2022/06/23 - 2022/06/23
4350位(同エリア9565件中)
kojikojiさん
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- 旅行記1760冊
- クチコミ1205件
- Q&A回答73件
- 3,462,119アクセス
- フォロワー169人
開拓村に着いて1時間30分ぐらいで一番奥の「農村群」にある十数件の見学が終わりました。つづいて「漁村群」の建物の見学に移ります。といっても大きくは「旧青山家漁家住宅」とその付属する家屋がメインです。小樽の先の祝津港には現在も旧青山家のニシン御殿が残っていますが、ここにある建物は青山家のニシン番屋に当たります。札幌の旅もこの日が最後で旅の後半4日は小樽に移動します。ニシン御殿にも行く予定なのでその前にここを見ておくことは重要だと思いました。また、稚内からオロロンラインを下ってくる途中で立ち寄った留萌市小平町にある「旧花田家番屋」が素晴らしかったのでもう一度見てみたいという思いもありました。「旧花田家番屋」では母屋だけが残されていましたが、開拓の村では付属する蔵や廊下と呼ばれる建物には巨大なニシン漁の船が2艘も収蔵されていました。ここからは「馬車鉄道」の走るメインストリートに沿って沿道の建物を1つづつ見学していきます。「山本理髪店」の前に差し掛かると若い女性が中に入ろうとしていましたが、引き戸が開かないようで、擦りガラスの上から内部の写真を撮っていました。そして諦めたように次の建物に移動しようとしていました。外観の写真を撮るためにその方が去るのを待っていました。外観の写真を撮って引き戸に手を掛けると左側には鍵が掛かっていませんでした。その女性が気の毒に思えたので「鍵は開いてますよ。」と声を掛けると走って戻ってきました。そして内部の写真を細かく撮っています。そして「すいません。この建物と私を撮ってください。」とスマホを渡されました。その時は詳しく分かりませんが、後で「旧来正旅館」にいらしたスタッフの方に「ゴールデンカムイ」の中で理髪店の中に置かれたマネキンと同じ様子が描かれ、建物の外観には漢字の山と本が隠れていると教えてもらいました。そのような場所は「旧近藤医院」にもあり、立ち入り禁止になっていても手術台の上に寝ころんで写真を撮る人が多いそうです。そこまでの「ゴールデンカムイ」の聖地だったとは知らなかったので、東京に戻ったら読まなければと思いました。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 5.0
- グルメ
- 4.0
- ショッピング
- 4.0
- 交通
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 10万円 - 15万円
- 交通手段
- 高速・路線バス 観光バス 船 タクシー ANAグループ JRローカル 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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前回の北海道の旅で稚内からオロロンラインを下る途中で立ち寄ったのが留萌市の小平町にある「旧花田家番屋」でした。道の駅でお昼を食べる休憩時間の中で見学できればというくらいに思っていたのですが、このニシン番屋の建築も資料も素晴らしく魅了されました。
北海道開拓の村 美術館・博物館
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今回の旅の後半では小樽に移動して祝津にある「旧青山別邸」の見学をする予定なので、ニシン御殿に併設されていた「旧青山家漁家住宅」は見ておかなければと思いました。
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「旧青山家漁家住宅」
青山家の本拠地である祝津の元場には十数棟の建物が存在しましたが、そのうちの7棟が移築されています。このほかには水揚げしたニシンを収納した廊下と呼ばれる倉庫や搾りかすを保存する粕倉、船倉がありました。 -
右手には海岸線を意味する石が敷かれてあります。以前行った留萌の小平の「旧花田家番屋」は海と対峙するように番屋が建っていましたが、祝津では土地が狭いこともあり、海岸線に直角に建てられたそうです。これはとても特異なことであったようで、実際に数日後に祝津の港に行ってみて納得がいきました。
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「廊下」
初めに海岸線に建っていた「廊下」から見学を始めます。この建物は陸揚げしたニシンを一時収蔵するための施設です。漁期後は船や櫓や櫂などの大型の漁労具や加工用具を収納する倉として利用されました。 -
外壁はよく見ると落とし板構造になっています。6スパンに分かれた中央の通し柱と左右の一番外側は外せませんがその間の4本の柱と板張りのパネルは入り口と同じようにすべてが外せる構造になっています。
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内部には「枠船」と呼ばれる巨大な木造船が2艘も収納されていてびっくりしました。増毛町の国稀酒造の「國稀千石蔵」にも1艘納められていましたが、初めて見る巨大な和船に驚きました。
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ニシン建網漁では大量に漁獲した魚を「枠船」に吊り下げた枠網によって海岸近くまで運搬しました。この漁法は安政年間の1854年から60年に積丹半島の東岸で考案され、本道沿岸でのニシン漁が終わる昭和30年ころまで続けられました。
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枠船や枠網の名称は初期の頃は船の代わりに木枠を利用したことによるそうです。この左側に収蔵された「枠船」は明治44年に、右側の船は大正13年に建造されたもので、祝津村沿岸で使用されました。1艘の枠網でおよそ200トン、約80万尾のニシンを運搬することが出来たそうです。
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ニシン粕ができるまでを絵図で見ることが出来ます。ここで使われている「しめ胴」と呼ばれる木製の箱は「旧花田家番屋」でも見たことがありました。「ナガシ」までは雇われた女性たちが「畚(もっこ)」と呼ばれる木製の背負い箱で鰊を運びます。
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「ナガシ」に届けられた魚は「ニシン釜」と呼ばれる大きな釜で海水と共に煮上げます。釜に海水を8分目ほど注ぎ、沸騰したらニシンを六百貫から七百貫(2250から2625キロで約1000尾)を入れ1時間半ほどヘラで焦げ付かないように混ぜながら煮上げました。生煮えしないよう、そして身が崩れないように煮上げる事や、煮上げる過程で濁ってくる海水を、沸騰させる時間をかけ過ぎない程度まで交換したり注ぎ足しする事にコツが要りました。
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煮上げたニシンを圧搾機にかけて搾り上げると粕玉になります。「しめ胴」と呼ばれる隙間の空いた木箱に煮あがったニシンを入れ、「胴枕」という蓋をします。それを「しめ木」という丸太を引き下げて油を搾ります。朝4時から1人が一釜を担当し、15、16玉を締め上げるのが1日の仕事量とされました。
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搾られたニシン油は樋を伝わって「ハチゴウ」と呼ばれる箱に溜まります。ニシン油は石鹸などに使われたようです。「しめ胴」に残った重さ100kgはある粕玉を数人がかりで干場に運び、巨大な包丁や木製の鍬で細かく粉砕します。夜間は筵で覆うなどして数日間かけ乾燥させたのち、20貫入りの俵に詰めて出荷しました。鰊粕の製造には大量の薪を必要とするため、北海道の沿岸部では森林破壊が進みます。また先住民族のアイヌの人は和人商人のもとで鰊粕製造その他の労働に従事させられ、従来の民族コミュニティの変容や破壊がもたらされたようです。
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ようやく母屋の見学に移ります。表札には「青山」の文字と「北海道高島郡祝津村拾五番地」という住所が書かれてあります。
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この母屋は「建網」2ヵ統でおよそ60名の漁夫が寝泊まりしていた建物で、中央の土間を挟んで、右側が親方の住まい、左側が漁夫の生活の場所になります。
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ここに描かれた人員と船と網が「建網」1ヵ統という1カセットになります。つまり、祝津の青山家ではこれが2セットあったということです。留萌市小平町にある「旧花田家番屋」は18ヶ統の鰊定置網を経営する道内屈指の鰊漁家で、500人以上を雇っていたと聞きました。番屋には200名の漁夫が暮らしたそうです。
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建物の左側の漁夫の済む「大広間」です。板張りの床に囲炉裏が2つ切ってあります。この建物ではヤン衆の「寝台」は完全に2階建てになっています。この辺りは番屋によって造りが違うようです。この番屋の「寝台」は畳敷きになっているので漁夫は大切にされていたのだと感じます。1人当たり1畳のスペースが与えられていました。
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「寝台」の下には食器などを収納するスペースも効率的に納められています。2階の一部は「女中部屋」になっていますが、そこへ上がる梯子は取り外し式になっていて、夜間に夜這い出来ないようになっていました。
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この番屋は明治20年の1887年に建てられ大正8年の1919年に焼失したものをモデルにして、焼失後に一部は軟石を積んだ防火壁を設けて、総工費25,000円で再建されました。
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親方の住まいの「茶の間」にあがります。畳の上にアザラシの毛皮が敷かれてあります。現在ではあまり使われませんが、子供の頃に持っていたバックカントリースキー用のシールはアザラシの革製でした。
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「茶の間」の奥には「帳場」がありました。帳場囲いが以外に小さいのに驚きました。
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この建物は2014年のNHKの連続テレビ小説「マッサン」で漁師の網本である森野熊虎(風間杜夫)の建てたニシン御殿としても使われています。翌日には余市の「ニッカウヰスキー 余市蒸溜所」の見学を予約しているので楽しみです。
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鴨井には熊皮のコートが掛けられています。当時の冬の寒さは想像を超えるものだったのだと思います。
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係員の方はピアノだと言っていましたが、足踏み式のリード・オルガンだと思います。当時は大変に高価だったものだと思うので青山家の財力を感じます。ただ、唐突に置かれてあるので元々この家にあったのかは分かりません。
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立派な仏壇が設えてあります。さすがに位牌などは置かれてありませんが、鴨井には遺影が掛かっていました。敷かれているのは熊の毛皮です。
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幕末に山形から入植した青山家は、現在の小樽市祝津沿岸を中心に漁業を経営しました。ニシン漁で財を成した青山留吉は故郷の山形県遊佐町に豪邸を建て「旧青山本邸」として現存し、国の重要文化財に指定されています。小樽市祝津の「旧青山別邸」は青山家3代目の娘である政恵が巨万の富を元に建築した豪邸で、こちらは国の登録有形文化財に指定されています。
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「旧青山別邸」には「新宿中村屋」の看板を書いた中村不折の書があったり、現代書道の父と言われる比田井天来の書もありましたので、この番屋も同じような書家が書いているのだと思いますが、浅学のため読むことは出来ません。
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組子の欄間細工も一間ごとにデザインが変わる凝りようです。
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神棚の下には鰊ニシンの大漁を祈願する日にちが書かれてあります。どの日付も4月なのは4月と5月が操業の時期だったからだと思います。漁場に1年は1月の食料や資材の入荷に始まり、2月には漁夫や人夫が集まり、船や網の修理を行います。3月には定置網の敷き込みや固定が行われます。漁は6月に終わり、賃金を渡して解散します。
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仏間の建具も立派なものです。玄関には青山家の名の入った番傘がずらりと並び、ここには提灯が並んでいます。
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青山家の家紋は「丸に三つ柏」のようです。すべて誂えなのでお金もかかったと思います。自分の持っている家の家紋の入ったものは母方の曾祖母が誂えてくれたお食い初めの茶碗と湯呑みしかありません。大叔父である澤村陶哉の作なので大切にしていますが、そのお陰か1部屋が潰れるほどの陶器持ちになりました。自分でも陶器を誂えるのでその気持ちはわかる気がします。
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さすがにここまでとは思いますが、当時は傘や提灯を貸すこともあったので、ちゃんと返されるような工夫でもあったのだと思います。
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母屋の見学が終わりましたが、ここにはまだ建物が続いています。
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左手奥には倉がいくつも並んでいます。
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2つ並んだ「文庫倉」は上等な家具や調度品、日常使用しない衣類や予備の寝具、祭礼用具や書籍、そして漁場経営の記録資料など重要な家財を収納していました。
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大体40人揃いの食器や塗り物が用意されていたようです。母方の祖父母から陶器については事細かく教わり、10客揃えの物を買い求めるようにしています。歳を重ねるにつれて家で人が集まることも減ってきて、5客で十分になってきたのが寂しい気がします。
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我が家にもこんな倉があったらと思いながら見学しました。
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奥の「石倉」には20から30の酒樽が納められていたようです。漁場では網おろしや漁場切揚げ、また「廊下洗い」と称してニシン加工作業が一段落すると漁夫に酒が振舞われたそうです。
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表には身欠き鰊の干し場も残されていました。
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番屋の手前には「旧土屋家はねだし」という建物がありました。はねだしはニシン漁家の付属施設で、海岸の地形に合わせて海側に跳ねだす形で建てられた倉です。建物の床下には船がつけられ、床の開口部をとおして荷物の出し入れが出来ました。この倉には漁具や漁獲物、魚粕や身欠き鰊、数の子などの加工品を収納しました。
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「旧龍雲寺」
篠路山龍雲寺は明治19年の1886年頃、村民の努力によって創建された浄土宗の寺です。この建物は明治26年の1893年に落成した本堂で、開拓期の農村の寺院建築の様式をよくあらわしています。向拝部分は大正年間に増築されています。 -
北海道の開拓に置いて寺院が果たした役割は大きく、開拓期の農村では村が開かれるとまずは移住者の開墾生活のよりどころとして寺社が建立されました。開拓初期の寺は学校でもあり託児所でもあり、村の集会所でもありました。
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篠路山龍雲寺はこのような開拓の歴史を物語る代表的な寺院だそうです。
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時代を経た外観とは違って内部はとてもきれいなまま残されています。
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特に内陣は本尊の阿弥陀如来も置かれていて、座っていたら住職が出てきて読経が始まりそうです。
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「旧浦河公会会堂」
明治13年の1880年の神戸において北海道開拓会社「赤心社」が設立され、翌14年から西舎村や荻伏村に結社移民として入植しました。「赤心社」の指導者の多くはキリスト教徒で、明治19年「浦河公会」が組織されます。この会堂は2代目の礼拝と集会所として明治27年の1894年にに建てられたものです。社名は17条からなる同盟規則の「報国の赤心に奮起する」から付けられています。 -
最初の移住は困難の連続で、函館まで来たところで東風が常に強く吹き続けていたことから20日間の滞在を余儀なくされます。費用にも困り函館支庁に上願して官有汽船の弘明丸にて向かうことができました。農具や什器等は積載できず別の帆船に積載し浦河に到着しましたが、開墾地の住居は未だ整っていませんでした。壮年者のみ現地に行き準備を整えてからと入地が遅れ、その上航海中にチフスに感染する者があり、農具などを積載した帆船が暴風のため千島まで流される等の障害により、初年度の開墾は進みませんでした。
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礼拝堂には日曜になると農作業の手を休めたキリスト教信者達が祈りのために集まりました。普通の日には子弟の教育の場としても使われました。中2階は物置として使われていましたが、クリスマスなどで礼拝者が多い時は長椅子が置かれました。ここでは明治末期の開拓者達が精神的な支えの場とした会堂内部を再現しています。
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ようやく「馬車鉄道」の走るメインストリートに戻ってきました。妻も先に行ってしまい、街を歩いている人の姿もありません。唯一馬車が人の気配を感じさせてくれます。
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「旧藤原車橇製作所」
明治31年の1898年に兵庫県出身の宮大工藤原信吉が深川に入植し、同36年には妹背牛で車橇製造を開業しました。以後3代にわたり営業を続けたこの建物は、開業以来使われてきた車橇製作所を再現したものです。 -
手前の作業場と奥の住宅部分から成り、木造の切妻平入りの構造です。屋根の上に置かれた馬橇がこの家の商売が何だかを雄弁に語っています。ここ3年ほどヨーロッパのクリスマスマーケットに行けないのですが、この橇を見ていたら行きたい気持ちが沸き上がってきました。
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明治31年の1898年に兵庫県出身の宮大工であった工藤原信吉は深川に入植し、農業の傍ら大工を兼業していました。さらに車橇職人であった藤原清平に師事し、馬車と馬橇製作を修行します。
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明治36年の1903年には妹背牛(もせうし)に居を移し、車橇製造業を開業し、以後3代にわたり営業を続けました。
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作業場の左では金輪馬車の車輪の組み立てを行っています。完成した姿しか見たことが無かったのでその構造が詳しく分かりました。
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右側では馬橇の柴巻作業の途中のようです。
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先ほど柴巻馬橇の台木の鼻曲げ作業を再現している倉庫の見学をしてきたばかりなので、作業工程はよく分かります。
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柱に掛けられた法被が、家の主人の帰りを待っているようです。
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「旧太田装蹄所」
大正13年の1924年から昭和20年の1945年まで札幌市街の江別方面に通じる幹線道路(国道12号)沿いで営業していた装蹄所を再現しています。蹄鉄屋の名で親しまれていた装蹄所は、馬が物資運搬や農耕の主役であった時代にはどこの町や村にもみられ、馬蹄の保護には欠かせない職種でした。 -
装蹄師の資格は蹄鉄工と呼ばれていた明治時代からの免許制でした。この仕事は蹄鉄を製作する造鉄と削蹄と呼ばれる爪切り、蹄鉄を蹄に合わせて釘付けする装蹄が中心になります。
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大正13年の装蹄料金表がリアルです。夏場用の蹄鉄が1頭につき、1円60銭、古いものの直しが1円10銭、氷の上を歩く冬用は2円60銭、鋼鉄製だと3円60銭、蹄を切る剪蹄量は50戦以上1円以下とあります。これは組合で決められた公定料金のようです。
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装蹄作業は馬を木枠につないで行われました。ここにもリアルな馬の人形が置かれてあります。
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この展示は大正末期の初頭の作業場を再現し、20代の若い親方とその弟子が夏用の蹄鉄から冬用にに取り換える作業を行っています。
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積み上げられた蹄鉄が5段なのが気になりました。1頭分づつ4段にすればよいのにと思いました。しかし蹄鉄の冬用のスタッドレスがあったのは初めて知りました。
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「旧代大石三省堂支店」
札幌で家業である菓子製造の技術を習得した大石泰三が、大正14年の1925年に帯広町の繁華街電信通りに店舗を求め、菓子の製造販売を始めた建物です。親子2代にわたり、店は昭和30年まで続きました。店舗兼住宅の母屋とそれに併設する工場とを再現したものです。 -
愛媛県出身の大石菊松は旧友からの誘いがあり、倒産した札幌の「うずまき菓子店」の建て直しのために北海道へと渡りました。妻と子供7人も北海道に移住したそうです。 菊松の三男である泰三は札幌で菓子製造の技術を習得した後、大正14年の1915年に当時帯広の繁華街電車通りに面していた中古の建物を購入し、菓子の製造販売を始めます。
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帯広は当時から豆や甜菜、小麦や牛乳の産地で、昔から製菓業が盛んでした。帯広の「大石三省堂」の本店は長男の輝次郎が、この建物である支店を三男の泰三が興したそうです。本店は甘納豆を支店は最中を得意としていたそうですが、昭和に入ってからは支店では輪種(もなかの皮)を主に作っていました。
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親子二代にわたり、昭和30年の1955年まで支店の営業を続けましたが、業種転換を図り、製菓業に終止符を打ようです。子供の頃に両親が結婚式に出掛けると、引き出物は鯛や海老や貝の形に詰められた砂糖が良くありました。この落雁の鯛を見ていたらそんなことを思い出しました。
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砂糖はビニールの型に入っているので、いらなくなったそのビニールを母に貰い、庭の土を漉して水に溶いて、泥の鯛を作ったりした懐かしさを感じます。
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ブリキの菓子売りも懐かしいです。昭和40年台の初めまでは近所のパン屋さんにも同じようなものがありました。それから数年後には仮面ライダースナックを売っていたのですから、恐ろしいスピードで時代が変わりました。
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京都の寺町二条に「村上開進堂」というお菓子屋さんがありますが、改装してしまう前はこんな店の雰囲気で、ブリキ缶に入ったクッキーやロシアンケーキをよく買いに行きました。昔は年賀状もいただいて、いつも店先で買えましたが、今は予約しても数か月待ちになってしまいました。
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このガラス瓶も懐かしい思い出があります。京都の祖母は鈴虫を育てるのが上手で、このガラス瓶をいくつも手に入れて、玄関に並べていました。中学生の頃まで夏休みは1か月ほど3兄弟で京都の祖母に預けられていました。東京に帰るときに虫籠に鈴虫を入れて持たせてくれましたが、翌年に孵化することはありませんでした。
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昔はお菓子屋さんやお煎餅屋さんで一斗缶を分けてもらえました。昨年実家を潰す際に屋根裏の物置から登山道具の入った一斗缶がいくつも出てきました。
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住宅部分には囲炉裏が切られ、ダルマストーブが置かれてあります。30年以上前に弟が住んでいた農業試験場の農地公宅は家賃が5000円でしたが、築80年の煉瓦造りの建物で、家の中を煙突が何本も走っていました。
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京都などの老舗菓子店と変わらない文化が明治時代の北海道の内陸まで伝わっていたのが驚きでした。
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昔は鯛焼きもこのような焼き型で1つ1つ作っていたことを思い出します。この当時は内地と同じようなお菓子を作っていたのかもしれませんが、だんだん北海道オリジナルのものが生まれてくるのだと思います。
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この頃はお赤飯もしょっぱかったのかもしれません。現在の北海道のお赤飯は甘納豆が入って甘いものに変化しています。
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1日9往復しかしていない「鉄道馬車」をもう何度見掛けたでしょうか。それくらいこの通りをなども行き来しています。それでも村内にいる観光客は20人ほどのように思えます。
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「旧渡辺商店」
明治30年代には砂金掘りでにぎわい、大正5年の鉄道開通後は交通の要所として発達した中頓別市街に建てられた雑貨店です。漆喰仕上げの土蔵造りは石造やレンガ造とともに耐火と耐寒を目的とした構造で、北海道では建築例が少ない建物です。 -
この建物は1階が店舗で2階が座敷として使用され、店主の住宅と商品の倉庫は別棟になっていました。外壁の白漆喰が美しい建物です。両脇の戸袋からは板戸が引き出される構造になっています。
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ガラスの引き戸の外側には雨戸を引くレールが流れています。
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いかにも雑貨屋さんと行った雰囲気です。よく見ると子供の頃に見たことがあるようなものが並んでいます。
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ガラスケースには時代を感じさせる人形やぬいぐるみが並んでいます。再現するために商品を探すのも大変だったのではないかと思います。
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さすがにこのような尋常小学校の教科書は使っていませんが、大学ノートと呼ばれたNOTEBOOKは使った覚えがあります。多分妻もこの教科書は使っていないと思います。幼稚園や小学校の話をするとたまに話がかみ合わないことがあります。
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知育玩具の中にも見たことがあるものがあります。竹ひごもよく買いに行ったものです。
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学校の前にある文具店では中学校の帽子もこんな風に吊られて売っていました。夏になると被せる白いカバーや運動会用の足袋なんていうものもありました。
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神棚の並ぶ様子は京都の伏見稲荷の参道では現在も見る事の出来る風景のようです。
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店舗の左側には奥からレールが続き、トロッコで倉庫の商品を出し入れ出来るような構造になっています。
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「旧山本理髪店」
傾斜の急な切妻屋根に妻軒の棟折れマンサード、玄関の雨よけアーチなど大正期の洋風建築の特徴を残したスマートな外観は理髪業とよくなじみ、北海道神宮裏参道沿いの「床屋さん」として長く親しまれてきました。 -
この理髪店は大正の終わりに旧札幌郡藻岩村大字円山村(現:中央区南1条西24丁目)に建てられたものです。北海道神宮裏参道沿いの「床屋さん」として、昭和61年の1986年までの長きにわたり親しまれてきましたが、「北海道開拓の村」に移築され復元されています。急勾配の切妻屋根に棟折れマンサード、玄関の雨よけアーチ、間口2.5間のファサードを飾る羽目殺し窓の桟によるデザインなど大正期の洋風建築の特徴を残した外観です。
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この建物は最初に藤田さんという方により建てられ、昭和15年には荒木さんに引き継がれ、昭和19年に山本氏が購入したそうです。藤田理髪店から荒木理髪店、山本理髪店という変遷があったようです。若い女性が表から内部の写真を撮っていたのでしばらく待っていました。どうやら引き戸の開け方がよく分かっていなかったみたいです。残念そうに去っていく姿が気の毒でした。
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右側の扉は施錠してありましたが、左側は思った通りに開いていたので「中に入れますよ。」と声を掛けると嬉しそうに戻ってこられました。内部は意外に広く、理容師見習いの人を使って、手広く商売が行われていたのだと思います。
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戻ってきた女性がやけにじっくりマネキンの写真を撮っているのが気になりましたが、その時は理由が分かりませんでした。先に表に出ると声を掛けられ、自分とこの理髪店の写真を撮ってほしいとのことでした。後になってこの理髪店が「ゴールデンカムイ」の中で土方や尾形らが髭を剃ってもらっていた場所で、ほとんどこの姿で描かれていると知りました。
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若い頃に通っていた理髪店にもタオルを蒸すための蒸し器がありました。熱々のタオルを顔に乗せてもらうと気持ちよかったことを思い出します。剃刀(レザー)で顔を剃るときに使う革砥の音が懐かしく思い出されます。
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「旧島歌郵便局」
北海道で近代郵便の取り扱いが始まるのは明治5年の1872年で、島歌には明治19年の1886年に郵便局が設置されました。明治26年の1893年には畑野清治が2代目局長として就任し業務を取り扱いました。以後この局は畑野家により引き継がれ、この建物は業務用だけで局長や職員の住居は別棟でした。 -
明治末期の島歌地域はニシン漁や昆布の生産などで活況を呈していました。そのため
道内の大きな町や本州からの郵便物の取り扱いが多かったようです。 -
その当時の島歌郵便局は三等級の地方局でありながら、局長をはじめ事務雇員3人、集配人2人、逓送人2人が働いていました。この他に区内の部落ごとに切手売下所を置き、医師や商人に業務を委託しました。
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集配人や逓送人の宿直室では寝泊まりも行われたようです。
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「旧武岡商店」
武岡家は旧徳島藩家老稲田邦植に従い明治4年の1871年に淡路島から静内郡に移住し、明治15年の1882年から米穀、雑貨、荒物などを扱ってきた商家です。町の発展に伴い本格的な店舗兼住宅を新築し、明治34年の1901年には郵便局を開設するなど、この地方の商業の中心的役割を果たしました。 -
明治30年代後半になると交通輸送網の整備によって北海道の商業は大きく発展します。海路による物資の輸送が発達した静内地方では商品が豊富に出回り、店頭を飾るようになります。
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どこの町でも市街地の中心は米穀、雑貨、荒物、衣類など日常生活に必要なものを一店で揃える事の出来る万屋的な店が存在し、秋になると冬支度の買い物客でにぎわっていました。東静内の武岡商店もそのような店の1つです。
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この建物は東静内の商業の発展にともない、明治31年の1898年に本格的な店舗として建てられました。地元産のカツラやエンジュの良材を用い、窓の部分には一部洋風の意匠を取り入れた和洋折衷様式で、当時の流行を反映しています。
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ここでは明治40年の1907年頃の初頭の店舗と商家の生活を展示しています。
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とても大きな帳場囲いが商いの大きさを感じさせます。
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販売する商品も輸入ブランデーから石油タンク、醤油や酒など数多くの特約店になっていたようです。
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和洋折衷の室内は畳敷きの床にガラスの開き戸の外には鎧戸は見えます。
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10畳の和室には床の間と違い棚という数寄屋建築に倣っています。
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「粗衣淡飯足家常 養得浮生一世拙」
訳は「粗衣淡飯(そいたんぱん)家常(かじょう)足る。養い得たり浮生一世(ふせいいっせい)の拙。粗末なる衣服に味なき飯は我が家の常食だ。」で、意味は「現状に満足していては果かない一生涯の拙劣を保って終わる。これこそが心を養う事である。」宋邵康節養心歌の一部が柱に掛けられています。 -
通常は焚口が表にある風呂も冬場の積雪を考えてか、風呂場の中に設けてあります。個人の家に風呂があるのですからよほどの裕福な家だったのだと思います。
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絵に描いたような自然木で造られた自在鉤です。板の間のこの居間がこの家の住宅の中心のようです。
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その奥には台所の流しが見え、その横の土間には3つの竈が並んでいます。
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奥の仏間は障子とガラス戸ですが、手前の和室は洋風の窓が嵌め込まれています。
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一度表に出ると庭へ入る門が設けてありました。
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3つ並んだ和室の外には縁側があり、ガラス引き戸が全面に入れられています。そして大きな庭もあるので裕福だったことを感じさせます。もうお昼を過ぎようとしていて、途中からバラバラに見学していた妻もどこかへ行ってしまいました。お腹も好いてきましたが、建物が面白くて見学を止められません。
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2022/06/22~
富良野
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2022/06/22~
美瑛(びえい)
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2022/06/23~
札幌
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2022/06/23~
札幌
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2022/06/23~
札幌
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2022/06/23~
札幌
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2022/06/24~
余市
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2022/06/24~
余市
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2022/06/24~
小樽
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2022/06/25~
小樽
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2022/06/25~
小樽
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2022/06/26~
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2022/06/26~
小樽
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グランドホテル札幌とアンワインド ホテル&バー 小樽に8泊9日北海道の旅(19)ステンドグラスグラス美術館膨...
2022/06/26~
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グランドホテル札幌とアンワインド ホテル&バー 小樽に8泊9日北海道の旅(20)西洋美術館のコレクションの膨...
2022/06/26~
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グランドホテル札幌とアンワインド ホテル&バー 小樽に8泊9日北海道の旅(21)旧青山別邸と鰊御殿を見学して...
2022/06/26~
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グランドホテル札幌とアンワインド ホテル&バー 小樽に8泊9日北海道の旅(22)海陽亭に在りし日を思い、銀鱗...
2022/06/27~
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札幌と小樽の旅スピンオフ。余市のオチガビ(Occi Gabi)のワインの会で恵比寿のMONNA LISAへ行...
2022/08/07~
恵比寿・代官山
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