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2022年4月23日(土)10時15分頃、城山の東南側麓にある中央公園にあるセラ602と云う地下駐車場に車を止める。セラ602のセラはフランス語の「休み」を表わし、602は収容台数を示している。中央公園は1994年に完成した公園で、江戸中期の1774年に設立された医学院の跡地。<br /><br />駐車場の北側から地上に上がり、雨の中、西側へ歩くとすぐに西郷隆盛銅像。ここも約45年前に来た(下の写真1)。それ以前中学の修学旅行でも来てるけど、バスで前に止まって説明を聞いただけだった(下の写真2)。でも、ここへ来たことは覚えてる。<br /><br />この像は、没後50年祭記念として鹿児島市出身の彫刻家で渋谷にある忠犬ハチ公の制作者の安藤照が8年をかけ製作し、1937年(昭和12年)に完成させたもの。わが国初の陸軍大将の制服姿で、城山を背景に仁王立ちする高さ8m(本体5.76m、土台1.21m、築山7.27m)の堂々たる銅像。<br /><br />この西郷隆盛銅像の前を走っているのは小倉から九州東海岸を経由して鹿児島まで至る国道10号線。市街地の北、島津氏の別邸であった国の名勝である仙巌園(磯庭園)や尚古集成館に磯海水浴場がある吉野町南部の磯地区へ至ることから磯街道という愛称が付けられている。<br /><br />中央公園の南西角にある照国神社前交差点で西海岸経由の国道3号線と繋がっているが、その交差点から約900m先の長田中前交差点までの間は館の馬場(やかたんばば)通りとも呼ばれる。<br /><br />隆盛像から北に進むと鹿児島市立美術館。1985年に建てられたもので、地上3階、地下1階の鉄筋コンクリート造。桜島の火山灰による降灰対策として、屋根の散水設備やダスト・シュートも備えている。1986年に日本国内の優秀な建築作品を表彰するBCS(Building Contractors Society)賞を受賞。<br /><br />1877年(明治10年)の西南戦争で焼失した元々の二の丸跡で、立派な石垣に囲まれている。1892年(明治25年)から1937年(昭和12年)までは鹿児島市役所が置かれていた。1939年(昭和14年)に歴史館が建てられるが第二次大戦で消失。1954年(昭和29年)に初代の鹿児島市立美術館が設置された。<br /><br />市立美術館北東の交差点の南西角には館の馬場石碑が建つ。館の馬場は城の前の武術訓練所(馬場)で、屋形馬場とも書かれたようだ。現在の桟橋通りと照国通りは外堀だったようで、その間だった。なお、この石碑の後ろに距鹿児島県庁弐丁弐拾九間と彫られた道路元標がある。鹿児島県庁から2丁29間(約280m)ってことかな? 昔の県庁は現在の県政記念館の辺りにあった。<br /><br />先に進むと立派な石垣に囲まれた鹿児島県立図書館。西南戦争で焼失した元々の二の丸跡で、立派な石垣に囲まれている。現在の図書館は1979年(昭和54年)に竣工したもので、それ以前は1927年(昭和2年)に建てられた現在の鹿児島県立博物館が図書館だった。そもそもは1902年(明治35年)に現在かごしま県民交流センターがある辺りに建てられた鹿児島県私立教育会附属図書館を前身とする。<br /><br />館の馬場通りの南端の照国神社前交差点北西の鹿児島県立博物館からこの県立図書館までの範囲は、鶴丸城の二の丸があったところ。世継ぎ、側室などの居館や庭園が設けられていたが、1877年(明治10年)の西南戦争で全ての建物が焼失した。<br /><br />先に進むと鶴丸城本丸跡だが、帰り道に寄るのでスルーしてそのまま直進。城山入口の交差点を過ぎると左手に国立病院機構鹿児島医療センター。1945年(昭和20年)に国立鹿児島病院として発足し、国立南九州中央病院を経て、1974年に現在地に移転。2000年に国立療養所霧島病院を統合して九州循環器病センターとして発足、2006年に現名称となった。<br /><br />このセンターがある一帯は、1974年までは鹿児島大学医学部付属病院だった。1881年(明治14年)に開校した鹿児島医学校及び附属病院が翌年この地に移転。以後医学校は一旦廃止されたが、付属病院だけは所管が民営、市営、県営と変わりながらも存続し、県立鹿児島病院、県立鹿児島医学専門学校附属病院を経て、1958年(昭和33年)に鹿児島大学医学部附属病院となった。現在は鹿児島大学桜ヶ丘キャンパスにある。<br /><br />この場所には私学校と云う学校があった。1874年(明治7年)に前年の政変で下野した西郷隆盛が、鹿児島の士族たちのために鶴丸城の厩跡(出丸)に創設したもの。陸軍士官養成のための幼年学校、銃隊学校、砲隊学校の3校が設立され、主に漢文の素読と軍事教練が行われたが、設立の真の目的は不平士族の暴発を防ぐ事にあったとされる。<br /><br />私学校と云う名前とは裏腹に銃隊学校、砲隊学校の2校には県の予算が支出され、生徒数は100人。市内に10を越える分校ができ、県下に136の分校があった。<br /><br />1877年(明治10年)に大久保利通、川路利良らが陰謀を企てたとして激昂した私学校の生徒が鹿児島の鎮台の弾薬庫襲撃を行い、これがきっかけとなり西南戦争が起こった。西南戦争の際、この私学校の石垣には多くの銃弾が打ち込まれ、その銃痕が今も多く残っている。1968年に県の史跡に指定されている<br /><br />現在は館の馬場通り沿いに門と壁のみが史跡として残されているが、1955年(昭和30年)の国道10号線拡張時に13m城山寄りに原形のまま移設されたもの。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.24495412623435431&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br /><br />雨がひどくなった中、西郷隆盛終焉の地へ向かうが、続く

鹿児島 館の馬場通り(Yakatanbaba Street,Kagoshima,Kagoshima,Japan)

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2022/04/23 - 2022/04/23

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ちふゆ

ちふゆさん

2022年4月23日(土)10時15分頃、城山の東南側麓にある中央公園にあるセラ602と云う地下駐車場に車を止める。セラ602のセラはフランス語の「休み」を表わし、602は収容台数を示している。中央公園は1994年に完成した公園で、江戸中期の1774年に設立された医学院の跡地。

駐車場の北側から地上に上がり、雨の中、西側へ歩くとすぐに西郷隆盛銅像。ここも約45年前に来た(下の写真1)。それ以前中学の修学旅行でも来てるけど、バスで前に止まって説明を聞いただけだった(下の写真2)。でも、ここへ来たことは覚えてる。

この像は、没後50年祭記念として鹿児島市出身の彫刻家で渋谷にある忠犬ハチ公の制作者の安藤照が8年をかけ製作し、1937年(昭和12年)に完成させたもの。わが国初の陸軍大将の制服姿で、城山を背景に仁王立ちする高さ8m(本体5.76m、土台1.21m、築山7.27m)の堂々たる銅像。

この西郷隆盛銅像の前を走っているのは小倉から九州東海岸を経由して鹿児島まで至る国道10号線。市街地の北、島津氏の別邸であった国の名勝である仙巌園(磯庭園)や尚古集成館に磯海水浴場がある吉野町南部の磯地区へ至ることから磯街道という愛称が付けられている。

中央公園の南西角にある照国神社前交差点で西海岸経由の国道3号線と繋がっているが、その交差点から約900m先の長田中前交差点までの間は館の馬場(やかたんばば)通りとも呼ばれる。

隆盛像から北に進むと鹿児島市立美術館。1985年に建てられたもので、地上3階、地下1階の鉄筋コンクリート造。桜島の火山灰による降灰対策として、屋根の散水設備やダスト・シュートも備えている。1986年に日本国内の優秀な建築作品を表彰するBCS(Building Contractors Society)賞を受賞。

1877年(明治10年)の西南戦争で焼失した元々の二の丸跡で、立派な石垣に囲まれている。1892年(明治25年)から1937年(昭和12年)までは鹿児島市役所が置かれていた。1939年(昭和14年)に歴史館が建てられるが第二次大戦で消失。1954年(昭和29年)に初代の鹿児島市立美術館が設置された。

市立美術館北東の交差点の南西角には館の馬場石碑が建つ。館の馬場は城の前の武術訓練所(馬場)で、屋形馬場とも書かれたようだ。現在の桟橋通りと照国通りは外堀だったようで、その間だった。なお、この石碑の後ろに距鹿児島県庁弐丁弐拾九間と彫られた道路元標がある。鹿児島県庁から2丁29間(約280m)ってことかな? 昔の県庁は現在の県政記念館の辺りにあった。

先に進むと立派な石垣に囲まれた鹿児島県立図書館。西南戦争で焼失した元々の二の丸跡で、立派な石垣に囲まれている。現在の図書館は1979年(昭和54年)に竣工したもので、それ以前は1927年(昭和2年)に建てられた現在の鹿児島県立博物館が図書館だった。そもそもは1902年(明治35年)に現在かごしま県民交流センターがある辺りに建てられた鹿児島県私立教育会附属図書館を前身とする。

館の馬場通りの南端の照国神社前交差点北西の鹿児島県立博物館からこの県立図書館までの範囲は、鶴丸城の二の丸があったところ。世継ぎ、側室などの居館や庭園が設けられていたが、1877年(明治10年)の西南戦争で全ての建物が焼失した。

先に進むと鶴丸城本丸跡だが、帰り道に寄るのでスルーしてそのまま直進。城山入口の交差点を過ぎると左手に国立病院機構鹿児島医療センター。1945年(昭和20年)に国立鹿児島病院として発足し、国立南九州中央病院を経て、1974年に現在地に移転。2000年に国立療養所霧島病院を統合して九州循環器病センターとして発足、2006年に現名称となった。

このセンターがある一帯は、1974年までは鹿児島大学医学部付属病院だった。1881年(明治14年)に開校した鹿児島医学校及び附属病院が翌年この地に移転。以後医学校は一旦廃止されたが、付属病院だけは所管が民営、市営、県営と変わりながらも存続し、県立鹿児島病院、県立鹿児島医学専門学校附属病院を経て、1958年(昭和33年)に鹿児島大学医学部附属病院となった。現在は鹿児島大学桜ヶ丘キャンパスにある。

この場所には私学校と云う学校があった。1874年(明治7年)に前年の政変で下野した西郷隆盛が、鹿児島の士族たちのために鶴丸城の厩跡(出丸)に創設したもの。陸軍士官養成のための幼年学校、銃隊学校、砲隊学校の3校が設立され、主に漢文の素読と軍事教練が行われたが、設立の真の目的は不平士族の暴発を防ぐ事にあったとされる。

私学校と云う名前とは裏腹に銃隊学校、砲隊学校の2校には県の予算が支出され、生徒数は100人。市内に10を越える分校ができ、県下に136の分校があった。

1877年(明治10年)に大久保利通、川路利良らが陰謀を企てたとして激昂した私学校の生徒が鹿児島の鎮台の弾薬庫襲撃を行い、これがきっかけとなり西南戦争が起こった。西南戦争の際、この私学校の石垣には多くの銃弾が打ち込まれ、その銃痕が今も多く残っている。1968年に県の史跡に指定されている

現在は館の馬場通り沿いに門と壁のみが史跡として残されているが、1955年(昭和30年)の国道10号線拡張時に13m城山寄りに原形のまま移設されたもの。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.24495412623435431&type=1&l=223fe1adec


雨がひどくなった中、西郷隆盛終焉の地へ向かうが、続く

  • 写真1 1978年3月の写真

    写真1 1978年3月の写真

  • 写真2 1970年中学修学旅行の写真

    写真2 1970年中学修学旅行の写真

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