2016/10/14 - 2016/10/28
85位(同エリア581件中)
jijidarumaさん
- jijidarumaさんTOP
- 旅行記522冊
- クチコミ587件
- Q&A回答105件
- 751,517アクセス
- フォロワー98人
2016年ドイツの秋:ライン・モーゼル・アール・ミュンスターラントの旅
2016年10月14日(金)~10月28日(金)15日間
第9日:225km *
アールヴァイラーを出て、第二次大戦で独米両軍の激戦地となり、映画でも有名な“レマーゲンの鉄橋”がある町Remagenレマーゲンに向かう。レマーゲンとSinzigジンツィッヒの町の中間あたりで、アール川はライン川に流れ込んでいくのだが、この町ではレマーゲンの鉄橋とナザレのフレスコ画で有名なアポリナリス教会を訪ねる。
ボンの近郊にあるKoenigswinterケーニヒスヴィンターのDrachenburgドラッフェンブルク(竜の岩山)には登山電車に乗り、山頂の展望台からの眺望を楽しみたい。ワーグナーの叙事詩「ニーベルンゲンの歌」に登場する英雄ジークフリートがドラゴンを退治し、その返り血を浴びて不死身になったという伝説の舞台「Drachenfelsドラゴンの岩」がある。
そして40年ぶりになる宿泊はミュンスターの古城ホテル ヴィルキングヘーゲ城に。
写真は戦争映画でも有名な“レマーゲンの鉄橋”の跡
- 旅行の満足度
- 4.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 交通手段
- レンタカー
- 航空会社
- ANA
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
*起床7:00、朝食は先日同様に8:30~9:00暖炉の間で食べる。9.5℃、小雨も降る。
9:45、アールヴァイラーを出て、第二次大戦で独米両軍の激戦地となり、映画でも有名な“レマーゲンの鉄橋”がある町Remagenレマーゲンに向かう。
写真は古城ホテル アーデンバッハ城での朝食 -
レマーゲンとSinzigジンツィッヒの町の中間あたりで、アール川はライン川に流れ込んでいくのだが、この町ではレマーゲンの鉄橋とナザレのフレスコ画で有名なアポリナリス教会を訪ねる予定だ。
写真はLandkarte,Ahrアール-Erftエルフト-Rheinライン川一帯図 -
写真はWappen_Remagenレマーゲンの紋章
-
写真はライン川、アポリナリス教会とレマーゲンの景色:1902年の絵葉書
-
<独米両軍の激戦地“レマーゲンの鉄橋”と ナザレのフレスコ画で有名なアポリナリス教会を訪ねた>
第9日:10月22日(土)225km、小雨・後半は曇天、山頂は霧もでた。9.5~14.0℃*
古城ホテル アーデンバッハ城・アールヴァイラー =>B 267・A573・B266 9km(Lohrsdoefロールスドルフ)=>B9 6km Remagenレマーゲン =>B9 9km(Rolandseckローランズエックの手前のAutofaehreフェリーで対岸・Bad Honnefバート・ホンネフ)=>L193・B42 7 km Koenigswinterケーニヒスヴィンター・Drachenburgドラッフェンブルク =>L331・B42 8km Tunnel・Oberkassel =>A59・3・1 181km Muenster・Nordミュンスター・北出口=>B54 5km Hotel Schloss Wilkinghege古城ホテル ヴィルキングヘーゲ城
写真はライン川畔に残るレマーゲン鉄橋(ルーデンドルフ橋が正式名)の鉄橋跡 -
イチオシ
《Remagenレマーゲン》
10:14~10:30 (レンタカーの距離計は1059km示した)
レマーゲンはケルンから車で約1時間、かつて西ドイツの首都であったボンの南、ライン川の西岸に位置する。ボンに向かうB9を走ると、人口は16千人という中規模の町が出てくる。
土曜日の朝、小雨の降る町は人通りもなく、小さな駅前を通過し、川岸に向かうと、うまい具合にライン川を前に立つ真っ黒な鉄橋跡にたどり着いた。
川べりは市民の散歩道になり、観光客も私共と2組、第二次大戦も遠い昔になっている感がした。
現在、両岸の鉄橋跡には真っ黒な橋桁だけが残る。こちら側の橋桁には平和博物館が開館し、コンクリートの壁にはいくつかの米軍の勝利、渡河・渡橋の顕彰碑がはめ込まれていた。
実際のレマーゲン鉄橋は連合軍の制圧後に崩落し、現存せず、今日見るように橋桁だけだ。
写真は戦争映画でも有名な“レマーゲンの鉄橋”(鉄橋跡は現在、平和博物館になっている:ルーデンドルフ橋の建設から第2次世界大戦中、戦後の歴史を写真入りで紹介されている。) -
<Die Bruecke von Remagenレマーゲン鉄橋>
Die Bruecke von Remagen (Originaltitel The Bridge at Remagen)“レマーゲンの鉄橋”はLudendorff-Bruecke ルーデンドルフ橋が正式名である。
今は“Bruecke von Remagenレマーゲン鉄橋”の方が知られている。
ルーデンドルフ橋は1916年、第一次世界大戦中の西部戦線への軍需品輸送のために建設された。長さ325mで2本の線路と歩道が設置されていた。
架橋起案者の一人であったErich Ludendorffエーリヒ・ルーデンドルフ将軍に因み、ルーデンドルフ橋と命名された。
尚、ルーデンドルフ将軍は第一次大戦時、1914年の東部戦線におけるロシアとの戦い、即ち“タンネンベルクの戦い”で第8軍司令官ヒンデンブルク(国民的英雄となったヒンデンブルクは後に元帥、ヴァイマール共和政第2代大統領となる)を補佐し、その大勝利に功績を挙げた。
1917年、ヒンデンブルクが参謀本部総長に就任すると、ルーデンドルフ将軍はヒンデンブルクを補佐する参謀本部次長となる。後に歩兵大将、国会議員。
写真は第一次大戦時の1918年、米軍がルーデンドルフ橋を渡っている写真。
第二次大戦で再びこの橋が脚光を浴びた。
(第1次世界大戦後、レマーゲンはアメリカ軍の占領地になり、当時のアメリカ軍はこの橋を渡ってドイツ領内に進駐したという。) -
”バルジの戦い”(西部戦線において1944年12月から1945年1月の間、アルデンヌで行われたドイツ軍とアメリカ軍を主体とする連合軍との戦闘の名称)が終わった後から1945年2月までに連合軍はフランスの大部分を解放し、ライン川西岸地帯を制圧していた。
次の戦闘として、天然の要害であるライン川の渡河に焦点が移っていた。
下流ではモントゴメリー元帥麾下のイギリス陸軍第12軍が、上流ではパットン将軍のアメリカ陸軍第3軍がライン川渡河を競った。
写真はライン川における連合軍とドイツ軍の対峙状況図・
レマーゲン鉄橋の戦い(アメリカ第1軍第3軍団Xドイツ第15軍団) -
<レマーゲン鉄橋の争奪戦>
ケルンを占領した翌日の1945年3月7日、アメリカ第1軍の第3軍団第9機甲師団の兵士がランバージャック作戦(Operation Lumberjack:ライン川西岸からドイツ軍を一掃する)中にライン川に架かる2本の無傷の橋を発見した。 一つはレマーゲンのルーデンドルフ橋、もう一つはヴェーゼルの鉄道橋だった。
この日、先鋒部隊の米第9機甲師団B機甲戦闘部隊に所属する戦車と歩兵小隊は、レマーゲンの鉄橋を見おろす高地に到着した。
なんと驚いたことに、鉄橋がまだ完全に残っているばかりか、彼らの見ている前をドイツ軍が鉄橋を使って、部隊を移動させていたのである。
ただちに歩兵が、ドイツ軍にさとられずに橋までちかづこうと、野原をこっそりとしのび足で進んでいった。
しかし、連合軍部隊が橋の西端に達したとき、大爆発が起った。
橋は、いったん浮きあがったように見えた。そして、元の位置に戻った。
橋は爆発で弱くなっていたが、なお完全な姿で残っていた。
ドイツ軍の爆破は失敗に終わったのである。
これに続く戦闘は、戦車活用の最善の例といってもよいものだった。
まず歩兵は、戦車の猛烈な支援射撃のもとに、橋を急ぎ渡った。
その後、工兵が続いて渡り、橋がこれ以上破壊されるのを防ぐため、目に見える爆薬の導火線を、手あたりしだいに切断した。
増援部隊が橋を渡り、対岸に展開した。日没までには橋頭堡が造られ、ドイツ軍のどんな反撃も、また突破もできないような、支援体制が敷かれた。
一機甲師団の機敏な行動により得られたこの戦果は予想以上に大きなものであった。機甲部隊がもっている効率の良さをこれほどはっきりと示した戦闘は、他になかったであろう。
ヨーロッパ最大のライン川という障壁をこえて、連合軍がドイツ国境に沿ってなだれこんだあとは、機甲部隊の津波のような攻撃によって、戦争を終末にむかって押し進めるだけであった。ZZ
写真は米軍の勝利、渡河・渡橋の顕彰碑 -
アメリカ軍が同日16時5分に橋を確保した。
橋の確保後、第9、第78、第99歩兵師団が橋を渡った。鉄橋の塔の1つには「足濡らさずにラインを渡る。第9機甲師団に感謝を」と書かれた看板が掛けられた。
トラックや戦車輸送車がこの橋を渡り、確保から24時間以内に、およそ8,000人もの連合軍将兵が橋を渡ったとされる。
其の後もドイツ軍はあらゆる手段を講じて橋の破壊を試みた。オットー・スコルツェニー親衛隊中佐は配下の特殊部隊「フロッグマン」をライン川に潜らせ爆破を試み、空軍は連合軍の制空権下にジェット爆撃機Ar234を投入し、更にV2ロケットを11発も打ち込んだが落橋させることが出来なかった。
写真は記念碑 -
橋が残ったことは連合軍で「レマーゲンの奇跡」と呼ばれ、総司令官アイゼンハワーは「橋の重さ分の金と同じ価値がある」と言った。
写真は平和博物館に展示されたドイツ軍の爆弾 -
イチオシ
レマーゲンのルーデンドルフ橋は第二次大戦で独米両軍の激戦地として、この攻防を描いた映画は “レマーゲン鉄橋”の題名で公開され、有名になった。
崩落後の橋は再建されることはなく、現在は両岸の橋桁が残るのみである。
1980年にレマーゲン側に残る橋桁の内部が改装され、平和博物館として公開された。
尚、橋は再建されなかったが、橋の傍に桟橋があり、対岸のエルピナへはライン川を渡るフェリーが運航されている。
<平和博物館>
住所:Rheinpromenade Remagen,Bachstrasse2,53424 REMAGEN
ホームページ:http://www.bruecke-remagen.de/
使用言語:英語、ドイツ語、フランス語
入場料:大人3.5ユーロ
写真はラインの向こう岸エルピナにも真っ黒な橋桁が残る。 -
<The Bridge at Remagen 1969年制作の米映画のストーリー>
https://www.youtube.com/watch?v=YMk5J4S7qu0 テーマ音楽
https://www.youtube.com/watch?v=LdCXhxNXr0U 日本語訳映画(10分)
第2次世界大戦末期の1945年2月、連合軍は敗走するドイツ軍を追ってライン川に迫った。ドイツ軍は天然の要害であるライン川を盾にして防御するしかなく、連合軍もライン川を渡河すべく、無傷の橋を目指していた。
独軍のブロック将軍は上司から、担当地区に残る橋を全て爆破するように命じられたが、川の向こうには7万5000人の兵が残されており、この友軍が撤退できるようレマーゲン鉄橋をぎりぎりまで残し、連合軍が間近に迫ってから破壊しようとする。将軍は腹心の部下、クリューガー少佐を橋防衛部隊の指揮官に任命し、連合軍が橋の目前まで迫るまで爆破しないように指示する。クリューガー少佐が橋に赴くと、書類上では1600名の兵員が実際はほとんどおらず、爆破のための爆薬すら無い逼迫した状況であった。少佐は爆破の準備や橋の防衛陣地の構築とともに増援部隊の派遣を要請するが、いくら要請しても生返事ばかりで一向に援軍が来る気配は無い。
そうしているうちに、米軍のバーンズ少佐指揮の機甲歩兵大隊に所属する先遣隊が橋の間近まで迫り、橋をめぐる攻防戦が始まる。・・・(Wiki)
・・・・・・・・・・・
写真は1945年3月8日~10日レマーゲン鉄橋を横断する連合軍(米軍) -
写真は連合軍が確保したレマーゲン鉄橋
-
写真は連合軍によってレマーゲン鉄橋が修復されている様子
-
鉄橋は1945年3月17日午後3時過ぎ、200人の工兵による補強作業中に崩落、死者28名、負傷者93名を出した。アメリカ軍は既に対岸に橋頭堡を確保し、平行して浮橋を完成させており、軍事作戦への影響は最小限であった。
・・・(Wiki)
写真は1945年3月17日、壊れたレマーゲン鉄橋 -
写真は1950年、崩落後のレマーゲン鉄橋の様子
-
写真は1951年、鉄橋崩落後もまだ残っていたレマーゲンの橋桁:1976年夏にライン川の航行の邪魔になるとして移動された。
*かつてライン下りでビンゲンからケルンまで乗船したことがあったが、
途中のコブレンツを過ぎると景色が単調になり、居眠りでもしていたのか、
この橋桁に気付かずに通過した。この移動のニュースも知らずにいた。 -
写真は1953年、ライン川とレマーゲンの町、鉄橋跡を飛行機で撮られた俯瞰・・・
上がレマーゲン市街、中央に鉄橋の残骸、ライン川の中にも橋桁、下の対岸にも鉄橋の残骸が見られる。 -
写真はRemagen:Apollinarisberg Bodmer_アポリナリス教会の建つ丘の絵・1830年
-
イチオシ
Apollinariskircheアポリナリス教会:
10:45~11:11
レマーゲンの丘の上にアポリナリス教会が立つ。今はこの丘をアポリナリス山と呼んでいる。
山の麓で1892年にローマ時代のキリスト教徒の墓が発見された。
最初、6~9世紀頃にフランケンの守護聖人St.Martin聖マルティン(聖マルティヌス)を祭った教会が建てられたのが始まりで、13世紀にはアポリナリス教会となった。
写真は雨の中のアポリナリス教会 -
教会内は中央聖壇のイエスを中心に、聖母マリア、聖アポリナリスのフレスコ画が描かれている。その数、69の絵(580人の登場人物)は凡そ10年の年月をかけて描かれたとある。これらをナザレのフレスコ画と言っているようだ。
ナザレとはNazarenerナザレ派の画家(19世紀初頭のドイツロマン派の画家たちによる、キリスト教美術の誠実性と精神性を取り戻そうとする芸術運動である。)によって描かれたからである。彼ら、Ernst Degerエルンスト・デガー、Andreas&Karl Muellerアンドレアとカール・ミューラー兄弟、Franz Ittenbachフランツ・イッテンバッハの4人の画家はデュッセルドルフの画学校出身でWilhelm von Schadowヴィルヘルム・シャドーの指導下にあったと云う。ついでに言えば、デュッセルドルフの目抜き通りにあるSchadowstrasseシャドー通りはヴィルヘルム・シャドーの名を採ったものである。(絵葉書代Euro1)
写真は中央聖壇のイエス -
写真はアポリナリス教会・Nazarenerナザレ派の画家たち:Mignon『ミニョン』-1828年Wilhelm von Schadowヴィルヘルム・シャドー作
*『ミニョン』(Mignon)は、アンブロワーズ・トマのオペラ作品。1866年、パリのオペラ=コミック座で初演された。ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの小説「ヴィルヘルム・マイスターの修業時代」を基に大幅な脚色を加えている。
林 美智子 - 「ミニョン」 より 「君よ知るや南の国」
https://www.youtube.com/watch?v=e9leOYbmxdQ
君知るや南の国
レモンの木は花咲き くらき林の中に
こがね色したる柑子は枝もたわわに実り
青き晴れたる空より しづやかに風吹き
ミルテの木はしづかに ラウレルの木は高く
雲にそびえて立てる国や 彼方へ
君とともに ゆかまし
(森鴎外の訳) -
写真はアポリナリス教会・Nazarenerナザレ派の画家たち:Ernst Degerエルンスト・デガー作・聖母マリアとキリスト
-
写真はアポリナリス教会・Nazarenerナザレ派の画家たち:Franz Ittenbachフランツ・イッテンバッハの聖母子(Madonna_and_Child)1855年作
-
写真はRemagen:アポリナリス教会・聖壇のキリスト
-
<聖アポリナリスの聖遺物>
アポリナリス教会のKryptaクリプト地下聖堂は9世紀の聖マルティン教会や12世紀のベネディクトの関係も深いようだが、聖アポリナリスの聖遺物として14世紀の装飾のある石棺が残る。
聖遺物(聖アポリナリスの聖骨)は1383年にHerzog Wilhelm1 ヴィルヘルム1世伯が奪い取り、デュッセルドルフに持って行った。
ただ頭部のみはBurg Landskronランドスクロン城に隠したと云う。
1793年、フランスから守るため頭部はSiegburgジークブルク(ケルン・ボン国際空港にも10km程の町)に運ばれた。
他の骨は1812年デュッセルドルフに戻り、1857年7月23日再び頭部はアポリナリス教会に戻り、14世紀の装飾のある石棺に納められた。
同時に石棺の蓋が新しくされ、この時以来、信仰者によるアポリナリス教会の聖遺物への巡礼が始まったと云う。
写真はアポリナリス教会・Kryptaクリプト地下聖堂の石棺 -
写真はRemagen:Heiliges_Haupt聖アポリナリスの頭部
*古い伝説によれば彼は親しく聖ペトロの命を受けてその町に行ったという。それに就いてはあいにく歴史に何の確証もないが、万一それが誤りであるとしても、兎に角教皇の聖座のあるローマからラヴェンナに乗り込み、ペトロのような使徒的精神を以て布教に活躍したことは疑いない。そしてさまざまの奇跡を行い、間もなく少なからず信者を得てその最初の司教となったのであった。
アポリナリスが祈祷によって行ったと伝えられている奇跡の中、主要なものが三つある。
その一つは耳が聞こえず口が利けなかったボニファチオという貴族が治ってものを言い、
その二つはその娘に憑いていた悪魔が追い払われ、
その三つはルフィノという人の娘が、死後に蘇らされたことである。
・・・ -
写真はアポリナリス教会・クリプト地下聖堂
-
写真はアポリナリス教会・クリプト地下聖堂内の柱
-
写真はアポリナリス教会・聖母マリアとキリスト像
-
写真はRemagen:Apollinariskirche_abendsアポリナリス教会の夜景
-
写真はRemagen-Apollinariskirche:アポリナリス教会の俯瞰
-
尚、アポリナリス教会はSt. Apollinaris von Ravennaラヴェンナの聖アポリナリスを祭った教会で、ライン川地方では守護聖人として親しまれていると云う。
写真はRemagen:Wallfahrt_Remagen聖アポリナリスの聖遺物を掲げたアポリナリス教会の巡礼祭り -
また、デュッセルドルフの河川敷で催されるKirmesキルメスは最大のもので、デュッセルドルフの守護聖人・聖アポリナリスと、同時に旧市街に立つSt. Lambertus聖ランベルトゥス教会(13世紀)の聖ランベルタスに感謝する祭りである。
・・・・・・・・
写真はデュッセルドルフの河川敷で催されるKirmesキルメス
この旅行記のタグ
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
-
前の旅行記
ドイツの秋:⑮10年前の旅でも訪れたアールヴァィラーは相変わらず美しい
2016/10/14~
その他の観光地
-
次の旅行記
ドイツの秋:⑲三十年戦争の講和条約締結地のミュンスターを一日観光(その①)
2016/10/14~
ミュンスター
-
ドイツの秋:ライン・モーゼル・アール・ミュンスターラントの旅
2016/10/14~
デュッセルドルフ
-
2016年ドイツの秋:ライン・モーゼル・アール・ミュンスターラントの旅(帰国のご挨拶)
2016/10/14~
デュッセルドルフ
-
ドイツの秋:①やむを得ず第1日をデュッセルドルフ空港のシェラトンホテルに泊まる
2016/10/14~
デュッセルドルフ
-
ドイツの秋②木組みの家が並ぶフロイデンベルクと双頭の塔が目立つグライフェンシュタイン城
2016/10/14~
ヘッセン州
-
ドイツの秋:③ビューディンゲンの蛙(蛙戦争)で知られた古城ホテル ビューディンゲン城
2016/10/14~
ヘッセン州
-
ドイツの秋:④ビューディンゲン城の姉妹城・ロンネブルク城には孔雀がいた
2016/10/14~
ヘッセン州
-
ドイツの秋:⑥霧に包まれたワインの使者・ヨハネスベルグ城を再訪
2016/10/14~
ライン川流域周辺
-
ドイツの秋:⑧故郷青梅市の姉妹都市ボッパルトを訪ね、ラインの大蛇行を展望台から見下ろした。
2016/10/14~
ライン川流域周辺
-
ドイツの秋:⑨モーゼル川中流の古城ホテル ツェル城のTurmzimmerタワールームに2泊した。
2016/10/14~
その他の観光地
-
ドイツの秋:⑩モーゼルワイン街道巡りにはローマ人のワイン舟や大蛇行やローレライまである。
2016/10/14~
その他の観光地
-
ドイツの秋:⑫小雨降るモーゼル・コッヘムから伝説の地マリア・ラーハ僧院へ
2016/10/14~
コッヘム
-
ドイツの秋:⑬アールワイン街道の町アールヴァイラーはお気に入り
2016/10/14~
その他の観光地
-
ドイツの秋:⑭アール赤ワイン街道を走る。
2016/10/14~
その他の観光地
-
ドイツの秋:⑮10年前の旅でも訪れたアールヴァィラーは相変わらず美しい
2016/10/14~
その他の観光地
-
ドイツの秋:⑰独米両軍の激戦地・黒々としたレマーゲンの鉄橋跡、美しいアポリナリス教会
2016/10/14~
ライン川流域周辺
-
ドイツの秋:⑲三十年戦争の講和条約締結地のミュンスターを一日観光(その①)
2016/10/14~
ミュンスター
-
ドイツの秋:⑳三十年戦争の講和条約締結地のミュンスターを一日観光(その②)
2016/10/14~
ミュンスター
-
ドイツの秋:21ミュンスターラントの古城(水城)を巡る
2016/10/14~
ノルトライン・ヴェストファーレン州
-
ドイツの秋:23Xantenクサンテンという珍しい名の町は「聖者たちの場所」である。
2016/10/14~
ノルトライン・ヴェストファーレン州
-
ドイツの秋:24Xantenクサンテンの町はかつて古代ローマ軍団の都市であった。
2016/10/14~
ノルトライン・ヴェストファーレン州
-
ドイツの秋:25デュッセルドルフ・またまた訪れたKoeケーのカフェ・ハイネマン
2016/10/14~
デュッセルドルフ
-
ドイツの秋:26旧市街の縁起物二つ:“金貨をひり出す男”の像と仕立屋シュナイダーの像
2016/10/14~
デュッセルドルフ
-
ドイツの秋:27最終日は訪れたことがないヘッチェンス(陶磁器)博物館を見学した。
2016/10/14~
デュッセルドルフ
旅行記グループをもっと見る
この旅行記へのコメント (4)
-
- 骨ヅルさん 2018/02/03 07:33:20
- すごいです!
- 初めまして。
解説も含め、素晴らしいのひと言です。写真もいろいろな角度があり、しかも空撮まで。
また、お邪魔します!
- jijidarumaさん からの返信 2018/02/03 12:17:10
- Re: すごいです!
- 骨ヅルさん 、
こんにちは、はじめまして。
コメントありがとうございました。
第二次大戦で独米両軍の激戦地となり、映画でも有名な“レマーゲンの鉄橋”がある町Remagenレマーゲンは昔から知っていたのですが、今回初めての訪れでした。写真も借用分も含めて、様々にその背景を辿れるようにしたものですが、過分なコメントを頂き恐縮です。
私の旅は下のyamayuri2001さんとの交信をご参照ください。
それではまた。
jijidaruma
-
- yamayuri2001さん 2017/09/27 15:59:58
- jijidarumaさん、はじめまして。
- いつも、旅行記にご訪問いただき、またご投票いただきまして、ありがとうございます。また、このたびは、フォローまでしていただきまして、ありがとうございます。遅ればせながら、私の方からもフォローさせて頂きますので、これからも どうぞよろしくお願いいたします。今、jijidarumaさんのドイツシリーズを拝見しておりますが、歴史書を紐解くような 丁寧な解説に、興味が一層湧いてまいります。また、私の好きな音楽に関する記事もありまして、一つ一つ、楽しみながら拝見しています。ドイツのレンタカー旅行は、ドイツ語が話せなくても、英語で事足りるのだろうかと・・・私達は、アメリカならレンタカーでの旅行は慣れていますが、ドイツはツアーでしかいけないと思っていますので、憧れております。また、奥様への愛情が溢れる旅行記で、とても羨ましくもあります!ドイツシリーズ、まだまだ楽しませていただきますので、どうぞ、よろしくお願いいたします。
yamayuri2001
- jijidarumaさん からの返信 2017/09/27 23:54:59
- RE: jijidarumaさん、はじめまして。
- yamayuri2001さん
こんばんは。はじめまして。
こちらこそ、ドイツばかりの旅行記にご興味を持っていただき
ありがとうございます。
お互いにフォローということで、私の方からも宜しくお願いします。
ドイツの古城巡り・古城ホテル好きで、退職後、古稀も過ぎましたが、相変わらず、
ドイツを懐かしんで、毎年、レンタカーで走っています。
ドイツの伝説・民話好きで、下手な訳ながら、それらの紹介もしています。
そろそろドイツのクリスマス時期になりますが、ご興味あれば、クリスマスの旅行記も
少しは参考になるかもしれません。
ヨーロッパでレンタカーの旅を考えるならば、やはりドイツから始めると良いですよ。
それではまた。ありがとうございました。
jijidaruma
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
ライン川流域周辺(ドイツ) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
旅行記グループ 2016年ドイツの秋:ライン・モーゼル・アール・ミュンスターラントの旅
4
35