2016/10/14 - 2016/10/28
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jijidarumaさん
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2016年ドイツの秋:ライン・モーゼル・アール・ミュンスターラントの旅
2016年10月14日(金)~10月28日(金)15日間
第8日:38km *
今日はアールワイン街道を走る。行程も短い街道は素晴らしい秋の葡萄畑の景観が見られる。
Walportzheimヴァルポルツハイムから走り出す。蛇行する小さな流れに沿って、小さな村々がある。Marientalマリエンタール近くの山の上に古い城址が見え、川沿いの陽のあたる斜面はブドウ畑で覆われている。 “Ahr-Rotwein Strasseアール赤ワイン街道”の村々Marientalマリエンタール、Dernauデルナウ、Rechレッヒ、Mayschossマイショスがつづき、Altenahrアルテンアール(Burg Areアール城)までがワイン街道である。
アルテンアールの町の郊外に目的のBurg Kreuzberg クロイツベルク城がある。
この城はベーゼラーガー男爵家の居城で、あのシュタウフェンベルク大佐たちが企てた「1944年7月20日にヒトラー総統打倒」の同志だったGeorg & Phiripp Freiherr von Boeselagarのゲオルク&フィリップ・ベーゼラーガー男爵兄弟の弟フィリップが終の棲家にした所だ。この事もあって、一度は訪れたい城になった。
写真はベーゼラーガー男爵家の居城クロイツベルク城
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 交通手段
- レンタカー
- 航空会社
- ANA
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
*起床6:30、7:15~7:45再度眠くて寝る。
朝食は8:30~9:00暖炉の間で食べる。
写真はアールヴァイラーの古城ホテル アーデンバッハ城・朝食の間 -
写真はアーデンバッハ城・暖炉の間で朝食
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写真はアーデンバッハ城・暖炉の間
-
写真はアーデンバッハ城・暖炉の間
-
朝食後、昨日書き終えてあった絵葉書5枚を市城壁外にある郵便局に出しに行った。海外便が多いが、合計Euro2.25(290円)だった。
(昨夏、アルザスのコルマールでホテルに頼んで出した郵便代はチップ込みでEuro10と高すぎたようだ)
写真はアーデンバッハ城・暖炉の間 -
写真はアーデンバッハ城・暖炉の間
-
<“アール赤ワイン街道”を行く>
第8日:10月21日(金)38km、小雨・時に晴れ間もあるも曇天、寒い日8.0~11.0℃*
古城ホテル アーデンバッハ城・アールヴァイラー =>B 267 2km Walporzheimヴァルポルツハイム “アール赤ワイン街道” =>7 km Rechレッヒ =>2km Mayschossマイショス=>4km Altenahrアルテンアール=>B257・L? 5km Burg Kreuzbergクロイツベルク城 =>L?・B257・Altenahrアルテンアール=>B 267 18km Bad Neuenahr-Ahrweiler・Burg Adenbach古城ホテル アーデンバッハ城
写真はAhrtal_Uebersicht_アール渓谷図 -
10:00、ホテルを出発し、今日はアール赤ワイン街道を走る。小雨、8℃と昨日同様に天候悪く、残念だ。
アーデンバッハ門をくぐり、左折して市城壁外の道に出る。行程は片道20kmと短い街道ゆえ気分は楽だが、素晴らしい秋の葡萄畑の景観が見られるだろうか。
Walportzheimヴァルポルツハイムを出るとすぐに、右手の丘陵Kraeuterbergクロイターベルクが見え、段々の葡萄畑の景観に見とれた。
同じようにドイツ人も車を停め、写真を撮っている。
アール川が蛇行する小さな流れに沿って、小さな村々がある。
写真はKraeuterbergクロイターベルクの葡萄畑の景観 -
“Ahr-Rotwein Strasseアール赤ワイン街道”の村々Marientalマリエンタール、Dernauデルナウ、Rechレッヒ、Mayschossマイショスがつづき、Altenahrアルテンアール(Burg Areアール城)までがワイン街道である。この間にはRuine Saffenburgザッフェンブルク城址、Burgruine Areアール城址、Burg Kreuzberg クロイツベルク城の三っの城がある。
写真はAhrtal_Saffenburg_auf_Berg_Panoramaザッフェンブルク城址のパノラマ -
Rechレッヒを過ぎると、Mayschossマイショスの手前でアール川は大きく蛇行する。
その半島に沿って走る道の左手の山上に古いRuine Saffenburgザッフェンブルク城址が、雨でちょっとぼんやりと見え、山の紅葉が伸びあがるように海抜253mの城址に向っている。
ザッフェンブルク城は11世紀にAdalbert von Saffenbergアダルベルト・ザッフェンベルクにより築城された。長さ260m、幅80mという台地に立つ山城である。
ザッフェンベルク家はMarientalマリエンタール、Dernauデルナウ、Rechレッヒ、Mayschossマイショスの村々、Kloster Marienthalマリエンタール僧院を支配下においていたと云う。
18世紀初め、仏軍の攻略で落城した。
写真はRuine Saffenburgザッフェンブルク城址 -
写真はRechレッヒから、大きく蛇行するアール川を左に、右に葡萄畑が続き、Mayschossマイショスの村に入る
-
写真は右に葡萄畑を望んで
-
走る路傍に立つホテルもこのように楽しい。
Hotel & Restaurant Jaegerstuebchenイエガーシュトゥーベシェン
D-53508 Mayschoss-Laach 、Bundesstraße 1
http://www.jaegerstuebchen.de/
写真は途中のガストハウス・カフェ -
写真は壁絵を拡大して
-
10:45、Altenahrアルテンアールは近く、14kmで到着した。
写真はwappen_Altenahrアルテンアールの紋章 -
写真はAltenahr_アルテンアールの1900年頃
-
駐車場(45分間は無料)に入れて、カフェを探す。寒いし、しかもトイレの為にまずは暖かい店の中に入りたい。
アルテンアール村の三差路の面したガストハウス・カフェを見つけた。
写真は駐車場、アール川が流れ、橋梁は電車が走る。 -
写真は村の上にBurgruine Areアール城址が見える。
Burgruine Areアール城址:
秋に染まったアール城址はAltenahrアルテンアールの240mの高台に立つ城址である。1100年にGraf Dietrich I. von Areディートリヒ・アール1世伯爵により築城された。
14~5世紀の頃はケルン大司教の領地だったアール一帯を防衛する城となったが、17世紀以降は、仏軍の侵攻を受け、城は大きな損害を受けた。
更にケルン大司教勢力の撤退と共に城の城壁類は地域の住宅の材料に収奪されていき、現在のような城址となった。
・・・・・ -
<お茶:Haus Caspariハウス・カスパリで>
D-53505 Altenahr 、Rossberg 1
10:50~11:25 Euro12(1,546円)
シュヴァルツヴェルダー・キルシュトルテ(黒い森の さくらんぼケーキ)Euro2.7、チーズケーキEuro2.6、温まるカカオは3X2=Euro6でした。
2星・全20室。1866年創業のガストハウス・カフェ・レストランを兼ねる店はアール城址の下にある。
写真は三差路に立つハウス・カスパリ -
写真はシュヴァルツヴェルダー・キルシュトルテ(黒い森の さくらんぼケーキ)とチーズケーキ、それに温まるカカオを注文。はずれがありません!
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イチオシ
写真はアルテンアール村の三差路の面した美しい建物
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写真はベーゼラーガー男爵家の居城Burg Kreuzbergクロイツベルク城:Roidkin1725年の絵
-
イチオシ
11:30、アルテンアールの町の郊外に向かう。目的のBurg Kreuzberg クロイツベルク城には11:37(距離表示は1023km)に到着した。
この旅でひょっとしてと思って、城門近くまで車で上がったが、やはり駄目であった。
11:45、そのまま帰路に着く。
写真はベーゼラーガー男爵家の居城Burg Kreuzbergクロイツベルク城 -
この城はベーゼラーガー男爵家の居城で、あのシュタウフェンベルク大佐たちが企てた「1944年7月20日にヒトラー総統打倒」の同志だったGeorg & Phiripp Freiherr von Boeselagarのゲオルク&フィリップ・ベーゼラーガー男爵兄弟*の弟フィリップが終の棲家にした所だ。この事もあって、一度は訪れたい城であった。
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写真は居城Burg Kreuzbergクロイツベルク城_俯瞰・・・右上手の駐車場まで行ってみたが、それ以上は入る事が出来なかった。 -
写真はベーゼラーガー男爵兄弟の顕彰版
ヒトラー総統打倒の企てに参加したベーゼラーガー男爵兄弟は騎兵連隊1200名を指揮し、東部戦線からベルリンに向かった。
・・・・・
2014年の春の旅で北方二州・シュレースヴィヒ・ホルシュタイン州&メクレンブルク・フォアポンメルン州を中心に巡り、デュッセルドルフに向かう途中、
パーダーボルンのこの古城を訪れた。
ここでは、ヒトラー総統打倒の企てに参加した人たちの一人として、歴史にその名を遺した人物を知った。
思いもかけぬことだったが、男爵兄弟はあのシュタウフェンベルク大佐たちが企てた「1944年7月20日にヒトラー総統打倒」の同志だったのです。
これらについては以前、シュタウフェンベルク大佐を中心に5編に纏めてある。
≪Schloss Neuhaus ノイハウス城見学≫
11:30~12:00
D-33104 Paderborn 、Im Schlosspark 10
http://www.schlosspark-paderborn.de/
Paderbornパーダーボルン北西4kmの近郊にSchloss Neuhaus ノイハウス城がある。ノイハウス城はヴェーザー・ルネサンス様式の宮殿で、宮殿はLippeリッペ川、Almeアルメ川そしてPaderパーダー川の合流点、半島のような地点に立っている。
ノイハウス城は現在Realschule実科学校として利用されているが、その校庭(かつての城の中庭)の一隅にGeorg & Phiripp Freiherr von Boeselagarのゲオルク&フィリップ・ベーゼラーガー男爵兄弟顕彰版が立っていました。
丁度やってきたこの学校の生徒である女の子二人に聞いてみると、この顕彰の事は知らないという。第二次大戦の敗戦から70年も経つと、ドイツでもこんなものかと思った。
尤も、日本に帰ってから調べたが、ノイハウス城のWikiやこの地区の歴史的建物・顕彰を見ても男爵兄弟については全く記述や画像も無かった。この事にいささか驚いた。
ゲオルク&フィリップ・ベーゼラーガー男爵兄弟はErzbistum Magdeburgマグデブルク大司教の系譜に繋がる家の出で、1944年7月20日にヒトラー暗殺未遂事件を起こした実行者・国内予備軍司令部参謀長・陸軍大佐Claus Schenk Graf von Stauffenbergクラウス・シェンク・グラーフ・シュタウフェンベルク伯爵たちのヒトラー総統打倒の企てに参加した人たちの一人として、歴史にその名を遺した。
XXX -
<Burg Kreuzberg (Rheinland-Pfalz) クロイツベルク城>
(bei Altenahrアルテンアール・アイフェル地方)
19世紀当初から、ベーゼラーガー男爵家の狩猟館であったクロイツベルク城に、第二次大戦で生き残ったフィリップ男爵は移り住み、2008年5月、91歳で死ぬまでこの城で家族と共に過ごした。
クロイツベルク城はアルテンアールの一地区クロイツベルクの高台、小さなFelskegel円錐状した岩壁上に立っている。城郭は三角形をした平場にある山城で、アール川に面した側は絶壁になっている。
1820年以来、ベーゼラーガー男爵家の居城で、アール川流域唯一の居住した城であった。
個人所有の為、Burgkapelle城内教会を除いて、公開されていない。
写真は居城のBurg Kreuzbergクロイツベルク城 -
第二次大戦後:
1948年にフィリップ・ベーゼラーガー男爵はRosa Maria Graefin von Westphalen zu Fuerstenbergローザ・マリア・ヴェストファーレン・フュルステンベルク伯爵夫人と結婚し、4人の子供をもうけた。
その後、1820年以来、男爵家の狩猟館であったBurg Kreuzbergクロイツベルク城(bei Altenahrアルテンアール・アイフェル地方)に転居し、居城とした。
フィリップ男爵は2008年5月、91歳で死ぬまでこの城で家族と共に過ごした。
フィリップ男爵は第二次大戦後、ドイツの森林開発の発展に尽くし、1968~1988年の間、ドイツ森林所有者協会の会長を務めた。
また、フィリップ・ベーゼラーガー男爵は戦後の半生をかつての時代、つまりヒトラー総統打倒の企てに参加した人たちの最後の体験者として、生き証人として、更に、抵抗運動の語り部として発言を続けてきました。様々な分野の媒体を通して、また直接にその見解を述べている。新聞や雑誌、ラジオ、テレビで、公の場や、学校でも・・・。
前述したごとく、ドイツ国防軍はゲオルク・ベーゼラーガー男爵を記念して、1970年より1996年までに実施されたドイツ軍とその同盟国の装甲偵察大隊の軍事汎用性競争をBoeselager-Wettkampfと名付けているが、フィリップ男爵はこのコンテストのSchirmherrパトロン(後援者)であった。
兄ゲオルクと共にベーゼラーガー騎兵連隊を率いて蜂起計画に参加したフィリップ・ベーゼラーガー男爵(1917~2008年)は兄の戦死後も生き残って、91歳という長寿を全うし、2008年5月1日の夜、居城のBurg Kreuzbergクロイツベルク城(bei Altenahrアルテンアール・アイフェル地方)で死去した。
ヒトラー総統打倒の企てに参加した人たちの最後の生き残りでした。
フィリップ男爵の死後、その栄誉を記念し、2009年10月にGelsdorfゲルスドルフにあるドイツ国防軍の兵営にフィリップ男爵の名前を付けている。
2010年には保養地バート・ノイェンアール・アールヴァイラーの中学校に彼の名を付けています。
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写真は居城のBurg Kreuzbergクロイツベルク城・・・村内から見上げて -
イチオシ
途中、往路とは違って復路はゆっくり走るので、様々な美しい家、景観を楽しめる。たとえば、アルテンアール村では走る路傍に立つホテルがこのように楽しい。中に入ってみたいものばかりだったが。
Hotel & Restaurant Zum Schwarzen Kreuzホテル・レストラン ツム黒い十字架
D-53505 Altenahr 、Brueckenstrasse 5-7
http://zumschwarzenkreuz.de/
写真はホテル・レストラン ツム黒い十字架 -
写真はホテル・レストラン ツム黒い十字架を拡大してみる。
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イチオシ
写岩壁の上に見える十字架、クリスマス時期には光もつくかもしれない。
真はアルテンアール村の秋景色・・・岩山の天辺に十字架が立つ。 -
写真はアルテンアール村のアール城址
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写真は雨に濡れた葡萄畑
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イエガーシュトゥーベシェンの裏手からも往路で見上げたザッフェンブルク城址が見える。
写真は山上のザッフェンブルク城址 -
≪Ahr-Rotwein-Strasseアール赤ワイン街道≫
ライン川の支流アール川に沿って広がる北に位置する小さな(520 ha)栽培地域である。この川の両岸の丘にはブドウ畑が広がる。
紀元260年頃からこの川の流域にはローマ人が進出し、葡萄の植付けと、其のワイン製造技術をもたらしている。ドイツでのワインは白が中心に生産されるが、アールではむしろ赤ワイン(シュペートブルグンダー種、ポルトギーザー種)が主たる地位(70%)を占めていて、ドイツにおける赤ワインの北限と言われてきた。
全体からみると、ドイツの赤ワイン総生産量のわずか3%程度である。
一般にアール地域の赤ワインの特徴としては鮮やかなルビー色、フルーティーで爽やかな香り、苦み渋味が少なく、柔らかな飲み心地はアール独特の味わいである。
リースリング、ミュラートゥルガウからは酸味のいきいきとした白ワインが造られている。
ワイン産地としてはBad Neuenahr-Ahrweilerバート・ノイェンアール・アールヴァイラー、Walporzheimヴァルポルツハイム 、Marientalマリエンタール、Dernauデルナウ、Rechレッヒ、Mayschossマイショス、Altenahrアルテンアールがある
・・・・・・・・・・
写真はMayschossマイショス傍の葡萄畑 -
12:05、Marientalマリエンタールまで戻ってくると、近くの山の陽のあたる斜面は葡萄畑で覆われていて、大変美しい景観を見せていた。赤みを少し見せ始めた葡萄畑はいよいよ見事な秋の色のグラデーションを創り上げていくのだろう。
写真はMayschossマイショスの看板・・・右手の斜面は葡萄畑 -
1972年に開設された「Rotweinwanderweg赤ワインハイキング道」はアールワインの生産する葡萄園を繋ぐルートです。
ルートは距離36km、AltenahrアルテンアールからMayschossマイショス、Rechレッヒ、Dernauデルナウ、Marientalマリエンタール、Walportzheimヴァルポルツハイムの“牛の岩”までとなっている。
観光書に見る、この秋の時期の美しさは見事で、多くの観光客がこの道を走破すると云う。残念ながら、若くはない私共は遠くから見渡すばかりだ。
写真はアールヴァイラー:赤ワインのブドウ畑 -
写真はAhrtal_Mayschossアール川沿いのマイショスの景色
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写真はAhr:Altenwegshof「Rotweinwanderweg赤ワインハイキング道」に見られるワイ作りの農家
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写真はAhrtal.Weinbergeアール渓谷の葡萄畑の景観
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写真はAhrtal:Altenahr herbstアール渓谷:アルテンアールの秋の景色
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この旅行記へのコメント (2)
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- frau.himmelさん 2017/09/03 23:20:55
- 7月20日の男たち
- jijiarumaさん、こんばんは。ご無沙汰しております。
ドイツには珍しい「赤ワイン街道巡り」ですか。
そしてクロイツベルク城には7月20日の男たち「ワルキューレ」のお仲間がいらっしゃったのですね。
ゲオルク&フィリップ・ベーゼラーガー男爵兄弟。
あのヒトラー暗殺未遂事件の同志には由緒正しい家柄の出身が多いですね。
フィリップ・ベーゼラーガー氏は91歳まで生きて、あの事件の語り部をなさっていたとか。他の仲間は捕らえられ酷い処刑をされたことを思うと、一人でもそんな方が残っていてくださってほっとしました。「ドイツの良心」ですものね。
秋色のぶどう畑、いろんな色彩に溢れて素敵ですね。
私も9月中ごろ出発しますので、そんな風景が見ることができるかなーと思ったり、ちょっとjjidarumaさんとは時期がずれているので、まだ早いかなーと思ったり、やきもきしています。
でも車ではないので、あんなに間近にぶどう畑を見るのは叶わないかも知れません。
himmel
- jijidarumaさん からの返信 2017/09/04 19:49:59
- RE: 7月20日の男たち
- himmelさん
こんばんは。コメントありがとうございました。
アール赤ワイン街道は少々雨に降られて残念でしたが、秋色のぶどう畑やフィリップ男爵の居城のBurg Kreuzbergクロイツベルク城まで行けたので、まずまず満足しました。
アール赤ワインは殆ど自家消費されてしまうそうで、日本ではまず見たことも無く、
他のレストランのワインリストでもあまり見かけないです。
この次の日記ではアール赤ワインも飲みました。
・・・
偶々北方2州の旅先で知ったベーゼラーガー男爵兄弟の活躍話でした。
この時が無ければ、この街道を走っても、知らずにアイフェル地方を
通り過ぎたことでしょう。
1944年7月18日、ゲオルク&フィリップ・ベーゼラーガー男爵兄弟は東部戦線から
ベルリンに向け、騎兵第31連隊の1200名を指揮し、ベルリンに向かったという。
7月20日のシュタウフェンベルク大佐らの企てを支援するために軍を動かしたのだ。
ヒトラーの暗殺成功後、直ちに大物側近のヒムラー、ゲッペルスを捕えるために。
が、暗殺が失敗に終わったことを知り、兄弟は兵1200名を率いて元の東部戦線に戻った。
1944年8月27日、ゲオルク男爵は戻った東部戦線のポーランド・ウォムジャ(ドイツ名Lomschaロムシャ)でソ連軍の狙撃手に撃たれて戦死しました。
剣付き柏葉章受章者(ドイツ軍人中、たった159名しかその栄誉を授与されていない)の
一人となった、
弟のフィリップ男爵は幸い長生きをした。
1945年4月16日、フィリップ少佐は第3騎兵師団第31騎兵連隊長に昇進。
師団はオーストリア南端のBad Gleichenbergバート・グライヒェンベルク地域
に後退して、退路を確保しつつ戦い続けた。
1945年5月1日、ヒトラーの死が部隊に伝えられた。
降伏の地はオーストリアのグラーツ周辺で、アメリカ軍に降伏することができた。
降伏したのが米軍であった事は幸運であったと云える。
2008年5月1日、フィリップ男爵は居城のBurg Kreuzbergクロイツベルク城
(bei Altenahrアルテンアール・アイフェル地方)で死去。
戦後結婚した奥方と子供4人の家族と共に91歳で死ぬまでこの城で過ごした。
勇敢さでは兄が秀でており、運命の皮肉で弟が生き残り、
ヒトラー暗殺未遂事件の語り部となった。
・・・
9月の旅ももう直ぐなのですね。
大いに楽しんできてください。
jijiarumaさん
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