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≪2016年ドイツの秋:ライン・モーゼル・アール・ミュンスターラントの旅≫<br />2016年10月14日(金)~10月28日(金)15日間<br /><br /><ドイツの秋②木組みの家が並ぶフロイデンベルクと双頭の塔が目立つグライフェンシュタイン城><br /><br />第2日行程概略:294km*<br /><br />昨年A3を走り、ケルン近くで渋滞に巻き込まれ大いに困ったが、ケルン北でA4に入り、OlpeオルぺでA45にのり、南下することにした。デュッセルドルフ空港のAvisで早朝の7時にレンタカーを借り、130km先にあるモノトーンの木組みの家並みが素敵なFreudenbergフロイデンベルクを最初の観光をする。<br />次の目的は更に70km南下したBurg Greifensteinnグライフェンシュタイン城を訪ねた。<br />今夜の宿泊は2013年に訪れた蛙の戦争伝説で名高い古城ホテル ビューディンゲン城<br /><br />写真はBurg Greifensteinnグライフェンシュタイン城を遠望する。

ドイツの秋②木組みの家が並ぶフロイデンベルクと双頭の塔が目立つグライフェンシュタイン城

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2016/10/14 - 2016/10/28

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jijidaruma

jijidarumaさん

≪2016年ドイツの秋:ライン・モーゼル・アール・ミュンスターラントの旅≫
2016年10月14日(金)~10月28日(金)15日間

<ドイツの秋②木組みの家が並ぶフロイデンベルクと双頭の塔が目立つグライフェンシュタイン城>

第2日行程概略:294km*

昨年A3を走り、ケルン近くで渋滞に巻き込まれ大いに困ったが、ケルン北でA4に入り、OlpeオルぺでA45にのり、南下することにした。デュッセルドルフ空港のAvisで早朝の7時にレンタカーを借り、130km先にあるモノトーンの木組みの家並みが素敵なFreudenbergフロイデンベルクを最初の観光をする。
次の目的は更に70km南下したBurg Greifensteinnグライフェンシュタイン城を訪ねた。
今夜の宿泊は2013年に訪れた蛙の戦争伝説で名高い古城ホテル ビューディンゲン城

写真はBurg Greifensteinnグライフェンシュタイン城を遠望する。

旅行の満足度
4.0
同行者
カップル・夫婦(シニア)
一人あたり費用
30万円 - 50万円
交通手段
レンタカー
航空会社
ANA
旅行の手配内容
個別手配

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  • <デュッセルドルフから赤髭王(バルバロッサ)のビューディンゲンの森へ><br /><br />第2日:10月15日(土)・・294km、朝小雨、晴れ間も出たが曇天の日、10.5~17℃<br /><br />デュッセルドルフ空港=>A44・3 27 km(Hildenヒルデン)=>A3 27 km (Kreuz Koeln-Ost)=>A4 61km( Kreuz Olpe-Sued )=>A45 11km (Freudenberg)=> L562・L512 4km Freudenbergフロイデンベルク=>L512・L562 4km(Freudenberg)=>A45 8km(Siegenジーゲン)・38km(Herbornヘルボルン)=>L? 19km・Burg Greifensteinnグライフェンシュタイン城=>L? 10km(Herbornヘルボルン)=>A45 72km(Altenstadtアルテンシュタット)=>B521・457 13km  Buedingen・古城ホテル ビューディンゲン城<br /><br />*時差の所為で、2:00に目覚める。再度寝るも眠れぬまま、諦めて4:40に起床した。<br />6:37にはチェックアウトし、デュッセルドルフ空港のAvisは7時半の予約だが、いつもの時差の関係で早く目覚めたので、早朝の7時にカウンターに行く。<br />早めての手続きもOKとカウンター嬢が言うので、直ぐ手続きする。<br /><br />写真はレンタカー:フォルクスワーゲン・シュコーダ(スコーダ)・ファビア・コンビ<br /><br />3年続きでVWとなったが、コンパクト車はチェコ製のSkodaとなるケースが多いようだ。(2016年8月新車登録:最大レンタル期間は28,500kmまでの制限距離が付いていた)<br />スタート時:3604km、返却時:5344km、総走行距離:1,740km(予想1,670km)<br />

    <デュッセルドルフから赤髭王(バルバロッサ)のビューディンゲンの森へ>

    第2日:10月15日(土)・・294km、朝小雨、晴れ間も出たが曇天の日、10.5~17℃

    デュッセルドルフ空港=>A44・3 27 km(Hildenヒルデン)=>A3 27 km (Kreuz Koeln-Ost)=>A4 61km( Kreuz Olpe-Sued )=>A45 11km (Freudenberg)=> L562・L512 4km Freudenbergフロイデンベルク=>L512・L562 4km(Freudenberg)=>A45 8km(Siegenジーゲン)・38km(Herbornヘルボルン)=>L? 19km・Burg Greifensteinnグライフェンシュタイン城=>L? 10km(Herbornヘルボルン)=>A45 72km(Altenstadtアルテンシュタット)=>B521・457 13km  Buedingen・古城ホテル ビューディンゲン城

    *時差の所為で、2:00に目覚める。再度寝るも眠れぬまま、諦めて4:40に起床した。
    6:37にはチェックアウトし、デュッセルドルフ空港のAvisは7時半の予約だが、いつもの時差の関係で早く目覚めたので、早朝の7時にカウンターに行く。
    早めての手続きもOKとカウンター嬢が言うので、直ぐ手続きする。

    写真はレンタカー:フォルクスワーゲン・シュコーダ(スコーダ)・ファビア・コンビ

    3年続きでVWとなったが、コンパクト車はチェコ製のSkodaとなるケースが多いようだ。(2016年8月新車登録:最大レンタル期間は28,500kmまでの制限距離が付いていた)
    スタート時:3604km、返却時:5344km、総走行距離:1,740km(予想1,670km)

    デュッセルドルフ空港 (DUS) 空港

  • 指定されたパークタワーNo.2の駐車場4階No.234に行くと、シュコーダが待っていた。メカは誰もいないので、仕方なく2個の荷物を後部トランクに入れ、地図や行程表を前部助手席に置き、車の傷をチェックして問題ないことを確認して、エンジンをかけた。<br /><br />ところが上手くかからない。困ったと思い、周辺を捜すと、何やらナビの修理をされていた方を見つけ、事情を言って車まで来てもらった。何のことはなく、一発で彼はエンジンを始動させた。“問題ないよ”と言って、去って行ったが、このままエンジンを切らずに小雨が降り出す中を出発した。<br />(エンジンのキーを回すにはしっかり右に回転させるのが肝要だったのだ)<br /><br />7:40空港を恐る恐るスタートした。まだ薄暗く見にくい。いつもながら緊張して、アウトバーンに入るのは怖い。<br />まずは他車からは邪魔であろう時速80kmで走りだす。<br /><br />写真はWappen_Freudenberg_(Siegerland)フロイデンベルク(ジーガーラント)の紋章

    指定されたパークタワーNo.2の駐車場4階No.234に行くと、シュコーダが待っていた。メカは誰もいないので、仕方なく2個の荷物を後部トランクに入れ、地図や行程表を前部助手席に置き、車の傷をチェックして問題ないことを確認して、エンジンをかけた。

    ところが上手くかからない。困ったと思い、周辺を捜すと、何やらナビの修理をされていた方を見つけ、事情を言って車まで来てもらった。何のことはなく、一発で彼はエンジンを始動させた。“問題ないよ”と言って、去って行ったが、このままエンジンを切らずに小雨が降り出す中を出発した。
    (エンジンのキーを回すにはしっかり右に回転させるのが肝要だったのだ)

    7:40空港を恐る恐るスタートした。まだ薄暗く見にくい。いつもながら緊張して、アウトバーンに入るのは怖い。
    まずは他車からは邪魔であろう時速80kmで走りだす。

    写真はWappen_Freudenberg_(Siegerland)フロイデンベルク(ジーガーラント)の紋章

  • 昨年A3を走り、ケルン南近くで渋滞に巻き込まれ大いに困ったが、今回はケルン北でA4に入り、Olpeオルぺに向かう。<br /><br />8:30頃になると空が明るくなり、晴れるかなと期待して走る。この道はBergisches Landベルギシェスラントの山間を貫く長い下り坂が多い。自然と雨道ながらスピードが上がり、100km走行になった。<br /><br />オルぺでA45にのり、南下する。どんどん高速車に抜かれる。車同士のものすごい競争が見え、抜かれる際にシュコーダの車体が震えた。<br />A45のアウトバーンも長年の酷使の所為か各所で工事中である。この辺りは当然制限速度が60~80kmとなるので、こう言っては変だが気は楽になる。<br /><br />130km先にある、この度最初の観光地、モノトーンの木組みの家並みが素敵なFreudenbergフロイデンベルクを目指した。<br />土曜日の朝は車も少なく、特にトラックが少ないのでありがたい。何とか120kmも時々出しながら、静かな田舎町に着いた(9:30)。<br /><br />写真はフロイデンベルクの木組みの家並み

    昨年A3を走り、ケルン南近くで渋滞に巻き込まれ大いに困ったが、今回はケルン北でA4に入り、Olpeオルぺに向かう。

    8:30頃になると空が明るくなり、晴れるかなと期待して走る。この道はBergisches Landベルギシェスラントの山間を貫く長い下り坂が多い。自然と雨道ながらスピードが上がり、100km走行になった。

    オルぺでA45にのり、南下する。どんどん高速車に抜かれる。車同士のものすごい競争が見え、抜かれる際にシュコーダの車体が震えた。
    A45のアウトバーンも長年の酷使の所為か各所で工事中である。この辺りは当然制限速度が60~80kmとなるので、こう言っては変だが気は楽になる。

    130km先にある、この度最初の観光地、モノトーンの木組みの家並みが素敵なFreudenbergフロイデンベルクを目指した。
    土曜日の朝は車も少なく、特にトラックが少ないのでありがたい。何とか120kmも時々出しながら、静かな田舎町に着いた(9:30)。

    写真はフロイデンベルクの木組みの家並み

    観光案内所(フロイデンベルク) 散歩・街歩き

    フロイデンベルク:モノトーンの木組みの家並みに既視感があった by jijidarumaさん
  • 駐車場を探し、スーパーHIT116店の駐車場に入った。<br />こちらはお客用に無料なので、ついでに水Vio1.5LX6本を購入(Euro7.79=1,004円・・・環境保護の保証金込みなので高い)<br /><br /><Freudenbergフロイデンベルク観光>(ノルトライン・ヴェストファーレン州)<br />9:30~11:10<br />http://www.freudenberg-stadt.de/<br /><br />南ヴェストファーレン地方にあるフロイデンベルクはデュッセルドルフ空港からは凡そ130kmの距離にある。またSiegenジーゲンから北西に8kmの距離にあり、山肌の斜面に家並みを持った、人口1.8万人の町である。 <br /><br />写真はフロイデンベルクの木組みの家並み

    駐車場を探し、スーパーHIT116店の駐車場に入った。
    こちらはお客用に無料なので、ついでに水Vio1.5LX6本を購入(Euro7.79=1,004円・・・環境保護の保証金込みなので高い)

    <Freudenbergフロイデンベルク観光>(ノルトライン・ヴェストファーレン州)
    9:30~11:10
    http://www.freudenberg-stadt.de/

    南ヴェストファーレン地方にあるフロイデンベルクはデュッセルドルフ空港からは凡そ130kmの距離にある。またSiegenジーゲンから北西に8kmの距離にあり、山肌の斜面に家並みを持った、人口1.8万人の町である。 

    写真はフロイデンベルクの木組みの家並み

  • 旧市街に集まる見事な白黒の伝統的木組み建築群が有名で見どころになっている。とりわけ、クアパークの高台から見るモノトーンの木組みの家並みが素敵な景観がベストと云うが、小雨も降り、見晴らしは悪そうなので諦めた。<br /><br />写真はフロイデンベルクの木組みの家並み

    旧市街に集まる見事な白黒の伝統的木組み建築群が有名で見どころになっている。とりわけ、クアパークの高台から見るモノトーンの木組みの家並みが素敵な景観がベストと云うが、小雨も降り、見晴らしは悪そうなので諦めた。

    写真はフロイデンベルクの木組みの家並み

  • 1666年に大火が起こり、1棟を残し全焼してしまったと云う。その際に焼け残ったお城の一部を建物再建の材料としたそうだが、建て直した木組み建築群は幸いなことに現在まで修復されながら住居として利用されている。<br /><br />1666年の大火の前の建物も同様の木組み建築だったと云われている。今も外観は変えることは禁止されて、景観の統一が保たれている。<br /><br />写真はフロイデンベルクの木組みの家:ワインハウスらしい

    イチオシ

    1666年に大火が起こり、1棟を残し全焼してしまったと云う。その際に焼け残ったお城の一部を建物再建の材料としたそうだが、建て直した木組み建築群は幸いなことに現在まで修復されながら住居として利用されている。

    1666年の大火の前の建物も同様の木組み建築だったと云われている。今も外観は変えることは禁止されて、景観の統一が保たれている。

    写真はフロイデンベルクの木組みの家:ワインハウスらしい

  • 小雨の中、歴史的な旧市街と称する小さな街歩きを始めると、街中に中世祭りの時のような服を着た人たちが店を建て、商品の陳列準備に余念がない。<br /><br />上からOberstrasse、Mittelstrasse、Unterstrasse上中下の横道があり、そこに店が並ぶ。<br />ある店主に毛皮の敷物を土産にどうだと言われたが、いずれにせよ今日は11時から開店だそうだ。<br />買う気もないから、モノトーンの木組みの家並みをともあれ街歩きだ。<br /><br />写真はフロイデンベルクの木組みの家並み

    小雨の中、歴史的な旧市街と称する小さな街歩きを始めると、街中に中世祭りの時のような服を着た人たちが店を建て、商品の陳列準備に余念がない。

    上からOberstrasse、Mittelstrasse、Unterstrasse上中下の横道があり、そこに店が並ぶ。
    ある店主に毛皮の敷物を土産にどうだと言われたが、いずれにせよ今日は11時から開店だそうだ。
    買う気もないから、モノトーンの木組みの家並みをともあれ街歩きだ。

    写真はフロイデンベルクの木組みの家並み

  • 近年知られた灰色屋根・白壁の木組みの家は整いすぎた感じの家並みで、古さを感じない。<br /><br />所々の家の窓辺にゼラニュームの赤い花やアクセントに緑の窓扉が見えるとホッとする。<br /><br />写真はフロイデンベルクの木組みの家並み

    近年知られた灰色屋根・白壁の木組みの家は整いすぎた感じの家並みで、古さを感じない。

    所々の家の窓辺にゼラニュームの赤い花やアクセントに緑の窓扉が見えるとホッとする。

    写真はフロイデンベルクの木組みの家並み

  • 写真はフロイデンベルクのスーパーHIT116店:パン屋・Cafe Heyyeカフェ・ヘイエ(右)

    写真はフロイデンベルクのスーパーHIT116店:パン屋・Cafe Heyyeカフェ・ヘイエ(右)

  • <昼食:スーパーHIT116店にあるパン屋・Cafe Heyyeカフェ・ヘイエで><br />10:30~11:05  Euro6.65(857円)<br /><br />少し早い昼食だが、短い睡眠に加え、今日は朝食無しで出発したから、丁度良い時間だった。<br />コーヒー、ケーキ・蜂の一刺し(家内がお皿にのせている:後述)、リンゴ入りのBerliner Pfannkuchenベルリーナー・プファンクーヘン(ジャム入りの揚げパンだが、私に好物だ)。<br />街歩きで汗びっしょりだった背中に家内のの麻のマフラーを入れて休憩をとった。汗も引き、体も温まり、空腹もおさまった。<br /><br />写真はフロイデンベルク:スーパーHIT116店にあるパン屋・Cafe Heyyeカフェ・ヘイエ内

    <昼食:スーパーHIT116店にあるパン屋・Cafe Heyyeカフェ・ヘイエで>
    10:30~11:05  Euro6.65(857円)

    少し早い昼食だが、短い睡眠に加え、今日は朝食無しで出発したから、丁度良い時間だった。
    コーヒー、ケーキ・蜂の一刺し(家内がお皿にのせている:後述)、リンゴ入りのBerliner Pfannkuchenベルリーナー・プファンクーヘン(ジャム入りの揚げパンだが、私に好物だ)。
    街歩きで汗びっしょりだった背中に家内のの麻のマフラーを入れて休憩をとった。汗も引き、体も温まり、空腹もおさまった。

    写真はフロイデンベルク:スーパーHIT116店にあるパン屋・Cafe Heyyeカフェ・ヘイエ内

  • <ジョン・F・ケネディの逸話><br /><br />英語圏で有名な逸話にアメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディが西ベルリンを訪問した際のスピーチ「Ich bin ein Berliner(私はベルリン市民である)」が「I am a jelly doughnut(私はジャムドーナツである)」と通訳されたというものがある。<br /><br />ベルリン市民とジャムパンのベルリーナーが同じ単語のため些細な文法のミスを笑うものだが、現地のドイツでは全く知られていない逸話であり、実際には文法も誤っていないため、英語圏を中心にジョークが広まった都市伝説のようである。<br /><br />しかしこの都市伝説を逆手に取り、ベルリーナーにケネディの顔が描かれたキーホルダーがベルリンの土産店で広く販売されている。(Wiki)<br /><br />スピーチ「Ich bin ein Berliner(私はベルリン市民である)」<br />https://www.youtube.com/watch?v=2Ha9GJwlus8<br /><br />*当該箇所は、&quot;Two thousand years ago, the proudest boast was ?&#39;civis romanus sum?&#39;?. Today, in the world of freedom, the proudest boast is ?&#39;?Ich bin ein Berliner?&#39;?.&quot;「2000年前は、最も誇り高き言葉は『私はローマ市民だ』であった。今日、この自由な世界において、最も誇り高き言葉は『私はベルリン市民だ』である。」と、キケロに由来するとされる”civis romanus sum”との対比で用いられた。<br /><br />写真はBerliner Pfannkuchenベルリーナー・プファンクーヘン(ジャム入りの揚げパン)

    <ジョン・F・ケネディの逸話>

    英語圏で有名な逸話にアメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディが西ベルリンを訪問した際のスピーチ「Ich bin ein Berliner(私はベルリン市民である)」が「I am a jelly doughnut(私はジャムドーナツである)」と通訳されたというものがある。

    ベルリン市民とジャムパンのベルリーナーが同じ単語のため些細な文法のミスを笑うものだが、現地のドイツでは全く知られていない逸話であり、実際には文法も誤っていないため、英語圏を中心にジョークが広まった都市伝説のようである。

    しかしこの都市伝説を逆手に取り、ベルリーナーにケネディの顔が描かれたキーホルダーがベルリンの土産店で広く販売されている。(Wiki)

    スピーチ「Ich bin ein Berliner(私はベルリン市民である)」
    https://www.youtube.com/watch?v=2Ha9GJwlus8

    *当該箇所は、"Two thousand years ago, the proudest boast was ?'civis romanus sum?'?. Today, in the world of freedom, the proudest boast is ?'?Ich bin ein Berliner?'?."「2000年前は、最も誇り高き言葉は『私はローマ市民だ』であった。今日、この自由な世界において、最も誇り高き言葉は『私はベルリン市民だ』である。」と、キケロに由来するとされる”civis romanus sum”との対比で用いられた。

    写真はBerliner Pfannkuchenベルリーナー・プファンクーヘン(ジャム入りの揚げパン)

  • 写真は2008年ケーニヒス湖畔の店で食べた“蜂の一刺しケーキ”:<br />“蜂の一刺しケーキ”はBienestichビーネシュティッヒ(蜂の一刺しの意)でスライスアーモンドをのせ、蜂蜜で固めたケーキ、とても美味しい。<br /><br />

    写真は2008年ケーニヒス湖畔の店で食べた“蜂の一刺しケーキ”:
    “蜂の一刺しケーキ”はBienestichビーネシュティッヒ(蜂の一刺しの意)でスライスアーモンドをのせ、蜂蜜で固めたケーキ、とても美味しい。

  • 写真はFreudenbergフロイデンベルク:秋の景観

    写真はFreudenbergフロイデンベルク:秋の景観

  • 11:10にフロイデンベルクを出発し、次の目的地に向かう。更にアウトバーンを50km南下したHerbornヘルボルンで降り、山中の道をたどった。<br /><br />ところが山中の九十九折の道を行っても道標が出てこないので、不安になって元の道を戻った。村の道で会話中のご夫婦に聞いてみると、さっきの道は正しいと言う。お礼を述べて、又山中の九十九折を上った。<br /><br />・・・・・<br /><br />ヘッセン州(Land Hessen):<br /><br />ヘッセン州はドイツに16ある連邦州のひとつ。州都は州南西部に位置するヴィースバーデンだが、経済の中心都市は州南部に位置するフランクフルトである。<br />人口は6百万人で16州中の第5位である。<br /><br />ヘッセン州はドイツ中央西部に位置し、北はニーダーザクセン州、北西はノルトライン・ヴェストファーレン州、南西はラインラント・プファルツ州、南はバーデン・ヴュルテンベルク州、南東はバイエルン州、東はテューリンゲン州と隣接している。<br />ライン川が南西のラインラント・プファルツ州との境界をなし、州南部をライン川の支流のマイン川が横断する。この2つの川の流域に挟まれた地域は南のバーデン・ヴュルテンベルク州へと続く緩やかなオーデンヴァルト山地を除き、平野となっており、ここに州の人口が集中している。<br /><br />今日、ヘッセン州となっている地域の大部分は、中世のはじめはフランク王国・東フランク王国の下で、Herzogtum Frankenフランケン大公の統治する領域の一部であった。<br /><br />写真はWappen_Greifenstein_(Hessen)グライフェンシュタインの紋章

    11:10にフロイデンベルクを出発し、次の目的地に向かう。更にアウトバーンを50km南下したHerbornヘルボルンで降り、山中の道をたどった。

    ところが山中の九十九折の道を行っても道標が出てこないので、不安になって元の道を戻った。村の道で会話中のご夫婦に聞いてみると、さっきの道は正しいと言う。お礼を述べて、又山中の九十九折を上った。

    ・・・・・

    ヘッセン州(Land Hessen):

    ヘッセン州はドイツに16ある連邦州のひとつ。州都は州南西部に位置するヴィースバーデンだが、経済の中心都市は州南部に位置するフランクフルトである。
    人口は6百万人で16州中の第5位である。

    ヘッセン州はドイツ中央西部に位置し、北はニーダーザクセン州、北西はノルトライン・ヴェストファーレン州、南西はラインラント・プファルツ州、南はバーデン・ヴュルテンベルク州、南東はバイエルン州、東はテューリンゲン州と隣接している。
    ライン川が南西のラインラント・プファルツ州との境界をなし、州南部をライン川の支流のマイン川が横断する。この2つの川の流域に挟まれた地域は南のバーデン・ヴュルテンベルク州へと続く緩やかなオーデンヴァルト山地を除き、平野となっており、ここに州の人口が集中している。

    今日、ヘッセン州となっている地域の大部分は、中世のはじめはフランク王国・東フランク王国の下で、Herzogtum Frankenフランケン大公の統治する領域の一部であった。

    写真はWappen_Greifenstein_(Hessen)グライフェンシュタインの紋章

  • Burg Greifensteinnグライフェンシュタイン城の案内が出て、途中の道でグライフェンシュタイン城を遠望できた。<br />とりあえず一時停止して、城の遠景を撮った。<br /><br />そこから人口6900人の村は直ぐで、村人に確認してからBackhausバックハウスと称する消防関係の庁舎傍に車を停め、徒歩で数分の城に急いだ。<br /><br />写真はグライフェンシュタイン城の遠望

    イチオシ

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    Burg Greifensteinnグライフェンシュタイン城の案内が出て、途中の道でグライフェンシュタイン城を遠望できた。
    とりあえず一時停止して、城の遠景を撮った。

    そこから人口6900人の村は直ぐで、村人に確認してからBackhausバックハウスと称する消防関係の庁舎傍に車を停め、徒歩で数分の城に急いだ。

    写真はグライフェンシュタイン城の遠望

  • <Burg Greifensteinnグライフェンシュタイン城見学>(ヘッセン州):①<br />D-35753 Greifenstein 、Talstrasse 19<br />12:30~13:45  入場料Euro8(1,031円)<br />http://www.burg-greifenstein.net/<br /><br />九十九折の山中を抜けると、牧場の先に海抜441mの丘の上に、少し紅葉した木々に囲まれた城が見えてきた。<br /><br />実際は城址であるが、遠望では立派に見える。双頭の塔がどっしりした形で独特である。この城も駐在時から知っていて、一度は訪ねたいと思っていた城だ。<br /><br />写真はBurg Greifenstein_De_Merian_Hassiaeグライフェンシュタイン城1655年メリアン作

    <Burg Greifensteinnグライフェンシュタイン城見学>(ヘッセン州):①
    D-35753 Greifenstein 、Talstrasse 19
    12:30~13:45  入場料Euro8(1,031円)
    http://www.burg-greifenstein.net/

    九十九折の山中を抜けると、牧場の先に海抜441mの丘の上に、少し紅葉した木々に囲まれた城が見えてきた。

    実際は城址であるが、遠望では立派に見える。双頭の塔がどっしりした形で独特である。この城も駐在時から知っていて、一度は訪ねたいと思っていた城だ。

    写真はBurg Greifenstein_De_Merian_Hassiaeグライフェンシュタイン城1655年メリアン作

  • 写真はBurg_Greifensteinグライフェンシュタイン城の縄張り図

    写真はBurg_Greifensteinグライフェンシュタイン城の縄張り図

  • GEOPARK Westerwald-Lahn-Taunusジオパーク(大地の公園)ヴェスターラント・ラーン・タウヌス地域に属するグライフェンシュタインの地に、堂々たる双頭の塔とドイツ国旗を上に眺めながら、<br /><br />ドラゴンの稜堡(1479年、7mの厚さの強固な壁、2つの銃眼から放たれた砲・銃火はドラゴンが火を噴くようだったとか)の横を登ると、<br /><br />開けた場(教会広場と称した)にチケット売り場があり、城内見学と鐘のコレクションの展示見学の共通入場料を支払って中に入った。<br /><br />写真は双頭の塔とドラゴンの稜堡(右下)

    GEOPARK Westerwald-Lahn-Taunusジオパーク(大地の公園)ヴェスターラント・ラーン・タウヌス地域に属するグライフェンシュタインの地に、堂々たる双頭の塔とドイツ国旗を上に眺めながら、

    ドラゴンの稜堡(1479年、7mの厚さの強固な壁、2つの銃眼から放たれた砲・銃火はドラゴンが火を噴くようだったとか)の横を登ると、

    開けた場(教会広場と称した)にチケット売り場があり、城内見学と鐘のコレクションの展示見学の共通入場料を支払って中に入った。

    写真は双頭の塔とドラゴンの稜堡(右下)

  • 写真はグライフェンシュタイン城から見る一帯

    写真はグライフェンシュタイン城から見る一帯

  • 写真はグライフェンシュタイン城から見る一帯

    写真はグライフェンシュタイン城から見る一帯

  • 写真はグライフェンシュタイン城から見る一帯・・・右の建物はDoppelkapelle二重教会(St. Katharinenkapelle聖カタリーネン教会)

    写真はグライフェンシュタイン城から見る一帯・・・右の建物はDoppelkapelle二重教会(St. Katharinenkapelle聖カタリーネン教会)

  • 広場を囲む城壁からは黄葉を帯びた木々の波が見渡され、遠望の先には先ほどまでいたフロイデンベルクと同じモノトーンの木組みの家並みをもった町や村の佇まいが見える。<br /><br />写真はグライフェンシュタイン城から見る一帯:拡大図

    広場を囲む城壁からは黄葉を帯びた木々の波が見渡され、遠望の先には先ほどまでいたフロイデンベルクと同じモノトーンの木組みの家並みをもった町や村の佇まいが見える。

    写真はグライフェンシュタイン城から見る一帯:拡大図

  • 写真はグライフェンシュタイン城から見る一帯

    写真はグライフェンシュタイン城から見る一帯

  • 先に城の東に位置し、1620年にGraf WilhelmⅠヴィルヘルム1世伯が造ったBollwerk (Geschuetzturm) ?Rossmuehle“防御塔内に開設された40もの鐘のコレクションの展示(1984年~)を見て回った。<br /><br />写真は防御塔内に開設された40もの鐘のコレクションの展示

    先に城の東に位置し、1620年にGraf WilhelmⅠヴィルヘルム1世伯が造ったBollwerk (Geschuetzturm) ?Rossmuehle“防御塔内に開設された40もの鐘のコレクションの展示(1984年~)を見て回った。

    写真は防御塔内に開設された40もの鐘のコレクションの展示

  • 写真は防御塔内に開設された40もの鐘のコレクションの展示

    写真は防御塔内に開設された40もの鐘のコレクションの展示

  • <br />鐘は自由に鳴らして良いらしく、木槌が置かれ、私共もかわるがわる鳴らして、きれいな鐘の音を楽しんだ。<br /><br />写真は防御塔内に開設された40もの鐘のコレクションの展示


    鐘は自由に鳴らして良いらしく、木槌が置かれ、私共もかわるがわる鳴らして、きれいな鐘の音を楽しんだ。

    写真は防御塔内に開設された40もの鐘のコレクションの展示

  • 写真は防御塔内に開設された40もの鐘のコレクションの展示

    写真は防御塔内に開設された40もの鐘のコレクションの展示

  • グライフェンシュタイン城は1298年にナッサウ王などの攻撃で崩壊し、その後一部を再建したもの、17世紀の終わりに無住となり、崩壊が進み、残ったのはDoppelkapelle二重教会(St. Katharinenkapelle聖カタリーネン教会)だそうだ。<br />教会広場の西南の端に建物があり、城内教会内に入る。<br /><br />写真は二重教会:フレスコ画の天井と紋章

    グライフェンシュタイン城は1298年にナッサウ王などの攻撃で崩壊し、その後一部を再建したもの、17世紀の終わりに無住となり、崩壊が進み、残ったのはDoppelkapelle二重教会(St. Katharinenkapelle聖カタリーネン教会)だそうだ。
    教会広場の西南の端に建物があり、城内教会内に入る。

    写真は二重教会:フレスコ画の天井と紋章

  • Doppelkapelle二重教会は聖カタリーネン教会の上に城主Graf Wilhelm・Moritzヴィルヘルム・モリッツ伯により1683年から1702年にかけて完成された。<br /><br />写真は二重教会:フレスコ画の天井

    Doppelkapelle二重教会は聖カタリーネン教会の上に城主Graf Wilhelm・Moritzヴィルヘルム・モリッツ伯により1683年から1702年にかけて完成された。

    写真は二重教会:フレスコ画の天井

  • 聖カタリーネン教会はそれよりも古く1448年から1476年の間に建設されたものだ。<br /><br />二重教会の1階は共同体の催しに利用され、2階に1869年製小さなネオロマネスク様式のパイプオルガンが置かれ、城主ヴィルヘルム・モリッツ伯とヘッセン・ホンブルク方伯の娘であったソフィア伯妃の紋章が婚姻で結ばれたこと示す様に紋の描かれた二つの楯を結んでいた。<br /><br />写真は二重教会:見事な紋章

    聖カタリーネン教会はそれよりも古く1448年から1476年の間に建設されたものだ。

    二重教会の1階は共同体の催しに利用され、2階に1869年製小さなネオロマネスク様式のパイプオルガンが置かれ、城主ヴィルヘルム・モリッツ伯とヘッセン・ホンブルク方伯の娘であったソフィア伯妃の紋章が婚姻で結ばれたこと示す様に紋の描かれた二つの楯を結んでいた。

    写真は二重教会:見事な紋章

  • 見事に描かれたフレスコ画の天井も良く残っていて、天井には72の天使と童子が数えられるという。<br /><br />写真は二重教会:フレスコ画の天井

    見事に描かれたフレスコ画の天井も良く残っていて、天井には72の天使と童子が数えられるという。

    写真は二重教会:フレスコ画の天井

  • 順次、15世紀初めの牢獄、1556年からあったとされる鍛冶屋の再現場、台所付きの居住棟跡、パレス跡、20mの深さの井戸・給水塔跡、婦人住居棟跡、井戸の大広間と称した新棟跡などを歩く。<br /><br />部分的には改装しているが、殆どはのっぺりした石の土間が続くばかりだ。<br /><br />写真は鍛冶屋の再現場

    順次、15世紀初めの牢獄、1556年からあったとされる鍛冶屋の再現場、台所付きの居住棟跡、パレス跡、20mの深さの井戸・給水塔跡、婦人住居棟跡、井戸の大広間と称した新棟跡などを歩く。

    部分的には改装しているが、殆どはのっぺりした石の土間が続くばかりだ。

    写真は鍛冶屋の再現場

  • グライフェンシュタイン城は1381年に防御壁の上に築かれた20m以上あるだろう独特の双頭の塔を持った古城で、古くは1160年に築城されたとされている。<br /><br />だが、文書にグライフェンシュタインの名に初めて言及するのは1226年のことである。<br /><br />双頭の塔は左の丸屋根を“ナッサウの塔”、右の尖った屋根は“兄弟の塔”と称し、そこにはドラゴンのような風見鶏の飾りが見え、双方の塔を橋でつないでいる。<br /><br />写真は“Springs-Leben(元気な命)”と呼ばれた双頭の塔

    グライフェンシュタイン城は1381年に防御壁の上に築かれた20m以上あるだろう独特の双頭の塔を持った古城で、古くは1160年に築城されたとされている。

    だが、文書にグライフェンシュタインの名に初めて言及するのは1226年のことである。

    双頭の塔は左の丸屋根を“ナッサウの塔”、右の尖った屋根は“兄弟の塔”と称し、そこにはドラゴンのような風見鶏の飾りが見え、双方の塔を橋でつないでいる。

    写真は“Springs-Leben(元気な命)”と呼ばれた双頭の塔

  • “Springs-Leben(元気な命)”と呼ばれた双頭の塔は階段が整備され、上れば塔から城郭全体の様子やグライフェンシュタイン一帯の光景を見る事が出来るようだが、風も冷たくなり、そのまま引き返すことにした。<br /><br />この城見物では見栄えのする双頭の塔、鐘のコレクション、聖カタリーネン教会のフレスコ画の天井がベストであろう。<br /><br />写真は“Springs-Leben(元気な命)”と呼ばれた双頭の塔

    “Springs-Leben(元気な命)”と呼ばれた双頭の塔は階段が整備され、上れば塔から城郭全体の様子やグライフェンシュタイン一帯の光景を見る事が出来るようだが、風も冷たくなり、そのまま引き返すことにした。

    この城見物では見栄えのする双頭の塔、鐘のコレクション、聖カタリーネン教会のフレスコ画の天井がベストであろう。

    写真は“Springs-Leben(元気な命)”と呼ばれた双頭の塔

  • グライフェンシュタイン城の歴史:<br /><br />1226年に文書にRudolf von Greifensteinルードルフ・グライフェンシュタインの名に初めて言及しているので、この頃には支配者が既に存在し、城郭を持っていたと思われる。<br />1298年、Koenig Adolf von Nassauアドルフ・ナッサウ王、敵対する都市同盟軍、ナッサウ・ゾルムス伯に攻撃されて城は破壊された。<br />1322年、Koenig Ludwig der Bayerルートヴィヒ・バイエルン王が城と町都市権をGottfried von Saynゴットフリート・ザインに与えた。<br /><br />1381年、Rupprecht von Nassau・Sonnenberg ルプレヒト・ナッサウ・ゾンネンベルクとJohann von Solms・Burgsolmsヨハン・ゾルムス・ブルクゾルムスが城を再建し、その際Doppeltuerme双頭の塔(二重のタワー)を建てた。<br /><br />1432年、ゾルムス・ブルクゾルムス家が絶えるとともに、グライフェンシュタイン城はSolms・Braunfelsゾルムス・ブラウンフェルズ家*の所有となった。<br /><br />(*2006年5月に今回の行程と似た旅でデュッセルドルフ訪問、ライン・モーゼル川・ラーン川の流域を巡った。この旅の最後にナッサオ伯爵家の根拠地Nassauナッサオの古城や、ゾルムス・ブラウンフェルズ伯家の居城Schloss Braunfelsブラウンフェルズ城も訪れた。<br /><br />ブラウンフェルズは高タウナス山系の国立自然公園内にあり、ラーン川の南に750年以上の古い歴史をもつ木組みの家並みの町なのだが、ドイツ皇帝フリードリヒⅢ世が1887年にこの城を訪れ、【ブラウンフェルズを見ずに、老いてゆけようか?!(日本的には“日光を見ずに、結構と言うな!”)】と言ったと云う。<br />又この城の城主に伝説の聖女エリザベートの娘が嫁している。そんなことを思い出した)<br /><br />写真はグライフェンシュタイン城から見るグライフェンシュタインの村

    グライフェンシュタイン城の歴史:

    1226年に文書にRudolf von Greifensteinルードルフ・グライフェンシュタインの名に初めて言及しているので、この頃には支配者が既に存在し、城郭を持っていたと思われる。
    1298年、Koenig Adolf von Nassauアドルフ・ナッサウ王、敵対する都市同盟軍、ナッサウ・ゾルムス伯に攻撃されて城は破壊された。
    1322年、Koenig Ludwig der Bayerルートヴィヒ・バイエルン王が城と町都市権をGottfried von Saynゴットフリート・ザインに与えた。

    1381年、Rupprecht von Nassau・Sonnenberg ルプレヒト・ナッサウ・ゾンネンベルクとJohann von Solms・Burgsolmsヨハン・ゾルムス・ブルクゾルムスが城を再建し、その際Doppeltuerme双頭の塔(二重のタワー)を建てた。

    1432年、ゾルムス・ブルクゾルムス家が絶えるとともに、グライフェンシュタイン城はSolms・Braunfelsゾルムス・ブラウンフェルズ家*の所有となった。

    (*2006年5月に今回の行程と似た旅でデュッセルドルフ訪問、ライン・モーゼル川・ラーン川の流域を巡った。この旅の最後にナッサオ伯爵家の根拠地Nassauナッサオの古城や、ゾルムス・ブラウンフェルズ伯家の居城Schloss Braunfelsブラウンフェルズ城も訪れた。

    ブラウンフェルズは高タウナス山系の国立自然公園内にあり、ラーン川の南に750年以上の古い歴史をもつ木組みの家並みの町なのだが、ドイツ皇帝フリードリヒⅢ世が1887年にこの城を訪れ、【ブラウンフェルズを見ずに、老いてゆけようか?!(日本的には“日光を見ずに、結構と言うな!”)】と言ったと云う。
    又この城の城主に伝説の聖女エリザベートの娘が嫁している。そんなことを思い出した)

    写真はグライフェンシュタイン城から見るグライフェンシュタインの村

  • 以後、ブラウンフェルズ伯家により城の様々なものが(城郭内、水の供給、稜堡、城壁、ゴシック様式の教会)整えられた。<br />1685年、宗教戦争後にフランスを追われたユグノー教徒をDaubhausenダウブハウゼンとGreifenthalグライフェンタールに定住させた。<br /><br />1693年、ゾルムス・ブラウンフェルズ家が絶えたため、同家の全財産はグライフェンシュタイン城主Graf Wilhelm・Moritzヴィルヘルム・モリッツ伯(プロイセン王国の枢密顧問官)のものになり、同家の本拠地であったBraunfelsブラウンフェルズに移住した。この為、グライフェンシュタイン城は無住となり、次第に廃墟になっていった。<br /><br />20世紀に至り、この城址を保全する動きが出て、城址も整備され、中でもコレクションされた鐘の博物館も公開され、現在に至っている。<br /><br />・・・・・・・・・<br /><br />写真は写真はグライフェンシュタイン城から見る一帯

    以後、ブラウンフェルズ伯家により城の様々なものが(城郭内、水の供給、稜堡、城壁、ゴシック様式の教会)整えられた。
    1685年、宗教戦争後にフランスを追われたユグノー教徒をDaubhausenダウブハウゼンとGreifenthalグライフェンタールに定住させた。

    1693年、ゾルムス・ブラウンフェルズ家が絶えたため、同家の全財産はグライフェンシュタイン城主Graf Wilhelm・Moritzヴィルヘルム・モリッツ伯(プロイセン王国の枢密顧問官)のものになり、同家の本拠地であったBraunfelsブラウンフェルズに移住した。この為、グライフェンシュタイン城は無住となり、次第に廃墟になっていった。

    20世紀に至り、この城址を保全する動きが出て、城址も整備され、中でもコレクションされた鐘の博物館も公開され、現在に至っている。

    ・・・・・・・・・

    写真は写真はグライフェンシュタイン城から見る一帯

  • 駐車場に戻る途中、家の庭に洋ナシがたわわに生っていたが、食べないのだろうか。<br /><br />13:45、17℃と暖かくなる。<br />Buedingenビューディンゲンに向けて出発する。<br />今日の宿泊地は2013年にも訪れた“蛙の戦争”伝説で名高い古城ホテル ビューディンゲン城だ。<br /><br />写真は洋ナシ

    駐車場に戻る途中、家の庭に洋ナシがたわわに生っていたが、食べないのだろうか。

    13:45、17℃と暖かくなる。
    Buedingenビューディンゲンに向けて出発する。
    今日の宿泊地は2013年にも訪れた“蛙の戦争”伝説で名高い古城ホテル ビューディンゲン城だ。

    写真は洋ナシ

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