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日本を代表する名城、姫路城の紹介です。9時少し過ぎには大天守に入場でき、内部の見学ができました。昨晩、姫路に近い小野市のビジネスホテルに泊まった効果でした。

2015春、近畿・中国・四国の百名城(13/38):4月4日(4):姫路城(4):大天守、城模型

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2015/04/03 - 2015/04/05

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旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

日本を代表する名城、姫路城の紹介です。9時少し過ぎには大天守に入場でき、内部の見学ができました。昨晩、姫路に近い小野市のビジネスホテルに泊まった効果でした。

交通手段
観光バス

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  • 真下から見上げた、天守と石垣の光景です。軒下か見えませんので、『大天守』かその他の小天守かの判断は付きませんでした。姫路城の天守群は、標高45.6メートルの姫山の上に建っていて、姫路城自体の高さは、石垣が14.85メートル、大天守が31.5メートルですから、合計すると海抜92メートルの高さとなります。

    真下から見上げた、天守と石垣の光景です。軒下か見えませんので、『大天守』かその他の小天守かの判断は付きませんでした。姫路城の天守群は、標高45.6メートルの姫山の上に建っていて、姫路城自体の高さは、石垣が14.85メートル、大天守が31.5メートルですから、合計すると海抜92メートルの高さとなります。

  • 天守群を取り囲む土塀のようです。幕末に新政府軍に包囲されたり、第二次世界大戦で焼夷弾が天守に直撃したものの、築城されてから一度も大規模な戦火に曝されることや甚大な被害を被ることがなかったことから。『不戦の城』とも呼ばれます。

    天守群を取り囲む土塀のようです。幕末に新政府軍に包囲されたり、第二次世界大戦で焼夷弾が天守に直撃したものの、築城されてから一度も大規模な戦火に曝されることや甚大な被害を被ることがなかったことから。『不戦の城』とも呼ばれます。

  • 真下から見上げた、天守群の光景です。五重の『大天守』と、三重の小天守である東小天守、西小天守と乾小天守とは、その間が二重の渡櫓で結ばれている、『連立式天守』です。

    真下から見上げた、天守群の光景です。五重の『大天守』と、三重の小天守である東小天守、西小天守と乾小天守とは、その間が二重の渡櫓で結ばれている、『連立式天守』です。

  • 同じく、少し方角を変えて見上げた、天守群の光景です。日本全国に現存する12の天守の内でも、最も規模が大きく華麗な造りの天守です。

    同じく、少し方角を変えて見上げた、天守群の光景です。日本全国に現存する12の天守の内でも、最も規模が大きく華麗な造りの天守です。

  • いよいよ『大天守』の入場が近づきました。『水の三門』を潜るところです。『大天守』の見学には入場チケットのほかに整理券が必要ですが、入場直前に回収がありました。

    いよいよ『大天守』の入場が近づきました。『水の三門』を潜るところです。『大天守』の見学には入場チケットのほかに整理券が必要ですが、入場直前に回収がありました。

  • 『大天守』の入口から、振り返って眺めた後方の光景です。右がこれから入場の列、左側には既に見学を終えて退出する人達の姿がありました。

    『大天守』の入口から、振り返って眺めた後方の光景です。右がこれから入場の列、左側には既に見学を終えて退出する人達の姿がありました。

  • 『大天守』への入口門になる『水の五門』の上部光景です。ネット情報では、『水の六門』まで記されていましたが、どうやら現在では『水の五門』が最後のようでした。

    『大天守』への入口門になる『水の五門』の上部光景です。ネット情報では、『水の六門』まで記されていましたが、どうやら現在では『水の五門』が最後のようでした。

  • 『水の五門』の周りの石垣光景です。『大天守』の入口に相応しい算木積みの角の部分です。表面も野面積みとは違って、綺麗に加工されていました。

    『水の五門』の周りの石垣光景です。『大天守』の入口に相応しい算木積みの角の部分です。表面も野面積みとは違って、綺麗に加工されていました。

  • ここからは、『大天守』に入場しての見学です。立体的な縮小モデルで表示された、姫路城の『縄張り』の状況のようです。。内堀で囲んだ1周目は内曲輪、中堀で囲んだ2周目は中曲輪、外堀で囲んだ3周目は外曲輪といい、3重の螺旋を描くような曲輪構造で渦郭式縄張を形成しています。堀の総延長は、約12.5キロとされます。

    ここからは、『大天守』に入場しての見学です。立体的な縮小モデルで表示された、姫路城の『縄張り』の状況のようです。。内堀で囲んだ1周目は内曲輪、中堀で囲んだ2周目は中曲輪、外堀で囲んだ3周目は外曲輪といい、3重の螺旋を描くような曲輪構造で渦郭式縄張を形成しています。堀の総延長は、約12.5キロとされます。

  • 中層階から眺めた姫上の城内と、、その先に見える姫路市街の光景です。先程の『輪張り』の話しの続きです。堀の総延長の約12.5キロの内訳は、内堀が長さ約3キロ、中堀が長さ約4.3キロ、外堀が長さ約5.2キロです。外堀は、城北部の野里で不完全に終わり、最後まで閉じていないため、姫路城の総構えの欠点となっていました。このため、有事の際にはそれを補う堀を掘る計画が立て圧れていました。

    中層階から眺めた姫上の城内と、、その先に見える姫路市街の光景です。先程の『輪張り』の話しの続きです。堀の総延長の約12.5キロの内訳は、内堀が長さ約3キロ、中堀が長さ約4.3キロ、外堀が長さ約5.2キロです。外堀は、城北部の野里で不完全に終わり、最後まで閉じていないため、姫路城の総構えの欠点となっていました。このため、有事の際にはそれを補う堀を掘る計画が立て圧れていました。

  • 城内の展示品の鬼瓦の紹介です。その一部を紹介します。左が『五七桐紋鬼瓦』、右が、『剣酢漿草紋鬼瓦』です。『剣酢漿草紋(ケンカタバミモン)』は、城主であった酒井家の家紋です。

    城内の展示品の鬼瓦の紹介です。その一部を紹介します。左が『五七桐紋鬼瓦』、右が、『剣酢漿草紋鬼瓦』です。『剣酢漿草紋(ケンカタバミモン)』は、城主であった酒井家の家紋です。

  • 『五七桐紋鬼瓦』のアップ光景です。大天守二重東大千鳥北降棟に使用してあった鬼瓦です。確実な情報ではありませんが、木下氏の家紋とにネット情報がありました。

    『五七桐紋鬼瓦』のアップ光景です。大天守二重東大千鳥北降棟に使用してあった鬼瓦です。確実な情報ではありませんが、木下氏の家紋とにネット情報がありました。

  • 『五七桐紋鬼瓦』の説明プレートです。スタンプで押した、凹凸の少ない、肉うすの造作のようです。造作に手抜きがされた時代の鬼瓦のようです。<br />

    『五七桐紋鬼瓦』の説明プレートです。スタンプで押した、凹凸の少ない、肉うすの造作のようです。造作に手抜きがされた時代の鬼瓦のようです。

  • 格子風の窓から眺めた姫路城内と、その先の姫路市街の光景です。市街の背後には山並み光景がありました。

    格子風の窓から眺めた姫路城内と、その先の姫路市街の光景です。市街の背後には山並み光景がありました。

  • 『波紋鬼瓦(なみもん・おにがわら)』です。『大天守』の五重大棟の西側に設置されていた鬼瓦です。大天守創建時の鬼瓦とされます。

    『波紋鬼瓦(なみもん・おにがわら)』です。『大天守』の五重大棟の西側に設置されていた鬼瓦です。大天守創建時の鬼瓦とされます。

  • 『波紋鬼瓦(なみもん・おにがわら)』の説明パネルです。『大天守』の大棟の東西端に載せられている鯱瓦の下に設置された鬼瓦との説明がありました。

    『波紋鬼瓦(なみもん・おにがわら)』の説明パネルです。『大天守』の大棟の東西端に載せられている鯱瓦の下に設置された鬼瓦との説明がありました。

  • 『大天守』から眺めた、北方面の城内光景です。左が腰曲輪の渡櫓、右が二層の櫓光景です。二層の櫓には、井戸、塩や米の倉庫になっていたようです。 腰曲輪は、お城の腰の部分に当たるために付いた名前です。

    『大天守』から眺めた、北方面の城内光景です。左が腰曲輪の渡櫓、右が二層の櫓光景です。二層の櫓には、井戸、塩や米の倉庫になっていたようです。 腰曲輪は、お城の腰の部分に当たるために付いた名前です。

  • 『大天守』から眺めた、東方面の城内光景です。中央付近に見える門は、『との一門』です。他の門とは異なり、門櫓は板張りで二階の窓は突き上げ戸となっています。置塩城の大手門を移築したとも言われています。

    『大天守』から眺めた、東方面の城内光景です。中央付近に見える門は、『との一門』です。他の門とは異なり、門櫓は板張りで二階の窓は突き上げ戸となっています。置塩城の大手門を移築したとも言われています。

  • 『昭和の大修理』の際に作成された20分の1のサイズの木組み模型です。『昭和の大修理』は、1934年(昭和9年)6月20日、西の丸の『タの渡櫓』から『ヲの櫓』が豪雨により、石垣もろとも崩壊したことがきっかけとされます。第二次八カ年計画(昭和31年度〜昭和39年度)では、大天守・東小天守・西小天守・乾小天守とイ・ロ・ハ・ニの各渡櫓などの解体修理が行われました。いわゆる『昭和の大修理』です。

    『昭和の大修理』の際に作成された20分の1のサイズの木組み模型です。『昭和の大修理』は、1934年(昭和9年)6月20日、西の丸の『タの渡櫓』から『ヲの櫓』が豪雨により、石垣もろとも崩壊したことがきっかけとされます。第二次八カ年計画(昭和31年度〜昭和39年度)では、大天守・東小天守・西小天守・乾小天守とイ・ロ・ハ・ニの各渡櫓などの解体修理が行われました。いわゆる『昭和の大修理』です。

  • 20分の1縮小の木組み模型の説明パネルです。『大天守』の解体修理は基礎部分にも及び、その工事の際、羽柴秀吉が城主だった頃に築かれた、天守の礎石や石垣が地下から発見されました。その礎石は、『三の丸』に移設展示されています。

    20分の1縮小の木組み模型の説明パネルです。『大天守』の解体修理は基礎部分にも及び、その工事の際、羽柴秀吉が城主だった頃に築かれた、天守の礎石や石垣が地下から発見されました。その礎石は、『三の丸』に移設展示されています。

  • 『大天守』の建物内の階段光景です。理由は分かりませんが、この階段の先は塞がれていました。

    『大天守』の建物内の階段光景です。理由は分かりませんが、この階段の先は塞がれていました。

  • 『大天守』から眺めた、東南方面の城内光景です。城郭を守る隅櫓や渡櫓、土塀を乗せた石垣の瓦屋根が、段差のある地形に連なる光景です。中央やや左手に見るのは『との一門』です。

    イチオシ

    『大天守』から眺めた、東南方面の城内光景です。城郭を守る隅櫓や渡櫓、土塀を乗せた石垣の瓦屋根が、段差のある地形に連なる光景です。中央やや左手に見るのは『との一門』です。

  • 同じく、『大天守』から眺めた、東南方面の城内光景です。

    同じく、『大天守』から眺めた、東南方面の城内光景です。

  • 大天守二階の廊下光景です。

    大天守二階の廊下光景です。

  • こちらも大天守二階だったようです。力強い木組みの光景です。

    イチオシ

    こちらも大天守二階だったようです。力強い木組みの光景です。

  • 『大天守』から眺めた、東方面の城内光景です。ソメイヨシノの桜の花が綺麗な広場は、『三の丸広場』です。

    イチオシ

    『大天守』から眺めた、東方面の城内光景です。ソメイヨシノの桜の花が綺麗な広場は、『三の丸広場』です。

  • 右が『大天守』の縦断面図、左が『大天守二階』の平面図です。

    右が『大天守』の縦断面図、左が『大天守二階』の平面図です。

  • 『大天守二階』の室内光景です。思った以上に天井の高い室内でした。

    『大天守二階』の室内光景です。思った以上に天井の高い室内でした。

  • 同じく、三階から眺めた『大天守二階』の室内光景です。

    同じく、三階から眺めた『大天守二階』の室内光景です。

  • 『大天守三階』の天井の木組みのアップ光景です。

    『大天守三階』の天井の木組みのアップ光景です。

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