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「北海道開拓の村」の見学もラストスパートです。園内マップを見ると「鉄道馬車」のメインストリートに面した6店舗ほどで終わります。この時に少し離れた位置にある弟が入りたかった「札幌農学校木鋪社(恵迪寮)」を見逃したのが重ね重ね残念でした。「広瀬写真館」から「旧近藤医院」「旧三枡河本そば屋」「旧来正旅館」などは「ゴールデンカムイ」にも出て来る建物でもあります。「旧山本理髪店」で出会った女性について気になっていたのですが、その理由は「旧来正旅館」にいらしたスタッフの方からゴールデンカムイの聖地であることをお聞きして納得がいきました。「今日も13人くらいの若い人からいろいろ尋ねられました。」とおっしゃっていました。作者の野田サトルの親戚の方が札幌近郊に住んでいらして、この開拓の村の写真を撮ったものが資料になっているとのことでした。「ご本人はいらしてないんですよ。」とちょっと残念そうでした。「旧開拓使札幌本庁舎」で見学も終わり、新札幌駅へ向かうバスの時間も迫ってました。売店にあった「アイヌ文化で読み解くゴールデンカムイ」を購入して開拓の村のスタンプを押しました。すぐにやってきたバスに乗り込みますが、途中に「北海道博物館」の前を通過しました。往路のタクシーでは通りませんでしたが、昭和50年に母が京都の祖父母と伯母と一緒に来た場所なので感慨深く外観を眺めました。そして「野幌森林公園百年記念塔」も近くに望める場所も通過しました。何気なく眺めていた母のアルバムでしたが、この1年でそのほとんどを訪ねることが出来ました。45年前に10日もかけてよく北海道を車で周ったと思います。見学を切り上げて予定より早い時間に新札幌駅に着いたので、大通の1つ先の西11丁目駅まで移動しました。表に出ると少し小雨が降っていましたが、「札幌市資料館」の前に広がるサンクガーデンのバラが満開だったからです。しばらくバラを眺めて、懐かしいミュンヘンのマイバウムも見ることが出来ました。雨のためにタクシーが捕まらず、結局ホテルまで歩いてしまいました。しばらくホテルで休み、札幌最後の晩御飯はススキノでジンギスカンをいただくことにしました。何しろ開拓の村で食べられなかったですから。予約していった「山小屋」では生肉とエゾシカの肉もいただけました。最後にススキノのニッカウヰスキーのネオンを眺めてタクシーに乗りました。明日から小樽に移りますが、その前に余市へ行ってニッカウヰスキー余市工場の見学が待っています。

グランドホテル札幌とアンワインド ホテル&バー 小樽に8泊9日北海道の旅(11)開拓村でゴールデンカムイを知り、札幌市資料館のバラを愛でる。

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2022/06/23 - 2022/06/23

2829位(同エリア7884件中)

旅行記グループ 2022札幌・小樽の旅

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kojikoji

kojikojiさん

「北海道開拓の村」の見学もラストスパートです。園内マップを見ると「鉄道馬車」のメインストリートに面した6店舗ほどで終わります。この時に少し離れた位置にある弟が入りたかった「札幌農学校木鋪社(恵迪寮)」を見逃したのが重ね重ね残念でした。「広瀬写真館」から「旧近藤医院」「旧三枡河本そば屋」「旧来正旅館」などは「ゴールデンカムイ」にも出て来る建物でもあります。「旧山本理髪店」で出会った女性について気になっていたのですが、その理由は「旧来正旅館」にいらしたスタッフの方からゴールデンカムイの聖地であることをお聞きして納得がいきました。「今日も13人くらいの若い人からいろいろ尋ねられました。」とおっしゃっていました。作者の野田サトルの親戚の方が札幌近郊に住んでいらして、この開拓の村の写真を撮ったものが資料になっているとのことでした。「ご本人はいらしてないんですよ。」とちょっと残念そうでした。「旧開拓使札幌本庁舎」で見学も終わり、新札幌駅へ向かうバスの時間も迫ってました。売店にあった「アイヌ文化で読み解くゴールデンカムイ」を購入して開拓の村のスタンプを押しました。すぐにやってきたバスに乗り込みますが、途中に「北海道博物館」の前を通過しました。往路のタクシーでは通りませんでしたが、昭和50年に母が京都の祖父母と伯母と一緒に来た場所なので感慨深く外観を眺めました。そして「野幌森林公園百年記念塔」も近くに望める場所も通過しました。何気なく眺めていた母のアルバムでしたが、この1年でそのほとんどを訪ねることが出来ました。45年前に10日もかけてよく北海道を車で周ったと思います。見学を切り上げて予定より早い時間に新札幌駅に着いたので、大通の1つ先の西11丁目駅まで移動しました。表に出ると少し小雨が降っていましたが、「札幌市資料館」の前に広がるサンクガーデンのバラが満開だったからです。しばらくバラを眺めて、懐かしいミュンヘンのマイバウムも見ることが出来ました。雨のためにタクシーが捕まらず、結局ホテルまで歩いてしまいました。しばらくホテルで休み、札幌最後の晩御飯はススキノでジンギスカンをいただくことにしました。何しろ開拓の村で食べられなかったですから。予約していった「山小屋」では生肉とエゾシカの肉もいただけました。最後にススキノのニッカウヰスキーのネオンを眺めてタクシーに乗りました。明日から小樽に移りますが、その前に余市へ行ってニッカウヰスキー余市工場の見学が待っています。

旅行の満足度
4.5
観光
5.0
ホテル
5.0
グルメ
5.0
ショッピング
4.0
交通
4.5
同行者
カップル・夫婦(シニア)
一人あたり費用
10万円 - 15万円
交通手段
高速・路線バス 観光バス タクシー ANAグループ JRローカル 徒歩
旅行の手配内容
個別手配

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  • 「旧広瀬写真館」<br />この建物は大正末期から昭和33年の1958年まで岩見沢市街で営業した写真館を再現しました。外観は洋風ですが、内部の多くは和風で和洋折衷の建物になっています。撮影には自然光を用いたために写場は2階に設け、北側の屋根をシングルスラントと呼ばれた斜めのガラス張りとしています。<br />

    「旧広瀬写真館」
    この建物は大正末期から昭和33年の1958年まで岩見沢市街で営業した写真館を再現しました。外観は洋風ですが、内部の多くは和風で和洋折衷の建物になっています。撮影には自然光を用いたために写場は2階に設け、北側の屋根をシングルスラントと呼ばれた斜めのガラス張りとしています。

    北海道開拓の村 美術館・博物館

    愛知県犬山市の「明治村」に匹敵するような施設なのに訪れる人が少ないのが残念。 by kojikojiさん
  • 写真館の創設者である広瀬和左衛門は石川県出身の大工でしたが、明治25年に岩見沢に移住して旅館業を営みます。明治31年には以前から興味を持っていた写真館を開業します。その後、写真館は広瀬元吉に任されることとなりました。<br /><br /> 

    写真館の創設者である広瀬和左衛門は石川県出身の大工でしたが、明治25年に岩見沢に移住して旅館業を営みます。明治31年には以前から興味を持っていた写真館を開業します。その後、写真館は広瀬元吉に任されることとなりました。

     

  • 開拓の村に設置された建物は大正13年に新築された写真館の再現です。外観は洋風の意匠を多く取り入れていますが、内部は和風の間取りが主体であることはこの時代の特徴です。特徴的なのは自然光を取り入れるために北側屋根をがガラス張りとしていることです。

    開拓の村に設置された建物は大正13年に新築された写真館の再現です。外観は洋風の意匠を多く取り入れていますが、内部は和風の間取りが主体であることはこの時代の特徴です。特徴的なのは自然光を取り入れるために北側屋根をがガラス張りとしていることです。

  • 同じような写真館は明治村に「高田小熊写真館」が残されています。このスタジオはNHKで放送された司馬遼太郎の「坂の上の雲」の第2回「星雲」で、大学予備門で野球に熱中した正岡子規(香川照之)がユニフォーム姿で写真を撮るシーンで使われています。

    同じような写真館は明治村に「高田小熊写真館」が残されています。このスタジオはNHKで放送された司馬遼太郎の「坂の上の雲」の第2回「星雲」で、大学予備門で野球に熱中した正岡子規(香川照之)がユニフォーム姿で写真を撮るシーンで使われています。

  • 写真館の正面から内部の見学に移ります。窓の三角ペディメントが印象に残る外観です。

    写真館の正面から内部の見学に移ります。窓の三角ペディメントが印象に残る外観です。

  • 外観は洋風ですが、1階の部屋は全て畳敷きです。

    外観は洋風ですが、1階の部屋は全て畳敷きです。

  • 2間続きの和室に至っては純和風の設えです。

    2間続きの和室に至っては純和風の設えです。

  • 昔はこうやって鴨居にフックを掛けて洋服を掛けたものです。ハンガーではなく衣紋掛け(えもんかけ)が懐かしいです。

    昔はこうやって鴨居にフックを掛けて洋服を掛けたものです。ハンガーではなく衣紋掛け(えもんかけ)が懐かしいです。

  • 1階の奥には染付の陶器製の便器がありました。昔の汲み取り式のトイレが懐かしいです。子供の頃に読んだ妖怪の本に「加牟波理入道(がんばり入道)」という妖怪がいて、大晦日に「がんばり入道郭公(がんばりにゅうどうほととぎす)」と唱えると、この妖怪が現れないと書かれていました。それが習慣になってしまい現在に至っています。

    1階の奥には染付の陶器製の便器がありました。昔の汲み取り式のトイレが懐かしいです。子供の頃に読んだ妖怪の本に「加牟波理入道(がんばり入道)」という妖怪がいて、大晦日に「がんばり入道郭公(がんばりにゅうどうほととぎす)」と唱えると、この妖怪が現れないと書かれていました。それが習慣になってしまい現在に至っています。

  • 2階に上がると大きなスタジオが目に入ってきます。背景と椅子がセットされ、いつでも撮影できるような印象を受けます。

    2階に上がると大きなスタジオが目に入ってきます。背景と椅子がセットされ、いつでも撮影できるような印象を受けます。

  • 北側の面がガラス張りになっているのは太陽光線が直接入らないからで、画家のアトリエなどでも同じ構造になっています。照度を調整するカーテンは横引きになっています。明治村の写真館は明治41年に越後高田に建てられたものでしたが、全く同じ構造が日本中にあったのだと感じました。

    北側の面がガラス張りになっているのは太陽光線が直接入らないからで、画家のアトリエなどでも同じ構造になっています。照度を調整するカーテンは横引きになっています。明治村の写真館は明治41年に越後高田に建てられたものでしたが、全く同じ構造が日本中にあったのだと感じました。

  • ガラス乾板のカメラが時代を感じさせます。中を覗いてみると逆さまになった背景と椅子がきれいに写っていました。カメラはダルマ型三脚台座式のアンソニーカメラです。

    ガラス乾板のカメラが時代を感じさせます。中を覗いてみると逆さまになった背景と椅子がきれいに写っていました。カメラはダルマ型三脚台座式のアンソニーカメラです。

  • 背景には「旧札幌停車場」と「馬車鉄道」が描かれています。ここで貸衣装と写真撮影を行えばよいのにと思いましたが、平日の入場者数では難しいですね。

    背景には「旧札幌停車場」と「馬車鉄道」が描かれています。ここで貸衣装と写真撮影を行えばよいのにと思いましたが、平日の入場者数では難しいですね。

  • 明治時代にもこんな風に美しい草花が咲いていたのでしょうか。

    明治時代にもこんな風に美しい草花が咲いていたのでしょうか。

  • 「旧近藤医院」<br />この建物は明治33年の1900年に函館病院から古平病院長として招かれ、同35年に古平町で開業した近藤清吉が建てた病院で、昭和33年の1958年まで使われました。石造2階建の倉は明治後期に建てられた文庫倉で、清吉の書庫及び研究室として使われました。

    「旧近藤医院」
    この建物は明治33年の1900年に函館病院から古平病院長として招かれ、同35年に古平町で開業した近藤清吉が建てた病院で、昭和33年の1958年まで使われました。石造2階建の倉は明治後期に建てられた文庫倉で、清吉の書庫及び研究室として使われました。

  • 古平大火で元の病院が焼けてしまい、大正8年の1919年に新しく建てたのが、この建物です。1階には診察室と手術室、薬局と茶の間などがあり、2階が居室になっていました。洋風建築が多数建っていた小樽の建築を参考に、さらに豊富な建築の文献を基に自らが設計した医療棟です。<br /><br /> 

    古平大火で元の病院が焼けてしまい、大正8年の1919年に新しく建てたのが、この建物です。1階には診察室と手術室、薬局と茶の間などがあり、2階が居室になっていました。洋風建築が多数建っていた小樽の建築を参考に、さらに豊富な建築の文献を基に自らが設計した医療棟です。

     

  • 玄関先のポーチにその上のバルコニー、下見板張りの外壁に上げ下げ窓など当時の洋風木造建築の特徴がみられ、地方の医院としては斬新なものだったと思います。

    玄関先のポーチにその上のバルコニー、下見板張りの外壁に上げ下げ窓など当時の洋風木造建築の特徴がみられ、地方の医院としては斬新なものだったと思います。

  • 子供の頃は近所にこんな門柱の家はいくらでもあったような気がします。

    子供の頃は近所にこんな門柱の家はいくらでもあったような気がします。

  • 医院の受付もこんな感じでした。建物の中に入ってグルタラールは消毒剤の揮発したアルデヒドガスの臭いがしないのがかえって違和感を感じました。あの大嫌いな匂いが無いと寂しい気もします。

    医院の受付もこんな感じでした。建物の中に入ってグルタラールは消毒剤の揮発したアルデヒドガスの臭いがしないのがかえって違和感を感じました。あの大嫌いな匂いが無いと寂しい気もします。

  • 玄関を挟んで受付の反対側は診察室があります。ここでは大正10年の1921年頃の様子を再現しています。

    玄関を挟んで受付の反対側は診察室があります。ここでは大正10年の1921年頃の様子を再現しています。

  • 受付の奥には和室8畳の待合い室があります。襖には北海道の風景が描かれているようです。

    受付の奥には和室8畳の待合い室があります。襖には北海道の風景が描かれているようです。

  • 診察室の奥には手術室があります。小学校の頃の保健室にあったような琺瑯製の手洗いが懐かしいです。

    診察室の奥には手術室があります。小学校の頃の保健室にあったような琺瑯製の手洗いが懐かしいです。

  • この手術台は「ゴールデンカムイ」にも出て来るので、立ち入り禁止にもかかわらず中に入って手術台に横になって写真を撮る人が多いそうです。シーツに寝た後が残っているので分かるそうです。

    この手術台は「ゴールデンカムイ」にも出て来るので、立ち入り禁止にもかかわらず中に入って手術台に横になって写真を撮る人が多いそうです。シーツに寝た後が残っているので分かるそうです。

  • 廊下にはこのようなグリルがいくつもありました。オンドルになっているのかと思いましたが、説明もなく、人もいないので聞くことも出来ません。後でスタッフの方に尋ねてみるとただの通気口だったそうです。

    廊下にはこのようなグリルがいくつもありました。オンドルになっているのかと思いましたが、説明もなく、人もいないので聞くことも出来ません。後でスタッフの方に尋ねてみるとただの通気口だったそうです。

  • 何となく懐かしさを感じるトイレです。子供の頃の家はこのような汲み取りタイプで、同じように上下に窓がありました。そしてプラスチックの蓋もありました。

    何となく懐かしさを感じるトイレです。子供の頃の家はこのような汲み取りタイプで、同じように上下に窓がありました。そしてプラスチックの蓋もありました。

  • 手洗いの吊り下げ式手洗いタンクも懐かしいです。これも子供の頃に京都の祖父母の家に行くとありました。

    手洗いの吊り下げ式手洗いタンクも懐かしいです。これも子供の頃に京都の祖父母の家に行くとありました。

  • 外観の写真はありませんが。渡り廊下でつながった石造2階建ての蔵が併設されています。これは明治後期に建てられた文庫蔵で、清吉の書庫及び研究室として使われていたものです。清吉は読書家で、医学の本だけでなく、歴史、自然、芸術、語学、文学、建築などいろいろな本を読んでいました。 医療棟に隣接する文庫蔵は私設図書館とも呼ばれるほど、多くの蔵書が収蔵されていました。

    外観の写真はありませんが。渡り廊下でつながった石造2階建ての蔵が併設されています。これは明治後期に建てられた文庫蔵で、清吉の書庫及び研究室として使われていたものです。清吉は読書家で、医学の本だけでなく、歴史、自然、芸術、語学、文学、建築などいろいろな本を読んでいました。 医療棟に隣接する文庫蔵は私設図書館とも呼ばれるほど、多くの蔵書が収蔵されていました。

  • 近藤清吉は明治4年の1871年に函館に生まれ、函館病院付属医学講習所と東京医学専門学校で学び、その後に函館病院の医師になります。古平町で開業の後の明治10年には古平・美国・積丹三郡医師会長に就任します。

    近藤清吉は明治4年の1871年に函館に生まれ、函館病院付属医学講習所と東京医学専門学校で学び、その後に函館病院の医師になります。古平町で開業の後の明治10年には古平・美国・積丹三郡医師会長に就任します。

  • 蔵に掛けられた古い絵が積丹半島の国道5号線の笠岩トンネルと桃内トンネルの間の海岸見えた「桃岩」だとすぐに気が付きました。3日前に見たばかりなのですぐに分かりました。

    蔵に掛けられた古い絵が積丹半島の国道5号線の笠岩トンネルと桃内トンネルの間の海岸見えた「桃岩」だとすぐに気が付きました。3日前に見たばかりなのですぐに分かりました。

  • 「旧武井商店酒造部」<br />この建物は茅沼で石炭荷役や回船業を営んでいた武井家が明治19年の1886年頃に建てたものです。酒造業は9年後の明治28年の1895年頃から始められ、永く親しまれた清酒「松の露」や「玉の川」の製造は、戦時下の統制で酒造中止命令が出された昭和19年の1944年まで続けられました。

    「旧武井商店酒造部」
    この建物は茅沼で石炭荷役や回船業を営んでいた武井家が明治19年の1886年頃に建てたものです。酒造業は9年後の明治28年の1895年頃から始められ、永く親しまれた清酒「松の露」や「玉の川」の製造は、戦時下の統制で酒造中止命令が出された昭和19年の1944年まで続けられました。

  • 武井家本家は代々武井忠兵衛の名を継ぎ、いくつもの鰊漁場を青森県や樺太(サハリン)に経営すると共に、石炭荷役や回船業、酒造業やリゾート業も営んでいました。この建物は2代目忠兵衛の姉婿である松兵衛が明治19年の1886年頃に泊村茅沼に建てた店舗兼住宅で、酒造業を経営主体としていたといいます。当時の茅沼では石炭が発見され、海では鰊がとれて町は賑わっていました。

    武井家本家は代々武井忠兵衛の名を継ぎ、いくつもの鰊漁場を青森県や樺太(サハリン)に経営すると共に、石炭荷役や回船業、酒造業やリゾート業も営んでいました。この建物は2代目忠兵衛の姉婿である松兵衛が明治19年の1886年頃に泊村茅沼に建てた店舗兼住宅で、酒造業を経営主体としていたといいます。当時の茅沼では石炭が発見され、海では鰊がとれて町は賑わっていました。

  • 主家は木造2階建ての寄棟屋根で、外壁は下見板張りに上げ下げ窓、軒裏を隠す軒天井が取り入れられるなどの洋風意匠の要素が見られる一方で、建物内部は典型的な和風建築になっています。

    主家は木造2階建ての寄棟屋根で、外壁は下見板張りに上げ下げ窓、軒裏を隠す軒天井が取り入れられるなどの洋風意匠の要素が見られる一方で、建物内部は典型的な和風建築になっています。

  • 軒裏を隠す軒天井の意匠は北海道でも日本海側の海岸近くに見られる建築様式で、太平洋側には見られないそうです。

    軒裏を隠す軒天井の意匠は北海道でも日本海側の海岸近くに見られる建築様式で、太平洋側には見られないそうです。

  • 酒造業は明治28年の1895年頃から始められ、永く親しまれた清酒「松の露」や「玉の川」を製造していました。戦時下の統制で酒造中止命令が出された昭和19年の1944年まで続けられていましたが、その後、雑貨と呉服も扱うようになったそうです。 

    酒造業は明治28年の1895年頃から始められ、永く親しまれた清酒「松の露」や「玉の川」を製造していました。戦時下の統制で酒造中止命令が出された昭和19年の1944年まで続けられていましたが、その後、雑貨と呉服も扱うようになったそうです。 

  • 社会科見学の小学生の団体20人くらいが駆け込んできたので、まずは建物に併設された酒蔵から見学を始めます。お米から仕込みまでの作業工程が順序だって説明してあります。

    社会科見学の小学生の団体20人くらいが駆け込んできたので、まずは建物に併設された酒蔵から見学を始めます。お米から仕込みまでの作業工程が順序だって説明してあります。

  • 「洗米」<br />洗米は白米の表面についている糠を取り除く作業で、半切桶に米と水を入れ、両手で洗う「手洗い」と素足を使って洗う「足洗」があります。「足洗」は踏み桶に白米一斗を入れ、「ごんぶり」で水を同量注ぎ、手で十分にかき回した後に2人一組で桶に入り、足の甲で米をかき混ぜるようにして米を研ぎます。研ぎ終わると水を流し、「とぎ米あげ笊」にあけ、掛け水をして「漬け桶」に入れ、約15時間から18時間ほど水に浸し、蒸すのを待ちます。

    「洗米」
    洗米は白米の表面についている糠を取り除く作業で、半切桶に米と水を入れ、両手で洗う「手洗い」と素足を使って洗う「足洗」があります。「足洗」は踏み桶に白米一斗を入れ、「ごんぶり」で水を同量注ぎ、手で十分にかき回した後に2人一組で桶に入り、足の甲で米をかき混ぜるようにして米を研ぎます。研ぎ終わると水を流し、「とぎ米あげ笊」にあけ、掛け水をして「漬け桶」に入れ、約15時間から18時間ほど水に浸し、蒸すのを待ちます。

  • 「蒸米」<br />漬け桶から「米かすり」「掻桶」で米を出し、笊で水を切り、「箕(み)」で「甑(こしき)」の中に入れて蒸す作業で、途中に少量の蒸し米を取り、捻り餅を作って蒸れ具合を見ます。杜氏が蒸れ具合を確認すると蒸し取り作業が始まりま「ふかし掘りぶんじ」で蒸し米を掘り起こし、「ふかしかすり」で取り出して、「蒸しため」に入れて、肩で担いで運び、酒蔵の土間に敷いたムシロの上に置いてヘラで薄く広げて冷まします。

    「蒸米」
    漬け桶から「米かすり」「掻桶」で米を出し、笊で水を切り、「箕(み)」で「甑(こしき)」の中に入れて蒸す作業で、途中に少量の蒸し米を取り、捻り餅を作って蒸れ具合を見ます。杜氏が蒸れ具合を確認すると蒸し取り作業が始まりま「ふかし掘りぶんじ」で蒸し米を掘り起こし、「ふかしかすり」で取り出して、「蒸しため」に入れて、肩で担いで運び、酒蔵の土間に敷いたムシロの上に置いてヘラで薄く広げて冷まします。

  • 「ふかしかすり」や「米かすり」など作業の内容によって持ち手が違い、微妙なカーブを描いた口辺に用の美の美しさを感じます。

    「ふかしかすり」や「米かすり」など作業の内容によって持ち手が違い、微妙なカーブを描いた口辺に用の美の美しさを感じます。

  • 「おり取下駄」という物は初めて見ましたが、面白いものが並んでいます。<br />

    「おり取下駄」という物は初めて見ましたが、面白いものが並んでいます。

  • 「麹仕込み」<br />米に麹菌を生やして酵素を作らせる工程です。麴用の蒸し米を35℃前後に冷まして麹製造室の床に運び、温湿度を均一にします。次いで種麹を「麹たね篩」で散布し、蒸し米を手で揉みほぐして攪拌し、麹菌胞子をむらなく附着させます。胞子が発芽した約15時間後に蒸し米の塊をほぐし、その4時間後に「盛桶」で一升入りの「麹蓋」に入れて、室の棚に積み上げて上下を交換しながら2昼夜で麹を作ります。

    「麹仕込み」
    米に麹菌を生やして酵素を作らせる工程です。麴用の蒸し米を35℃前後に冷まして麹製造室の床に運び、温湿度を均一にします。次いで種麹を「麹たね篩」で散布し、蒸し米を手で揉みほぐして攪拌し、麹菌胞子をむらなく附着させます。胞子が発芽した約15時間後に蒸し米の塊をほぐし、その4時間後に「盛桶」で一升入りの「麹蓋」に入れて、室の棚に積み上げて上下を交換しながら2昼夜で麹を作ります。

  • 「酛(もと)仕込み」<br />酛(もと)は麹と蒸し米と仕込み水を混ぜて合わせた中に、酵母を純粋培養したもので、酒を造る母体になるものです。酛造りには2つの系統があり、1つは麹、蒸し米、仕込み水と空気中の微生物を利用して清酒酵母を純粋培養していく生酛系統で、生酛と山廃酛があります。もう1つは仕込み時に乳酸を添加して他の微生物の繁殖を抑え、清酒酵母を純粋培養する速醸酛です。

    「酛(もと)仕込み」
    酛(もと)は麹と蒸し米と仕込み水を混ぜて合わせた中に、酵母を純粋培養したもので、酒を造る母体になるものです。酛造りには2つの系統があり、1つは麹、蒸し米、仕込み水と空気中の微生物を利用して清酒酵母を純粋培養していく生酛系統で、生酛と山廃酛があります。もう1つは仕込み時に乳酸を添加して他の微生物の繁殖を抑え、清酒酵母を純粋培養する速醸酛です。

  • 「生酛仕込み」<br />「半切桶」に蒸した後によく冷ました蒸し米と麹に水を加えて数時間置きます。よく水を吸った段階で攪拌し均一にします。翌朝「櫂棒」で桶の内容物を強く摺る酛摺り(山卸し)を一番櫂から三番櫂まで半日かけて行い、米粒の三分の一に摺り潰します。

    「生酛仕込み」
    「半切桶」に蒸した後によく冷ました蒸し米と麹に水を加えて数時間置きます。よく水を吸った段階で攪拌し均一にします。翌朝「櫂棒」で桶の内容物を強く摺る酛摺り(山卸し)を一番櫂から三番櫂まで半日かけて行い、米粒の三分の一に摺り潰します。

  • 翌朝に半切桶の内容物を「酛卸桶」にまとめ、2日から3日間8℃に保ってから熱湯を入れた「暖気(だき)樽」に入れ、徐々に加温し清酒酵母の発行を促し、焼く30日間で清酒酵母が純粋培養された酛ができます。

    翌朝に半切桶の内容物を「酛卸桶」にまとめ、2日から3日間8℃に保ってから熱湯を入れた「暖気(だき)樽」に入れ、徐々に加温し清酒酵母の発行を促し、焼く30日間で清酒酵母が純粋培養された酛ができます。

  • 「山廃酛仕込み」<br />水と麹をよく混ぜて麹の酵素を抽出した水麹に蒸米を「酛卸桶」に仕込み、自然い糖化を進める方法で、仕込み時に麹と蒸米を櫂棒で摺り潰す「酛摺(山卸し)」を廃止したことから「山卸廃止酛」といいます。

    「山廃酛仕込み」
    水と麹をよく混ぜて麹の酵素を抽出した水麹に蒸米を「酛卸桶」に仕込み、自然い糖化を進める方法で、仕込み時に麹と蒸米を櫂棒で摺り潰す「酛摺(山卸し)」を廃止したことから「山卸廃止酛」といいます。

  • 「速醸酛仕込み」<br />山廃酛と同じ明治42年の1909年に開発された、速成で安全な酛仕込み方法です。麹と蒸米と水の仕込み割合は生酛と変わりません。仕込みの前に仕込み水に麹を混ぜて水麹を造る際に仕込み水に対して0.5%になるように乳酸を加え、純粋培養した種酵母もこの時に転嫁する方法です。短期間に酵母だけを純粋培養するところが生酛とは異なり、10日から15日で仕上がります。

    「速醸酛仕込み」
    山廃酛と同じ明治42年の1909年に開発された、速成で安全な酛仕込み方法です。麹と蒸米と水の仕込み割合は生酛と変わりません。仕込みの前に仕込み水に麹を混ぜて水麹を造る際に仕込み水に対して0.5%になるように乳酸を加え、純粋培養した種酵母もこの時に転嫁する方法です。短期間に酵母だけを純粋培養するところが生酛とは異なり、10日から15日で仕上がります。

  • 「醪仕込み」<br />酛に冷ました蒸し米と麹と水とを3回(初添え、中添え、留添え)を分けて加えて混ぜ合わせ、発酵させる工程です。初添えは1日目、2日目は酵母の発酵を待つために温度を保ち、中添えは3日目、留添えは4日目で仕込みが完了します。その2日から3日後に醪(もろみ)の表面に白い泡が現れ始め、発行が進むにつれて泡が高くなるので泡消しの作業が行われます。麹の酵素で米の澱粉が液化・糖化されると同時に糖が酵母の発酵作用を受けてアルコールが出来、留添えの後25日で醗酵を終えます。

    「醪仕込み」
    酛に冷ました蒸し米と麹と水とを3回(初添え、中添え、留添え)を分けて加えて混ぜ合わせ、発酵させる工程です。初添えは1日目、2日目は酵母の発酵を待つために温度を保ち、中添えは3日目、留添えは4日目で仕込みが完了します。その2日から3日後に醪(もろみ)の表面に白い泡が現れ始め、発行が進むにつれて泡が高くなるので泡消しの作業が行われます。麹の酵素で米の澱粉が液化・糖化されると同時に糖が酵母の発酵作用を受けてアルコールが出来、留添えの後25日で醗酵を終えます。

  • 「酒しぼり」<br />醗酵が完了した醪を「仕込み桶(大樽)」から「まち桶」に移します。次いで「柄杓」で「狐桶」「たぬき桶」などの手桶に入れ、それを「酒袋」に入れます。醪を入れた酒袋の口を折り返して「酒槽(さかふね)」の中に積み上げて搾り、さらに圧縮して新酒と酒粕に分けます。

    「酒しぼり」
    醗酵が完了した醪を「仕込み桶(大樽)」から「まち桶」に移します。次いで「柄杓」で「狐桶」「たぬき桶」などの手桶に入れ、それを「酒袋」に入れます。醪を入れた酒袋の口を折り返して「酒槽(さかふね)」の中に積み上げて搾り、さらに圧縮して新酒と酒粕に分けます。

  • 酒槽(さかふね)で絞った酒は白い醪が残っているので細長い桶に移して数日間放置して桶の底に沈殿させます。これを「滓引き(おりびき)」といいます。

    酒槽(さかふね)で絞った酒は白い醪が残っているので細長い桶に移して数日間放置して桶の底に沈殿させます。これを「滓引き(おりびき)」といいます。

  • 「貯蔵」<br />滓引きされた新酒は4月ごろに「火入れ」を行います。「火入れ」」は新酒の殺菌と残存酵母を破壊して熟成するためかまで55℃前後で加熱されます。火入れした新酒は約20石から30石の「大樽(貯蔵桶)」に入れて蓋をし、隙間に目張りをして密封貯蔵されて熟成させます。

    「貯蔵」
    滓引きされた新酒は4月ごろに「火入れ」を行います。「火入れ」」は新酒の殺菌と残存酵母を破壊して熟成するためかまで55℃前後で加熱されます。火入れした新酒は約20石から30石の「大樽(貯蔵桶)」に入れて蓋をし、隙間に目張りをして密封貯蔵されて熟成させます。

  • 「出荷」<br />当時の出荷は杉材の四斗樽、二斗樽、一斗樽で行われるものは普通で、時には五升、三升、一升入りの樽も使用されました。「大桶」から「試桶(ためおけ)」で運ばれた酒を「漏斗(じょうご)」を使って樽詰めし、縄をかけて時には菰(こも)をかけて出荷しました。一升瓶が出回り始めるのは明治末期になってからです。

    「出荷」
    当時の出荷は杉材の四斗樽、二斗樽、一斗樽で行われるものは普通で、時には五升、三升、一升入りの樽も使用されました。「大桶」から「試桶(ためおけ)」で運ばれた酒を「漏斗(じょうご)」を使って樽詰めし、縄をかけて時には菰(こも)をかけて出荷しました。一升瓶が出回り始めるのは明治末期になってからです。

  • 武井商店酒造部では米の買い付けを越後方面で行い、越後杜氏を雇い入れて、内地米と本州の技術により酒造りをしていました。杜氏と麹師と窯屋が各1人に助手が5人から6人で年に100石ほどの清酒を製造していました。

    武井商店酒造部では米の買い付けを越後方面で行い、越後杜氏を雇い入れて、内地米と本州の技術により酒造りをしていました。杜氏と麹師と窯屋が各1人に助手が5人から6人で年に100石ほどの清酒を製造していました。

  • 工場から土間に入って、台所から見学を始めます。外観のモダンな衣装とは全く違った和風の設えです。

    工場から土間に入って、台所から見学を始めます。外観のモダンな衣装とは全く違った和風の設えです。

  • 炉鉤のデザインは富士山と鷹と茄子になっているようです。2階がありながら囲炉裏が切ってあるのがちょっと不思議でした。この炉鉤についてスタッフの方と話が弾んでしまい、いろいろなことがうかがえました。

    炉鉤のデザインは富士山と鷹と茄子になっているようです。2階がありながら囲炉裏が切ってあるのがちょっと不思議でした。この炉鉤についてスタッフの方と話が弾んでしまい、いろいろなことがうかがえました。

  • 茶の間から次の間に向けて2間続きますが、12畳と8畳という広い空間です。この邸宅は家の中には上がれませんでした。

    茶の間から次の間に向けて2間続きますが、12畳と8畳という広い空間です。この邸宅は家の中には上がれませんでした。

  • 帳場はスタッフの方の控えの場所になっていました。

    帳場はスタッフの方の控えの場所になっていました。

  • 日本酒を醸造していた頃のラベルがありました。増毛町の「丸一本間家」や「国稀酒造」の見学を思い出しました。ここではお酒の試飲が出来ないのが残念です。

    日本酒を醸造していた頃のラベルがありました。増毛町の「丸一本間家」や「国稀酒造」の見学を思い出しました。ここではお酒の試飲が出来ないのが残念です。

  • 「旧三枡河本そば屋」<br />この建物は明治18年の1885年頃に石川県から小樽へ移住した当時18歳だった河本徳松がそば屋の修行を積み、三ますそば屋ののれんを継いで新築した店です。小樽市街の中でも最も栄えた地域にあったこのそば屋は、食事や宴会の場として多くの人々に利用されていました。

    「旧三枡河本そば屋」
    この建物は明治18年の1885年頃に石川県から小樽へ移住した当時18歳だった河本徳松がそば屋の修行を積み、三ますそば屋ののれんを継いで新築した店です。小樽市街の中でも最も栄えた地域にあったこのそば屋は、食事や宴会の場として多くの人々に利用されていました。

  • 徳松は小樽には来たものの身寄りがないため、仕方なく勤めたのがヤマキ蕎麦店という店でした。さらに職を転々とした後に再びヤマキに戻ってそば屋の修業を続けます。

    徳松は小樽には来たものの身寄りがないため、仕方なく勤めたのがヤマキ蕎麦店という店でした。さらに職を転々とした後に再びヤマキに戻ってそば屋の修業を続けます。

  • その後「三枡上坂」そば屋に移りますが抜きん出た経営能力で番頭に昇格し、ついには店舗を買収して店主となります。この店舗があった若松町(現住吉町)は小樽市街の中でも最も栄えた地域にあり、幹線の通りに面していたことや遊郭へ通じる道筋でもあったことから大変に繁盛していました。酒や料理も振舞われており、食事や宴会の場として多くの人々に利用されていたといいます。

    その後「三枡上坂」そば屋に移りますが抜きん出た経営能力で番頭に昇格し、ついには店舗を買収して店主となります。この店舗があった若松町(現住吉町)は小樽市街の中でも最も栄えた地域にあり、幹線の通りに面していたことや遊郭へ通じる道筋でもあったことから大変に繁盛していました。酒や料理も振舞われており、食事や宴会の場として多くの人々に利用されていたといいます。

  • 建物のファサードの両側には「東楼」と「三枡」の文字が見えます。これは開業当時には「東楼三枡(あずまろうさんます)」と称していたことによるものです。正面には煉瓦の煙突が見えます。そばを茹でるかまどの燃料は石炭だったといいます。

    建物のファサードの両側には「東楼」と「三枡」の文字が見えます。これは開業当時には「東楼三枡(あずまろうさんます)」と称していたことによるものです。正面には煉瓦の煙突が見えます。そばを茹でるかまどの燃料は石炭だったといいます。

  • また2階には50人ほどのお客が入れる座敷と女中部屋があり、1階は大きな調理場と家族が暮らす部屋になっていました。三枡河本そば屋は昭和61年の1986年に北海道開拓の村に寄贈されています。

    また2階には50人ほどのお客が入れる座敷と女中部屋があり、1階は大きな調理場と家族が暮らす部屋になっていました。三枡河本そば屋は昭和61年の1986年に北海道開拓の村に寄贈されています。

  • 釧路の市外の春採湖近くにある明治7年の1874年創業という北海道でも最古級の歴史を誇る老舗蕎麦店「竹老園東家本店」を思い出しました。

    釧路の市外の春採湖近くにある明治7年の1874年創業という北海道でも最古級の歴史を誇る老舗蕎麦店「竹老園東家本店」を思い出しました。

  • 漢字の三と枡の字と開拓使の星をあしらった衝立が置かれてあります。

    漢字の三と枡の字と開拓使の星をあしらった衝立が置かれてあります。

  • 調理場には屋根に抜ける煉瓦製の煙突が見えます。忙しい時間に人だけがいなくなってしまったような雰囲気を感じます。

    調理場には屋根に抜ける煉瓦製の煙突が見えます。忙しい時間に人だけがいなくなってしまったような雰囲気を感じます。

  • 実際にこの家で蕎麦屋を営業すればよいのにと思います。

    実際にこの家で蕎麦屋を営業すればよいのにと思います。

  • もりそばが10銭でざるそばが15銭ということは海苔が5銭ということになりますが、ずいぶん高い気がします。メニューは現在と変わらないようです。

    もりそばが10銭でざるそばが15銭ということは海苔が5銭ということになりますが、ずいぶん高い気がします。メニューは現在と変わらないようです。

  • 調理場の奥には家族の住んだ3間続きの和室が続きます。

    調理場の奥には家族の住んだ3間続きの和室が続きます。

  • 元々は無かったのでしょうが、補強のために丸い鉄柱が入れてあります。なかったころは奥の仏間まで20畳くらいのスペースがとれたのだと思います。

    元々は無かったのでしょうが、補強のために丸い鉄柱が入れてあります。なかったころは奥の仏間まで20畳くらいのスペースがとれたのだと思います。

  • 大正8年の暦の付いたお店の広告ポスターが貼ってあります。

    大正8年の暦の付いたお店の広告ポスターが貼ってあります。

  • 店の奥には電話室まであったようです。この家の電話番号は千貳百七拾六番だということはポスターから分かりました。残念ながら2階は強度上の問題で上がることは出来ませんでした。

    店の奥には電話室まであったようです。この家の電話番号は千貳百七拾六番だということはポスターから分かりました。残念ながら2階は強度上の問題で上がることは出来ませんでした。

  • 人造テラゾーのトイレはさすがに持ってこれないので再現したのだと思います。昔はこういったタイプのトイレはありました。

    人造テラゾーのトイレはさすがに持ってこれないので再現したのだと思います。昔はこういったタイプのトイレはありました。

  • 「旧来正旅館」<br />東永山兵村に屯田兵として入植した来正策馬は、明治31年の1898年に退役後、開通直後の宗谷本線の永山駅前に移り、待合所を開業しました。大正7年の1918年に大水の被害を受けたため、翌年に旅館兼待合所を新築し営業を再開しました。当時は旅人の宿泊や汽車の待合などに利用されてにぎわいました。

    「旧来正旅館」
    東永山兵村に屯田兵として入植した来正策馬は、明治31年の1898年に退役後、開通直後の宗谷本線の永山駅前に移り、待合所を開業しました。大正7年の1918年に大水の被害を受けたため、翌年に旅館兼待合所を新築し営業を再開しました。当時は旅人の宿泊や汽車の待合などに利用されてにぎわいました。

  • この旅館の創業者であった来正策馬は土佐藩主である山内豊信の御典医の子として現在の高知市に生まれます。明治24年の1881年に屯田兵として東永山兵村に入植した策馬は、根維持31年の1898年に退役し、開通直後の宗谷本線の永山駅前に移り待合所を開業しました。

    この旅館の創業者であった来正策馬は土佐藩主である山内豊信の御典医の子として現在の高知市に生まれます。明治24年の1881年に屯田兵として東永山兵村に入植した策馬は、根維持31年の1898年に退役し、開通直後の宗谷本線の永山駅前に移り待合所を開業しました。

  • しかし大正7年の1918年に当時「あばれ川」と呼ばれていた石狩川の氾濫により被害を受けたため、翌年に旅館兼待合所を新築し営業を再開しています。この時の建物が開拓の村に移転したこの旧来正旅館ですが、昭和年まで営業していたものを移築し復元したものです。<br />

    しかし大正7年の1918年に当時「あばれ川」と呼ばれていた石狩川の氾濫により被害を受けたため、翌年に旅館兼待合所を新築し営業を再開しています。この時の建物が開拓の村に移転したこの旧来正旅館ですが、昭和年まで営業していたものを移築し復元したものです。

  • 創建時の建物は1階に待合室2室と帳場兼茶の間、家族の寝室などがあり、2階には客間5室と布団部屋がありました。外壁は土壁の上に漆喰塗り、木造真壁造りで入母屋屋根の和風建築になっています。

    創建時の建物は1階に待合室2室と帳場兼茶の間、家族の寝室などがあり、2階には客間5室と布団部屋がありました。外壁は土壁の上に漆喰塗り、木造真壁造りで入母屋屋根の和風建築になっています。

  • 帳場の前は売店になっていて、笠や草鞋や感じ器などが吊られ、クッキーやミルクキャラメルも売られています。

    帳場の前は売店になっていて、笠や草鞋や感じ器などが吊られ、クッキーやミルクキャラメルも売られています。

  • 奥には4畳の女中部屋があります。

    奥には4畳の女中部屋があります。

  • その奥にある手洗いが面白かったです。木の樽に入った水は炭火で暖められるようになっています。蛇口をひねればお湯が出る構造になっています。廊下を挟んでお風呂場もありました。

    その奥にある手洗いが面白かったです。木の樽に入った水は炭火で暖められるようになっています。蛇口をひねればお湯が出る構造になっています。廊下を挟んでお風呂場もありました。

  • 水は上に吊られたタンクから出ますが、冬場は使い物にならなかったのではないでしょうか。

    水は上に吊られたタンクから出ますが、冬場は使い物にならなかったのではないでしょうか。

  • この建物も2階は見学することが出来ませんでした。スタッフの方のお話では修復や現状維持する費用が掛かるので、予算がつかないと修理も出来ないようです。この時は予算が付いたので「小樽新聞社」の建物が修復工事中でした。又移築させたい建物もまだまだあるそうです。「この開拓の村には銭湯が無いんですよ。」と残念そうでした。

    この建物も2階は見学することが出来ませんでした。スタッフの方のお話では修復や現状維持する費用が掛かるので、予算がつかないと修理も出来ないようです。この時は予算が付いたので「小樽新聞社」の建物が修復工事中でした。又移築させたい建物もまだまだあるそうです。「この開拓の村には銭湯が無いんですよ。」と残念そうでした。

  • 「旧開拓使札幌本庁舎」<br />開拓使は北方開拓のために明治2年の1869年から明治15年の1882年まで置かれた官庁でした。この建物は外観は明治6年の1873年に建てられ、明治12年の1879年に焼失した開拓使札幌本庁舎の外観を再現したものです。

    「旧開拓使札幌本庁舎」
    開拓使は北方開拓のために明治2年の1869年から明治15年の1882年まで置かれた官庁でした。この建物は外観は明治6年の1873年に建てられ、明治12年の1879年に焼失した開拓使札幌本庁舎の外観を再現したものです。

  • 現在の北海道庁赤レンガ庁舎の30間北隣に建設され、今でもその外形が縁石で示されています。 開拓の村では建物内部に総合案内コーナー・研修室・休憩室を兼ねたホールとして、地下は200人収容の講堂があるなど、開拓の村のビジターセンターとして使われています。

    現在の北海道庁赤レンガ庁舎の30間北隣に建設され、今でもその外形が縁石で示されています。 開拓の村では建物内部に総合案内コーナー・研修室・休憩室を兼ねたホールとして、地下は200人収容の講堂があるなど、開拓の村のビジターセンターとして使われています。

  • ようやく「北海道開拓の村」の見学が終わりました。暫定で夕方まで時間を取っていたので思ったよりは早くは終わりましたが、既に午後2時30分です。

    ようやく「北海道開拓の村」の見学が終わりました。暫定で夕方まで時間を取っていたので思ったよりは早くは終わりましたが、既に午後2時30分です。

    旧札幌停車場 名所・史跡

  • 東京に帰ったらツタヤで「ゴールデンカムイ」を借りなければと思います。売店にあった「アイヌ文化で読み解くゴールデンカムイ」を購入して、開拓の村のスタンプを押しました。

    東京に帰ったらツタヤで「ゴールデンカムイ」を借りなければと思います。売店にあった「アイヌ文化で読み解くゴールデンカムイ」を購入して、開拓の村のスタンプを押しました。

  • 午後2時40分発の新さっぽろ駅行きのJRバスで帰ることにします。

    午後2時40分発の新さっぽろ駅行きのJRバスで帰ることにします。

  • 行きはタクシーだったので通りませんでしたが「北海道博物館」にも停車しました。母が昭和50年に京都の祖父母と伯母と10日かけて北海道を周遊旅行した時のアルバムにこの博物館がありました。

    行きはタクシーだったので通りませんでしたが「北海道博物館」にも停車しました。母が昭和50年に京都の祖父母と伯母と10日かけて北海道を周遊旅行した時のアルバムにこの博物館がありました。

    北海道博物館 美術館・博物館

  • この1年で北海道を5回旅したので、母たちが旅した先の多くを訪ねることが出来ました。

    この1年で北海道を5回旅したので、母たちが旅した先の多くを訪ねることが出来ました。

  • バスは「野幌森林公園百年記念塔」も近くも通過しました。中央バスのバスガイドさんから聞きましたが、耐震上の問題から2022年から解体されることが決まっているようです。

    バスは「野幌森林公園百年記念塔」も近くも通過しました。中央バスのバスガイドさんから聞きましたが、耐震上の問題から2022年から解体されることが決まっているようです。

  • 北海道開道百年を記念して着工され、昭和45年の1970年に竣工し、翌年の昭和46年の1971年から一般公開されています。祖父は京都の二条陣屋で生まれ、祖母の弟は先代の陶哉と東哉です。東哉の弟は映画監督の小津安二郎の友人で、いくつかの映画の美術監修をして、自作の器も映画を観ていると出てきます。今では清水で陶器店を営む伯母だけが元気にしています。

    北海道開道百年を記念して着工され、昭和45年の1970年に竣工し、翌年の昭和46年の1971年から一般公開されています。祖父は京都の二条陣屋で生まれ、祖母の弟は先代の陶哉と東哉です。東哉の弟は映画監督の小津安二郎の友人で、いくつかの映画の美術監修をして、自作の器も映画を観ていると出てきます。今では清水で陶器店を営む伯母だけが元気にしています。

  • 新さっぽろ駅からは地下鉄の東西線で西11丁目まで出ました。表に出ると小雨が降っていました。「北海道開拓の村」で雨に当たらなくて良かったです。旅の前に調べた天気予報で当たったのはこの日だけで、それ以外はほとんど外れて晴れていました。

    新さっぽろ駅からは地下鉄の東西線で西11丁目まで出ました。表に出ると小雨が降っていました。「北海道開拓の村」で雨に当たらなくて良かったです。旅の前に調べた天気予報で当たったのはこの日だけで、それ以外はほとんど外れて晴れていました。

  • 大通公園に「マイバウム」があるのを知りませんでした。昭和47年の1972年の札幌の冬季オリンピックと同じ年に開催されたミュンヘンオリンピックを縁に札幌市とミュンヘン市が姉妹都市になりました。

    大通公園に「マイバウム」があるのを知りませんでした。昭和47年の1972年の札幌の冬季オリンピックと同じ年に開催されたミュンヘンオリンピックを縁に札幌市とミュンヘン市が姉妹都市になりました。

  • 大通公園の11丁目にあるのはその記念にミュンヘン市から寄贈された「マイバウム」だそうです。ドイツ語でマイは5月でバウムは木のことです。ドイツの古い習慣で初夏に家族や家畜の健康や安全を願って祈る象徴してこの5月の木があります。1976年の昭和51年に設置されましたが、老朽化のため平成12年の2000年に撤去されますが、翌年に復元されました。

    大通公園の11丁目にあるのはその記念にミュンヘン市から寄贈された「マイバウム」だそうです。ドイツ語でマイは5月でバウムは木のことです。ドイツの古い習慣で初夏に家族や家畜の健康や安全を願って祈る象徴してこの5月の木があります。1976年の昭和51年に設置されましたが、老朽化のため平成12年の2000年に撤去されますが、翌年に復元されました。

  • クリスマスマーケット巡りで行ったミュンヘンのヴィクトアーリエンマルクトに立つマイバウムと見比べてみました。こちらは夜間にライトアップしてとてもきれいでした。

    クリスマスマーケット巡りで行ったミュンヘンのヴィクトアーリエンマルクトに立つマイバウムと見比べてみました。こちらは夜間にライトアップしてとてもきれいでした。

  • 目的は「サンクガーデン」のバラ園でした。

    目的は「サンクガーデン」のバラ園でした。

  • 「バラ園」は平成22年の2010年に改修され、約55種類のバラが色とりどりの花を咲かせています。<br /><br />

    「バラ園」は平成22年の2010年に改修され、約55種類のバラが色とりどりの花を咲かせています。

  • 「札幌市資料館」<br />大正15年の1926に札幌控訴院のちの札幌高等裁判所として建てられた石造りの重厚な外観が美しいです。

    「札幌市資料館」
    大正15年の1926に札幌控訴院のちの札幌高等裁判所として建てられた石造りの重厚な外観が美しいです。

    札幌市資料館 美術館・博物館

  • このバラは中国の瀋陽市と札幌市の友好都市30周年を記念して、瀋陽市から寄贈されました。

    このバラは中国の瀋陽市と札幌市の友好都市30周年を記念して、瀋陽市から寄贈されました。

  • ミュンヘンが姉妹都市なのは「ミュンヘン、札幌、ミルウォーキー」というサッポロビールの広告からも分かりますが、中国の瀋陽市が友好都市だったことは初めて知りました。

    ミュンヘンが姉妹都市なのは「ミュンヘン、札幌、ミルウォーキー」というサッポロビールの広告からも分かりますが、中国の瀋陽市が友好都市だったことは初めて知りました。

  • 「カナール(水路)」<br />水路と噴水は大通公園リフレッシュ工事に伴い、平成6年に整備されたものです。何となくスペインのグラナダのアルハンブラ宮殿のヘネラリフェ庭園を思い出しました。妻と行ったスペインの旅では旅行前1カ月でもアルハンブラ宮殿のチケットが売り切れで、入場するのに苦労しました。

    「カナール(水路)」
    水路と噴水は大通公園リフレッシュ工事に伴い、平成6年に整備されたものです。何となくスペインのグラナダのアルハンブラ宮殿のヘネラリフェ庭園を思い出しました。妻と行ったスペインの旅では旅行前1カ月でもアルハンブラ宮殿のチケットが売り切れで、入場するのに苦労しました。

  • 「札幌市資料館」に向かって左側半分は姉妹都市であるミュンヘンになじみのあるバラが植えられています。

    「札幌市資料館」に向かって左側半分は姉妹都市であるミュンヘンになじみのあるバラが植えられています。

  • 向かって右側の庭園のバラは姉妹都市であるポートランド市に馴染みのあるバラが植えられてあります。

    向かって右側の庭園のバラは姉妹都市であるポートランド市に馴染みのあるバラが植えられてあります。

    大通公園 バラ園 公園・植物園

  • 「シンコ・デ・マヨ」<br />スペインに由来するバラかと思いましたが、スペインの祝祭日に由来するようです。雨に濡れたバラもきれいなものです。

    「シンコ・デ・マヨ」
    スペインに由来するバラかと思いましたが、スペインの祝祭日に由来するようです。雨に濡れたバラもきれいなものです。

  • 花好きの妻も雨の中を元気に写真を撮っています。

    花好きの妻も雨の中を元気に写真を撮っています。

  • 「若い女の像」佐藤忠良<br />昭和59年に第23回東洋東南アジアライオンズフォーラムを記念し、同組織委員会が寄贈した作品だそうです。佐藤忠良は昭和56年にパリのロダン美術館で個展をした初めての日本人です。

    「若い女の像」佐藤忠良
    昭和59年に第23回東洋東南アジアライオンズフォーラムを記念し、同組織委員会が寄贈した作品だそうです。佐藤忠良は昭和56年にパリのロダン美術館で個展をした初めての日本人です。

    若い女の像 名所・史跡

  • 遠くにテレビ塔が霞んで見えました。

    遠くにテレビ塔が霞んで見えました。

  • 予定に無かったバラ園の見学も出来てよかったです。

    予定に無かったバラ園の見学も出来てよかったです。

  • バラ園の見学も終わったのでタクシーでホテルに戻ろうと思いましたが、雨のせいか空車が通りません。大通公園を歩いて帰ることにします。

    バラ園の見学も終わったのでタクシーでホテルに戻ろうと思いましたが、雨のせいか空車が通りません。大通公園を歩いて帰ることにします。

  • 「黒田清隆之像」雨宮治郎<br />北海道開拓長官黒田清隆の銅像です。薩摩藩士として幕末に薩長同盟のため奔走し、明治元年の1868年から明治2年の1869年の戊辰戦争に際しては北越から庄内までの北陸戦線と箱館戦争で新政府軍の参謀として指揮を執りました。開拓次官の後に開拓長官として明治3年の1870年から明治5年の1872年まで北海道の開拓を指揮しました。横には「ホーレス・ケプロン之像」も並んでいます。アメリカから開拓師教師兼顧問として参画した人物で開拓使について調べるといろいろな所に名前が出てきます。

    「黒田清隆之像」雨宮治郎
    北海道開拓長官黒田清隆の銅像です。薩摩藩士として幕末に薩長同盟のため奔走し、明治元年の1868年から明治2年の1869年の戊辰戦争に際しては北越から庄内までの北陸戦線と箱館戦争で新政府軍の参謀として指揮を執りました。開拓次官の後に開拓長官として明治3年の1870年から明治5年の1872年まで北海道の開拓を指揮しました。横には「ホーレス・ケプロン之像」も並んでいます。アメリカから開拓師教師兼顧問として参画した人物で開拓使について調べるといろいろな所に名前が出てきます。

    黒田清隆像 名所・史跡

  • 大通公園の西5丁目の中央にオベリスクのごとくそびえる石碑は昭和14年に建立された「聖恩碑」です。碑の正面には「聖恩無彊」(せいおんむきょう)の四文字が刻まれています。

    大通公園の西5丁目の中央にオベリスクのごとくそびえる石碑は昭和14年に建立された「聖恩碑」です。碑の正面には「聖恩無彊」(せいおんむきょう)の四文字が刻まれています。

    聖恩碑 名所・史跡

  • 「聖恩」とは「天皇の恩恵」を意味しており、「無彊」とは「限りのないこと」を意味しています。絶え間なく水を噴き出す碑の東側正面には竜頭と側面の南北の獅子頭があります。

    「聖恩」とは「天皇の恩恵」を意味しており、「無彊」とは「限りのないこと」を意味しています。絶え間なく水を噴き出す碑の東側正面には竜頭と側面の南北の獅子頭があります。

  • 大通公園では「ガーデンフェスタ北海道2022」の会場設営の真っ最中でした。

    大通公園では「ガーデンフェスタ北海道2022」の会場設営の真っ最中でした。

  • 札幌最後の晩御飯はジンギスカンを食べに行くことにしました。札幌で一番古い炉端の「ウタリ」も考えましたが、電話したところ予約もいっぱいで入れそうもありませんでした。系列の「山小屋」は前から行ってみたい店でもありました。

    札幌最後の晩御飯はジンギスカンを食べに行くことにしました。札幌で一番古い炉端の「ウタリ」も考えましたが、電話したところ予約もいっぱいで入れそうもありませんでした。系列の「山小屋」は前から行ってみたい店でもありました。

  • 午後8時なら入れるということで予約をしました。小さい店なので予約はしたほうが良いと思います。

    午後8時なら入れるということで予約をしました。小さい店なので予約はしたほうが良いと思います。

    生ラムジンギスカン 山小屋 グルメ・レストラン

    当日の夕方に予約して、閉店前にぎりぎり入れました。 by kojikojiさん
  • こんな小さい入り口です。「きょうど料理亭 杉ノ目」の系列店でもあります。

    こんな小さい入り口です。「きょうど料理亭 杉ノ目」の系列店でもあります。

  • 少し早く着きすぎたので準備が出来るまで表で待っていました。

    少し早く着きすぎたので準備が出来るまで表で待っていました。

  • 席に座ってすぐに注文します。閉店まで1時間ほどしかありません。

    席に座ってすぐに注文します。閉店まで1時間ほどしかありません。

  • 野菜はサービスで、プチトマトも無料です。このまま食べても美味しいですが焼いても美味しいです。

    野菜はサービスで、プチトマトも無料です。このまま食べても美味しいですが焼いても美味しいです。

  • 「生ラム&えぞ鹿」を2皿注文しました。シカは固い印象を持っていましたが、柔らかくて美味しかったです。臭みも全くありません。北海道に来て「松尾ジンギスカン」や旭川の「大黒屋」や札幌の「だるま」にも行きましたが、タレに漬けたものより生ラムが自分たちに合うと思いました。

    「生ラム&えぞ鹿」を2皿注文しました。シカは固い印象を持っていましたが、柔らかくて美味しかったです。臭みも全くありません。北海道に来て「松尾ジンギスカン」や旭川の「大黒屋」や札幌の「だるま」にも行きましたが、タレに漬けたものより生ラムが自分たちに合うと思いました。

  • 続いて「生ラム」を追加します。今日はハシゴしないのでご飯も注文しました。

    続いて「生ラム」を追加します。今日はハシゴしないのでご飯も注文しました。

  • 「石狩産ホゲット」はこの日はありませんでしたが、「ひつじのひとくちミンチ」を追加しました。これは焼くときに少し潰すのがコツみたいです。これもご飯によく合います。

    「石狩産ホゲット」はこの日はありませんでしたが、「ひつじのひとくちミンチ」を追加しました。これは焼くときに少し潰すのがコツみたいです。これもご飯によく合います。

  • 2人とも集中して食べるので会話も少ないです。L型のカウンターに8人が限界の小さな店です。

    2人とも集中して食べるので会話も少ないです。L型のカウンターに8人が限界の小さな店です。

  • 気がつけば最後のお客になっていました。お昼にジンギスカンが食べられなかったので、夜に食べられて良かったです。

    気がつけば最後のお客になっていました。お昼にジンギスカンが食べられなかったので、夜に食べられて良かったです。

  • 最後にススキノの交差点まで出てニッカウヰスキーのネオンともお別れです。

    最後にススキノの交差点まで出てニッカウヰスキーのネオンともお別れです。

    すすきの 名所・史跡

  • お別れと言いながら明日は小樽駅に荷物を預けて余市に行き、ニッカウヰスキー余市工場の見学を予約しています。何度も前を通りながら見学できなかった念願の場所です。

    お別れと言いながら明日は小樽駅に荷物を預けて余市に行き、ニッカウヰスキー余市工場の見学を予約しています。何度も前を通りながら見学できなかった念願の場所です。

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2022札幌・小樽の旅

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