2016/10/14 - 2016/10/28
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jijidarumaさん
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2016年ドイツの秋:ライン・モーゼル・アール・ミュンスターラントの旅
2016年10月14日(金)~10月28日(金)15日間
≪行程概略≫
第12日:144km *
アンホルト城をスタートし、古代ローマ軍団の都市であり、「聖者たちの場所」の意味であるXantenクサンテン
を観光する。ここも久しぶりの訪問になる。
帰途は少し遠回りして、古城ホテル オッセンベルク城を訪ねてみる。
アンホルト城に早く戻れば、こちらでお茶にしても良い。
写真はXantenクサンテンの大聖堂内:聖ヴィクトルの黄金の棺
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 交通手段
- レンタカー
- 航空会社
- ANA
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
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<古代ローマ軍団の都市・聖者たちの場所クサンテン観光>
第12日:10月25日(火) 144km、午前中は小雨、後曇り、8.5~13.5℃*
古城ホテル アンホルト城 =>L459・605・468・467・B67・L? 19km Burg Boetzelaer古城ホテル ブートツィリア城 =>L?・B67・B57 15km Xantenクサンテン=>B57・L? 18km Schloss Ossenberg古城ホテル オッセンベルク城 =>L?・B57・B58 (Weselヴェーゼル)B58・L?・B58・A3・B67(Reesレース) 92km Isselburg-Anholt・イッセルブルク・アンホルト 古城ホテル アンホルト城
写真は古城ホテル アンホルト城:部屋を出た先の廊下・・エレベーターがある -
写真は古城ホテル アンホルト城:部屋を出た先の廊下は屋根裏だから狭い
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*起床7:00、朝食は昨夜のレストランで8:15~8:40。
写真は写真は古城ホテル アンホルト城:朝食は昨夜と同じ場所 -
写真は古城ホテル アンホルト城:かつてのレストランはサロンになっていた。
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写真は古城ホテル アンホルト城:かつてのレストランはサロンになっていた。
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10:20にアンホルト城を小雨の中、スタートした。何やら印象は雨の旅か!
写真は古城ホテル アンホルト城:広いロビー -
出かける前に小雨の中、いつものようにアンホルト城を撮る。
ついでに、歴史のおさらいです。
<アンホルト城の歴史>
ミュンスターラント地方の西部に位置するアンホルト水城はノルトライン・ヴェストファーレン州では数少ない個人所有の城である。
ここはオランダに近いためにその昔はオランダ・Utrechtユトレヒトの教区に属していた。城の起源は1169年、ユトレヒト司教領主治下のHerr von Sulenズレンの騎士領主により築城された。
1380年、ズレンの騎士領主は男系が無く、アンホルト城を失い、Herberga von Sulenヘルベルガ・ズレンの夫Hermann III. von Gemenゲーメン家のヘルマン3世が城主になった。
所がこの夫婦も男系の相続人がいなかったので、1402年、ゲーメン家のMargaretha von Gemenマルガレーテと結婚したGysbert von Bronkhorst-Batenburgギスベルト・ブロンクホルスト・バテンブルクがアンホルト城を治めることになった。
1431年にはKaiser Sigismund皇帝ジギスムントにより、ブロンクホルスト・バテンブルク家は正式にアンホルトの領地を認められた。
15~17世紀にかけて、*Herzogtum Kleveクレーフェ公国と*Herzogtum Geldernゲルデルン公国(いずれも神聖ローマ帝国領内にあった領邦)の争い、八十年戦争(オランダの対スペイン独立戦争:1568~1648年)が起こると、アンホルト城も巻き込まれ、25年の間、ゲルデルン公国が治下に置いた。
1531年、ゲルデルン公国の縁戚だったDietrich IIIディートリヒ3世がアンホルト城の支配権を認められ、Dietrich IVディートリヒ4世が亡くなると、皇帝は伯爵に叙任している。
1647年、彼の娘Maria-Annaマリア・アンナはReichsgrafen Leopold Philipp Carl zu Salm, Wild- und Rheingraf帝国伯レオポルト・フィリップ・カール・ザレム及びヴィルト・ライン伯にアンホルト城を譲渡した。
1700年頃に城域も拡張され、宮殿としての特徴を持つ、堂々たるバロック城館になった。
写真は古城ホテル アンホルト城:ザレム公爵の居住塔・博物館 -
1743年、Nikolaus Leopoldニコラウス・レオポルトは ザレム公の称号を得た。
1810年、ウィーン会議でザレム公国は未承認となり、領土はプロイセンのものになった。
但し、アンホルト城はザレム公の居城として、認められた。
第二次大戦では二度も爆撃を受け、70%が戦禍を被ったが、1945年以降、Fuersten Nikolaus Leopold zu Salm-Salmニコラウス・レオポルド・ザレム公爵によって再建された。
1968年、アンホルト城は古城ホテルをオープンした。
当時からHeinz Bruneハインツ・ブルーネがホテルの経営に携わっていたが、その後もザレム公爵家の借地人ながら、ホテル・レストラン営業を継承した。
現在もザレム公が城主・所有者として、この城に住んでいる。
写真は古城ホテル アンホルト城:中庭の花壇に -
イチオシ
写真は古城ホテル アンホルト城:ザレム公爵の居住塔・博物館入口・・・公爵様用の大きなメルセデス・ベンツです。
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<アンホルト城のホテル・庭園・博物館・ゴルフ場>
現在、左手に見える城の本館は「博物館」になっているが、12~4世紀に建てられている。
宮殿内装ではオークの大きな階段が特に目を引き、先祖の肖像画が並ぶ廊下がある「騎士の間」、フランドル地方のタペストリーで飾られた「祝宴の間」、17、8世紀の日本や中国の「陶磁器コレクション」、16、7世紀のオランダ(レンブラント)、ドイツ(ホルバイン)、イタリア、スペインの巨匠たちの「絵画700」が展示されている。
写真はアンホルト城: 博物館の絵画 -
開館:ガイド付き11~16時。
尚、10月1日から翌年4月30日は冬期間で、主に日曜の午後開館している。
この為、見学は出来なかったのだが・・・。
http://www.fuerst-salm.de/
写真は古城ホテル アンホルト城:博物館・・・祖先の間 -
写真は古城ホテル アンホルト城:博物館内
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写真は古城ホテル アンホルト城:博物館内
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*Herzogtum Kleveクレーフェ公国
神聖ローマ帝国の領邦国家。
首都はKleveクレーフェにあった。
その領域はライン川両岸に広がっていて、現在のドイツ(ノルトライン・ヴェストファーレン州の一部)とオランダ(リンブルフ州、北ブラバント州、ヘルダーラント州の一部)に跨って存在した。おおよそ現在のKleveクレーフェ郡、Weselヴェーゼル郡 、Duisburgデュイスブルクに相当する。クレーフェ伯領が史料で最初に登場するのは11世紀のことで、1417年に公爵領に昇格した。
*Herzogtum Geldernゲルデルン公国
神聖ローマ帝国領内のNiederrheinisch-Westfaelischer Reichskreisニーダーライン・ヴェストファーレン地域と現オランダ低地地方北部にあった領邦。1339年に公爵領に昇格した。
首都はGeldernゲルデルン。
北と南はユトレヒトの大司教国、東はミュンスター侯爵・司教国、ケルン選帝侯国、クレーフェ公国、南をブラバント公国、西はオランダ伯領に隣接していた。
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写真は古城ホテル アンホルト城:ザレム公爵の居住棟とホテル棟の間にも水堀がある。 -
写真は古城ホテル アンホルト城:ザレム公爵の居住棟とホテル棟の間にも水堀がある。こちらは拡大版。
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写真は古城ホテル アンホルト城:ホテル棟前の車寄せ、中央にレセプションの入口がある。
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本館にくっついている“Dicke Turm太っちょの塔”は最も古く、12世紀のものだそうだ。
もともとは緊急時、避難塔の役割を持っていたから、縄梯子を伝って出入りした。 その塔の下には地下牢があり、 今日ある3つの上階は17 世紀に造られたもの。 「太っちょの塔」に 隣接する部屋は当初は見張りの部屋や武器室として利用され、後に図書室となっている。
写真は古城ホテル アンホルト城:左にザレム公爵の居住棟と太っちょの塔、右にホテル棟 -
18世紀の「オランタ式幾何学模様庭園」を第一に、水城の周囲の大庭園は美しい。庭園の周辺はもう森で、なんとも言えぬ良い環境にある。
写真は古城ホテル アンホルト城:庭園 -
1968年から右手の建物を「古城ホテル・レストラン」として、開業した。
写真は古城ホテル アンホルト城:正面、白い跳ね橋を過ぎ、本城の中庭に至る。 -
写真は古城ホテル アンホルト城:ホテル棟の左手にテラスレストラン、その上に私共の部屋の小部屋(守衛所)が先っぽだけ見える
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写真は古城ホテル アンホルト城:庭園入口・・・レセプションで入園用コインをもらわないと入れない(宿泊客は無料)
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写真は古城ホテル アンホルト城:城門・・・今日も雨模様の朝。
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前回の旅行記の写真の如く「18Hのゴルフ場」も備えていて、デュッセルドルフ在住の日本人たちも結構利用しているようだ。
私自身はゴルフ下手なので、かつて一度も利用した事が無い。
写真は古城ホテル アンホルト城:ホテル客用の駐車場案内。
ゴルフ場用の駐車場もあるので、数は多い。 -
イチオシ
写真は古城ホテル アンホルト城:入口には古城ホテルの看板も見える・・左右に駐車場。中央奥に城門があります。
これからクサンテンへ観光に出かけます。 -
今日も久しぶりの訪問になる、古代ローマ軍団の都市であり、「聖者たちの場所」の意味であるXantenクサンテンを観光する。
帰途は少し遠回りして、古城ホテル オッセンベルク城を訪ねてみる。アンホルト城に早く戻れば、こちらでお茶にしても良い。
写真は古城ホテル アンホルト城からクサンテンへの道・周辺Map -
又、ライン川の対岸にある小さな古城ホテルも見たいと、一応調べておいた。
古城ホテル ブートツィリア城は意外と分かりや易い場所にあったので訪ねてみたのだ。
アンホルト城から19kmの距離になる。
写真はBurg Boetzelaer古城ホテル ブートツィリア城の周辺案内図 -
Burg Boetzelaer古城ホテル ブートツィリア城: ⑱
D-47546 Kalkar-Appeldorn 、Reeser Strasse 247
http://www.burgboetzelaer.de/appc/index.php
10:50~11:00
写真は古城ホテル ブートツィリア城の裏手 -
4星・全10室。13世紀にBoetzelaerer Meeresブートツィリア湖畔に築城された。Familie von Boetzelaerブートツィリア家(オランダの貴族)が凡そ500年の間、居住してきたと云う。
デュッセルドルフ空港まで57kmの距離にある。
写真で見ていたので分かっていたが、正面外観はモダンな様子である。
裏を回ると周辺が沼に囲まれた水城の様相を見せていた
写真は古城ホテル ブートツィリア城:外観はモダンな正面 -
写真はBurg Boetzelaerブートツィリア城:1746年の絵
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ブートツィリア城から元の道B67に戻り、少し走って左折するとB57になる。
そのうちに右手にローマの遺跡が復元された建物が見えてくる。
ぐるりと案内表示に従って走ると、大聖堂に近い駐車場が出てきた。
15km、久しぶりのXantenクサンテンである。
写真はXantenクサンテン:市街図・・・市城壁の中が大聖堂のある旧市街 -
≪古代ローマ軍団の都市・聖者たちの場所Xantenクサンテン観光≫
11:20~15:25
http://www.xanten.de/
海抜 24~75 mと所謂、ライン川沿いの低地に都市が出来た。
この地はたいへん珍しい、読めない都市名である「聖者たちの場所=Xantenクサンテン」と9世紀に名付けられた。
Duisburgデュイスブルクから北西に30kmの距離、オランダ国境に近く、ライン川左岸に位置する、人口約2万1千人という小さな町である。
写真はXantenクサンテン:旧市街図の2番が大聖堂、4番はローマ時代を再生しつつある公園 -
ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥス(在位:紀元前27~紀元14年)の時代に、ライン川右岸のゲルマン人に対抗して建設された古代ローマ軍団の都市が始まりである。
だが、ここを拠点としたローマ軍がトイトブルクの戦い(ウァールスの戦い)でゲルマン軍に敗北し、ローマ帝国の国境(リーメス)はライン川となり、それ以東のゲルマニアへ領土を拡大する意図を失った。
植民市(コロニア)としての地位が認められ、コロニア・ウルピア・トラヤーナと称されたクサンテンはコロニア・アグリッピナ(現在のケルン)に続いて、ローマにとって重要な地位を占めた。
その後、ローマ帝国が衰退していく中、275年にはゲルマン人の襲撃を受けてコロニアは荒廃した。
中世になると、新たな集落が教会・修道院の傍に形成されていった。ライン川沿いの交易都市として栄え、1228年にはケルン大司教から都市特権を認められた。
写真はXantenクサンテン:紋章 -
また、クサンテンには伝承が残る。
ブルグント族の英雄叙事詩に基づいて作られたワーグナーの楽劇『Der Ring des Nibelungenニーベルングの指環』に登場するジークフリート(人間の英雄。竜の血を浴び、不死身となる・・・9日目に訪れたボンの近郊にあるケーニヒスヴィンター・ドラッフェンブルクの項で書いた)の生誕地ともされている。
写真はXantenクサンテン:聖ヴィクトル大聖堂の遠望 -
ケルン以北で最大級のゴシック様式の建築と称される聖ヴィクトル大聖堂の基礎工事は1263年に始まり、281年の長い年月をかけて1544年に完工した。
70mを越える尖塔が2本あり、遠方からも良く見える高さである。
教会のポータル(入口)も見事なものだ。
写真はクサンテン:双頭の尖塔を持つ大聖堂のFassadeファサード -
写真はクサンテン:大聖堂のポータル(入口)
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①St.Viktor Dom聖ヴィクトル大聖堂:
http://www.st-viktor-xanten.de/
11:30~12:25
写真はクサンテン:聖ヴィクトル大聖堂の左に実際の入口がある。 -
聖ヴィクトルは異教徒の偶像を破壊して殉教したとの事、クサンテン近くで殺害され、近くの沼に投げ込まれたとされている。(この辺一帯はライン川に近く、ライン川の蛇行、氾濫などで流れが変わり、取り残された大小の沼、池が多い)
クリプト(地下の礼拝堂)には大聖堂の名の由来となった聖ヴィクトル(~4世紀没)が眠っている。
聖遺物の入った黄金の棺は多分、聖ヴィクトルの聖骨なのだろう。
写真はクサンテン:大聖堂のSt.Viktor・守護聖人ヴィクトル像 -
主聖壇をはじめとして、教会内の立派なパイプオルガン、美しい色合いのステンドグラス、ピエタ像、聖歌隊席の彫刻や年代を感じさせる壁面の壁掛け(タペストリー)は見るべき価値がある。
写真はクサンテン:大聖堂内の正面に主聖壇(キリストの聖壇) -
写真はクサンテン:主聖壇(キリストの聖壇)下の作品(葡萄?鳥などが見られる)・・・意味は?
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写真はクサンテン:大聖堂内のパイプオルガンとステンドグラス
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写真はクサンテン:大聖堂内のピエタ像
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イチオシ
木が蔓の様に伸びてグルグル巻きとなり、中に人形も見える作品もある。
キリストの聖壇、聖マルティンの聖壇、其々が皆素晴らしい。
16世紀というマリア様の聖壇はニーダーライン地方で最も美しい聖壇の一つだそうだ。
写真はクサンテン:大聖堂内・16世紀というマリア様の聖壇 -
写真はクサンテン:木が蔓の様に伸びてグルグル巻きとなり、中に人形も見える作品
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写真はクサンテン:木が蔓の様に伸びてグルグル巻きとなり、中に人形も見える作品
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写真はクサンテン:大聖堂内・聖ヴィクトルの聖壇
聖遺物の入った黄金の棺は多分、聖ヴィクトルの聖骨なのだろう。 -
写真はクサンテン:St.Viktor_Altar・聖ヴィクトルの聖壇
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イチオシ
写真はクサンテン:聖ヴィクトルの聖壇にある黄金の棺
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写真はクサンテン:大聖堂内ステンドグラス
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写真はクサンテン:大聖堂内ステンドグラス
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写真はクサンテン:大聖堂内ステンドグラス
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写真はクサンテン:大聖堂内の聖歌隊席と後ろの年代を感じさせる壁面の壁掛け(タペストリー)
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写真はクサンテン:大聖堂内のAltar_Matthias聖マティア(イエスの使徒の一人)の聖壇
伝承によればエルサレムでユダヤ人によって石うちの刑にあい、斬首されたとも伝えられる殉教者 -
写真はクサンテン:大聖堂内の聖マルティンの聖壇
*Sankt-Martinザンクト(聖)・マルティンと“マントの伝説”について:
聖マルティヌスともいい、フランスのToursトゥール第三代司教であったことでのMartin von Toursトゥールのマルティヌス呼ばれる。聖マルティヌスの日(11月11日)
聖マルティヌスはローマ帝国の属州パンノニア(現在のハンガリー)に生まれ、ローマ帝国での兵役に就いたのち、洗礼を受けた。修道士となったマルティヌスはポワティエ郊外にガリア地方初の修道院を建て、さらにトゥールの司教となった。 -
写真はクサンテン:大聖堂内の聖マルティンの聖壇・拡大版
兵士の頃、雪の中で凍えていた半裸の物乞いに、自らのマントを半分裂いて与えた話は有名である。(マントの伝説)その夜、マルティヌスの夢の中に、半分のマントをまとったイエス・キリストが現れ、こう言ったといわれる。
「まだ受洗もしていないローマの兵士マルティヌスが、私にこのマントをくれた」。
この物乞いはイエス自身であったと言い伝えられている。
これが受洗のきっかけとなり、その後軍を除隊した。マルティヌスが持っていたほうの半分は、「聖マルティヌスのマント」として、フランク王国の歴代国王の礼拝堂に保管された。
その謙遜と禁欲を重視した生き方は、人々の崇拝の対象となり、偉大な聖人とたたえられた。
キリスト教の聖人に殉教をせずに列聖された初めての人物であり、ヨーロッパ初の聖人でもある。フランスやドイツの守護聖人である。(Wikiを編集)
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写真はSt-Martin-Beuron聖マルティン・ボイロン
2015年の黒い森とアルザス・シュヴァーベン地方の旅で、ボイロンにあるザンクト・マルティン大修道院を訪ねた。
正面ファサードには聖母子像の下にザンクト・マルティンの“マントの伝説”が描かれていた。
ボイロンは南ドイツのSigmaringenジグマリンゲンから凡そ30km西にドナウ川をさかのぼる。ここにベネディクト派の大修道院がある。
海抜610mだと云う、この辺りのドナウ川は帯のように細く、蛇行を繰り返して流れ、大河ドナウの印象はない。 -
写真はクサンテン:大聖堂内St.Viktor_Teppich絨毯(壁掛け)
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クリプト(教会地下)に数人の方々を顕彰した碑があった。
写真はクリプト(地下の礼拝堂)にあった列福者の碑・・・反ナチ運動に参加し、ナチスに抵抗した人々 -
一人はSeliger Karl Leisner列福者カール・ライズナー(1915~1996年)は近くのライン川沿いの町Reesレース生まれ、長じてギムナジウムで神学の教師に出会い、キリスト教に目覚めた。
その後、1934 年大学入学資格を取ると、ミュンスター大学で神学を学び、当局から禁じられていた青少年グループの再結成を行っている。
この年、ミュンスターのClemens August Graf von Galen司教のガーレン卿(先にミュンスター訪問記に書いた)はライズナーを教区の若者リーダーに任命した。
ライズナーは6ヶ月を強制的な農業仕事に費やしながら、その間(ナチスの反対にもかかわらず)、日曜ミサを彼の仲間たちのために計画した。彼の家はゲシュタポにより急襲されたが、そうした事で彼は宗教的なリーダーになっていった。
1939 年 3 月 25 日、ガーレン司教はライズナーを助祭として彼を任命した。
同年、11 月 9 日にヒトラーに対するライズナーの批評が問題にされ、ゲシュタポにより逮捕された。25歳の彼はベルリン北部のザクセンハウゼン強制収容所に収容された。その2年後、ミュンヘン近郊のダッハウ強制収容所に移された。
1945 年 4 月 29 日に連合軍により収容所から解放されたカール・ライズナーはミュンヘン近郊Planeggプラネックの結核療養所に入院した。
8月12日、彼は結核の為、死去した。
彼の墓はクサンテンの大聖堂地下クリプトに葬られた。
1996年6月23日、ベルリンに於いてローマ教皇ヨハネ・パウロ2世によりライズナーは列福(聖人の次の位)されている。
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写真はクリプト:Seliger Karl Leisner列福者カール・ライズナー生誕100年記念切手 -
写真は列福者カール・ライズナーの履歴が掲げられていた。
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目にした内の一人は反ナチ運動に参加し、ナチスに抵抗して事で1945年1月23日にベルリンで絞首刑にされたSeliger Nikolaus Gross 列福者ニコラウス・グロース(1898~1945年)です。
彼はドイツのキリスト教労働組合のメンバー、カトリック労働者協会に勤めた。
2001年10月7日、ローマに於いてローマ教皇ヨハネ・パウロ2世により、グロースは列福(聖人の次の位)されている。
≪Die Liste der Personen des 20. Juli 1944≫
つまり1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件に関与した人々のリストがあるが、当日の事件に関与せずとも、ナチス抵抗運動に関与した人として、シュタウフェンベルク大佐などと共に、列福者ニコラウス・グロースもそのリストに載っていた。
写真はSeliger Nikolaus Gross 列福者ニコラウス・グロース
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まずは何処かに置き忘れはしないだろう、15cmもある大きな木片に付いた鍵を堂守のお婆さんに借りて、トイレに行く。
トイレ代にEuro1、寄付金をEuro1差し上げた。
写真はクサンテン:大聖堂の回廊で、大きな木片に付いた鍵を家内に見せている。 -
写真はクサンテン:大聖堂の美しい中庭と回廊
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イチオシ
写真はクサンテン:大聖堂の美しい中庭と回廊
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<昼食:レストラン&カフェGotisches Haus Xantenゴシックハウス・クサンテンにて>
D-46509 Xanten 、Markt 6
http://gotisches-haus-xanten.de/
12:30~13:20 Euro23(2,965円)
大聖堂見学に一時間、足も疲れ、小雨模様で冷えたので、町一番と思われるゴシックハウスとして知られるレストランにやって来た。
写真はクサンテン:旧市街のレストラン ゴシックハウス・クサンテンの店構え -
注文したのはハーブ入りクリームスープはEuro4.9、
ポロネギのスープはEuro4.5、
Waffelワッフルにイチゴジャム付きEuro3.6+2.8=6.4、
紅茶2.7X2=Euro5.4でした。
写真はクサンテン:旧市街のレストラン ゴシックハウス・クサンテン・・・本日のメニュー -
写真はクサンテン:レストラン ゴシックハウス・クサンテンの店内は木張りの天井だ。
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写真はクサンテン:レストラン ゴシックハウス・クサンテン
ハーブ入りクリームスープ -
写真はクサンテン:レストラン ゴシックハウス・クサンテン
ポロネギのスープ -
店史によると、1540年に商人の店として建てられたそうで、町で最も古い歴史的建造物だ。
かつては市長の家、ビール醸造所、農家、住居や商店に利用され、今は人気のレストランとなっている。
この店内のレイアウトは建設時のように復元され、木張りの天井、梁、壁、屋根、特徴的な歴史あるファサードの外観は無傷のままを保持していると云う。
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写真はクサンテン:レストラン ゴシックハウス・クサンテン -
写真はクサンテン:レストラン ゴシックハウス・クサンテン
Waffelワッフルにイチゴジャム付きと紅茶の軽食で体も暖まったのだ。 -
写真はクサンテン:旧市街の石畳にこのような銅版の足跡が見られた。
Hans Meyer 2519・Zollとも読めるが、調べてみたがよく分からなかった。
最近流行りともいえる、強制収容所で死んだユダヤ人のものか?
はたまた大聖堂に関係した信徒なのか?
因みにZollはインチ以前の単位でフィートの12分の1の長さの意味がある、もう一つの意味は税関とか関税の意味だが・・・。 -
写真はクサンテン:旧市街のレストラン前に立つ面白いコックの人形
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写真はクサンテン:旧市街のレストラン前に立つ面白いウエイターの人形
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写真はクサンテン:旧市街の門はいくつかあるが、その一つは14世紀のKlevertorクレーフェ門
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写真はクサンテン:旧市街のオランダ風建物
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写真はクサンテン:旧市街の建物
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②Kriemhildmuehleクリームヒルト風車:
13:35(写真のみ)
「ニーベルンゲンの指環」の主人公ジークフリートの妻の名が付いた風車は、
市城壁に沿って建てられている。
中世には夜警人の住居としても利用されていたという。
風車はもう稼働していない。
1階がパン屋になっていて、そこでEuro1支払うと、上の階に上って
当時の製粉の工程を垣間見ることができると云う。
街の眺めも良いらしいが、写真だけ撮って駐車場に戻った。
写真はクサンテン:旧市街のクリームヒルト風車 -
写真はクサンテン:旧市街の北の城壁に掲げられた英雄Siegfriedジークフリートのレリーフ
*Siegfriedジークフリート はドイツの英雄叙事詩『ニーベルンゲンの歌』の主人公。北欧神話のシグルズと同一起源の人物。
王ジークムントと王妃ジークリントの息子でネーデルラントの王子とされる。
少年時代から王宮を出て征旅を行い、ノルウェーのニーベルンゲン族を倒してその呪われた財宝と魔法の隠れ蓑タルンカッペ、名剣バルムンクを奪う、悪竜を倒すなど、多くの軍功を立てる。
この竜退治の際、魔力のこもった竜血を浴びて全身が甲羅のように硬くなり、いかなる武器も受け付けない不死身の体となる。
しかしこの時、背中に菩提樹の葉が一枚貼り付いていて血を浴びられず、この一点のみが彼の弱点となった。
ワーグナーの舞台祝典劇『ニーベルングの指環』は英雄叙事詩『ニーベルンゲンの歌』を基に創られた大作。
序夜 『ラインの黄金』(Das Rheingold):2時間40分
第1日 『ワルキューレ』(Die Walkuere):3時間50分
第2日 『ジークフリート』(Siegfried):4時間
第3日 『神々の黄昏』(Goetterdaemmerung):4時間30分
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これからローマの都市、Archaeologische Park Xanten考古学公園に向かう。
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ドイツの秋:⑨モーゼル川中流の古城ホテル ツェル城のTurmzimmerタワールームに2泊した。
2016/10/14~
その他の観光地
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ドイツの秋:⑩モーゼルワイン街道巡りにはローマ人のワイン舟や大蛇行やローレライまである。
2016/10/14~
その他の観光地
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ドイツの秋:⑫小雨降るモーゼル・コッヘムから伝説の地マリア・ラーハ僧院へ
2016/10/14~
コッヘム
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ドイツの秋:⑬アールワイン街道の町アールヴァイラーはお気に入り
2016/10/14~
その他の観光地
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ドイツの秋:⑭アール赤ワイン街道を走る。
2016/10/14~
その他の観光地
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ドイツの秋:⑮10年前の旅でも訪れたアールヴァィラーは相変わらず美しい
2016/10/14~
その他の観光地
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ドイツの秋:⑰独米両軍の激戦地・黒々としたレマーゲンの鉄橋跡、美しいアポリナリス教会
2016/10/14~
ライン川流域周辺
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ドイツの秋:⑲三十年戦争の講和条約締結地のミュンスターを一日観光(その①)
2016/10/14~
ミュンスター
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ドイツの秋:⑳三十年戦争の講和条約締結地のミュンスターを一日観光(その②)
2016/10/14~
ミュンスター
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ドイツの秋:21ミュンスターラントの古城(水城)を巡る
2016/10/14~
ノルトライン・ヴェストファーレン州
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ドイツの秋:23Xantenクサンテンという珍しい名の町は「聖者たちの場所」である。
2016/10/14~
ノルトライン・ヴェストファーレン州
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ドイツの秋:24Xantenクサンテンの町はかつて古代ローマ軍団の都市であった。
2016/10/14~
ノルトライン・ヴェストファーレン州
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ドイツの秋:25デュッセルドルフ・またまた訪れたKoeケーのカフェ・ハイネマン
2016/10/14~
デュッセルドルフ
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ドイツの秋:26旧市街の縁起物二つ:“金貨をひり出す男”の像と仕立屋シュナイダーの像
2016/10/14~
デュッセルドルフ
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ドイツの秋:27最終日は訪れたことがないヘッチェンス(陶磁器)博物館を見学した。
2016/10/14~
デュッセルドルフ
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旅行記グループ 2016年ドイツの秋:ライン・モーゼル・アール・ミュンスターラントの旅
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