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2022年4月24日(日)午後の1時半頃、筑後川昇開橋から東与賀の有明海沿岸にある干潟よか公園に向かう。柳川から有明海沿岸道路を通って大野島で降りる前から佐賀県に入っている。この前日に鳥栖に行ったので、戻ってきた形。<br /><br />佐賀県は西九州に位置し、旧肥前国の東部に当たる県で10市10町で構成されている。県庁所在地は佐賀市。佐賀藩と唐津藩に二分されていた歴史的経緯から、唐津市を中心とした北部(北西部)と佐賀市を中心とした南部(南東部)に分けられることが多い。今回来るまでは私は南部の各都市(佐賀市周辺、鳥栖市周辺、武雄市周辺、鹿島市周辺)は通過したことしかなく、北部の唐津、呼子や有田、伊万里しか観光したことがなかった。<br /><br />地理的には、北西部はリアス式海岸と砂浜の玄界灘、南東部は干潟と干拓地の有明海と云う、海岸の様子が全く異なる2つの海に接している。有明海沿岸から筑後川沿いには県の面積の3割を占める佐賀平野が広がり、玄界灘から佐賀平野西部までは杵島丘陵などの丘陵地帯。北東部には2つの1000m級の山地があって丘陵地帯を挟んでいる。<br /><br />人口・面積共に九州7県の中では最も少なく、経済規模が小さい。面積約2500平方km、人口約80万人は共に47都道府県中42番目。耕地が県面積の39%に上り、国内平均の2倍と高く、森林・荒地は県面積の49%と国内平均の7割。<br /><br />人口は隣接する福岡県の2割以下であり、福岡市の半分程度。一方、人口密度は全国で16番目に高く、広島県の人口密度を上回っている。全国でも16番目と上から1/3で、九州の中でも2番目に高い。<br /><br />県名の佐賀は廃藩置県の際県庁所在地となった佐賀郡から採られた。古来は「佐嘉」と「佐賀」両方の表記が見られたが、1870年(明治3年)に「佐賀」に統一された。佐賀郡の由来は2人の女性が暴れ川の佐嘉川(嘉瀬川)を鎮めたことに依るとか、傾斜地を指す「坂(さか)」、潮汐作用などで水が逆流する「逆(さか)」、あるいは砂丘地を指す「洲処(すが)」が転訛したとか云われる。<br /><br />旧石器時代の遺構が多く残る地域で、県北西部の玄界灘に面した地域は大陸方面から伝来した稲作の日本における発祥地域の一つとされる。県南東部の弥生時代の大規模環濠集落である吉野ヶ里遺跡は超有名。<br /><br />安土桃山時代、秀吉により築かれた名護屋城は県北部の東松浦半島にあった。戦国時代から江戸時代に掛けては龍造寺氏が九州の北西部を支配し、その後「鍋島化け猫騒動」が有名な鍋島氏が佐賀藩を治めた。一方唐津藩は領主が目まぐるしく変わり、政治はあまり安定していなかった。隆慶一郎の未完の小説「死ぬことと見つけたり」は佐賀鍋島藩の浪人、斎藤杢之助が主人公。<br /><br />佐賀藩は戊辰戦争以降、明治維新に尽力する人物を多く輩出した。明治維新期に活躍した大隈重信・副島種臣・大木喬任・江藤新平・佐野常民・島義勇の6人に、彼らを育てつつ幕末期に活躍した鍋島直正を加えて「佐賀の七賢人」と称する。<br /><br />1871年(明治4年)の廃藩置県により当時の藩がそのまま県となり、佐賀県(第1次)が発足するが、すぐに伊万里県となる。その翌年には伊万里県の一部を長崎県に編入して、佐賀県(第2次)に改称。しかし、1876年(明治9年)に三潴県に合併して消滅。現在の佐賀県(第3次)が成立したのは1883年(明治16年)だった。<br /><br />今回の旅で行った鳥栖市、佐賀市以外に関連する著名人を一部挙げる。建築家で有名な辰野金吾(1854年生れ)に作家の北方謙三(47年生れ)は唐津市出身。漫画家の長谷川町子(20年生まれ)は福岡育ちだが現在の多久市生れ。「キングダム」の原泰久(75年生れ)は基山町出身で町内の東明館高校を卒業。<br /><br />歌手の村田英雄(29年生れ)は現在の福岡県うきは市生れだが、育ちは唐津市。元かくや姫の山田パンダ(45年生れ)は福岡育ちだが現在の神埼市生れ。ミュージシャンの白竜(52年生れ)は伊万里市出身で有田工業高校を卒業。<br /><br />俳優の荒川良々(74年生れ)は小城市出身で佐賀市の龍谷高校を卒業。タレントの江頭2:50(65年生れ)は現在の神埼市出身で、神埼高校を卒業。お笑いのどぶろっくの森慎太郎と江口直人(共に78年生れ)は共に基山町出身で、保育園から大学まで同級生。ミサイルマンの岩部彰(80年生れ)は現在の唐津市出身で唐津工業高校卒業。<br /><br />柔道のバルセロナオリンピック金メダリストの平成の三四郎、古賀稔彦(67年生れ)は現在のみやき町出身で北茂安小学校卒業後東京へ。2021年の東京パラリンピックのテニス女子ダブルスで銅メダリストとなった大谷桃子(95年生れ)は栃木県栃木市出身だが、神埼市の西九州大学で車椅子テニスを始めた。<br /><br />横浜大洋ホエールズで活躍したスーパーカートリオの一人、加藤博一(51年生れ)は現在の多久市出身で多久工業高校を卒業。カープでも活躍した長野久義(84年生れ)は基山町出身で基山中学校卒業。横浜DeNAベイスターズで活躍中の宮崎敏郎(88年生れ)は唐津市出身で唐津市内の厳木高校卒業。<br /><br />諸富鉄橋展望公園から南西に走ること約20分、佐賀市の東与賀(よか)町の南端、有明海沿岸にある干潟よか公園へ到着する。東与賀町は江戸時代から第二次世界大戦後まで続けられた干拓によって造成された地域で、2007年に佐賀市に編入されるまでは佐賀郡東与賀町だった。前身は1889年(明治22年)の町村制施行で誕生した東与賀村で、1966年に町制施行した。<br /><br />与賀の名は室町時代に与賀荘に築かれた与賀城から来ているようだが、与賀荘の由来は分からない。「佐賀のがばいばあちゃん」がヒットした漫才コンビB&amp;Bの島田洋七(50年生れ)が現在住んでいるそうだ(ただし、ばあちゃんの家は佐賀城の近くだったらしい)。<br /><br />干潟よか公園は昭和天皇最後の御幸地である東与賀海岸沿いにあり、ラムサール条約で湿地に指定されている東よか干潟に面している佐賀市の公園。2004年開園。ここも「のだめカンタービレ」の聖地の一つ。のだめの父がなぜのだめが野放し状態になってしまったのか、その理由を千秋真一に語った場面のロケ地。<br /><br />芝生広場に遊具広場にじゃぶじゃぶ池、さらにおもしろ自転車や草スキー場などのアスレチック施設も充実した公園部分のほか、有明海の干潟が一望できる東与賀海岸展望台や、海の紅葉とも言われる塩生植物「シチメンソウ」の自生地(下の写真2)、海岸堤防を用いた干潟ギャラリーなどがある。<br /><br />1987年の第38回全国植樹祭出席のために昭和天皇が東与賀海岸を訪問された際に、地元でも注目されていなかったシチメンソウに深い興味を示した。これがシチメンソウが広く知られるきっかけとなり、1994年には「シチメンソウを育てる会」が発足。植生の保存などが行われている。毎年11月上旬には「シチメンソウまつり」も開催される。佐賀県の認定する「22世紀に残す佐賀県遺産」にも認定された。<br /><br />また、2006年には全国豊かな海づくり大会の第26回佐賀大会の会場にもなり、天皇・皇后両陛下が臨席された。<br /><br />ラムサール条約は1971年にイラン(Iran)のラムサール(Ramsar)で開催された国際会議で採択された湿地に関する条約。正式名称は「特に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約(Convention on Wetlands of International Importance Especially as Waterfowl Habitat)」と云うが、採択の地にちなみ一般に「ラムサール条約(Ramsar Convention)」と呼ばれている。<br /><br />東よか干潟は有明海湾奥部に広がる泥の干潟。有明海の干満差は最大約6mと日本最大で、干潮時は見渡す限りの広大な干潟が姿を現わす。渡り鳥であるシギ、チドリ類の渡来数は日本一を誇り、絶滅危惧種を含む水鳥類の国内有数の中継地・越冬地となっている。また、干潟にはムツゴロウやワラスボ、シオマネキなど、泥干潟特有のユニークな生きものが多く生息している。<br /><br />有明海は九州最大の湾。日本の湾の中でも干満の大きさ、流入河川の多さ、塩分濃度の変化、濁った海域、日本最大の干潟、独自の生物相などを特徴とする。有明海は干満差が大きく、湾奥には広大な平野が広がる。「有明」は夜が明ける時に月明かりが残る、明かりがあるという意味で明治時代に初めて出てくる言葉。<br /><br />まずは飛沫水路に架かる橋を渡ると右手の東よか干潟ビジターセンター「ひがさす」へ(下の写真1)。2020年10月に開館した設備で、地上13mの高さから有明海を一望できるひがたのパノラマ展望台やシアター、プロジェクションマッピング、干潟に暮らす生きものたちの展示などが行われている。展望台からの景色はなかなかのもの。<br /><br />ビジターセンターを出て、東与賀海岸堤防に進むと、堤防上にも何ヶ所も展望台があり、有明海や干潟を身近に観察することが出来る。この日の満潮は3時前だったので、満潮の1時間ほど前だったが、それでこの状態なのね。<br /><br />右手は有明海の最深部で、左手の先には1998年に開港した佐賀空港がある。正面の山並みが低くなってるところが諫早湾で、佐賀県と長崎県の県境になる。堤防を左手に進むと行幸記念碑および御製碑。1987年の昭和天皇の訪問を記念し設置したもの。御製碑には昭和天皇が出席した最後の歌会始で、行幸したときの有明海の様子を歌った「面白し沖へはるかに汐ひきて 鳥も蟹も見ゆる有明の海」の詩が刻まれている。<br /><br />さらに左手に進むとこちらは現在の上皇御製碑。2006年に第26回全国豊かな海づくり大会における放流行事にお見えになった際の情景をお詠みになられた詩。「眼前に有明海は広がりて 今年生まれしむつごろう放つ」。<br /><br />堤防から公園に下りて行く。芝生広場に草スキー場、大型遊具、紅楽庵などがある。大型遊具には幕末に佐賀藩で作られた船の形の遊具や大きなヘビのすべり台や幕末に佐賀藩で作られた蒸気機関車の形の遊具などがある。じゃぶじゃぶ池は水深が20cmと40cmと浅く、小さな子供でも遊べる池だが、季節柄閉鎖中。まあ、多分コロナ禍になってずっと閉鎖中だと思うけど。<br /><br />紅楽庵は江戸後期の民家を再現したもので、佐賀平野独特の建築様式であるじょうご谷造りの建造物を再現したもの。庶民でも手近に求めることができた麦藁・蘆などで作られており、台風の被害ができるだけ小さくなるようにと低く、どっしりとした構造で、屋根の真ん中が落ち窪んで、穴が一点あるじょうごの形をした建物。内部には昔の農機具などが展示されている。<br /><br />最後にビジターセンターに戻り、土産を購入(下の写真3)し、SHOPのカウンターで100円のコーヒーで一服(下の写真4)。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.24739930542316970&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br /><br />4時半前、今回の旅で最後の観光地となる佐賀城に向かうが、続く

佐賀 東与賀 干潟よか公園(Higata Yoka Park,Higashiyoka,Saga,Saga,Japan)

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2022/04/24 - 2022/04/24

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ちふゆ

ちふゆさん

2022年4月24日(日)午後の1時半頃、筑後川昇開橋から東与賀の有明海沿岸にある干潟よか公園に向かう。柳川から有明海沿岸道路を通って大野島で降りる前から佐賀県に入っている。この前日に鳥栖に行ったので、戻ってきた形。

佐賀県は西九州に位置し、旧肥前国の東部に当たる県で10市10町で構成されている。県庁所在地は佐賀市。佐賀藩と唐津藩に二分されていた歴史的経緯から、唐津市を中心とした北部(北西部)と佐賀市を中心とした南部(南東部)に分けられることが多い。今回来るまでは私は南部の各都市(佐賀市周辺、鳥栖市周辺、武雄市周辺、鹿島市周辺)は通過したことしかなく、北部の唐津、呼子や有田、伊万里しか観光したことがなかった。

地理的には、北西部はリアス式海岸と砂浜の玄界灘、南東部は干潟と干拓地の有明海と云う、海岸の様子が全く異なる2つの海に接している。有明海沿岸から筑後川沿いには県の面積の3割を占める佐賀平野が広がり、玄界灘から佐賀平野西部までは杵島丘陵などの丘陵地帯。北東部には2つの1000m級の山地があって丘陵地帯を挟んでいる。

人口・面積共に九州7県の中では最も少なく、経済規模が小さい。面積約2500平方km、人口約80万人は共に47都道府県中42番目。耕地が県面積の39%に上り、国内平均の2倍と高く、森林・荒地は県面積の49%と国内平均の7割。

人口は隣接する福岡県の2割以下であり、福岡市の半分程度。一方、人口密度は全国で16番目に高く、広島県の人口密度を上回っている。全国でも16番目と上から1/3で、九州の中でも2番目に高い。

県名の佐賀は廃藩置県の際県庁所在地となった佐賀郡から採られた。古来は「佐嘉」と「佐賀」両方の表記が見られたが、1870年(明治3年)に「佐賀」に統一された。佐賀郡の由来は2人の女性が暴れ川の佐嘉川(嘉瀬川)を鎮めたことに依るとか、傾斜地を指す「坂(さか)」、潮汐作用などで水が逆流する「逆(さか)」、あるいは砂丘地を指す「洲処(すが)」が転訛したとか云われる。

旧石器時代の遺構が多く残る地域で、県北西部の玄界灘に面した地域は大陸方面から伝来した稲作の日本における発祥地域の一つとされる。県南東部の弥生時代の大規模環濠集落である吉野ヶ里遺跡は超有名。

安土桃山時代、秀吉により築かれた名護屋城は県北部の東松浦半島にあった。戦国時代から江戸時代に掛けては龍造寺氏が九州の北西部を支配し、その後「鍋島化け猫騒動」が有名な鍋島氏が佐賀藩を治めた。一方唐津藩は領主が目まぐるしく変わり、政治はあまり安定していなかった。隆慶一郎の未完の小説「死ぬことと見つけたり」は佐賀鍋島藩の浪人、斎藤杢之助が主人公。

佐賀藩は戊辰戦争以降、明治維新に尽力する人物を多く輩出した。明治維新期に活躍した大隈重信・副島種臣・大木喬任・江藤新平・佐野常民・島義勇の6人に、彼らを育てつつ幕末期に活躍した鍋島直正を加えて「佐賀の七賢人」と称する。

1871年(明治4年)の廃藩置県により当時の藩がそのまま県となり、佐賀県(第1次)が発足するが、すぐに伊万里県となる。その翌年には伊万里県の一部を長崎県に編入して、佐賀県(第2次)に改称。しかし、1876年(明治9年)に三潴県に合併して消滅。現在の佐賀県(第3次)が成立したのは1883年(明治16年)だった。

今回の旅で行った鳥栖市、佐賀市以外に関連する著名人を一部挙げる。建築家で有名な辰野金吾(1854年生れ)に作家の北方謙三(47年生れ)は唐津市出身。漫画家の長谷川町子(20年生まれ)は福岡育ちだが現在の多久市生れ。「キングダム」の原泰久(75年生れ)は基山町出身で町内の東明館高校を卒業。

歌手の村田英雄(29年生れ)は現在の福岡県うきは市生れだが、育ちは唐津市。元かくや姫の山田パンダ(45年生れ)は福岡育ちだが現在の神埼市生れ。ミュージシャンの白竜(52年生れ)は伊万里市出身で有田工業高校を卒業。

俳優の荒川良々(74年生れ)は小城市出身で佐賀市の龍谷高校を卒業。タレントの江頭2:50(65年生れ)は現在の神埼市出身で、神埼高校を卒業。お笑いのどぶろっくの森慎太郎と江口直人(共に78年生れ)は共に基山町出身で、保育園から大学まで同級生。ミサイルマンの岩部彰(80年生れ)は現在の唐津市出身で唐津工業高校卒業。

柔道のバルセロナオリンピック金メダリストの平成の三四郎、古賀稔彦(67年生れ)は現在のみやき町出身で北茂安小学校卒業後東京へ。2021年の東京パラリンピックのテニス女子ダブルスで銅メダリストとなった大谷桃子(95年生れ)は栃木県栃木市出身だが、神埼市の西九州大学で車椅子テニスを始めた。

横浜大洋ホエールズで活躍したスーパーカートリオの一人、加藤博一(51年生れ)は現在の多久市出身で多久工業高校を卒業。カープでも活躍した長野久義(84年生れ)は基山町出身で基山中学校卒業。横浜DeNAベイスターズで活躍中の宮崎敏郎(88年生れ)は唐津市出身で唐津市内の厳木高校卒業。

諸富鉄橋展望公園から南西に走ること約20分、佐賀市の東与賀(よか)町の南端、有明海沿岸にある干潟よか公園へ到着する。東与賀町は江戸時代から第二次世界大戦後まで続けられた干拓によって造成された地域で、2007年に佐賀市に編入されるまでは佐賀郡東与賀町だった。前身は1889年(明治22年)の町村制施行で誕生した東与賀村で、1966年に町制施行した。

与賀の名は室町時代に与賀荘に築かれた与賀城から来ているようだが、与賀荘の由来は分からない。「佐賀のがばいばあちゃん」がヒットした漫才コンビB&Bの島田洋七(50年生れ)が現在住んでいるそうだ(ただし、ばあちゃんの家は佐賀城の近くだったらしい)。

干潟よか公園は昭和天皇最後の御幸地である東与賀海岸沿いにあり、ラムサール条約で湿地に指定されている東よか干潟に面している佐賀市の公園。2004年開園。ここも「のだめカンタービレ」の聖地の一つ。のだめの父がなぜのだめが野放し状態になってしまったのか、その理由を千秋真一に語った場面のロケ地。

芝生広場に遊具広場にじゃぶじゃぶ池、さらにおもしろ自転車や草スキー場などのアスレチック施設も充実した公園部分のほか、有明海の干潟が一望できる東与賀海岸展望台や、海の紅葉とも言われる塩生植物「シチメンソウ」の自生地(下の写真2)、海岸堤防を用いた干潟ギャラリーなどがある。

1987年の第38回全国植樹祭出席のために昭和天皇が東与賀海岸を訪問された際に、地元でも注目されていなかったシチメンソウに深い興味を示した。これがシチメンソウが広く知られるきっかけとなり、1994年には「シチメンソウを育てる会」が発足。植生の保存などが行われている。毎年11月上旬には「シチメンソウまつり」も開催される。佐賀県の認定する「22世紀に残す佐賀県遺産」にも認定された。

また、2006年には全国豊かな海づくり大会の第26回佐賀大会の会場にもなり、天皇・皇后両陛下が臨席された。

ラムサール条約は1971年にイラン(Iran)のラムサール(Ramsar)で開催された国際会議で採択された湿地に関する条約。正式名称は「特に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約(Convention on Wetlands of International Importance Especially as Waterfowl Habitat)」と云うが、採択の地にちなみ一般に「ラムサール条約(Ramsar Convention)」と呼ばれている。

東よか干潟は有明海湾奥部に広がる泥の干潟。有明海の干満差は最大約6mと日本最大で、干潮時は見渡す限りの広大な干潟が姿を現わす。渡り鳥であるシギ、チドリ類の渡来数は日本一を誇り、絶滅危惧種を含む水鳥類の国内有数の中継地・越冬地となっている。また、干潟にはムツゴロウやワラスボ、シオマネキなど、泥干潟特有のユニークな生きものが多く生息している。

有明海は九州最大の湾。日本の湾の中でも干満の大きさ、流入河川の多さ、塩分濃度の変化、濁った海域、日本最大の干潟、独自の生物相などを特徴とする。有明海は干満差が大きく、湾奥には広大な平野が広がる。「有明」は夜が明ける時に月明かりが残る、明かりがあるという意味で明治時代に初めて出てくる言葉。

まずは飛沫水路に架かる橋を渡ると右手の東よか干潟ビジターセンター「ひがさす」へ(下の写真1)。2020年10月に開館した設備で、地上13mの高さから有明海を一望できるひがたのパノラマ展望台やシアター、プロジェクションマッピング、干潟に暮らす生きものたちの展示などが行われている。展望台からの景色はなかなかのもの。

ビジターセンターを出て、東与賀海岸堤防に進むと、堤防上にも何ヶ所も展望台があり、有明海や干潟を身近に観察することが出来る。この日の満潮は3時前だったので、満潮の1時間ほど前だったが、それでこの状態なのね。

右手は有明海の最深部で、左手の先には1998年に開港した佐賀空港がある。正面の山並みが低くなってるところが諫早湾で、佐賀県と長崎県の県境になる。堤防を左手に進むと行幸記念碑および御製碑。1987年の昭和天皇の訪問を記念し設置したもの。御製碑には昭和天皇が出席した最後の歌会始で、行幸したときの有明海の様子を歌った「面白し沖へはるかに汐ひきて 鳥も蟹も見ゆる有明の海」の詩が刻まれている。

さらに左手に進むとこちらは現在の上皇御製碑。2006年に第26回全国豊かな海づくり大会における放流行事にお見えになった際の情景をお詠みになられた詩。「眼前に有明海は広がりて 今年生まれしむつごろう放つ」。

堤防から公園に下りて行く。芝生広場に草スキー場、大型遊具、紅楽庵などがある。大型遊具には幕末に佐賀藩で作られた船の形の遊具や大きなヘビのすべり台や幕末に佐賀藩で作られた蒸気機関車の形の遊具などがある。じゃぶじゃぶ池は水深が20cmと40cmと浅く、小さな子供でも遊べる池だが、季節柄閉鎖中。まあ、多分コロナ禍になってずっと閉鎖中だと思うけど。

紅楽庵は江戸後期の民家を再現したもので、佐賀平野独特の建築様式であるじょうご谷造りの建造物を再現したもの。庶民でも手近に求めることができた麦藁・蘆などで作られており、台風の被害ができるだけ小さくなるようにと低く、どっしりとした構造で、屋根の真ん中が落ち窪んで、穴が一点あるじょうごの形をした建物。内部には昔の農機具などが展示されている。

最後にビジターセンターに戻り、土産を購入(下の写真3)し、SHOPのカウンターで100円のコーヒーで一服(下の写真4)。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.24739930542316970&type=1&l=223fe1adec


4時半前、今回の旅で最後の観光地となる佐賀城に向かうが、続く

  • 写真1 入口

    写真1 入口

  • シチメンソウの自生地

    シチメンソウの自生地

  • 写真3 ビジターセンターの土産売場

    写真3 ビジターセンターの土産売場

  • 写真4 SHOPカウンター

    写真4 SHOPカウンター

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