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岡山城の見学の跡、直ぐ近くの後楽園に向かいました。江戸時代初期に岡山藩主・池田綱政によって造営された、元禄文化を代表する庭園です。国の特別名勝に指定され、また『日本三名園』の一つにも数えられています。

2015春、近畿・中国・四国の百名城(27/38):4月4日(18):岡山城(3):後楽園、月見橋

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2015/04/03 - 2015/04/05

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旅人のくまさん

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岡山城の見学の跡、直ぐ近くの後楽園に向かいました。江戸時代初期に岡山藩主・池田綱政によって造営された、元禄文化を代表する庭園です。国の特別名勝に指定され、また『日本三名園』の一つにも数えられています。

交通手段
観光バス

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  • 岡山城本丸の『中の段』で咲いていたツバキの花です。ツバキの花は古来から日本で愛され、京都の龍安寺には室町時代のツバキが残っています。江戸時代には、将軍や肥後、加賀などの大名、京都の公家などが園芸を好んだことから、庶民の間でも大いに流行し、新品種が多く誕生しました。武士はその首が落ちる様子に似ているというのを理由に、ツバキを嫌ったとする説がありますが、史実はなく、明治時代以降の流言のようです。

    岡山城本丸の『中の段』で咲いていたツバキの花です。ツバキの花は古来から日本で愛され、京都の龍安寺には室町時代のツバキが残っています。江戸時代には、将軍や肥後、加賀などの大名、京都の公家などが園芸を好んだことから、庶民の間でも大いに流行し、新品種が多く誕生しました。武士はその首が落ちる様子に似ているというのを理由に、ツバキを嫌ったとする説がありますが、史実はなく、明治時代以降の流言のようです。

  • ここからは、見学を終えて、次の見学地の『後楽園』に向かう途中の光景です。『不明門』の光景です。『廊下門』とよく似ていますが、格子窓の外見が少し違っています。本丸中の段と本段の間にある門です。昭和41(1966)に鉄筋コンクリートで再現された門です。

    ここからは、見学を終えて、次の見学地の『後楽園』に向かう途中の光景です。『不明門』の光景です。『廊下門』とよく似ていますが、格子窓の外見が少し違っています。本丸中の段と本段の間にある門です。昭和41(1966)に鉄筋コンクリートで再現された門です。

  • 岡山城の石垣と、その上の土塀の光景です。この石垣の右隅には、二層の『小納戸櫓』が設けられ、『廊下門』に迫る敵を攻撃できる態勢になっていました。

    岡山城の石垣と、その上の土塀の光景です。この石垣の右隅には、二層の『小納戸櫓』が設けられ、『廊下門』に迫る敵を攻撃できる態勢になっていました。

  • 『廊下櫓』の近くにあった看板です。『お赤山場周辺観光案内図』のタイトルがありました。看板があった現在位置が、岡山城の北の端に記されていました。後楽園に渡る、旭川に架かる『月見橋』は至近距離です。

    『廊下櫓』の近くにあった看板です。『お赤山場周辺観光案内図』のタイトルがありました。看板があった現在位置が、岡山城の北の端に記されていました。後楽園に渡る、旭川に架かる『月見橋』は至近距離です。

  • まだ新芽が燃え出す前の木立の間から眺めた岡山城天守閣の光景です。天守台は、江戸時代の前の城主、小早川秀秋(在位:1600〜慶長1602年)によって築かれたものです。

    まだ新芽が燃え出す前の木立の間から眺めた岡山城天守閣の光景です。天守台は、江戸時代の前の城主、小早川秀秋(在位:1600〜慶長1602年)によって築かれたものです。

  • 昭和33年(1958年)に建立された、『笠井信一像』です。笠井信一(1864〜1929年)は、明治時代から昭和初期にかけての官僚で政治家です。内務省に入り、岩手県知事を経て大正3年に岡山県知事になりました。<br />

    昭和33年(1958年)に建立された、『笠井信一像』です。笠井信一(1864〜1929年)は、明治時代から昭和初期にかけての官僚で政治家です。内務省に入り、岩手県知事を経て大正3年に岡山県知事になりました。

  • 『岡山開府四百年記念・開祖・宇喜多氏顕彰之碑』の文字が記された石碑の光景です。宇喜多氏に縁の四つの紋のプレートが飾られていました。宇喜多家の家紋は『剣片喰(剣酢漿草)』、他に雨竜や亀なども使われました。近世では五七の桐や五三の桐を用いています。剣片喰や唐太鼓も散見されるようです。

    イチオシ

    『岡山開府四百年記念・開祖・宇喜多氏顕彰之碑』の文字が記された石碑の光景です。宇喜多氏に縁の四つの紋のプレートが飾られていました。宇喜多家の家紋は『剣片喰(剣酢漿草)』、他に雨竜や亀なども使われました。近世では五七の桐や五三の桐を用いています。剣片喰や唐太鼓も散見されるようです。

  • 『岡山開府四百年記念・開祖・宇喜多氏顕彰之碑』を右に入れて、岡山城の天守光景です。宇喜多氏の出自について、確実なことは不詳ですが、百済王族の子孫説などがあります。宇喜多秀家は、関が原の戦いで西軍の主力として戦ったことから、子息等とともに一族が八丈島に流されました。秀家正室(豪姫)の実家である加賀藩前田家からは、隔年白米70俵と金子35両の援助がされ、維新後の明治2年(1869年)に赦免されるまで続きました。

    『岡山開府四百年記念・開祖・宇喜多氏顕彰之碑』を右に入れて、岡山城の天守光景です。宇喜多氏の出自について、確実なことは不詳ですが、百済王族の子孫説などがあります。宇喜多秀家は、関が原の戦いで西軍の主力として戦ったことから、子息等とともに一族が八丈島に流されました。秀家正室(豪姫)の実家である加賀藩前田家からは、隔年白米70俵と金子35両の援助がされ、維新後の明治2年(1869年)に赦免されるまで続きました。

  • 鯉楽園川の河畔にあった船着き場の光景です。小型の遊覧船が発着していました。ボートや白鳥を模した小舟の姿が見えました。ボートレンタル800円の文字も読み取れました。

    鯉楽園川の河畔にあった船着き場の光景です。小型の遊覧船が発着していました。ボートや白鳥を模した小舟の姿が見えました。ボートレンタル800円の文字も読み取れました。

  • 岡山城に入城した時にも紹介した、国の重要文化財の『月見櫓』の光景です。こちらからは二層の建物に見えますが、城内からは三層の建物に見えました。

    岡山城に入城した時にも紹介した、国の重要文化財の『月見櫓』の光景です。こちらからは二層の建物に見えますが、城内からは三層の建物に見えました。

  • 岡山市内を流れる、旭川の上流方面の光景です。後楽園側には広い砂浜がありましたので、岸辺で遊ぶ人たちの姿が見えました。

    岡山市内を流れる、旭川の上流方面の光景です。後楽園側には広い砂浜がありましたので、岸辺で遊ぶ人たちの姿が見えました。

  • 『月見橋』の後楽園側の袂の光景です。赤い椿の花が満開でした。ヤブツバキ(藪椿)当たりでしょうか、ツバキ科ツバキ属の常緑樹です。後楽園は、当初は『御菜園』、『御菜園塚』などと呼ばれていましたが、1695年(元禄8年)頃には、城の背後にあることから『御後園』または『後園』と呼ばれるようになりました。1871年(明治4年)2月に藩知事に就任していた池田章政が日を限って一般に開放しました。この時、『御後園』の名称を『後楽園』と改めました。

    『月見橋』の後楽園側の袂の光景です。赤い椿の花が満開でした。ヤブツバキ(藪椿)当たりでしょうか、ツバキ科ツバキ属の常緑樹です。後楽園は、当初は『御菜園』、『御菜園塚』などと呼ばれていましたが、1695年(元禄8年)頃には、城の背後にあることから『御後園』または『後園』と呼ばれるようになりました。1871年(明治4年)2月に藩知事に就任していた池田章政が日を限って一般に開放しました。この時、『御後園』の名称を『後楽園』と改めました。

  • 『月見橋』を渡った先にあった道案内看板群です。左手の後楽園正門ではなく、右手の後楽園南門に向かいました。この場所が、岡山城からは200メートル、南門までは50メートルの位置でした。

    『月見橋』を渡った先にあった道案内看板群です。左手の後楽園正門ではなく、右手の後楽園南門に向かいました。この場所が、岡山城からは200メートル、南門までは50メートルの位置でした。

  • ついでに目を通しておいた、後楽園南門入口方面の道案内図です。この図の左上部に記されていた鶴見橋から入るのでしょうか、駐車場もありました。ネット検索しましたら、昭和5年(1930年)に建設された、歩車道区分がある橋でした。

    ついでに目を通しておいた、後楽園南門入口方面の道案内図です。この図の左上部に記されていた鶴見橋から入るのでしょうか、駐車場もありました。ネット検索しましたら、昭和5年(1930年)に建設された、歩車道区分がある橋でした。

  • ここからは、入場しての見学です。南門近くにあった園内案内図です。花暦では、見頃の花はソメイヨシノ(染井吉野)とヤエベニシダレ(八重紅枝垂)、そろそろ終わりがツバキ(椿)でした。他にはヤマザクラ(山桜)もあるようです。

    ここからは、入場しての見学です。南門近くにあった園内案内図です。花暦では、見頃の花はソメイヨシノ(染井吉野)とヤエベニシダレ(八重紅枝垂)、そろそろ終わりがツバキ(椿)でした。他にはヤマザクラ(山桜)もあるようです。

  • 早速出会った満開のソメイヨシノの花です。この場所ではありませんが、後楽園のソメイヨシノを中心に約50本のサクラからなる桜林には、岡山のサクラ開花の標本木があるようです。

    早速出会った満開のソメイヨシノの花です。この場所ではありませんが、後楽園のソメイヨシノを中心に約50本のサクラからなる桜林には、岡山のサクラ開花の標本木があるようです。

  • 満開のソメイヨシノも、散り始めのソメイヨシノもありました。疏水の岩を覆ったソメイヨシノの落花の光景です。

    イチオシ

    満開のソメイヨシノも、散り始めのソメイヨシノもありました。疏水の岩を覆ったソメイヨシノの落花の光景です。

  • 緑の下草を覆い尽くしていたソメイヨシノの落花です。岡山後楽園は、江戸初期を代表する回遊式の大名庭園です。昭和27年(1952年)に特別名勝に指定されました。面積は約4万坪(13万3千平方メートル)あります。

    緑の下草を覆い尽くしていたソメイヨシノの落花です。岡山後楽園は、江戸初期を代表する回遊式の大名庭園です。昭和27年(1952年)に特別名勝に指定されました。面積は約4万坪(13万3千平方メートル)あります。

  • 下から見上げた、満開のソメイヨシノの光景です。因みに、中国地方の桜の名所、人気ベスト10をネット検索しましたら、①津山城(鶴山公園)(岡山県)、②花夢の里・ロクタン(広島県)、③RSKバラ園(岡山県)、④世羅・甲山ふれあいの里(広島県)、⑤上野公園(広島県)、⑥三刀屋川河川敷(島根県)、⑦音戸の瀬戸公園(広島県)、⑧戦場ヶ原公園(山口県)、⑨老の山公園(山口県)⑩千光寺公園(広島県)がヒットしました。<br /><br />

    下から見上げた、満開のソメイヨシノの光景です。因みに、中国地方の桜の名所、人気ベスト10をネット検索しましたら、①津山城(鶴山公園)(岡山県)、②花夢の里・ロクタン(広島県)、③RSKバラ園(岡山県)、④世羅・甲山ふれあいの里(広島県)、⑤上野公園(広島県)、⑥三刀屋川河川敷(島根県)、⑦音戸の瀬戸公園(広島県)、⑧戦場ヶ原公園(山口県)、⑨老の山公園(山口県)⑩千光寺公園(広島県)がヒットしました。

  • 『延養亭(えんようてい)』の建物光景です。延養亭は、藩主の居間で、園内で最も重要な建物でしたが、戦災で焼失しました。昭和35年(1960年)に当時第一級の木材と技術で築庭当時の間取りに復元されました。園内外の景勝が一望できるように作られていて、歴代藩主もここから園内の景色を眺めました。 <br />

    『延養亭(えんようてい)』の建物光景です。延養亭は、藩主の居間で、園内で最も重要な建物でしたが、戦災で焼失しました。昭和35年(1960年)に当時第一級の木材と技術で築庭当時の間取りに復元されました。園内外の景勝が一望できるように作られていて、歴代藩主もここから園内の景色を眺めました。 

  • 見事な剪定がされた松の庭木と、その背後に見える、幹の赤さが際立つ赤松の光景です。『後楽園』の名前は、中国・宋の范仲淹が著した『岳陽楼記』にある『先天下之憂而憂、後天下之楽而楽』、いわゆる『先憂後楽』から採ったとされます。

    見事な剪定がされた松の庭木と、その背後に見える、幹の赤さが際立つ赤松の光景です。『後楽園』の名前は、中国・宋の范仲淹が著した『岳陽楼記』にある『先天下之憂而憂、後天下之楽而楽』、いわゆる『先憂後楽』から採ったとされます。

  • 『延養亭』の建物の一部で、能舞台・栄唱の間(のうぶたい・えいしょうのま)と呼ばれています。築庭した池田綱政は、家臣や領民にも能を見せたと伝わります。

    『延養亭』の建物の一部で、能舞台・栄唱の間(のうぶたい・えいしょうのま)と呼ばれています。築庭した池田綱政は、家臣や領民にも能を見せたと伝わります。

  • 石組と石灯篭があった『花葉の池(かようのいけ)』の畔の光景です。池には、園内の曲水と沢の池から滝の石組の中に巧みに導かれた水が流れ落ちているようです。

    石組と石灯篭があった『花葉の池(かようのいけ)』の畔の光景です。池には、園内の曲水と沢の池から滝の石組の中に巧みに導かれた水が流れ落ちているようです。

  • 池に架かる木橋の栄唱橋と、『ベニヤエシダレ(紅八重枝垂)』の光景です。エドヒガン系の園芸品種の桜の一種です。『遠藤桜』、『仙台八重枝垂』、『仙台小桜』や『平安紅枝垂』とも呼ばれます。

    池に架かる木橋の栄唱橋と、『ベニヤエシダレ(紅八重枝垂)』の光景です。エドヒガン系の園芸品種の桜の一種です。『遠藤桜』、『仙台八重枝垂』、『仙台小桜』や『平安紅枝垂』とも呼ばれます。

  • 『ベニヤエシダレ(紅八重枝垂)』の花のアップ光景です。この桜の周りは、撮影スポットになっていましたから、ゆっくり撮影する時間はありませんでした。『栄唱橋』を渡りながらの撮影でした。

    『ベニヤエシダレ(紅八重枝垂)』の花のアップ光景です。この桜の周りは、撮影スポットになっていましたから、ゆっくり撮影する時間はありませんでした。『栄唱橋』を渡りながらの撮影でした。

  • 同じく、『ベニヤエシダレ(紅八重枝垂)』の花のアップ光景です。大きく伸びた枝を添え木と柵が支えていました。

    同じく、『ベニヤエシダレ(紅八重枝垂)』の花のアップ光景です。大きく伸びた枝を添え木と柵が支えていました。

  • 『花葉の池(かようのいけ)』の左側にある大きな庭石は、『大立石(おおだていし)』の名前があります。巨大な花崗岩を90数個に割り、元の形に組み上げたものです。築庭にあたり池田綱政(1638〜1714年)が運ばせました。大名庭園ならではの豪快さと、石の加工技術の高さが窺えます。

    『花葉の池(かようのいけ)』の左側にある大きな庭石は、『大立石(おおだていし)』の名前があります。巨大な花崗岩を90数個に割り、元の形に組み上げたものです。築庭にあたり池田綱政(1638〜1714年)が運ばせました。大名庭園ならではの豪快さと、石の加工技術の高さが窺えます。

  • 『花葉の池(かようのいけ)』と、その周りの光景です。池の水の濁りが気になりましたが、蓮池とされているようでした。夏には、白の大輪を咲かせる『天四海』が見ごろになるようです。『大名蓮』とも呼ばれているようです。

    『花葉の池(かようのいけ)』と、その周りの光景です。池の水の濁りが気になりましたが、蓮池とされているようでした。夏には、白の大輪を咲かせる『天四海』が見ごろになるようです。『大名蓮』とも呼ばれているようです。

  • 栄唱橋を渡った先の散策路の光景です。人通りがほとんどありませんでしたから、木陰の道をゆっくりと散策できました。緩い傾斜地に設けられた、飛び石の散策路です。『二色が岡(にしきがおか)』と呼ばれる一帯です。

    栄唱橋を渡った先の散策路の光景です。人通りがほとんどありませんでしたから、木陰の道をゆっくりと散策できました。緩い傾斜地に設けられた、飛び石の散策路です。『二色が岡(にしきがおか)』と呼ばれる一帯です。

  • 池の対岸から眺めた、『ベニヤエシダレ(紅八重枝垂)』の樹の全景です。その木の周りは、撮影スポットになっていました。

    イチオシ

    池の対岸から眺めた、『ベニヤエシダレ(紅八重枝垂)』の樹の全景です。その木の周りは、撮影スポットになっていました。

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