2022/06/23 - 2022/06/23
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kojikojiさん
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- 旅行記1759冊
- クチコミ1205件
- Q&A回答73件
- 3,459,879アクセス
- フォロワー169人
開拓の村の見学も半部を過ぎたと思います。一度妻と合流しましたが、1人で住宅の居並ぶ裏側の道を見学します。「北海中学校」から並ぶ「有島家住宅、「松橋家住宅」「福士家住宅」などとても興味深い住宅が並んでいます。1軒1軒靴を脱いで家の中に入り、その家の歴史や背景を知ると簡単に済ませる訳にはいかなくなり時間がかかってしまいます。新たに知ることや学生時代に読んだ本の背景がここにあるのかと新鮮な驚きもありました。ここで空腹には勝てなくなり、食堂に向かいました。食堂はガラガラでしたが、メニューの多くは販売されていなくて、小雨交じりの天気で肌寒かったので味噌ラーメンを注文しました。もちろんサッポロ・クラシックで喉を潤すことも忘れません。一息ついたところで妻はすでに見学を終えているので残りの建物に向かいます。「旧浦河支庁庁舎」や「旧開拓使工業局庁舎」の建物は内部に陳列されている資料も興味深く、さらに時間が過ぎてしまいます。これまで「日本民家園」や「江戸東京たてもの園」、「明治村」と数々の有名で貴重な建物の残る施設を見学してきましたが、「北海道開拓の村」は「明治村」に匹敵する施設だと思います。平日とは言えそんな施設がガラガラなのは驚くことでした。「ゴールデンカムイ」の聖地のピークは過ぎているようですが、もっと見学者がいても良いと思いました。小学生の社会科見学で生徒が来ていましたが、決まった建物のトイレとかを見て来る課題があるようで、園内を走り回っていました。そんな見学の仕方では明日にはみんな忘れてしまうだろうと思いました。北海道の小学校の社会科見学としてはそれくらいの施設なのかと思うともったいなく思えました。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 5.0
- グルメ
- 4.0
- ショッピング
- 4.0
- 交通
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 10万円 - 15万円
- 交通手段
- 高速・路線バス 観光バス 船 タクシー ANAグループ JRローカル 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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「旧札幌警察署南一条巡査派出所」
明治18年の1885年に札幌創成橋の脇に最初に建てられた交番は木造で、札幌創成橋交番所と呼ばれていました。同じ木造で一度改築されましたが、その後に個人の篤志寄付で建てかえられたのがこの建物です。壁のレンガは小口面と長手面を交互に表して積むイギリス積み手法を用いています。北海道開拓の村 美術館・博物館
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明治18年の1885年に札幌の創成橋の脇に最初に建てられたのは木造交番で、札幌創成橋交番所と呼ばれていました。初めは木造で改築された後に当時の皇太子(後の大正天皇)の行啓に際して木造交番ではみっともないとして、明治44年の1912年に六角形のレンガ造り瓦屋根の建物に建て替えられました。
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当時の札幌商工会議所会頭であった高桑市蔵の寄付によるもので、昭和45年まで南1条交番として長い間市民に親しまれてきたそうです。昭和45年の1970年には日本国中のいろいろなものが姿を消している気がします。北海道では昭和47年の1972年の札幌オリンピックに向けて町が変わったのだと思います。
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内部は手前側の事務室と奥にある取調室に分かれ、事務室では巡査が調書を書いている姿が展示されています。
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「旧北海中学校」
この校舎は明治41年の1908年から翌年にわたって建築された本館部分です。創立は明治38年の1905年で、前身は札幌農学校第三期生らが中心となり明治18年の1885年に設立した私立北海英語学校です。外観の意匠は明治半ばから大正期の官庁や学校の木造建築によく見られる様式になっています。 -
「旧北海中学校」は前身が明治18年の1885年に札幌農学校第3期生らが中心となって設立された「私立北海英語学校」です。札幌農学校の予科入学を目指す中等教育機関としてスタートしました。
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当時の義務教育は小学校まででしたので、中学校へは試験を受けて入る必要がありました。当初は夜間に授業が行なわれ、区立小学校や私塾を間借りしていました。
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明治38年の1905年には正式に中学校として認可となり、初代校長には元札幌区長で衆議院議員の浅羽靖が任命されています。札幌における私立中学の草分けであり、札幌を代表する名門私学です。
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この校舎は明治41年の1908年から翌年にわたって建築された本館部分で、事務室と職員室と生物教室などを備えています。外観の意匠は明治半ばから大正期の官庁や学校の木造建築によく見られる様式です。
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正面から見るとヨーロッパの古典様式の典型であるシンメトリーの構成になっています。連続した窓の上に三角ペディメントが備えられてる洋風の造りですが、窓は日本人になじみのある横開きになっています。
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校舎内は見事なまでに板張りで仕上げられています外壁から内壁から天井まで薄いペパーミントグリーンで埋め尽くされています。
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絵に描いたような校長室です。「私立北海英語学校」は札幌農学校へ秀れた人材を送り込む目的で始められました。浅羽靖校長をはじめとする教師たちの理想に燃えた教育活動は独自の校風となって受け継がれ、北海道の中等教育の先駆けでした。
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廊下には足踏み式リード・オルガンがたくさん並んでいました。これを見て先ほどのニシン御殿のオルガンもここから移動したのではと思いました。何とも走りたくなる廊下です。
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事務室の造りは造りは変わっても同じような雰囲気です。通っていた高校にも同じような小窓がありました。
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職員室は資料の展示室になっていました。大正時代の制服は矢絣の着物に袴にブーツという姿です。中学生の頃に読んだ「はいからさんが通る」を思い出します。
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明治時代の学制の姿も可愛らしいです。
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連続した窓の上に三角ペディメントが乗っています。日本では現在に至るまで上げ下げ窓は追着していないのが不思議です。北海道の古い建物の外壁にはこのような土管煙突が見られますが、それについての説明はありませんでした。
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「旧有島家住宅」
日本近代文学史上の代表作家の1人である有島武郎が明治43年の1910年5月から翌年7月頃まで住んだ建物です。一般の住宅にも上げ下げ窓などの洋風意匠を取り入れ始めた頃の建物です。 -
文学者の有島武郎は明治11年の1878年に東京で生まれましたが、札幌農学校へ進学後12年間に渡り札幌やニセコで暮らしました。この建物は有島が明治43年の1910年5月から翌年の7月頃まで生活した家です
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北海道で一般の住宅にも洋風意匠を取り入れ始めた頃の建物で、鉄格子のついた上げ下げ窓や雨戸のある縁側などが施されています。内部には有島についての資料が展示されています。
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有島はこの家で「或る女のグリンプス」を執筆しましたが、この中に「豊平川沿右岸の1町歩ほどもある大きなリンゴ園の中にあった借家」とあるのがこの建物です。
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この家で生まれた3人の子どものために書いた本もあります。妻の安子は27歳で亡くなりますが、2人の間に子として行光、敏行は第2次世界大戦中に若くして結核で亡くます。行三は母方の神尾家を継ぎ男爵となります。
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この家に住んでいた当時の有島は東北帝国大学農科大学(札幌農学校、現在の北海道大学の前身)の予科教師でした。昼働く人のために夜学校で教えたり、父から譲り受けた農場の土地を小作人達に譲ったりと、とても多くの人から喜ばれたといいます。
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代表作の「生まれ出る悩み」や「小さき者へ」の中にこの住宅が登場します。「生まれ出る悩み」のモデルとなった木田金次郎と出合った家でもあるそうです。
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「生れ出づる悩み」は中学生の頃に読んだ記憶がおぼろげに残っています。今までの仕事を捨て文学者になったものの思うような創作ができず思い悩む「私」の元に、ある日スケッチ帖と手紙が届きます。それは10年前に「私」が札幌に住んでいたとき絵を見せに来た少年「君」からでした。
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「君」のことを気にかけていた「私」は「君」に会いたい旨を伝え、2人は再会を果たします。「君」はたくましい青年になっており、家の困窮のため故郷で漁夫として働いていました。スケッチは忙しい仕事の合間に描いたものだったのです。
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絵を描きたくても暇がない、そもそも漁夫の仕事を投げうっていいほど自分に才能があるのかも分からないと苦悩する「君」に、全く別の立場ですが表現することに苦しんでいた「私」はひどく共感し、「君」の漁夫としての暮らしや芸術に身を捧げたい気持ちを想像していきます。そして最後に「君」や「君」と同じような悩みを抱く者たちに最上の道が開かれることを祈るのです。
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「旧松橋家住宅」
明治・大正・昭和にわたる都市生活者の住宅で、大正7年の1918年以来松橋家が居住していました。松橋家は明治初期に秋田県から札幌に移住し、農業及び土地会社経営に従事しました。建築以来数度の増改築が見られますが、大正7年の状況に復元したものです。 -
この建物が建っていた中央区北1条東7丁目周辺には、北海道帝国大学総長や北海道庁長官が住んでいました。
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松橋家は明治初期に秋田県から札幌に移住し、農業及び土地会社経営に従事しました。 この家には精神療法関係をはじめとする3000冊の本が展示されていますが、これは松橋家の基礎をつくった松橋吉之助が残したものです。
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松橋吉之助は小学生の頃から学校の行き帰りに野菜を売ったりしながら家計を助けていました。中学校を途中で辞めた後、農業をしながら自分で宗教や哲学の勉強をしたそうです。
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その後に北海道炭礦鉄道会社に入り、札幌駅助役や江別駅長、岩見沢駅長を勤めますが健康を害して退職します。東京へ病気療養のため上京した際に精神療法の研究家である桑原天然と出会い、精神哲学や精神療法を学びました。自らも明治40年の1907年に諸病治療と諸法術原理を説いた「思念術」という著作を刊行しています。
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この建物には違い棚のある床の間や廻り縁付きの離れや3畳の女中部屋があり、古いしきたりの残っていた明治や大正の家族制度と住宅のつながりを知ることが出来ます。
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「旧福士家住宅」
幕末から明治期にかけて造船・通訳・気象観測・測量など広い分野で活躍し、北海道開拓に貢献した福士成豊が明治半ばから大正11年まで居住した建物です。明治前期の洋風建築と明治後期の和風住宅を接続した特異な建物といえます。 -
船大工の子として生まれた福士成豊は造船技術を父から学ぶと共に独学で英語を学び、お雇い外国人ホーレス・ケプロンの道内調査団に通訳として同行し、さらにはブラキストン線で有名なブラキストンから気象観測を受け継ぐといった才能の持ち主です。
旧福士家住宅 名所・史跡
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明治8年の1875年にはロシアのペトロパブロフスクに出張し、翌年には千島列島を調査と測量して「クリル諸島海線見取図」を作成します。その後も北海道の測量や気象観測事業の上で指導的役割を果たしています。さらに福士成豊は新島襄のアメリカ密航を手伝った人物としても知られています。
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この建物は明治前期の洋風建築と明治後期の和風住宅が混合された建物ですが、ここに成豊は明治半ばから大正11年の1922年まで居住していました。
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成豊はこの建物の中で洋服を着て、朝昼はパンにバター、ジャムや牛乳の食事をし、ベッドで寝るという洋風な生活をしていたそうです。西洋下見板張り、上げ下げ窓付きの洋館は明治前期の洋風建築の特徴を残しています。
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明治中期までの札幌の一般的な食事はご飯に味噌汁、漬物に魚や野菜の煮つけといったもので、台所用具も鉄鍋や釜、水瓶に竈といった本州と変わりないものでした。明治初期に開拓使が行った洋食の症例の一部が受け継がれ、トマトやキャベツなどの西洋野菜や肉、バターなどの乳酪製品を用いる料理が復旧していきます。一般家庭でフライパンや西洋皿、スプーンなどを使い始めたのもこの頃からです。
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「旧開拓使爾志通洋造家(白官舎)」
この建物は開拓使の官舎として建てられましたが、完成後には順次払い下げられました。アメリカ中西部の建築様式を模範とし、外観は洋風ですが、内部は座流しや畳敷きなどの和風で、和洋折衷になっています。 -
外観に白ペンキが塗られていたことが、俗称「白官舎」の由来で、1棟2戸建ての建物が4棟並んで建てられていました。この建物は明治11年の1878年に完成した開拓使の職員住宅ですが、完成後に順次払い下げられました。
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外観に白ペンキが塗られていたことが、俗称「白官舎」の由来で1棟2戸建ての建物が4棟並んで建てられていたといいます。外観はアメリカ中西部の建築様式を模範とし、上げ下げ窓や西洋下見板張りといった洋風仕立てになっています。構造はツーバイフォー工法の一種で、時計台と同様にバルーンフレーム工法が使われていますが、内部は座って台所仕事ができる「座流し」や畳敷きや襖からなる和風になっています。有島武郎の小説「星座」の舞台として知られています。
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「旧手宮駅長官舎」
明治13年の1880年に北海道で初めての鉄道として幌内鉄道が敷設されました。その職員官舎として建てられたのがこの建物です。骨組みや上げ下げ窓など外部の意匠に洋式の手法が用いられています。この建物は手宮官舎5号と呼ばれていたもので、同じ形式のものが6棟建てられました。 -
建物の外観は洋式の意匠が用いられていますが、奥の板張りの台所には炉を設け、上部には煙出しの窓があり、間取りにも伝統的な和風建築の要素がうかがえます。
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明治期の小樽港は手宮を中心として、石炭や木材の積み出し港としてにぎわっていました。本州からの移住者はここから幌内鉄道に乗り換え、札幌や奥地に向かいました。そう考えるとやはり新潟か敦賀から小樽港へフェリーで入らなければと思ってしまいます。
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また今回この「北海道開拓の村」の見学の後に余市や小樽をじっくり見ることが出来てよかったと思います。先に勉強しておく方が姿の変わった小樽の町でも明治や大正の時代を感じることが出来ました。
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大正初期の駅長家族の生活が再現されていますが、緊急時用に電話は必需品だったことがうかがえます。壁に掛けられた制服などが主のいない家の中で寂しく思えます。
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家の大きさが子供の頃の最初の家のスペースに似ているような気がしました。小さい家でしたが、弟たちも含め子供が大きくなるまでは手狭には感じませんでした。
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台所も人造テラゾーの流しに水道が繋がっているだけでした。冷蔵庫と洗濯機は早くからありました。笑い話として残っているのが、母は初めてその家を見た時にあまりに小さくて嬉しかったということです。京都の家は部屋が30近くあり、掃除をするのが嫌だったので、単純に掃除が楽だと思ったそうです。
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上手い具合に妻と再会できたのでお昼にすることにしました。営業しているのは「開拓村食堂」だけでした。
朝から昼過ぎまで開拓の村にいたらお昼を食べるのはここ1択ですが、意外に美味しかったです。 by kojikojiさん開拓の村食堂 グルメ・レストラン
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事前にネットでメニューを確認していたのですが、楽しみにしていたジンギスカン類は全て販売中止になっていました。仕方ないので晩御飯は札幌市内でジンギスカンを食べることにしました。
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まずはサッポロ・クラシックで喉を癒します。午前10時前から午後1時まで歩き通しだったので喉が渇いていました。
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たまに霧雨が降るくらいで傘の必要はありませんでしたが、肌寒いくらいだったので味噌ラーメンにしました。ところがこのラーメンが美味しいのです。この1か月で旭川の「一蔵」、札幌ラーメン横丁の「ひぐま」「けやき」、旅の終わりには「白樺山荘」でも食べましたがどこも塩分が強すぎました。昔家の近所に「道産子ラーメン」というチェーン店のラーメン屋があったのですが、そこの味噌ラーメンが大好きでした。その味を思い出しました
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妻はきのこ蕎麦をぺろりといただいていました。まだまだ見学する建物は残っているのですが、当初の予定の終日ここの見学までは時間はかからなそうです。すでに全部見終わっている妻を食堂において、駆け足で見学を再開します。
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気持ちは駆け足なのですが、興味あるものに出逢ってしまうと時間を忘れてしまいます。それでもあと1時間ほどで見学が終わりそうです。東京に帰って来てから気が付きましたが、この食堂の裏には北大にあった「旧札幌農学校寄宿舎(恵迪寮)」が移築されていました。弟が入寮したくて北海道に渡りながら入れなかった寮を見るのを忘れてきました。
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「旧浦河支庁庁舎」
明治30年の1897年に北海道庁が郡区役所を廃止し支庁制度を設けた結果、浦河支庁が置かれました。この建物は大正8年の1919年に地元の浦河村および道庁の費用で建築され、昭和7年の1932年に日高支庁と改称されます。昭和31年の1956年に浦河町に払い下げられた後は、堺町会館や博物館として利用されていました。 -
明治30年の1897年に北海道庁は郡区役所を廃止し支庁制度を設けた結果、浦河支庁が置かれることとなりました。この建物は大正8年の1919年に地元の浦河村及び道庁の費用で建築されましたが、昭和7年の1932年には日高支庁と名前が変わりました。
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さらに昭和31年の1956年に浦河町に払い下げられた後は、堺町会館や博物館として昭和53年の1978年まで利用されていました。
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以前建っていた庁舎も木造でしたが、火事で延焼したために新庁舎は石造にしようとの意見が多かったものの、石を用意するのが困難であったことから石造りのデザインを意識して造られました。
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外観はバルコニーに上げ下げ窓、玄関ポーチやその上のアーチ窓、三角ペディメントに軒廻りに装飾が施されており、基本的には洋風古典様式を採用していますがシンメトリーにはなっていません。
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室内は階段手摺や腰壁の羽目板張り、壁の漆喰塗りなど当時の雰囲気が再現されています。建物の中には支庁制度の移り変わりなどの資料や、人力車など当時使われていた道具が展示されています。木造建築としては最後の支庁建築になります。
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インテリアを見ていると以前に行った大連の「大連満鉄旧跡陳列館」を思い出しました。妻と2人で行った旧満州の旅は大連から旅順、瀋陽から長春と哈爾濱まで列車で移動して、宿泊は全て昔の「大和ホテル」を予約しました。哈爾濱から大連までの戻りは夜行寝台も利用しました。すでに大連と旅順間の鉄道に乗ることは出来ないので、その時に旅しておいて良かったと思います。各都市で見た往時の建築も良く保存されていました。
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2階の部屋に置かれてあったベンチを見て頭に浮かんだのが黒田辰秋の名前でした。キャプションを読んでみると黒田辰秋の指導により、札幌工業高校の卒業生が製作したとありました。
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黒田辰秋が指導した作品は道内に11点残っているそうですが、これはそのうちの1点だそうです。
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「迎賓馬車」
北海道で迎賓馬車が使用されたのは20年代からで、使用者も官庁や牧場主に限られていました。ここに展示されている馬車は明治39年の1906年から札幌の鉄道作業局北海道出張所で使用されていたものを大正10年の1921年に王子製紙江別工場が購入し、昭和20年代まで工場長や事務長の公務、来客の送迎に使われました。 -
「人力車」
人力車は明治の初め頃に日本人が考え出した乗り物で、現在のタクシーやハイヤーの役目を果たしてきました。北海道でも明治の中頃から函館や小樽や札幌を中心に利用されてきました。この人力車は明治40年頃に士別の商店を経営していた西条武平が小用に使用していたものです。 -
明治44年に竣工した北海道庁旧本庁舎の避雷針が納められていました。
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大正8年の浦河支庁開庁式の記念写真です。太平洋戦争を前に近代日本の一番良い時代だったのでしょうか。
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大正8年から昭和27年まで増築が繰り返されたことにより、巻貝が育っていくように建物が大きくなっていったようです。
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子供の頃に「国勢調査」があり、このポスターに書かれているように調査人が家を訪れるのをドキドキしながら待っていた記憶があります。昭和45年の記憶がありませんが、10月1日は何か世の中が変わってしまうような気がしました、
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当時の支庁長室の様子が再現されています。机上の算盤と硯と仕舞われてある印鑑ですべてが決済されていたシンプルな時代を感じます。
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壁に架かる扁額の「良草産駿馬」が意味が分かりやすいです。日高管内は全国の約8割の競走馬を生産し、その中で浦河町は年間約1,800頭近くを生産する軽種馬の町です。その基盤は明治40年に日高種畜牧場が西舎地区に設置されたことに始まります。昭和12年に英国産「セフト号」を輸入し、その産駒から数多くの名馬が誕生しています。その後は「シンザン」「タケホープ」「カツラノハイセイコ」などの多くの名馬が生産されています。
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2階の展示室の見学に移ります。2階にある3部屋は事務室としてあてがわれていました。現在は北海道に関わる資料の展示室になっています。最初の部屋では「北海道のあかり」と「北海道の暖房」の展示が面白かったです。
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渦巻き鍵と小槌などがデザインされた「炉かぎ」が吊るされていました。月初めに行った増毛町の「旧商家丸一本間家」の囲炉裏の炉鉤も見事でした。今まで見た炉鉤で一番美しかったのは京都の河井寛次郎記念館のものでした。
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懐かしい「櫓こたつ」です。これは畳の上に炭の入った箱を置いて被せるものですが、我が家にあったのは櫓のしたが掘りごたつになっていて、一段下がった所に炭が置けて、金物のカバーをが撫せていました。よく靴下を焦がしたものです。
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「ダルマ型ストーブ」主な薪ストーブは上から見た形状から「丸型」「小判型」「ダルマ型」「時計型」がありました。多くは薄型鉄板製で明治の中頃から急速に普及します。鉄板製の薪ストーブは鋳物のような特殊な設備が無くても造ることが出来たことから、様々な形状のものが各地で製作されます。
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「地球型ストーブ」
石炭ストーブの一種で列車の暖房具として用いられました。明治30年代から使用され、通称「タコストーブ」として多くの人に親しまれました。燃焼筒の独特な形は乗客が魚や餅などを焼いて臭いや煙で車内が汚れるのを防ぐためともいわれます。 -
「ズンドウストーブ」
鋳物製の石炭ストーブで、灰取り台の上に燃焼胴を乗せただけの簡単な構造です。国産の石炭ストーブとしては初期の形をとどめています。大型の鋳物が製造可能になってからは学校や工場や駅で「ダルマストーブ(北海道での通称)」が広く利用されました。 -
「ルンペンストーブ」
石炭ストーブの一種で、簡単な構造で質の悪い石炭でも使用できるので広く一般家庭で用いられました。燃焼途中に石炭を追加できないので2台のストーブを交互に用いました。「ルンペン」はドイツ語でぼろから転じて浮浪者や乞食のことを意味し、同じ意味で日本語化もしている。2台が交互に働くことをさして「片方が働いているときには、もう片方は(雇用を奪われて)働いていない」という意味から名付けられたという説があります。 -
「貯炭式ストーブ」
貯炭槽に石炭を詰め、長時間燃え続ける貯炭式ストーブは投炭の際に出る煤煙や煙が部屋に蔓延することも無く、座敷でも使えるストーブとして人気がありました。昭和初期には国産の安価な貯炭式ストーブが普及し、長い間家庭用石炭ストーブとして利用されます。小学校と中学校の教室にあったのもこのタイプのストーブで、ストーブ当番の時はコークスを倉庫まで取りに行って、火をつけた記憶が蘇ります。 -
「旧開拓使工業局庁舎」
明治6年の1873年に設置された開拓使工業局は、道路・橋梁・官庁・学校などの施設をはじめ、家財、機械・農具・車両などの製造事業を行い、本道開拓の発展に大きな業績を残しました。この建物は明治初期の洋風事務所建築の特徴を示し、開拓使関係庁舎としては現存する唯一のものです。 -
開拓使は北方開拓のために明治2年の1869年から明治15年の1882年まで置かれた官庁です。北方開拓のためにさまざまな分野の業務を行なってきましたが、その中で建築や土木や工業分野を統括していたのが明治6年の1873年に設置されたこの開拓使工業局庁舎です。札幌の大通り東1丁目2丁目一帯に大きな工場を有し、この庁舎はその中央にありました。工業局の中には建築のセクションもありました。 開拓使は風土に適した建物の防寒対策等を図るために洋風建築の導入を進めました。
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通りぬけの玄関ホール兼階段室をもつプランに柾葺きの屋根、大棟端の頂華、西洋下見板張りに外壁のペンキ塗り、上げ下げ窓や軒先のブラケットの装飾、ポーチの破風飾り1階窓の三角ペディメントなどに米国建築書を参考にした洋風建築の特徴が見られます。
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工業局営繕課の設計業務の実態を示す歴史的価値の高い建物ですが、明治初期の北海道開拓を支えた同局工作場の現存唯一の遺構であり、時計台や豊平館よりも古いものです。開拓史の建築は明治10年の1877年を境として様式の変化が見られます。明治10年以前はデザインや装飾に凝ったアメリカ東部の古典様式を取り入れ、それ以後は西部開拓地の木造建築の様式を取り入れており、その境にあるのがこの建物とされます。
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「ロシア型乗馬馬橇(複製)」開拓使工業局器械場製
明治7年の1874年に樺太在住のロシア人から、時の樺太庁を通じ雪道用の馬橇を1台購入し使用したのが、ロシア型馬橋が北海道へ導入された最初です。その後の明治12年12月に黒田長官がロシアを視察し、ウラジオストック市に出張した際に乗馬車2台と馬橇1台及び馬4頭を購入します。 -
「ロシア型乗用馬車(複製)」開拓使工業局器械場製
購入した馬車と馬橇を見本に当時の官有工場であった札幌工業局器械場の木工所で馬車と馬橇の試作に着手されたものが基礎となり、広く一般に利用されることになります。 -
「ビール売捌所表札(複製)」
農業と勧業の柱になったのがビールの醸造で、原料の大麦とホップの調達、低温で発酵と熟成させるビール造りには欠かせない氷が豊富に手に入る北海道は、ビール造りに必要な条件に恵まれていました。 -
明治9年の1876年にドイツで醸造法を学んだ日本人技術者らも集まってサッポロビールの前身となる開拓使麦酒醸造所が誕生します。
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「ビール商標(複写)」
明治17年当時の北海道事業管理局札幌麦酒製造所のラベルはこんな感じだったのですね。この星は「五稜星」と呼ばれ、蝦夷地を開拓していた開拓使たちが、北海道へ向かうときに目印にしていた北極星を意味します。 -
鮭の缶詰と鱒の缶詰が並んでいました。明治17年のラベルが貼られてありますが、懐かしいデザインです。現在も鮭のイラストは変わりませんが、マルハニチロのあけぼの印の缶詰に引き継がれています。子供の頃は「さけ(からふとます)」「しろざけ」「べにざけ」「工船べにざけ」などがありました。
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鮭缶の歴史は旧ニチロの前身である日魯漁業創業者の堤清六と平塚常次郎の苦い経験からはじまっています。日露戦争後、カムチャツカ海域の漁業の自由化にともない無尽蔵の鮭を2人は手に入れることに成功します。優良な漁場ではありましたが多く捕れるのはベニサケであり、シロサケのようにポピュラーでないため日本国内では安値で買いたたかれてしまいました。そこで利益をあげるにはベニサケを缶詰しようと考えます。この事業が成功し、日魯漁業は塩魚は国内、缶詰は輸出の販売政策により事業を拡大していきました。
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大正12年の関東大震災では横浜の倉庫にあった5万ケースのサケ缶が火災に巻き込まれ、焼け残った缶詰は被災者に配布されます。震災後に缶詰の需要が大幅に伸びているのは、缶詰の価値が国内に広まってきたからではと思われます。第2次世界大戦の戦時中は国策として缶詰を生産し、国民の貴重な蛋白源と位置づけられていました。
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終戦になると日魯漁業の缶詰生産のほとんどを担っていたカムチャツカをはじめとする海外拠点をすべて失い、従業員もシベリアへ抑留されるという悲劇に見舞われます。戦前より行っていた母船式サケマス漁業を再開し、母船内に缶詰等を生産できるラインを設けて、水揚げ直後に加工する鮭缶を生産することに成功します。一時は戦前の生産量まで回復したにもかかわらず、1970年代に入ると二百海里規制により母船式サケマス漁業は終焉をむかえます。
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この日何度目かの「馬車鉄道」がやってきました。4時間ほど歩き続けて疲れましたが、馬車の馬も頑張っているので元気をもらいました。
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キャットミントの花の中を進む馬車の姿が絵になります。
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「北海道開拓の村」の見学はまだまだ終わりが見えてきません。
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2022/06/23~
札幌
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グランドホテル札幌とアンワインド ホテル&バー 小樽に8泊9日北海道の旅(9)小樽の鰊御殿へ行く前に開拓村で...
2022/06/23~
札幌
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2022/06/23~
札幌
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2022/06/23~
札幌
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2022/06/24~
余市
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2022/06/24~
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グランドホテル札幌とアンワインド ホテル&バー 小樽に8泊9日北海道の旅(14)旧越中屋ホテルに泊まり、昭和...
2022/06/24~
小樽
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2022/06/25~
小樽
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グランドホテル札幌とアンワインド ホテル&バー 小樽に8泊9日北海道の旅(16)小樽港からオタモイ岬までの海...
2022/06/25~
小樽
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2022/06/26~
小樽
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グランドホテル札幌とアンワインド ホテル&バー 小樽に8泊9日北海道の旅(18)似鳥美術館のティファニーのス...
2022/06/26~
小樽
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グランドホテル札幌とアンワインド ホテル&バー 小樽に8泊9日北海道の旅(19)ステンドグラスグラス美術館膨...
2022/06/26~
小樽
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グランドホテル札幌とアンワインド ホテル&バー 小樽に8泊9日北海道の旅(20)西洋美術館のコレクションの膨...
2022/06/26~
小樽
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グランドホテル札幌とアンワインド ホテル&バー 小樽に8泊9日北海道の旅(21)旧青山別邸と鰊御殿を見学して...
2022/06/26~
小樽
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グランドホテル札幌とアンワインド ホテル&バー 小樽に8泊9日北海道の旅(22)海陽亭に在りし日を思い、銀鱗...
2022/06/27~
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札幌と小樽の旅スピンオフ。余市のオチガビ(Occi Gabi)のワインの会で恵比寿のMONNA LISAへ行...
2022/08/07~
恵比寿・代官山
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旅行記グループ 2022札幌・小樽の旅
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