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2022年4月24日(日)、柳川で息子と別れた後、今度は柳川西ICから有明海沿岸道路に入る。ここは柳川市から大川市に至る国道208号のバイパスの大川バイパス。6kmほど走って、この時点では東側からの終点だった(この半年後に諸富ICまで伸びた)大野島ICへ。<br /><br />大野島ICは筑後川の河口、筑後川と支流の早津江川の間の三角州にある。インターは三角州の北側にあるが、三角州の北半分(上流側)は福岡県大川市で大野島と呼ばれ、南半分(有明海側)は佐賀県佐賀市で大詫間(おおだくま)と呼ばれる。元々は2つに分かれていたのが、土砂の堆積で繋がったそうだ。<br /><br />大川市は福岡県の最南西部に位置する。家具の大生産地(大川家具)として知られる。木工関連産業や商業施設が多数集積しており、独立した経済圏を形成している。<br /><br />県内の久留米市、大木町、柳川市に接し、筑後川を挟んで佐賀県の佐賀市と神埼市と接する。筑後川の河口は柳川市と佐賀市の市境になっており、大川市は有明海には接していない。面積約33.5平方kmは県内60市町村の40番目と小さい。人口は約3.1万人で、こちらは31番目とちょうど真ん中あたり。岡垣町、篠栗町、筑前町などと競っている。<br /><br />大川は筑後川の呼び名で、筑後川河口近くにあることからこの辺りの名前となった。1889年(明治22年)の町村制施行で大川町が発足。1954年(昭和29年)の昭和の大合併で大川町、川口村、大野島村、田口村、木室村、三又村の1町5村が対等合併し大川市が発足。隣接する大木町や柳川市との合併が検討されたが実現に至っていない。<br /><br />歌手の大川栄策(48年生れ)は大川中学校から佐賀商業高校に進んだ。芸名は「大川を栄えさせる策」から来ており、師匠の古賀政男(生れは現在の大川市で朝鮮育ち)が命名。俳優の陣内孝則(58年生れ)は大川小学校から佐賀大附属中学、福岡の西南学院高校を経て福岡大学を卒業。<br /><br />山田宗樹の小説で中谷美紀主演で映画化、内山理名主演でTBS系で連ドラ化もされた「嫌われ松子の一生」で主人公が被害を受けた中学校が架空の大川第二中学校、辻仁成の「白仏」の舞台が大野島にある勝楽寺。嫌われ松子は読んだし、映画もテレビも見た。<br /><br />でも、私にとっては二ノ宮知子の漫画でアニメ化、上野樹里主演、フジテレビ系で連ドラ化/映画化された「のだめカンタービレ」の主人公野田恵の出身地。と云うことで、大野島ICから早津江橋で早津江川を渡って佐賀市に入り、西からぐるっと大回りする形で、大野島よりも上流にある中洲の大中島へ渡る。<br /><br />この大中島はのだめ聖地の一つで、漫画に登場し、テレビドラマでは最終回の舞台となったところ。阿蘇山を水源として九州地方北部を東から西に熊本・大分・福岡・佐賀の4県を流れ有明海に注ぐ筑後川の中州の一つで、戦国末期頃に誕生したもの。<br /><br />筑後川は利根川(坂東太郎)、吉野川(四国三郎)とともに日本三大暴れ川の一つで、筑紫次郎とも呼ばれるが、かつては氾濫を繰り返し、下流域は大きく蛇行し、多くの中州があった。現在はほとんどは直線化によって両岸に取り込まれたが、この大中島とインターを降りた大野島(大詫間)は中州として現在も残っている。ちなみに、直線化によって消えた中州は、今も佐賀県と福岡県の県境で残る。<br /><br />この大中島はのだめの故郷として登場しているのだが、実際にはこの中州は福岡県大川市でなく、佐賀県佐賀市諸富。大中島から西側一帯は2005年までは諸富町(もろどみちょう)だった。諸富氏ゆかりの中世地名とのこと。大中島西側を流れる筑後川は諸富川とも呼ばれる。<br /><br />その諸富川右岸(西側)から中州の西側に架かる諸富橋を渡り、渡ったところで左折して車を止める。ここが千秋がのだめを後ろから抱きしめる、通称「大川ハグ」のロケ地。まあ、福岡から来るタクシーが大川に来るのにここを通ることはありえないところで、大川じゃないけどね。なお、諸富橋は国道208号の橋で、1955年完成のトラス橋。<br /><br />大中島西岸を下流に向けて諸富橋を越えて進むと中州の先に筑後川昇開橋が見えて来る。この辺りが傷心ののだめが筑後川昇開橋をバックに口笛を吹いていた場所のロケ地。まじめに考えれば大川市の実家から歩いてやってくるところではないわね。大川市寄りの東岸なら大中島の反対側に架かる大川橋を渡っても考えられないこともないが、ここは佐賀市側の西岸だしね・・・<br /><br />のだめ聖地巡礼を終えて再び諸富橋を渡り、筑後川昇開橋の佐賀市側のたもとの諸富鉄橋展望公園に移動。ここには不老不死の薬を求めた徐福が諸富町寺井津に上陸したという伝説に因んで、徐福像が建てられている。<br /><br />徐福は今から2200年ほど前、中国を統一した秦の始皇帝に仕え、その命により、東方海上の三神山にあるという不老不死の霊薬を求めて、3000人の童男童女を引き連れ渡来したと伝えられている。日本国内には徐福渡来の伝承地がいくつかあり、諸富もそのひとつ。<br /><br />徐福一行は最初有明海の北西奥の現在の白石町の竜王崎に上陸しようとしたが葦の茂みで果たせず、海に大盃を浮かべて、その盃が流れ着いたこの地に上陸した。現在も近くには浮盃云う地名が残る(下の写真3)。また、今も徐福を偲んでの祭りが行われている。<br /><br />以前、熊野三山に行った時に徐福のことを記述したことがあるので、引用する。熊野速玉大社にお参りした後の記述。<br />-------------------(ここから2016年8月19日(金)朝の11時前)------------------<br />ここで、新宮川の向かいの三重、御浜町名産の温州ミカンのまるしぼりを凍らせた物と徐福茶を購入。このお茶の名前になっている徐福は今から2200年ほど前、中国を統一した秦の始皇帝に仕え、その命により、東方海上の三神山にあるという不老不死の霊薬を求めて、3000人の童男童女を引き連れ、この熊野に渡来したと伝えられている。徐福一行は、この地に自生する「天台烏薬(てんだいうやく)」という薬木を発見したが、気候温暖、風光明媚、更には土地の人々の暖かい友情に触れ、ついにこの地を永住の地と定め、土地を拓き、農耕、漁法、捕鯨、紙すき等の技術をこの地に伝えたと云われている。日本国内には徐福渡来の伝承地がいくつかあり、古くから地域伝承を育み、様々な文化が形づくられてきたが、特に熊野地域には徐福渡来の地として数々の伝承資料が残り、鎌倉時代には文献に出てくる。JR新宮駅から東にわずか100mのところに「徐福の墓」があり、蓬莱山南麓の阿須賀神社には「徐福の宮」もある。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.1205750222828333.1073743234.100001801017376&amp;type=1&amp;l=2d4cd85a57 <br />-----------------------------------------------------------------------------<br /><br />諸富鉄橋展望公園は1987年に廃止された国鉄佐賀線の筑後川昇開橋が1996年に遊歩道橋として復活したのに合わせて整備された公園。遊歩道の佐賀県側の出入口になっているほか、上述の徐福像や鉄橋開通以前の馬がひいていた佐賀軌道の説明(下の写真2)や渡し船の説明、佐賀線で使われていた切り替え装置などの設備に諸富駅のホームや踏切、さらに橋の駅ドロンパも併設されている。ただし、実際には諸富駅はここから800mほど北西の現在の諸富文化体育館辺りにあった。<br /><br />筑後川昇開橋は国鉄佐賀線の筑後川をまたいで福岡県大川市と佐賀県佐賀市諸富町を結んでいた鉄道用可動式橋梁。1935年(昭和10年)に竣工・開業したが、1987年の佐賀線廃線と共に閉鎖された。<br /><br />筑後川を管理する当時の建設省からも撤去勧告がなされ、解体も検討されたが、地元の橋存続の強い要望で、1992年に大川市へ無償譲渡され、1996年に遊歩道として復活した。旧筑後川橋梁(筑後川昇開橋)として重要文化財および機械遺産に指定されている。<br /><br />舟運との共存のため、橋の一部が可動式となっている。可動橋には旋回橋、跳開橋(跳ね橋)、昇開橋などがあるが、この橋は橋桁の一部が垂直方向に上下する昇開橋で、昇開橋として日本に現存する最古のもの。橋の全長は507.2m、可動橋としたのは、当時は舟運は重要な時代で、ここは筑後川河口に近く有明海の大きな干満差の影響を受けるため。<br /><br />佐賀線は長崎本線の佐賀駅と鹿児島本線の瀬高駅(福岡県みやま市瀬高町)を結んでいた戦。1931年に矢部川(現在の瀬高)・筑後柳河間が開業で、全線開通は1935年(昭和10年)。13駅、24.1kmの単線で当然非電化だった。1961年から1980年までは佐賀線経由の熊本・長崎間の急行(当初は準急)「ちくご」が走っていた。<br /><br />なお、前述のように馬がひく佐賀馬車鉄道が諸富と佐賀駅間を結んでいた。1904年(明治37年)に開業。馬力から蒸気力、さらに電気に動力が代わり、社名も佐賀軌道から佐賀電気軌道に変わったが、1928年(昭和3年)に佐賀駅・諸富間は休止された(1937年廃止)。<br /><br />1時10分頃、遊歩道を渡り始める。下流は大野島の北端になり、右に早津江川が分岐している。本流の正面の筑後川に架かるのは有明海沿岸道路(大川佐賀道路)の有明筑後川大橋。ここに来る時に通って来た橋で2021年に開通した。その左手前に見えるのは支流の花宗(はなむね)川への逆流防止のために2002年に造られた花宗水門。<br /><br />上流は直前に行った大中島の南端で、筑後川本流が右手で左手の支流は諸富川とも呼ばれる。大中島の端に建つのは介護サービスのグッドタイムホームが運営する超大型デイサービスセンターの「イコロの家 昇開橋」。<br /><br />4分ほど掛かって可動部に到着。可動部は橋の中心より少し大川寄りなる。可動部の長さは24.2mで昇降差は23m。可動部を大川側に渡ったとこで可動部を動かしてくれる。滅多にない経験だったわ。大川側の河岸まで渡ると大川側の筑後川昇開橋展望公園があるが、先の予定もあるので、ここで引き返した。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.24739910298985661&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br /><br />有明海の干潟よか公園に向かうが、続く

佐賀 諸富 筑後川昇開橋(Chikugo river Lift Bridge,Morodomi,Saga,Saga,Japan)

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2022/04/24 - 2022/04/24

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ちふゆ

ちふゆさん

2022年4月24日(日)、柳川で息子と別れた後、今度は柳川西ICから有明海沿岸道路に入る。ここは柳川市から大川市に至る国道208号のバイパスの大川バイパス。6kmほど走って、この時点では東側からの終点だった(この半年後に諸富ICまで伸びた)大野島ICへ。

大野島ICは筑後川の河口、筑後川と支流の早津江川の間の三角州にある。インターは三角州の北側にあるが、三角州の北半分(上流側)は福岡県大川市で大野島と呼ばれ、南半分(有明海側)は佐賀県佐賀市で大詫間(おおだくま)と呼ばれる。元々は2つに分かれていたのが、土砂の堆積で繋がったそうだ。

大川市は福岡県の最南西部に位置する。家具の大生産地(大川家具)として知られる。木工関連産業や商業施設が多数集積しており、独立した経済圏を形成している。

県内の久留米市、大木町、柳川市に接し、筑後川を挟んで佐賀県の佐賀市と神埼市と接する。筑後川の河口は柳川市と佐賀市の市境になっており、大川市は有明海には接していない。面積約33.5平方kmは県内60市町村の40番目と小さい。人口は約3.1万人で、こちらは31番目とちょうど真ん中あたり。岡垣町、篠栗町、筑前町などと競っている。

大川は筑後川の呼び名で、筑後川河口近くにあることからこの辺りの名前となった。1889年(明治22年)の町村制施行で大川町が発足。1954年(昭和29年)の昭和の大合併で大川町、川口村、大野島村、田口村、木室村、三又村の1町5村が対等合併し大川市が発足。隣接する大木町や柳川市との合併が検討されたが実現に至っていない。

歌手の大川栄策(48年生れ)は大川中学校から佐賀商業高校に進んだ。芸名は「大川を栄えさせる策」から来ており、師匠の古賀政男(生れは現在の大川市で朝鮮育ち)が命名。俳優の陣内孝則(58年生れ)は大川小学校から佐賀大附属中学、福岡の西南学院高校を経て福岡大学を卒業。

山田宗樹の小説で中谷美紀主演で映画化、内山理名主演でTBS系で連ドラ化もされた「嫌われ松子の一生」で主人公が被害を受けた中学校が架空の大川第二中学校、辻仁成の「白仏」の舞台が大野島にある勝楽寺。嫌われ松子は読んだし、映画もテレビも見た。

でも、私にとっては二ノ宮知子の漫画でアニメ化、上野樹里主演、フジテレビ系で連ドラ化/映画化された「のだめカンタービレ」の主人公野田恵の出身地。と云うことで、大野島ICから早津江橋で早津江川を渡って佐賀市に入り、西からぐるっと大回りする形で、大野島よりも上流にある中洲の大中島へ渡る。

この大中島はのだめ聖地の一つで、漫画に登場し、テレビドラマでは最終回の舞台となったところ。阿蘇山を水源として九州地方北部を東から西に熊本・大分・福岡・佐賀の4県を流れ有明海に注ぐ筑後川の中州の一つで、戦国末期頃に誕生したもの。

筑後川は利根川(坂東太郎)、吉野川(四国三郎)とともに日本三大暴れ川の一つで、筑紫次郎とも呼ばれるが、かつては氾濫を繰り返し、下流域は大きく蛇行し、多くの中州があった。現在はほとんどは直線化によって両岸に取り込まれたが、この大中島とインターを降りた大野島(大詫間)は中州として現在も残っている。ちなみに、直線化によって消えた中州は、今も佐賀県と福岡県の県境で残る。

この大中島はのだめの故郷として登場しているのだが、実際にはこの中州は福岡県大川市でなく、佐賀県佐賀市諸富。大中島から西側一帯は2005年までは諸富町(もろどみちょう)だった。諸富氏ゆかりの中世地名とのこと。大中島西側を流れる筑後川は諸富川とも呼ばれる。

その諸富川右岸(西側)から中州の西側に架かる諸富橋を渡り、渡ったところで左折して車を止める。ここが千秋がのだめを後ろから抱きしめる、通称「大川ハグ」のロケ地。まあ、福岡から来るタクシーが大川に来るのにここを通ることはありえないところで、大川じゃないけどね。なお、諸富橋は国道208号の橋で、1955年完成のトラス橋。

大中島西岸を下流に向けて諸富橋を越えて進むと中州の先に筑後川昇開橋が見えて来る。この辺りが傷心ののだめが筑後川昇開橋をバックに口笛を吹いていた場所のロケ地。まじめに考えれば大川市の実家から歩いてやってくるところではないわね。大川市寄りの東岸なら大中島の反対側に架かる大川橋を渡っても考えられないこともないが、ここは佐賀市側の西岸だしね・・・

のだめ聖地巡礼を終えて再び諸富橋を渡り、筑後川昇開橋の佐賀市側のたもとの諸富鉄橋展望公園に移動。ここには不老不死の薬を求めた徐福が諸富町寺井津に上陸したという伝説に因んで、徐福像が建てられている。

徐福は今から2200年ほど前、中国を統一した秦の始皇帝に仕え、その命により、東方海上の三神山にあるという不老不死の霊薬を求めて、3000人の童男童女を引き連れ渡来したと伝えられている。日本国内には徐福渡来の伝承地がいくつかあり、諸富もそのひとつ。

徐福一行は最初有明海の北西奥の現在の白石町の竜王崎に上陸しようとしたが葦の茂みで果たせず、海に大盃を浮かべて、その盃が流れ着いたこの地に上陸した。現在も近くには浮盃云う地名が残る(下の写真3)。また、今も徐福を偲んでの祭りが行われている。

以前、熊野三山に行った時に徐福のことを記述したことがあるので、引用する。熊野速玉大社にお参りした後の記述。
-------------------(ここから2016年8月19日(金)朝の11時前)------------------
ここで、新宮川の向かいの三重、御浜町名産の温州ミカンのまるしぼりを凍らせた物と徐福茶を購入。このお茶の名前になっている徐福は今から2200年ほど前、中国を統一した秦の始皇帝に仕え、その命により、東方海上の三神山にあるという不老不死の霊薬を求めて、3000人の童男童女を引き連れ、この熊野に渡来したと伝えられている。徐福一行は、この地に自生する「天台烏薬(てんだいうやく)」という薬木を発見したが、気候温暖、風光明媚、更には土地の人々の暖かい友情に触れ、ついにこの地を永住の地と定め、土地を拓き、農耕、漁法、捕鯨、紙すき等の技術をこの地に伝えたと云われている。日本国内には徐福渡来の伝承地がいくつかあり、古くから地域伝承を育み、様々な文化が形づくられてきたが、特に熊野地域には徐福渡来の地として数々の伝承資料が残り、鎌倉時代には文献に出てくる。JR新宮駅から東にわずか100mのところに「徐福の墓」があり、蓬莱山南麓の阿須賀神社には「徐福の宮」もある。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.1205750222828333.1073743234.100001801017376&type=1&l=2d4cd85a57
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諸富鉄橋展望公園は1987年に廃止された国鉄佐賀線の筑後川昇開橋が1996年に遊歩道橋として復活したのに合わせて整備された公園。遊歩道の佐賀県側の出入口になっているほか、上述の徐福像や鉄橋開通以前の馬がひいていた佐賀軌道の説明(下の写真2)や渡し船の説明、佐賀線で使われていた切り替え装置などの設備に諸富駅のホームや踏切、さらに橋の駅ドロンパも併設されている。ただし、実際には諸富駅はここから800mほど北西の現在の諸富文化体育館辺りにあった。

筑後川昇開橋は国鉄佐賀線の筑後川をまたいで福岡県大川市と佐賀県佐賀市諸富町を結んでいた鉄道用可動式橋梁。1935年(昭和10年)に竣工・開業したが、1987年の佐賀線廃線と共に閉鎖された。

筑後川を管理する当時の建設省からも撤去勧告がなされ、解体も検討されたが、地元の橋存続の強い要望で、1992年に大川市へ無償譲渡され、1996年に遊歩道として復活した。旧筑後川橋梁(筑後川昇開橋)として重要文化財および機械遺産に指定されている。

舟運との共存のため、橋の一部が可動式となっている。可動橋には旋回橋、跳開橋(跳ね橋)、昇開橋などがあるが、この橋は橋桁の一部が垂直方向に上下する昇開橋で、昇開橋として日本に現存する最古のもの。橋の全長は507.2m、可動橋としたのは、当時は舟運は重要な時代で、ここは筑後川河口に近く有明海の大きな干満差の影響を受けるため。

佐賀線は長崎本線の佐賀駅と鹿児島本線の瀬高駅(福岡県みやま市瀬高町)を結んでいた戦。1931年に矢部川(現在の瀬高)・筑後柳河間が開業で、全線開通は1935年(昭和10年)。13駅、24.1kmの単線で当然非電化だった。1961年から1980年までは佐賀線経由の熊本・長崎間の急行(当初は準急)「ちくご」が走っていた。

なお、前述のように馬がひく佐賀馬車鉄道が諸富と佐賀駅間を結んでいた。1904年(明治37年)に開業。馬力から蒸気力、さらに電気に動力が代わり、社名も佐賀軌道から佐賀電気軌道に変わったが、1928年(昭和3年)に佐賀駅・諸富間は休止された(1937年廃止)。

1時10分頃、遊歩道を渡り始める。下流は大野島の北端になり、右に早津江川が分岐している。本流の正面の筑後川に架かるのは有明海沿岸道路(大川佐賀道路)の有明筑後川大橋。ここに来る時に通って来た橋で2021年に開通した。その左手前に見えるのは支流の花宗(はなむね)川への逆流防止のために2002年に造られた花宗水門。

上流は直前に行った大中島の南端で、筑後川本流が右手で左手の支流は諸富川とも呼ばれる。大中島の端に建つのは介護サービスのグッドタイムホームが運営する超大型デイサービスセンターの「イコロの家 昇開橋」。

4分ほど掛かって可動部に到着。可動部は橋の中心より少し大川寄りなる。可動部の長さは24.2mで昇降差は23m。可動部を大川側に渡ったとこで可動部を動かしてくれる。滅多にない経験だったわ。大川側の河岸まで渡ると大川側の筑後川昇開橋展望公園があるが、先の予定もあるので、ここで引き返した。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.24739910298985661&type=1&l=223fe1adec


有明海の干潟よか公園に向かうが、続く

  • 写真1 徐福伝説

    写真1 徐福伝説

  • 写真2 佐賀軌道の説明

    写真2 佐賀軌道の説明

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