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JR山陽線御着駅東へ徒歩10分、国道2号線に面した御着城跡(ごちゃくじょうせき、兵庫県姫路市御国野町御着)は播磨守護赤松氏の一族で佐用荘の地頭を勤め、永正16年(1519)に小寺政隆(こでら・まさたか、1472~1530)が築城した惣構えの平城です。<br /><br />小寺氏は代々播磨国守護である赤松氏の重臣として仕えてきましたが、赤松氏没落後政隆に続く則職(のりもと)から家督を相続した小寺政職(こでら・まさもと、1529~1584)は御着城主となると播州平野を中心に勢力を拡大、外様家臣の黒田職隆(くろだ・もとたか、1524~1585)の活躍により小寺の姓氏と偏諱「職」を与え家老に引き立て支城である姫路城を預けます。<br /><br />職隆の息子孝高(よしたか、後の官兵衛、1546~1604)は幼少から政職に仕え主家のよき相談役となるなか、政職は孝高の才能を認め職隆隠居後は小寺姓並びに家老職を継がせ、やがて東播磨の別所氏と並ぶ西播磨の戦国大名に成長します。<br /><br /><br />本丸跡入口に建てられた「御着城跡」説明板によれば次の如く紹介されています。<br /><br />「 御 着 城 跡<br /><br />御着城は茶臼山城・天川城とも呼ばれ、播磨守護赤松氏の家臣小寺氏の居城。永正16年(1519)小寺政隆が築城、則職・政職と継承され天正6年(1578)か7年に羽柴秀吉の播磨侵攻で滅亡したとされるが、嘉古年間(1441?44)にはすでに構居が設けられていたとされ、明応年間(1492?1501)には赤松氏の播磨支配の拠点として守護所の機能を持つ城郭として機能していた。<br /><br />昭和52~54年の発掘調査で、御着城が14世紀後半から16世紀後半まで存続し、16世紀半ばに大・中型の堀や土塁が築かれ本格的な縄張りが行われたことが判明。中世の人びとの生活に深くかかわる土器・陶磁器・木製品・石製品等の遺物も検出された。<br /><br />宝暦5年(1755)の「播磨飾東郡府東御野庄御着茶臼山城地絵図」には城の中核に本丸と二ノ丸、西と南は天川を利用した二重の堀、北と東は四重の堀、外郭部に家中屋敷や町家の記載があり、惣構えの城が描かれている。<br />現在、御着城跡の中央を東西に国道二号線が走り、本丸跡に市役所東出張所・御着城公園・御国野公民館がある。<br /><br />       平成13年3月    <br />                  姫路市教育委員会」<br /><br /><br /><br />その後西方から毛利、東方から織田の勢力が伸びてくると、政職は官兵衛の助言に従い織田方に臣従、官兵衛は織田方先鋒の秀吉の知将として転戦し中国平定が進みます。<br /><br />一度織田方に属していた別所氏が毛利方に寝返り、有岡城主荒木村重の反乱に動揺した政職は官兵衛の説得を聞かず毛利方に寝返ります。<br /><br />しかしながら戦況が変わり別所氏の三木城及び村重の有岡城が落城を見た政職は御着城を見限り毛利方の備後鞆の浦へ逃走、前後して御着城は秀吉軍により落城します。

播磨御着 官兵衛をたずねる 官兵衛の才覚を認めた播磨守護赤松氏一族で西播磨最大の国人領主小寺政職居城の『御着城』訪問

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2015/01/04 - 2015/01/04

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滝山氏照

滝山氏照さん

JR山陽線御着駅東へ徒歩10分、国道2号線に面した御着城跡(ごちゃくじょうせき、兵庫県姫路市御国野町御着)は播磨守護赤松氏の一族で佐用荘の地頭を勤め、永正16年(1519)に小寺政隆(こでら・まさたか、1472~1530)が築城した惣構えの平城です。

小寺氏は代々播磨国守護である赤松氏の重臣として仕えてきましたが、赤松氏没落後政隆に続く則職(のりもと)から家督を相続した小寺政職(こでら・まさもと、1529~1584)は御着城主となると播州平野を中心に勢力を拡大、外様家臣の黒田職隆(くろだ・もとたか、1524~1585)の活躍により小寺の姓氏と偏諱「職」を与え家老に引き立て支城である姫路城を預けます。

職隆の息子孝高(よしたか、後の官兵衛、1546~1604)は幼少から政職に仕え主家のよき相談役となるなか、政職は孝高の才能を認め職隆隠居後は小寺姓並びに家老職を継がせ、やがて東播磨の別所氏と並ぶ西播磨の戦国大名に成長します。


本丸跡入口に建てられた「御着城跡」説明板によれば次の如く紹介されています。

「 御 着 城 跡

御着城は茶臼山城・天川城とも呼ばれ、播磨守護赤松氏の家臣小寺氏の居城。永正16年(1519)小寺政隆が築城、則職・政職と継承され天正6年(1578)か7年に羽柴秀吉の播磨侵攻で滅亡したとされるが、嘉古年間(1441?44)にはすでに構居が設けられていたとされ、明応年間(1492?1501)には赤松氏の播磨支配の拠点として守護所の機能を持つ城郭として機能していた。

昭和52~54年の発掘調査で、御着城が14世紀後半から16世紀後半まで存続し、16世紀半ばに大・中型の堀や土塁が築かれ本格的な縄張りが行われたことが判明。中世の人びとの生活に深くかかわる土器・陶磁器・木製品・石製品等の遺物も検出された。

宝暦5年(1755)の「播磨飾東郡府東御野庄御着茶臼山城地絵図」には城の中核に本丸と二ノ丸、西と南は天川を利用した二重の堀、北と東は四重の堀、外郭部に家中屋敷や町家の記載があり、惣構えの城が描かれている。
現在、御着城跡の中央を東西に国道二号線が走り、本丸跡に市役所東出張所・御着城公園・御国野公民館がある。

       平成13年3月    
                  姫路市教育委員会」



その後西方から毛利、東方から織田の勢力が伸びてくると、政職は官兵衛の助言に従い織田方に臣従、官兵衛は織田方先鋒の秀吉の知将として転戦し中国平定が進みます。

一度織田方に属していた別所氏が毛利方に寝返り、有岡城主荒木村重の反乱に動揺した政職は官兵衛の説得を聞かず毛利方に寝返ります。

しかしながら戦況が変わり別所氏の三木城及び村重の有岡城が落城を見た政職は御着城を見限り毛利方の備後鞆の浦へ逃走、前後して御着城は秀吉軍により落城します。

旅行の満足度
4.0
交通手段
JRローカル

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  • 御着駅舎

    御着駅舎

  • 姫路風土記めぐり案内地図

    姫路風土記めぐり案内地図

  • 四郷町史跡めぐり<br /><br />御着駅南部方向の史跡が地図にて紹介されていますが、今回は時間が取れずパスします。

    四郷町史跡めぐり

    御着駅南部方向の史跡が地図にて紹介されていますが、今回は時間が取れずパスします。

  • 小寺大明神

    小寺大明神

  • 大明神社殿(遠景)

    大明神社殿(遠景)

  • 大明神社殿<br /><br />天川神社とも呼ばれ御着城主である小寺政隆、則職、政職の三代と天正7年(1579)に御着城攻防で戦死した家臣たちの霊を祀っています。

    大明神社殿

    天川神社とも呼ばれ御着城主である小寺政隆、則職、政職の三代と天正7年(1579)に御着城攻防で戦死した家臣たちの霊を祀っています。

  • 小寺大明神説明<br /><br />説明ではこの地は御着城の本丸跡に位置しているとのことです。後に見る国道2号線を隔てた東出張所の敷地と共に南北にわたる土地が本丸跡であるといえます。

    小寺大明神説明

    説明ではこの地は御着城の本丸跡に位置しているとのことです。後に見る国道2号線を隔てた東出張所の敷地と共に南北にわたる土地が本丸跡であるといえます。

  • 御着城合戦戦死者追悼五輪塔<br /><br />毛利氏に寝返ったため天正7年(1579)秀吉軍1万と小寺勢2千の戦いの際戦死した霊の菩提を弔う五輪塔・石塔が旧御国野小学校で出土し当地に移転されたものです。

    御着城合戦戦死者追悼五輪塔

    毛利氏に寝返ったため天正7年(1579)秀吉軍1万と小寺勢2千の戦いの際戦死した霊の菩提を弔う五輪塔・石塔が旧御国野小学校で出土し当地に移転されたものです。

  • 当勝稲荷神社<br /><br />小寺大明神の境内には開運繁栄の神社である当勝稲荷神社が在り小寺時代に建てられています。

    当勝稲荷神社

    小寺大明神の境内には開運繁栄の神社である当勝稲荷神社が在り小寺時代に建てられています。

  • 初代小寺政隆の句碑・天川(御着)城址の石柱<br /><br />「しづかなる 姿のままにふるさとの 山川みえてかにかくうれし 政隆」

    初代小寺政隆の句碑・天川(御着)城址の石柱

    「しづかなる 姿のままにふるさとの 山川みえてかにかくうれし 政隆」

  • 境内内部<br /><br />境内の一部には狭いながらも遊園器具が設置されています。

    境内内部

    境内の一部には狭いながらも遊園器具が設置されています。

  • 御着城跡案内板<br /><br />陸橋から国道2号線を見ると「官兵衛ゆかりの地」として御着城跡の案内が設置されています。

    御着城跡案内板

    陸橋から国道2号線を見ると「官兵衛ゆかりの地」として御着城跡の案内が設置されています。

  • 御着城跡石碑

    イチオシ

    御着城跡石碑

  • 御着城跡説明<br /><br />御着城跡の地図と共に沿革説明板が立っています。

    御着城跡説明

    御着城跡の地図と共に沿革説明板が立っています。

  • 御着城跡説明板

    御着城跡説明板

  • 御着城跡新旧地図

    御着城跡新旧地図

  • 御着城跡古地図<br /><br />平城であるが故西と南は天川を利用した二重堀、北と東は四重堀を施した城郭となって居ます。

    御着城跡古地図

    平城であるが故西と南は天川を利用した二重堀、北と東は四重堀を施した城郭となって居ます。

  • 伝二の丸跡<br /><br />二の丸と伝えられている地は現在は市民のグランドとして使用されています。<br />

    伝二の丸跡

    二の丸と伝えられている地は現在は市民のグランドとして使用されています。

  • 本丸跡<br /><br />この一帯が御着城本丸跡で別名茶臼山城又は天川城とも呼ばれています。

    本丸跡

    この一帯が御着城本丸跡で別名茶臼山城又は天川城とも呼ばれています。

  • 姫路市役所出張所建物<br /><br />本丸跡北側にはお城の形をした市役所東出張所の建物が印象的です。

    イチオシ

    姫路市役所出張所建物

    本丸跡北側にはお城の形をした市役所東出張所の建物が印象的です。

  • 黒田官兵衛顕彰碑<br /><br />本丸跡の西側には「黒田官兵衛 顕彰碑」が配置されています。

    黒田官兵衛顕彰碑

    本丸跡の西側には「黒田官兵衛 顕彰碑」が配置されています。

  • 黒田家廟所<br /><br />当墓所には官兵衛の祖父・重職と母親・明石氏娘の五輪塔が収まっています。<br />二人の遺骨は印南郡佐土(御着の東)の心光寺に埋葬されていましたが天正15年(1587)黒田家ゆかりの御着城跡の現在地に改葬されています。<br /><br />その後心光寺が姫路に移転、黒田家も九州に移封され墓所は荒廃所在不明の時期がありましたが住職の調査と福岡藩の確認を経て藩主の命のもと墓所の建設を行っています。

    黒田家廟所

    当墓所には官兵衛の祖父・重職と母親・明石氏娘の五輪塔が収まっています。
    二人の遺骨は印南郡佐土(御着の東)の心光寺に埋葬されていましたが天正15年(1587)黒田家ゆかりの御着城跡の現在地に改葬されています。

    その後心光寺が姫路に移転、黒田家も九州に移封され墓所は荒廃所在不明の時期がありましたが住職の調査と福岡藩の確認を経て藩主の命のもと墓所の建設を行っています。

  • 黒田家廟所入口

    黒田家廟所入口

  • 黒田家廟所<br /><br />立派な廟屋付の墓所とですが、享和2年(1802)福岡黒田藩主斉清の命のもとの10数名の家臣が派遣され福岡から材木・石材などの資材が運ばれて設営されたとのことです。

    イチオシ

    黒田家廟所

    立派な廟屋付の墓所とですが、享和2年(1802)福岡黒田藩主斉清の命のもとの10数名の家臣が派遣され福岡から材木・石材などの資材が運ばれて設営されたとのことです。

  • 黒田重職五輪塔<br /><br />孝高(官兵衛)の祖父に当たります。永禄7年(1564)没。

    黒田重職五輪塔

    孝高(官兵衛)の祖父に当たります。永禄7年(1564)没。

  • 明石氏娘五輪塔<br /><br />孝高(官兵衛)の母親にあたり、主家小寺政職(まさもと)の養女となります。<br />永禄2年(1559)没。

    明石氏娘五輪塔

    孝高(官兵衛)の母親にあたり、主家小寺政職(まさもと)の養女となります。
    永禄2年(1559)没。

  • 「黒田家墓所」説明板

    「黒田家墓所」説明板

  • 黒田墓所外観

    黒田墓所外観

  • 天川橋<br /><br />東出張所庁舎の裏には石製の太鼓橋が展示されています。これは文政11年(1828)近くの天川に架橋されたもので昭和47年の出水で橋桁が落下するまで現役で使用されてきました。

    天川橋

    東出張所庁舎の裏には石製の太鼓橋が展示されています。これは文政11年(1828)近くの天川に架橋されたもので昭和47年の出水で橋桁が落下するまで現役で使用されてきました。

  • 天川橋<br /><br />撤去された石材は昭和53年10月に現在地に移設され一部が組み立てられています。

    天川橋

    撤去された石材は昭和53年10月に現在地に移設され一部が組み立てられています。

  • 残された石材<br /><br />

    残された石材

  • 天川橋説明板

    天川橋説明板

  • 製作時期について<br /><br />保存展示の石橋の一部には「文政11年2月成 播州印南郡 石工 瀬助 仲右衛門」と刻された石材が組まれています。

    製作時期について

    保存展示の石橋の一部には「文政11年2月成 播州印南郡 石工 瀬助 仲右衛門」と刻された石材が組まれています。

  • 天川橋<br /><br />江戸時代・文政11年に石製橋が設置され昭和47年の橋桁落下まで日常的に使用されていました。<br /><br />

    天川橋

    江戸時代・文政11年に石製橋が設置され昭和47年の橋桁落下まで日常的に使用されていました。

  • 天川<br /><br />平城の御着城防御には重要な役割を果たしていた天川を捉えます。<br /><br />

    天川

    平城の御着城防御には重要な役割を果たしていた天川を捉えます。

  • 天川橋<br /><br />渡り切った所で編川橋方向を振り返ります。

    天川橋

    渡り切った所で編川橋方向を振り返ります。

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