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2022年4月23日(土)10時45分過ぎ、西郷隆盛終焉の地からその時は分かってなかったが、本当の終焉の地だった城山トンネル入口近くを経て鹿児島医療センターの方に下りてくると、右手に薩摩義士碑がある。江戸中期の1753年、徳川幕府より課せられた尾張藩内での宝暦治水で命をかけ犠牲となった薩摩藩士を弔う供養塔(下の写真1)。<br /><br />この供養塔の先、南側が鶴丸城の本丸跡になる(下の写真2)。鶴丸城は愛称で正式には鹿児島城。関が原直後の1604年に島津忠恒(家久)により築城され、以後廃藩置県まで島津氏の居城だった。城跡は国の史跡に指定されている。<br /><br />一般的には鶴丸城の愛称の方が知られているが、この愛称は明治以降に付けられたもの。バックにある城山が鶴が羽を広げた形に見えたことから当時は鶴丸山とも呼ばれており、その麓にある城なので鶴丸城と呼ばれたのが始まりらしい。<br /><br />麓の屋形(本丸、二ノ丸、出丸)には石垣が築かれたが、本丸には政庁と藩主の居館、表書院だけが置かれ、天守など高層建築や高石垣などは築かれなかった(下の写真3)。これは江戸幕府に対する恭順の意味があったとされる。その代わりに、中世式の山城を各地に残し、113区画をそれぞれ家臣に守らせる外城制度を行っていた。<br /><br />現在は本丸跡に鹿児島県歴史・美術センター黎明館、二の丸跡には鹿児島県立図書館、鹿児島市立美術館、鹿児島県立博物館など、出丸(厩)跡には鹿児島医療センターが建っている。遺構としては石垣や堀、それに御楼門の前に架かる石橋が現存している。<br /><br />本丸の北、東、南には内堀があり、現在は空堀となっている南堀は途中で切れて奥は二の丸と繋がっていた。全体として単純な構造で防御には問題のある屋形造の城だった。そのため裏山である城山を籠城のための後詰めの城としていたが、初代の城代の島津常久が早世した後は次の城代は任命されず、城山自体が聖域として立入禁止区域となった。<br /><br />鹿児島は災害の多い地域で、シロアリ被害も多く、本丸の建物は幾度も倒壊・焼失し、そのたびに建て替えが行われた。しかし、1873年(明治6年)に焼失したのちは再建されることはなかった。1901年(明治34年)以降本丸跡は知政所、鎮西第二分営、そして中学造士館、第七高等学校造士館の校地として使用され、戦後、鹿児島大学文理学部、医学部などが置かれた。<br /><br />北堀に架かる北御門橋を渡り本丸跡に入る。北御門自体は復元されてない。橋を渡ると正面に黎明館。1968年の明治百年を記念して、1983年(昭和58年)に鹿児島県歴史資料センターとして開館した人文系総合博物館。国宝,重要文化財を含む18万点の文化財が所蔵されており、鹿児島県の歴史、民俗、考古、美術・工芸などを紹介している。<br /><br />まずは黎明館の裏側を進む。屋外展示スペースとして黎明館庭園が整備されている。北側から入って行くと最初にあるのが池泉回遊式庭園の御池(おいけ)。江戸時代には本丸内にいくつかの池があり、御池は現在の黎明館の前庭にあった。明治の廃城後、御池を護岸していた庭石は鴨池公園など他の場所で活用されるが、城址公園の整備にあたって再びこの地に戻され、当時を偲ぶ池として復活された。<br /><br />南側に進むと樋の間(てのま)二つ家。赤水(霧島市横川町)の住宅を移築したもので,建築の時期は天保年間(1830~1840年)と伝えられている。オモテとナカエの二棟が接近し、屋根のひさしの間に樋を渡して,その下に板張りの間(樋の間)を作って両方の部屋をつないでいる。イエ・ナカエ屋根接着型二つ家とも呼ばれ、川内川流域から旧姶良郡一帯に分布している。<br /><br />道を下りて行くと茶室の楠芳亭(なんぽうてい)。10畳と4畳半の2つの部屋がそれぞれ独立して使用でき、茶道同好会等一般の方も利用できるそうだ。園内には田の神様(タノカンサァ)と呼ばれる鹿児島県内と宮崎県南部に多く見られる、田を守り、稲作の豊穣をもたらす石像が置かれている。<br /><br />二つ家の上にあるのは薩摩川内市尾白江町の田の神像で、川薩地方に見られる典型的な神像型田の神。黎明館裏側に面した道には姶良町平松(現姶良市)、吾平町上名中福良(現鹿屋市)、加治木町日木山里(現姶良市)、郡山町茄子田(現鹿児島市)の田の神のレプリカが並ぶ。<br /><br />黎明館庭園から南に進むと二の丸と繋がった部分に進むが、ここには大奥があった。現在は駐車場になっている。その一角に御野立所跡の碑があるが、1935年(昭和10年)に昭和天皇が鹿児島行幸の際に、七高造士館をご覧になった事を記念して建てられたもの。<br /><br />本丸に戻ってきて、黎明館の表に進むと庭園跡の案内板。この辺りが御池があった庭園だった。その庭園跡の南東角には御角櫓があった。本来は外敵の看視や防戦のための建物だったが、城の美観を整えるとともに物品収蔵施設としても用いられていた。現在は1872年(明治5年)の明治天皇の鹿児島行幸を記念して1912年(明治45年)に建立された行幸記念碑が建つ。<br /><br />東堀沿いの北側には島津重豪公頌徳碑。藩校造士館を創設した江戸中期の8代藩主島津重豪(しげひで)の徳を称えて,1942年(昭和17年)に建立されたもの。重豪の娘は徳川11代将軍家斉の正室。大河になった篤姫がその名をいただいた初代(?)の篤姫で、のちに茂姫、寧姫とも名乗り、落飾後は広大院となった。この秋(2023年)にNHK総合で放送された「大奥 医療編」では蓮佛美沙子が演じていた。<br /><br />その奥、黎明館寄りには七高生久遠の像。第七高等学校造士館開校85年を記念して、1985年(昭和60年)に七高同窓会が建立したもの。「知・情・意」を象徴する七高生の姿を表わしている。左隣には1959年に建てられた、代表寮歌「北辰斜にさすところ」の記念碑。背面に「七造士館跡」と刻まれている。<br /><br />その左右には寮歌・記念祭歌歌碑。創立90周年を記念して1990年に建立されたもの。北側の碑には「楠の葉末」、南側の碑には「北辰斜めに」が刻まれている。北側の碑の後ろには七高ゆかりの楷(かい)の木と竜舌蘭が植えられている。楷の木は講堂の前に立ってたそうで、竜舌蘭は七高寮歌に歌われてた。共にそのものではなく、卒業生が1983年に寄贈したもの。<br /><br />さらに黎明館前には鹿児島大学医学部跡記念碑。2015年に鹿児島大学医学部創立70周年・西洋医学開講150周年を記念して建立されたもの。黎明館右手の池の前には聚珍寶庫碑。頌徳碑があった島津重豪が,江戸後期の1827年に江戸高輪の藩邸内に建てた珍しいものを集めた宝物庫である聚珍寶庫の由来等を記した碑。2000年に東京都大田区南雪谷の旧島津邸から移設された。<br /><br />そして正面入口の御楼門に向かう途中に天璋院篤姫像。上述した2008年の大河ドラマ「篤姫」の方の篤姫の像。宮崎あおいが演じ、今年(2023年)4月からNHK BS4Kで再放送されている。他の大河、2018年の「西郷どん」では北川景子、2021年の「青天を衝け」では上白石萌音が演じた。<br /><br />天璋院篤姫は幕末に近い1836年に薩摩藩島津家の一門今和泉島津家の当主の長女、一(いち)として生まれ、1853年に従兄である薩摩藩主・島津斉彬の養女となり源篤子となる。3ヶ月ほどをここ鶴丸城で過ごした後、京都の右大臣・近衛忠煕の養女を経て1856年に第13代将軍・徳川家定の正室となり篤姫となった。家定の死後落飾し天璋院と名乗る。1883(明治16)年に没するまで二度と故郷の地を踏むことはなかった。<br /><br />2010年に建立されたもので、文化勲章受章者中村晋也氏の制作によるもの。鹿児島市では、乃木静子(戦争中に金属供出され台座のみ残る)・丹下梅子に続く女性単身の像。<br /><br />本丸正面入口の御楼門から外に出る。門に向かって下りて行く坂道の一番上にあるのは第七高等学校造士館時代の門柱。いつ建立されたものかは不明。左右2本ずつあるが、御楼門側から見て右から2番目の柱は損傷が著しく、黎明館開館当時に新造された。余談だが、この時はかなり強い雨で、スニーカーだったが、滑って転んで参った。まあ、怪我も何もなかったので良かったが・・・<br /><br />御楼門は本丸の大手門。城山を背景に、国内でも最大級の荘厳な門だった。1873年(明治6年)の火災で焼失したが、2020年に日本最大の城門として復元された。高さ・幅ともに約20m。屋根に取り付けられた2基の鯱も国内最大。周辺の石垣に見られる無数のくぼみの多くは西南戦争の際の弾痕跡で、政府軍の攻撃の凄まじさが分かる。<br /><br />門の前に架かる石橋は御楼門橋。江戸初期の1606年に木の橋が架けられたが、江戸後期の1810年に石橋に架け替えられたものが残っている。内堀の本丸側は高い石垣になっており、堀には蓮が植えられている。鬼門にあたる北東の石垣は隅欠(すみおとし)と呼ばれるように角が欠けており、災い除けと考えられている。蓮は1901年(明治34年)から2年間、第七高等学校造士館の数学教師及び教頭を務めた丹下丑之助が植えたと伝わる。<br /><br />御楼門橋の南側には石積みの説明があり、亀甲積み、算木積み、金場取残積みがサンプルと共に説明されている。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.24582843498025676&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br /><br />中央公園に戻るが、続く

鹿児島 鶴丸城跡(Tsurumaru Castle Ruins,Kagoshima,Kagoshima,Japan)

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2022/04/23 - 2022/04/23

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ちふゆ

ちふゆさん

2022年4月23日(土)10時45分過ぎ、西郷隆盛終焉の地からその時は分かってなかったが、本当の終焉の地だった城山トンネル入口近くを経て鹿児島医療センターの方に下りてくると、右手に薩摩義士碑がある。江戸中期の1753年、徳川幕府より課せられた尾張藩内での宝暦治水で命をかけ犠牲となった薩摩藩士を弔う供養塔(下の写真1)。

この供養塔の先、南側が鶴丸城の本丸跡になる(下の写真2)。鶴丸城は愛称で正式には鹿児島城。関が原直後の1604年に島津忠恒(家久)により築城され、以後廃藩置県まで島津氏の居城だった。城跡は国の史跡に指定されている。

一般的には鶴丸城の愛称の方が知られているが、この愛称は明治以降に付けられたもの。バックにある城山が鶴が羽を広げた形に見えたことから当時は鶴丸山とも呼ばれており、その麓にある城なので鶴丸城と呼ばれたのが始まりらしい。

麓の屋形(本丸、二ノ丸、出丸)には石垣が築かれたが、本丸には政庁と藩主の居館、表書院だけが置かれ、天守など高層建築や高石垣などは築かれなかった(下の写真3)。これは江戸幕府に対する恭順の意味があったとされる。その代わりに、中世式の山城を各地に残し、113区画をそれぞれ家臣に守らせる外城制度を行っていた。

現在は本丸跡に鹿児島県歴史・美術センター黎明館、二の丸跡には鹿児島県立図書館、鹿児島市立美術館、鹿児島県立博物館など、出丸(厩)跡には鹿児島医療センターが建っている。遺構としては石垣や堀、それに御楼門の前に架かる石橋が現存している。

本丸の北、東、南には内堀があり、現在は空堀となっている南堀は途中で切れて奥は二の丸と繋がっていた。全体として単純な構造で防御には問題のある屋形造の城だった。そのため裏山である城山を籠城のための後詰めの城としていたが、初代の城代の島津常久が早世した後は次の城代は任命されず、城山自体が聖域として立入禁止区域となった。

鹿児島は災害の多い地域で、シロアリ被害も多く、本丸の建物は幾度も倒壊・焼失し、そのたびに建て替えが行われた。しかし、1873年(明治6年)に焼失したのちは再建されることはなかった。1901年(明治34年)以降本丸跡は知政所、鎮西第二分営、そして中学造士館、第七高等学校造士館の校地として使用され、戦後、鹿児島大学文理学部、医学部などが置かれた。

北堀に架かる北御門橋を渡り本丸跡に入る。北御門自体は復元されてない。橋を渡ると正面に黎明館。1968年の明治百年を記念して、1983年(昭和58年)に鹿児島県歴史資料センターとして開館した人文系総合博物館。国宝,重要文化財を含む18万点の文化財が所蔵されており、鹿児島県の歴史、民俗、考古、美術・工芸などを紹介している。

まずは黎明館の裏側を進む。屋外展示スペースとして黎明館庭園が整備されている。北側から入って行くと最初にあるのが池泉回遊式庭園の御池(おいけ)。江戸時代には本丸内にいくつかの池があり、御池は現在の黎明館の前庭にあった。明治の廃城後、御池を護岸していた庭石は鴨池公園など他の場所で活用されるが、城址公園の整備にあたって再びこの地に戻され、当時を偲ぶ池として復活された。

南側に進むと樋の間(てのま)二つ家。赤水(霧島市横川町)の住宅を移築したもので,建築の時期は天保年間(1830~1840年)と伝えられている。オモテとナカエの二棟が接近し、屋根のひさしの間に樋を渡して,その下に板張りの間(樋の間)を作って両方の部屋をつないでいる。イエ・ナカエ屋根接着型二つ家とも呼ばれ、川内川流域から旧姶良郡一帯に分布している。

道を下りて行くと茶室の楠芳亭(なんぽうてい)。10畳と4畳半の2つの部屋がそれぞれ独立して使用でき、茶道同好会等一般の方も利用できるそうだ。園内には田の神様(タノカンサァ)と呼ばれる鹿児島県内と宮崎県南部に多く見られる、田を守り、稲作の豊穣をもたらす石像が置かれている。

二つ家の上にあるのは薩摩川内市尾白江町の田の神像で、川薩地方に見られる典型的な神像型田の神。黎明館裏側に面した道には姶良町平松(現姶良市)、吾平町上名中福良(現鹿屋市)、加治木町日木山里(現姶良市)、郡山町茄子田(現鹿児島市)の田の神のレプリカが並ぶ。

黎明館庭園から南に進むと二の丸と繋がった部分に進むが、ここには大奥があった。現在は駐車場になっている。その一角に御野立所跡の碑があるが、1935年(昭和10年)に昭和天皇が鹿児島行幸の際に、七高造士館をご覧になった事を記念して建てられたもの。

本丸に戻ってきて、黎明館の表に進むと庭園跡の案内板。この辺りが御池があった庭園だった。その庭園跡の南東角には御角櫓があった。本来は外敵の看視や防戦のための建物だったが、城の美観を整えるとともに物品収蔵施設としても用いられていた。現在は1872年(明治5年)の明治天皇の鹿児島行幸を記念して1912年(明治45年)に建立された行幸記念碑が建つ。

東堀沿いの北側には島津重豪公頌徳碑。藩校造士館を創設した江戸中期の8代藩主島津重豪(しげひで)の徳を称えて,1942年(昭和17年)に建立されたもの。重豪の娘は徳川11代将軍家斉の正室。大河になった篤姫がその名をいただいた初代(?)の篤姫で、のちに茂姫、寧姫とも名乗り、落飾後は広大院となった。この秋(2023年)にNHK総合で放送された「大奥 医療編」では蓮佛美沙子が演じていた。

その奥、黎明館寄りには七高生久遠の像。第七高等学校造士館開校85年を記念して、1985年(昭和60年)に七高同窓会が建立したもの。「知・情・意」を象徴する七高生の姿を表わしている。左隣には1959年に建てられた、代表寮歌「北辰斜にさすところ」の記念碑。背面に「七造士館跡」と刻まれている。

その左右には寮歌・記念祭歌歌碑。創立90周年を記念して1990年に建立されたもの。北側の碑には「楠の葉末」、南側の碑には「北辰斜めに」が刻まれている。北側の碑の後ろには七高ゆかりの楷(かい)の木と竜舌蘭が植えられている。楷の木は講堂の前に立ってたそうで、竜舌蘭は七高寮歌に歌われてた。共にそのものではなく、卒業生が1983年に寄贈したもの。

さらに黎明館前には鹿児島大学医学部跡記念碑。2015年に鹿児島大学医学部創立70周年・西洋医学開講150周年を記念して建立されたもの。黎明館右手の池の前には聚珍寶庫碑。頌徳碑があった島津重豪が,江戸後期の1827年に江戸高輪の藩邸内に建てた珍しいものを集めた宝物庫である聚珍寶庫の由来等を記した碑。2000年に東京都大田区南雪谷の旧島津邸から移設された。

そして正面入口の御楼門に向かう途中に天璋院篤姫像。上述した2008年の大河ドラマ「篤姫」の方の篤姫の像。宮崎あおいが演じ、今年(2023年)4月からNHK BS4Kで再放送されている。他の大河、2018年の「西郷どん」では北川景子、2021年の「青天を衝け」では上白石萌音が演じた。

天璋院篤姫は幕末に近い1836年に薩摩藩島津家の一門今和泉島津家の当主の長女、一(いち)として生まれ、1853年に従兄である薩摩藩主・島津斉彬の養女となり源篤子となる。3ヶ月ほどをここ鶴丸城で過ごした後、京都の右大臣・近衛忠煕の養女を経て1856年に第13代将軍・徳川家定の正室となり篤姫となった。家定の死後落飾し天璋院と名乗る。1883(明治16)年に没するまで二度と故郷の地を踏むことはなかった。

2010年に建立されたもので、文化勲章受章者中村晋也氏の制作によるもの。鹿児島市では、乃木静子(戦争中に金属供出され台座のみ残る)・丹下梅子に続く女性単身の像。

本丸正面入口の御楼門から外に出る。門に向かって下りて行く坂道の一番上にあるのは第七高等学校造士館時代の門柱。いつ建立されたものかは不明。左右2本ずつあるが、御楼門側から見て右から2番目の柱は損傷が著しく、黎明館開館当時に新造された。余談だが、この時はかなり強い雨で、スニーカーだったが、滑って転んで参った。まあ、怪我も何もなかったので良かったが・・・

御楼門は本丸の大手門。城山を背景に、国内でも最大級の荘厳な門だった。1873年(明治6年)の火災で焼失したが、2020年に日本最大の城門として復元された。高さ・幅ともに約20m。屋根に取り付けられた2基の鯱も国内最大。周辺の石垣に見られる無数のくぼみの多くは西南戦争の際の弾痕跡で、政府軍の攻撃の凄まじさが分かる。

門の前に架かる石橋は御楼門橋。江戸初期の1606年に木の橋が架けられたが、江戸後期の1810年に石橋に架け替えられたものが残っている。内堀の本丸側は高い石垣になっており、堀には蓮が植えられている。鬼門にあたる北東の石垣は隅欠(すみおとし)と呼ばれるように角が欠けており、災い除けと考えられている。蓮は1901年(明治34年)から2年間、第七高等学校造士館の数学教師及び教頭を務めた丹下丑之助が植えたと伝わる。

御楼門橋の南側には石積みの説明があり、亀甲積み、算木積み、金場取残積みがサンプルと共に説明されている。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.24582843498025676&type=1&l=223fe1adec


中央公園に戻るが、続く

  • 写真1 薩摩義士碑

    写真1 薩摩義士碑

  • 写真2 史跡 鶴丸城址の碑

    写真2 史跡 鶴丸城址の碑

  • 写真3 鶴丸城址案内図

    写真3 鶴丸城址案内図

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