /><br />ステーションから100mほど北に進むと万田坑旧正門の前に出るが、その右手に下ってゆく道があり桜町トンネルの説明碑が建つ。現在は閉鎖されているが、このトンネルは万田坑の敷地の下を潜って坑口の西側に抜けられる130mの生活道路だった。<br /><br />万田坑の敷地は南北方向に細長く広がっており、坑口の東側と西側を行き来するには迂回するとかなりの大回りになる。正門がある東側、荒尾市になるが、こちらには商店街や大きな売店があり、反対側の西側、こちらは大牟田市になるが、芝居小屋などがあった。と云うことで、敷地の下を抜けるトンネルが造られた。なお、名前の桜町は大牟田市側の町名。<br /><br />正門を抜けると左手に第二竪坑の櫓と巻揚機室が見えるが、順路に従って真っ直ぐ進むと巻揚機室の北側に山ノ神祭祀施設。1916年(大正5年)に造られたもので、仕事の安全祈願のために神さまをお祀りしていた祭壇。鉱山の守り神である大山祗神社を分祠したもので、国の重文に指定されている。<br /><br />山ノ神祭祀施設の向かい、右手奥にあるのが職場。坑内で使う機械類の修理や工具の製作を行っていたところで、昭和初期に建設された木造平屋、瓦葺の建物で、広さは約162平方m。閉山後、台風などの影響で屋根や小屋組みがほとんど落下したが、2010年から補修工事を行い、1997年の閉山時の姿を取り戻した。<br /><br />その左手、北向きに建つ煉瓦造りの立派な建物は事務所(旧扇風機室)。1914年(大正3年)に建てられたもので、当時は坑道の換気を行う電気を動力とした巨大な扇風機が備え付けられた扇風機室だった。閉坑後は1階が更衣室などに、2階が事務所・坑内の監視室として利用されていた。これも国の重文。<br /><br />事務所の西側を回り込んでいくと左手に修理・耐震補強工事中の建物が2つ並ぶ。奥(東側)が倉庫及びポンプ室で、手前(西側)が安全燈室及び浴室。倉庫及びポンプ室は1905年(明治38年)に建設されたレンガ造瓦ぶきの建物で、1914年(大正3年)まで万田坑内の換気を行うための蒸気動力の扇風機室として使用されていた。その後、予備の消火器などを置く為の倉庫、坑内から汲み上げられた水を送水する為のポンプ室として利用された。これも国の重文。<br /><br />安全燈室及び浴室も同じ1905年に建てられたもので、当初は坑内の換気を行うための扇風機室だった。閉坑後に安全燈室と浴室して利用された。安全燈とはヘルメットにつけるランプのこと。これも国の重文。この辺りの建物は時期によって構成や使われた用途が変遷しており、それを説明するボードがあった。<br /><br />安全燈室及び浴室の先に進むと第二竪坑櫓への入口。人員の昇降などを主目的とした櫓と竪坑。これも国の重文。1909年(明治42年)に建てられて、2014年に修復されている。櫓は鋼製で高さは18.9m。吊り下げたロープで25人乗のケージをぶらさげ、それを巻揚機で上げ下げしていた。竪坑の深さは約274m。竪坑の横の小屋は坑口信号所。<br /><br />第二竪坑櫓を出て、南側の一段高くなったところに進むと、右手(西)に選炭場跡。第一竪坑で採炭された石炭を選炭、運搬する施設だった。選別された石炭は、西側の低くなったところを走ってた三池炭鉱専用鉄道の石炭貨車に積み込まれ、現在のJR荒尾駅や三池港に運ばれた。閉山時に第二竪坑内を埋めるために削られて現在の高さになった。地下には第一と第二坑を結ぶトンネルがある(下の写真2)。<br /><br />見学エリアの一番南に進むと第一竪坑櫓跡。第一竪坑は1899年(明治32年)完成の直接石炭を採掘していた設備。コンクリート基礎の上に高さ30.7mの櫓が建っており、当時は東洋一の高さと呼ばれていた。1954年に北海道芦別炭鉱第一竪坑に移築され再利用されたが、現存してない。深さ273mある坑口は坑内給気道確保のため、現在も開口している。<br /><br />その東側にデビーポンプ室の煉瓦壁の一部が残る。明治時代に3階建の建物が建てられ、英国デビー社(Davey)製のポンプが4基設置され、坑内排水を行っていた。動力が蒸気から電気に本格的に移行し、1931年(昭和6年)に運転を停止した。<br /><br />その先にまだ建っているのが配電所(変電所)。その電気への移行に際して大正時代に建てられた煉瓦造り(コンクリート塗り)、二階建ての建物。当初は英国トムソン社(Thomson)製タービン排気発電機が設置され万田発電所として利用された。その後電化が進み、配電所(変電所)として七浦坑への配電も行っていた。<br /><br />第二竪坑櫓の東側に戻るが、ここで記念撮影。櫓と巻揚機室の手前にあるのは煉瓦壁は汽罐場の跡。初期の万田坑は動力は蒸気で、汽罐場にボイラーが置かれ、石炭を焚いて蒸気を発生させていた。万田坑には最大3つの汽罐場があり、ここは1号ボイラーがあったところで、残っている壁は内側の壁で、右手に外側の壁や煙道の煉瓦積みが、また敷地のさらに南には3号ボイラーの煙突の土台が見える(下の写真3)。<br /><br />第二竪坑巻揚機室は床面積が約200平方mの2階建ての煉瓦造、スレート葺の建物。巻揚装置(安全装置付)及びウィンチ2基を含み国の重文に指定されている。入口には係員の方がおられ簡単な説明をされて、石炭とボタがの実物が置かれて、持ち上げることが出来た。石炭は軽いがボタは重い。<br /><br />内部見学できるので入ると、1階部分は入口と機械を据えるコンクリートの台座から成っている。2階へ上る階段に坑道の土の引き上げなどに使用したジャックエンジンがある。また、中2階に重量物を昇降させるウインチと、2階に人員を昇降させるケージ用巻揚機が据付られている。<br /><br />10時半頃、見学を終了して万田坑ステーションに戻るが、見学に行く時も見たが、万田坑とステーションの間に広がる池がある。坑内から排水された水を一時的に溜めて不純物を沈殿させるための沈殿池。約3600平方mあり、護岸は空石積み(一部は石積み無し)で、設けられた排水溝から上水を河川に流す仕組みになっている。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.24671163439193681&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br />池の道路寄りに万田増圧ポンプ所があるが、三池炭鉱関連遺産に対して飲料水及び工業用水を供給していた宮原浄水場の運営を引き継ぎ、大牟田市・荒尾市地域の事業所用の飲料水及び工業用水を供給しているフレッシュ・ウォーター三池と云う会社の施設。煉瓦壁で炭鉱関係の施設だったように見えるけど、詳細不明(下の写真4)。<br /><br /><br />次は三池港に向かうが、続く

熊本 荒尾 三池炭鉱万田坑(Miike Coal Mine Old Manda Pit,Arao,Kumamoto,Japan)

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2022/04/24 - 2022/04/24

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ちふゆ

ちふゆさん

2022年4月24日(日)朝の9時45分頃、福岡からレンタカーで移動し、万田坑ステーションに到着。ここは2009年にオープンした施設で、三池炭鉱の歴史を解説した映像、展示資料の他、1939年(昭和14年)頃の万田坑施設全体を復元した模型、万田坑の古写真などのパネル、映像、万田第二堅坑櫓の部材などが展示されている。

また、現在は埋め立てられ見ることのできない地下270メートルの坑道をCGで再現し、採炭現場を見に行く仮想体験ができるVR視聴設備もあり、私も経験してみた。世の中進んでるよなあって感じ。

さらに2014年8月に公開された佐藤健主演の映画「るろうに剣心 京都大火編」(第2作)の撮影地と云うことで、ポスターや江口洋介演じた斎藤一の衣装や大友啓史監督や江口洋介などのサイン色紙が飾られている。

三池炭鉱は日本一出炭量を誇り、日本の近代化を支えた炭鉱。「月が出た出た、月が出た、三池炭鉱の上に出た」と云う炭坑節は多くの人が知ってると思う。有明海沿いの福岡県みやま市(旧高田町)から大牟田市、熊本県荒尾市に広がる。炭鉱=筑豊のイメージから筑豊地方と思ってる人もいるかも知れない(私がそうだった)が、そうではない。

炭鉱の名前はかつてみやま市、大牟田市が属していた藩名、郡名で、現在の大牟田市の東北部に藩庁である陣屋が置かれた三池町もあった。三池の名は三池地区に伝わる伝説がある。大蛇の生贄にされようとしたお姫様をツガネ(サワガニ)が救った話で、ツガネのハサミで大蛇は3つに切られ、それが3つの池になったと云うもの。市の東部、熊本県南関町との県境にある三池山に3つの池があるそうだが、それが由来かどうかは不明。

室町時代の文明元年(1469年)に稲荷山(とおかやま)(JR大牟田駅の東の三井化学大牟田工場辺り)で、農夫が焚き火をしていた時にその焚き火の下の石が一緒に燃えているのを見つけたという話が残るが、たぶんそれ以前から記録には残らないが知ってた人はいただろう。

江戸時代中期の1721年に柳川藩の家老、小野春信によって山の北側で大がかりな採炭の事業が始められるまでは、住民が薪代わりに日常の煮炊きに用いていた程度で、組織立った採掘の記録も存在しない。その後三池藩も山の南側で採炭を開始する。

明治に入ると旧柳川藩と旧三池藩からそれぞれ鉱山を引き継いだ士族の間で争いが勃発し、事態を重く見た工部省が調査に入るが、両者併存による経営は困難と判断し、1873年(明治6年)に全面的に政府が買い取ることとなる。

1889年(明治22年)、三池炭鉱は三井に払い下げられ、後に百年以上にわたる三井三池炭鉱時代が幕を開ける。最高責任者に任命された團琢磨の元、炭鉱経営の近代化、合理化が進められ、三池炭鉱は発展してゆく。

戦後になり、1959年(昭和34年)には三池争議が勃発、その4年後には死者458名、一酸化炭素中毒者839名を出す三川鉱炭じん爆発事故を起こす。さらに1984年にも死者83人名、一酸化炭素中毒患者16名を出した有明鉱坑内火災事故が発生、1997年に閉山した。

七浦坑、宮浦坑、勝立坑、宮原坑、四山坑、三川坑、有明坑、万田坑などの坑口があり、2015年に宮原坑と万田坑、さらに専用鉄道敷跡が「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」として世界遺産に登録された。

万田坑は三池炭鉱のほとんどの坑口が大牟田市にあるが、唯一荒尾市にある坑口。1897年(明治30年)に開発され、1902年(明治35年)完成の第一竪坑と1908年(明治41年)完成の第二竪坑からなり、1945年頃まで1600万トン以上を越す膨大な量を採炭する国内最大規模の竪坑で、石油に切り替わるまで明治・大正期の日本の近代化を支え続けた。

1951年(昭和26年)に採炭効率が低下したために採炭を中止し、第一竪坑などを解体したが、第二竪坑は揚水や坑内管理のため、1997年まで施設が維持されていた。現在も第二竪坑櫓、巻揚機室をはじめ、第一竪坑跡、汽罐場跡などの遺構が残り、当時の優れた炭鉱の技術を伝えている。

万田坑ステーションでチケット(大人410円)を購入して、実際の万田坑の見学に向かう。見学は無料のガイドツアーもあるが、自由見学もできるので、息子と2人で勝手に回ることとする(下の写真1)。

ステーションから100mほど北に進むと万田坑旧正門の前に出るが、その右手に下ってゆく道があり桜町トンネルの説明碑が建つ。現在は閉鎖されているが、このトンネルは万田坑の敷地の下を潜って坑口の西側に抜けられる130mの生活道路だった。

万田坑の敷地は南北方向に細長く広がっており、坑口の東側と西側を行き来するには迂回するとかなりの大回りになる。正門がある東側、荒尾市になるが、こちらには商店街や大きな売店があり、反対側の西側、こちらは大牟田市になるが、芝居小屋などがあった。と云うことで、敷地の下を抜けるトンネルが造られた。なお、名前の桜町は大牟田市側の町名。

正門を抜けると左手に第二竪坑の櫓と巻揚機室が見えるが、順路に従って真っ直ぐ進むと巻揚機室の北側に山ノ神祭祀施設。1916年(大正5年)に造られたもので、仕事の安全祈願のために神さまをお祀りしていた祭壇。鉱山の守り神である大山祗神社を分祠したもので、国の重文に指定されている。

山ノ神祭祀施設の向かい、右手奥にあるのが職場。坑内で使う機械類の修理や工具の製作を行っていたところで、昭和初期に建設された木造平屋、瓦葺の建物で、広さは約162平方m。閉山後、台風などの影響で屋根や小屋組みがほとんど落下したが、2010年から補修工事を行い、1997年の閉山時の姿を取り戻した。

その左手、北向きに建つ煉瓦造りの立派な建物は事務所(旧扇風機室)。1914年(大正3年)に建てられたもので、当時は坑道の換気を行う電気を動力とした巨大な扇風機が備え付けられた扇風機室だった。閉坑後は1階が更衣室などに、2階が事務所・坑内の監視室として利用されていた。これも国の重文。

事務所の西側を回り込んでいくと左手に修理・耐震補強工事中の建物が2つ並ぶ。奥(東側)が倉庫及びポンプ室で、手前(西側)が安全燈室及び浴室。倉庫及びポンプ室は1905年(明治38年)に建設されたレンガ造瓦ぶきの建物で、1914年(大正3年)まで万田坑内の換気を行うための蒸気動力の扇風機室として使用されていた。その後、予備の消火器などを置く為の倉庫、坑内から汲み上げられた水を送水する為のポンプ室として利用された。これも国の重文。

安全燈室及び浴室も同じ1905年に建てられたもので、当初は坑内の換気を行うための扇風機室だった。閉坑後に安全燈室と浴室して利用された。安全燈とはヘルメットにつけるランプのこと。これも国の重文。この辺りの建物は時期によって構成や使われた用途が変遷しており、それを説明するボードがあった。

安全燈室及び浴室の先に進むと第二竪坑櫓への入口。人員の昇降などを主目的とした櫓と竪坑。これも国の重文。1909年(明治42年)に建てられて、2014年に修復されている。櫓は鋼製で高さは18.9m。吊り下げたロープで25人乗のケージをぶらさげ、それを巻揚機で上げ下げしていた。竪坑の深さは約274m。竪坑の横の小屋は坑口信号所。

第二竪坑櫓を出て、南側の一段高くなったところに進むと、右手(西)に選炭場跡。第一竪坑で採炭された石炭を選炭、運搬する施設だった。選別された石炭は、西側の低くなったところを走ってた三池炭鉱専用鉄道の石炭貨車に積み込まれ、現在のJR荒尾駅や三池港に運ばれた。閉山時に第二竪坑内を埋めるために削られて現在の高さになった。地下には第一と第二坑を結ぶトンネルがある(下の写真2)。

見学エリアの一番南に進むと第一竪坑櫓跡。第一竪坑は1899年(明治32年)完成の直接石炭を採掘していた設備。コンクリート基礎の上に高さ30.7mの櫓が建っており、当時は東洋一の高さと呼ばれていた。1954年に北海道芦別炭鉱第一竪坑に移築され再利用されたが、現存してない。深さ273mある坑口は坑内給気道確保のため、現在も開口している。

その東側にデビーポンプ室の煉瓦壁の一部が残る。明治時代に3階建の建物が建てられ、英国デビー社(Davey)製のポンプが4基設置され、坑内排水を行っていた。動力が蒸気から電気に本格的に移行し、1931年(昭和6年)に運転を停止した。

その先にまだ建っているのが配電所(変電所)。その電気への移行に際して大正時代に建てられた煉瓦造り(コンクリート塗り)、二階建ての建物。当初は英国トムソン社(Thomson)製タービン排気発電機が設置され万田発電所として利用された。その後電化が進み、配電所(変電所)として七浦坑への配電も行っていた。

第二竪坑櫓の東側に戻るが、ここで記念撮影。櫓と巻揚機室の手前にあるのは煉瓦壁は汽罐場の跡。初期の万田坑は動力は蒸気で、汽罐場にボイラーが置かれ、石炭を焚いて蒸気を発生させていた。万田坑には最大3つの汽罐場があり、ここは1号ボイラーがあったところで、残っている壁は内側の壁で、右手に外側の壁や煙道の煉瓦積みが、また敷地のさらに南には3号ボイラーの煙突の土台が見える(下の写真3)。

第二竪坑巻揚機室は床面積が約200平方mの2階建ての煉瓦造、スレート葺の建物。巻揚装置(安全装置付)及びウィンチ2基を含み国の重文に指定されている。入口には係員の方がおられ簡単な説明をされて、石炭とボタがの実物が置かれて、持ち上げることが出来た。石炭は軽いがボタは重い。

内部見学できるので入ると、1階部分は入口と機械を据えるコンクリートの台座から成っている。2階へ上る階段に坑道の土の引き上げなどに使用したジャックエンジンがある。また、中2階に重量物を昇降させるウインチと、2階に人員を昇降させるケージ用巻揚機が据付られている。

10時半頃、見学を終了して万田坑ステーションに戻るが、見学に行く時も見たが、万田坑とステーションの間に広がる池がある。坑内から排水された水を一時的に溜めて不純物を沈殿させるための沈殿池。約3600平方mあり、護岸は空石積み(一部は石積み無し)で、設けられた排水溝から上水を河川に流す仕組みになっている。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.24671163439193681&type=1&l=223fe1adec

池の道路寄りに万田増圧ポンプ所があるが、三池炭鉱関連遺産に対して飲料水及び工業用水を供給していた宮原浄水場の運営を引き継ぎ、大牟田市・荒尾市地域の事業所用の飲料水及び工業用水を供給しているフレッシュ・ウォーター三池と云う会社の施設。煉瓦壁で炭鉱関係の施設だったように見えるけど、詳細不明(下の写真4)。


次は三池港に向かうが、続く

  • 写真1 万田坑の楽しみ方

    写真1 万田坑の楽しみ方

  • 写真2 第二坑から第一へ続くトンネル入口

    写真2 第二坑から第一へ続くトンネル入口

  • 写真3 1号ボイラー煙道・外壁と3号ボイラー煙突の土台

    写真3 1号ボイラー煙道・外壁と3号ボイラー煙突の土台

  • 写真4 万田増圧ポンプ所

    写真4 万田増圧ポンプ所

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