2015/01/03 - 2015/01/03
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滝山氏照さん
池田輝興(いけだ・てるおき、1611~1647)の突然の発狂により赤穂池田藩改易、その後常陸国笠間より入封した浅野長直(あさの・ながなお、1610~1672)の孫で浅野内匠頭長矩(あさの・たくみのかみ・ながのり、1667~1701)を浅野家三代藩主とする赤穂城(あこうじょう、兵庫県赤穂市加里屋)はJR赤穂線播州赤穂駅から南へ徒歩約20分にある海城です。
赤穂城について公式ホームページによれば次の内容が記載されています。
「赤穂城は、正保2年(1645)常陸国笠間から入封した浅野長直が、近藤三郎左衛門正純に築城設計を目氏、慶安元年(1648)より13年以上に亘る歳月を費やし、寛文元年(1661)に完成したものです。
城郭の縄張は近藤正純の指導のもと甲州流軍学によるもので、一部、二之丸枡形虎口付近は山鹿素行が設計したと伝えられています。
本丸と二之丸は輪郭式、二之丸と三之丸の関係は梯郭式になっており、近世城郭史上非常に珍しい変形輪郭式の海岸平城とされています。
城郭の規模は、10の隅櫓、12の諸門があり、曲輪の延長は2,847mに及んでいます。 累石、防壁、諸門、本丸御殿などが整えられ、居城としての威容が示されましたが、天守台のみ築かれて天守は構築されませんでした。
三代続いた浅野家ですが、刃傷事件により断絶し、その後は永井家、次いで森家の居城となりました。 明治の廃藩置県後、赤穂城は払い下げられ、屋敷地は民有地となりました。
しかし城郭復興の気運が高まり大正元年(1912)には三之丸に大石神社が建立、大正14年(1925)には二之丸に山鹿素行銅像が建立されるなどしました。
昭和3年(1928)には本丸内に赤穂中学校(後の赤穂高等学校)が竣工されましたが、昭和15年(1940)には城跡が風致地区に指定され、昭和27年には都市公園の計画決定、さらに昭和46年(1971)には国史跡に指定され、赤穂城整備が推進されることになりました。
また平成14年(2002)には、旧赤穂城庭園(本丸庭園・二之丸庭園)が国名勝に指定され、現在も計画的に整備が図られています。」
- 旅行の満足度
- 4.0
- 交通手段
- JRローカル 徒歩
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ムーンライトながら指定席券
幸運にも指定席が入手でき小田原(0:31)から大垣(5:53到着)まで乗車、更に米原で乗り換えて最初の訪問地赤穂城訪問のため播州赤穂に向かいます。 -
播州赤穂駅舎正面
米原発の新快速で播州赤穂(終点)に9:47到着、早速構内喫茶店でモーニングを済ませます。 -
赤穂市街案内図
赤穂駅前に在立する地図によれば赤穂城は南方向へ徒歩20分程度の距離のようです。 -
ふるさとの歴史再発見-山鹿素行-
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大石内蔵助立像
赤穂城といえば「赤穂四十七士による吉良屋敷討入り」が結びつき、まずリーダーの大石内蔵助良雄の姿が頭をよぎりますね。 -
赤穂城方向版
駅前の通りに建つ方向板には800mとの記載があり徒歩で歩きます。 -
赤穂市立歴史博物館
時間の都合で入館は控えました。 -
二の丸
清水門付近から二の丸石垣・堀を望みます。長い周囲を囲む石垣の姿が圧巻です。 -
東北隅櫓跡
清水門付近から二の丸・東北隅櫓跡を一望します。 -
清水門口付近
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清水門(川口門)跡説明
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赤穂城跡案内図
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奥野将監定良屋敷跡
奥野将監定良(おくの・しょうげん・さだよし)は大石内蔵助良雄とは親戚関係で内蔵助を補佐し敵討ちの中心的な立場をとりますが、主眼は浅野家の再興であり討入りには加わっていません。 -
「奥野将監定良屋敷跡」説明
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武家屋敷公園
説明板によれば清水門の抑えとしてここは坂田式衛門(800石・隼家老格)の屋敷があったそうで、これは式衛門の正門であったと思われます。 -
武家屋敷公園説明
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大石神社
三の丸跡に大石神社が見えます。江戸時代では表立ったことはできず住民が大石家跡地に大石良雄の祖堂を造ったのが神社の始まりです。 -
イチオシ
(以降大手門からスタートします)
大手門隅櫓
大手の北東に建立の二重櫓が見えます。 -
大手門
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大手門
手前の大手門橋傍らには「史蹟赤穂城跡」の石標が建っています。 -
大手門
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イチオシ
大手門隅櫓
大手橋の途中から隅櫓を捉えます。 -
升形虎口
大手門を入ると工夫された升形虎口が現れます。 -
隅櫓風景
大手門を過ぎて内側から隅櫓を一望します。 -
枡形虎口
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土塁
枡形虎口付近の土塁が見えます。 -
近藤源八跡長屋門
説明によれば近藤源八正憲(こんどう・げんぱち・まさのり)は甲州流軍学を修め、千石番頭の重職にあり、正憲の妻は大石良雄の叔母にあたり大石家とは親戚関係であった。また源八の父正純(まさずみ)も甲州流軍学者であり、兵法に則って赤穂城築城において縄張を担当しています。 -
近藤源八宅跡長屋門説明板
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イチオシ
大石良雄宅長屋門跡
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大石良雄跡長屋門跡
長屋門の傍らに「史蹟 大石良雄宅址」と刻した石柱が立っています。説明板によれば大石家三代で57年間に亘り住み続けた大石家の正面長屋門となっています。 -
大石良雄宅長屋門跡説明板
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本丸への案内板
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武家屋敷公園
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武家屋敷公園
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片岡源五右衛門宅跡
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片岡源五右衛門宅跡説明板
源五右衛門高房は藩主藩主長矩とどう年齢で若くして出世し32歳で350石を賜る程の稀に見る人物であり、江戸城における主君の刃傷事件では登城に従っていました。事件を知らされた折りには上屋敷に大事を伝え事態の収拾にあたり、預けられた田村邸で切腹直前の藩主と無言の別れをします。 -
三の丸跡
右方向は三の丸西側の塩屋門、自分は左方向の本丸跡・山鹿素行像に向かいます。 -
二の丸外堀
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二の丸門跡
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二の丸門跡説明プレート
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二の丸門跡説明板
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山鹿素行坐像(遠景)
浅野藩を離れて民間学者となった素行は寛文6年(1666)朱子学批判をした罪で赤穂浅野家に預けられ二之丸内の大石頼母助屋敷の一角で約9年間を読書・著述の生活を送ります。配流中は藩主や重臣のもてなしを受けるなか、山鹿流兵法は門弟であった大石内蔵助をはじめとする義士たちにその影響を与えています。 -
山鹿素行坐像
説明板によれば素行は兵学者・儒学者として承応元年(1652)から万治3年(1660)の間赤穂藩主浅野長直に千石で召し抱えられ、赤穂城築城に参画し二の丸虎口の縄張を一部変更して家中に兵法を指南しています。 -
山鹿素行説明板
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赤穂城跡案内図
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大石頼母助屋敷門
家老職であった大石頼母助良重(おおいし・たのものすけ・よししげ)は大石内蔵助の大叔父で藩主長直に重用され、山鹿素行は当地に配流された際には素行は当屋敷に約9年過ごしたとのことです。 -
大石頼母助屋敷跡門
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大石頼母助屋敷門説明板
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二の丸庭園絵図
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本丸(遠景)
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イチオシ
本丸
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「赤穂城跡」石柱
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赤穂城本丸門説明プレート
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本丸外堀
本丸と繋ぐ橋から外堀を一望します。 -
本丸外堀
同じく反対側の外堀を捉えます。 -
本丸門
この日は本丸門は施錠され残念ながら入門不可でした。(後日年末年始(12/28〜1/4)は本丸は休園であることがわかりました) -
本丸石垣
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本丸石垣
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二の丸土塁
外堀を囲む地はすべて土塁が周りを囲っています。 -
厩口(うまやぐち)門
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厩口門(近景)
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厩口橋風景
橋中央部から本丸外堀右方向を眺めます。 -
厩口橋風景
同様に左方向を望みます。 -
厩口門説明板
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イチオシ
東横矢枡形
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本丸石垣
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イチオシ
本丸石垣
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二の丸土塁
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刎橋門(はねばしもん)跡
敵侵入によって二の丸門が破られ攻め込まれ、本丸が危機の陥った時、本丸南の刎橋門から逃れ、水手門から船で瀬戸内海へ退避する道筋を念頭に置かれたものです。 -
南横矢枡形
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花見広場
二の丸南西部は今では「花見広場」の呼ばれ、その右奥には遊水地が見えます。 -
花見広場案内図
二の丸西には遊水池を含む花見広場があり、桜の花咲く頃にはひときわ綺麗な風景となることでしょう。 -
米蔵(こめぐら)
説明では米の倉庫で浅野氏支配の時代には2〜3棟も建っていたそうです。現行の1棟は復元したものを休憩所としています。 -
米蔵説明プレ-ト
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水手門(みずのてもん)
往時の赤穂城は東に千種川、南に干潟に面しており、満潮期には海水が石垣まで迫ってきて物資を運んできた船を停泊させる船着場の役割をしていたようです。 -
赤穂城跡公園略図
水手門の付近に城跡公園案内図が建っています。 -
本丸外堀
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水手門橋(復元)
米蔵と水手門を連絡する橋で、船で運ばれた米が米蔵に運ばれる際利用されました。。 -
米蔵へ続く道
船から降ろされた米袋は水手門からこの道を経て米蔵に運ばれていました。 -
水手門説明プレート
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土塁
米蔵(右側の建物)の外側を囲む土塁(復元)がずっと先まで長く走っています。 -
南沖櫓台
ひときわ高く広がった台地が見え標柱には「南沖櫓台」とありかつては2層か3層の櫓が建っていました。 -
南沖櫓台
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南沖櫓台
土塁に上ると石垣が積まれて櫓台となっています。 -
土塁上部
土塁に上ると二の丸外堀を右に土塁が走っています。 -
土塁下部
一旦降りて今度は下から土塁を見上げます。 -
花見広場遊水池
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遊水池説明プレート
この一帯は井戸を掘っても海水が湧き飲料水の確保は困難で、藩では千種川から水を引いて城内及び城下町に給配水していたそうです。 -
イチオシ
本丸展望
遊水池を経て本丸・南横矢枡形を望みます。 -
山腹「赤」文字
遠方の山肌に「赤」の文字が浮かび上がっています。(右方向を見ますがなぜか「穂」はみつかりません) -
西仕切門
二の丸西側に配置されている西仕切門を城郭の内側から捉えます。(この門は閉鎖されており出ることはできません) -
西仕切門説明
西仕切門は二の丸を南北に二分する城壁で、低い石垣の上に土塀が巡らされています。 -
本丸石垣
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南横矢枡形
外堀に浮かぶような枡形が見えます。 -
本丸石垣と水堀
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イチオシ
大手隅櫓
大手門から城郭の外に出て塩屋門に向かうと、大手隅櫓が建っています。 -
北横矢枡形
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武家屋敷跡
三の丸石垣の外堀の外部は家臣が住む武家屋敷となっていました。 -
三の丸・北(横矢)枡形説明
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北(横矢)枡形周辺地図
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塩屋門跡
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塩屋門跡
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赤穂城説明板
「 赤 穂 城
赤穂城は、正保2年(1645年)に浅野内匠頭長矩の祖父長直が、常陸国笠間から入封し、近藤三郎左衛門正純NI築城設計を命じ、実に13年I亘る歳月を費やし、寛文元年(1661年)に完成したものである。
城郭の縄張りは甲州流軍学によるもので、本丸と二之丸は輪郭式、二之丸と三之丸の関係は梯郭式になって、近世城郭史上非常に珍しい変形輪郭式の海岸平城である。城郭の規模は、10の隅櫓、12の諸門があり、石塁の延長は約2、845メートル、面積は14万6、922平方メートルに及んでいる。塁石、防壁、諸門、本丸御殿がととのえられ、居城としての偉容が示されたが、天守台のみ築かれて天守閣は構築されなかった。
築城当初から城内に大石邸をはじめ藩重臣の屋敷があったが、浅野家断絶後は永井家、次いで森家の居城となり、明治廃藩後、城塞は惜しくも破壊され屋敷は民有地に払い下げられたが、現在では本丸門内は大名庭園がよみがえっている。
赤穂義士の自刃250年祭を記念に、昭和30年春、大手門、大手隅櫓と城壁の一部が復旧され、同46年3月赤穂城跡は国の史跡に指定された。以後、本丸の整備等が進められている。」 -
城郭見取図(抜粋)
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塩屋門(赤穂城裏門)跡説明板
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塩屋門説明プレ-ト
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間瀬久太夫正明(ませ・きゅうたゆう・まさあき)宅跡
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大野九郎兵衛宅跡
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