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日本百名城の一つ、明石城の紹介です。旧明石藩の政庁と藩主の居所が置かれた城郭で、現在は明石公園として整備されています。喜春城や錦江城の呼び名を持つお城です。

2015春、近畿・中国・四国の百名城(6/38):4月3日(6):明石城(1):東の丸、二の丸

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2015/04/03 - 2015/04/05

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旅人のくまさん

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日本百名城の一つ、明石城の紹介です。旧明石藩の政庁と藩主の居所が置かれた城郭で、現在は明石公園として整備されています。喜春城や錦江城の呼び名を持つお城です。

交通手段
観光バス

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  • 明石城公園に到着しました。旅行社から事前連絡されていて、案内役の方が出迎えてくれました。後方の建物は、明石公園の中にある、明石市立図書館です。明石公園は明石城址を中心に、大正7年(1918年)4月に県立公園になりました。

    明石城公園に到着しました。旅行社から事前連絡されていて、案内役の方が出迎えてくれました。後方の建物は、明石公園の中にある、明石市立図書館です。明石公園は明石城址を中心に、大正7年(1918年)4月に県立公園になりました。

  • 明石公園の中にある、明石市立図書館前の光景です。満開のソメイヨシノの樹がありました。地図で調べましたら、この辺りは明石公園内の旧明石城の城郭址に隣接する場所でした。ただし、古文書の明石城絵図には、『北の丸』と記されています。

    明石公園の中にある、明石市立図書館前の光景です。満開のソメイヨシノの樹がありました。地図で調べましたら、この辺りは明石公園内の旧明石城の城郭址に隣接する場所でした。ただし、古文書の明石城絵図には、『北の丸』と記されています。

  • 満開だったソメイヨシノの花のアップ光景です。明石県立公園は、全国の『桜の名所100選』の地に選ばれています。

    満開だったソメイヨシノの花のアップ光景です。明石県立公園は、全国の『桜の名所100選』の地に選ばれています。

  • 明石市立図書館の光景に戻りました。右手の方に、その名前を記した大きなプレートがありました。公園全体は兵庫県立の広域公園となっていて、各種のスポーツ施設などがあります。

    明石市立図書館の光景に戻りました。右手の方に、その名前を記した大きなプレートがありました。公園全体は兵庫県立の広域公園となっていて、各種のスポーツ施設などがあります。

  • 出迎えてくれた、明石城址案内役の方は複数の方達でした。その案内に従って、明石城址への移動です。その途中の光景です。1〜2百メートルくらいの距離ですから、既に明石城址内に入っている場所かもしれません。

    出迎えてくれた、明石城址案内役の方は複数の方達でした。その案内に従って、明石城址への移動です。その途中の光景です。1〜2百メートルくらいの距離ですから、既に明石城址内に入っている場所かもしれません。

  • 公園内の樹木には、こまめに樹木の名札が建ててありました。この看板はミズキ科のアオキの説明でした。現在はアオキ科アオキ属に分類されているようです。斑入りの園芸品種のようでした。<br />

    公園内の樹木には、こまめに樹木の名札が建ててありました。この看板はミズキ科のアオキの説明でした。現在はアオキ科アオキ属に分類されているようです。斑入りの園芸品種のようでした。

  • 明石城址の光景です。この辺りには建物はなく、樹木だけの光景でした。明石上司の最東部になる、『東の丸』の区域のようです。

    明石城址の光景です。この辺りには建物はなく、樹木だけの光景でした。明石上司の最東部になる、『東の丸』の区域のようです。

  • 明石城址の『東の丸』当たりから眺めた明石市街の光景です。公園敷地南側の樹林の先に、明石市街のビル群が見えました。

    明石城址の『東の丸』当たりから眺めた明石市街の光景です。公園敷地南側の樹林の先に、明石市街のビル群が見えました。

  • 明石城址の光景です。その敷地の南側の光景です。見学者用の安全措置の石柵が続いていました。写真の右側が城址の南、左側が北側になります。

    明石城址の光景です。その敷地の南側の光景です。見学者用の安全措置の石柵が続いていました。写真の右側が城址の南、左側が北側になります。

  • 最初の見学場所は、明石城址に建つ巽櫓です。その途中の光景です。前方に見えるのは、『東の丸』の区域を示す石垣でしょうか、その西には『二の丸』が続きます。

    最初の見学場所は、明石城址に建つ巽櫓です。その途中の光景です。前方に見えるのは、『東の丸』の区域を示す石垣でしょうか、その西には『二の丸』が続きます。

  • 『東の丸』から『二の丸』付近で咲いていた、満開のソメイヨシノの光景です。まだ『東の丸』付近での撮影だったようです。

    『東の丸』から『二の丸』付近で咲いていた、満開のソメイヨシノの光景です。まだ『東の丸』付近での撮影だったようです。

  • 県立明石公園の案内図です。公園内の城郭のエリアは、中央やや下の方に東西に長い区域が記されていました。上が地図の北穂方角です。この看板があった現在位置は、二の丸の西南角です。

    県立明石公園の案内図です。公園内の城郭のエリアは、中央やや下の方に東西に長い区域が記されていました。上が地図の北穂方角です。この看板があった現在位置は、二の丸の西南角です。

  • 二の丸から眺めた巽櫓の北東方面の光景です。新緑の木陰になってしまいました。本丸の南東になりますので、干支の巽(たつみ:辰巳)の呼び名が使われています。

    二の丸から眺めた巽櫓の北東方面の光景です。新緑の木陰になってしまいました。本丸の南東になりますので、干支の巽(たつみ:辰巳)の呼び名が使われています。

  • 二ノ丸から眺めた、巽櫓の北面光景です。北面の一層に出入口がありますが、二層と三層には窓がない造りです。

    二ノ丸から眺めた、巽櫓の北面光景です。北面の一層に出入口がありますが、二層と三層には窓がない造りです。

  • 屋根の向きから判断して、北側から撮影した巽櫓の光景だったようです。出入口は北側にありますが、それを防護するような石垣です。

    屋根の向きから判断して、北側から撮影した巽櫓の光景だったようです。出入口は北側にありますが、それを防護するような石垣です。

  • 西側方面から眺めた、巽櫓の光景です。本丸の南東端に築かれた三層の櫓です。東側には二の丸が接する要所に建つ櫓です。桁行き5間(9.09メートル)、梁間4間(7.27メートル)、高さ7間1寸(12.1メートル)の隅櫓で、妻部を東西に置く入り母屋造りです。

    イチオシ

    西側方面から眺めた、巽櫓の光景です。本丸の南東端に築かれた三層の櫓です。東側には二の丸が接する要所に建つ櫓です。桁行き5間(9.09メートル)、梁間4間(7.27メートル)、高さ7間1寸(12.1メートル)の隅櫓で、妻部を東西に置く入り母屋造りです。

  • 近寄ってアップした、巽櫓の光景です。松材が多く使われています。東面の造り方と変わりませんが、第二層、第三層には窓がないのが特徴です。<br />

    近寄ってアップした、巽櫓の光景です。松材が多く使われています。東面の造り方と変わりませんが、第二層、第三層には窓がないのが特徴です。

  • 本丸区域内に生えていた樹木の光景です。蕾を付けたヤマモモ(山桃)の樹のようです。ヤマモモ科ヤマモモ属の常緑樹です。楊梅、山桜桃、火実などの別名を持ちます。果実酒は綺麗な赤色になります。

    本丸区域内に生えていた樹木の光景です。蕾を付けたヤマモモ(山桃)の樹のようです。ヤマモモ科ヤマモモ属の常緑樹です。楊梅、山桜桃、火実などの別名を持ちます。果実酒は綺麗な赤色になります。

  • 巽(たつみ)櫓と坤(ひつじさる)櫓の間に設けられた、展望台の上から眺めた明石市街の光景です。眼下の広場は、公園の平面図に『西芝生広場』と記されていました。

    巽(たつみ)櫓と坤(ひつじさる)櫓の間に設けられた、展望台の上から眺めた明石市街の光景です。眼下の広場は、公園の平面図に『西芝生広場』と記されていました。

  • 南方面を向いての撮影ですから、左が東、右が西側方面になります。南北に走る新幹線や東海道線の線路が見えました。

    南方面を向いての撮影ですから、左が東、右が西側方面になります。南北に走る新幹線や東海道線の線路が見えました。

  • 説明員の方からお聞きした、阪神淡路大震災(1995年1月17日)の時の震災による復旧工事のことです。櫓下部の石垣の補修に際に、櫓をレール上で内側に移動し、石垣を補修した後で、現在の位置に戻されたようです。

    説明員の方からお聞きした、阪神淡路大震災(1995年1月17日)の時の震災による復旧工事のことです。櫓下部の石垣の補修に際に、櫓をレール上で内側に移動し、石垣を補修した後で、現在の位置に戻されたようです。

  • イメージ的には、このような状態で櫓が左側に移動されました。後程、その時の写真を基にもう一度紹介します。

    イメージ的には、このような状態で櫓が左側に移動されました。後程、その時の写真を基にもう一度紹介します。

  • 弓・鉄砲狭間の横に設けられた展望台です。狭間が途切れていたのは、展望を確保する目的があったかもしれません。中央奥に見えるのは巽櫓です。

    イチオシ

    弓・鉄砲狭間の横に設けられた展望台です。狭間が途切れていたのは、展望を確保する目的があったかもしれません。中央奥に見えるのは巽櫓です。

  • お椀のように造られた鉄砲狭間の光景です。時代を反映して、縦に長い弓狭間も設けられていました。

    お椀のように造られた鉄砲狭間の光景です。時代を反映して、縦に長い弓狭間も設けられていました。

  • 弓・鉄砲狭間が並ぶこの長塀は、阪神淡路大震災の復旧工事に併せて、復元工事が行われたともお聞きしました。震災前には塀は途切れていたようです。

    イチオシ

    弓・鉄砲狭間が並ぶこの長塀は、阪神淡路大震災の復旧工事に併せて、復元工事が行われたともお聞きしました。震災前には塀は途切れていたようです。

  • もう一度紹介する、鉄砲狭間のアップ光景です。外側からは中への視野は狭いものの、中側から外へは、広い視野になります。

    もう一度紹介する、鉄砲狭間のアップ光景です。外側からは中への視野は狭いものの、中側から外へは、広い視野になります。

  • ユキヤナギ(雪柳)の白い花です。桜などと同じ、バラ科の植物ですが、シモツケ属の落葉低木です。コゴメバナやコゴメヤナギなどの別名を持ちます。

    ユキヤナギ(雪柳)の白い花です。桜などと同じ、バラ科の植物ですが、シモツケ属の落葉低木です。コゴメバナやコゴメヤナギなどの別名を持ちます。

  • 『横山蜃楼句碑』のタイトルがあった立看板です。大正14年に月間俳句誌の『漁火』を創刊し、現在までに527号を数える(昭和48年時点)盛大さであることが紹介されていました。師の松瀬青々(1869〜1937年)は、『倦鳥』を創刊・主宰し、関西俳壇でホトトギス派の俳人として重きをなした人です。<br /><br />(追記)現在、『漁火』、『倦鳥』は刊行されていないようです。

    『横山蜃楼句碑』のタイトルがあった立看板です。大正14年に月間俳句誌の『漁火』を創刊し、現在までに527号を数える(昭和48年時点)盛大さであることが紹介されていました。師の松瀬青々(1869〜1937年)は、『倦鳥』を創刊・主宰し、関西俳壇でホトトギス派の俳人として重きをなした人です。

    (追記)現在、『漁火』、『倦鳥』は刊行されていないようです。

  • 『鵙の声屈するところなかりけり』の句碑です。鵙(モズ)の鳴き声を、世の中か、人の生き様に喩えた句にも読めますが、解釈の糸口がありませんでした。

    『鵙の声屈するところなかりけり』の句碑です。鵙(モズ)の鳴き声を、世の中か、人の生き様に喩えた句にも読めますが、解釈の糸口がありませんでした。

  • 明石城には天守閣は設けられませんでしたが、その基礎部分の天守台が築かれていました。その天守台方面の光景です。左手に巽櫓から坤(ひつじさる)櫓を経由しててんしゅだいにつながる弓・鉄砲狭間が接続されていました。

    明石城には天守閣は設けられませんでしたが、その基礎部分の天守台が築かれていました。その天守台方面の光景です。左手に巽櫓から坤(ひつじさる)櫓を経由しててんしゅだいにつながる弓・鉄砲狭間が接続されていました。

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