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東京国立近代美術館で70周年を記念する「重要文化財の秘密」が3月17日から5月14日まで開催されました。展示品すべてが重要文化財は史上初。明治時代以降の絵画・彫刻・工芸で重要文化財に指定されている68件のうち51点が展示されます。4月29日に行ってきました。<br /><br />【展覧会HPより】<br />東京国立近代美術館は1952年12月に開館し、2022年度は開館70周年にあたります。これを記念して、明治以降の絵画・彫刻・工芸のうち、重要文化財に指定された作品のみによる豪華な展覧会を開催します。とはいえ、ただの名品展ではありません。今でこそ「傑作」の呼び声高い作品も、発表された当初は、それまでにない新しい表現を打ち立てた「問題作」でもありました。そうした作品が、どのような評価の変遷を経て、重要文化財に指定されるに至ったのかという美術史の秘密にも迫ります。<br />重要文化財は保護の観点から貸出や公開が限られるため、本展はそれらをまとめて見ることのできる得がたい機会となります。これら第一級の作品を通して、日本の近代美術の魅力を再発見していただくことができるでしょう。

東京国立近代美術館70周年記念展 重要文化財の秘密

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2023/04/29 - 2023/04/29

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東京国立近代美術館で70周年を記念する「重要文化財の秘密」が3月17日から5月14日まで開催されました。展示品すべてが重要文化財は史上初。明治時代以降の絵画・彫刻・工芸で重要文化財に指定されている68件のうち51点が展示されます。4月29日に行ってきました。

【展覧会HPより】
東京国立近代美術館は1952年12月に開館し、2022年度は開館70周年にあたります。これを記念して、明治以降の絵画・彫刻・工芸のうち、重要文化財に指定された作品のみによる豪華な展覧会を開催します。とはいえ、ただの名品展ではありません。今でこそ「傑作」の呼び声高い作品も、発表された当初は、それまでにない新しい表現を打ち立てた「問題作」でもありました。そうした作品が、どのような評価の変遷を経て、重要文化財に指定されるに至ったのかという美術史の秘密にも迫ります。
重要文化財は保護の観点から貸出や公開が限られるため、本展はそれらをまとめて見ることのできる得がたい機会となります。これら第一級の作品を通して、日本の近代美術の魅力を再発見していただくことができるでしょう。

旅行の満足度
4.0
観光
4.0
  • 東京国立近代美術館へは、東西線「竹橋駅」出口より徒歩3分ほどで到着。

    東京国立近代美術館へは、東西線「竹橋駅」出口より徒歩3分ほどで到着。

    竹橋 名所・史跡

  • 13時より予約していました

    13時より予約していました

    東京国立近代美術館 美術館・博物館

  • 重要文化財に指定されている近代絵画などの中には、制作当時の美術の常識を破る「問題作」であったり、当時の人々からはあまり高く評価されなかったりしたものも多くありました。傑作(重要文化財)と認められるまでの物語も本展の見どころです

    重要文化財に指定されている近代絵画などの中には、制作当時の美術の常識を破る「問題作」であったり、当時の人々からはあまり高く評価されなかったりしたものも多くありました。傑作(重要文化財)と認められるまでの物語も本展の見どころです

  • 川合玉堂「行く春」1916(大正5)年 東京国立近代美術館<br />晩春の桜花が散りゆく渓谷。川に繋留されている3隻の水車舟。玉堂は前年の秋と同年の早春にスケッチ旅行で秩父の長瀞(ながとろ)を訪れ、川下りを楽しんでいます。その時の風景を出発点として、小雪のように舞う桜をあしらったのがこの「行く春」です。<br />作者は繰り返し同じリズムでまわる水車に特に興味をおぼえ、その動きを伝えようと、勢いよく水が流れるさまを表現するのに最も苦心したといいます。自然の 雄大さと季節の移ろいが見せる繊細さ、そうした自然の多様な表情とそこに生きる人々の生活とを結びつけながら、詩情豊かな世界を描き出しています。

    川合玉堂「行く春」1916(大正5)年 東京国立近代美術館
    晩春の桜花が散りゆく渓谷。川に繋留されている3隻の水車舟。玉堂は前年の秋と同年の早春にスケッチ旅行で秩父の長瀞(ながとろ)を訪れ、川下りを楽しんでいます。その時の風景を出発点として、小雪のように舞う桜をあしらったのがこの「行く春」です。
    作者は繰り返し同じリズムでまわる水車に特に興味をおぼえ、その動きを伝えようと、勢いよく水が流れるさまを表現するのに最も苦心したといいます。自然の 雄大さと季節の移ろいが見せる繊細さ、そうした自然の多様な表情とそこに生きる人々の生活とを結びつけながら、詩情豊かな世界を描き出しています。

    東京国立近代美術館 美術館・博物館

  • 安田靫彦「黄瀬川陣」1940-41年 東京国立近代美術館<br /> 源頼朝が挙兵したと聞き、弟の義経が黄瀬川陣に馳せ参じるという、『吾妻鏡』に記された一場面が描かれています。広い余白を用いた緊密な構図に よって、 視線を交わす二人の間の緊張感と、後に待ち受ける悲劇を暗示するかのような冷ややかさが生み出されています。頼朝は神護寺の伝頼朝像(現在では足利直義像 とされる)、義経は平安時代の毘沙門天像、衣裳は『義経記』の記述を参照したとされ、細部の表現にも意を尽くした歴史画の名作です。<br />

    安田靫彦「黄瀬川陣」1940-41年 東京国立近代美術館
     源頼朝が挙兵したと聞き、弟の義経が黄瀬川陣に馳せ参じるという、『吾妻鏡』に記された一場面が描かれています。広い余白を用いた緊密な構図に よって、 視線を交わす二人の間の緊張感と、後に待ち受ける悲劇を暗示するかのような冷ややかさが生み出されています。頼朝は神護寺の伝頼朝像(現在では足利直義像 とされる)、義経は平安時代の毘沙門天像、衣裳は『義経記』の記述を参照したとされ、細部の表現にも意を尽くした歴史画の名作です。

  • 安田靫彦「黄瀬川陣」<br />こちらは源義経

    安田靫彦「黄瀬川陣」
    こちらは源義経

  • 高橋由一「鮭」1877(明治10)年頃 東京藝術大学<br />油絵で最初の重要文化財に指定(1967年)されたのが高橋由一の「鮭」です。従来の日本の技法や材料では困難だった本物そっくりの描写が可能になったことへの素直な感動が表されています。

    高橋由一「鮭」1877(明治10)年頃 東京藝術大学
    油絵で最初の重要文化財に指定(1967年)されたのが高橋由一の「鮭」です。従来の日本の技法や材料では困難だった本物そっくりの描写が可能になったことへの素直な感動が表されています。

    東京芸術大学 名所・史跡

  • 浅井忠「収穫」1890(明治23)年 東京藝術大学<br />浅井忠は、1876年に工部大学校(現在の東京大学工学部)附属の工部美術学校に入学し、当時明治政府に招かれて来日していたイタリアのアントニオ・フォンタネージ(Antonio Fontanesi 1818-1882年)に師事しました。フォンタネージは、バルビゾン派や印象派の影響を受けていたため、浅井の《収穫》は、画題や筆触、色調もバルビゾン派風ですが、米の収穫を描き、作業をしている人が日本の着物を着ているところが日本的ではあります。後進の育成としての功績も大きく、東京美術学校(現、藝大)の教授を経て、京都高等工芸学校(現、京都工芸繊維大学)の教授・教頭となり、門下生に安井曽太郎、梅原龍三郎ら、優れた日本人洋画家を輩出しています。

    浅井忠「収穫」1890(明治23)年 東京藝術大学
    浅井忠は、1876年に工部大学校(現在の東京大学工学部)附属の工部美術学校に入学し、当時明治政府に招かれて来日していたイタリアのアントニオ・フォンタネージ(Antonio Fontanesi 1818-1882年)に師事しました。フォンタネージは、バルビゾン派や印象派の影響を受けていたため、浅井の《収穫》は、画題や筆触、色調もバルビゾン派風ですが、米の収穫を描き、作業をしている人が日本の着物を着ているところが日本的ではあります。後進の育成としての功績も大きく、東京美術学校(現、藝大)の教授を経て、京都高等工芸学校(現、京都工芸繊維大学)の教授・教頭となり、門下生に安井曽太郎、梅原龍三郎ら、優れた日本人洋画家を輩出しています。

    東京芸術大学 名所・史跡

  • 原田直次郎「騎龍観音」1890(明治23)年 護国寺蔵(東京国立近代美術館寄託)<br />白い衣を身にまとい、右手に柳、左手に水瓶を持って、龍に乗る観音を大画面に描いています。ドイツに留学した原田直次郎は、ヨーロッパの宗教画や日本の観音図の図像等を参考に、この作品を制作しました。油彩のもつ迫真的な描写を日本の伝統的な画題に適用しようと描いた意欲作です。その主題や生々しい描写をめぐって、発表当時、大きな議論を巻き起こしました。

    原田直次郎「騎龍観音」1890(明治23)年 護国寺蔵(東京国立近代美術館寄託)
    白い衣を身にまとい、右手に柳、左手に水瓶を持って、龍に乗る観音を大画面に描いています。ドイツに留学した原田直次郎は、ヨーロッパの宗教画や日本の観音図の図像等を参考に、この作品を制作しました。油彩のもつ迫真的な描写を日本の伝統的な画題に適用しようと描いた意欲作です。その主題や生々しい描写をめぐって、発表当時、大きな議論を巻き起こしました。

  • 黒田清輝「湖畔」1897(明治30)年 東京国立博物館<br />本図では、湖のほとりに、浴衣姿の美しい女性が団扇を手に座っている。この作品のモデルは、のちに黒田清輝の夫人となる金子種子(のち照子と改名)。夫人の回想によると、箱根を訪れた際、夫人が芦ノ湖畔の岩に腰をかけているのを黒田が見て、「そのままモデルになれと言い出し」たという。当時の芦ノ湖畔は主に外国人の間で避暑地として知られ、この作品も発表当初は《避暑》というタイトルがつけられていました。<br /> 日本近代洋画の巨匠として知られる黒田清輝は、フランス留学を終えて帰国し、日本の洋画界に大きな変化を与えた。黒田の作品に見られる変化する光と大気のおりなす明るい表現は新派、紫派と呼ばれ、人々の心をとらえていった。また、黒田は西洋美術の伝統に基づく絵画教育を実践し、人体研究を重視し、裸体画をめぐる問題を巻き起こしました。<br />

    黒田清輝「湖畔」1897(明治30)年 東京国立博物館
    本図では、湖のほとりに、浴衣姿の美しい女性が団扇を手に座っている。この作品のモデルは、のちに黒田清輝の夫人となる金子種子(のち照子と改名)。夫人の回想によると、箱根を訪れた際、夫人が芦ノ湖畔の岩に腰をかけているのを黒田が見て、「そのままモデルになれと言い出し」たという。当時の芦ノ湖畔は主に外国人の間で避暑地として知られ、この作品も発表当初は《避暑》というタイトルがつけられていました。
     日本近代洋画の巨匠として知られる黒田清輝は、フランス留学を終えて帰国し、日本の洋画界に大きな変化を与えた。黒田の作品に見られる変化する光と大気のおりなす明るい表現は新派、紫派と呼ばれ、人々の心をとらえていった。また、黒田は西洋美術の伝統に基づく絵画教育を実践し、人体研究を重視し、裸体画をめぐる問題を巻き起こしました。

  • 藤島武二「天平の面影」1902年 石橋財団アーティゾン美術館<br />30代半ばに描かれたこの作品は、明治浪漫主義と呼ばれ、時間や空間を超えた彼方への感情を表そうとした時代の典型作です。前年の奈良旅行で心に留めた8世紀の仏像、仏画、正倉院宝物をもとにして、藤島はモティーフを組み合わせました。花咲く桐の下に立つ女性は、奈良時代の衣装を身につけ、箜篌という古代楽器を手にしています。その健康的な体軀は、右脚に体重を載せ、自由の利く左膝を少し前に出すことによって、頭頂に至るまで緩やかに体の軸線がS 字を描いています。古代ギリシアで生み出されたコントラポストと呼ばれるポーズです。東洋と西洋の2つの古代への憧憬を、藤島は具体的な女性像に重ね合わせました。背景の金地は、その物語性をより強める効果を持っています。シルクロードを通じて西洋文化が流入し、日本の古典古代ともいうべき文化が栄えた奈良時代への憧れ。画家の感情を見る者に共感させる力をこの作品は持っています。白馬会展に発表されると、ただちに象徴派詩人蒲原有明が反応し、この作品を美麗な言葉でうたい上げました。

    藤島武二「天平の面影」1902年 石橋財団アーティゾン美術館
    30代半ばに描かれたこの作品は、明治浪漫主義と呼ばれ、時間や空間を超えた彼方への感情を表そうとした時代の典型作です。前年の奈良旅行で心に留めた8世紀の仏像、仏画、正倉院宝物をもとにして、藤島はモティーフを組み合わせました。花咲く桐の下に立つ女性は、奈良時代の衣装を身につけ、箜篌という古代楽器を手にしています。その健康的な体軀は、右脚に体重を載せ、自由の利く左膝を少し前に出すことによって、頭頂に至るまで緩やかに体の軸線がS 字を描いています。古代ギリシアで生み出されたコントラポストと呼ばれるポーズです。東洋と西洋の2つの古代への憧憬を、藤島は具体的な女性像に重ね合わせました。背景の金地は、その物語性をより強める効果を持っています。シルクロードを通じて西洋文化が流入し、日本の古典古代ともいうべき文化が栄えた奈良時代への憧れ。画家の感情を見る者に共感させる力をこの作品は持っています。白馬会展に発表されると、ただちに象徴派詩人蒲原有明が反応し、この作品を美麗な言葉でうたい上げました。

  • 青木繁「わだつみのいろこの宮」1907(明治40)年 石橋財団アーティゾン美術館<br />「古事記」の海幸彦・山幸彦神話に基づく作品。山幸彦が無くした釣り針を探しに海底にある神殿を訪ね、そこで海神の娘の豊玉姫と出会うシーンです。青木は、潜水具で海に実際に潜って海底のイメージをつかむなど綿密な考証を行いましたが、発表当時の展覧会では賛否がわかれ、不本意な結果になりました。時を経て、1969年に「明治浪漫主義」の代表作のひとつとして重要文化財に。

    青木繁「わだつみのいろこの宮」1907(明治40)年 石橋財団アーティゾン美術館
    「古事記」の海幸彦・山幸彦神話に基づく作品。山幸彦が無くした釣り針を探しに海底にある神殿を訪ね、そこで海神の娘の豊玉姫と出会うシーンです。青木は、潜水具で海に実際に潜って海底のイメージをつかむなど綿密な考証を行いましたが、発表当時の展覧会では賛否がわかれ、不本意な結果になりました。時を経て、1969年に「明治浪漫主義」の代表作のひとつとして重要文化財に。

    アーティゾン美術館 美術館・博物館

  • 和田三造「南風」1907年 東京国立近代美術館<br />和田三造は兵庫県生まれ。白馬会洋画研究所、東京美術学校に学びます。1905年白馬会10周年記念展で白馬賞、07年第1回文展で本作品により最高賞の二等賞を受賞。09-15年文部省留学生として渡欧し、絵画および図案の研究を行います。帰国後さらに工芸図案や色彩の研究に努め、32年東京美術学校図案科教授となります。<br /> 和田は美術学校在学中の1902年に八丈島航路で嵐に遭い、三日間漂流の末、伊豆大島に漂着するという経験をしており、《南風》はこれを発想源として描かれました。それまでの洋画壇の主流を占めていた柔らかな外光描写に対して、本作品には、三角形を基本とした堅固な構図、ヒロイックに理想化された人体、強い光と影のコントラストなどの点に、浪漫主義的な傾向を認めることができます。わが国最初の官設展覧会である文展(文部省美術展覧会)の幕開けを飾る記念碑的な作品です。

    和田三造「南風」1907年 東京国立近代美術館
    和田三造は兵庫県生まれ。白馬会洋画研究所、東京美術学校に学びます。1905年白馬会10周年記念展で白馬賞、07年第1回文展で本作品により最高賞の二等賞を受賞。09-15年文部省留学生として渡欧し、絵画および図案の研究を行います。帰国後さらに工芸図案や色彩の研究に努め、32年東京美術学校図案科教授となります。
     和田は美術学校在学中の1902年に八丈島航路で嵐に遭い、三日間漂流の末、伊豆大島に漂着するという経験をしており、《南風》はこれを発想源として描かれました。それまでの洋画壇の主流を占めていた柔らかな外光描写に対して、本作品には、三角形を基本とした堅固な構図、ヒロイックに理想化された人体、強い光と影のコントラストなどの点に、浪漫主義的な傾向を認めることができます。わが国最初の官設展覧会である文展(文部省美術展覧会)の幕開けを飾る記念碑的な作品です。

  • 萬鉄五郎「裸体美人」1912年 東京国立近代美術館<br /> この作品は東京美術学校の卒業制作として描かれました。激しい色彩と造形とによる並外れた表現は当時、黒田清輝ら穏健な教官を当惑させました。萬は当時雑誌などで紹介されるようになったゴッホやマティスの感化を受けたと言っており、わが国ではじめてのフォーヴィスム(野獣派)的な作品と位置付けられます。しかし、単に新しい西洋思潮を取り込んだだけではなく、ここには土着性や諧謔味といった萬の独特な感性や内面性までもがはっきりと示されています。

    萬鉄五郎「裸体美人」1912年 東京国立近代美術館
     この作品は東京美術学校の卒業制作として描かれました。激しい色彩と造形とによる並外れた表現は当時、黒田清輝ら穏健な教官を当惑させました。萬は当時雑誌などで紹介されるようになったゴッホやマティスの感化を受けたと言っており、わが国ではじめてのフォーヴィスム(野獣派)的な作品と位置付けられます。しかし、単に新しい西洋思潮を取り込んだだけではなく、ここには土着性や諧謔味といった萬の独特な感性や内面性までもがはっきりと示されています。

  • 岸田劉生「道路と土手と塀(切通之写生)」1915年 東京国立近代美術館<br />この絵は、1915年ll月5日に10日問くらいかけて描きあげたもので、劉生はこれを「クラシツクの感化」すなわち西洋の古典的絵画の影響から脱しはじめ、再び「ぢかに自然の質量そのものにぶつかつてみたい要求が目覚め」て生まれた風景画の一つに挙げています。そして再びじかに自然にぶつかるといっても、もうこの時は前の時代と同じになることはできないといって、次のように述べています。「何故ならこの時はもうクラシツクの強い感化を一度通り、猶またそれに浴しつゝあるからだ。捕はれから段々と離れたが、得るべきものは得てゐた。切通しの写生はこの事を明かに語ると思ふ。その土や草は、どこ迄もしつかりと、ぢかに土そのものの美にふれてゐる。しかしどことなく、古典の感じを内容にも形式にも持つ。自分はこの画は、今日でも可なり好きである。一方その表現法がクラシツクの形式にまだ縛られてゐる処があるのを認めるけれど、あの道のはしの方の土の硬く強い感じと、そこからわり出して生へてゐる秋のくすんだ草の淋しい力とは或る処迄よく表現されてあると思ふ」。<br />劉生がその独自の写実様式を確立した作品で、彼の風景画の代表作です。

    岸田劉生「道路と土手と塀(切通之写生)」1915年 東京国立近代美術館
    この絵は、1915年ll月5日に10日問くらいかけて描きあげたもので、劉生はこれを「クラシツクの感化」すなわち西洋の古典的絵画の影響から脱しはじめ、再び「ぢかに自然の質量そのものにぶつかつてみたい要求が目覚め」て生まれた風景画の一つに挙げています。そして再びじかに自然にぶつかるといっても、もうこの時は前の時代と同じになることはできないといって、次のように述べています。「何故ならこの時はもうクラシツクの強い感化を一度通り、猶またそれに浴しつゝあるからだ。捕はれから段々と離れたが、得るべきものは得てゐた。切通しの写生はこの事を明かに語ると思ふ。その土や草は、どこ迄もしつかりと、ぢかに土そのものの美にふれてゐる。しかしどことなく、古典の感じを内容にも形式にも持つ。自分はこの画は、今日でも可なり好きである。一方その表現法がクラシツクの形式にまだ縛られてゐる処があるのを認めるけれど、あの道のはしの方の土の硬く強い感じと、そこからわり出して生へてゐる秋のくすんだ草の淋しい力とは或る処迄よく表現されてあると思ふ」。
    劉生がその独自の写実様式を確立した作品で、彼の風景画の代表作です。

  • 岸田劉生「麗子微笑」1921(大正10)年 東京国立博物館<br />岸田劉生は娘の麗子を数多く描いています。数え8歳の姿を描いた本作は最も有名な「麗子像」です。

    岸田劉生「麗子微笑」1921(大正10)年 東京国立博物館
    岸田劉生は娘の麗子を数多く描いています。数え8歳の姿を描いた本作は最も有名な「麗子像」です。

  • 中村彝「エロシェンコ氏の像」1920年 東京国立近代美術館<br />この作品のモデルとなっているのは盲目のロシア人青年エロシェンコです。彼は、魯迅の短編にも登場するエスペランティストの詩人で、日本には1914年から7年間ほど滞在して創作童話を書き、一時新宿中村屋に身を寄せていました。当時彝が強く傾倒していたルノワールの作風を思わせる柔らかい筆致が特徴的で、すべてが穏やかな光につつまれながらモデルの人間性を余すところなく伝えています。

    中村彝「エロシェンコ氏の像」1920年 東京国立近代美術館
    この作品のモデルとなっているのは盲目のロシア人青年エロシェンコです。彼は、魯迅の短編にも登場するエスペランティストの詩人で、日本には1914年から7年間ほど滞在して創作童話を書き、一時新宿中村屋に身を寄せていました。当時彝が強く傾倒していたルノワールの作風を思わせる柔らかい筆致が特徴的で、すべてが穏やかな光につつまれながらモデルの人間性を余すところなく伝えています。

  • 高村光雲「老猿」明治26年(1893) 東京国立博物館<br />右手上方をかっと見据え、左膝を立てて岩の上にすわる猿の像。左手には鷲の羽を握り締め、周辺には羽毛が飛び散っています。おそらくこの猿はつい今しがたまで鷲と格闘していたのでしょう。視線の先の空間は無限に広がり、雄大さを感じさせる。猿の一瞬の姿をとらえながら、時間の経過と空間の広がり、さらに過去に展開した動と現在の静を巧みに表しています。<br />作者の高村光雲は、幕末明治の動乱期を生きた近代の代表的な木彫家。彫刻家・詩人として著名な高村光太郎の父親としても知られます。この作品に取りかかろうとするころ、光雲は長女咲子を16歳で亡くしています。光雲の無念さははかり知れず、何も手につかないほど落胆したが、制作を通じて気力を取り戻していったといいます。この老猿の迫力は、娘を失った悲しみとそれを克服しようとする光雲の気迫が一刀一刀にこめられているためかもしれません。

    高村光雲「老猿」明治26年(1893) 東京国立博物館
    右手上方をかっと見据え、左膝を立てて岩の上にすわる猿の像。左手には鷲の羽を握り締め、周辺には羽毛が飛び散っています。おそらくこの猿はつい今しがたまで鷲と格闘していたのでしょう。視線の先の空間は無限に広がり、雄大さを感じさせる。猿の一瞬の姿をとらえながら、時間の経過と空間の広がり、さらに過去に展開した動と現在の静を巧みに表しています。
    作者の高村光雲は、幕末明治の動乱期を生きた近代の代表的な木彫家。彫刻家・詩人として著名な高村光太郎の父親としても知られます。この作品に取りかかろうとするころ、光雲は長女咲子を16歳で亡くしています。光雲の無念さははかり知れず、何も手につかないほど落胆したが、制作を通じて気力を取り戻していったといいます。この老猿の迫力は、娘を失った悲しみとそれを克服しようとする光雲の気迫が一刀一刀にこめられているためかもしれません。

    東京国立博物館 美術館・博物館

  • 新海竹太郎「ゆあみ」1907(明治40)年 東京国立近代美術館<br />ドイツで彫刻を学び、その技術と東洋的な主題との融合をもとめた新海竹太郎が、第1回文部省美術展覧会(文展)に出品した、日本における裸婦彫刻の先駆的作品。<br />天平風のまげを結い、薄布を手にした控えめなポーズをとる日本人をモデルとして、ヨーロッパ風の理想化された人体像を示しています。和洋美術の融合を見せつつ、清楚な姿には気品が漂っています。

    新海竹太郎「ゆあみ」1907(明治40)年 東京国立近代美術館
    ドイツで彫刻を学び、その技術と東洋的な主題との融合をもとめた新海竹太郎が、第1回文部省美術展覧会(文展)に出品した、日本における裸婦彫刻の先駆的作品。
    天平風のまげを結い、薄布を手にした控えめなポーズをとる日本人をモデルとして、ヨーロッパ風の理想化された人体像を示しています。和洋美術の融合を見せつつ、清楚な姿には気品が漂っています。

    東京国立近代美術館 美術館・博物館

  • 荻原守衛「北条虎吉像」1909(明治42)年 財団法人 碌山美術館

    荻原守衛「北条虎吉像」1909(明治42)年 財団法人 碌山美術館

    碌山美術館 美術館・博物館

  • 初代宮川香山「褐釉蟹貼付台付鉢」1881(明治14)年 東京国立博物館<br />中世の焼締陶器を彷彿させる他に類例が知られていない大胆な変化を作り出した大振りで力強い鉢の正面に、大小二匹の渡り蟹がほとんど実物大で、甲羅や手足の斑紋、形態などきわめて忠実で写実的に表現されて貼り付けられています。全体に施された褐釉も見事に掛かり、藁灰釉も流れて変化ある釉景色を作り出しています。<br /> 本作品は、宮川香山の代表作の一つであるとともに、明治時代前半期において製作時期が知られ、博覧会出品歴が東京国立博物館蔵『第二回内国勧業博覧会写真帖』所載の写真資料により確実に判明する唯一の作品として貴重です。

    初代宮川香山「褐釉蟹貼付台付鉢」1881(明治14)年 東京国立博物館
    中世の焼締陶器を彷彿させる他に類例が知られていない大胆な変化を作り出した大振りで力強い鉢の正面に、大小二匹の渡り蟹がほとんど実物大で、甲羅や手足の斑紋、形態などきわめて忠実で写実的に表現されて貼り付けられています。全体に施された褐釉も見事に掛かり、藁灰釉も流れて変化ある釉景色を作り出しています。
     本作品は、宮川香山の代表作の一つであるとともに、明治時代前半期において製作時期が知られ、博覧会出品歴が東京国立博物館蔵『第二回内国勧業博覧会写真帖』所載の写真資料により確実に判明する唯一の作品として貴重です。

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  • 初代宮川香山「黄釉銹絵梅樹図大瓶」1892(明治25)年 東京国立博物館<br />梅の木を水墨画のようにモノトーンであらわした大きな花瓶です。下の部分は柔らかに膨らみ、上の部分はキュッとすぼまって端正な形をしています。その作り方は、まず釉薬というガラスを多く含んだ液をかけ、白い花瓶を焼き上げます。次に、梅の幹や花の細かい部分を、鉄分を多く含む絵の具で描き、その前後に黄色に発色する釉薬を梅の木の外側にかけ、再び焼いて仕上げているようです。梅の花やつぼみは、確かな筆致によって実に可憐にあらわされ、枝にはしなやかさを感じさせます。また、黄色い地のなかで咲く白い梅の花は鮮やかです。作者の初代宮川香山は、江戸時代の終わりに京都に生まれ、明治時代になると横浜で海外に向けて陶磁器を盛んに作りました。この作品は、明治26年(1893年)にアメリカで開催された、シカゴ・コロンブス世界博覧会に出品されたもので、その端正な形や高度な釉薬の技法は、当時欧米で流行していた中国のやきものの影響を強く受けています。香山の巧みな技術によって生み出されたこの格調高い花瓶は、世界の人々を魅了したのです。

    初代宮川香山「黄釉銹絵梅樹図大瓶」1892(明治25)年 東京国立博物館
    梅の木を水墨画のようにモノトーンであらわした大きな花瓶です。下の部分は柔らかに膨らみ、上の部分はキュッとすぼまって端正な形をしています。その作り方は、まず釉薬というガラスを多く含んだ液をかけ、白い花瓶を焼き上げます。次に、梅の幹や花の細かい部分を、鉄分を多く含む絵の具で描き、その前後に黄色に発色する釉薬を梅の木の外側にかけ、再び焼いて仕上げているようです。梅の花やつぼみは、確かな筆致によって実に可憐にあらわされ、枝にはしなやかさを感じさせます。また、黄色い地のなかで咲く白い梅の花は鮮やかです。作者の初代宮川香山は、江戸時代の終わりに京都に生まれ、明治時代になると横浜で海外に向けて陶磁器を盛んに作りました。この作品は、明治26年(1893年)にアメリカで開催された、シカゴ・コロンブス世界博覧会に出品されたもので、その端正な形や高度な釉薬の技法は、当時欧米で流行していた中国のやきものの影響を強く受けています。香山の巧みな技術によって生み出されたこの格調高い花瓶は、世界の人々を魅了したのです。

  • 三代清風与平「白磁蝶牡丹浮文大瓶」1892(明治25)年 東京国立博物館<br />胴が長く、丸く張った肩が底に向かってすぼまった瓶(へい)です。白い土で瓶のかたちをつくり、上から釉薬というガラスを多く含んだ液をかけ焼き上げています。全体の色は、柔らかさを感じさせる白一色で洗練された印象を与えます。胴には六輪の牡丹がぐるりと囲むように配置され、肩の部分は大きな余白に五頭の蝶が飛んでいます。これらの文様は、胴の土を盛り上げたり彫り込んだりしながら浮き出すようにあらわし、葉脈などの細かい部分は線で彫り出しています。作者の三代清風与平は、幕末から明治時代の人で、京都の陶工の清風家に養子に入り、明治11年(1878年)には三代目の名を継ぎました。与平は中国の陶磁器に大きな影響を受け、その表現にならいつつ多くの新しい技法を生み出して独自の表現をみせるようになりました。この瓶も、中国・清時代の磁器を参考にしたとみられますが、柔らかみのある白い色調と優しく浮き上がる文様は与平独自の表現で余韻を感じさせます。明治26年(1893年)にアメリカで開催され、世界各国の物産が集まったシカゴ・コロンブス博覧会に出品され、特に好評を博しました。

    三代清風与平「白磁蝶牡丹浮文大瓶」1892(明治25)年 東京国立博物館
    胴が長く、丸く張った肩が底に向かってすぼまった瓶(へい)です。白い土で瓶のかたちをつくり、上から釉薬というガラスを多く含んだ液をかけ焼き上げています。全体の色は、柔らかさを感じさせる白一色で洗練された印象を与えます。胴には六輪の牡丹がぐるりと囲むように配置され、肩の部分は大きな余白に五頭の蝶が飛んでいます。これらの文様は、胴の土を盛り上げたり彫り込んだりしながら浮き出すようにあらわし、葉脈などの細かい部分は線で彫り出しています。作者の三代清風与平は、幕末から明治時代の人で、京都の陶工の清風家に養子に入り、明治11年(1878年)には三代目の名を継ぎました。与平は中国の陶磁器に大きな影響を受け、その表現にならいつつ多くの新しい技法を生み出して独自の表現をみせるようになりました。この瓶も、中国・清時代の磁器を参考にしたとみられますが、柔らかみのある白い色調と優しく浮き上がる文様は与平独自の表現で余韻を感じさせます。明治26年(1893年)にアメリカで開催され、世界各国の物産が集まったシカゴ・コロンブス博覧会に出品され、特に好評を博しました。

  • 鈴木長吉「鷲置物」1892(明治25)年 東京国立博物館<br />獲物を狙う岩上の鷲を写実的にあらわした青銅製の置物です

    鈴木長吉「鷲置物」1892(明治25)年 東京国立博物館
    獲物を狙う岩上の鷲を写実的にあらわした青銅製の置物です

    東京国立博物館 美術館・博物館

  • 鈴木長吉「十二の鷹」1893(明治26)年 東京国立博物館

    鈴木長吉「十二の鷹」1893(明治26)年 東京国立博物館

  • 鈴木長吉「十二の鷹」<br />鈴木長吉はこの作品のために実際に鷹を飼って写生を繰り返し、制作に3年の歳月を費やしました。<br />

    鈴木長吉「十二の鷹」
    鈴木長吉はこの作品のために実際に鷹を飼って写生を繰り返し、制作に3年の歳月を費やしました。

  • 鈴木長吉「十二の鷹」<br />江戸時代に発達した高度な金工技術を駆使し、様々な姿の鷹をいきいきと見事に表現しています。

    鈴木長吉「十二の鷹」
    江戸時代に発達した高度な金工技術を駆使し、様々な姿の鷹をいきいきと見事に表現しています。

  • 鈴木長吉「十二の鷹」<br />この作品は、1893(明治26)年に開催されたシカゴ万国博覧会に出品するために制作されました。

    鈴木長吉「十二の鷹」
    この作品は、1893(明治26)年に開催されたシカゴ万国博覧会に出品するために制作されました。

  • 板谷波山「葆光彩磁珍菓文花瓶」1917(大正6)年 泉屋博古館東京<br />胴が張った形の器に、吉祥画題の桃が描かれています。いかにも中国的なデザインに見えますが、精緻な網目が写実的なかごは西洋の静物画を彷彿とさせ、東西様式の見事な融合に感服します。柔らかな淡い光が、薄絹のベールのごとく全体を包み込んでいるように感じられ、印象深い。

    板谷波山「葆光彩磁珍菓文花瓶」1917(大正6)年 泉屋博古館東京
    胴が張った形の器に、吉祥画題の桃が描かれています。いかにも中国的なデザインに見えますが、精緻な網目が写実的なかごは西洋の静物画を彷彿とさせ、東西様式の見事な融合に感服します。柔らかな淡い光が、薄絹のベールのごとく全体を包み込んでいるように感じられ、印象深い。

  • 青木繁 「海の幸」1904年 石橋財団アーティゾン美術館<br />1904(明治37)年7月半ば、東京美術学校西洋画科を卒業したばかりの22歳の青木は、友人の画家坂本繁二郎、森田恒友、福田たねと、千葉県館山の布良海岸へ写生旅行に出かけました。この太平洋の黒潮に向きあう漁村に約1カ月半滞在し、その間に制作された代表作がこの《海の幸》です。後年、坂本は、自分が目にした大漁陸揚げの様子を宿に帰って青木に話したところ、翌日からこの作品の制作に取り掛かった、と証言しています。坂本は実際の漁港の情景とはまったく異なるものだと語っていますが、目撃談だけからこうしたイメージを思い浮かべてしまうところに、青木の想像力と創造力のきらめきがよく表れています。

    青木繁 「海の幸」1904年 石橋財団アーティゾン美術館
    1904(明治37)年7月半ば、東京美術学校西洋画科を卒業したばかりの22歳の青木は、友人の画家坂本繁二郎、森田恒友、福田たねと、千葉県館山の布良海岸へ写生旅行に出かけました。この太平洋の黒潮に向きあう漁村に約1カ月半滞在し、その間に制作された代表作がこの《海の幸》です。後年、坂本は、自分が目にした大漁陸揚げの様子を宿に帰って青木に話したところ、翌日からこの作品の制作に取り掛かった、と証言しています。坂本は実際の漁港の情景とはまったく異なるものだと語っていますが、目撃談だけからこうしたイメージを思い浮かべてしまうところに、青木の想像力と創造力のきらめきがよく表れています。

  • 藤島武二「黒扇」 1908-09年 石橋財団アーティゾン美術館<br />まっすぐにこちらに向けるもの言いたげな眼差し、鼻梁や頰のハイライトがモデルの美貌を引き立たせ、青を効果的に用いた陰翳が、画面に生き生きとした輝きと深みをもたらしています。白いベールや黒い扇は、ためらいのない力強い筆づかいで大づかみに描かれています。繊細な色彩の取り合わせと大胆な筆の動きの絶妙な組み合わせが、見る者の心をとらえます。モデルが身につけるベールや扇は、19世紀ヨーロッパで様々に浸透していたスペイン趣味を思い起こさせます。エドゥアール・マネの作品などを通じてパリで体感した時代の嗜好を、ローマでも追体験しているかのようです。終生、身近において決して手放そうとしなかったこの作品を、藤島はおそらく亡くなる前年に、信頼するコレクター石橋正二郎に託しました。

    藤島武二「黒扇」 1908-09年 石橋財団アーティゾン美術館
    まっすぐにこちらに向けるもの言いたげな眼差し、鼻梁や頰のハイライトがモデルの美貌を引き立たせ、青を効果的に用いた陰翳が、画面に生き生きとした輝きと深みをもたらしています。白いベールや黒い扇は、ためらいのない力強い筆づかいで大づかみに描かれています。繊細な色彩の取り合わせと大胆な筆の動きの絶妙な組み合わせが、見る者の心をとらえます。モデルが身につけるベールや扇は、19世紀ヨーロッパで様々に浸透していたスペイン趣味を思い起こさせます。エドゥアール・マネの作品などを通じてパリで体感した時代の嗜好を、ローマでも追体験しているかのようです。終生、身近において決して手放そうとしなかったこの作品を、藤島はおそらく亡くなる前年に、信頼するコレクター石橋正二郎に託しました。

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