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2022年4月24日(日)、干潟よか公園から20分余り走って佐賀城に到着。佐賀市の中心に位置する輪郭梯郭複合式平城。前身は肥前の戦国大名の龍造寺隆信をはじめ龍造寺宗家代々の居城の佐賀龍造寺城で、慶長期に鍋島氏による改修により現在の佐賀城の姿になった。江戸時代初頭に完成し以降、外様大名の佐賀藩鍋島氏の居城だった。<br /><br />古名は佐嘉城で、別名沈み城、亀甲城とも呼ばれる。沈み城は攻撃にあった際には多布施川より送り込んだ大量の水によって本丸以外を水没させ敵の侵攻を防衛する仕組みになっていたことから。亀甲城は切り石による「亀甲乱積」という手法で積まれている石垣から来ている。<br /><br />佐賀市には筑後川昇開橋の前から入っているが、佐賀県中東部にある県庁所在地及び最大の都市で、経済・行政の中心地。特例市、中枢中核都市に指定されている。ただし、九州の県庁所在地の他の6市はいずれも政令指定都市または中核市。<br /><br />市域は南北に長く、南側は有明海に面し、南東部は筑後川を挟んで福岡県大川市・柳川市に、北東部でも脊振山地を境に福岡県福岡市早良区・糸島市に接している。市域の北半分は、北部九州を東西に貫く筑紫山地に属する脊振山地で山がちで起伏が大きい。市域の南半分は有明海北岸に広がる筑紫平野の西部に属する佐賀平野で、起伏がほとんどない低平。<br /><br />2005年と2007年の周辺町村との合併によって市域は104平方kmから4倍以上に拡大し、県内では唐津市に次ぐ2番目に大きな面積を有する自治体となった。現在の面積は約432平方km。市街地は佐賀平野の中心付近に位置している。人口約23万人は県内トップだが、減少傾向にある。 <br /><br />飛鳥時代後期からの律令制下では肥前国に属し、肥前国国府が置かれた。戦国時代になって龍造寺氏が台頭し、戦国大名となり城下町の基礎が形成された。龍造寺氏が絶えた後、龍造寺氏の重臣であった鍋島直茂が藩主の座に就き、以後は廃藩置県まで鍋島氏が統治する。これにより水運と農業中心の小さな町だった現在の佐賀市街付近は佐賀藩本藩の城下町として発展し、商工業が大きく発達した。<br /><br />明治維新では版籍奉還を上奏した薩長土肥の一つとなる。維新前から西洋の科学技術を積極的に導入し、精錬方、反射炉、海軍所などが設置され、鉄製大砲や蒸気船、指字電信機、暗箱カメラなどを独力で製作し、日本の科学技術近代化に大きく貢献した。明治政府へも大隈重信らの多くの人材を輩出する。<br /><br />1889年の市制施行により現在の佐賀市中心部を市域とする佐賀市が発足。市名の由来は県名と同じく当時の佐賀市域が属していた佐賀郡から取られた。下記参照。<br />https://4travel.jp/travelogue/11876931<br /><br />その後、1922年(大正11年)に神野村、1954年に西与賀村・嘉瀬村・兵庫村・巨勢村・高木瀬村と北川副村・本庄村・鍋島村・金立村・久保泉村を、1955年に蓮池町の一部を編入。そして、2005年に諸富町、大和町、富士町および三瀬村と合併し、新市制による佐賀市が発足。2007年に川副町、東与賀町および久保田町を編入し現在の市域となった。<br /><br />江戸時代より佐賀藩の城下町として発達して来ており、鳥栖市・久留米市が交通拠点・工業地域、唐津市が港湾・観光都市であるのに対し、佐賀市は農業地帯の中心に位置する地方都市や佐賀県中部・東部の商業都市としての面が強い。2000年代以降は観光都市としてPRする動きも活発であり、観光資源の発掘が盛んである。秋には嘉瀬川河川敷を中心に佐賀インターナショナルバルーンフェスタが開催され、バルーンの街として賑わっている。<br /><br />佐賀市出身の著名人を一部挙げる。漫画家の針すなお(33年生れ)は旧佐賀藩の菩提寺・高伝寺に生まれ、佐賀高校(現佐賀西高校)卒業。俳優の村井國夫(44年生れ)も同じ高校卒業。芸人のはなわ(76年生れ)とナイツの塙宣之(78年生れ)は共に鍋島中学校卒業で、はなわは佐賀東高校、塙は龍谷高校を卒業。俳優の中越典子(79年生れ)は佐賀北高校卒業で、タレントの優木まおみ(80年生れ)は致遠館高校卒業。<br /><br />歌手の大川栄策(48年生れ)は福岡県大川市出身だが、佐賀商業高校を卒業。俳優の陣内孝則(58年生れ)も大川市出身だが、佐賀大学教育学部附属中学校から福岡の西南学院高校に進む。ライオンズなどの選手・監督で活躍した辻発彦(58年生れ)は小城市出身だが佐賀東高校を卒業ではなわの先輩。俳優の荒川良々(74年生れ)も小城市出身だが龍谷高校卒業でナイツ塙の先輩。ラグビーの五郎丸歩(86年生れ)は福岡市出身だが佐賀工業高校卒業。<br /><br />本丸跡は佐賀城公園の一部として整備されている。佐賀城公園は1961年から整備事業が始まり、2007年に制定された「佐賀城下再生100年構想」により、東濠の復元工事等現在も整備が続けられている。<br /><br />3時前、NHK横の佐賀城本丸歴史館駐車場(無料)に到着。すぐ横に鍋島直正公銅像が建つ。1913年(大正2年)に直正公生誕100周年を記念して北御堀端(現在の徴古館北東)に建造されたのだが、戦時下の金属供出で撤去されてしまったのを、2017年に約70年振りに再建したもの。<br /><br />先代の同じ衣冠束帯姿で、高さは約4m。佐賀大芸術地域デザイン学部の徳安和博教授が制作した。台座は直正が日本初の実用反射炉として藩内に建設した築地反射炉をモチーフとした。「三重津海軍所の図」「大砲鋳造の図」「種痘の図」「精煉方の図」といった佐賀藩の業績も合わせて紹介している。<br /><br />直正公銅像の南側にある鯱の門から旧本丸跡に入る。鯱の門は本丸表門で、幕末の1835年から始まる本丸再建に際し1838年に完成したもの。堂々たる門の構に連続して続櫓を前方に突出している。<br /><br />門の反対側、西側には天守台がある。天守は1726年の火災で焼失し、それ以降再建されることはなく、現在では天守台やそれに続く付櫓の石垣が残るだけ。焼失した天守は小倉城並みか、それよりわずかに大きい規模ではないかと最近の調査で推測されている。<br /><br />また、門の外には佐賀県立佐賀商業学校跡碑も建っている(下の写真1)。1911年(明治44年)に城内に校舎が建てられ、1960年に移転するまでこの地にあった。現在の佐賀商業高校(佐商)。1994年の夏の甲子園で鹿児島代表の樟南を下して初優勝している。いや、全く覚えてない。<br /><br />門の内側には24ポンドカノン砲の復元品がある(下の写真2)。日本初の洋式大砲の鋳造に成功した佐賀藩の科学技術を象徴するもの。1977年に復元され、県立博物館や歴史館の玄関横に展示されていたが、砲身のさびが目立つようになり、2018年の明治維新150年を記念して開催された「肥前さが幕末維新博覧会」を前にリニューアルされた。<br /><br />目の前に本丸歴史館があるが、まずは本丸跡をぐるっと回る。鯱の門と歴史館の間を西に進むと天守台の内側を取って西門跡へ。実際にあった位置より4mほど外側に、外面が石垣、内面が土塁で復元され南西隅櫓台まで続いている(下の写真3)。現在の西門は佐賀城本丸歴史館の西門として、柱と木戸だけの簡易なもの。<br /><br />西側の土塁の内側を南に進むと、石製樋管と赤石積水路がある。西側土塁石垣の下を潜る石製水路の本丸側開口部で、本丸内に水を引き込む赤石を用いた水路が続く。石の表面は精加工されている。南端の南西隅櫓台は切り石による亀甲乱積という手法で積まれている。<br /><br />本丸跡の南側は本丸御殿は復元されておらず、復元しなかった建物遺構の区画のみ復元されている。南側から東側をぐるっと回って、スタート地点に戻り、復元された本丸御殿の一部を使った本丸歴史館に入る。<br /><br />本丸御殿とは城主あるいは藩主が会見の場としたり政務を行なったり、居間のように日常生活を送ったり、台所として使ったりと様々な用途を持った屋敷で、城の中枢部の建物だった。もともと藩政の中心として使われていた二の丸御殿が1835年に焼失したため、10代藩主の鍋島直正によって天保年間の1838年に再建された。約8000平方mの広さがあったが、1957年までに全て解体された。<br /><br />本丸歴史館はその本丸御殿の一部を復元して2004年にオープンした設備。日本の近代化を先導した「幕末・維新期の佐賀」の歴史や、世界に活躍した先哲の偉業を検証し、分かりやすく伝える施設として、また、新しい郷土発展の源泉となる施設として建設された。<br /><br />現在本丸御殿の約30%、2500平方mが復元されている。日本で初めて本丸御殿を復元したもので、復元にあたっては、本丸御殿の発掘調査、絵図・差図・文献資料・古写真、類例建物などの建物復元調査の成果をもとに、本丸の正確な位置に遺構を保護しながら再建している。<br /><br />御玄関から入場。御玄関は本丸御殿の正面玄関で、藩主など特別な人のみ利用できた。外には幕末の戊辰戦争で威力を発揮した佐賀藩自慢の自前製造のアームストロング砲のレプリカが置かれている(下の写真4)。射程距離1.5kmと近代戦に十分な性能を持ち、弾丸を後側で装填する方式で連続発射時間も1/10に短縮された。<br /><br />御玄関を設けられている御式台は客の待機場所や色々な行事を行う場所として使われた。外御書院へ進むと45mも続く畳敷きの長い廊下があり、左手に一乃間から四乃間まで、合計320畳の大広間が広がっている。幕府からの贈答品やお世継ぎのお披露目など佐賀藩の公式行事が行われていた。本丸御殿完成披露ではっここに約1000人の家臣が集まった。<br /><br />突き当りの3つの支藩を治めた小城鍋島家・蓮池鍋島家・鹿島鍋島家の御三家が集う御三家座から左手に進むと、重要事項を協議した御仕組所、控えの場所として使われた屯之間(たまりのま)、御三家との面談や側近たちとの会議が行われた御小書院と続く。<br /><br />御小書院から東に向かうと御座間に堪忍所(かんにんどころ)。御座間は藩主鍋島直正の執務室で、堪忍所は警護詰め所。天保年間に再建された本丸御殿で残る建物の一つ。<br /><br />他の建物が解体されて次第に姿を消していく中、最後まで現地に残っていたが、校舎新設のため本丸東堀外側の南水ヶ江の大木公園に解体・移築、南水会館として2001年まで活用されていた。2004年の佐賀城本丸歴史館開館に際して、重要な佐賀城関連建物と云うことで、本丸歴史館の一部としてこの地に移築・復元された。天保期の瓦や柱などに当時の部材を使用している。<br /><br />外御書院へ引き返し、御式台南側の御料理間と御納戸へ。御料理間は家臣や藩外の人たちとの対面や、食事の場所として利用されていた。御納戸は物品を納めておく建物で、2階建てになっており、上下とも納戸として用いられていた。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.24830393333270690&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br /><br />3時も過ぎたので、福岡空港に向かうが続く。

佐賀 佐賀城(Saga Catel,Saga,Saga,Japan)

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2022/04/24 - 2022/04/24

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ちふゆ

ちふゆさん

2022年4月24日(日)、干潟よか公園から20分余り走って佐賀城に到着。佐賀市の中心に位置する輪郭梯郭複合式平城。前身は肥前の戦国大名の龍造寺隆信をはじめ龍造寺宗家代々の居城の佐賀龍造寺城で、慶長期に鍋島氏による改修により現在の佐賀城の姿になった。江戸時代初頭に完成し以降、外様大名の佐賀藩鍋島氏の居城だった。

古名は佐嘉城で、別名沈み城、亀甲城とも呼ばれる。沈み城は攻撃にあった際には多布施川より送り込んだ大量の水によって本丸以外を水没させ敵の侵攻を防衛する仕組みになっていたことから。亀甲城は切り石による「亀甲乱積」という手法で積まれている石垣から来ている。

佐賀市には筑後川昇開橋の前から入っているが、佐賀県中東部にある県庁所在地及び最大の都市で、経済・行政の中心地。特例市、中枢中核都市に指定されている。ただし、九州の県庁所在地の他の6市はいずれも政令指定都市または中核市。

市域は南北に長く、南側は有明海に面し、南東部は筑後川を挟んで福岡県大川市・柳川市に、北東部でも脊振山地を境に福岡県福岡市早良区・糸島市に接している。市域の北半分は、北部九州を東西に貫く筑紫山地に属する脊振山地で山がちで起伏が大きい。市域の南半分は有明海北岸に広がる筑紫平野の西部に属する佐賀平野で、起伏がほとんどない低平。

2005年と2007年の周辺町村との合併によって市域は104平方kmから4倍以上に拡大し、県内では唐津市に次ぐ2番目に大きな面積を有する自治体となった。現在の面積は約432平方km。市街地は佐賀平野の中心付近に位置している。人口約23万人は県内トップだが、減少傾向にある。

飛鳥時代後期からの律令制下では肥前国に属し、肥前国国府が置かれた。戦国時代になって龍造寺氏が台頭し、戦国大名となり城下町の基礎が形成された。龍造寺氏が絶えた後、龍造寺氏の重臣であった鍋島直茂が藩主の座に就き、以後は廃藩置県まで鍋島氏が統治する。これにより水運と農業中心の小さな町だった現在の佐賀市街付近は佐賀藩本藩の城下町として発展し、商工業が大きく発達した。

明治維新では版籍奉還を上奏した薩長土肥の一つとなる。維新前から西洋の科学技術を積極的に導入し、精錬方、反射炉、海軍所などが設置され、鉄製大砲や蒸気船、指字電信機、暗箱カメラなどを独力で製作し、日本の科学技術近代化に大きく貢献した。明治政府へも大隈重信らの多くの人材を輩出する。

1889年の市制施行により現在の佐賀市中心部を市域とする佐賀市が発足。市名の由来は県名と同じく当時の佐賀市域が属していた佐賀郡から取られた。下記参照。
https://4travel.jp/travelogue/11876931

その後、1922年(大正11年)に神野村、1954年に西与賀村・嘉瀬村・兵庫村・巨勢村・高木瀬村と北川副村・本庄村・鍋島村・金立村・久保泉村を、1955年に蓮池町の一部を編入。そして、2005年に諸富町、大和町、富士町および三瀬村と合併し、新市制による佐賀市が発足。2007年に川副町、東与賀町および久保田町を編入し現在の市域となった。

江戸時代より佐賀藩の城下町として発達して来ており、鳥栖市・久留米市が交通拠点・工業地域、唐津市が港湾・観光都市であるのに対し、佐賀市は農業地帯の中心に位置する地方都市や佐賀県中部・東部の商業都市としての面が強い。2000年代以降は観光都市としてPRする動きも活発であり、観光資源の発掘が盛んである。秋には嘉瀬川河川敷を中心に佐賀インターナショナルバルーンフェスタが開催され、バルーンの街として賑わっている。

佐賀市出身の著名人を一部挙げる。漫画家の針すなお(33年生れ)は旧佐賀藩の菩提寺・高伝寺に生まれ、佐賀高校(現佐賀西高校)卒業。俳優の村井國夫(44年生れ)も同じ高校卒業。芸人のはなわ(76年生れ)とナイツの塙宣之(78年生れ)は共に鍋島中学校卒業で、はなわは佐賀東高校、塙は龍谷高校を卒業。俳優の中越典子(79年生れ)は佐賀北高校卒業で、タレントの優木まおみ(80年生れ)は致遠館高校卒業。

歌手の大川栄策(48年生れ)は福岡県大川市出身だが、佐賀商業高校を卒業。俳優の陣内孝則(58年生れ)も大川市出身だが、佐賀大学教育学部附属中学校から福岡の西南学院高校に進む。ライオンズなどの選手・監督で活躍した辻発彦(58年生れ)は小城市出身だが佐賀東高校を卒業ではなわの先輩。俳優の荒川良々(74年生れ)も小城市出身だが龍谷高校卒業でナイツ塙の先輩。ラグビーの五郎丸歩(86年生れ)は福岡市出身だが佐賀工業高校卒業。

本丸跡は佐賀城公園の一部として整備されている。佐賀城公園は1961年から整備事業が始まり、2007年に制定された「佐賀城下再生100年構想」により、東濠の復元工事等現在も整備が続けられている。

3時前、NHK横の佐賀城本丸歴史館駐車場(無料)に到着。すぐ横に鍋島直正公銅像が建つ。1913年(大正2年)に直正公生誕100周年を記念して北御堀端(現在の徴古館北東)に建造されたのだが、戦時下の金属供出で撤去されてしまったのを、2017年に約70年振りに再建したもの。

先代の同じ衣冠束帯姿で、高さは約4m。佐賀大芸術地域デザイン学部の徳安和博教授が制作した。台座は直正が日本初の実用反射炉として藩内に建設した築地反射炉をモチーフとした。「三重津海軍所の図」「大砲鋳造の図」「種痘の図」「精煉方の図」といった佐賀藩の業績も合わせて紹介している。

直正公銅像の南側にある鯱の門から旧本丸跡に入る。鯱の門は本丸表門で、幕末の1835年から始まる本丸再建に際し1838年に完成したもの。堂々たる門の構に連続して続櫓を前方に突出している。

門の反対側、西側には天守台がある。天守は1726年の火災で焼失し、それ以降再建されることはなく、現在では天守台やそれに続く付櫓の石垣が残るだけ。焼失した天守は小倉城並みか、それよりわずかに大きい規模ではないかと最近の調査で推測されている。

また、門の外には佐賀県立佐賀商業学校跡碑も建っている(下の写真1)。1911年(明治44年)に城内に校舎が建てられ、1960年に移転するまでこの地にあった。現在の佐賀商業高校(佐商)。1994年の夏の甲子園で鹿児島代表の樟南を下して初優勝している。いや、全く覚えてない。

門の内側には24ポンドカノン砲の復元品がある(下の写真2)。日本初の洋式大砲の鋳造に成功した佐賀藩の科学技術を象徴するもの。1977年に復元され、県立博物館や歴史館の玄関横に展示されていたが、砲身のさびが目立つようになり、2018年の明治維新150年を記念して開催された「肥前さが幕末維新博覧会」を前にリニューアルされた。

目の前に本丸歴史館があるが、まずは本丸跡をぐるっと回る。鯱の門と歴史館の間を西に進むと天守台の内側を取って西門跡へ。実際にあった位置より4mほど外側に、外面が石垣、内面が土塁で復元され南西隅櫓台まで続いている(下の写真3)。現在の西門は佐賀城本丸歴史館の西門として、柱と木戸だけの簡易なもの。

西側の土塁の内側を南に進むと、石製樋管と赤石積水路がある。西側土塁石垣の下を潜る石製水路の本丸側開口部で、本丸内に水を引き込む赤石を用いた水路が続く。石の表面は精加工されている。南端の南西隅櫓台は切り石による亀甲乱積という手法で積まれている。

本丸跡の南側は本丸御殿は復元されておらず、復元しなかった建物遺構の区画のみ復元されている。南側から東側をぐるっと回って、スタート地点に戻り、復元された本丸御殿の一部を使った本丸歴史館に入る。

本丸御殿とは城主あるいは藩主が会見の場としたり政務を行なったり、居間のように日常生活を送ったり、台所として使ったりと様々な用途を持った屋敷で、城の中枢部の建物だった。もともと藩政の中心として使われていた二の丸御殿が1835年に焼失したため、10代藩主の鍋島直正によって天保年間の1838年に再建された。約8000平方mの広さがあったが、1957年までに全て解体された。

本丸歴史館はその本丸御殿の一部を復元して2004年にオープンした設備。日本の近代化を先導した「幕末・維新期の佐賀」の歴史や、世界に活躍した先哲の偉業を検証し、分かりやすく伝える施設として、また、新しい郷土発展の源泉となる施設として建設された。

現在本丸御殿の約30%、2500平方mが復元されている。日本で初めて本丸御殿を復元したもので、復元にあたっては、本丸御殿の発掘調査、絵図・差図・文献資料・古写真、類例建物などの建物復元調査の成果をもとに、本丸の正確な位置に遺構を保護しながら再建している。

御玄関から入場。御玄関は本丸御殿の正面玄関で、藩主など特別な人のみ利用できた。外には幕末の戊辰戦争で威力を発揮した佐賀藩自慢の自前製造のアームストロング砲のレプリカが置かれている(下の写真4)。射程距離1.5kmと近代戦に十分な性能を持ち、弾丸を後側で装填する方式で連続発射時間も1/10に短縮された。

御玄関を設けられている御式台は客の待機場所や色々な行事を行う場所として使われた。外御書院へ進むと45mも続く畳敷きの長い廊下があり、左手に一乃間から四乃間まで、合計320畳の大広間が広がっている。幕府からの贈答品やお世継ぎのお披露目など佐賀藩の公式行事が行われていた。本丸御殿完成披露ではっここに約1000人の家臣が集まった。

突き当りの3つの支藩を治めた小城鍋島家・蓮池鍋島家・鹿島鍋島家の御三家が集う御三家座から左手に進むと、重要事項を協議した御仕組所、控えの場所として使われた屯之間(たまりのま)、御三家との面談や側近たちとの会議が行われた御小書院と続く。

御小書院から東に向かうと御座間に堪忍所(かんにんどころ)。御座間は藩主鍋島直正の執務室で、堪忍所は警護詰め所。天保年間に再建された本丸御殿で残る建物の一つ。

他の建物が解体されて次第に姿を消していく中、最後まで現地に残っていたが、校舎新設のため本丸東堀外側の南水ヶ江の大木公園に解体・移築、南水会館として2001年まで活用されていた。2004年の佐賀城本丸歴史館開館に際して、重要な佐賀城関連建物と云うことで、本丸歴史館の一部としてこの地に移築・復元された。天保期の瓦や柱などに当時の部材を使用している。

外御書院へ引き返し、御式台南側の御料理間と御納戸へ。御料理間は家臣や藩外の人たちとの対面や、食事の場所として利用されていた。御納戸は物品を納めておく建物で、2階建てになっており、上下とも納戸として用いられていた。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.24830393333270690&type=1&l=223fe1adec


3時も過ぎたので、福岡空港に向かうが続く。

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  • 写真1 佐賀県立佐賀商業学校跡碑

    写真1 佐賀県立佐賀商業学校跡碑

  • 写真2 24ポンドカノン砲

    写真2 24ポンドカノン砲

  • 写真3 西側石垣外側

    写真3 西側石垣外側

  • 写真4 アームストロング砲

    写真4 アームストロング砲

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