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忠臣蔵でお馴染みの赤穂義士の故郷、赤穂城の紹介です。再建された本丸櫓門の上階には、発掘調査や再建工事関係の展示室がありました。

2015春、近畿・中国・四国の百名城(23/38):4月4日(14):赤穂城(4):本丸櫓門

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2015/04/03 - 2015/04/05

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旅人のくまさん

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忠臣蔵でお馴染みの赤穂義士の故郷、赤穂城の紹介です。再建された本丸櫓門の上階には、発掘調査や再建工事関係の展示室がありました。

交通手段
観光バス
  • ほぼ満開だったソメイヨシノの花のアップ光景です。桜色と表現するより、白色と表現した方が似合っているような花の色でした。

    ほぼ満開だったソメイヨシノの花のアップ光景です。桜色と表現するより、白色と表現した方が似合っているような花の色でした。

  • 同じく、ほぼ満開だったソメイヨシノの花のアップ光景です。僅かの数ですが、開き切らない蕾はピンク色をしていました。

    イチオシ

    同じく、ほぼ満開だったソメイヨシノの花のアップ光景です。僅かの数ですが、開き切らない蕾はピンク色をしていました。

  • 本丸に入城する時に潜った、本丸櫓門(一の門)の光景です。廃城後に取り壊されていましたが、発掘調査成果や絵図、古写真等を資料をもとに平成4〜8年(1992〜1996年)にかけて復元されました。上階は展示室になっていました。

    本丸に入城する時に潜った、本丸櫓門(一の門)の光景です。廃城後に取り壊されていましたが、発掘調査成果や絵図、古写真等を資料をもとに平成4〜8年(1992〜1996年)にかけて復元されました。上階は展示室になっていました。

  • 武川壽輔(むがわ・じゅすけ:1877〜1939年)の頌徳碑です。陸軍軍人で、教育者だった人です。最終階級は陸軍少将です。陸軍大学校在学中に歩兵第二十七連隊の中隊長として日露戦争に出征、旅順攻囲戦に加わり、203高地の攻防戦で負傷しました。

    武川壽輔(むがわ・じゅすけ:1877〜1939年)の頌徳碑です。陸軍軍人で、教育者だった人です。最終階級は陸軍少将です。陸軍大学校在学中に歩兵第二十七連隊の中隊長として日露戦争に出征、旅順攻囲戦に加わり、203高地の攻防戦で負傷しました。

  • 『武川(寿輔)先生頌徳碑』の標識です。初代の明石中学校長だった教育者です。武川は赤穂藩に流刑された山鹿素行と同郷という縁があり、赤穂義士会会長を務めました。

    『武川(寿輔)先生頌徳碑』の標識です。初代の明石中学校長だった教育者です。武川は赤穂藩に流刑された山鹿素行と同郷という縁があり、赤穂義士会会長を務めました。

  • 本丸門の櫓門(一の門)の二層に上がる途中に眺めた本丸の光景です。本丸跡と、左手情報に見える天守台の光景です。

    イチオシ

    本丸門の櫓門(一の門)の二層に上がる途中に眺めた本丸の光景です。本丸跡と、左手情報に見える天守台の光景です。

  • 本丸門の櫓門(一の門)の二層からの本丸の眺めです。本丸御殿後の整備は、建物土台などによる高低差を考慮した段差が設けいてありました。

    イチオシ

    本丸門の櫓門(一の門)の二層からの本丸の眺めです。本丸御殿後の整備は、建物土台などによる高低差を考慮した段差が設けいてありました。

  • 『平成24年度本丸櫓門特別企画。旧赤穂城庭園名勝指定10年展』のタイトルがあった説明パネルの紹介です。『1.はじめに』の序文では、平成14年(2002年)9月に国の名勝指定を受け、本丸庭園の整備が完了し、スタートして10年目に当たる二の丸庭園の発掘調査などの節目までの歩の紹介であることが述べられていました。赤穂市教育委員会作成のパネルです。

    『平成24年度本丸櫓門特別企画。旧赤穂城庭園名勝指定10年展』のタイトルがあった説明パネルの紹介です。『1.はじめに』の序文では、平成14年(2002年)9月に国の名勝指定を受け、本丸庭園の整備が完了し、スタートして10年目に当たる二の丸庭園の発掘調査などの節目までの歩の紹介であることが述べられていました。赤穂市教育委員会作成のパネルです。

  • 『2.旧赤穂城庭園の概要』と題された説明パネルです。左上の図面は、赤穂城跡の現況(平成14年時点)と史跡・名勝の指城で、千種川上流から取水された上水は、城内及び城下町で使用されていたことなどが紹介されていました。発掘調査前の現状把握と復元工事の指標が考察されていました。

    『2.旧赤穂城庭園の概要』と題された説明パネルです。左上の図面は、赤穂城跡の現況(平成14年時点)と史跡・名勝の指城で、千種川上流から取水された上水は、城内及び城下町で使用されていたことなどが紹介されていました。発掘調査前の現状把握と復元工事の指標が考察されていました。

  • 『3.本丸庭園』のタイトルがあった説明パネルです。坪庭と大池泉の発掘調査結果と、再建工事後の様子などが写真と図面入りで解説されていました。坪庭は、本丸御殿の中庭のような場所、大池泉は本丸御殿の南に位置する本格的な庭園です。

    『3.本丸庭園』のタイトルがあった説明パネルです。坪庭と大池泉の発掘調査結果と、再建工事後の様子などが写真と図面入りで解説されていました。坪庭は、本丸御殿の中庭のような場所、大池泉は本丸御殿の南に位置する本格的な庭園です。

  • 『4.二の丸庭園の発掘調査』のタイトルがあった説明パネルです。山鹿素行が配流されていた時代の絵図と、発掘調査された二の松庭園を比較しながらの考察が述べられていました。絵図が発掘調査に大きな手掛かりとなったようです。

    『4.二の丸庭園の発掘調査』のタイトルがあった説明パネルです。山鹿素行が配流されていた時代の絵図と、発掘調査された二の松庭園を比較しながらの考察が述べられていました。絵図が発掘調査に大きな手掛かりとなったようです。

  • 『5.よみがえる二の丸庭園、発掘庭園の復元整備』のタイトルがあった説明パネルです。平成14年9月に『旧赤穂城庭園、本丸庭園、二の丸庭園』として国の名勝指定を受けた後、平成14年度から平成23年度までの10年間の大名庭園の復元工事の歩みが紹介されていました。

    『5.よみがえる二の丸庭園、発掘庭園の復元整備』のタイトルがあった説明パネルです。平成14年9月に『旧赤穂城庭園、本丸庭園、二の丸庭園』として国の名勝指定を受けた後、平成14年度から平成23年度までの10年間の大名庭園の復元工事の歩みが紹介されていました。

  • 『6.池泉の池底・護岸石組の朱副』のタイトル廬があった写真です。15枚のさぎょ途中の写真い細かく注釈が付けられていました。最初が、発掘遺構の清掃、最後が下流部洲浜の修理でした。

    『6.池泉の池底・護岸石組の朱副』のタイトル廬があった写真です。15枚のさぎょ途中の写真い細かく注釈が付けられていました。最初が、発掘遺構の清掃、最後が下流部洲浜の修理でした。

  • 『7.地形・植栽の整備』のタイトルがあった説明パネルです。13枚の写真で順次作業途中が説明されていました。最初が庭園の地形造成、締め括りが、下流部植栽の整備状況の写真でした。左上には、池泉堆積土から出土した種子遺体の写真が説明されていました。

    『7.地形・植栽の整備』のタイトルがあった説明パネルです。13枚の写真で順次作業途中が説明されていました。最初が庭園の地形造成、締め括りが、下流部植栽の整備状況の写真でした。左上には、池泉堆積土から出土した種子遺体の写真が説明されていました。

  • 『8.建物等の復元』のタイトルがあった説明パネルです。上の6枚の写真では、復元された『西仕切土塀』の作業工程と完成写真が紹介されていました。下の4枚の写真では、復元された門や東屋の写真が紹介されていました。

    『8.建物等の復元』のタイトルがあった説明パネルです。上の6枚の写真では、復元された『西仕切土塀』の作業工程と完成写真が紹介されていました。下の4枚の写真では、復元された門や東屋の写真が紹介されていました。

  • 『9.写真で見る赤穂城の今昔』のタイトルがあった説明パネルです。昭和初期から始まって、平成21年までの赤穂城の航空写真4枚で説明されていました。昭和初期の写真では本丸の北隅に旧制赤穂中学校、昭和50年代には、本丸内に県立s高校公の校舎がひしめき合っていました。平成21年の写真では、復旧工事が進んでいることが見て取れました。

    『9.写真で見る赤穂城の今昔』のタイトルがあった説明パネルです。昭和初期から始まって、平成21年までの赤穂城の航空写真4枚で説明されていました。昭和初期の写真では本丸の北隅に旧制赤穂中学校、昭和50年代には、本丸内に県立s高校公の校舎がひしめき合っていました。平成21年の写真では、復旧工事が進んでいることが見て取れました。

  • 二の丸庭園遺構の全体図、変遷図や発掘調査の状況などが、写真や図面で解説されていました。

    二の丸庭園遺構の全体図、変遷図や発掘調査の状況などが、写真や図面で解説されていました。

  • 上は、『三の丸大手門古写真』です。明治10年d歳の撮影です。下は、『国史跡赤穂城跡くるろぎ場池和泉』の航空写真です。こちらは平成元年の撮影です。

    上は、『三の丸大手門古写真』です。明治10年d歳の撮影です。下は、『国史跡赤穂城跡くるろぎ場池和泉』の航空写真です。こちらは平成元年の撮影です。

  • 『赤穂城址二の丸錦帯池』のタイトルがあった写真です。表示は知ってありませんが、航空写真のようです。庭園のついては、極めて限定的な史料か残されていません。その中で、最も往時の庭園の様子を伝えているのは、江戸時代の軍学者であり儒学者としても著名な山鹿素行の著作です。

    『赤穂城址二の丸錦帯池』のタイトルがあった写真です。表示は知ってありませんが、航空写真のようです。庭園のついては、極めて限定的な史料か残されていません。その中で、最も往時の庭園の様子を伝えているのは、江戸時代の軍学者であり儒学者としても著名な山鹿素行の著作です。

  • 本丸大池泉に関する説明図です。一番上の図面が、本丸大池泉の発掘調査に基づく測量図です。その下には、浅野家時代、森家時代の大池泉の絵図などが紹介されていました。

    本丸大池泉に関する説明図です。一番上の図面が、本丸大池泉の発掘調査に基づく測量図です。その下には、浅野家時代、森家時代の大池泉の絵図などが紹介されていました。

  • 『山鹿素行の「年賦」のなかに見える錦帯池に関する寺術の紹介と、その解説文です。寛文9年(1669年)のことです。大石(頼母助)氏の茶亭に遊び、藩主の浅野長直公とも一緒に舟遊びをしたことが綴られていました。その中の記述に錦帯池の模様が垣間見えます。

    『山鹿素行の「年賦」のなかに見える錦帯池に関する寺術の紹介と、その解説文です。寛文9年(1669年)のことです。大石(頼母助)氏の茶亭に遊び、藩主の浅野長直公とも一緒に舟遊びをしたことが綴られていました。その中の記述に錦帯池の模様が垣間見えます。

  • 『染付神酒徳利』<br />伊万里<br />(18〜19世紀)

    『染付神酒徳利』
    伊万里
    (18〜19世紀)

  • 『染付山水文大皿』<br />伊万里<br />(江戸時代)

    『染付山水文大皿』
    伊万里
    (江戸時代)

  • 『染付捻文皿』<br />伊万里<br />(17世紀)

    『染付捻文皿』
    伊万里
    (17世紀)

  • 『染付山水文猪口』<br />伊万里<br />(17世紀)

    『染付山水文猪口』
    伊万里
    (17世紀)

  • 『染付柳文皿』<br />伊万里<br />(17世紀)

    『染付柳文皿』
    伊万里
    (17世紀)

  • 『染付柳文皿』<br />伊万里<br />(17世紀)

    『染付柳文皿』
    伊万里
    (17世紀)

  • 『染付柳文皿』<br />伊万里<br />(17世紀)

    『染付柳文皿』
    伊万里
    (17世紀)

  • 『染付鳳凰龍文碗』<br />伊万里<br />(17世紀)

    『染付鳳凰龍文碗』
    伊万里
    (17世紀)

  • 『染付松竹梅花唐草文碗』<br />伊万里<br />(18世紀)

    『染付松竹梅花唐草文碗』
    伊万里
    (18世紀)

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