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JR岡山駅から市電にて5分「城下」で下車し交差点を東進の岡山城(岡山市北区丸の内)は戦国時代に下剋上によって備前西部から美作・備中に勢力を伸ばした宇喜多直家(うきた・なおいえ、1529~1582)の本拠で別名烏城とも呼ばれていました。<br /><br /><br />(公社)おかやま観光コンベンション協会作成のパンフレットには岡山城の歴史について次のように書かれています。<br /><br /><br />『「安土(あづち)城に建築ありし制に擬して天守閣を設く。その制三重造にして五重・・・」と古い記録(「岡山城誌」)にもあるように、この岡山城は、本格的な城づくりのスタ?トとされる織田信長の築いた安土城にならって作られた日本を代表する城郭建築で、城の研究には避けて通れない貴重な城である。<br /><br />いつも豊かな清水をたたえて流れる旭川、日本三名園の一つ「後楽園」を背景にしたこの城は、天守閣の基壇(天守台という)が北に大きく突き出た不等辺五角形という、全国に全く例のない形をしており、また塩蔵を併設した複数の天守閣である。<br /><br />かつての岡山城の場所は、今の天守閣のある位置より西に300mほど行った、現在市民会館や放送局の建っている高台(「石山」という)にあった。<br /><br />天正元年(1573)、宇喜多直家が、当時この城主であった金光宗高を滅ぼし、その城を修築した後、沼城(岡山市東区沼)から移ってきた。<br /><br />今の岡山城を築いたのは、宇喜多直家の実子、秀家(ひでいえ)で、時の天下人、豊臣秀吉の養子となって「秀」の一字をもらった人物である。 秀吉が天下を握ると、秀家は父の遺領である備前・美作のほかに備中の一部をもらい、57万4千石の大大名となった。 そして年若くして、参議従三位という異例の出世をとげ、「備前宰相」と呼ばれた。<br /><br />こうなると、今の石山の小さな城では満足できず、秀吉のアドバイスに従い、現在天守閣の立つ場所「岡山」という名の小さな丘の上に、新しく旭川の流れをつけかえて、掘削した土砂を盛り上げ、上中下段の地形を造成した。<br />そして天正18年(1590)から本格的な城づくりを開始した。 途中、秀吉の朝鮮半島への進攻には、総大将として出陣したが、帰ってくるとすぐ工事を継続し、ついに慶長2年(1597)の天守閣の完成で一応城づくりの全工事を完了した。起工以来実に8ケ年にも及ぶ大事業であった。<br /><br />新しく出来上がった本丸(城の中心部分、内堀に囲まれた範囲)は、現在も殆ど昔のまま残っている部分で、面積が約4万平方メ?トルあった。<br /><br />秀家の築いた天守閣は、石垣から高さが20.45m、二階建て建物を大中小の三つに重ねた三層六階の構造である。外壁の下見板には黒漆が塗られていたので、太陽光に照らされるとあたかも烏(からす)の濡れ羽色によく似ていたため、「烏城(うじょう)」の別名がある。 壁が黒いのは、戦国時代の名残である。<br /><br />また天守閣に内部には、かつて城主が生活していた「城主の間」の遺構が再現されていて、全国的にも珍しい設備である。 他の城でこの実例があるのは、天文6年(1537)の建築といわれる犬山城だけである。<br /><br />かつて岡山城の範囲は、現在路面電車の通っている柳川筋や番町筋(当時の外堀跡、二十日堀といわれる)までで、建物の数としては、櫓が35棟、城門が21棟あり、当時は我が国を代表する名城であった。<br /><br />その後、これらは昭和6年と8年(1933)の二度に分けて国宝に指定されたが、昭和20年(1945)6月29日の早暁、第2次大戦による市街地空襲で、惜しくも天守閣・石山門を焼失してしまった。<br /><br />現在の天守閣は、昭和41年(1966)11月3日、市民の長年にわたる要望で作られた鉄筋コンクリート造りだが、外観は旧状通りに再現された。<br />また同時に、不明(あかずの)門・廊下門・六十一雁木(がんぎ)上門。それに周囲の塀なども、古い絵図面に従い、外観が旧状通りに再現された。』<br /><br /><br /><br /><br /> <br />

備前岡山 下克上により守護代浦上氏を倒し戦国大名に昇り詰めた梟雄宇喜多直家築城し秀吉殊遇で五大老に輩出された宇喜多秀家居城『岡山城』訪問

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2015/01/03 - 2015/01/03

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66

滝山氏照

滝山氏照さん

JR岡山駅から市電にて5分「城下」で下車し交差点を東進の岡山城(岡山市北区丸の内)は戦国時代に下剋上によって備前西部から美作・備中に勢力を伸ばした宇喜多直家(うきた・なおいえ、1529~1582)の本拠で別名烏城とも呼ばれていました。


(公社)おかやま観光コンベンション協会作成のパンフレットには岡山城の歴史について次のように書かれています。


『「安土(あづち)城に建築ありし制に擬して天守閣を設く。その制三重造にして五重・・・」と古い記録(「岡山城誌」)にもあるように、この岡山城は、本格的な城づくりのスタ?トとされる織田信長の築いた安土城にならって作られた日本を代表する城郭建築で、城の研究には避けて通れない貴重な城である。

いつも豊かな清水をたたえて流れる旭川、日本三名園の一つ「後楽園」を背景にしたこの城は、天守閣の基壇(天守台という)が北に大きく突き出た不等辺五角形という、全国に全く例のない形をしており、また塩蔵を併設した複数の天守閣である。

かつての岡山城の場所は、今の天守閣のある位置より西に300mほど行った、現在市民会館や放送局の建っている高台(「石山」という)にあった。

天正元年(1573)、宇喜多直家が、当時この城主であった金光宗高を滅ぼし、その城を修築した後、沼城(岡山市東区沼)から移ってきた。

今の岡山城を築いたのは、宇喜多直家の実子、秀家(ひでいえ)で、時の天下人、豊臣秀吉の養子となって「秀」の一字をもらった人物である。 秀吉が天下を握ると、秀家は父の遺領である備前・美作のほかに備中の一部をもらい、57万4千石の大大名となった。 そして年若くして、参議従三位という異例の出世をとげ、「備前宰相」と呼ばれた。

こうなると、今の石山の小さな城では満足できず、秀吉のアドバイスに従い、現在天守閣の立つ場所「岡山」という名の小さな丘の上に、新しく旭川の流れをつけかえて、掘削した土砂を盛り上げ、上中下段の地形を造成した。
そして天正18年(1590)から本格的な城づくりを開始した。 途中、秀吉の朝鮮半島への進攻には、総大将として出陣したが、帰ってくるとすぐ工事を継続し、ついに慶長2年(1597)の天守閣の完成で一応城づくりの全工事を完了した。起工以来実に8ケ年にも及ぶ大事業であった。

新しく出来上がった本丸(城の中心部分、内堀に囲まれた範囲)は、現在も殆ど昔のまま残っている部分で、面積が約4万平方メ?トルあった。

秀家の築いた天守閣は、石垣から高さが20.45m、二階建て建物を大中小の三つに重ねた三層六階の構造である。外壁の下見板には黒漆が塗られていたので、太陽光に照らされるとあたかも烏(からす)の濡れ羽色によく似ていたため、「烏城(うじょう)」の別名がある。 壁が黒いのは、戦国時代の名残である。

また天守閣に内部には、かつて城主が生活していた「城主の間」の遺構が再現されていて、全国的にも珍しい設備である。 他の城でこの実例があるのは、天文6年(1537)の建築といわれる犬山城だけである。

かつて岡山城の範囲は、現在路面電車の通っている柳川筋や番町筋(当時の外堀跡、二十日堀といわれる)までで、建物の数としては、櫓が35棟、城門が21棟あり、当時は我が国を代表する名城であった。

その後、これらは昭和6年と8年(1933)の二度に分けて国宝に指定されたが、昭和20年(1945)6月29日の早暁、第2次大戦による市街地空襲で、惜しくも天守閣・石山門を焼失してしまった。

現在の天守閣は、昭和41年(1966)11月3日、市民の長年にわたる要望で作られた鉄筋コンクリート造りだが、外観は旧状通りに再現された。
また同時に、不明(あかずの)門・廊下門・六十一雁木(がんぎ)上門。それに周囲の塀なども、古い絵図面に従い、外観が旧状通りに再現された。』




 

旅行の満足度
4.0
交通手段
JRローカル

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  • 岡山城周辺観光案内図<br /><br />JR岡山駅から直線の位置にあり、例えば駅前から市電にのり数分後「城下」下車ならとても利便性がいいです。

    岡山城周辺観光案内図

    JR岡山駅から直線の位置にあり、例えば駅前から市電にのり数分後「城下」下車ならとても利便性がいいです。

  • 岡山城案内図<br /><br />三大庭園の一つである後楽園とは中央部を流れる旭川で隔てられています。

    岡山城案内図

    三大庭園の一つである後楽園とは中央部を流れる旭川で隔てられています。

  • 「岡山城の歴史を今に」

    「岡山城の歴史を今に」

  • 月見橋<br /><br />岡山城から後楽園側を一望します。<br /><br />

    月見橋

    岡山城から後楽園側を一望します。

  • 月見橋<br /><br />この橋を渡ると後楽園に入ります。

    月見橋

    この橋を渡ると後楽園に入ります。

  • 岡山城全景<br /><br />

    岡山城全景

  • 廊下門

    廊下門

  • 小納戸(こなんど)櫓下石垣<br /><br />江戸時代藩主池田忠雄(いけだ・ただかつ、1602~1632)が1620年代に築いた石垣で「打込みハギ」といわれる石積み方式となっています。

    小納戸(こなんど)櫓下石垣

    江戸時代藩主池田忠雄(いけだ・ただかつ、1602~1632)が1620年代に築いた石垣で「打込みハギ」といわれる石積み方式となっています。

  • 石垣・標識

    石垣・標識

  • 廊下門<br /><br />上屋は藩主が本段(本丸)の御殿と中段(二の丸)の表書院を往来する際に利用した通路でこのように呼ばれていました。

    廊下門

    上屋は藩主が本段(本丸)の御殿と中段(二の丸)の表書院を往来する際に利用した通路でこのように呼ばれていました。

  • 廊下門・標識

    廊下門・標識

  • 廊下門・説明板

    廊下門・説明板

  • 月見櫓(隅櫓)<br /><br />江戸時代藩主池田忠雄が藩主の時の元和年間から寛永年間前半(1620年代)の建築だそうです。 月見など四季の展望が楽しめ小宴会に適した建物で平和な時代であったことが窺われます。

    月見櫓(隅櫓)

    江戸時代藩主池田忠雄が藩主の時の元和年間から寛永年間前半(1620年代)の建築だそうです。 月見など四季の展望が楽しめ小宴会に適した建物で平和な時代であったことが窺われます。

  • 月見櫓柱標

    月見櫓柱標

  • 月見櫓詳細・説明板

    月見櫓詳細・説明板

  • 穴倉跡<br /><br />説明によれば非常用食糧を保存用と考えられています。

    穴倉跡

    説明によれば非常用食糧を保存用と考えられています。

  • 穴倉跡(近景)

    穴倉跡(近景)

  • 穴蔵・説明板

    穴蔵・説明板

  • 不明門(あかずのもん)<br /><br />藩主の政庁となって居る表書院と本段にある藩主居住棟を連絡する門ですが、常時閉じられていることから称されています。

    不明門(あかずのもん)

    藩主の政庁となって居る表書院と本段にある藩主居住棟を連絡する門ですが、常時閉じられていることから称されています。

  • 不明門・説明板

    不明門・説明板

  • 岡山城沿革説明板<br /><br />「 岡 山 城 の 沿 革<br /><br />備前の国村久から起った宇喜多直家が、岡山の地・石山の城にいた金光宗高を亡ぼして城郭を拡張したのは天正元年(1573)の秋であった。それまでは金川の松田氏に属する小城に過ぎなかったが、直家はこの城を本拠として城下町の経営に着手し、岡山の繁栄の基礎をつくった。<br /><br />その子の八郎秀家は、豊臣秀吉の殊遇を受け、直家の遺領である備前、美作のほかに備中の内の高梁川以東をも加え、57万石をこえる大領主となった。<br /><br />ここにおいて秀吉の意見に従い、石山の東に本丸を移して城郭の拡張整備を行ない、慶長2年(1597)、3層6階の天守閣が落成するにおよんで、城ぶしんは一段落した。これがこの地に豪壮きわまりない石垣と内堀を残す岡山城本丸であって、さらに西南の平地に二の丸、三の丸などが城域を画し、近世城下町の骨格ができあがったのである。<br /><br />宇喜多秀家は、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いに西軍の総大将となって出陣、いっぱい血に塗れて八丈島へ流された。その後小早川秀秋が筑前の国・名島から移って岡山城主となったが、在城わずか2年余りで急死し、後継者がいなかったのでこの家は断絶した。そのあと姫路城主池田輝政の子、池田忠継に備前一国を与えられ岡山城に入る。以後池田氏31万5千石が続き明治維新におよんだ。<br />以下略 」

    岡山城沿革説明板

    「 岡 山 城 の 沿 革

    備前の国村久から起った宇喜多直家が、岡山の地・石山の城にいた金光宗高を亡ぼして城郭を拡張したのは天正元年(1573)の秋であった。それまでは金川の松田氏に属する小城に過ぎなかったが、直家はこの城を本拠として城下町の経営に着手し、岡山の繁栄の基礎をつくった。

    その子の八郎秀家は、豊臣秀吉の殊遇を受け、直家の遺領である備前、美作のほかに備中の内の高梁川以東をも加え、57万石をこえる大領主となった。

    ここにおいて秀吉の意見に従い、石山の東に本丸を移して城郭の拡張整備を行ない、慶長2年(1597)、3層6階の天守閣が落成するにおよんで、城ぶしんは一段落した。これがこの地に豪壮きわまりない石垣と内堀を残す岡山城本丸であって、さらに西南の平地に二の丸、三の丸などが城域を画し、近世城下町の骨格ができあがったのである。

    宇喜多秀家は、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いに西軍の総大将となって出陣、いっぱい血に塗れて八丈島へ流された。その後小早川秀秋が筑前の国・名島から移って岡山城主となったが、在城わずか2年余りで急死し、後継者がいなかったのでこの家は断絶した。そのあと姫路城主池田輝政の子、池田忠継に備前一国を与えられ岡山城に入る。以後池田氏31万5千石が続き明治維新におよんだ。
    以下略 」

  • 不明門石垣<br /><br />丸みを帯びた自然石を積むやり方で「野面積み」と呼ばれる最も古典的な方式です。

    不明門石垣

    丸みを帯びた自然石を積むやり方で「野面積み」と呼ばれる最も古典的な方式です。

  • 不明門石垣

    不明門石垣

  • 本段(本丸)<br /><br />不明門を登ると本段(本丸)の広場に着き、左に向けば天守閣が視野に入ります。<br />天守の前には藩主の居館である「御殿」が何棟かに分かれて建てられていました。

    本段(本丸)

    不明門を登ると本段(本丸)の広場に着き、左に向けば天守閣が視野に入ります。
    天守の前には藩主の居館である「御殿」が何棟かに分かれて建てられていました。

  • 岡山城天守<br /><br />天守の前には藩主の居館である「御殿」が何棟かに分かれて建てられていたようです。

    イチオシ

    岡山城天守

    天守の前には藩主の居館である「御殿」が何棟かに分かれて建てられていたようです。

  • 岡山城入口<br /><br />入口側には「岡山城沿革」、岡山駅案内そして入場料金が貼付されています。

    岡山城入口

    入口側には「岡山城沿革」、岡山駅案内そして入場料金が貼付されています。

  • 岡山駅方向<br /><br />旭川を右側に置き天守から岡山駅方向を一望します。<br /><br />

    岡山駅方向

    旭川を右側に置き天守から岡山駅方向を一望します。

  • 後楽園方向<br /><br />同様に後楽園方向を望みます。

    後楽園方向

    同様に後楽園方向を望みます。

  • 曹源寺・正覚谷墓所<br /><br />天守閣内部の資料館には江戸時代の藩主池田家の菩提寺の紹介がありましたが、改めて他日の訪問に計画したいと思います。

    曹源寺・正覚谷墓所

    天守閣内部の資料館には江戸時代の藩主池田家の菩提寺の紹介がありましたが、改めて他日の訪問に計画したいと思います。

  • 岡山城天守閣<br /><br />特徴として複合式望楼型で三層六階の梯郭(ていかく)式の城郭で、外壁の下見板には黒漆が塗られているので陽光を浴びると烏の濡れ羽に似ていることから別名「烏城」とも呼ばれています。

    イチオシ

    岡山城天守閣

    特徴として複合式望楼型で三層六階の梯郭(ていかく)式の城郭で、外壁の下見板には黒漆が塗られているので陽光を浴びると烏の濡れ羽に似ていることから別名「烏城」とも呼ばれています。

  • 天守広場

    天守広場

  • 旭川<br /><br />岡山城と後楽園を隔てる旭川方向を眺めます。

    旭川

    岡山城と後楽園を隔てる旭川方向を眺めます。

  • 六十一雁木(がんぎ)上門<br /><br />上段(本丸)から旭川に通じる門で途中の階段が61段あったことから呼ばれていたそうです。

    六十一雁木(がんぎ)上門

    上段(本丸)から旭川に通じる門で途中の階段が61段あったことから呼ばれていたそうです。

  • 六十一雁木右衛門・説明板

    六十一雁木右衛門・説明板

  • 天守閣の礎石<br /><br />昔の天守閣礎石が広場に移されてもので、築城にあたりこの礎石で大きな天守閣を支えていたとはいささか驚きです。

    天守閣の礎石

    昔の天守閣礎石が広場に移されてもので、築城にあたりこの礎石で大きな天守閣を支えていたとはいささか驚きです。

  • 「天守閣の礎石」説明板

    「天守閣の礎石」説明板

  • 天守閣広場<br /><br />天守閣を終えて中段(二の丸)へ別ル−トで戻ります。

    天守閣広場

    天守閣を終えて中段(二の丸)へ別ル−トで戻ります。

  • 中段へのルート<br /><br />天守閣の脇を通る小路を利用して中段へ向かいます。

    中段へのルート

    天守閣の脇を通る小路を利用して中段へ向かいます。

  • 中段へのル−ト

    中段へのル−ト

  • 天守閣<br /><br />下る途中の小路を振り返ると天守閣が迫って見えます。

    天守閣

    下る途中の小路を振り返ると天守閣が迫って見えます。

  • 廊下門<br /><br />廊下門と中段との間に辿り着きます。

    廊下門

    廊下門と中段との間に辿り着きます。

  • 表書院<br /><br />藩庁のことで藩主を始め家老など重臣などが勤める役所のことで、この敷地には約60部屋を有する規模でありました。家臣は南東の虎口から、藩主は本段(本丸)の御殿から渡り廊下を利用して入館します。

    表書院

    藩庁のことで藩主を始め家老など重臣などが勤める役所のことで、この敷地には約60部屋を有する規模でありました。家臣は南東の虎口から、藩主は本段(本丸)の御殿から渡り廊下を利用して入館します。

  • 表書院跡<br /><br />廊下門から石段を上った中段(二の丸)広場は「表書院」と呼ばれ、藩の政治を行うための建物(政庁)が建ち並んでいた所で65室の部屋と庭園があったとされます。

    表書院跡

    廊下門から石段を上った中段(二の丸)広場は「表書院」と呼ばれ、藩の政治を行うための建物(政庁)が建ち並んでいた所で65室の部屋と庭園があったとされます。

  • 泉水<br /><br />表書院の中庭にあった泉水が復元されています。

    泉水

    表書院の中庭にあった泉水が復元されています。

  • 泉水・説明板

    泉水・説明板

  • 伊部(いんべ)櫓跡<br /><br />城壁造りの三階建て櫓で、備前焼で有名な伊部村によって建造された櫓ではないかとも言われています。

    伊部(いんべ)櫓跡

    城壁造りの三階建て櫓で、備前焼で有名な伊部村によって建造された櫓ではないかとも言われています。

  • 伊部櫓・説明板

    伊部櫓・説明板

  • 多聞櫓・説明板<br /><br />伊部櫓と数寄方櫓との間に造られた二階建ての長屋で、石塁の上は平屋の造りとなっていたそうです。

    多聞櫓・説明板

    伊部櫓と数寄方櫓との間に造られた二階建ての長屋で、石塁の上は平屋の造りとなっていたそうです。

  • 数寄方櫓跡<br /><br />伊部櫓とほぼ同一の三階建て櫓で、表書院の数寄屋で使用の茶道具類が保管されていたと思われます。

    数寄方櫓跡

    伊部櫓とほぼ同一の三階建て櫓で、表書院の数寄屋で使用の茶道具類が保管されていたと思われます。

  • 数寄方櫓跡・説明板

    数寄方櫓跡・説明板

  • 岡山城・天守閣<br /><br />中段の表書院跡から天守閣を捉えます。

    岡山城・天守閣

    中段の表書院跡から天守閣を捉えます。

  • 石垣露出展示<br /><br />宇喜多秀家時代の石垣の一部が特別に保存展示されています。<br />江戸時代になって城郭拡張として役割を終えた石垣が地中に埋められたものと思われます。

    石垣露出展示

    宇喜多秀家時代の石垣の一部が特別に保存展示されています。
    江戸時代になって城郭拡張として役割を終えた石垣が地中に埋められたものと思われます。

  • 築城時の石垣案内

    築城時の石垣案内

  • 発掘調査で発見された石垣説明

    発掘調査で発見された石垣説明

  • 発掘調査で発見された石垣説明

    発掘調査で発見された石垣説明

  • 廊下門内側風景<br /><br />中段の見学を終えて次は下段(三の丸)へと進みます。

    廊下門内側風景

    中段の見学を終えて次は下段(三の丸)へと進みます。

  • 月見櫓<br /><br />廊下門を出て左折して石垣に沿って月見櫓を捉えます。

    月見櫓

    廊下門を出て左折して石垣に沿って月見櫓を捉えます。

  • 月見櫓下石垣<br /><br />江戸時代の藩主池田忠雄が1620年代に築いた石垣で、隙間がないように整然とすり合わせた「切込ハギ」と隅角の長手の石材を交互に積み重ねる算木(さんき)積みが施され石積み技術の進歩が窺われます。

    月見櫓下石垣

    江戸時代の藩主池田忠雄が1620年代に築いた石垣で、隙間がないように整然とすり合わせた「切込ハギ」と隅角の長手の石材を交互に積み重ねる算木(さんき)積みが施され石積み技術の進歩が窺われます。

  • 月見櫓下石垣・説明板

    月見櫓下石垣・説明板

  • 月見櫓・説明板

    月見櫓・説明板

  • 月見櫓石垣・説明板

    月見櫓石垣・説明板

  • 数寄方櫓跡・石垣

    数寄方櫓跡・石垣

  • 旭川風景

    旭川風景

  • 旭川風景

    旭川風景

  • 地名由来碑・案内図<br /><br />石関町7番は城郭の中に組み込まれています。

    地名由来碑・案内図

    石関町7番は城郭の中に組み込まれています。

  • 石関町7番

    石関町7番

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